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絞首刑台からの手紙(週刊金曜日)
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投稿者 クマのプーさん 日時 2007 年 11 月 30 日 22:55:24: twUjz/PjYItws
 

http://www.kinyobi.co.jp/MiscPages/rupo18th_5

戦場を盥回しされ戦後生活苦に喘ぎ彼が死刑台から送った愛の辞世句は
(戦後惨酷史)

有馬光男

悍ましき軍国の嵐

「幸子ォ、俺が猿股は何処あっとか!」
 5歳年上の姉を呼び捨てにして扱き使う男尊女卑の薩摩の旧弊が残る鹿児島で5人兄姉の末っ子で育った。士族の家柄と元軍人を自慢する父は4人の男の子を全部軍人にする教育を施した。
 床の間の上の鴨居には天皇皇后両陛下の顔写真が入った二重橋宮城の額が掲げられ、その横に護衛するかのように厳い軍服姿の初代陸軍大将西郷隆盛のギョロッと眼を剥いた写真があった。兄2人は既に従軍して長兄は中国で戦死、次兄は海軍士官で出征中だった。三男は度の強い眼鏡を掛け陸軍獣医になるため鹿屋農業学校畜産科で学ばされていた。
 母は末っ子の私1人は手元に置いていたかったらしく私の文科系志望を応援して父とよく口論を交していた。中学4年生の時父が台湾の仕事現場に出向する間際その決裂のときがやって来た。東京で好きな勉強をしたいという私と反対する父と衝突した。その時家を飛び出した私に母は金を持たして東京本郷の従姉弟の家に匿まって貰うよう手筈をしたのだ。それを知った父は怒髪を逆立て母と別居し私を勘当して単身台湾へ出向して行った。
 父は末っ子で我儘に育てた私を自分の教育ミスと気付かずこう勝手なことを言っていた。
「光男が一番元気者じゃっで、将来陸軍大将に成っじゃう!」
 戦時下の昭和17年(1942年)は日本が新たに太平洋戦争を始めたばかりで私が上京した頃は日本中が戦勝気分の緊張と不安が入り混って混沌としていた。それだけに官憲の眼は厳しく学籍を持たない少年は「虞犯少年」としてすぐ引っ張られた。
 父に引き取り拒否された私は小岩の「仁泉塾」という感化院に送られた。其処は新築の作業場で軍服のボタンをプレス機を圧して作る仕事を来る日も来る日もやらされた。居室は牢屋に畳を敷いたような何も無い殺風景な雑居部屋で三十余名の不良少年が起居していた。1冊の本も筆記具も無く折畳式のボール紙で出来た将棋が1組だけ奪い合いの喧嘩を待っているように備えてあった。
 少年に勉強も夢も持つ隙も暇も与えまいとするかのような仁泉塾で、数カ月私は逃走のチャンスばかり狙って過した。もう日本の社会組織のどこにも若者の夢を伸す場は無いと感じた。そのうち日本の全学生は理工科系の他は総て徴兵猶予を停止し労働奉仕か入隊の二者択一の途を選ばされる国法で進路を限定されてしまった。
 ラジオも無く外からの情報は新入りの不良がもたらす食パンの耳ほどの片々たるものだけだが、折からの不良狩りで入って来た詐欺犯が瓦版ばりのゼスチャーで吹聴したニュースは仁泉塾中を躍り上らせた。新しい環境を期待する囹圄の少年達に撒き散らされた情報は当時の軍歌の材料にもなったビルマ(隼戦闘隊の唄“空の神兵”)を占領した話題等で持ち切りになった。
 そんなどさくさの中チャンス到来と私は夜中寮の網戸を破って隣りの畑地へ逃げ込んだ。
「ズラカリだ! 寮生が逃げたぞ!!」
 忽ち近隣の住民によって取り押さえられた。
「日本中がいま非常時でお国の為毎日たくさんの兵隊さんが戦ってるんだぞ、この非国民のガキめ!!」
「ズラカリ」という不良の隠語まで知っている住民の官憲への協力でひとたまりも無く捕まった。彼等の罵倒の下敷きにされてつくづく日本中で母以外は父も社会も国も総て戦の外の夢など認めないことを知った。正しく政府のスローガン通り「一億一心」の世相が少年の心に閂をおろしてしまった。
 私は九段の少年審判所で再審査の結果千葉県の山奥の少年院に送られた。其処の少年院は窓は鉄格子が嵌められ農作業の強制労働と役人のリンチと飢えの苦しい生活が待っていた。仁泉塾より厳しい規則の外読書も何んの娯楽も無く衛生環境は其処で病を得た少年は死を待つ外は無いという最悪の感化院だった。建物も古く猿小屋のような大広間一つと懲罰用の小室数個に100人程が詰め込まれていた。此の「星華少年院」の詳細は第15回当賞「わが昭和史・暗黒の記録」で述べてあるので省略するが、今回の主人公となる死刑囚が当少年院で偶然一緒だった同郷の少年であった事からいささか重複が混ることを断ってペンをすすめていきたい。

いつか来た道

 今里新二と私は1年余り星華少年院で過した。たった2人きりの同郷人で共に文学趣味を持っていた。私は自作の俳句を記憶から引き出して披露し今里は暗唱している西欧の詩を自慢して聞かした。このささやかなひとときの文学情緒の交歓が少年院生活の辛さを乗り切らせ永遠に心を結ぶことになった。

 思い出が吹く秋風の鉄格子
 禁断の笹笛かくれ母に吹く
 母からの粽つぶれて届きけり
 ■
 秋の日の ビヨロンの ため息の
 身にしみて ひたぶるに うら悲し
 鐘の音に 胸ふさぎ 色かえて
 涙ぐむ すぎし日の 思い出や
 げに我は うらぶれて ここかしこ
 さだめなく 飛び散らう 落葉かな

 今里の女性のように美しい横顔が奏でる嫋嫋たる西欧の詩を私はすっかり気に入って何度も習い覚えた。彼は又こう私を褒めた。
「お前の俳句を聞いてると死んだ母が、まるで風に吹かれて宙に舞い出る竹藪の笹みたいに浮かんで来る錯覚を感じるよ。俺もよく笹笛を吹いていたナ」
 今里が肉親のことを話したのはそれ一度だった。2人は引取人が居ない事と共に逃亡計画を持っている事でも共通していた。共に逃亡に成功して社会で会ったら2人で同人誌を作ろうと約束した。2人は作業が別々なので一緒に逃走することは困難だった。
 逃走は今里が先に決行した。彼は用意周到な計画で成功した。職員が作業中の禁煙を犯している隙に傍の竹藪の中に飛び込んで一切道には出ず藪の中を歩き通しで成功した。
 監視が厳しくなった。私は正攻法を考えた。頑固な軍国主義者の父を誑かして兵隊志願をして正式に帰郷した上で今度こそ見つからない処に姿を晦まそうという戦法だった。私はまだ世の中の組織を甘く考えていた。兵隊検査後の逃亡が国家的犯罪になろうとは18歳の少年の頭には未だなかったのだ。私は合格すれば入隊までの半年間母のもとに帰れるという郷愁の念だけが働いていた。
 兵隊志願の検査に合格した私に来た父からの手紙に私は激怒と反抗に燃えた。院長宛のその内容は相も変らず世間体を考えて、感化院帰りの子を我が家から出征さすような不名誉は先祖に申訳ないので「何卒貴院よりよろしく入隊させられたい」と言うのだった。
 仁泉院で逃亡を失敗して住民達に取り押えられ寄ってたかって「この非国民のガキ!!」と罵られた時から、私の心は宿痾のように母以外の社会組織全体を敵だと思っていたのに又もや私は、肉親への甘えに舌打ちした。
 世の中の束縛の外へ自分をリセットする他の方法を考え直した。(こんな非人間扱いの少年院から直接死の戦場へ送られて耐るか!)
 私は次の案を持って教護先生に面接した。
「此処から軍隊に行く決心をしました。でも軍隊に行くのには身体を鍛えたいので炊事係をやらして下さい。この痩せた体では……」
 炊事の仕事は少年達の憧れである。空腹を満たせるだけでなく自由も利いた。特に菜方は「独歩」の腕章を巻いて早朝の農園に3人ほどで味噌汁の具の野菜を取りに行ける。私はその充分すぎるチャンスに眼をつけたのだ。計画はまんまと当った。兵隊検査も合格し社会に帰れる日も決まっている私を疑う者など居ない。
「しまった篭に包丁を入れて来なかった!」
 農場の一番深いところから炊事場までは歩いて10分はかかる。私は悠々と竹藪の中を少年院の建物から遠ざかって行った。
 今の世智辛い時代と異って戦時中とは言え人情は豊かだった。翌朝薄暗い人里に下りて行った。確か「滑川」という名の駅だった。
「おじさん、50銭貸して。東京まで帰りたいんだけどお金落したんだ」
 トイレで然も時間帯、少年院から逃げ出した見すぼらしい見知らぬ少年の姿、男性は怪訝に感じた違いない。ひょっとして一山越えた場所に感化院があるのも知っていたかも知れなかった。何も言わずその商人コート風の男は私に恵んでくれた。隣りの駅の切符を買い列車に乗り込むとすぐトイレに入った。一度検札らしい人がノックしたがそれっきりで私は両国駅まで乗り越し両国に辿り着くと構内が近づいてスピードの落ちた列車の乗車口のドアを開けて飛び下りると土手を滑り下り街の人となった。然も尚その姿でよくぞ本郷の従姉弟の家まで行けたものだと今から思うと当時の日本が如何に平和で長閑な国だったかに驚かざるを得ない。
 帰郷した後、私は兵隊検査合格の免罪符と台湾の父を脅し(入隊拒否をちらつかせ)て遊興費を送らせて仲間と遊里を流連荒亡の果てに故意に喧嘩で捕まったのである。入隊前日までの筋書き通り行った。後は少年刑務所で傷害罪で頑固な父の鼻をあかして服役するのだ。母が面会に来た。父に責められて刑務所行きより入隊を優先して憲兵隊に嘆願書を出せと言われたと母は泣いて私に言った。
「如何し申んそ?(どうしますか)……」
 苦渋の母を見ると、配給も食べず送ってくれた少年院での粽が思い出されて流石にこれ以上母は苦しめられなかった。覚悟を決めた。
 母は憲兵隊に血判を押し嘆願書を提出した。

鵺のごとき戦

 6カ月の初年兵教育は現地の最前線「包頭」で行なわれた。実戦と教育を一緒にした訓練方法で捕虜を射撃、銃剣術の対象にして殺害する血腥い期間が過ぎると待っていたように重慶の蒋介石中央政府攻略の河南作戦に参加して中国大陸を南下しはじめた。
 途中峨々たる山脈から共産党軍が地の利を生かして襲撃するのに迷わされて本隊とはぐれ私達の分隊は磁石を頼りの山岳戦になった。数日後には携帯食も切れ空腹との闘いになり民家を探しはじめた。山間の僅かな農作物と家畜を徴発という名の隊長命令で強奪を始めた。
「腹がへっては戦は出来んパタし(盗む)て来い何んでも!」
 強盗団に早替りした兵隊は土足で農家を襲い反抗する土民を容赦なく蹴散らし打擲し射殺する兵も居た。私は半年前に日の丸の旗を振って涙ながらに見送った国民の軍歌が頭をよぎった。

 ●天に代りて不義を撃つ
 忠勇無双のわが兵は
 歓喜の声に送られて
 今ぞいで立つ父母の国
 勝たずば生きて還らずと
 誓う心の勇ましさ

 私は「東洋の平和」の軍の大義が空中分解する現実の悪逆非道な光景の中で、皆と同様に食糧を略奪している自分の姿を見て居た。(背に腹はかえられぬ)そんな言い訳を思いながら。
 だが私の心の奥の隅にはそんな軍隊の組織の根本的な悪へ反撥する心が常に脈打っていた。「上官の命令は朕の命令と心得よ」の戦陣訓の一句によって傲慢無軌道を恣にする上官に反抗した事件は前回記述したが、私はこの「上官暴行」外4つの罪で第1二軍鄭州軍法会議で4年の刑を言い渡されたお陰で数カ月後の敗戦で日本へ生還することが出来た。
「天網恢々疎にして漏らさず」実に天は見て居た。その分隊長は洛陽占領後の第12軍で「名誉の戦死」という虚栄を被せられて故郷の宮崎県財部町へ帰還して行った。私は逃がしてやったクーニャンによって命を救われたのかも知れない。上海捕虜収容所に移され無事戦争を放棄した日本へ還ることができた。

 渡り鳥弾●止みたる宙を行く
 捕虜の身に自由もどりぬ夜々の月
 積雪に靴踏みだし復員す

母郷喪失

 佐世保復員局で命の代償150円と毛布と外套を巻き付け中に消耗品や下着類の詰った背嚢一つだけで放り出すようにまだ瓦礫の面積が広がる焼跡の鹿児島に戻り着いた。
 樹1本出迎える者1人無い西鹿児島仮駅舎から尻から黒煙をみだらがましく吐いて走るバスに乗った。父が台湾に居を構え一切の内地の家田を譲った叔母を頼って行った。叔母は早くも戦後の日本人の骨肉相食む態度に早変りしていた。剣もほろろに言った。
「親顕どん(父の名)が戻っ来っまでは家には誰も泊めもはん。米一升上ぐっで外で泊めて貰いやんせ」
 呆然自失する私に叔母は更に決定的な拒絶の言葉を投げた。
「お前様が軍隊の刑務所に入りやったち(と)駐在さんが村中に言い申したで、お母さんは『私の教育が悪うござした』ち、お父さんに詫びて自殺し申した! 村中が非国民を出した言うもんで、お父さんも行商して廻って戻っ来もはん」
 叔母の言葉が終るのを待っていたように駐在の自転車がまるで無線でもあるかのように駆け付けた。
「戻っ来やったげなな。お前の事でいろいろ聞きたか事がご座んでちょっち来て呉いやはんか、国からいろいろ来ちょっでな」
 戦地帰りの兵隊に佐世保の人は「御苦労さん」と迎えてくれたのに故郷は誰れ1人として私には「非国民」という眼差し以外持たないのが分った。日本社会は執念深い官僚主義がまだ根深く浸透しているのを感じた。
「駐在などに用は無い! 軍隊の崩壊で俺の事件は消滅したんだ!!」
「消滅したとは軍隊の『上官暴行』外3つの事件だけじゃっど。『傷害』罪はお前の前科調書に残っちょっとじゃ、傷害罪は社会では前科者んじゃけんな、分っとっとか!」
 私は怒りが爆発した。命を捨てて国の為だと言われて戦って来た軍人を前科者呼ばわりされては許せなかった。(事情も知らんくせに!!)私は立ちはだかる巡査を自転車ごと押し倒し車輪がゆがむ程軍靴で踏み付けた。
「何すっとか! 暴行罪じゃっど! 待てッ、公務執行妨害じゃ!! 反抗すっとか!!」
 走りながら思った(俺には故郷も母も何もかももう無くなった!)私はバスにも乗らず五里の凸凹道を鹿児島市内へ向って走り続けた。22歳の早春だった。
 眠る場所も無くヤミ市のバラック建の飲屋でドブロクを飲み明した。来る日も来る日も思考を停止して浮浪者の群れと一緒に飲み明した。そのうち命の代償の150円が無くなると飲み仲間の港湾労働者と一緒に働きはじめた。“戦死イコール忠孝の道”と教わった外は生活の術は習わなかった。仕事の内容が密輸品の運搬である事も知らず作業に従事した。酒をくらい荒くれ仲間の喧嘩に巻き込まれ、運搬荷が密輸品だとバレて逮捕、服役で前科はどんどん重なって十余年が過ぎた。
 昭和36年(1961年)12月、私は傷害罪で裁判を待っていた。私は復員以来刑務所生活を或る意味で心の癒しの場にしていた。争うことも犯す必要も無く所内には戦災を免れた万巻の書物が備わっていた。読書の静かな時間と完璧な秩序もたっぷりあった。
(此処は俺の修学の時間を奪った国が償いに提供している勉学の場所だ)そう思うことにして、戦場から続けている俳句の題材に家族の思い出を詠んだり手記を書く勉強室にして自ら独房を望んだ。(役人に反抗的態度を取ればすぐ取調独房が待っていた)
 戦後の刑務所は幸い矯正教育という行政を取り入れて昔の報復刑と異り可成り柔軟な行刑に変っていた。各地の刑務所毎に機関誌や部活等が行なわれ、全国的にも「人」新聞という教養新聞を発行して全国収容者からも募集し配布されていた。特に年一度の「全国コンクール」の文芸作品は著名な作家、詩人がその選に当った。私が服役した時の選者は2年半に、結城昌治氏、永井静夫氏、田宮虎彦氏等が交替で行なった。その中で私が今里と関係のある応募作品に永井静夫氏が選評を加えているので紹介してみる。
 これは私が今里との約束の同人誌発行の準備の為に戦後のある時期有名な俳人の句
 てんと虫一兵われの死なざりし 敦
を知って師事しようと上京し目黒の柿ノ木坂の師に入門を願った時の事を書いた随筆である。選評にはこうあった。
 「1つの機縁」の作者は創作の部の1位「名づけ」の作者と同様、相当な修練を経た人の文章である。そういう点では図抜けている。相手の少年院の仲間に聞かした俳句も手にいったもので、さり気なく書いた「モク拾い」の集めた雑多な吸殻を、最後の行に再現したあたり凡手ではない――
 この選評を此処に書いた理由はこうである。「人」新聞は全国刑務所の全監房に一部づつ配られる。発表された作品の作者は本名で附属している刑務所名も記載される。つまり私と今里の偶然の再会をこの「全国刑務所文芸コンクール」の入選作が果たしてくれたのである。
 或る日、配食の雑役夫が私の独居房の食器孔(食事差入口)から小さく畳んだ密書を投げ込んだ。(ヨンダラ、スグヤブッテ、ステロヨ、二十一房ノ、シケイシュウカラダ)そうささやいて素早く去った。
 死刑囚房は同じ被告でも棟が違う。そんな密書を運ぶのは危険極まりない。私はドキッとして早く読み終えて破棄しなければと焦った。それにしても何故死刑囚が? 一体誰れなんだ?……密書を読んで驚いた。
 ――「人」新聞を読んだ。同じ刑務所に居るとは感無量だな。今里新二だ。懐かしさに声に出して読んだぞ、もう20年になるな。お前も苦労したようだな。……中略……これから雑役夫を通して連絡する。甘味品を呉れてやってるから心配ないからお前も闇手紙をくれ待ってるぞ。俺の事件のことは後でくわしく書く。お前は2年の求刑だそうだな。早く出てくれ俺の頼みがあるんだ。――
 私と今里の密書交換はこうして始まった。私は何よりも彼が死刑囚になった理由から書かねばならない。連絡がはじまって数カ月後に連絡役の雑役夫が担当看守に闇手紙を持っているのを見つかって懲罰を受けて交替させられる迄の間に彼の事件の全容が分った。
 今里は千葉少年院をズラカった後故郷鹿児島ですぐ捕ったようだ。その後彼も私同様に社会を諦めて志願した佐世保海兵団に入団した。海兵団で簡単な身体検査を受けると半年間軍艦乗艦訓練と陸上戦訓練を受けた。むろん日本本土での訓練なので銃剣術は私と違って藁人形を使ったが心臓を一と突きして殺す殺人術には変りなかった。後に彼が復員して犯した強盗殺人で相手と争って咄嗟に心臓を突いたのは軍で習い実戦で行なった習性であって殺意は無かったと裁判で争っているのだとあった。彼は今その死刑判決を控訴中だった。
 今里は海兵団で訓練を終えると南方戦線で破損してトラック島から横須賀港に修理入渠していた軍艦「高雄」が再度前線へ向うのに乗艦した。もう日本海軍は至る戦場で敗色が見え始めていた。
 昭和19年(1944年)今里達は激戦に次ぐ激戦で海に放り出されては他艦に救われて陸上戦に加わり再び乗艦しては南方各所をリンガ、タウイタウイと激戦を繰り返し遂に終戦の日を迎えて捕虜収容所から復員して来た。彼は私より1歳年上だった。昭和21年22歳で復員した。
 鹿児島の故郷には1人の身寄りも無く彼は復員した日から浮浪者仲間と倉庫荒しの組織犯罪に加わった。軍隊生活より自由があると彼はその時の思いをそう書いていたが全く私と同感だった。私達が同じ犯罪の道を歩きながら20年近くも会えなかったのは彼は専ら夜間の仕事だったからであろう。若し今里が死刑になるような罪を犯す前に2人が会っていたら彼は死刑で人生を失いはしなかった筈だ。
 何故ならその後私は俳人安住敦、鈴木真砂女の戒めと深い愛情を受けて更生。自らも文芸誌を発行し平成15年母親がわりに励ました真砂女の死去と共に廃刊するまで25年間主宰し続けていたからである。その間には服役中に収集した少年囚、女囚、死刑囚達の詩文集「愛よいずこ」を自費出版して地方の新聞やテレビ、ラジオで広く喧伝された時期があったので彼の眼に触れてかつて少年院で約束した通り彼も参加していた筈だ。
 今里との密書ルートが発覚した後、私は俳句仲間の女性に今里との面会を依頼して連絡を続けることにした。全く別の世界の素人の未婚の彼女には心苦しかったが死刑寸前の今里を見捨てて置けなかった。彼女の同じ俳句誌の同人に参加している1人で(会員の半数は身体障害者、お年寄りで私が罪亡しに指導をしていた)よき理解者だった。私は今里が千葉の山奥の真っ赤な太陽の落ちるのを見ながら2人で誓った話を彼女に語った。彼を殺人罪に走らしたのは国も責任があると彼女もそう言った。彼女は死刑囚と聞いて一瞬耳を疑うように目を見張ったが返事はしっかりとすぐ返して来た。
「貴男の知ってる人だから想像はつくわ。きっと貴男の言う通り何かの誤りがそうさせたと信じるわ……そうね、この後面会して次の面会の時に報告するわ。何かわくわくする」
 彼女は素人の女性にしてはおちゃっびいで豁達な25歳の喫茶店のレジスターだった。私の特異な経歴の俳句に興味を持って付き合っている理解者だった。今里との密書交換が暴露して共に懲罰委員会で罰を受けて面会が禁止になったとき勿論彼女も禁止だったがむしろ面白がって懲罰の状態を尋ねたりした。
 懲罰は「軽屏禁1週間」だった。面会禁止、運動禁止、読書、講読、差入、入浴、書信(発信・受信)等総て禁止で監房から一歩も外に出れないのだ。喧嘩、傷害などの反則行為の罰は「重屏禁」という罰則で軽屏禁の罰に減食、施錠等の罰が加えられる。彼女はそんな話を面白がって聞く女だった。
「それで差入れの外にどんなことを話せばいいの?」
 私は今里から出所後に次の事を依頼されていた。密書の内容である。
 一、お前の知人で俺の逃げた妻と子を探してくれる奴は居ないか。
 一、居なかったら、お前が出所してからでいいから俺の遺骨を此処から引き取って出してくれ。此処の無縁墓地にだけは入りたくない。処刑前にお前が出たらお前がしてくれ。
 一、遺骨は海に捨ててくれ。海には戦死した戦友が国に引き上げられもせずに、いっぱい眠っているんだ。俺を呼んでいる夢をよく見るんだ。皆んなどうせ国が引き上げてくれるなんて思ってないんだ。1人でも仲間が欲しいんだ。海の底は此処より淋しいからな。
 私の依頼に彼女はいつしかうつ伏せていた顔をしっかりと一つコクンと●突いた。

流れゆくもの

 此処で彼女の事について詳らかにしておきたい。彼女は大分県の宇佐郡で家業は農業と醸造(昔)をしていた旧家の二女に生れた。仮に名前は俳号の真紀と呼ぶことにする。父は有名な歌誌「アララギ」の同人で斉藤茂吉等と歌友であるが真紀は歌を志す俳人、日野草城に傾倒して俳句の道に進んだ反骨精神の持主だった。
 真紀は今里と面会を重ねる度にすっかり今里のシンパになっていった。私より彼の事件の内容に詳しくなってしきりに援護するようになった。今里の被害者は元は彼の上官で商才に長けた成金だった。今里は妻と幼子を抱えて貧しい生活だったので借金に行ったが剣もほろろの扱いを受け断られた。その時船乗のスーツに金時計の傲慢な被害者に今里は、
「貴様も同じ人肉を喰った仲じゃないか」
 と、戦場での禁句であるはずの生活を口にして大喧嘩になった。被害者は妻の手前もあって今里を罵倒して言った。
「この乞食が! 口から出まかせを言うな!!」
 今里はこの上官に銃剣術を習ったのだ。彼は真紀にこう言ったという。
「奥さんは確かに大声を出され、私が主人を刺したのを見られてしまったので、まずいと思って殺したんですが、あの男は咄嗟に彼が教えた銃剣術があの時出てしまったんです。殺すつもりは無かったのに……」
 真紀はもう法律のことまで詳しくなっていて今里を弁護して言った。
「今里さんの主張どおりだと思うわ。人間こんがらがった時なんて意識無いものネ。奥さんは仕方無く殺したとしても、殺人は1人だけだと死刑にならないから無期でもいいから出所する日が来るといいわね」
 真紀は次に面会に来た時こう言った。
「今里さんネ、俳句を教えて欲しいと言って送ってくるようになったの。若し死刑になって何も恩返しが出来ないといけないから、立派な辞世句を私に遺すため勉強するんですって」
 言って彼女はハンカチを目に当てた。更に
「先日の句会で彼の俳句を出したら、先生が1位に採って下さったの。その句はネ、『差入れの妹の押花死刑吾に』というの。少しあたしが手を入れたけど……」
 真紀は新入学の子の自慢にも似た母親のような泣き笑いの顔を見せた。更に次に来た時には明らかに私をハッとさせる大胆な愛情を見せた。
「近ごろ私ネ、今里さんに面会して帰るとき、ふと世の中の男性がみんな腑抜けのように見えるの、今里さんの真劔な眼を見ていると世の男性の眼に厳しさを感じなくなるの」
 思わず「あなたも……」と言われた様な狼狽を覚えてふと考えた。毎日死と対峙して生きている今里の心を思うと戦場で分隊長の「突撃」の命令を待っている時の戦友の決死の眼を思い出した。真紀の愛情の強さを受け止められるのは今の今里なのではないかと彼女との距離めいたものを感じゼラシーさえ覚えた。私と真紀の話題は乏しくなっていった。
 次の週の面会で真紀の心をはっきり掴んだ。彼女は決然とした言い方で言った。それはむしろ宣言と言うべきかも知れなかった。
「あたしネ、故郷の大分へ帰ることにしたの。実は今里さん福岡刑務所に移送される事になったの。控訴が却下されたんですって」
 福岡刑務所は死刑台のある所だ。私は簡単に答えて自分を律する外術は無かった。
「そうか……却下になったのか……そうだな俺の面会はいいから、大分なら隣り県だし時々面会に行けるからな。そうしてくれ……」
 不自然な微笑だが止めようもなく「頼んだよ」の言葉といっしょに別れた。後は文通だけの然も今里の事に限られた義理的な交流が続いた。それでも真紀は筆まめに毎週頼りを欠かさなかった。義理だけにしても私にとっては唯一の愛情だった。心ひそかに真紀の心は又もどってくるのだ、それまでの淋しい時間だと考えて自慰するしかなかった。
 今里の俳句の上達の早さを真紀はわが子の事のように喜んで送りつづけた。

 年賀状たのしく読んですぐ虚し
 目覚むれば死刑囚房春満月
 ふところに君の便りや遠雷す
 おちびたき衝動芽木の雲静か

 確かに今里の進歩の早さには眼を見張るものがあった。死期を目前に必死に俳句し続ける真摯な心が句には籠められていた。
 真紀と私の関係が切れる時が来た。私の刑が確定し2年の実刑を務めることになったのだ。服役すれば他人との文通は許されない。だが私は今里の後見人として遺骨引取人になっていたので(真紀と共に)今里の件についてのみ月一度だけ真紀との交信を許可されていた。それもハガキだけの発信(受信は手紙でも可)だった。それも次第に疎遠になった。
 真紀との通信の疎遠は今里の状況が私には分りにくくなることで私は唯ひとり拱手して遠くから2人の成行を想像にまかせて見守るほかなかった。その間に真紀はてきぱきと今里の境遇を変えていた。
 真紀は俳誌の仲間と計って今里の再審請求を始めた。俳誌の主宰をも動かし再審請求のカンパを始めたのが俳句誌上のカンパ報告で分った。主宰からの多額のカンパも報告されていた。私は真紀の願いが叶うのを祈った。
 真紀から今里刑死の知らせが来たのは昭和38年(1963年)2月で処刑日の13日を10日過ぎて私の手元に届いた。その間に私への便りをどう書こうかと悩んだであろう彼女の心が如実にその簡潔な文の中に読み取れた。だがその悩み悲しみの文面には今里の引受人としての自信といささかの悔も無い彼女の心が読み取れた。私はそれを未亡人の手紙を読むような気になって読み下していた。
 ――先日、福岡刑務所の教育部長、豊田包春様から速達便が届きました。私の祈りもかなわず、彼が昇天した連絡と、彼の遺言状を同封したお便りでした。
 此処に教育部長様のお便りのコピーと、彼の遺言の一部を(貴男用)写し書きしたものを、同封してお知らせさして頂きます。
 尚、彼の遺骨は、私が働いて墓を建てて納めますので、何卒御放念下さいます様、お願い致します。――
 彼の遺言状の中の私宛の文にはこう書いてあった。
 ――日記二部と古銭(私が息子に渡す心算だった)は有馬に届けて下さい。有馬がいつか私の事を書いてくれると思うので、その時の参考までに渡して欲しいのです。読後は焼却して欲しい……後略……――
 そして福岡刑務所教育部長から真紀に宛てた便りのコピーには次のように書いてあった。

 省。
 何からかいたらよいか心せわしく走りがきのままお許し下さい。
 かねて長い間ほんとうに心して頂き御愛情を御そそぎ頂いていました今里新二君本日(2月十4日)昇天しました。くわしくは御会いの上お話しますが、とかく女々しいところなく男らしく気も晴々と、少しの動揺もなく昇天しました。
 最後が最後まであなた様を心のささえとし、その点自分は幸福だと申していました。
 時に本人の遺言に遺体は火葬にして遺骨は貴女様に引き取ってもらうこと、それに相当のお金と遺留品一切をも受取って頂きたいと、遺言していますので、よろしく御願い申します。遺骨は教育部で保管しております。
 尚貴女様には電報でおしらせしようかと申しましたら、手紙で知らせてもらうことが、くわしく連絡(遺骨のことなど)も出来るので手紙で知らして下さいと願いましたので御手紙でお知らせ申します。御出下さいますときは、印鑑がいりますので持って来て下さい。
 さぞ御悲しみのことと存じ、御悔み申し上げます。
 ※同封の手紙は本人の絶筆です。送ってくれと頼みましたので御送りします。
 博多駅前市電で姪の浜行、又は室見橋行に乗り三、四十分すると藤崎電停(又は刑務所前と云うこともある)で下車。電停の前が刑務所です。教育部に来て下さい。
草々

遺書
 私はもう騒ぎも、うろたえもしない。生きたい希望をなくした訳ではなかったが、悲しみを悲しみ抜き、苦しみを苦しみ抜いて、もはやどうにもならないぎりぎりの運命というものに1つの悟りをひらいたのかも知れない。
 私は心の中で、あらん限りの力を振るって叫んで見たいと思う。だが今は恐怖はない。今暫くの刻が流れると、意識の全部が消え、丁度灯りという灯りが全部消えてしまったような世界となるのだろう。真紀ありがとう。
 春隣るこころに君を抱き逝かむ

 真紀から更に10日後今里の日記等が届いた。今里の日記の2冊目は昭和38年2月13日で終って翌日の14日から空白の頁が続いている。私は真紀から送られたこの日記の2月14日の空白を見た瞬間はじめて今里がこの世から去った悲しみにジーンと心が締め付けられるのを覚えた。福岡刑務所では処刑の当日午前9時に監房から連れ出されるまでは当人に知らせないことが彼の日記で分った。他の処刑場では前日に報らして最後の面会や教誨師との面接等を行なわせると聞いている。突然2月14日の日記が空白になっているのと前日の日記に何等処刑の予感や覚悟の言葉が一言も無い(他の頁にはそれらしい予感と覚悟を示す文が随所に見れる)ので分る。
 日記帳について私がまだ内容(官吏との軋轢や処遇不満等の外日記の検閲の不服等)を公表しないのは、発表した後、彼の遺言どおり焼却しなければならず、それが彼との永遠の別れとなることに哀愁を感じる思いがまだあるからである。死刑囚と看守の息詰るような軋轢を読むと刑務所側が私へ日誌を渡さず真紀へ渡した理由がよく分る。官僚組織の非人道性、死刑囚同士の悶着や友愛(免田事件で無罪を勝ち取った彼との交流の外4人の死刑囚間の心理葛藤の外に面接・文通による対社会人、宗教人、文人、知識人等との思索の違いが率直に書いてあるのが興味深い)いつか公表のチャンスを待って焼却し切れないのだ。
 彼の日記帳を私に渡すことについては刑務所側と悶着があったが、結局1カ月読むことを許した後真紀へ宅下げ(領置品を引受人に渡す)するということになったが、後に私の出所後真紀から送って来た。
 日記帳を読んで先ず真紀の親身も及ばぬ尽力ぶりに頭が下った。よくぞ彼女を紹介してやったと唯一の今里へのプレゼントとして最高のものであった事を嬉しく思った。今里が処刑される前日まで真紀の名は3日を空けず来信欄に記されていた。出納の欄には彼が名づけたのか「週給」と書かれて百円、二百円と真紀の送金が続いていた。そして週給のあった日には待ち兼ねたように「ふかし芋、三十円。うどん三十円、あめ玉二十円」と購入がある。切手や雑誌は別送で届いている。
 私が今も与ったままの古銭はいつの日か必ず1人息子を探し当てて渡そうと思っていたが、私の余命も余り長くないので此処に発表して本人と出会えるきっかけにしたいと実施に踏み切った。今里新二と本名に殆ど似せて書いたのもその為である。
 蒐集癖を持つという彼の息子が喜びそうな古銭には彼の親心が籠もっている。明治14年鋳造の半銭銅貨には「1/2SEN」と英語が刻され日本が国際化に走り出した当時を彷彿とさせ、菊の紋章を挟んで「以百枚換一園」と銭銅貨の交換価値が表示された珍奇な貨幣に今里の息子に対する深い愛情がひしひしと伝わる。
 それ等数枚の古銭と乃木大将の肖像画の古切手等は、彼が南方戦線で戦った折の戦利品であろうカンガルーの皮で出来た財布に豪州語で囲んだ或る人物のメダルが付いた珍しい財布に入れてある。どうか人の世の憎しみ悲しみ怨み呪いを乗り越えてこの刑死した父親の父性愛がその子の手もとに届くことを祈って止まない。
 最後に今里の遺言の最後の辞世句について付記したい。先にも述べた様に彼らの処刑は執行官が来て自分の監房の扉が開くまでは何時宣告がやって来るか分らないで午前9時が過ぎる迄は毎朝死と向き合って坐っているわけだ。(日曜、祭日正月3日間を彼等は“安全日”と呼ぶ)安全日外の日は足音の響き一つにも全神経をとがらして耳をそばたてるのだ。一度にどっと数人の足音が長い廊下の端に起ると執行官や教育部長教誨師のその靴音がどの死刑囚の房の前で止るか靴音を追っかける。従って遺書を書く余裕はずっと以前でなければ持てないのだ。
 今里も当然何カ月いや死刑判決を言い渡された時から考え、書き直し続けて用意していた筈である。真紀へ遺す辞世句も幾度となく作り替え書き直しただろう。只俳句にはその時の季節を詠み込む季語という約束がある。今里はその部分だけ刑場に曳かれて行く瞬間迄空けていたのだろう。
 彼の監房の扉が開いて教育部長に、
「今里新二君、お迎えだヨ」
 と言われて真紀への辞世句に季語を入れる時「春隣る」が奇麗な字で真紀の眼に映るようにと最後の愛のすべてを賭けて書いたのを思うと私は、小きざみな字の震えが千仞の谷の深さよりも深い愛情の証だと涙を禁じ得なかった。私からも愛をこめて今里のこの辞世句を最後に書いて真紀に感謝したい。
 春隣るこころに君を抱き逝かむ 新二

受賞のことば
有馬光男(ありまみつお)
 1926年生まれ。台湾佳里小学校卒業後、内地に帰り鹿児島川内商工学校二部中退。19歳で北支派遣軍に現地入隊。47年復員放浪生活。61年警備会社就職。文芸誌を23年間主宰する。リストラ後無職。
 一昨年当賞優秀賞なるも今回は佳作に落ち地団駄踏んで口惜しがり、次回こそは大賞を獲得せんものと、ルポの書き方を勉強しリベンジを果す覚悟。サブタイトルも〈人生ルポ〉として赤裸々な恥歴書を披露する。

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