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123便の事故原因が、ホントに「圧力隔壁の損壊」によるものとは考えていない。その考えは、自衛隊のことを調べていくうちに、
http://www.asyura2.com/07/lunchbreak9/msg/418.html
投稿者 愉快通快 日時 2007 年 12 月 07 日 11:49:24: aijn0aOFbw4jc
 

http://www.tt.rim.or.jp/~junichi/123/123-004.htm
お詫び
「いなちゃんのほーむぺーじ」は、プロバイダーに「リムネット」を利用していますが、先般リムネットのサーバーがダウンした影響により、ホームページデータがすべて消去されてしまいました。

 現在のところ、「アクセスカウンタ」等は、いっさい利用できません。 また「メインページ」へ進むこともできなくなってしまっています。 本来であれば、直ちに復旧すべきでしたが、多忙のため、なかなか復旧しませんでした。 ご心配をおかけ致しまして、大変申し訳ございませんでした。


123便の原因を探れ! (その4)

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さて年末になると、必ずどこかのテレビで特集されるのが「JAL123」であるが、今のところ、今年はまだ報道されていない。 というか、このページでも最後の更新が平成11年だったので、実に4年ぶりに、更新をおこなうこととなった。 あれだけ大きく報道された航空事故であったが、すでに18年以上が経過しようとしている。 ということは現在18歳の大学1年生などは、この事故をライブで知らない世代になってしまった。 


このページでは、「123便の原因を探れ!」というタイトルのもと、事故調査委員会が結論づけた、「圧力隔壁崩壊説」に疑問を持ち、それについて掲載をおこなってきた。 もちろんこの掲載に関して、その分析や集計、ならびに論説を外部委託しているわけではないから、いなちゃんが各種著書やホームページ、ならびに各種媒体を引用して掲載しているため、専門的知識が欠落していることは、重々承知されていることと思う。


これまでこのページでは、事故調査委員会が結論づけた「圧力隔壁崩壊説」に疑問を抱き、「それではナニが発生したのか?」ということを記してきた。 ただし前述の通り、いなちゃんは航空事故専門家ではないし、航空力学を勉強してきたわけではないので、専門的な知識については、よくわかっていない。 それでもあるページでは、このシリーズに関して、「まったく素人の方のページだが交信録からの疑問が素直でわかりやすい。」と紹介されていたりするし、いなちゃんが専門としている、「農業経済分野でトップを争う航空事故評論家(まったく意味ないじゃん!)」といわれていたりする。


今回の掲載は第4回目になるが、ここでは疑問のひとつと、墜落原因とリンクされている、「なぜ救出が遅れたのか?」について、若干の疑問点を列挙しながら検討をおこなってみたい。 

ちなみに焦点となるところは、「なぜ自衛隊が、現場に到着するのが明朝だったのか?」というところである。 この疑問を解明するために、わが国の自衛隊のコトについて、いろんな書籍を読んできたが、その結論は、墜落原因の解明とも大きく関連することであった。


時節柄、イラクに自衛隊を派遣するかどうかで、世論がかなり紛糾している情勢も含めて、今回久々に、このページを更新することにした。 これをご覧頂くことで、自衛隊をイラクに派遣することが、どれだけ無謀なことか、いとも簡単におわかり頂けるかと思う。


なお、常に掲載していることだが、この一連の掲載は、いなちゃんの興味本位による掲載ではないことを、あらかじめ了承していただきたい。 大の飛行機嫌いであるいなちゃんは、もしこの先、飛行機に乗る事態に遭遇したときのために、すべての不安を取り除いておきたいし、かりに現行の航空業界の体制に、危険な要素が内包されているのであれば、警鐘として位置づけたいとの理由からである。


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百里基地からのスクランブル

さて、JAL123に機影がレーダーから消えた時点から、救出活動が開始されるわけだが、直ちに現場へ向かったのは、茨城県にある航空自衛隊百里基地から飛び立った、F4戦闘機であった。 これはスクランブルにそなえて待機している機体を、そのままフライトさせたためであった。 

ちなみにスクランブルについては、改めて解説するまでもないと思うが、日本の領空を侵犯するか、もしくは侵犯しようとしている危険性のある航空機に対して、指定された基地から緊急に発進して、進路の変更をおこなわせるとともに、場合によっては航空自衛隊の基地に強制着陸させることを目的としている。 この発生件数は、防衛庁のホームページに掲載されているが、これがけっこう多いのが特徴である。 さらにその多くは、軍事的理由によるものではないというから、これまた驚きである。


ということで、このときにも、百里基地から5分もしないうちに飛びだった訳だが、ここで、「なぜジャンボ機の捜索で戦闘機なんだ?」という疑問を思われていた方は、そのような理由があったということを、充分ふまえて欲しい。 要は、直ちに飛び立てる機体が、たまたま戦闘機だけだったわけである。
 ちなみにこのスクランブルは、「領空侵犯」をしていない状態でのスクランブルであり、「航空救難」に基づくものであった。 それも現場(といっても入間司令部だが)司令官の判断のもとであったので、法律的に厳密に解釈すれば、「自衛隊の超法規的措置」ともいえる。 ただし、いなちゃんはその行為について、まったく否定するつもりではない。 戦後の長期間にわたって、あれだけ騒いだにもかかわらず、結果として自衛隊の存在を「あいまい」にしてきた弊害が、こういうところにもあらわれているのである。

ところで、一部の書籍には、「入間の基地から飛びだった」という記述があるが、これは間違いであり、百里基地を管轄する司令部が、入間基地に存在していると言うことである。


最初の現場到着

そのようにスクランブル発進したF4戦闘機は、ほどなくして墜落現場に到着するが、このときパイロットは、秩父山中で炎上する物体を目撃している。 ところで、墜落現場に一番最初に到着したのは、実はこのF4戦闘機ではない。 ちょうどこのとき、横田基地付近を飛行していた米軍輸送機が、たまたま燃料の搭載量を間違って、余分に搭載していたこともあって、急きょ123便の捜索に向かうこととなった。 ところで、「たまたま余分に燃料を搭載している」ということも、なんとなく奇妙なものである。 飛行機にとって、燃料は搭乗員の生命を維持する大切なもののはずだが、それを間違ってしまうというのも、考えものである。


ほどなくして、この米軍輸送機は、秩父山中で炎上している物体を目撃することになる。 これが123便の墜落現場であり、第一報として報告されたものであった。 123便の機影がレーダーから消えて、わずか20分前後のことであった。 続いて、百里基地から飛び立ったF4戦闘機も、ほどなくしてこの現場に到着することになる。 この時間は、公式発表によれば19時21分とのことであり、さきの米軍輸送機の一方から、わずか2分あとのことである。


さて、この距離の計測なのだが、「タカン」という航法標識を用いて、計測されたとのことである。 この「タカン」というものは、飛行場や基地から一定に発信されている電波を飛行機が受信して、その発信されている電波の位置から、方位と距離を計測するものであるそうであるが、この計測によって、最初の米軍輸送機が知らせてきた位置は、横田タカンから方位305度、34マイルとのことであった。 続いて、F4戦闘機からの報告では、横田タカンから方位300度、32マイルとのことであった。


このように、ほぼ同時に、現場に到着した米軍輸送機と、F4戦闘機であったが、報告してきた位置は、それぞれ異なっていた。 ちなみに方位305度というのは、真北を0度として測定するから、ほぼ北西=315度(やや西側)にあたる。 さらに1マイルは、おおよそ1.6kmであるから、この2機の報告には、すでに3km程度のずれが生じていたのである。


なぜこのようにずれてしまうのか、ということについては、飛行機はヘリコプターとは異なり、静止飛行ができないため、どうしても若干の誤差が生じるのは、やむを得ないことだと思われる。 特に現在のように、「GPS」機能が発達していない状態であれば、素人の目から見ると、なおさらのことであると思われる。


いずれにしても、迷走飛行した123便が、秩父山中の奥地に墜落したことが、ほぼ確実視されることとなった。 これによって、救出活動が開始されると、誰もが思ったに違いない。 もちろん、いなちゃんも、今回のページを更新するまでは、そう思っていたが、そうは上手くことが進まなかったのである。


再度の位置測定

さて、F4戦闘機による状況視認ののち、こんどは同じく百里基地に待機していた航空救難隊が、現場へ接近することとなった。 ちなみにこの発信は、19時54分のことであり、航空自衛隊に「災害派遣要請」が出されたのが20時33分であるから、これまた法律的に解釈すると、「自衛隊による超法規的措置」ということになる。 


ところで、この百里基地から飛びだったへりが、墜落現場に到着する直前まで、現場に米軍の救難へりが存在していたことをご存じの方が、多くいらっしゃることと思う。 座間キャンプから独自に飛びだった救難へりは、さきに現場に到着していた米軍輸送機のホールディングを目指して墜落現場に到着し、救出活動のために、まさにリペリング(懸垂降下)しようとしていたところを、米軍司令部からの命令により、直ちに帰還することとなったヘリのことである。 


この米軍司令部の、有無を言わさぬ「帰還命令」については、賛否の分かれるところであるが、法規遵守の観点だけに着目すれば、極めて妥当な措置であったといえる。 その理由としては、この段階では、「日米安保条約」によって、日本政府から米軍司令部に対して、救出活動の要請が発令されていない段階であり(っていうか、ときの首相は、このとき事故の存在も知らなかった!)、この状態で強行的に救出活動を展開すれば、明らかに条約違反となる。 となれば、「安保反対」と青年期に盛んに唱えていた方々から、再び大糾弾を受けることは間違いないと言える。 ある意味で、法規を遵守する観点から、人命が軽視されてしまった結果であったといえる。 それを、法治国家であるためにやむを得なかったことと解釈するか、緊急時だからそのようなことは関係ないと解釈するかは、議論の分かれるところであると思う。


さて、現場に到着した航空自衛隊の救難ヘリは、墜落現場の位置を報告し、なんとか数名を降下させようとしていたものの、闇夜の降下は危険を極めて、二次災害の発生を恐れたヘリは、そのまま帰還してしまうこととなった。


ここで若干の解説が必要であるが、現在のように航法が発達したこんにちにおいても、ヘリの操縦は、基本的には計器飛行ではなく有視界飛行である。 ということは、視界が確保されなければ、ヘリの操縦は危険きわまることであり、「二次災害を恐れて帰還した」としても、それはパイロットを責めるわけには行かない。 もともと自衛隊のヘリは、そのような仕様なのである。 この点については、さらに後述する。 


ところで、この救難ヘリが通報してきた位置は、20時42分のことであるが、この位置がまた異なっており、横田タカンから299度、35.5マイルとのことであった。 ほぼ横田基地から北西の方向で、距離は50〜55km程度と絞り込むことはできるのだが、山岳地帯での数キロは、簡単に山を隔ててしまい、別地点を指すことになってしまう。 そのため、なかなか陸上部隊からの救出活動を進めることができなかったのが、救出活動を遅らせた要因のひとつとされている。


さてここで、「自衛隊が夜間の位置測定に手間取っていては、有事の際にどうするんだ!」という指摘が、多くなされていた。 それが派生して、「実は墜落地点を曖昧にしておく必要があったのではないか?」という憶測までささやかれていた。 いなちゃんもこの説について、若干の関心を寄せていたが、実際のところはどうなのかというと、実は自衛隊には、夜間の位置測定をおこなう能力もなければ、特定の地点を測定するという能力もないことに気づくようになった。


さきにも記したとおり、ヘリは基本的には有視界飛行であり、夜間の飛行は目視だけが頼りとなる。 そのため、山岳地帯の目印もないところでは、位置測定など困難きわまりないことになってしまう。 さらにそのような場合には、夜間訓練によって、ある程度の経験が求められることになるが、航空自衛隊をはじめ、ほとんどの自衛隊(海上自衛隊は知らないが)では、満足行く夜間訓練などはおこなっていない。
 その理由は、夜間に訓練などしようものなら、あっというまに騒音が問題となってしまうという、極めて単純なことであった。 そしてこのとき、航空自衛隊司令部に存在していた現地の地図は、50万分の1という縮尺の地図のみであったという。 そのような地図であれば、数キロの誤差など簡単に生じるものである。 特に航空自衛隊の場合には、地上の特定の点を勘案するような作戦行動など、もともと任務範疇とはしていない。 そのような現状のなかで、「墜落地点を特定せよ」などと、いくら政治家が厳命したところで、それはもともと無理な話だったのである。


このため、この夜に数度の位置測定が行われたが、それらはすべて間違った位置の通報であった。 0時36分に、「入間タカンから方位291度、距離は36.1マイル」との計測がなされたが、これは上野村に連なっていた車のライトを、付近の「ぶどう峠」と誤認して計測したものであった。 さらに5時10分には、自衛隊の2機のヘリが、同じ墜落現場を測定した結果、それぞれ10km以上も離れてしまっており、ついでに計測場所も、墜落現場ではないという珍事を起こすことになった。 ついでにいうと、このときのヘリの1機が、悪名高い「OH-6」であった。


ちなみに、墜落現場が確定されたのは、民放のテレビ報道を見ていた上野村長の、確信によるものであったという。 123便がレーダーアウトしてから、すでに10時間以上が経過した頃であった。 


陸上部隊による救出活動

一方で、陸上部隊による救出活動も展開されることとなった。 墜落地点はいまだ特定できないものの、群馬県か長野県のどちらかと言うことで、この区域を管轄する、第12師団によって、捜索活動が繰り広げられることとなる。


このとき、陸上部隊の投入に際して、ひとつの問題が浮上したと言われている。 それは、123便が「医療用のラジオアイソトープ」を搭載している、という情報がもたらされたことであった。 そのため、さきに投入された部隊に対しては、「放射能の危険性を考慮して、別名あるまで待機」という命令が、追加されていたとのことであった。 このアイソトープは、結局4時50分に、科学技術庁が「人体に影響なし」と発表するのだが、現場に投入されている部隊に連絡が届くまで、さらに時間がかかることとなった。


そのため、命令を忠実に遵守した陸上自衛隊は、その「別命」というものが発令されないために、「待機」せざるを得なかった。 このときに、待機していた自衛隊員の横を、報道陣が通り過ぎていったという。 これは珍事であるが、笑っていられないことである。 もしかしたら、有事の際には、自衛隊よりも報道スタッフの方が、さきに現場に到着してしまうのではないだろうか。


さてここで、「なんで別命を待っていたんだ」と憤慨される方がいらっしゃるかと思う。 実はこのようなことは、この時のみに発生したことではなく、自衛隊の出動時においては、よくあることである。


「命令を遵守する」ことは当然であるが、自衛隊は「法律」も遵守する。 たとえば、平成7年の阪神大震災の時に、同じく災害派遣で救出活動に当たっていた自衛隊員は、いちいち地権者に対して、「ここを掘っても良いか?」ということを聴いていたことを、テレビなどで見た方は多いと思う。 あれも、「なんでそんなのんびりやっているんだ」と、疑問に思ったかもしれないが、あれも自衛隊員が、勝手に地面を掘ったりしたら、「自衛隊の超法規的措置」になってしまうためであった。 たとえ災害派遣といえども、他人の土地を勝手に掘る権限など、自衛隊には存在しないのである。 余談だが、海上自衛隊は、いち早く救援物資を搭載して、神戸港へ到着したのだが、「神戸は平和都市だから」という理由で、自衛艦を入港拒否したことは、あまり知られていないようである。 誰が入港を拒否したのか走らないが、人命よりも理念を大切にしたのであろう。 もっとも阪神大震災の時には、スイスから到着した災害救助犬に対して、法律上の動物検疫をおこなって、救出活動を遅らせた方がクローズアップされていたが。


さらに、地下鉄サリン事件の時には、大宮の化学学校から、自衛隊の化学防護隊が現場へ急行したのも、記憶に新しいと思う。 あのときは交通渋滞に対して、警視庁が先導して、いち早く現場へ到達するように便宜を図ることとなった。 もちろん、警視庁のパトカーが先導するわけだから、赤信号などは気にしないでも良いわけである。 ところが、ここで普段から、「法律を遵守する」自衛隊の素顔が出てしまった。 先導するパトカーは、もちろん赤信号を進んでしまったのだが、部隊輸送を運転していた自衛隊員は、いつもの通りに赤信号で止まってしまい、パトカーとはぐれてしまったという珍事が発生したのであった。 自衛隊が地下鉄サリン現場へ到着するのが遅れた理由が、このようなところにあったということは、意外に知られていないが、実はこれが真実だったのである。 


それでは、なぜそのようなことが発生するのか? これまた理由は極めて簡単で、普段の訓練時には、「法律遵守」を厳命されているからである。 もし自衛隊が法律違反を犯したとか、訓練中に事故でも起ころうものなら、マスコミや自衛隊を好まない方々から、大糾弾を受けることは間違いないからである。 そのような事態を防ぐために、自衛隊では司令官が着任すると、必ずと言っていいほど、「法律遵守・安全第一」という訓辞が述べられるそうである。


話を本題に戻すが、そのような理由があって、「別命」の到着が遅れたこと、これも救出活動が遅れたひとつの理由であるといえる。 ただしここで、待機していた自衛隊員を糾弾するのは筋違いである。 もともと忠実に命令に服従していただけであり、そのようなシステム自体が問題であると言える。


複雑な任務範囲

ここで、自衛隊の任務範囲について、若干記しておきたい。 


ご存じの通り、日本には、陸上、海上、航空という、3つの自衛隊部隊が存在するが、この部隊は、陸上は5つの方面管区、海上は6個の警備区、航空は4つの防衛区域に分かれており、それぞれ担当区域の防衛を任務するとともに、それぞれに司令部が存在している。 ところが、このそれぞれの任務区域が、陸上、海上、航空と、すべてバラバラになってしまっており、境界が重複している箇所が、「ほとんどない」と言っても過言ではないのである。 そのため3自衛隊が統合運用されることはまったく想定されておらず、まさに「典型的な日本の縦割り行政ここに健在!」といったところである。 


そのため、123便の事故の際にも、航空自衛隊に「災害派遣要請」が出されたものの、陸上自衛隊には要請されないために、なかなか陸上自衛隊が、救出活動に出発できないと言う事態が発生している。 「陸上自衛隊にも出してくれないと!」という督促によって、ようやく要請されたのだが、要請をする人にとって見れば、そんなところまで知る由もない。 これによって、1時間以上のタイムロスが発生してしまっていたのである。


ちなみに、123便の捜索の場合には、墜落現場が、群馬県か長野県かで混乱したのだが、この両県は第12師団の管轄区域だったために、群馬県と長野県から部隊が出動したものの、方面管区が異なっていた場合には、もっと混乱が生じていただろうと言うことは、想像に難くない。


かつて函館空港に強行着陸した、ミグ戦闘機の処理のために、省庁間で喜劇的なわばり争いが生じたと言うし、大島三原山の噴火の際にも、喜劇的な省庁関連酪会議がおこなわれたと言う。 やはり日本の省庁は、人命よりも所管業務を守る省庁のなわばりに固執するようである。


明け方からの救出活動

さすがに明け方になって、あたりが明るくなれば、救出活動は円滑に進むはずであった。 ところがここでも、予想しなかったことが発生したのであった。


立川駐屯地から発信したヘリによって、上空からの捜索をおこない、ようやく墜落現場が確定できたが、上空に到達したヘリは、現場の映像を司令部にライブで送信することのできない機材であった。 そのため、秩父山中からいったん東京(荒川付近といわれている)まで戻り、そこから電送して、司令部に映像を送信するという、ローテクをやってしまったのであった。 これで、さらに現場確定が遅れることとなった。 さらに、ようやく現場の状況を把握した司令部では、一般部隊の投入が不可能であることを判断し、習志野の第一空挺団に出動を命令することとなり、この準備等で、さらに時間を費やすこととなった。 技術立国の日本にあって、まったく想像できない機材を利用していたものであった。


さて、ここで登場した、第一空挺団であるが、これは日本で唯一の空挺部隊であり、別名「落下傘部隊」とも言われている。 墜落現場が山岳地帯であることを考慮すれば、上空からの降下訓練をおこなっていない、12師団の普通科連隊よりも、降下を専門におこなっている第一空挺団の方が、二次災害の危険性は遙かに軽減するといえ、その点では判断は間違っていないと思うが、一晩かかってようやく現場を特定した段階では、明らかに遅すぎる感はある。 結局、この第一空挺団が、習志野を離陸するのは7時54分であり、すでにレーダーアウトしてから、半日が経過してしまっているのである。


これと関連して述べておくが、よく「レンジャー部隊」ということが言われたりするが、陸上自衛隊にはそのような部隊は、まったく存在しない。 訓練のなかに、レンジャー訓練が存在し、その課程を修了したものが、「レンジャー徽章」をつけるわけだが、それを部隊運用することはされていないのである。 


このときに、「空挺団を夜中のうちに投入しておけば...」という意見も多く存在していたが、実はこれも意外と的はずれな意見である。 


その理由として、まず第一に、たとえ降下を専門におこなっている第一空挺団でも、夜間の降下訓練をほとんどおこなっていない。 その理由は先述したとおりである。 夜間に訓練などおこなおうものなら、糾弾されることは確実である。 そのため夜間降下訓練をおこなっていないため、経験なしで無茶して現場に投入しようものなら、二次災害の危険性は、充分に予見できるものであった。


続いての理由は、暗視装置の不足である。 実は、これは致命的な欠点なのだが、陸上自衛隊には夜間に行動するために不可欠の暗視装置が、決定的に不足しており、指揮官クラスくらいにしか、支給できないという事情が存在していたのであった。 もっとも不足しているのは暗視装置だけではなく、防毒マスクをはじめ、各種機材が不足しているのが現状といわれている。 そのなかでもっとも不足しているのが、自衛隊員というだそうである。 


「じゃぁ、夜間に有事があったらどうするんだ?」と、疑問に思う方もいるかもしれないが、おそらく陸上自衛隊は、そのようなことは想定していないのではないだろうか? 「ゲリラとの遭遇はない」、「有事の際には、避難民の脱出は完了している」、ということをこれまで論じてきたり、「目の間隔を計測して日本人にあった小銃を開発している」といって、諸外国の10倍も高い小銃を導入したりしている陸上自衛隊である。 「夜間の戦闘は考慮していない」と言いいだすことは、充分に予見できると思う。

 どうでもいいことだが、陸上自衛隊の最新鋭(?)戦車は、「90式戦車」であるが、これは重量制限によって、高速道路で運搬することはできない。 駐屯地へ納入するときには、予め分解して運搬し、駐屯地で組み立てて納入しているのである。 これが有事の際には、駐屯地から出動することになっているが、たぶん戦闘地域までは分解して輸送して、現地で組み立てるのであろう。 組み立て作業が完了する前に、部隊が全滅してしまうような気がしてならない。


最終的には

この123便の事故では、奇跡的に4人の方が生存しており、救出された。 この救出段階においても、最初の「生存発見」から、ヘリに搬送するまで2時間を要していた。 この4人の方の証言から、墜落時には多くの方が生存されており、救出活動が早ければもっと多くの方々が、救出できたのではないかと言われていた。


この救出活動が遅れたことについて、多くの憶測が流れ、なかには「123便は自衛隊機が打ち落とした」という、トンデモ的論調をされる国立大学教授もいたりして、あまつさえ本まで出版しているありさまである。 そのようないい加減な本を出版してしまう勇気も大したものだが、一連の事故結果報告には、多くの疑問があることから、このような憶測が流れていると思えるが、その憶測の基底に、「救出活動の遅れ」を位置づけるのは、真実を解明する観点からみれば、適当でないといえる。


今回のページでは、「なぜ救出活動が遅れたのか?」ということを焦点にあてて、展開してきた。 その理由は、特別な要因が存在したわけではなく、ただたんに「自衛隊に夜間救出能力が存在しなかった」ということを位置づけた。 日本では日頃から、自衛隊という存在に対して、ふたをしてしまう傾向にある。 それは戦後の流れの中で、「軍事」というものに対するアレルギーが大きいものであるのかもしれないが、だからといって、ふたをしてしまうことは避けなければならないと思う。


前回にこのシリーズのページを作成した段階で、「なぜ救出があんなにも遅れたのだろう」ということを、疑問に思った。 それから、自衛隊の能力について、いろいろと調べることをはじめてみた。 最初の頃は、123便の事故原因を、「自衛隊標的機衝突」というようにも考えたが、その考えは、自衛隊のことを調べていくうちに、忘却されていくことになった。 


だからといって、123便の事故原因が、ホントに「圧力隔壁の損壊」によるものとは考えていない。 ただし、「自衛隊標的機衝突」によるもの、その隠蔽工作のために、敢えて救出活動を遅らせた、という見解も考えていない。 さらに「自衛隊機がミサイルで迎撃」したために、敢えて救出活動を遅らせた、という見解は、なおさらである。 正確なところは、未だにわからないが、少なくとも今回のページでは、救出活動においては、そのような経緯があって、結果として遅れることとなった、ということを確認するに留めたい。

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