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元裁判官が無罪の心証を明かした「袴田事件」の詳細【無限回廊】
http://www.asyura2.com/07/senkyo31/msg/1249.html
投稿者 ダイナモ 日時 2007 年 3 月 14 日 21:45:59: mY9T/8MdR98ug
 

http://www.alpha-net.ne.jp/users2/knight9/hakamada.htm

袴田事件

1966年(昭和41年)6月30日未明、静岡県清水市(現・静岡市清水区)の「こがねミソ」製造会社専務である橋本藤雄(41歳)の自宅が放火され、焼け跡から藤雄、、妻のちえ子(38歳)、長男の雅一郎(まさいちろう/14歳)、次女の扶次子(17歳)の一家4人が刺殺された姿で発見された。遺体はいずれも何者かに突き刺されるなどの致命傷を負ったのち、油を浴びて焼かれたものと判明した。静岡県警と清水署はただちに合同捜査本部を設置し、調査にあたった。そこで、橋本宅から集金袋1個が所在不明と分かった。また、現場には、雨ガッパと小刀用の木鞘(きざや)が焼けずに落ちており、屋内では黒く焦げた、くり小刀の刃体が見つかったが、捜査本部はこれを犯人の遺留品と見ていた。

翌日の7月1日には早くも元プロボクサーで「こがねミソ」従業員の袴田巌(はかまだいわお/当時30歳)が警察によりマークされていた。事件当日が給料日であったことで橋本宅に現金が置かれていたことから、内部事情に詳しい者が給料を狙っての犯行とみていたが、その中でも袴田が疑われた理由を挙げると次のようになる(<>内)。

<被害者である橋本の自宅から東海道線をはさんで向かい側にミソ工場があり、その工場内の寮に事件当時、4人の男子従業員が宿泊していた。そのうち2人は相部屋で火災発生と同時に現場に駆けつけていた。ひとりは近くの社長宅に留守番に行っていた。残るひとりが袴田で、パジャマ姿で消火活動に加わる袴田を見た者がいたが、約20分ほどアリバイに空白があった。>

殺害された藤雄は柔道2段の巨漢。犯人はほかに3人殺害しているにもかかわらず、30センチしか離れていない隣家では悲鳴や物音を聞いていない。これだけの犯行ができるのは袴田以外にいない、という予断があった。その予断を正当化するための捜査が続けられたが、この時点で確たる証拠はなにもない状態であった。

7月4日、工場の家宅捜査が行われ、袴田の部屋から極微量の血痕と油が付着したパジャマが押収され、<従業員の血染めのパジャマ発見>などと大々的に報道された。捜査員は袴田に任意同行を求め、清水署での事情聴取に、袴田は橋本宅の消火活動中に誤って屋根から転落し、左手中指を切ったと包帯に巻かれたその指を見せて説明した。捜査当局はいったん袴田を釈放したものの、犯人として内偵し、裏付け捜査を開始した。

7月24日、捜査本部は放火に使われた油はガソリンとオイルの混合油と発表。

8月18日、袴田が逮捕され、以後連日に渡り厳しい取り調べが続いた。その取り調べは一日平均12時間、最高16時間にも及んだ。その間、水一杯与えなかったことがあった。その上、アル中患者を同房に入れ、夜中まで大騒ぎさせて袴田の睡眠を妨げ、疲労困憊させた。

9月6日、袴田はついに犯行を認めさせられた。自白後、強奪されたとされる金銭のうち5万円余りが「タイミングよく」発見される。清水郵便局で差出人不明の封筒が見つかり、その中からナンバー部分を焼いた紙幣が出てきた。袴田の供述調書には、<五万円を知り合いの女性に預けた>とあり、警察はこの5万円こそ、その袴田が奪った金に間違いないと主張した。

9月9日、袴田が静岡地検により強盗殺人および放火罪で起訴され、10月18日に静岡拘置所に身柄を送られるまで、清水署で45通の自白調書が作成された。調書の内容は激しく変転、犯行の動機も変われば、犯行の態様も変わった。捜査官に誘導されるままに調書が作成されているので、調書45通のうち、どれが真実であるのかが分からなかった。のちの法廷で裁判官も疑問を抱き、調書45通のうち44通は信用性・任意性ともにないとして証拠採用を却下。残る1通の検察官が作成した調書を証拠として採用した。その調書によると、袴田の犯行は次のようになる(<>内)。

<事件当日の夜、午前1時20分に袴田は目が覚め、専務宅へ行って4人を次々に殺害、現金を奪っていったん工場に戻り、現金を隠したあと混合油をもって現場へ引き返し放火した。>

煙が窓から入り、午前1時45分ころ隣家で火事に気付いていた。ということで、最大でも25分(袴田が目覚める午前1時20分から隣家が火事に気付くまでの午前1時45分まで)の間に袴田がこれだけのことをしたことになる。

「血染め」と報道されたパジャマには警察庁科学警察研究所の鑑定によると、「人血と認めるが血液型不明」というほどの微量の血痕しか付いていなかった。また、現場で発見された凶器の、くり小刀は袴田のものと断定する根拠はなく、ほかに登山ナイフも発見されているし、応接間のテーブルにはアイスクリームのふたが8つあった。これは複数の客がいたことを想定させ、登山ナイフも凶器と想定すれば、2人以上の犯人がいたとも考えられた。奪われた現金の行方は不明。自白での殺害方法と被害者の死亡状況が合致せず、出入りした裏木戸には鍵がかけられていた。

警察庁科学警察研究所

袴田は4人殺害後、この裏木戸の下部の留め金と中央部の閂(かんぬき)をはずして上部の留め金はかけたまま扉の下方を押し開いていったん脱出し、工場にあった混合油入りのポリ容器をもって被害者宅に戻り放火したことになっている。県警は裏木戸の実物大模型を作って実験し、上部の留め金をかけたままでも人の出入りは可能と結論付けていた。弁護団は東洋大学工学部建築学科の教授に鑑定を依頼。教授が実物大の木戸の模型を作って実験した結果は、上部の留め金をかけたままでは最低部で最大32センチしか開かず、人の出入りは不可能であると結論付けた。その後、東海大学工学部教授に鑑定を依頼した。教授は静岡県警の実験写真をコンピューターで解析した結果、袴田がもぐり抜ける状態を再現した裏木戸の開き方では上部の留め金がはずれてしまうことが分かった。

11月15日、静岡地裁で第1回公判開始。袴田は、自白は強要させられたもので、警察・検察官によって作られたストーリーであると主張。「取り調べの苦痛から逃れるため、署名指印した」と述べた。

1967年(昭和42年)8月31日、静岡地裁での1審公判中、大きなミソの貯蔵タンクの中から血に染まったズボンやシャツなど5点の衣類が入った南京袋が出てきた。終始、尾行されていた袴田にはこれらを隠すのは不可能であった。だが、それから数日後、袴田の実家を家宅捜査した警察官がズボンの共切れを発見。それがミソの貯蔵タンクに入っていたズボンのものと一致するという鑑定が下された。

1968年(昭和43年)9月11日、静岡地裁は袴田巌に死刑を言い渡した。袴田は無罪を主張し、ただちに控訴。

1969年(昭和44年)5月29日、東京高裁で第1回控訴審開始。

1971年(昭和46年)11月、東京高裁での控訴審の法廷で、犯人が着衣していたズボンの装着実験が行われたが、袴田には小さくてはけなかった。検察側はミソ漬けになっていたので縮んだ、とか袴田が太ったのだと主張した。

1976年(昭和51年)5月18日、東京高裁で控訴を棄却。

翌19日、上告。

1980年(昭和55年)9月22日、最高裁で第1回公判開始。

11月19日、最高裁で上告棄却で死刑確定。

同日、社会評論家の高杉晋吾(現・退会)が代表となり、ボクシング評論家の郡司信夫、寺山修司、日本ボクシング協会会長の金平正紀、元東洋ジュニアミドル級チャンピオンの川上林成、『月刊ボクシングマガジン』(ベースボール・マガジン社)編集部の松永喜久を世話人に、「無実のプロボクサー袴田巌を救う会」を設置。のちに「無実の死刑囚・元プロボクサー袴田巌さんを救う会」と名称を変更。

無実の死刑囚・元プロボクサー袴田巌さんを救う会

1981年(昭和56年)4月20日、弁護側が静岡地裁に再審請求。

11月13日、日本弁護士連合会が人権擁護委員会内に「袴田事件委員会」を設置して再審支援を開始。

日本弁護士連合会

1991年(平成3年)3月11日、日本プロボクシング協会の会長の原田政彦(ファイティング原田)が、後楽園ホールのリング上から再審開始を訴え、正式に袴田を支援することを表明。

1993年(平成5年)12月15日、弁護側が静岡地裁に「最終意見書」を提出。

1994年(平成6年)8月9日、静岡地裁が再審請求を棄却。

8月12日、弁護側が東京高裁に即時抗告。

1998年(平成10年)2月23日、東京高裁は「5点の衣類」についてDNA鑑定を決定。警察庁科学警察研究所と岡山大学が鑑定を委嘱される。

2000年(平成12年)7月13日、警察庁科学警察研究所と岡山大学が「5点の衣類」のDNA鑑定について<鑑定不能>と報告。

2001年(平成13年)8月3日、弁護側が東京高裁に「最終意見書」を提出。

2004年(平成16年)8月26日、東京高裁が即時抗告を棄却。

9月1日、弁護側が最高裁に特別抗告。

2006年(平成18年)5月、東日本ボクシング協会が「袴田巌再審支援委員会」を設立。協会長の輪島功一が委員長、新田渉世協会理事が実行委員長になる。委員会は後楽園ホールなどのボクシングの試合会場で袴田の親族、弁護士、救援会関係者らとともにリング上から再審開始を訴えているほか、東京拘置所に対し、面会要請やボクシング雑誌の差し入れなどを行っている。現在、袴田は東京拘置所に収監されているが、死刑確定後は精神に異常をきたし、拘禁反応から肉親や弁護団との面会も困難になっている。

東日本ボクシング協会

11月20日、元ボクシング世界チャンピオンの輪島功一、渡嘉敷勝男、レパード玉熊、飯田覚士、戸高秀樹の5人が最高裁へ結集し、袴田の再審開始を訴え、全国から寄せられた約500通の要請書を提出した。

2007年(平成19年)3月2日、袴田の支援団体は、静岡地裁の判決文を起案したとされる元裁判官が「無罪の心証を持っていた」と再審支援に協力を申し出ていることを公表した。裁判官には、判決に至る議論の過程や内容を明かしてはならない「評議の秘密」が裁判所法で規定されており、判決から39年後の告白は議論を呼びそうだ。「袴田巌さんを救援する清水・静岡市民の会」によると、元裁判官と名乗り出たのは、熊本典道。事件の第2回公判から陪席裁判官を務め、1968年(昭和43年)の地裁判決で、3人の合議で主任裁判官として判決文を起案したという。翌1969年(昭和44年)4月に退官した後、弁護士活動を続けていた。

裁判所法75条(評議の秘密)・・・合議体でする裁判の評議は、これを公行しない。但し、司法修習生の傍聴を許すことができる。
2 評議は、裁判長が、これを開き、且つこれを整理する。その評議の経過並びに各裁判官の意見及びその多少の数については、この法律に特別の定がない限り、秘密を守らなければならない。

3月9日、元裁判官の熊本典道が東京都内で開かれた支援団体の集会に参加し、「自分は無罪の心証だったが、裁判長ともう1人の裁判官を説得できず、2対1の多数決で死刑判決を出してしまった」と明かした。熊本が、「評議の内容」を公の場で話したのは初めてで、再審支援に協力する意向も示した。裁判官が、判決に至るまでの議論の内容など評議の中身を明かすのは裁判所法に違反するが、熊本は「高裁や最高裁が間違いに気づいてくれることを願っていたが、かなわなかった。人の命を救うための緊急避難的な措置」と話した。

参考文献・・・
『袴田事件 冤罪・強盗殺人放火事件』(新風舎/山本徹美/2004)
『毎日新聞』(2006年11月20日付) / 『読売新聞』(2007年3月2日付/2007年3月10日付)
参考にしなかったその他の関連書籍・・・
『主よ、いつまでですか−無実の死刑囚・袴田巌獄中書簡』(新教出版社/袴田巌&袴田巌さんを救う会[編]/1992)
『自白が無実を証明する−袴田事件、その自白の心理学的供述分析』(北大路書房/浜田寿美男/2006)
『はけないズボンで死刑判決−検証・袴田事件』(現代人文社/袴田事件弁護団/2003)
『地獄のゴングが鳴った』(三一書房/高杉晋吾/1981)

関連・参考サイト・・・
無実の死刑囚・元プロボクサー袴田巌さんを救う会
袴田巌さんの再審を開き、無罪を勝ち取る全国ネットワーク
袴田巌さんを救援する清水・静岡市民の会
袴田さんの再審を求める会
袴田事件研究会〜冤罪事件から刑事訴訟を学ぶ

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