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教育基本法が変わるが 現場で教師が思っていること  【SENKI】
http://www.asyura2.com/07/senkyo29/msg/371.html
投稿者 愚民党 日時 2006 年 12 月 26 日 02:54:03: ogcGl0q1DMbpk
 

http://www.bund.org/culture/20061215-1.htm

職場から

教育基本法が変わるが

現場で教師が思っていること

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日本には12万人の留学生がいる大半は中国人だ

下崎義夫

 わたしのように在日外国人に日本語を教える仕事をしている者にとっては、1983年というのは特別な意味を持つ年だ。時の首相中曽根康弘が、「21世紀初頭までに(当時の)フランス並みに約10万人の留学生を受け入れよ。そのために総合的な留学生政策を推進せよ」と、役人たちに大号令をかけた年だからだ。以来、日本の大学院・大学・短大・専門学校で学ぶ留学生の数は確実に増え続け、2003年には目標数値である10万人を突破、日本学生支援機構(JASSO)の調査によると、2005年の段階で12万1812人に達した。今年はもっと増えているだろう。

 ここで注目したいのは、留学生の内訳だ。留学生とは留学ビザを取得している者を指すが、これには卒業証書の取得を目的とする長期留学生と、卒業証書の取得を目的としない短期留学生がいる。また別に、各種学校扱いの日本語学校で学ぶことを要件に、日本滞在を許可されている就学ビザの取得者もいる。彼らは制度上、留学生ではなく就学生と呼ばれる。彼らも卒業志向型就学生と非卒業志向型就学生に分かれる。前者は日本語学校修了後、高等教育機関に進学しようとする意欲を持っている者だ。

 政府が留学生受け入れ拡大の具体的なイメージとしたのは、世界各国から多くの留学生が集まり、その反対に多くの日本人留学生が世界各国に散らばっていく姿、いわば非卒業志向型留学生をメインとする牧歌的な国際交流の光景だったと思われる。

 だが、いざフタを開けてみると、そうはならなかった。非卒業志向型留学生も増えたには増えたが、爆発的に増えたのは何と言っても卒業志向型留学生、しかも中国人留学生だった。その数は、現在、留学生全体の約3分の2を占める。第2位の卒業志向型韓国人留学生が約10分の1程度であることから見ても、その数は突出している。1980年代以前は、中国人の姿を日本で見かけることは珍しかった。その時代がフィクションであるかのように、現在では高等教育機関のある所なら全国どこでも中国人、しかも卒業志向型中国人留学生の姿を目にする。

 どうして、このような現象が生じたのか。まず、中国の経済発展に伴う高学歴志向の高まりに中国国内の高等教育機関の受け入れシステムが対応しきれず、毎年、大量の進学失敗者が生まれるようになったことがあげられるだろう。彼らの多くは英語圏への留学という選択肢を取ろうとするが、家庭が裕福で英語能力が高いならともかく、そうでない者は別の国を捜すことになる。その時に、同じ儒教・漢字文化圏に属し、距離的にも非常に近い経済大国、しかも在学中のアルバイトが許可されやすい日本が、留学先の「第二志望」「第三志望」として浮かび上がってくるのだ。

 日本の高等教育機関の多くは、少子化と新設校の乱立によって、日本人学生のみで定員を確保するのが難しくなっている。これらの高等教育機関の運営者たちにとって、大都市に限らず、どこにでも来てくれる中国人留学生は実に有り難いお客さんだ。需要と供給とは見事にマッチしたのである。もちろん、彼らの全員が中国での進学失敗経験者というわけではない。非常に優秀で志の高い者が少なくないのも事実である。

中国人留学生の現実

 卒業志向型中国人留学生の大量出現は、どんな社会的現実をもたらしたのだろうか。アルバイトで学費・生活費の相当部分を稼ぎながら、ごく一般的な非有名大学の文科系学部に通う私費留学生をイメージしてみよう。彼らの大部分は、いきなり日本の大学に入ることはできず、来日したらまずは日本語学校、または大学留学生別科に入学する。そこで基礎的な日本語能力を身につけるのだ。

 大学留学生別科の学生は留学ビザを取得するが、彼らの実態は就学生と同じ留学生の予備軍だ。今や、彼らがいなければ日本語学校や大学留学生別科の多くはたちまち存続の危機に追い込まれ、そこで働く日本語教師も失職の危機にさらされるだろう。定住外国人に対する学習支援に取り組む日本語教師はボランティアが原則だ。中国人留学生の予備軍が、高い学費を日本語学校や大学留学生別科に支払ってくれるからこそ、多くのプロ日本語教師は食べていけるのである。

 その結果、飲食店や工場の確固たる人材供給源が生まれた。いくら中国の経済発展が著しいとはいえ、日本の大学で学ぶ中国人留学生の大多数が裕福な家庭の出身というわけではない。それどころか親戚中から金を借り集めて、やっと高い学費・生活費の一部をまかなっているという学生が少なくない。そんな彼らにとってはアルバイトは命の綱だ。

 アルバイトといっても、デスクワークの仕事が見つかるチャンスはほとんどない。飲食店や工場で働く。彼らは時給さえ高ければハードな現場労働も長時間こなすし、基礎的な日本語能力は持っているので、慢性の人手不足に悩む使用者にとっては貴重な人材だ。遊ぶ金ほしさに働く日本人学生とは性根が違うのである。

 だがそのために、不法就労や犯罪に走る中国人が増えたともいえる。日本人学生と比べればたくましいとはいえ、最近の中国人留学生は一昔前に比べて精神的に脆くなったともいえる。一人っ子の「小皇帝」として、小さい頃から周囲の大人たちに、ちやほやされて大切に育てられたためだ。そんな彼らにとって、異国の地で肉体労働のアルバイトに明け暮れながら学生生活を送るのは、実に大変なことなのだ。

 しかも日本では、どんな地方都市に行ってもゲームセンターやショッピングセンターといった刺激的な遊興世界があちこちにある。アルバイトや遊興にのめりこんで大学に行かなくなったとしても、注意してくれる親兄弟はそばにいない。彼らの中から中途退学者が生まれ、更にその中から不法就労者や犯罪者が生まれてくるのは自然の流れなのだ。

 それが何らかの形で発覚するとマスコミで取り上げられるので、一般に中国人留学生と言えば、不法就労者か犯罪者の予備軍と思われがちで、どうしても社会的イメージは低くなってしまう。しかも日本人学生の確保に四苦八苦している大学は、日本語能力の十分ではない中国人でも卒業志向型留学生として受け入れる傾向がある。そのため、留学生の予備軍から、正規の留学生へとステップアップするためのハードルは全体的に低くなっている。留学生になってからも、日本語能力が伸びていかない者は珍しくない。彼らを対象とした民間の各種サービスは充実しているし、彼ら自体のネットワークもしっかり確立している。

 その環境をうまく利用してしまえば、特に高度な日本語能力がなくても日常生活を送ることはできるのだ。例えば、里帰りするための飛行機のチケットなどは、中国人留学生をお得意先とする旅行会社を通じて購入すれば、中国語で用が足りる。日本語を話す必要がないのだ。困ったことが起きれば、自分よりも日本語能力のすぐれた同胞に手助けを頼めばよい。この点は、日系ブラジル人を始めとする南米人就業者の場合と事情は似ているだろう。

異文化交流の難しさ

 こうした中で、わたしが一番力説したい事態がもたらされている。日本人の教員・学生と中国人留学生との相互忌避の常態化である。一般的に言って、日本人の大学教員は純粋培養的に象牙の塔の中でずっと暮らしてきたため視野は狭く、ものの考え方は柔軟性に欠けている。海外留学の経験も乏しく、海外に目が向いているとしても欧米一辺倒で、アジアそのものに対する関心も薄い。そのため、彼らにとっての中国人留学生のイメージは、「暇さえあれば肉体労働のアルバイトをしていて」「一歩間違えば不法就労者か犯罪者になりかねない」「日本に住んでいるくせに日本語能力が不十分な」連中だ。だから簡単に言うと、できればかかわりあいたくない、得体の知れぬエイリアンみたいな連中になってしまう。

 だが魚心あれば水心ありで、その反対も言える。高い学費を払っているのに講義時間を平気で短縮し、無味乾燥で実用性に乏しい話を、計画性もなく一方的にだらだら喋りまくる、しかも自分たち中国人留学生を白眼視する、そんな日本人教員に対して中国人留学生が好感や信頼感を抱くはずがないのである。

 しかも相互忌避は、教員の場合と似たような理由で、日本人学生と中国人留学生の間にも見られる。歴史観を始めとする様々な価値観、それに言語・文化・生活習慣などの違いがここに絡んでくる。日本人学生は日本人学生同士、中国人学生は中国人学生同士で固まって小さなシマ宇宙を作ってしまうのだ。これでは中国人留学生は日本人の友人をキャンパス内で作ることなど難しい。

 中国人留学生は表立ってはなかなか不平を漏らさない。「先生たちには期待しない。日本人の学生と友達になれなくてもいい。卒業証書さえ手に入ればいいんだ。そう考えれば日本の大学はラクでいい」と開き直ってしまうのだ。そのため、この現実が表面化するケースは少ないし、マスコミにも取り上げられない。しかし、留学生の数が12万人を超えた日本社会の一側面なのである。

 わたしはこの現実を打開するには、日本人の教員・学生と中国人留学生の双方に、心の入れ替えが必要だと思う。中国人留学生に求めたいのは、まず、必要以上のアルバイトを慎むこと。学費・生活費をアルバイトでまかなっている間はいい。だが、欲を出して日本人学生顔負けの遊興費をアルバイトで稼ぎ出そうとすると、中途退学者から不法就労者、ひいては犯罪者へという転落コースが大口を開けて待っているのだ。そして総合的な日本語能力にもっと磨きをかけること。その国の言語の運用能力を向上させようという意欲に欠ける者が、卒業志向型留学生とはみなされないのは、世界のどこに行っても同じだろう。

 そのためには地味で孤独なデスクワークの積み重ねは欠かせない。日本人のアルバイトスタッフとのやり取りを通じて獲得した会話能力程度で、満足してもらっては困るのだ。

 わたしもかつては日本国外で学ぶ卒業志向型留学生だったので、この点は確信を持って言える。また、自国の生活習慣を愛するのもいいが、例えば「中国料理はとてもおいしいけど、日本料理はまずい」などと、日本人に対して平気で言ってのける態度は改める必要があるだろう。

 そして日本人の教員・学生については、中国人留学生以上に心の入れ替えが必要だろう。彼等は言語から生活習慣に至るまで、母国とはまるで異なる環境下で苦学生として大学を卒業しようとしているのだ。彼等は日本人並みというには程遠いにしても、ほんの数年で日常生活に困らない程度の日本語能力を身につける。そんな彼らに対して、どうして素直に敬服の気持ちが持てないのか。わたしには日本人の教員・学生は嫌中意識の対象として中国人留学生を見つめ、中国の言語・文化・生活習慣などに対してたいした関心を抱こうとしてないと思える。この点を根本的に改めなければ、事態は何も改善しないのだ。

 わたしは中国に限らず、どの国・地域・民族の学生を教える場合であっても、彼らの母語の挨拶言葉や、いくつかの基本単語くらいは発話できるようにしておく。また、特有の文化・生活習慣もひととおりチェックし、余裕があれば有名人の名前を一人や二人は覚えておく。日本が多文化共生社会の実現を目指している以上、外国人に日々接する日本人ならば、この程度のことはやって当たり前なのである。

 こうした現実の打開は、大学の運営者や教育行政に携わる役人たちにも求めたい。留学生が生活苦に追いやられないように、学費減免制度・奨学金制度を充実させたり、留学生対象の日本語クラスをもっと拡充する必要がある。卒業志向型留学生の出身地が、中国を含むほんの数か国・地域にほぼ限られている現状を冷静に分析し、より多くの国・地域から卒業志向型留学生が続々と現れるように、大学の教育システムそのものにメスを入れるべきだろう。

 日本人の教員・学生と中国人留学生との相互忌避の常態化。この問題が解決されない限り、たとえ留学生の数が20万人、30万人になろうとも、日本は留学生受け入れ後進国から脱却することはできない。相互理解・相互尊重を基礎とする多文化共生社会の実現などは絵空事のままだ。

(大学留学生別科教員)


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職務命令と内心の自由のはざまで

寺町 京

 私は教育の現場で25年間高校生に接してきた。現在は私立高校に勤務しているが、以前は公立高校に勤務していた。その現場で変わっていることがある。1990年代末には卒業式や入学式に「日の丸」「君が代」が導入され始めてはいたが、まだ校庭のポールに限られた時間日の丸が掲げられる程度で、君が代の斉唱や日の丸の式場への導入は見送られていた。状況が急転するのは、私が公立高校を辞めた後の最近数年間のことだ。

 「国旗・国歌法」はいたってシンプルな法律である。第1条「国旗は、日章旗とする」第2条「国歌は、君が代とする」これだけである。法律というものは条文が簡略・明瞭に表記されたものであるほど、解釈に「拡がり」が生まれる。制定者はそのことを見越していたのかもしれない。

 教育における日の丸、君が代の問題には、さまざまな議論がある。なかでも、議論が集中するのは「内心の自由」との関係であろう。憲法は第19条で「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」と、内心の自由を保障している。そして、通説では内心の自由は、絶対的に保障されねばならぬものと理解されてきた。

 「日の丸・君が代を国旗・国歌とは認めない」「掲揚や斉唱の強制は断じて許さない」「そもそも国旗・国歌は必要なのか」など、強制反対の意見はいずれも内心の自由の保障に依拠した人権主張である。

 しかし、一方で「国旗・国歌法」が内心の自由の絶対的保障を規定する憲法の下で、1999年8月国内法として制定された。条文を読む限り、憲法の条文との間に矛盾は見られない。西欧近代に生まれた立憲主義は、権力の「暴走(濫用)」を国民(市民)の手で抑止する手段として憲法を法体系の最上位に位置づけ、それ以外の国内法と明確に区別している。そのうえで、憲法の人権保障を現実の生活のなかに具体的に適用してゆくために、さまざまな国内法が整備されている。立憲主義は国民(市民)からの命令を憲法を通して権力に義務付ける。

 その命令を遵守する限りにおいて、権力は国民(市民)に法律を通して命令を発することができる。法の支配の原理の下での法治主義の適用である。

 私は一貫して、日の丸、君が代には全面拒否の立場に立ってきた。関連で、年号も元号使用に断固拒否の姿勢で臨んできた。因みに、1979年6月に制定された「元号法」も大変シンプルなもので、「1元号は、政令で定める」「2元号は、皇位の継承があった場合に限り改める」とあるだけだ。

 人間や社会を見るうえで、私が最も大事にしてきた言葉が二つある。一つは「空を飛ぶ鳥の眼を持ちつつも、常に地を這う虫の眼で人間や社会を見つめ続けること」、もう一つは「自分の出自を裏切らぬこと」だ。私は理屈っぽく、気難しい性格で、理念ばかりが先に立ち、言動に行動が伴わぬところが多分にあるが、学生時代から己の譲れぬ一線だけは堅持して、政治や社会と対峙してきた。

 憲法改正や教育基本法改正等、愛国心を声高に叫ぶ政治家や財界人、知識人が目に付く。テレビを始め、週刊誌等大手メディアが、彼らの声を一層大きなものに拡声する。背景には、それを支持し、煽り、煽られる世論=大衆の存在がある。ポピュリズム=大衆迎合主義とは正に、このように権力者が大衆を操り、大衆に権力者が操られる社会状況をいうのであろう。

 権力の頂点に立つ人間=首相が憲法の条文を都合よく引用=つまみ食いしながら、私の心の問題、私の表現の自由を、政治行動=権力行使の根拠に利用(濫用)した。米国に(のみ)従順な人間たちがアジアには尊大になり、国民には愛国心を強要する。少なくない国民がそれを良しとし、疑問を抱くことなく受け入れ、さらに積極的に支持すらするのが、この国の現状だ。

 そうしたなかで、私は最近、日の丸、君が代、元号に対する自分のありかたを見直そう(変えよう)かと思案し始めている。自分が生まれ、育ち、生きてゆくこの国の歴史(過去)を真面目に受け止めてゆく(断じて、水に流さぬ、忘れぬ)ために、歴史(過去)を背負うものとしての日の丸、君が代、元号の存在を自らの意思で敢えて自分に受け入れてゆく。

 それらが現にあるという現実を認め、自らの納得のうえで、それらの掲揚・斉唱・使用等に対応してゆく。

 そのうえで、強制には断固反対の意志を貫き、一人ひとりの判断に委ねられる「隙間」を死守することで、内心の自由を守り抜く。それが最も誠実に歴史=時代を生きることではないか、私は今、そう考え始めているのだ。

 国会による教育基本法の改悪が目前に迫っている。私にとって最後に残る難題(アポリア?)は、職務命令等による君が代を歌えという強制=一種の踏み絵を突きつけられた時に、どう対応するかだ。この問題に本紙読者はどう考えられるだろうか?

(高校教師)


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