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松岡正剛の千夜千冊  カール・フォン・クラウゼヴィッツ  『戦争論』
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投稿者 愚民党 日時 2007 年 2 月 17 日 06:29:24: ogcGl0q1DMbpk
 

(回答先: 松岡正剛の千夜千冊  エドガー・スノー  『中国の赤い星』上・下 投稿者 愚民党 日時 2007 年 2 月 17 日 06:20:51)

カール・フォン・クラウゼヴィッツ
『戦争論』
1965 徳間書店・1979 岩波書店・2001 芙蓉書房出版 他
Karl von Clausewitz:vom kriege 1832
淡徳三郎 訳


 いま戦争論については何が読まれているのだろうか。リデル・ハートの大著『戦略論』やジョン・キーガンの『戦略史』なのか、いまもってウィストン・チャーチルの第二次世界大戦論なのか、あるいは松井茂の軍事学講座? それとも小林よしのりや田原総一郎なのか。

 ぼくがおもうには、歴史的な戦争論は二つの記念碑的な労作に挟まれている。カール・フォン・クラウゼヴィッツの古典的な『戦争論』とロジェ・カイヨワの新機軸の『戦争論』である。二つの戦争論のあいだに読みたい戦争論があるはずだが、そういうものはまだ世の中に生まれていない。

 もっとも二つの戦争論を同じように読むことはできない。カイヨワの戦争論は社会生物学あるいはゲーム論のように読むべきで、カイヨワの『本能』や『反対称』などとの併読はいくらあってもいいが、そこにカイヨワその人の人生を投影する必要はない。しかしクラウゼヴィッツを読むということは、クラウゼヴィッツその人の人生を時代とともに読むことでもある。そこがまったく違っている。しかもクラウゼヴィッツの人生をその時代の変移とともに理解するのは、それはそれでけっこう難しい。

 クラウゼヴィッツは1780年のプロシア王国のマグデブルクに生まれている。少年期にプロシア軍に入ったのち、ナポレオン戦争で皇太子アウグストの副官になっている。ところが1806年のイエナの会戦で決定的な敗北を喫し、皇太子ともども捕虜にさえなった。

 この屈辱が『戦争論』を書かせた。そういえば簡単な話に聞こえるが、そうもいかない。クラウゼヴィッツが捕虜になっているあいだに考えたことは、フリードリッヒ大王以来の歴史と栄光に輝くプロシア軍が雑兵でかためたとおぼしいナポレオン軍に完敗したのはなぜなのか、いったい何がプロシア軍の誤謬であったのかという疑問なのだが、そこに「プロシア軍」(プロイセン軍)というイデアが生きていることがクラウゼヴィッツを読むばあいのキーになるからだ。

 プロシア軍とはどういうものか。だいたいプロシア(プロイセン)という国は何かというと、実はドイツではない。ドイツにはプロシアという地方はない。すべての話はそこから始まる。

 プロシアはもともとは10世紀後半に神聖ローマ帝国が出現したときに、スラブ人の侵略に対する防壁として東北部に設置されたブランデンブルク辺境州をひとつの起源にもっている。そこにブランデンブルク辺境伯が誕生し、1356年に選挙侯も登場した。やがて1415年のコンスタンツ宗教会議の席上で、辺境伯と選挙侯の位がニュールンベルク城主であったフリードリッヒ・フォン・ホーエンツォルレンに授与される。それがひとつのルーツである。ただし、ここにはプロシアという名称はない。

 もうひとつの起源はドイツ騎士団にある。1280年に長きにわたった十字軍の活動が終わり、聖地エルサレムの防衛に活躍したドイツ騎士団は神聖ローマ皇帝からバルト海東岸でヴィスラ河の東の領地を贈られた。

 これがプロシアの発現なのである。

 ところがドイツ騎士団はそのころ東欧中部から勢力拡張を試みていたポーランド王国とぶつかるようになり、1401年のタンネンブルクの戦いで敗れてしまう。このとき領土プロシアの西半分が奪われる。そこでホーエンツォルレン家の支流の一族にあたるアルベルトが騎士団長となって、なんとか確立を急ぎ、1525年にプロシア公が生まれたのだった。ただし、このときのプロシア公はまだポーランド王の承認を必要とした。すなわちポーランド王国が宗主国だった。

 以上の二つのプロシアのルーツはホーエンツォルレン家によって交じっていく。ここまでが前史にあたる。

 次のステージは三十年戦争である。このときドイツの諸侯は旧教カトリックと新教プロテスタントに分かれて、全土を巻きこむ内乱をしつづけた。30年にわたる関ヶ原である。

 全土が焦土と化しつつあったとき、いちはやく領土の復興に立ち上がったのがブランデンブルクの大選挙侯とよばれたフリードリッヒ・ウィルヘルムだった。ウィルヘルムは領土に駐留していた神聖ローマ皇帝軍やスウェーデン軍をたくみに駆逐して、三十年戦争終結のためのウェストファリア条約で、一挙に領土の拡張を勝ち取った。のみならず、スウェーデン・ポーランド継承戦争でポーランドが敗れたのをきっかけにポーランドからの自立を獲得し、ここにブランデンブルクとプロシアを合併した。

 このウィルヘルムの後を継いだのが、最初のプロシア王となったフリードリッヒ大王(1世)なのである。かくて1701年、プロシアの国家システムを決定する根本計画が発表される。これを歴史家はしばしば「プロイセン・プログラム」とよんでいる。

 クラウゼヴィッツの戦争イデアはこのフリードリッヒ大王の中にある。なにしろこの大王は著作だけで25巻にのぼっている。

 ヴォルテールとの交流、マキャベリズムに対する反対の意志、近世国家というものに対する最初の壮大な構想など、クラウゼヴィッツを夢中にさせるにありあまる魅力をもっていた。それだけでなく、この大王のもとにプロシア王国は非のうちどころのない官僚制と完璧な行政機構とそして偉大な軍隊をつくりあげたのだ。

 これはプロシアに「民族性」というものがなかったか、もしくは希薄だったことに関係がある。プロシアは合成国家であって、人工国家なのである。ミラボー伯はこういうプロシアを、こう批評したものだった、「他の国々は軍隊をもっているが、プロシアでは軍隊が国をもっている」。

 こういうプロシア軍の伝統がナポレオン軍に無惨に敗退してしまったのである。愛国者クラウゼヴィッツはショックだった。

 そこでクラウゼヴィッツは休戦後に帰国して、士官学校時代の校長でもあった参謀総長シャルンホルスト将軍に接近し、プロシア軍の軍制改革にとりくんでいく。まだナポレオン戦争はつづいていて各国のいわゆる解放戦争が後段にくるのだが、クラウゼヴィッツはなんとかそれまでに軍事体勢をたてなおしたかったらしい。

 しかし、まもなく戦争はセントヘレナに流されたナポレオンの宿命をもって、あっけなく終結をする。こうして終結時の1818年、クラウゼヴィッツはベルリンの士官学校の校長に就任し、以降、12年にわたって著作に没頭することになる。

 研究の眼目はフリードリッヒ大王のプロシア軍の戦史とナポレオン戦争の戦史を比較し、新たな戦争論をおこすことだった。クラウゼヴィッツは確信する。「戦争とは、他の手段もって継続する政治の延長」であり、「自国の意志を相手に強制する暴力行為」であることを。

 すでによく知られていることであるが、クラウゼヴィッツの戦争論の特徴は、「戦略」(ストラテジー)と「戦術」(タクティクス)を明確に分離させ、戦争準備としての「兵站」(ロジスティクス)を浮上させることにある。

 このことを刻印するため、クラウゼヴィッツは実に多様な戦争の特性を定義づけていく。いろいろ書かれているが、少し順番を変えて、プロシア人独特のクラウゼヴィッツの指摘だけを紹介する。まず戦争には2種類があるという。

 ひとつは敵対者の打倒を目的とする戦争である。もうひとつは敵対者の国境になにがしかの領土を占拠するための戦争である。クラウゼヴィッツはこの二つはまったく別個の戦争であって、その折衷は決してありえないと断じた。ようするに「敵軍撃滅」か「要城占拠」のどちらかなのだ。

 この“教え”は、たとえば、第二次世界大戦でドイツがソ連を叩くにあたって、レニングラード正面・モスクワ正面・ウクライナ正面の3正面作戦を採った失敗によって、クラウゼヴィッツの名を有名にした。

 戦争の目的と終結についても、断定的な定義をくだした。戦争の目的は「敵の打倒」そのものにあるが、その敵の打倒とは「敵の抵抗力の剥奪である」とみた。しかし、いくら敵の戦力を剥奪し、いくら占領しても敵の意志が屈服しないときがある。そのときは「講和の強制」をもってこそ戦争目的の達成とし、戦争を終結に導くとした。逆に戦争に屈服したくなければ、絶対に講和条件を呑んではダメだということになる。これを実践したのがチャーチルである。チャーチルはヒトラーの講和の呼びかけを拒否することで戦争終結を避け、ついに逆転に成功してみせた。

 クラウゼヴィッツは「戦争の才能」にも言及した。これは従来の戦争論になかった興味深いもので、これを読んで軍事の天才をめざした軍人が少なくなかった。クラウゼヴィッツは戦争の才能はひとえに「多様な摩擦を乗り切る才能」だとみなしたのである。

 戦争にともなう過度の摩擦には、相手の攻撃による打撃、つねに身体にともなう危険、兵器調達にともなう摩擦、資金の遅滞による摩擦、戦争時における情報の不確実性、部隊の行動の狭隘性、戦争時に発生する偶然性(天候その他)など、いろいろがある。軍事上の天才とは、これらの戦争にともなう多様な摩擦をすべて克服するに足る“異常な素養”をもつ者のことだというのだ。

 異常であるしかない。それがクラウゼヴィッツが軍人や将軍に与えた才能というものだった。

 しかしこの才能がどのように磨かれるのかというと、意外にもクラウゼヴィッツは「守勢の徹底が才能を磨く」と考えている。すなわち「防御は攻撃よりすぐれた手段なのである」。なぜなら、どんな守勢も、防御に徹しようとすれば、必ず攻撃的諸動作を併発するはずで、それによって軍人や将軍はたえず敵の攻撃を読む姿勢に入れるからである。かつ、攻撃は想像力を鍛えないが、防備は想像力を鍛えてくれる。

 こうして「自発的退軍も敵を消耗させる有効な戦術である」というテーゼが導き出された。このあたり、ディフェンスを重視する最近のサッカーや野球にもあてはまる。

 ぼくはクラウゼヴィッツの『戦争論』を古典読書としてたのしんだ。大学生のころで、マルクスやレーニンやトロツキーを読む者はたいてい読んでいたのではないかとおもう。この本は『君主論』や『マクベス』や『白鯨』のような意味での古典だったのだ。

 しかし、軍人たちにとっては本書はそういうものではなく、まさに実践に頻繁に応用された。書物にはそういう恐るべき実用力もある。ゲーテの『若きウェルテルの悩み』だって、チョッキを流行させたのだ。

 そういうことはともかくとして、ごく一般的なことをいうと、クラウゼヴィッツの『戦争論』は、野戦軍主力部隊の撃滅を目的とする“決戦戦争”を鼓吹するものとうけとられ、南北戦争から第一次世界大戦、第二次世界大戦を通して、大いに流行を生んだのである。クラウゼヴィッツの『戦争論』によって戦略計画をたてること、それが流行した。

 戦争開始の計画はそれで立つのだが、実際の戦争が始まってみると、“決戦戦争”にはなかなか到達しないことがわかってきた。とくに20世紀の戦争は大半が持久戦か総力戦になる。持久戦と総力戦が現代の戦争の特徴なのだ。これはクラウゼヴィッツが予想していなかったことだった。プロシアとナポレオンの時代は、そういう時代ではなかったのである。

 こうしてクラウゼヴィッツ理論は立案には生かされるものの、しだいに戦争の進行途中からは放棄されるようになった。そして、「補給ルートの遮断」「軍需産業の拠点破壊」「策源地の機能喪失」といった新たな戦略が適用されるようになった。湾岸戦争でアメリカがイラクの軍需産業の拠点を徹底して爆破する攻撃に出たのは、クラウゼヴィッツにはなかった作戦だったのである。もうひとつクラウゼヴィッツが予想していないことがあった。情報戦である。きっとクラウゼヴィッツは、こんな戦争などしたくないと思ったにちがいない。

 クラウゼヴィッツ『戦争論』は今日の日本にはほとんど用無しのものになっている。日本が戦争を放棄しているからではない。クラウゼヴィッツは「戦争は政治の本質である」とみなした理論が、日本にまったくあてはまらなくなっているからである。

参考¶ぼくは徳間書店の『戦争論』で読んだのでほかの翻訳書のことは知らないが、おそらく最も手に入りやすく読みやすいのは岩波文庫版だろう。上中下の3冊になっている(篠田英雄訳)。ほかに現代思潮社が清水多吉訳で刊行している。『戦争論』解説書には、大橋武夫『「戦争論」解説』(日本工業新聞社)、井門満明『「戦争論」入門』(原書房)、マレー『戦争論・クラウゼヴィッツへの手引』(銕塔書院)などがある。防衛大学校や自衛隊では、陸軍中佐成田頼武の『戦争論要綱』を配布しているようだ。

http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0273.html

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