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出でよ、新しき知識人  「KY」が突きつける日本的課題(MIYADAI.com、2007-12-22 )
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投稿者 まさちゃん 日時 2007 年 12 月 24 日 13:17:23: Sn9PPGX/.xYlo
 


下記の投稿、リバイバルとは言えないが、再読、再々読に耐えうる良質の論評として挙げておきます。


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http://www.miyadai.com/index.php?itemid=598

出でよ、新しき知識人  「KY」が突きつける日本的課題
投稿者:miyadai
投稿日時:2007-12-22 - 11:52:25
カテゴリー:お仕事で書いた文章 - トラックバック(2)


いよいよ自民党の支持率が2割台前半、民主党の支持率が3割台後半になってきました。
どこぞの馬鹿がどうして宮台は自民党にロビイ活動をしないのだなどとほざいていました。
90年代半ばからの絶対得票率趨勢分析をすれば自民党に未来がなかったのだから仕方ない。
自民党ごときにひきずられて沈没したくはありません。
自民党内は一挙に政界再編にむけて動きだしつつあります。
中川昭一と平沼赳夫が安倍晋三を引き込みんで麻生太郎を代表にした保守新党を作る動きがあります。
自民党が将来的に立ちゆかないことがやっと誰の目にも明白になったことが背景です。
とすると自民党の残りと民主党の過半がリベラル新党に向かうかもしれません(民主党の一部は保守新党に行きます)。
実際に谷垣&額賀の連携の動きがあります。
これは単なる政局の問題ではなく15年間途切れなく続いてきた傾向がもたらす必然です。
政治にまがりなりにもコミットメントするにはロングスパン&ワイドスコープが不可欠です。

[インタビュー、2007年12月10日、渋谷セルリアンタワーホテル]

 本年度(2007年度)の流行語大賞に「KY」がノミネートされました。「K」は「空気」、「Y」は「読めない」。「空気を読めないヤツ」という意味です。もともと若者言葉です。突如辞任を表明した安倍晋三前首相について頻繁に使われ、一気に広まりました。 
 年長者であれば誰でも山本七平が1977年に発表した『空気の研究』を思い出すはずです。山本七平は、日本人は「空気」を肌身に感じてそれに支配される国民性を有するのだとし、それが政治的決定の領域で問題を引き起こすことを指摘しました。
 極東軍事裁判において、平和に関する罪で――A級戦犯として――裁かれた被告人らが、総じて「自分には責任がない。違和感は感じたが、空気に逆らえなかった」という趣旨の証言をしたことを、山本七平は、敗戦の原因となった合理性欠如として、問題視しています。
 自分を支配するのは「空気」であって自分の意思決定ではないという話になってしまえば、誰も責任をとらないか、全員で責任をとるしかない。全員で責任をとるのは、赤信号みんなで渡れば怖くないと同じです。全ての政治的決定は無責任なものになってしまいます。
 こうした「空気」をめぐる議論も隔世の感があるというほかありません。確かにそこに「空気」を感じればそれに支配されるというのは、今も変わりません。しかし今日的な問題は、そもそも「空気」を感じるか感じないかにおいて分岐が生じてしまうということです。
 ここには二つの要素があります。一つは、知らずに空気に支配されるのでなく、進んで空気に支配されろという命令の奇妙さです。もう一つは、そうした命令が意味を持つ程度には空気を感じとれない人間が増えているとして、それはなぜかとい奇妙さです。
 
【共通前提はいまや崩壊している】
 なぜ「空気」を感じることが出来ないのか。理由は簡単です。共通前提の崩壊です。かつてであれば、貧乏人はこんなふうに育ち、普通の人はこんなふうに育ち、金持ちはこんなふうに育つ、という通念がありました。その程度には〈生活世界〉の実体があったのです。
 そんな〈生活世界〉が空洞化してしまいました。共同体崩壊と呼ばれるものに当たります。背景は〈システム〉の全域化です。〈システム〉とは「役割&マニュアル」が優位なコミュニケーション領域のこと。コンビニ&ファミレス的なものといってもいいでしょう。
 〈生活世界〉は「善意&自発性」が優位なコミュニケーション領域です。地元商店的なものといってもいい。かつてなら生産の場が〈システム〉でも、消費の場は〈生活世界〉でした。今では消費の場での便益の授受までもが「役割&マニュアル」経由になっています。
 〈システム〉の全域化で〈生活世界〉が空洞化すると、社会的流動性が上昇します。かつては社会的流動性が低く、小さい頃に自分の周りにいた人間は大きくなってもずっと一緒。幼い頃の恥かしい体験を皆が覚えていた。皆は互いに共通前提の存在を当てにできました。
 窮屈で不自由な時代だったという否定面もあります。しかし、互いに自分のことを主張するまでもなく互いを忖度できる(と思えた)時代でもあったのは事実です。まさに「男は黙ってサッポロビール」。お父さんは「飯、風呂、寝る」以外喋らなくても許されました。
 トラブルに際して、相手が何も説明しなくても許すとか、あえて説明を求めないという寛容さもあり得ました。現在ではそうはいきません。コミュニケーションしなければ父親として失格です。「説明しなくても分かるだろう」は通用せず、どこでも説明責任が生じます。
 共通前提の崩壊をもたらした〈生活世界〉の空洞化は、〈二段階の郊外化〉によって生じました。第一段階が、60年代に展開した〈団地化〉です。「地域の空洞化」と「家族への内閉化」を意味します。「家族への内閉化」とは、専業主婦化によって象徴されるものです。
 第二段階が、80年代に展開した〈ニュータウン化〉です。「家族の空洞化」と「市場化&行政化」を意味します。「市場化&行政化」が、先に紹介した「役割&マニュアル」化とシンクロします。市場はコンビニ化し、行政が家族の多様化を支援するようになるわけです。
 こうした変化には地域差があります。全国から人が集まる東京ではとりわけ、近隣にどんな人がいるか、都市をどんな人が歩いているか、分かりにくくなります。でも日本人はどこに住んでいても、「お互い同じ」と信じ合えないとコミュニケーションを進められません。
 いわゆる女子高生言葉の大半が東京発なのも、それが理由です。90年代の東京が吉本ブームになったのも同じです。関西ではネタが割れた同士の甘えのコミュニケーションだった「ボケとツッコミ」を、ノリによって疑似的な共通前提を作り出すべく転用したのですね。
 ノリによって疑似的な共通前提をその都度作り出さないとコミュニケーションを前に進められないこと。ここから「空気を読め」という奇妙な命令文が生またのです。かくして空気を壊すことへの異常なほどの忌避や、キャラを演じることへの執着が生まれてきたのです。
 十年前に私が教える大学の授業でこんなことがありました。夏の盛りに冷房装置が壊れ、教室の温度が非常に高い。ところが教室に入ると窓がしまったままで、暑いはずなのに誰も窓を開けようとしません。学生たちは汗だくで座っている。結局、私が窓を開けました。
 後で学生たちに個別に尋ねますと、学生たちの言い分は、誰も開けないのに自分が開けると浮いてしまうと言うのです。自分が特別な存在であるように見えるのは嫌なのだと。私はこの時初めて単に「空気に支配される」のを超えた「同調への強迫的命令」を知りました。
 十年前にはなかったのにここ数年目立つようになった傾向もあります。「親友」概念の変化です。援交することを打ち明け合った「親友同士」を取材する際、私を前にした彼女たちが互いに「A子ご免ね、默ってたけどこんなことしたんだ」と秘密告白合戦になるのです。
 驚いた私が、「何でも話せるのが親友じゃないのか」と尋ねると、今度は彼女たちが驚いて、「親友とは自分がどう思われるのかを一番気にしなければならない相手を意味するのとだ」と答えます。こうした傾向を昨今のインターネット化が後押しするようになりました。
 不用意に自分の秘密を打ち明けると、相手が必ずしも悪意ではなくてもSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)やプロフサイトに書き込んでしまい、秘密が周囲にバレて騒ぎになったケースが、実際よく噂になります。いわばネットによる疑心暗鬼化ですね。
 共通前提が不透明であるだからその都度のノリで共通前提の代替物を作り出すことが「空気を読め」の背景ですが、ネットによる疑心暗鬼化も、ディープな話はネットで固定ハンドル名ベースで行なうかわりに、対面関係を表層的な戯れで終わらせる傾向を後押しします。
 
【文脈への敏感さを養え】
 「2ちゃんねる」などで、ある出来事がきっかけでスレッドにユーザーが集中して盛り上がる「祭り」。サイバーカスケードと言いますが、同種のことがネットの外でも起こっています。テレビや新聞などマスコミが垂れ流す情報にダイレクトに反応してしまうケースです。
 例を挙げます。07年10月に行われた亀田大毅と内藤大介のWBC世界フライ級王者決定戦で、亀田側が家族ぐるみで反則を冒した一件です。この「亀田問題」について90分のトークラジオ番組内で、電話で意見を集めると、9対1の割合で亀田一家批判が圧倒的でした。
 ところが私が「ボクシングはプロレスと同じ興行だ。興行とは見世物。見世物には反則も込み込み。問題は二つだけ。観客の期待の地平を裏切ってヤリ過ギたことと、ヒールの癖に弱過ぎたこと。まるで反則が悪かったかのようなキレイごとを言うな」と発言しました。
 父親の史郎が記者会見で心から謝っていないというバッシングに対しても発言しました。皆は手打ちを知らんのか。双方心から謝れない事情があるとき、双方の未来のために「これで過去は問わない」と約するのが手打ち。頭を丸め、頭を下げる。十分じゃないかと。
 ヒールだという理由でさんざん持ち上げて、同じヒールだという理由で落としまくる。そんなマスコミや世論に心から謝れるか。そもそも大阪は西成で下層からはい上がってきた家族。世の中への敵愾心もあるだろう。そんな世の中に心から謝れるか。ちゃんと考えろと。
 すると途端に比率は逆転して「宮台の言う通りだ」が7対3の多数派になる。ここには同調圧力に負けるというより、周囲の空気がそのまま自分に感染してしまう事態があります。抗えないという感覚があるというより、人々の意見が自分の意見になってしまうのですね。
 山本七平は、空気は現前性によって生まれ、現前性によって変わると言います。現前性とは感情を刺激する生々しさです。北朝鮮の拉致家族帰国問題で、当初は「救う会」を熱狂的に支持した“ネット右翼”が、掌を返したようにバッシング側に回ったのが、典型でしょう。
 私がラジオでガツンと言うと途端に意見分布が変わるのも、同じことです。ラジオですらこうですから、「現前性」に満ちたテレビならば大変。そこに問題があります。テレビのように巨額な資本が動くメディアほど、報道内容がある特定利害に拘束されがちだからです。
 カスケードや集中豪雨が生じるほど視聴率が上がって利益が上がります。だから持ち上げる祭りをブーストしたかと思えば、一瞬後には落とす祭りに加担します。それが日本のテレビです。資本に都合のいい内容というより、儲けを加速する「煽り」になりがちなのです。
 受け手側に準拠すればこう言えます。受け手がイデオロギー的に信じ込んでいるよりも、「祭り」のネタに相応しいアジェンダが選択され、ネタが醸し出す一過性の空気が感染してるだけです。その点かつての内容的なイデオロギー論(虚偽意識論)では説明できません。
 内容が利害に拘束されるのでなく、単に空気に拘束されること。空気による拘束が、利害に反することを指示することもあり得ます。それでも空気が優越するのは、フリーターなど非正規雇用の多い若年層が大々的に小泉ブームを支えたことによって象徴されています。
 空気を煽る内容であれば、どんな内容であっても、視聴率を上げて儲けることができること。だからマスメディアも、内容のイデオロギー性よりも、空気に合致するかどうかに、関心を持ちがちです。その結果、送り手側が、内容としての内容に関心を持たなくなります。
 それが日本のマスメディアの特徴です。「空気を読め」という命令文が機能する昨今、メディアの送り手側が、2ちゃんねるなどネットの空気を読んで、どっちに舵を切るかを決めるような体たらくです。実はマスメディアの世論形成の力が弱まっているかも知れません。
 昨今ではネットがマスメディアを祭りの「お題出し」のために利用しています。そこではマスメディアの現前性が重要な役割を果たします。でもお題についてどんな方向に引っ張るべきかに関してメディアはネットの空気を観察します。そこに相互依存関係があります。
 だから日本で要求されるメディアリテラシーには二種類あります。一つは、未だに記者クラブ制度などに庇護されたマスメディアの御用メディア性への敏感さ。もう一つは、ネット活動が草の根の市民性というよりメディアに触媒される空気の反映であることへの敏感さ。
 その意味で「統治権力(国家)とそれをチェックする市民(国民)」という二項図式が、幻想としても機能しません。政府に逆らう者は反日分子だという政治家の発言の尻馬に乗って、マスメディアもネットも自己責任バッシングに勤しんだイラク人質事件が象徴的です。
 草の根の感受性に寄り添うことが国家権力の横暴をチェックするのに役立つ、ということがありそうもないのです。だから草の根の感受性に寄り添う民主的な政治家が統治権力の過剰さに箍を嵌める、ということもありそうもない。衆愚政治に陷りやすい状況なのですね。
 国家の尻馬に国民が乗り、国民の尻馬に国家が乗る。チェック&バランスが機能しにくいこの国の悪循環を制御するには、何が必要でしょうか。やはりメディアリテラシーだという他ありません。メディアリテラシーとは、これすなわち「文脈への敏感さ」のことです。
 言い換えれば、文脈を参照することにで内容を割り引く能力のことです。当該メディアが置かれた利害布置上のポジションを参照して、割り引く。当該メディアが果たし得る社会的機能を予測的に参照して、割り引く。割り引いて、ベタに受け取らないようにするのです。
 メディアの流す情報は全て割り引けという概念は、国境を接したアメリカのテレビのスキャンダリズムや娯楽主義による汚染を危惧する80年代のカナダの市民運動から生まれました。日本ではまだ理解されておらず、情報機器を使いこなす能力だと勘違いされています。
 メディアを使いこなす能力を上げて、送り手が消去した表現上の選択肢を見通すことができるようになって、初めてそれがメディアリテラシーになります。技術的なことも含めて、どんな表現上の選択肢がある中で、他を否定してそれが選ばれたのかも、重要な文脈です。
 かつてこの国にもリテラシー教育がありました。52年にサンフランシスコ講和条約が発効するまで存続した文部省の仮検定教科書には「国語」のかわりに「文学」と「言語」という二科目がありました。前者が文学鑑賞教育で、後者がメディアリテラシー教育でした。
 ところが48年以降に占領政策が変わる。ソ連の核実験が成功し、アメリカは日本を反共の防波堤にする方向に転換します。各方面でリベラルな政策は打ち止め。日本人に思考能力が付きすぎては困るということになり、本検定では「言語」が消え、鑑賞教育だけ残ります。
 占領政策の転換だけでなく、メディアリテラシー教育――イギリス連邦圏ではメディアエデュケーションと言います――の力量をもった教員がいなかったことも大きい。もしもそうした教員がいれば、「文学=国語」だけを残すという政治性に敏感に反応できたはずです。
 かくして頓挫してしまったメディアエデュケーションを復活する必要があります。ただし現在の日本では、単なる復活のみならず、拡張が必要です。すなわち公的コミュニケーションの文脈だけでなく、私的コミュニケーションの文脈にも、敏感さを養わせるべきです。
 と申しますのは、携帯電話――実質は携帯メール機器であり携帯ウェブ機器――というパーソナルメディアが、コミュニケーションのレイヤー(層)をデュアルにすることで、疑心暗鬼化が進んで親友概念さえ変わってしまう、といった傾向が進んでいるからです。
 ある雑誌に私が提案した企画があります。パートナーの携帯電話のログ――通話記録やメール記録――を盗み見たことがあるかどうかという調査です。厳密なサンプリングではありませんが、20歳代だと6割以上がイエスです。これは、悪循環を示す徴候でもあります。
 携帯ログを盗み見れば多くの場合不審な痕跡が見つかります。リスクをヘッジするために相手へのコミットメントを控えようとします。それだけでなく「相手がタコ足化しているなら自分も」とタコ足化します。こうしてタコ足化がタコ足化を呼ぶ悪循環になりがちです。
 友人のプロフサイトやSNSもそうだし、恋人の携帯ログに見つかる不審な痕跡もそうですが、ネットコミュニケーションがノイジーなので対面コミュニケーションにコミットメントできず、その不全感から自分もネットコミュニケーションに乗り出す悪循環も起ります。
 ネット化は公的のみならず私的コミュニケーションも変質させるのです。日本では、私的コミュニケーションが、共同体的な慣れ親しみと表裏一体で、流動性を前提にしたパーソナルな人格的信頼やインパーソナルな人間一般への信頼が乏しいので、特に変質しやすい。
 ちなみにニクラス・ルーマンという社会システム理論家が、近代社会は流動的なので、共同体の非流動性を前提にした慣れ親しみを、流動性を前提にした信頼に置き換えなければならないと言います。その信頼にはパーソナルなものとインパーソナルなものとがあります。
 欧州的伝統では、パーソナルな信頼はロマンチックラブの如き親密性の意味論によって調達されます。インパーソナルな信頼は、一つにはシステム信頼というサンクションメカニズムへの信頼、もう一つには人は一般にこのような存在だという信念によって与えられます。
 昨今のネット化した日本では、親密性の意味論の不在ゆえにパーソナルな信頼も希薄だし、人は一般にこのような存在だという信念を培う社会的経験を意識的に推奨する伝統もない。だからこそ、サンクションメカニズムの整備によって安心を調達しようとするのです。
 人は一般に信頼できるという信念や、何はともあれ信頼できる親密な相手が、存在することで、秩序立って回る社会。そうした信念や親密さが存在しないかわりに、悪いことをすると必ず罰が与えられる仕組みを当てにするがゆえに秩序立って回る社会。どっちがいいか。
 前者は人間への信頼ベースで回る社会で、後者は人間への不信ベースで回る社会です。ネット化がもたらす親密圏の二重化は、人間関係における疑心暗鬼化をもたらし、不信ベースの社会を帰結します。それにどう身構えるかも、重要なメディアリテラシー教育です。
 
【「空気を読め」はいつ生じたのか】
 崩壊してしまったコミュニケーションの共通前提を、代替するべく、ノリへの敏感さを要求する──それが「空気に縛られる」を越えた「空気を読め」という命令文の正体です。実はこの命令文の背景に、「空気」を感じ取れない者たちが現に増えていることがあります。
 たとえば以前ならあり得なかったような学生が出てきています。ゼミで発表する学生に「そんな報告じゃダメだ、それじゃ社会を渡っていけないぞ」などと注意すると、直ちに事務から「人格を傷つけられたと学生がクレームをつけて来ました」と連絡がくる時代です。
 コミュニケーションの共通前提が崩壊したので、擬似的な同じさを作り出すノリへの敏感さが要求されて「空気を読め」となる。同じくコミュニケーションの共通前提が崩壊したので、「空気を読む」ことが手に余る若者たちも出てくる。同一事態の表と裏だと言えます。
 「空気を読め」というメッセージが発せられるようになったのは実は相当な昔からです。私は団塊世代が我々の同世代を「新人類」と呼んだ頃からだと思います。1960年前後生まれが新人類世代です。団塊世代との決定的な違いは、差別化競争に勤しんだということです。
 団塊世代には、前近代の村落を前提とした「土着的な共通前提」の崩壊の埋め合わせとしての、近代の都市集住を前提とした「世代的な共通前提」があります。「我々ビートルズ世代は」「我々全共闘世代は」といった我々意識=集合的アイデンティティーが、典型です。
 新人類世代にはこうした共通前提がありません。ウィリアム・コノリーの「アイデンティティ/差異」という図式を使えば、団塊世代は世代間差異を用いて集合的アイデンティティを構築しましたが、新人類世代の時代には既に世代間差異が消費し尽くされていました。
 そこで新人類世代は、世代内差異を用いて集合的アイデンティティを構築しはじめます。70年代後半から「分かる奴には分かる」「分からない奴には分からない」といった差別化競争に勤しみ、ネクラ/ネアカ、まる金/まるビ、新人類/オタク等の分類を生み出します。
 新人類世代の「分かる奴には分かる」的な差別化コミュニケーションはむろん年長世代にはちんぷんかんぷん。だから彼らは我々を「新人類」と呼んだ。彼らから見ると、我々が共通前提を持たないように見えた、つまり「空気を読めないヤツ」に見えたということです。
 でもこうした差別化コミュニケーションは、同質的な世代の内部に新たな差異の線を引く営みです。だから新人類世代は、線を引くビフォアとアフターを両方知っている。差別化されるプロセスを記憶している。その意味では、明らかに共通前提を持っているのです。
 ところが、後続世代たとえば団塊ジュニア世代では、差別化のための共通前提も消えています。我々新人類世代からみると、後続世代は、新人類世代が苦労して作り出した分類にタダノリしているだけです。そこには差別化に向けたダイナミクス(運動)がありません。
 こうして視界の透明性が、まず世代間で、やがて世代内で失われました。この状態を私は「島宇宙化」と呼んでいます。最初に島宇宙化したのは70年代前半に生まれた団塊ジュニア世代。彼らがハイティーンになる80年代後半から前述したノリへの強迫が生じてきました。
 そこでは「空気を読めない奴」の意味が、世代間で名指す「ワケの分からない奴」から世代内で名指す「ノリに乗れない奴」に変わりました。「ワケの分からない奴」は異なるトライブ(種族)に分類されるだけですが、「ノリに乗れない奴」はイジメの対象になります。
 「空気を読め」化の背景にある、共通前提の崩壊は、教養(自己形成)概念を無効化させました。西欧世界と同じくかつての日本にも「知識人/大衆」の二項図式がありました。知識人とは知的に特殊な自己形成を遂げた者のことで、典型的には左翼の大学人を指します。
 知識人はエネルギーがない代わりに方向性を知る。大衆は方向性を知らない代わりにエネルギーがある。エネルギーがある大衆を、方向性を知る知識人が導けば、社会が良くなる。この図式の前提に、知識人も大衆も社会という同じ舟に乗っているという感覚があります。
 この共通感覚が二段階で崩壊し、「知識人/大衆」図式が消えます。第一段階は60年安保闘争です。知識人の最前線にいる筈の代々木共産党が大衆蜂起に敵対したということで、まず「前衛党/大衆」図式が崩れる。それでも党に所属しない大学人への信頼は続きました。
 第二段階は学園闘争です。東大法学部での丸山眞男研究室の破壊に象徴されるように、学生たちは大学教員たちへの失望をあからさまに表明しました。それでも地元商店街や世間の一部が同情的だったように、知的に堕落していない学生たちへの信頼がまだあり得ました。
 ところがこの最後の信頼も72年の浅間山荘事件であっけなく崩壊します。時系列的ないし歴史的にはこうして「知識人/大衆」図式が消えます。ただ、ヨーロッパには曲がりなりにもある知識人への信頼が、日本で皆無になったことの背景には、理論的な理由があります。
 この理由は日本独特のエリートの成立事情に深い関係があります。ヨーロッパは階級社会なので、ノブレス・オブリージュに対する信頼がエリートを承認します。アメリカは競争社会なので、競争の勝者に対する賞賛がエリートへを承認します。さて日本はどうでしょう。
 日本にはヨーロッパのような階級社会はありませんし、アメリカのような競争神話もありません。日本では全く別の原理でエリートが承認されました。一口でいえば「故郷に錦を飾る」という感受性。黒木和雄監督『祭りの準備』(72年)において見事に描かれています。
 高知県を舞台にしたこの映画のラストで、東京の一流大学に入学するために旅立つ若者を村のヤクザ者が万歳で見送るシーンがあります。泣けます。あの頃の村には自分たちの誉れとして神童を讃える振る舞いが存在し、出奔する神童も期待の重圧をひしひし感じました。
 だから神童がエリートになった暁には故郷の村に恩返しをしたのです。それが集権的再配分という日本独特の近代化図式を支えもしました。日本のエリートに承認を与えたのは階級文化でも競争神話でもなく、村落の共同性でした。書生という概念がそれを象徴します。
 村落共同体が都市化や郊外化によって崩壊したとき、知識人を大衆が承認するメカニズムも失われました。それが先程述べたような、前衛党が大衆的承認から見放され、大学人が大衆的承認から見放され、大学生が大衆的承認から見放される、という時系列を生みました。
 共同性を前提とした承認が失われた結果、承認への応答の動機づけも失われました。その結果、もともと階級的なノブレス・オブリージュはありませんから、公的貢献動機が失われ、モラルハザードが起こります。現在の政治家や官僚の反公共的なあり方が象徴的です。
 私が所属する大学の世界でも同じです。旧制高校の時代にエリートたらん、教養人たらんとした帝大生の凄さに、現在の東大生は足元にも及びません。東京帝大生だった私の父は、理科系であるにもかかわらず、今でもルター訳新約聖書をドイツ語でそらんじられます。
 
【今こそ、新しい知識人が必要】
 知識人とエキスパート(専門人)は分けて考えるべきです。知識人は公的貢献への意欲ゆえに社会的な全体性にアクセスできる存在です。これに対してエキスパートは、専門領域に通暁しますが、社会的な全体性にアクセスする動機づけも能力も持たない存在です。
 社会システムが複雑で流動的になれば、全体性を参照するのは困難になるので、どこの国でも知識人が減ってエキスパートが増えます。それでも、エキスパートだらけで知識人が皆無というのは日本的現象です。全体性を参照する公的貢献動機の枯渇が問題化しています。
 全体性を知らないエキスパートからは「善意のマッドサイエンティスト」が多数生まれます。自分が開発したものが社会的文脈が変わったときにどう機能し得るかに鈍感なエキスパートが、条件次第では社会に否定的な帰結をもたらす技術をどんどん開発していきます。
 バイオの領域でもIT(情報通信)の領域でも、人間であることと人間でないこととの境界線を脅かすような研究が進みつつあります。そうした社会であればこそ、社会的全体性を参照できるような知識人、私の言葉でいえば「新しい知識人」が必要となるわけです。
 新しい知識人は、大衆を導くというかつての課題とは違った課題に取り組む存在です。エキスパートが社会的全体性を弁えないがゆえに「暴走」してしまう可能性を、事前に抑止するような役割を果たす存在です。そうした存在がこれからますます要求されるべきです。
 欧米のノーベル賞級の学者の多くは、大衆向けで分かりやすいものの、極めてレベルの高い啓蒙書を書けます。知識人には専門性を噛み砕いて喋る能力が必須です。そうした能力は公的なものです。日本にそういう学者が数少ないのは、知識人がいないことに関連します。
 理科系だけでなく文科系にも言えます。ちなみに文科理科という区分は後発近代化国だった日本に独特です。サイエンスとリベラルアーツを区別するのが普通で、サイエンスにはナチュラルサイエンスとソーシャルサイエンスが入りますが、日本の区分は違います。
 リベラルアーツは、ヴィンセンシャフトリッヒな伝統──全体性を参照するロマン派的伝統──と密接な関係があります。この伝統はビルトゥンク(教養=自己形成)に関心を寄せます。ビルトゥンクとは全体性に近づくことを言います。日本ではこの伝統がありません。
 だから日本の文科系には、包摂的なリベラルアーツに程遠い専門人がつどっています。この手の輩が、論壇というお座敷で、お座敷だけが期待するお座敷芸を披露しています。芸のネタが政治だろうが軍事や外交だろうが、この手の芸は完全に公共性を欠いたものです。
 たとえば、右翼的な議論にせよ、左翼的な議論にせよ、あまりにレベルが低い。ドイツやフランスの知識人が、日本人がそれを右翼と呼んだり左翼と呼んだりするのを見たら、卒倒するでしょう。こうした体たらくの背景に、ロールモデルの不在があると感じます。
 たとえば、全体性からかけ離れた専門人だらけになるのを危惧するところから、インターディシプリナリ(学際的)の概念が生まれました。でも私の考えでは、学問にはインターディシプリナリはあり得ない。あり得るのはトランスディシプリナリ(横断的)だけです。
 かつて私が教わった小室直樹先生や廣松渉先生は、あらゆる分野の学問に通暁していました。各分野で専門人と対等に議論できました。私はそういう先生を見ていたので、社会学、経済学、政治学、法学など、複数の領域でエキスパートになろうと勉強してきました。
 インターディシプリナリという概念は、専門性とは無関連な視座があるという錯覚を与えます。学的伝統に則して言えば、専門性と無関連な学的視座はあり得ません。複数の専門性を融合することもできません。できるのは、複数の専門性を連関させることだけです。
 全体性にアクセスすべくあらゆる分野のエキスパートになろうという動機づけをもてたのは、私の世代が最後です。私たちには見本がありました。多くの分野で専門性を発揮する凄い先生がロールモデルになりました。そうした先生に感染したことが今の私を作りました。
 感染(ミメーシス)とは初期ギリシアの自然学以来の重要な概念です。日本では感染動機が軽視されています。たとえば教育に関わる三つの動機があります。第一が競争動機。勝つ喜びです。第二が理解動機。分かる喜びです。第三が感染動機。同一化する喜びです。
 日本では、似非右翼が競争動機にばかりに止目し、似非左翼が理解動機ばかりに止目します。でも本来ならば、内発的な情念の連鎖を重視する真性右翼も、共同性への志向を重視する真性左翼も、ロールモデルに憑依される感染動機をこそ、重視しなければなりません。
 
【日本人のよさとは】
 昭和30年代がブームです。続編も作られた『ALWAYS 三丁目の夕日』でも、当時を知らない作り手が、「昔はこんなによかった」とばかりに表現しますが、笑止千万。昭和30年代は、凶悪犯罪、公害問題、薬害問題など、あらゆるものが今より遙かに激烈でした。
 昨今のノスタルジーブームは「いいとこ取り」をしているだけ。指摘しておきたいのは、当時は共通前提を期待しあえたので、それが当てにできないがゆえに互いに過敏に牽制しあう今日の神経質さとは無縁だったこと。それが温かさと粗野さを同時に可能にしました。
 今日では凶悪犯罪も公害問題も薬害問題もずっと緩和しました。その意味で粗野さがなくなりました。代わりに相互牽制の神経質さがはるかに増大しています。たとえば犯罪件数は激減したのに、犯罪不安だけは増す一方です。当てにできる共通前提の消滅が原因です。
 不安はマスメディアにとっての最大のエサです。潜在的な不安があれば、不安を煽って視聴率を増やす戦略をとります。その結果、犯罪が増えていなくても、人々の不安だけが膨らむことになります。その延長線上に重罰化や監視カメラを要求する世論が盛り上がります。
 メディアリテラシーの蓄積がない状態でメディアの流す情報を浴びると、ものすごく単純な仕掛けが面白いように効いてしまいます。これは日本の社会を駄目にしかねません。日本人はマスメディアや統治権力の言うことを、真に受けない狡猾さが必要です。
 日本の国家ならざる社会を護持しようと思えば、日本人的な素朴さを克服しなければいけません。しかし、そのようにして生き残った戦略的な日本人は、日本人と呼べるのか? そこで出来上がる社会は、日本社会と呼べるのか。江藤淳はこの問題を考え続けました。
 「オレオレ詐欺」に田舎のお年寄りが騙される。アメリカ的発想では無防備さが批判されます。徹底的に研修して社会の複雑を学ばなくてはならないという処方箋になります。そうすれば自己防衛能力が高まり、「オレオレ詐欺」に引っかかるお年寄りは確かに減ります。
 でもそれでは日本人が日本人の良さを失うことになるかもしれません。日本社会ならではの匂いを失なってしまうことかもしれない。そうなると、とりわけ日本に住みたいとか、日本のために貢献したいという意欲を削いでしまう可能性もある。そこでエリート主義です。
 つまり、日本社会を護持するための戦略や免疫は必要だけれど、それを万人が身につける必要はありません。それを身につけるべき存在をエリートと呼べましょう。エリートは、無防備なお年寄りでも騙されずに生きられるような社会を設計して実現する責務があります。
 ここでいうエリートも先程述べた「新しき知識人」です。古典的な知識人とは違い、大衆を啓蒙的に導く存在である必要は必ずしもない。それは不可能であるか有害であるかです。むしろ『ライ麦畑でつかまえて』の主人公が「夢想」したような存在であるべきです。
 でも村上春樹氏が指摘するように、主人公コーンフィールドは「志は高くて、行動は滑稽な」アンチヒーローです。だから主人公が夢想するのが〈世界〉への関与なのか〈自己〉への関与なのかが微妙になります。そうした自己のために社会を滅ぼす存在ではいけません。
 〈自己〉への関与が同時に〈世界〉への関与でもあるような、あるいは〈世界〉への関与が同時に〈自己〉への関与でもあるような、ありそうもない道を、辛うじて辿り得るような、相互牽制メカニズムが必要です。さもないとセカイ系の妄想に頽落してしまいます。
 そうしたセカイ系の妄想に駆られた失格リーダーの典型が安倍晋三でした。私は安倍晋三のことを「マスターベーション右翼」と呼んできました。彼は上杉隆氏が『官邸崩壊』で指摘する通り、戦後保守政治の暗黙知に全く無知であるがゆえに暗黙知を破壊した張本人。
 この手の輩が保守を自称するのも笑止なら、自称を真に受ける人々がいるのも笑止です。内政にしろ外交にしろ世の中がどう回っているのかに無知な無教養者が、保守であろうはずがない。手打ちの意味も知らず、感情のまま世の中をいじる男は、単なるセカイ系です。
 具体的にいえば、官房長官は官邸と政治家を媒介する存在で政治家の覚えが悪ければ機能しない。にもかかわらず、塩崎恭久をあてた。官房副長官は官邸と霞ヶ関を媒介で官僚の覚えがめでたくなければムリ。にもかかわらず、官僚たちから軽蔑される的場順三をあてた。
 政治がどう回っているかも知らない。社会がどう回っているのかも知らない。なのに自分を保守だと思っていて、これが保守だという主観的イメージ通りに行動するだけ。その結果、外交では六カ国協議から外される屈辱。内政でも憲法改正を十年以上遠のかせました。
 要は内政も外交も手打ちであることを知らない。手打ちとは感情的納得とは無縁なことも知らない。感情的に納得できないことについて互いの未来を考えて契約するのが手打ちで、契約とは自由意志に基づく自由意志の制約です。彼は感情と意志の区別さえできていない。
 という具合に私は安倍を批判してきましたが、彼が下痢が止まらなくなって急遽首相を辞めることになったとき、悪い人じゃないんだろうな、可哀想だなと同情もしてしまう。かつて亜細亜主義者の大川周明が言っていたように、これは脱二元論的な日本人の感情ですね。
 つまり「鬼の目にも涙」。善悪白黒つける二元論じゃない。いっときは二元論で善と悪を裁断していても、文脈が変わると「みんな同じ人間」と寛容になる。ところが安倍晋三はかつての蓑田胸喜と同じく単細胞な二元論者でした。こういうのを保守と呼んではいけない。
 安倍晋三だけでなく昨今はこの日本でも二元論が支配しがちです。二元論者は曖昧なものを見ると不安になりがちです。なので二元論者は複雑で流動的な社会になるほど不安ベースで行動しがちです。昨今の日本にそうした傾向が現実化しているのではないでしょうか。

【今こそ歴史を学ぶべき】
 日本人はもっと歴史を学ぶべきでしょう。ただし歴史教育であれば中身が問題です。歴史教育の目的は戦略的思考を育てることにあります。ところが今の日本では歴史的人物や歴史物語に焦点をあてるだけ。歴史は単なる物語と違い、カタルシスを与える娯楽ではない。
 過去は単に物語として鑑賞するべきものではありません。史実をもたらした偶発性を知るべきです。過去にどんな選択肢があり、どれが採用されたから史実が実現したのかを知るべきです。その意味で、「歴史にifはない」にもかかわらず、やはりifが重要なんです。
 その典型が敗戦国がなすべき「失敗の研究」ないし「敗戦の研究」です。この種の歴史把握の目的は、史実の背景にある文脈に敏感になることです。文脈を参照しつつ史実の物語性を割り引く。割り引くことで、私たちが学習可能な選択連鎖へと史実を分解するわけです。
 昨今の「KY問題」が突きつけているのは、共通前提の崩壊がもたらした過剰不安と、不安の埋め合せへの過剰要求です。それらのせいで截然とした二元論が要求されがちです。その結果、極端から極端へと民意が振れます。その意味で民度がかつてなく低下しています。
 民度を上げるには、歴史の文脈、マスメディアの文脈、そして日常的コミュニケーションの文脈を読み取ることで、内容を割り引く、即ち真に受けないようにするための能力が必要です。この能力をメディアリテラシーと言うことを、改めて確認しておきたいと思います。
 ちなみに、文脈を参照して内容を割り引くことを「批判」と言います。批判というと日本では攻撃と勘違いされがちですが、違います。批判とは、隠されていた前提を明るみに出し、前提を取り替えると成り立たなくなることを証明して見せる営みのことを言うのです。


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 みやだい・しんじ 59年3月3日、仙台市生まれ。東京大学大学院博士課程修了。現在、首都大学東京教授。社会学博士。政治思想、教育問題、国際政治など、幅広い分野で評論活動を行う。著書に『制服少女たちの選択』『まぼろしの郊外』など多数。301

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