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マックス・ヴェーバー著『官僚制』は社会運動の可能性を示唆している  【山風征路】
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投稿者 愚民党 日時 2007 年 2 月 26 日 16:19:29: ogcGl0q1DMbpk
 

http://www.bund.org/opinion/20070215-1.htm

マックス・ヴェーバー著『官僚制』は社会運動の可能性を示唆している  

山風征路

はじめに

 住民運動のなかで問題を管轄する省庁や自治体などと交渉する際、直接交渉の場に出てくるのは、多くの場合実質的には何の権限も持たない下級官吏だ。彼らに質問事項をぶつけても、「この問題については既に○○委員会における審議を踏まえて、このように決定しております」等の、所謂「官僚的対応」に終始するばかりだ。交渉とは名ばかりになる場合がほとんどである。

 JCO臨界事故の被害住民のように、実際に被曝し健康被害を受けて苦しんでいる住民の訴えを前にしても、自分の感情や意見を押し隠して、形式的な答弁に終始する小役人。彼らの対応に対し、「少しは自分の意見や感情がないのか」と思ってしまうのは私だけではないだろう。こうした官僚機構の無機質性、硬直性に対して、政治主導による改革を訴えて登場した小泉前首相のパフォーマンスは高い支持率を得ていた。

 彼をポピュリストと呼ぶのは簡単だが、高い支持率の根拠の一つには、これまで日本の指導者には少なかった指導力や個性があったことは否定できない。事なかれ主義的な対応に終始して、既存の政治的、経済的、行政的な枠組みを変えようとしてこなかったこれまでの政治指導者や官僚に、多くの民衆はほとほと愛想を尽かしているのである。

 今や自民党の利権政治と一体となって、日本の行政を牛耳ってきた官僚機構が完全に行き詰まっていることは確かだ。だがこの矛盾の打破を、強烈な個性や能力を持った政治指導者の登場だけに求めても問題は解決しない。官僚機構の肥大化や硬直化は、近代国家にとって或る意味では不可避なことなのである。それと民衆の中でのカリスマ願望の増大は表裏一体なものである、と喝破したのはマックス・ヴェーバーだ。彼の著書『官僚制』(恒星社厚生閣 阿閉吉男・脇圭平 訳)を題材にしてこの問題を考えてみたい。

日本における官僚制の発達

 近代日本の政治・行政機構の骨格を形作る作業は明治維新後から本格化した。当時日本と同様に後発資本主義国として富国強兵を目指していたドイツの国家建設が、そこでの主要なモデルだった。ドイツ型モデルを学んで帰国した大久保利通は、国家の全てを管理する内務省を設立し、自ら内務卿に就任して本格的な富国強兵政策を推し進めたが、これが日本の近代的官僚制の出発点となった。

 マックス・ヴェーバー(1864〜1920)は、まさに当時の日本が御手本としたドイツ官僚制度を目の当たりにし、その社会学的分析を行った。ドイツは第一次大戦では敗戦国となり、政治的にも経済的にも混乱に陥ったが、ヴェーバーが分類した3つの正当的支配のなかで、最も革命性を持つと認識していたカリスマ的支配がその廃墟から立ち表れ、ナチスドイツが誕生する。それは第二次大戦の火付け人となっていく。

 ナチズムの総括から、戦後ドイツでは地方自治が確立され、近代国家にとって不可欠とも言える官僚制の肥大化をできるだけ抑え込み、民衆がコントロールしやすい制度の確立が目指されるようになった。

 これに比して、日本では軍部の解散はあったものの、省庁や財閥系列などを含めて、戦前の日本の政治的、経済的な支配機構の骨格には殆ど手がつけられなかった。中央集権的な官僚機構はそのまま戦後に引き継がれ、巨大な許認可権を背景とした「護送船団方式」と呼ばれる政・官・財が一体化した社会建設が行われ、戦後の繁栄を築いたが、同時に矛盾も抱え込んだのだ。

 敗戦後の日本社会の再建では、巨大な官僚機構が有効に機能した時期は確かに存在した。日本は驚くべきスピードで経済成長を実現し、教育や福祉などの面でも世界有数の先進国となったのだから。

 しかし、当初は有効に機能していたこうした官僚機構が、今日では国民の税金を無駄遣いし、特殊法人などのほとんど生産性のない部門へ貴重な資源を振り分け、官僚自身がそこへ天下りするという、巨大な既得権益システムへと成り下がっている。巨大化し、複雑化、専門化を余儀なくされる近代官僚制度が、その複雑化、専門化を逆手に取って、国民の目には見えない巨大な利権分配システムとなっているのだ。

 これを変革することは必要だ。だが事はそう簡単ではないのが、近代国家というシステムなのである。

福祉国家が必然化する官僚制

 ヴェーバーの官僚制論では、発達した近代国家、特に資本主義が発達した国家なり社会においては、官僚制の発達と完成は不可避であり、国家であろうと企業であろうとも、経営の効率性、合理性を追求するならば、官僚制度の確立は避けられないという分析が繰り広げられる。

 ヴェーバーは、近代官吏制度に特有な機能様式として次の特徴を挙げる。

 第@に「規則、すなわち法規や行政規則によって、一般的な形で秩序づけられた明確な官庁的権限(Kompetenzen)の原則」があり、第Aに「職務体統(Amtshierarchie)と審庁順序(Instanzenzug)の原則」がある。これは官僚制が、国王などの特定の個人による恣意的な支配に代わって普遍的なものとなった根拠には、各官吏の権限の範囲が明確に規則によって定められ、それが末端までツリー型に貫徹されることにあることを分析しているのである。

 そうであるがゆえに第Bに「近代的な職務執行は、原案または廃案という形で保存される書類(文書)に基づいて行われ、その任に当るものは、あらゆる種類の下僚や書記からなる幹部(Stab)である」。第Cには彼らの「職務活動、少なくともいっさいの専門化した職務活動―そしてこれはすぐれて近代的なものであるが―は、通常、つっこんだ専門的訓練を前提とする」。

 第Dには「完全に発達した職務では、職務上の活動には官吏の全労働力が要求され」、第Eに「官吏の職務遂行は、多かれ少なかれ明確で周到な、また習得しうる一般的な規則にしたがってなされる。これらの規則の知識は、それゆえに、官吏が身につけている特別の技術論(それぞれに応じて法律学、行政学、経営学)をなしている」。

 こうした近代官僚制度が持つ機能様式は、その仕事に就く官吏にとって「官職は『天職』(Beruf)である」という意識を生み出す。

 「わが国〔ドイツ〕で、すべての司法官にたいして、また次第に行政官にたいしても行われているように、恣意的な免職や転任にたいする法律上の保障が存したところでは、その目的は、ただ一つ、彼らが個人的な思惑に煩わされず、当該特定の職責を断乎として即物的に(sachlich)履行するのを保障しようとするにある」

 ここでヴェーバーが述べている「即物的」とは、優れて機能的という意味である。目的を達成するために最も合理的な手段を選択するエートスのことを述べているのだ。こうした官僚制の確立へ向けた社会的誘因は、近代国家において要請される行政事務の範囲の外延的、量的な拡大ばかりでなく、それ以上に「その内包的および質的な拡大と内部的な発展」も意味する。

 「確固たる絶対的な平和に慣れた社会が、あらゆる領域における秩序と保護(「警察」)とをますます高度に要求する」ようになるのである。

 早い話、被支配者たる国民自身が官僚制による安定的秩序の維持を求めるのである。今日多くの日本国民は官僚制の弊害を言うが、そもそも福祉国家による広範で質の高い行政サービスの実現、安全で同質性の高い社会システムなどは、官僚機構の肥大化、行政的事務の肥大化なくしては実現できないのである。広範な公務員労働の存在やそれを指揮する官僚機構の存在は、近代的福祉国家の発展にとっては不可欠なものなのだ。それが機能マヒに陥っている状態、それこそが改善されるべきことなのである。

 受益者として官僚制の肥大化そのものを要請してきたのは国民である。官僚の腐敗や職業倫理の喪失を批判することはもっともだが、倫理主義的な官僚批判に終始し、他方では相変わらず高度な福祉国家を標榜する「左翼」的な観点では、真に官僚制の問題を捉えることはできないだろう。

人間の顔した官僚制?

 ヴェーバーは「的確、迅速、一義性、文書にたいする精通、持続性、慎重、統一性、厳格な服従、摩擦の除去、物的および人的な費用の節約―これらは、厳密に官僚制的な、とくに訓練を受けた個々の官吏による単一支配的な行政においては、あらゆる合議的なまたは名誉職的、兼職的な形態に比べて、最適度にまで高められている」と、官僚制的組織のもつ技術的利点を評価している。ヴェーバーが指摘するように、多くの近代国家の目標であった高福祉国家の実現、ケインズ的財政金融政策による有効需要の創出などの目標にとって、官僚制はもっとも有効な機構として機能してきたことは間違いない。

 官僚制批判を単純に反近代や反合理主義の立場から展開しても、現実社会の再生産の場面では何の説得力も持たない空理空論に陥ってしまうのだ。人間は効率化や合理化だけを求めて生きているわけではないが、とはいえ経済活動を初めとする様々な社会的活動のなかで、より効率的なもの、あるいはより合理的なものを追求するというエートスを否定することはできない。非合理的な社会は再生産すらままならなくなってしまうのだ。

 社会システムという視点から考えた場合、官僚制が近代国家において普遍化し、確立していくことは必然であり、根拠あることなのである。その際、「非人間化」こそが官僚制度の本質であり、同時に「徳性」でもあるのだとヴェーバーは指摘する。非人間的であることが徳性でもある! のだ。

 「完全に発達した官僚制は、特有な意味で、『憤激も偏見もなく』(sine ira ac studio)という原則にもしたがうものである。官僚制が『非人間化』されればされるほど、また公務の処理にあたって愛憎や、あらゆる純個人的な、一般に計算できない、いっさいの非合理的な感情的要素を排除すること―これは官僚制固有の特性で、官僚制の徳性として称賛されているものであるが―が完全にできればできるほど、それだけ官僚制は資本主義に好都合な特有の性格をいっそう完全に発達させることになる」

 これは官僚制への極めて深い洞察だと思う。例えば住民運動においても現実にあることは、行政VS住民という単純な図式だけではない。必ず住民の中でも利害対立が存在しているわけで、その際官僚が場当たり的な政策を行えば、住民自身の間にも不必要な対立が生み出されていくだろう。

 ヴェーバーが洞察した現代官僚制とは、近代国家の内部にある様々な利害対立を最も合理的に調整し、同時に社会的生産力を最も効率的に動員するための正確な機械とも言うべきものなのだ。こうした点から言えば、合理性と効率性という「徳性」を最も核心とする官僚機構に所属する官吏に対して、短絡的に「人間性」を云々しても、それは余り意味のないことだとさえ言える。

民主主義と官僚制

 以上概観してきたヴェーバーの官僚制論は、その内容ゆえにこれまで多くの議論を呼んできた。

 例えばマルクーゼは「近代官僚制という社会制御のための技術的に合理的な手段を、ヴェーバーは歴史的に変革不可能な必然性だと認識したのであり、この結果として救いようのないペシミズムに陥ってしまった」(『日本の社会科学とヴェーバー体験』山之内靖著 筑摩書房p51)とヴェーバーを批判した。マルクーゼに限らず、これまでの多くの文化左翼のヴェーバー評価は、近代合理主義を肯定し賛美したという否定的なものがほとんどだ。

 確かに、「行政の官僚制化がひとたび完全に実施されているところでは、実際上ほとんど破壊しがたい支配関係形式がつくり出される。個々の官吏は、自分がはめ込まれた機構から脱出できなくなる」「さらに被支配者自身もまた、ひとたび官僚制的支配機構が存在する以上、これなしに済ますこともできないし、かといってそれをとりかえることもできない」などというヴェーバーの叙述を見る限り、こうしたヴェーバー批判もまったく故なしとは言えないだろう。

 その一方で、山之内靖などはあたかも官僚制が歴史的必然であるかのように述べているヴェーバーの真意は、実はこうした徹底した合理主義を必然化する近代そのものへの批判にあったのだとヴェーバーを評価している。

 山之内は、ヴェーバーにとって近代ヨーロッパの合理化は、賛美されるべきものではまったくなく、むしろ、「文化的発展の最後に現れる『末人たち』を生み出す問題の局面に他なりません」(『マックス・ヴェーバー入門』 岩波新書)と言う。ヴェーバーはこうした「末人たち」に対して、「精神のない専門人、心情のない享楽人。この無のものは、人間性のかって達したことのない段階にまですでに登りつめた、と自惚れるだろう」と批判しているというのだ。

 ヴェーバーは官僚制と大衆民主主義の関係については、次のように指摘していたのだ。

 「官僚制的組織は、何よりもまず、同質的な小単位の民主主義的自治と対照的な、近代的大衆民主主義(moderne Massen demokratie)の不可避な随伴現象である」

 大衆民主主義が発達すればする程に、より広範な民衆に等質なサービスを実現すべき官僚制は発達する。しかしこのことは、「被支配者集団の平均化」をますますと強め、官僚支配を専制的なものにしていく。大衆の官僚制への不満が頂点に達した時、カリスマ願望が呼び起こされるという論理展開なのである。

 小泉前首相などの支持率の高さの背景には、大衆民主主義化の進展と、そのなかでの民衆の疎外感が大きく影響していたことは間違いないだろう。

社会運動の可能性

 問題は、かってナチズムによってこの疎外感を打破しようとしたドイツ国民の過ちを繰り返さないためには、どのような方途を模索していけばよいのかだろう。

 官僚制の限界をどう克服していくのかを巡って、いわゆる文化左翼のように、一方で福祉国家型の均質で平等なサービスを求めつつ、倫理主義的に官僚制を批判することの限界は明らかだ。

 では、どのような方向に活路を見出していけばよいのか? こうした問題を考える一例がある。

 阪神大震災の際に、神戸市には全国から無数の義援金が寄せられたが、この義援金による支援策はなかなか被災した住民に届かなかった。目の前に住む家すら失って途方に暮れている住民がいるのに、なぜすぐに義援金を活用しないのか、という批判が多く出された。しかし、そもそも公平や平等を旨とする行政機関にとって、寄せられた義援金の使い方を政策立案するには、かなりの時間と労力を必要とするのも事実だ。

 こういう硬直化し、非人間的な行政の在り方を指弾し、自分たちがそれに取って代わればもっと良くなると主張しても、それはほとんど虚言である。既に見てきた通り、問題の本質はそう簡単な話ではないからだ。

 もし官吏が目の前にいる人の要求、自分が知っている事柄から優先的に処理しようとすれば、結果的にその政策は地縁・血縁的な関係に依存することになってしまうのである。すべての住民にとって公平で平等なサービスの提供を実現するためには、すべての情報を把握した上で、最も合理的で効率的な資源配分を実現する政策を立案する必要があるのだ。そうした点で、既存の行政機構の対応は遅れるのである。

 全体性を重視するがゆえに生じる、こうした官僚機構の負の側面。それをカバーするには、官僚機構とはまったく異なるコンセプトで活動するシステムが必要なのだ。阪神大震災の際には、それはボランティアとして機能したと思う。

 支援を必要とする人は、掲示板に支援の要請内容を記した紙を張り、それを見たボランティアは自分が得意な分野、やりたい事を任意に選んで活動した。市場における需要と供給の関係と同じように、設計主義ではカバーできない広範なボランティア活動が、そこで成立した。これは官僚機構の硬直性への批判だけに終始しない、社会運動の可能性を示唆していないだろうか。既存の官僚機構に取って代わるなどという夢物語ではなく、自らを一方的な受益者として自己限定する文化左翼的な在り方とも異なる、社会運動の可能性を拡大していくことによって、官僚制の限界を打破することは一定は可能なのである。

 既存のすべての官僚機構を否定することなど無意味である。そうやって自らを受益者として自己限定せずに、近代合理主義の限界が破滅的な形で表出することを回避する道、それは社会運動の可能性を拡大することのうちにしかあり得ないだろう。

 現代を生きるわれわれは、「精神のない専門人、心情のない享楽人。この無のもの」に成り下がってはならないのだ。


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