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政策に目を背けてはならない(非国民通信)
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投稿者 heart 日時 2007 年 3 月 04 日 01:10:16: QS3iy8SiOaheU
 

http://blog.goo.ne.jp/rebellion_2006/e/c724afc90c0770c737e65a6ffeed02e4より転載。

政策に目を背けてはならない

 東京都知事選に浅野史郎氏が立候補の意向を表明しました。その他の候補に黒川紀章氏、吉田万三氏、そして現職の石原慎太郎氏と四候補が相争うことになるのでしょうか。民主党の動向がまだ見えないので確定ではありませんが、いずれにせよ首都のトップを決める争いとあって都民以外からの注目も非常に高まっています。

 石原氏が続投の姿勢を明確にする中で最初に対抗馬として名乗りを上げたのが共産党が推薦する吉田氏、そこから少し間があって、無所属の黒川氏、最後に浅野氏と出馬表明が続きました。この浅野氏が打倒石原の最右翼として歓呼の声を持って迎えられているところですが、残念ながら良いことばかりではありません。正直なところ、私は浅野氏が出馬しないことを願っていました。

 当初から浅野氏は打倒石原の担い手として期待されており、一度は民主党が擁立を企図しましたが、浅野氏側がこれを拒否するという一幕がありました。そのため一度は浅野氏の名前は候補リストから消え、石原氏と吉田氏の直接対決の可能性もありました。その後から黒川氏の立候補表明があったものの、日本会議の黒川氏を不安視する見方も少なくなく、そんな中から待望されての浅野氏の再登場となったわけです。

 一つ不思議なのは、最後まで立候補するのかしないのか、はっきりしなかった浅野氏が何故待望され続け、打倒石原の最右翼として期待されているのか、と言うことです。なぜ打倒石原を担う期待の星が、先行して立候補を表明した吉田氏や黒川氏ではなく、浅野氏だったのでしょうか? 石原氏の友人でもある黒川氏はともかくとして、吉田氏の掲げる政策やそれまでの業績は石原都政を変革するものとして決して不適格なものではなかったはずですが、奇妙なことに吉田氏を石原氏への対抗馬とみなす人は多くありませんでした。吉田氏の何が不足だったのでしょうか? 私の知る限りでは、吉田氏の政策を理由にしたものはないようなのですが。

 私は宮城県民でもありませんので、昔の宮城県知事が何をやってきたかには詳しくありません。たぶん、浅野氏の支持者にも浅野氏をよく知らない人は多いのではないでしょうか。他県の過去の知事について詳しい人なんてのは、そう滅多にいるものではないでしょう。私の記憶に残っているのは、浅野氏の最後がかなりゴタゴタしていたことくらい、今回の都知事選にいたってようやく浅野氏という人物に注目した次第です。浅野氏自身も今の段階では立候補の意思を表明したに過ぎず、具体的な政策についてはまだ何も掲げていないだけに、こちらとしては判断に迷う段階です。

 ただ一つ、浅野氏の立候補によって見えてきた危険な兆候について触れておきたいと思います。それはつまり、浅野氏支持層と吉田氏支持層の間の深刻な断層であり、目的を同じくする同志達が手段の違いから分裂する危険性です。

 私の巡回先のブロガーさんは皆、強者の理論を振りかざし異質なものを排除しようとする現行の体制に反対で、思いやりのある寛容な政体を願っている同志であると思っているわけですが、ただその願いを実現させるための手段においては明確に意見が分かれています。目指している方向が同じである以上は同志であり、連帯したいものだと願っている訳ですが、時にそれが手段の違いから分裂してしまう、今回の例で言えば、とにかく石原都知事に選挙で勝つことを最優先とする派と、ただ首長のクビを変えるだけではなく石原的なるものを根本的に転換することまで視野に入れなければならないとする派、2つか、あるいはそれ以上に分裂しようとする気配があります。

 宗教界においては異教徒であること以上に異端であることの方が罪が重いと言われます。あるいは右や左の過激派の世界でも、外に向けての闘争よりも内部粛正の方が苛烈であるケースが時に見受けられるようです。私がリンクを張っているブロガーさんの中には左派リベラル派同士での内部闘争に血道を上げるような輩はいませんが、リンク先のリンク先まで辿ってみると残念ながら、ともに石原都政の転換を願う者同士でありながらお互いに非難を繰り広げているところもあるようです。

 「私の都知事選に関する唯一の関心は石原再選が阻止できるかどうかである。」と断言したのは天木直人氏(http://www.amakiblog.com/archives/2007/03/03/#000282)ですが、これは手段が目的化してしまった最悪の例です。たぶん、私と天木氏が石原都政に対して感じている憤りは同質のもので、それを転換しなければならない、その思いは一緒のはずです。そのためには石原再選の阻止が必要ですが、石原再選さえ阻止すればそれで済むわけではありません。そうであるにもかかわらず石原再選の阻止を至上命題、唯一の関心と言い切ってしまう、石原再選の阻止は目的達成のための第一段階に過ぎないのに、そこまでで視野を閉ざしてしまう、残念なことです。

 石原慎太郎の首さえ飛べば何とかなる、というのであれば別に選挙で勝たなくてもいい、テロだっていいとすら言えるかもしれません。仮にテロによって石原慎太郎が暗殺されれば、確実に都知事は石原慎太郎以外の誰かに替わります。しかるに残念ながら石原慎太郎でなければ誰でもいいというわけにはいかず、石原的なるものを根本的に転換してくれる人物がそれに取って代わらない限り、石原主義は他の誰かによって継承されてしまうのです。石原慎太郎の後任が石原二号であっては何の意味もないわけで、石原打倒のその後に来るものをも我々は問わねばならないはずです。

 ゆえに誰が新たな指導者にふさわしいか、それを探ることを怠ってはならないのです。仮に浅野氏が打倒石原の一番手であるならばなおのこと、浅野氏については批判的に検討が加えられなければなりません。ところが、浅野氏についてはむしろ目を閉ざそうとする傾向が見られます。再び天木氏の言葉を借りれば「浅野氏に対する誹謗や批判については、まったく相手にしない。あの種の匿名の投稿は、特定の政党を熱烈に支援する者による意図的なものであるか、あるいはまったく無責任な批判の為の批判である」と。あの天木氏すら自ら盲目になろうとする姿勢には完全に失望させられます。

 為政者から見れば、国民が目を閉ざしてくれる状態が最も望ましい、自分たちの失政を見過ごしてくれることが望ましい状態です。国民が政府への監視の目を失えば、後はやりたい放題です。しかし、そのためには理由が必要です。自分たちに批判の目を向けさせない理由、たとえば、それが利敵行為であるとささやくなど――すなわち、敵を作り、批判の目は敵だけに向けさせようとするわけです。

 小泉は抵抗勢力という敵を作り上げ、自らの失政は改革のために必要な痛みであるとうそぶき、自らへの批判は改革を妨げる要因として全く取り合うことなく、反対派にのみ批判の目を向けさせました。あるいはタカ派、排外主義者が日本の外交姿勢を批判する言論に対する反応もこれと同様の構造を持っています。自国への批判は利敵行為である、どこの国の工作員か、そのように語る彼らは外国だけを批判し日本には一切の批判の目を向けようとしません。そして今回の選挙、石原慎太郎という敵を倒すことを至上命題とし、そのためには諸々の問題に目を閉ざそうとする、対抗馬である浅野氏への批判は慎み、自ら盲目であろうとする潮流が見られつつあります。もし石原都政を批判してきた人々までが批判の目を失い盲目となってしまえば、その時こそ真の絶望の時代の到来ではないかと私は恐れるのですが。

 一部に浅野氏の政策への批判があり、これを自粛しようという空気が強まる中で、もう一方の雄である共産党推薦の吉田氏の政策への批判はあまり聞こえてきません(これはもちろん右派系の妄想ブログを覗けば事情は変わってくるのでしょうけれど)。吉田氏は非の打ち所がない完璧な政治家なのでしょうか? さすがに批判の余地がない完全無欠な人物と言うことはないのでしょうけれど、それでも吉田氏の政策への批判はさっぱり聞こえてきません。ところが、共産党候補への選挙戦略上の批判は毎度のことながら嫌というほど聞かされるわけです。

 選挙戦での勝利とは政策実現のための手段に過ぎませんが、この手段が目的となると、しばしば政策が抜け落ちて選挙での勝利だけが語られることになってしまいます。結果として政策への批判は皆無なのに選挙戦略を批判される、政策面では合致しているはずなのに、その手段に過ぎない選挙戦略の面での相違から批判され、袂を分かつ、政策よりも選挙戦略上の理由が優先される事態が発生してしまうのです。

 そのために不思議な現象が起こりました。つまり石原慎太郎への対抗馬として最初に吉田氏が立候補を表明したとき、おそらくは吉田氏の掲げる政策に賛同できるであろうはずのブロガーの多くが吉田氏への支持を躊躇った、あるいは黙殺するという現象が起こったのです。どうして政策に同意できるのに支持できなかったのでしょうか? 吉田氏への不支持を明らかにしたブロガーもいましたが、例によって吉田氏の政策への批判は皆無、不思議なものです。

 吉田氏不支持の理由は一様に「勝てそうにないから」というものでした。少なくとも私の知る限り、吉田氏の政策を理由に不支持を表明したブロガーはいません。逆に浅野氏を支持する理由の最たるものが「石原慎太郎に勝てそうな候補だから」というもの、もちろん浅野氏の政策と実績を評価する声もありますが、まだ浅野氏は都知事選に向けて具体的な政策は何も打ち出していませんし、宮城県知事時代も最後はきれいな終わり方ではありませんでした。

 いずれにせよ左派リベラル派のブロガーにしてさえ政策を重視しなくなり、選挙の勝ち負けだけに視野が止められてしまうようになる、都民ならぬ自分にはこのことこそが最も絶望的に感じられます。どんなに素晴らしい政策を掲げても「勝てそうにない」という理由で左派リベラル派からも支持が得られないようになる、左派リベラル派が政策を妥協して「勝てそうな」候補、より保守的な政治家に自ら擦り寄っていくようになる、かくして左派リベラル派が次々と影響力を手放していく、それこそが最悪の事態、最も絶望的な未来ではないでしょうか。政策で勝負できない時代、どんなに素晴らしい政策を掲げても評価されない時代、そんな時代は御免です。

 与党自民党の暴政が止まらない中で、何とかしなければいけない、変えなければいけない、その思いは共通です。焦りもあります。しかしそのための手段である選挙での勝利が重視されるあまり、様々なものが切り捨てられているように感じられてなりません。そんな中で私が希望を感じたのは浅野氏が民主党の推薦を拒否し、吉田氏が唯一の対抗馬として出馬したときでした。今まで非政治的な理由で共産党候補を否定してきた同志達も、石原対吉田という構図であれば迷うことなく共闘できたはずであり、共産党候補の勝利も十分にあり得ました。

 吉田氏の政策が浅野氏よりも都知事にふさわしいものかどうか、ここで論じるつもりはありませんし、私自身が熱烈に共産党を支持しているわけでもありません。しかし、首都の知事選など注目度の高い選挙で共産党候補が勝利することには大きな意義があったのではないでしょうか。つまり今まで自民党候補に勝利することを最優先して政策面での妥協を繰り返してきた人々が、「勝てそうにない」からと政策面では一致する候補への投票を躊躇っていた人たちが、その考え方を変えるかもしれない、東京都知事選で共産党候補が勝利すれば、左派政党の選挙で勝てないイメージを大幅に払拭でき、今まで選挙戦略上の理由で左派政党候補への支持に回れなかった人たちを呼び戻せるかもしれない、そう思ったわけです。勝てそうにないから、そんな理由で政策面では支持できるはずの候補に投票せず、代わりに政策面で妥協を重ねて「勝てそうな」候補に投票する。こうして左派政党の候補者は得票数を減らし、なおさら勝てない候補とのマイナスイメージを積み重ねていく、そうしてさらに支持を失っていく――政策以外の理由で! だから首都での共産党候補の勝利はこの負の循環を断ち切る原動力になり得るかもしれない、そう期待していたわけであり、それゆえに浅野氏が出馬しないことを願っていたわけです。

 たぶん、石原が小泉純一郎なら浅野氏は小渕恵三に擬えられるぐらいの差はあるでしょう。しかし仮に浅野氏が当選したとしても、それが政策面への支持が票を集めたのではなく、選挙戦略上の理由で票が集まったのであれば、政策では勝負できない、政策には目を閉ざして妥協する傾向は一層強まり、それは後々に禍根を残すことになるやもしれないのです。

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