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方言論争から言語学論争へ
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投稿者 竹中半兵衛 日時 2007 年 10 月 28 日 21:31:03: 0iYhrg5rK5QpI
 

(回答先: Re:11万人デモにはそれなりに歴史的な理由があったと言う事ですね 投稿者 パルタ 日時 2007 年 10 月 28 日 14:17:41)

柳宗悦や伊波普猷らによって開始された標準語論争は終戦にかけて強権的に押さえ込まれ、まさに居沖縄人民の言論の封殺=戦争への強制的駆り出しと犠牲の強要として結果してしまったわけです。

方言問題も突き詰めてゆけば、必然的に階級対立に到達することになります。

戦後数年して、ソ連ではまだ独裁権力を縦にしていたスターリンは、あろうことか、「スターリン言語論」なる悪名高い無内容論を展開したわけです。
つまり「言語には階級性がない」、と「ソビエト」帝国の親分が堂々と開陳してしまったわけです。
これを受けて、日本言語学界や文学界は以下のように反応しました。

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http://homepage2.nifty.com/k-sekirei/others/kokumin_04.html
国民文学論争と弁証法 I 章

(7)時枝誠記のスターリン批判
(8)水野清の時枝誠記批判
(9)スターリンとマールと三浦つとむ
(10)三浦つとむの「鏡」論

(←その他の発言・目次)

(7)時枝誠記のスターリン批判

 しかし、言語は果して機械のように物質的な用具であろうか。いや、「諸階級にたいして無差別である」のは、果して機械のような生産用具や言語だけであろうか。審美的な感性も含めて、人間の能力を対象化して創られたあらゆる文化財は、それを駆使する能力を備えた人間に対しては、「無差別に」仕えることができる。人間の能力それ自体が、もともと社会的に、つまり歴史的にその社会が獲得してきた能力の対象化によって創り出されたものにほかならないからである。

 言語の場合で言えば、なるほど人間は文法や語彙を駆使して対象的な認識を表現し、またそれを理解する、精神的な活動を行っている。ということはつまり、そのような個々の人間の具体的な活動として以外に言語はないということにほかならない。文法や語彙は、その活動の客体化されたかたち、つまり文章(紙に綴られた文字や、発話されたコトバ)を分析抽象して見出されてきたものなのである。そんなわけで、私たちは文法や語彙を用具として借りているように見えるが、、実際的に借りてきたのは、他の人間の具体的な表現行為を通して現された認識のほうであり、あるいはまたその認識のすぐれて審美的な感性化の方法であろう。感性化の方法とは、適切でかつ巧妙な言いまわしの、文章または語りとしての展開の仕方である。

 してみるならば、言語とはそういう個々の具体的な表現そのものであって、その歴史的な変化を論ずる場合にも、表現する人間の意識の側からとらえてゆかなければならない。スターリンは、この側面を見落としてしまったのである。そしてその重大な欠点を指摘したのが、時枝誠記の「スターリン『言語学におけるマルクス主義』に関して」(『中央公論』昭25・10)であった。

 このなかでかれは、まず、「私は原著者(スターリン)が、言語を社会の共通の用具として見ることに賛意を表する一面、言語を人間の文化とは質を異にした別物のやうに考へてゐることに多くの疑問を持つてゐる。言語は、いはゆる上部構造ではない。しかし人間の文化以外の何ものでもないといふことは、マルクス主義理論にとつては都合の悪いことかも知れないが、問題はそこにあるやうである」という重要な点を一つ押え、その上で、以下のように批判を展開していた。「言語は、たといス氏(スターリン氏)が単一説を主張しても、歴史的事実として、そこに差異が現れ、対立が生じるのは、如何ともし難い。もしそれを階級性といふならば、言語の階級性は言語の必然であつて、これを否定して単一説を主張するのは、希望と事実を混同した一種の観念論に過ぎない」。

 ここで念のために一つ注意しておくならば、この場合の時枝誠記が言う言語とは、個々の具体的な人間の認識表現としての言語である。「言語が社会成員の個々を離れて、社会の共通用具として存在するといふことは、極めて比喩的に、或は特別の条件を付して承認出来ることであって、実際は、言語は社会成員の個々の主体的活動としてのみ成立することが出来るものである」。「言語は思想交換の用具と考へる言語観からは、必然的に文学は言語とは別ものであるといふ見解が生まれて来る。原著者は文学の位置及び文学と言語との関係については全く語つてゐないが、恐らく言語は、文学の単なる媒介物としてしか考へられてゐないのではないかと思ふ」。

 表現としての言語、というとらえ方を押しすすめてゆくならば、当然文学は言語の一環として理解されなければならない。その表現主体が階級社会にありかぎり、言語も文学もその階級性を背負わされてしまうのである。たとえ過渡的な形態であったとしても、社会主義国家のなかで「現存政権の上からの指導」ということが現実に行われ、これに隣接して資本制的な階級社会の国家が存在している以上、この世界に生きている人間が階級的であることは誰も免れえないところであろう。スターリンはこの事実を無視し、そればかりでなく、理論的な対象物である言語――文法や語彙――を、かれは現実的な物質的対象物になぞらえて、しかもなぞらえる対象を生産用具に限ってしまっていた。このような誤りが明らかにされるきっかけを、時枝誠記は創り出していたのである。

 もっとも、かれの言いたかったことは、(表現としての)言語とその主体に関する階級的な観点ではなくて、「言語の主体は、民族の一員であり、階級の一員であり、生産を営むものであり、感情や理性の主体であり、道徳の実践者であり、言語はそれぞれの主体を反映することに於いて成立するものである」ということであった。それはそれで妥当な認識であったが、「言語は、いはゆる上部構造ではない」という認識と、「言語の階級性は言語の必然」ということとの間を、もっと理論的につきつめてみる必要があっただろう。言語における主体性とは、単に表現主体の社会的な位置を「反映」だけでなく、表現主体の自己意識的な選択がかかわっているからである。

 ところが、時枝誠記のこのようなスターリン言語学批判を評価することができたのは、当時は三浦つとむ一人だけであった。昭和二十八年二月号の『文学』の特集には、三浦つとむの「なぜ表現論が確立しないか」という論文のほか、蔵原惟人の「今日における言語の問題」、寺沢恒信の「スターリンの言語論をめぐって」、大島義夫の「ソヴェート言語学論争」、小林英夫の「スターリンの言語観」、ヴィノグラードフの「言語学論争と言語学の問題についてのスターリンの労作」(水野清紹介)などの論考が発表されていたが、スターリンを批判することはできず、その反対に、スターリンの考えをもっと本質的に推しすすめることさえもできていなかったのである。

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(8)水野清の時枝誠記批判

 ただ、当時の言語学者の受取り方がどのようなものであったか、時枝誠記の批判の取り扱いということにからんで、水野清の「日本言語学」(『言語問題と民族問題』、前出)を、ここで紹介しておきたい。

 時枝誠記は先ほどの論文のなかで、「氏が言語は単一であるといふのは、専らその言語の基本的語彙と文法的構造の同一であることをよりどころとしてゐるのである。もしこの論理が許されるならば、すべての日本画は、線と色彩を同じやうに用ゐることによつて皆同一であるといふことが出来る筈である。このやうにして、我々は、民族には単一の言語しか存在し得ないとして、安住してゐることが出来るであらうか。それは宛もすべての犬は皆ひとしく犬であつて、その間に区別が存在しないと考へるやうなものである。しかしまた別な見地から云へば、すべての犬は、それぞれに異つてゐると見ることも許されなければならない」とスターリンを批判した。この部分を取りあげて、水野清は、「スターリンが、かくも馬鹿げたことを言ったか、どうかは、読者にお任せする」と反発している。

 時枝誠記の立場からすれば、スターリンが言う文法構造や基本的語彙は、表現主体の認識→表現という活動を捨象した理論的抽象物だったはずであり、しかし、同じく時枝誠記の立場からすれば、一幅の絵画を成り立たせている線や彩色もまた主体の表現と言わなければならず、これと文法構造や基本的語彙とを同じ次元に置くことはできない。その点を衝いたものと見るならば、水野清の批判は妥当だったと言える。

 しかし、水野自身もまた、「一言、付け加えるなら、現実への認識なしに、ただ線と色彩を並べる事は日本画に値いしないが、基本語彙を文法に従って排列した『花は赤い』は、りっぱな日本語として通用するし、『お早う』も同様だ」と、理論的な踏み外しをやってしまった。もし「現実への認識なしに」、「基本的語彙を文法に従って排列した」ものが、「りっぱな日本語として通用する」のであるならば、「赤は青い」とか「海が堅い」とかいう言い方も、立派な日本語でなければならない。このような「文」が「通用する」か否かは、その「排列」の背後にある主体の認識―表現の過程を探り、それに即して、このような言い方の是非を論ずるしかないであろう。

 水野清はまた、次のように、おかしげな反論を試みていた。「又敬語にしても、江戸時代の武士が『ゴザル』を使い、町人が『ゴザリマス』を使ったとして、そこにどのような『階級的な考え方や感情を反映』しているのか、武士もまた主君に向っては『ゴザリマスル』と云ってるではないか」。しかしもう一度言えば、「ゴザリマス」が武士や町人に共通する、それ故にどの階級にも無差別に仕える、全国民語のように見えるとすれば、それは前後の文脈から切り離された語彙として抽象的に取り出されたからにほかならない。その場面に即してみれば、「ゴザル」も「ゴザリマス」も「ゴザリマスル」のいずれも、話しかける相手に応じた、表現主体の身分的・階級的な関係意識の使い分けであることは、あまりにも明らかである。

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(9)スターリンとマールと三浦つとむ

 ついでに言えば、水野清は三浦つとむの論文にも触れて、「マール言語学の日本版」というレッテルを貼って批判している。マールとは、スターリンに批判されたソ連の言語学者で、この批判を急いだあまり、スターリンは論理的な逸脱を犯してしまい、それにもかかわらずスターリンの言語論がソ連の言語学者に歓迎された。その理由は、マールの独裁的な学界支配のため、当時のソ連言語学界が窒息しかかっていたからであるらしいが、その点への言及はここでは省略する。ただ、水野清によれば、昭和二十五年九月の民主主義科学者協会が行ったスターリン言語学のシンポジュウムで、三浦つとむは、次のような意味の発言をしたらしい。「言語は実践的体系で上部構造中の一番下位なもの、今までの階級性とは違う、内容が形式を決定する、基礎的語いの変化もそれで、初めから階級を考えて行くのはまずい。表現を比較する場合に違ってくる、スターリンは内容の優位を意味論(一つの語にどういう意味〔例えば階級的なそれ〕を含ませるかという問題)にすりかえている、上部構造と下部構造とは立体的につながっている。その関係を問題にせぬのは安直だ。方言、特殊通用語を言語でないというのはどうかと思う、身振り言語、エスペラントも言語でないことになる」。こういう発言をとらえて、水野清は、「通俗マルクス主義者マールの日本版」と呼んでいたのである。

 ここに紹介された三浦つとむの発言は意味を取りにくいが、「方言、特殊通用語を言語でないというのはどうかと思う」云々というところは、多分スターリンのこのような意見に疑問を覚えたからであろう。「しかし人間、個々の社会的グループ、各階級は言語にたいして決して無差別ではない。かれらは自己の利益のために言語を利用し、自己独特の語彙(レクシコン)、自己独特の専門語、自己独特の表現を言語に押しつけようと努める。この点でとくにいちじるしいのは人民から離れ去り人民をにくんでいる有産階級の上層部、すなわち上流貴族やブルジョアジーの上層部である。ここに『階級的な』方言、通語(ジヤルゴン)、サロン語がつくりだされる」。「これは方言や通語(ジヤルゴン)を言語とみなすことができるであろうか? 絶対にできない。できない第一の理由は、これらの方言や通語(ジヤルゴン)がそれ自身の文法組織とその基礎的語彙をもたないことである。――それらはこの二つのものを民族語から借用している。できない第二の理由は方言や通語(ジヤルゴン)がある階級の上層部の成員のあいだに狭い通用範囲をもち、社会全体にとって人間の交通手段としては全然役だたないことである」。

 私の見るところ、スターリンのこの前半の認識は正当で、だから正直にその考えを進めてゆくならば、階級社会における言語の階級性という認識にたどりつき、後半のような考えは、むしろ否定されてしまうはずである。だが、むりやり後半の考え方を押しつけようとしていた点、スターリンの階級性否定説はほとんど体制的な要請であったのだろう。しかし、階級的な表現がたとえ「方言、通語(ジヤルゴン)、サロン語」のごとき性質であったとしても、その文法組織と基礎的語彙を民族語から借りているとするならば、まさにそれ故にこそ、それらも十分に言語の条件を備えていると言わなければならなかったはずである。

 反権力的な感情をあらわした隠語、たとえばポリスから生まれた「ポリ(公)」というような言葉の場合にも、同じことが言える。相手の言い方を借り、これを歪めて、相手を撃つ言語を獲得してゆく。たとえそれが反社会的な集団から生れた隠語的性格を帯びていたとしても、言語として社会に通用する条件を備えている。通用範囲の広狭は、言語であるか否かの基準にはなりえないのである。

 通用範囲が狭いという理由によって方言が言語の範疇から除外され、表現方法が素朴未発達だという理由で、たとえば聾唖者の手話(身ぶり言語)までが言語の枠外に追い出されてしまったとするならば、もはやこれは言語論ではない。人間の言語活動に対する重大な干渉と抑圧だと言わなければならないであろう。

 三浦つとむのその後の著作から判断して、シンポジュウムにおけるかれの発言はおよそ右のような考えに基づいていたと思われる。水野清は、そういう考えまでも含めて、三浦つとむの意見はマール言語学と「寸分の違いもない」と判断していたのかどうか。かれは三浦つとむに対して、「新語の作成、たとえばクリヤ川・白村教授のインテリ陰語(ママ)『象牙の塔』のようなのを『表現』『実践』というのなら、新聞記者やお役人は最大の『実践』家だろう」と皮肉っていたが、もちろん「象牙の塔」は、廚川白村における認識と表現の実践であることは間違いない。認識が正当なものであるか否か、表現がインテリ隠語的であるかどうかは、その表現が言語であるかどうかということと直接にはかかわらないのである。

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(10)三浦つとむの「鏡」論

 三浦つとむの論文「なぜ表現論が確立しないか」の重要な点は、表現主体における観念的な自己の二重化、ということをはじめて理論化したことであった。『資本論』のなかの、「ある意味では、人間も商品と同じことである。人間は、鏡をもって生れてくるのでもなく、また、吾は吾なりというフィヒテ的哲学者として生れてくるのでもないから、人間はまず、他の人間という鏡に自分を映して見る。人間たるペーテルは、自分と同等なるものとしての人間たるパウルに関連することによって、初めて、人間としての自分自身に関連する。だがそれによって、ペーテルにとっては、パウル全体がまた、彼のパウル然たる肉体のままで、人間種族の現象形態としての意義をもつのである」という部分を引いて、三浦つとむは、「マルクスは、認識そのものに一方的に鏡としての性格をみとめるのではなく、更に進んで認識の対象についてもやはり鏡としての性格があることを承認して、その交互関係のなかで反映論をとりあげている」ことを指摘していた。

 つまり人間は、対象を認識すると同時に、その対象を媒介として自分自身の認識に到達するのであって、端的に鏡を取りあげてみるならば、私たちはそれを鏡という物質的な用具として認識し、それとともにこの鏡に映した自分自身の姿を認識している。このとき私たちは、誰か自分以外の立場に観念的に移行して、この立場から鏡に映った自分を認識しているはずであって、文学的表現とは、このように誰か自分以外の立場からとらえた認識を展開している場合が多い。

 こういう至極まっとうな認識表現論が、しかし当時はよほど理解されにくかったらしい。『言語問題と民族問題』のなかでは、わずかに石母田正だけが自分なりに考えてみようと努力しているにすぎない。対他的であることによって同時に対自的な、その対自的な認識の展開として表現領域が押し拡げられてきたこと、その側面をスターリンは捨象し、当時わが国の言語学者も容易に気がつかなかったのである。

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若くして戦争に駆り出された戦争体験者が、まだスターリン批判が公然と行われるはるか前に、スターリン言語論を批判しています。このことは俗流マルクス主義に堕落していた日本共産党をも批判する結果をもたらしています。

学者に主体性が残っていた時代を彷彿とさせ、新鮮味を感じます。

また、哲学界では梅本克己が主体性論争を開始した時期と符号しているところも、興味をそそるものです。

言語について本質論的な掘り下げを行う場合、認識論と結合していることがわかります。
人間は現実(A)の認識と思惟によって学問的体系を築いてきましたが、またこれも永続的に継続されねばなりませんが、この体系を通じて再び現実を見る、このことによって獲得された認識(A’)はありのままにある認識(A)と統一されることになります。
言語論もこのような構造を経て言語が見直されようとした、そのような時期があったのです。

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