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陸軍慰安所の設置と慰安婦募集に関する警察史料
http://www.asyura2.com/07/senkyo31/msg/609.html
投稿者 転法輪印 日時 2007 年 3 月 04 日 19:39:05: xcCUyqhuP2dMU
 

(回答先: Re: 中山成彬代議士(自民党)は大丈夫でしょうかね。こんな資料もあるというのに。 投稿者 gataro 日時 2007 年 3 月 04 日 19:27:53)

永井 和

http://www.bun.kyoto-u.ac.jp/~knagai/2semi/nagai.html

はじめに

 自由主義史観論争や従軍慰安婦論争に直接関係はないが、最近、女性のためのアジア平和国民基金編『政府調査「従軍慰安婦」関係資料集成』1〜5(龍渓書舎、1997・98年)を入手したので、その中からいくつかの史料を紹介する。

 この資料集は、1991年12月以降に実施された日本政府の調査で発見された関連資料の影印復刻版である。影印版であるため、より原史料に近い形で史料に接しうるメリットはあるが、採録されている史料のかなりの部分がすでに吉見義明編『従軍慰安婦資料集』(大月書店、1992年)に収録済みであり、その意味ではとくに目新しいものはないともいえる。しかし、1991年と92年の二度にわたる政府発表には含まれていなかった内務省史料が、少数ではあるが、警察庁関係公表資料として第1巻の冒頭に収められており、日中戦争の初期段階で慰安所の設置と慰安婦の徴集とに軍と警察がどのように関与したかについて、従来知られていなかったきわめて興味深い事実を明らかにしている。

  警察資料は、その重要性が指摘されておりながら、非公開のために今までほとんど利用することができなかった。慰安婦問題を考える上でこれは大きな制約となってきたが、この資料集に収められた警察庁関係資料は部分的とはいえこの欠落を埋めるものといえる。

  まず最初に、資料集第1巻に収録された警察庁関係公表資料の全タイトルを紹介する。次の10点である。このうち、1と8−2は外務省外交史料館所蔵の外務省関係資料にも同じものが含まれており、前記吉見編資料集などですでによく知られているものである。

1.外務次官発警視総監・各地方長官他宛「不良分子ノ渡支ニ関スル件」(1938年8月31日付)

2.群馬県知事発内務大臣・陸軍大臣宛「上海派遣軍内陸軍慰安所ニ於ケル酌婦募集ニ関スル件」(1938年1月19日付)*

3.山形県知事発内務大臣・陸軍大臣宛「北支派遣軍慰安酌婦募集ニ関スル件」(1938年1月25日付)*

4.高知県知事発内務大臣宛「支那渡航婦女募集取締ニ関スル件」(1938年1月25日付)

5.和歌山県知事発内務省警保局長宛「時局利用婦女誘拐被疑事件ニ関スル件」 (1938年2月7日付)*

6.茨城県知事発内務大臣・陸軍大臣宛「上海派遣軍内陸軍慰安所ニ於ケル酌婦募集ニ関スル件」(1938年2月14日付)

7.宮城県知事発内務大臣宛「上海派遣軍内陸軍慰安所ニ於ケル酌婦募集ニ関スル件」 (1938年2月15日付)

8ー1.内務省警保局長通牒案「支那渡航婦女ノ取扱ニ関スル件」(1938年2月18日付)**

8−2.内務省警保局長発各地方長官宛「支那渡航婦女ノ取扱ニ関スル件」 (1938年2月23日付)

9−1.内務省警保局警務課長「支那渡航婦女ノ取扱ニ関スル件伺」(1938年11月4日付)**

9ー2.内務省警保局長発大阪・京都・兵庫・福岡・山口各府県知事宛「南支方面渡航婦女ノ取扱ニ関スル件」(1938年11月8日付)**

10.「醜業婦渡支ニ関スル経緯」(内務省の内部メモ、日付不明)

 これらの内務省史料はその作成時期と内容から、次の二つのグループに分けることができる。
【第1グループ】

 2〜8と10。1937年の末に慰安所の開設を決定した中支那方面軍の要請に基づいて日本国内で行われた慰安婦の募集活動に関する一連の警察報告と軍の要請に応じるために中国への渡航制限を緩和し、慰安婦の募集活動の統制を指示した内務省通牒の起案文書である。
  この一連の警察報告により、従軍慰安婦をめぐる論争によって周知のものとなった次の二つの通達・通牒が、どのような背景のもとで成立したのかが、より一層明瞭になった。その反面、この二つの通達・通牒の史料解釈に少しばかり修正をほどこす必要のあることも判明した。

1. 内務省警保局長発各庁府県長官宛「支那渡航婦女ノ取扱ニ関スル件」(右の8−2と同じもの)(1938年2月23日付)
2. 陸軍省副官発北支方面軍及中支派遣軍参謀長宛「軍慰安所従業婦募集二関スル件」(1938年3月4日付)(いずれも吉見編『従軍慰安婦資料集成』所収)

  Aには「醜業ヲ目的トスル婦女ノ渡航ニ際シ身分証明書ヲ発給スルトキハ(中略)婦女売買又ハ略取誘拐等ノ事実ナキ様特ニ留意スルコト」なる一項が含まれ、またBの通牒には「支那事変地ニ於ケル慰安所設置ノ為、内地ニ於テ之カ従業婦等ヲ募集スルニ当リ、(中略)募集ノ方法、誘拐ニ類シ警察当局ニ検挙取調ヲ受クルモノアル等注意ヲ要スルモノ少ナカラサルニ就テハ将来是等ノ募集等ニ当リテハ派遣軍ニ於イテ統制シ云々」とある。
  そこで一方においてはこれをもって、軍の要請を受けた募集業者が拉致誘拐などの非合法的方法で慰安婦を集めていた事実を示す動かぬ証拠とみなす解釈があり、他方では逆にそういった手段による強制連行がおこらぬよう、軍と警察が注意をし、厳しく取締を指示していた証拠であるとの反論が出された。
  しかし、詳しくは後述するが、日本国内での慰安婦募集活動についての一連の警察報告2から7を前提において、A、Bの資料を読み直してみると、両文書の意図が「略取誘拐」の取締にあったのではないと結論せざるをえないのである。
【第2グループ】

  9−1と9−2、この二文書は、1938年11月に第21軍参謀と(広東作戦のため編成された南支派遣軍)と陸軍省徴募課長の要請を受けて、内務省警保局が決定・指示した慰安婦400名の調達と輸送に関する通牒の案文であり、慰安婦の徴募と輸送に軍と警察が深く関与したことを示す驚くべき史料である。内務省は大阪、京都、兵庫、福岡、山口各府県に徴募人数を割り当てたうえで、現地で慰安所の経営にあたる適当な業者を選定してこれに引率させ、台湾経由で中国に送るよう手配を命じたのであった。なお、この400人とはべつに台湾総督府が300人の女性を華南に送る手配済みとも記されている。

  これらの警察資料が公開されるにいたった経緯を簡単に紹介しておく。これらの資料は元内務省職員種村一男氏の寄贈にかかるもので、警察大学校に保存されていた。前述の2度にわたる政府調査の際には、その所在がつかめなかったようである。
  ところが、1996年12月19日に参議院議員吉川春子氏(共産党)の求めに応じて、警察庁がこの資料を提出したことにより、その存在が明るみに出た。1992年以来、従軍慰安婦問題を国会で追及してきた吉川議員は1996年11月に敗戦直後のアメリカ軍向け慰安所問題を国会で取り上げ、その設置を指示した内務省通達の提出を政府に要求したところ、警察庁総務課長が要求の文書は見つからなかったが、かわりに警察大学校でこれが偶然見つかったとして持参したものが、この内務省文書であった(『赤旗』1996年12月20日付、吉川春子『従軍慰安婦−新資料による国会論戦−』あゆみ出版、1997年)。
  そのうちの一部については、『赤旗評論特集版』1997年2月3日号の八木絹「旧内務省資料でわかった「従軍慰安婦」の実態」において史料紹介と解説がなされ、また吉川氏の前記著書にも、八木氏の解説を元にした紹介論文と、原史料を活字に起こしたものが巻末資料として収録されている。上のリストで*印のついているのは、吉川氏の著書に収録済みのものであり、**は八木論文と吉川前掲書の両方に全文が掲載されている文書である。また、第2グループの文書については、これによって慰安婦の徴集に関して軍出先、軍中央、内務本省、地方警察の指示系統がはっきりしたと注目する吉見義明氏が、再三の言及を行っている(吉見「歴史資料をどう読むか」『世界』1997年3月号、同「「従軍慰安婦」の歴史的事実」『従軍慰安婦と歴史認識』新興出版社、1997年、同「「従軍慰安婦」問題−研究の到達点と課題」『歴史評論』576号、1998年4月)。
  史料の欠落を埋める重要文書を発掘された吉川氏にはあらためて敬意を表しておきたいが、八木、吉川両氏の紹介や吉見氏の言及において論者の関心は前記二つのグループのうち、もっぱら第2グループの資料にむけられており(内容が内容だけにそれも無理はないのであるが)、第1グループについては8ー1や3、4の内容が簡単に紹介されるだけで、本格的な分析がなされるまでにはいたっていない。少なくとも、私がこれらの史料から読みとりえた知見は先行の業績ではふれられていない。せっかく苦労して発見された新史料である。それを十全にいかすためにも、私なりの解釈を提示すべきであると考え、あえて筆をとった次第である。
  そういう事情なので、第2グループの資料については、八木、吉川両氏の詳しい紹介と吉見氏の研究にゆずり、ここではとりあげないことにする。それらの業績を参照していただければ幸いである。
1.陸軍慰安所の設置に関する新史料

 前記資料番号5の和歌山県知事発内務省警保局長宛「時局利用婦女誘拐被疑事件ニ関スル件」(1938年2月7日付)なる文書中に、長崎県外事警察課長から和歌山県刑事課長に宛てて出された1938年1月20日付の回答文書の写しが参考資料として添付されている。さらにその長崎からの回答文書中には、在上海日本総領事館警察署長(田島周平)より長崎県水上警察署長(角川茂)に宛てた依頼状(1937年12月21日付)の写しが収録されている。
 まず、その依頼状の全文を引用する(句読点を適宜補った)。

   皇軍将兵慰安婦女渡来ニツキ便宜供与方依頼ノ件
 本件ニ関シ前線各地ニ於ケル皇軍ノ進展ニ伴ヒ、之カ将兵ノ慰安方ニ付、関係諸機関ニ於テ考究中ノ處、頃日来当館陸軍武官室憲兵隊合議ノ結果、施設ノ一端トシテ前線各地ニ軍慰安所(事実上ノ貸座敷)ヲ左記要領ニ依り設置スルコトトナレリ。  

 領事館
(イ)営業願出者ニ対スル許否ノ決定
(ロ)慰安婦女ノ身許及斯業ニ対スル一般契約手続
(ハ)渡航上ニ関スル便宜供与
(ニ)営業主並婦女ノ身元其他ニ関関係諸官署間ノ照会並回答
(ホ)着滬【上海の別称:永井】ト同時ニ当地ニ滞在セシメサルヲ原則トシテ許否決定ノ上直チニ憲兵隊ニ引継クモトス
 
 憲兵隊
(イ)領事館ヨリ引継ヲ受ケタル営業主並婦女ノ就業地輸送手続
(ロ)営業者並稼業婦女ニ対スル保護取締

 武官室
(イ)就業場所及家屋等ノ準備
(ロ)一般保険並検黴ニ関スル件
 
 右要領ニヨリ施設ヲ急キ居ル処、既ニ稼業婦女(酌婦)募集ノ為本邦内地並ニ朝鮮方面ニ旅行中ノモノアリ。今後モ同様要務ニテ旅行スルモノアル筈ナルカ、之等ノモノニ対シテハ、当館発給ノ身分証明書中ニ事由ヲ記入シ、本人ニ携帯セシメ居ルニ付、乗船其他ニ付便宜供与方御取計相成度。尚着滬後直ニ就業地ニ赴ク関係上、募集者抱主又ハ其ノ代理者等ニハ夫々斯業ニ必要ナル書類(左記雛形)ヲ交付シ、予メ書類ノ完備方指示シ置キタルモ、整備ヲ缺クモノ多カルヘキヲ予想サルルト共ニ、着滬後煩雑ナル手続ヲ繰返スコトナキ様致度ニ付、一応携帯書類御査閲ノ上御援助相煩度、此段御依頼ス

  前線陸軍慰安所営業者ニ対スル注意事項
 前線陸軍慰安所ニ於テ稼業スル酌婦募集ニ赴キ、同伴回滬セムトスルトキハ、予メ左記必要書類ヲ整ヘ、着滬ト同時ニ当館ニ願出許可ヲ受クベシ。若シ必要書類具備セサル場合ハ許可セサルト共ニ、直ニ帰京セシムルコトアルベシ。

             記
 一、本人写真二枚添付セル臨時酌婦営業許可願各人別ニ壱通(様式第一号)
 一、承諾書(様式第二号)
 一、印鑑証明書
 一、戸籍謄本
 一、酌婦稼業者ニ対スル調査書(様式第三号)

  昭和一二年一二月二十一日
                   在上海日本総領事館警察署

----------------------------------------------------------------
(様式第一号) 臨時酌婦営業許可願
  本籍
  現住所
  営業場所
       家号
       芸名
       本名
                   生年月日
 右者今般都合ニ依リ前記場所ニ於テ臨時酌婦営業致度候条、御許可相成度、別紙承諾書、印鑑証明、戸籍謄本、調査書並ニ写真二枚相添抱主連署ノ上、此段及奉願候也
  昭和  年  月   日
               右本ノ何某 印
               抱主 何某 印
 在上海
   日本総領事館  御中
--------------------------------------------------------------------
(様式第二号)    承諾書
  本籍
  住所
               稼業人
                     生年月日
 右ノ者前線ニ於ケル貴殿指定ノ陸軍慰安所ニ於テ酌婦稼業(娼妓同様)ヲ為スコトヲ承諾仕候也
   昭和 年 月 日
              右戸主又ハ親権者    何 某 印
              稼業者         何 某 印
--------------------------------------------------------------------
(様式第三号) 酌婦稼業者何某ニ対スル調査書(調査書)
 前居住地及来 年月日
 現住所
 教育程度経歴
 酌婦稼業ヲ為スニ至リタル理由
 刑罰ニ処セラレラレタル存否
 両親又ハ内縁ノ夫ノ有無其ノ職業
 別借金額
 参考事項
 備考
---------------------------------------------------------------------

 冒頭に、「之カ将兵ノ慰安方ニ付、関係諸機関ニ於テ考究中ノ處、頃日来当館陸軍武官室憲兵隊合議ノ結果、施設ノ一端トシテ前線各地ニ軍慰安所(事実上ノ貸座敷)ヲ左記要領ニ依り設置スルコトトナレリ」とあるように、この依頼状から、1937年の12月中旬に上海の総領事館と陸軍武官室と憲兵隊の三者間で協議がおこなわれた結果、前線に陸軍慰安所を設置することが決定され、その運用に関して三者間に任務分担の協定が結ばれたことが判明する。
  ここで言及されている陸軍武官室とは、正式には在中華民国大使館付陸軍武官とそのスタッフを意味するものと思われる。その長は大使館付陸軍武官の原田熊吉少将であり、1938年2月には中支特務部と改称される。参謀本部派遣の情報将校ではあるが、同時に軍事面での渉外事項や特殊な政治工作をも担当する陸軍の出先機関であった。上海戦がはじまってからは、上海派遣軍や中支那方面軍司令部の隷下にある陸軍特務機関として、第三国の出先機関・軍部との交渉、中国の親日派に対する政治工作、さらに上海で活動する日本の政府機関や民間団体との調整窓口の役割をはたしていた。なお、当時の上海総領事は岡本季正であった。
 軍慰安所の設置が軍の指示、命令によるものであったことは、この間の慰安所・慰安婦問題研究により明らにされており、今では広く受け入れられている事実といってよい。この在上海総領事館の依頼状は、すでに定説となっていることがらを再確認したにとどまるがともいえるが、軍の定めた慰安所規則などを別にすれば、日本の政府機関と軍(在上海陸軍武官室、総領事館、憲兵隊)によって慰安所の設置が決定されたことを直接的なかたちで示す公文書は、現状ではほとんど見あたらない。少なくとも日中戦争の初期段階においてはそうである。その意味では、この依頼状のもつ資料的価値はきわめて大きい。
  もっとも陸軍慰安所開設の決定そのものは、陸軍武官室や憲兵隊、領事館の権限だけでよくなし得るわざとはとうてい思われない。軍という組織のありかたからすれば、陸軍武官室と憲兵隊の双方に対して指揮権を有するより上級の組織、この場合は中支那方面軍で決定がなされ、それを受けてこの三者間で慰安所制度の創設と今後の運用のための細目協定が結ばれたと解すべきであろう。
 吉見氏および藤井忠俊氏の研究(吉見義明、林博史編著『共同研究日本軍慰安婦』大月書店、1995年)によれば、上海・南京方面での陸軍慰安所の設置に関する既存史料には次のようなものがある。(これ以外にも、慰安所を利用した兵士の日記・回想があるが略す)。

1. 飯沼守上海派遣軍参謀長の日記(南京戦史編集委員会編『南京戦史資料集T』偕行社、1993年)
* 1937年12月11日の項「慰安施設の件方面軍より書類来り、実施を取計ふ」
* 1937年12月19日の項「迅速に女郎屋を設ける件に就き長中佐に依頼す」
2. 上村利通上海派遣軍参謀副長の日記(同『南京戦史資料集U』偕行社、1993年)
* 1937年12月28日の項に「南京慰安所の開設に就て第二課案を審議す」
3. 山崎正男第十軍参謀の日記(同上) 
* 1937年12月18日の項に「先行せる寺田中佐は憲兵を指導して湖州に娯楽機関を設置す」
4. 在上海領事館警察の報告書(前掲吉見編『従軍慰安婦資料集成』)
* 1937年12月末の職業統計に「陸軍慰安所」の項目
5. 常州駐屯の独立攻城重砲兵第二大隊長の状況報告(同上)
* 1938年1月20日付「慰安施設は兵站の経営するもの及び軍直部隊の経営するもの二カ所あり」
6. 元陸軍軍医麻生徹男の手記によれば、1938年の2月には上海郊外の楊家宅に兵站司令部の管轄する軍経営の陸軍慰安所が開設されていた(高崎隆治編『軍医官の戦場報告意見集』不二出版、1990年)。また、1938年1月に軍の命令を受け、上海で奥地へ進出する娼婦(朝鮮人80名、日本人20名余り)の梅毒検査を実施した(麻生徹男軍医少尉「花柳病ノ積極的予防法」1939年6月26日、高崎編同上書)。

今回さらにこれに、

7. 在上海総領事館警察発長崎県水上警察署宛「皇軍将兵慰安婦女渡来ニツキ便宜供与方依頼ノ件」(1937年12月21日付)

が新たに加わったわけである。
  これらを総合すれば、1937年の遅くとも12月中旬には華中の日本陸軍を統括する中支那方面軍司令部レベルで陸軍慰安所の設置が決定され、その指揮下にある各軍(上海派遣軍と第10軍)に対して慰安所開設の指示が出されたと考えてまずまちがいない。
  それをうけて各軍で慰安所の開設が進められるとともに、関係諸機関(特務機関、憲兵隊、領事館)が協議して任務分担を定め、領事館は慰安所の営業主(陸軍の委託を受けて慰安所の経営をおこなう売春業者)および慰安所で働く女性の身許確認と営業許可業務、渡航上の便宜取り計らい、内地・植民地の関係諸機関との交渉にあたり、憲兵隊は営業主と従業婦の前線慰安所までの輸送手配と保護取締、特務機関が慰安所用施設の確保・提供と慰安所の衛生検査および従業酌婦の性病検査の手配を分担することになったのである。
 さらにこの依頼状が示しているのは、慰安所で働く女性の調達のために、軍と総領事館の指示を受けた業者が日本および朝鮮へ従業酌婦の募集に出かけたこと、および彼等の募集活動と集められた女性の渡航に便宜をはかるよう、内地の(おそらく朝鮮にも)警察にむけて依頼がなされたという事実である。
  この募集活動によって、実際に日本内地および朝鮮から女性が多数上海に連れられてきたことは、6の麻生軍医の回想から裏付けられる。なお、麻生に集められた女性100名の性病検査を命じたのは、「軍特務部」であり、その命令は1938年1月1日であった(麻生徹男『上海から上海へ』石風社、1993年)。この記述は、上記依頼状にみられる軍・憲兵隊・領事館の任務分担協定が現実に機能していたことを傍証するものといえよう。 

  さて、この史料に書かれてあるように、軍と総領事館の依頼を受けた業者は在上海総領事館の発行する身分証明書を所持して、日本内地及び朝鮮にわたり、慰安所ではたらく女性の募集活動に従事した。彼等がどのような方法で募集活動をおこなったかは、史料2〜7の警察報告に実例が出てくるので、あとで詳しく紹介したい。首尾よく応募者が得られれば、前借金幾ばくかを本人または親・配偶者に支払う代わりに、所定の期間陸軍慰安所で売春業に従事する旨の契約がかわされる。
  戦前の公娼制度のもとでは、売春に従事する女性(=娼妓あるいは酌婦)は必ず警察の営業許可を得、娼妓登録をしなければならない。前掲依頼状に添付された様式第一号から第三号はその許可申請および登録に必要な書類の雛形である。様式第一号は娼妓稼業のための営業許可願いであり、これに本人及び戸主(親権者)の同意を示す承諾書(第二号)と女性の個人情報を記入した調査書(第三号)をそえ、戸籍謄本、印鑑証明書とともにを提出して、警察の許可を受ける。営業を認められ、警察に登録された娼妓=酌婦がいわゆる公娼とよばれる存在である。
  しかし、陸軍慰安所は日本の国内に設置されたのではないので、この場合、営業許可願いを提出すべきもより警察は、上海の領事館警察となる。これはいうまでもなく、当時日本が中国において治外法権を有していたがためである。依頼状にはさまれている「前線陸軍慰安所営業者ニ対スル注意事項」なる文書は、陸軍慰安所で働く女性を上海に連れて帰ってきた営業主に対する注意書であるが、その内容からすれば、慰安所酌婦の営業許可申請と登録の義務およびその手続きを定めた領事館の指示とみなさなければならない。日本の国内法の「娼妓取締規則」(内務省令)(の一部)に相当するものといえよう。
  ここで、若干の補足をしておくと、戦前において中国在住の日本人(含む朝鮮人・台湾人)の風俗営業に対する行政は、主要な都市に設置された領事館の仕事であった。斉藤良衛の大著『外国人ノ対支経済活動ノ法的根拠』(外務省通商局、1937年)は、在中国領事館の行う風俗行政とくに売春行政を次のようにまとめている。

風俗衛生ニ関スル取締ニ芸妓、娼妓、酌婦、仲居、芸妓置屋及ビ見番営業ノ取締アリ。此等ノ者ニ対スル取締振ハ地方ニ依リ同一ナラズ、或ハ単ニ行政処分ニ依ルモノアリ、或ハ領事館令ヲ以テ法規的ニ取締ルモノアリ。(中略)各地ニ共通セルハ芸妓、酌婦又ハ料理店飲食店ノ傭婦タラントスル者ハ、当該領事館ノ許可ヲ受クルコトヲ要スルコト、許可申請ハ書面ヲ以テシ、其ノ本籍、住所、族称、其ノ他ノ身分ヲ明ラカニシ、且ツ芸名、又ハ稼業上ノ称呼、抱主、又ハ傭主ノ職業、屋号及ビ氏名ヲ明記シ、且ツ戸籍謄本、抱主又ハ傭主トノ契約書ノ謄本、医師ノ健康証明書、未成年者ハ親権者又ハ後見人ノ承諾書、夫アル者ハ其ノ同意書ヲ添付スルコト、許可ヲ受ケタル者ノ旅行又ハ外泊ハ当該領事館ノ許可ヲ受クベキコト、抱主又ハ傭主トノ貸借関係ヲ記載シタル帳簿ヲ所持シ及ビ検閲ヲ受ケルコトヲ要スルコト等ナリ

  上海では、売春業取締のため日露戦争後に「芸妓営業取締規則」「料理屋営業取締規則」が領事館令として制定され、それ以来、領事館警察はこれにしたがって在上海日本人経営の売春宿(=貸座敷)と娼妓(=乙種芸妓または酌婦)を取り締まっていた(藤永壮「上海の日本軍慰安所と朝鮮人」『国際都市上海』大阪産業大学産業研究所、1995年)。領事館令の定める内容は、大筋において上に斎藤が説くところと同じである。
  前記依頼状に引用されている関係機関の協定では、総領事館の任務に「営業願出者ニ対スル許否ノ決定」があげられ、陸軍慰安所についても既存の貸座敷および娼妓と同様、領事館警察が営業許可業務をおこなうこととされている。じっさい「前線陸軍慰安所営業者ニ対スル注意事項」にもられた手続きの内容は、上記斎藤の引用にある通常娼妓の場合とほとんど変わらない。その意味では陸軍慰安所といえども、既存の公娼制度の枠組みを踏襲しているといってまちがいない。

  しかし陸軍慰安所が領事館警察の風俗警察権の対象となる通常売春施設とまったく同様かといえば、もちろんそうではない。
  何よりも大きな相違は、領事館警察は中国へ渡ってくる慰安所営業主と酌婦のたんなる受け入れ窓口にすぎず、手続きが終われば、その身柄は軍に引き渡され、その日常的な保護取締権も領事館警察から憲兵隊に移されるという点にある。憲兵隊に移管と同時に領事館警察の風俗警察権の圏外に置かれるのであるから、陸軍慰安所は通常の貸座敷すなわち民間の売春施設とは性格が異なるといわざるをえない。
  通常一般の公娼施設は、それを利用する軍人・軍属の取締のために憲兵がそこに立入ることはあっても、売春業者や娼妓に対する風俗警察権は内務省警察・植民地警察・外務省警察などの文民警察に属し、軍事警察すなわち憲兵の関知するところではなかった(ただし、日露戦争中の満州や第一次大戦中の青島など、日本の軍政実施地域では、軍が行政権全般を掌握していたために、すべての風俗警察権(対日本人のみならず対中国人も)が軍事警察の管轄下におかれた)。ところが、陸軍慰安所の従業員は軍籍を有さない民間人でありながら、その場所で働いているかぎりは軍事警察権の管轄下におかれていたのである。これは慰安所が酒保などと同様に、前線近くに置かれた軍の兵站付属施設であり、軍人・軍属専用の性欲処理施設であったことに由来する。
  陸軍慰安所の酌婦の営業許可申請が「臨時酌婦営業許可願」とされていることもその特殊性のあらわれといえよう。通常の「芸妓営業取締規則」がそのまま適用される一般の酌婦ではなくて、戦時において特定の目的のために、特定の期間、特定の場所で営業が許される特別扱いの存在と見なされていたことを、これは示しているからである。中国への入国の際には領事館が関与するので、慰安所も通常の公娼制度の枠組みにしたがっているかのようにみえるが、実質的には慰安所は公娼制度の枠組みをなす既存の領事館令(「芸妓営業取締規則」と「料理屋営業取締規則」)の適用をうけないものと理解すべきであろう。

  1937年12月に陸軍と領事館との間に結ばれた風俗警察権の分界協定は、上海・南京戦が終了し、日本軍の駐屯と占領地支配の長期化が明確になった1938年4月になって、一部修正の上、再確認される。その年の4月16日に南京総領事館で陸海外三省関係者が開いた「在留邦人ノ各種営業許可及取締ニ関」する協議会で、次のような決定がなされた。なお、この協議会には、陸軍からは南京地区の兵站司令官のほか警備担当師団(第3師団)の参謀と軍医部員、特務機関と憲兵隊の代表、海軍から南京在勤武官と派遣軍艦の艦長、外務省側は在南京総領事以下のスタッフが出席している。

三、議決事項
(一)各種営業別ニ依ル許否ノ方針及許可ノ限度(中略)
但シ軍ニ対シ不利ヲ醸スカ如キ営業ハ適宜之ヲ制限スル様特ニ注意要スルヲ要ス。社会的影響大ナリト認メラルル特殊営業ニ対シテハ左記方針ニ依リ処理ス
(中略)
(ホ)芸妓置屋及待合
  願出アリタル場合ハ営兼ノ成リ立ツヤ否調査ノ上許可ス(ヌ)料理店、貸座敷、割烹飲食店、「カフェー」、喫茶店  許可ヲ受ケ未開業ノモノアリ、又稼業婦呼寄手続中ノモ  ノアルガ故ニ現在許可数ヲ以テ略需要ヲ満シ得ルモノト  認メラルルヲ以テ、暫ク経過ヲ見、更ニ不足ノ場合ハ改  メテ考慮スルコトトナスベシ
(中略)
(六)軍以外ニモ利用セラルル酒保慰安所ノ問題
陸海軍ニ専属スル酒保及慰安所ハ陸海軍ノ直接経営監督スルモノナルニ付、領事館ハ関与セザルベキモ、一般ニ利用セラルル所謂酒保及慰安所ニ就イテハ此ノ限リニアラズ、此ノ場合業者ニ対スル一般ノ取締ハ領事館其ノ衝ニ当リ、之ニ出入スル軍人軍属ニ対スル取締ハ憲兵隊ニ於テ処理スルモノトスル。尚憲兵隊ハ必要ノ場合臨時臨検其ノ他ノ取締ヲ為スコトアルベシ(中略)
軍専属ノ酒保及特種慰安所ヲ(陸海軍共)ニ於テ許可シタル場合ハ領事館ノ事務処理ニ便タル為、当該軍憲ヨリ随時其ノ業態営業者ノ本籍、住所氏名、年齢、出生、死亡、其ノ他身分上ノ異動ヲ領事館ニ通報スルモノトス
             (前掲吉見資料集p.178−180)

 上記引用から明らかなように、同じく南京方面で営業する邦人経営の売春施設とはいえ、民間の公娼施設(貸座敷)と軍専属の慰安所とでは、警察の管轄区分にはっきりとした差があり、その区分を今後とも維持していくことが総領事館と軍の間で再確認されたのである。前者の取締は領事館警察が担当するが、後者は軍事警察の領分とされ、領事館警察の関与の外におかれる。その結果、慰安所創設時の1937年12月の協定では、総領事館の分担とされていた慰安所酌婦の営業許可と登録の業務も、上記引用の協定では軍に帰属することとなり、総領事館側は事後に通報を受けるだけになったのである。
  ただし、利用者が軍人・軍属に限られず、一般民間人も利用する非専属の慰安所については実質的に一般の貸座敷と同等であるとして、領事館警察の管轄に移されることがここで合意されている。それ以前は、この種のものも軍の指定を受けた慰安所として領事館警察の管轄外におかれていたのであろう。短期間のうちに多数の慰安所を設けようとした軍の意向と、戦場景気をあてに一儲けできるうえ、領事館警察の規制から逃れられるのを期待した売春業者のねらいとが一致した結果、そのような状態が生まれたのであろうが、一般の公娼施設=領事館警察、軍専属慰安所=軍事警察との分界区分にあうように、「正常化」がはかられたのであろう。
  なお、この南京での議決事項の(六)の前半部分とまったく同文面の項目が、1938年3月に上海で催された陸海外三省関係官連絡会議の決定した「中支那方面陸海軍占領警備区域内営業取締規定」(前掲吉見編資料集p.181-182)にも見出されるので、上の管轄区分は南京だけに限られるものではなく、少なくとも華中の占領地全般に適用されたと考えて間違いない。陸軍慰安所が軍の管理下にある、軍付属の性欲処理施設であることがますます明確になったといえよう。
  なお、一般公娼施設と軍慰安所との間に明確に警察の管轄区分がなされていた点で、軍事警察が占領地の風俗営業取締を担当していた日露戦争中の満州軍政や第一次大戦期の青島占領とは性格を異にするのである。

  話をもどすと、日本内地または植民地において応募の女性またはその親権者等との間で契約を成立させた募集業者は、契約書と借用書に加えて「前線陸軍慰安所営業者ニ対スル注意事項」が定める各種書類を作成し、その上で女性を連れて上海に戻らなければならない(あるいは上海まで女性を送らなければならない)。しかし、日中戦争がはじまるや、日本国内から中国への渡航は厳しく制限され、原則として日本内地または植民地の警察署が発給する身分証明書がなければ、乗船・出国ができなくなっていた。
  しかも、1937年8月31日の外務次官通達「不良分子ノ渡支取締方ニ関スル件」(史料1)は各地の警察に対して、「混乱ニ紛レテ一儲セントスル」不良分子の中国渡航を「厳ニ取締ル」ため、「素性、経歴、平素ノ言動不良ニシテ渡支後不正行為ヲ為スノ虞アル者」には身分証明書の発行を禁止するよう指示し、さらに「業務上又ハ家庭上其ノ他正当ナル目的ノ為至急渡支ヲ必要トスル者ノ外ハ、此際可成自発的ニ渡支ヲ差控ヘシムル」よう指導せよと、命じていたのである。
  まともに申請すれば、「醜業」と蔑視されている売春業者や娼婦に対して身分証明書の発給が許されるはずはない。だからこそ、その隘路を回避するために、上海の領事館警察から長崎水上警察署に対して、陸軍慰安所の設置はたしかに軍と総領事館の決定に基づくものであり、決して民間業者の恣意的な事業ではないことを通知し、業者と従業女性の中国渡航にしかるべき便宜をはかってほしいとの要請がなされたのである。この依頼状の性格は、前記外務次官通達の定める渡航制限に緩和措置を求めたものと位置づけられる。
  さて、上海に到着した女性達は、募集業者ないし慰安所の営業主に連れられて総領事館に出頭して前記の書類を提出し、営業許可を申請することになる。総領事館の警察は書類に不備がないか、契約内容は適切か、確かに本人及び親権者の同意・承諾があるのかどうかを確認し、適切と認めたら、営業を許可し、公娼として登録する。不適当ならば申請を却下し、帰国させることになる。
  国内の公娼規則に従えば、18歳未満の女性、朝鮮・台湾の場合は17歳未満、また日本が結んだ国際条約の規定に遵えば、21歳未満の女性が娼婦になることは禁止されているので、身許確認とくに年齢のチェックは重要である。もっともよく知られているように、日本政府は植民地は右条約の適用外としたので、植民地の女性の場合はこの国際条約による年齢制限は意味をもたない。
  また売春をさせられることを知らされずに、あるいは実際の待遇とは異なる条件を聞かされるなど、詐欺や欺騙によって連れて来られたり、暴力的に拉致・略取されて来た場合、あるいは人身売買で連れてこられた場合には、刑法第226条の国外移送罪に該当する。またその事情を知っていて女性を収受した場合も刑法第227条の被拐取者収受罪に問われるおそれがある。実際、第一次上海事変時に売春に従事することを隠したまま、女給・女中の口があるとして女性を募集し、長崎から15人の日本人女性を上海へ送った事件で、「海軍指定慰安所」の経営者らが、1937年に国外移送誘拐罪で有罪の確定判決を受けたことが知られている。
  当然、領事館警察としてはそのような犯罪行為がおこなわれていないか、よく事情を聴取する義務があるといえよう。もしも、そのようなケースが発覚したら、募集業者や営業主を逮捕し、被害者の女性は救済して、出身地に送り届けるのが総領事館の役目であろう。しかし、吉見義明氏が指摘するような日本の軍と官憲の体質からすれば、総領事館がこの作業を厳密におこなったかどうかは、おおいに疑問といえよう(吉見義明『従軍慰安婦』岩波書店、1995年、p.90、105-107)。
  総領事館が営業許可を出せば、彼女たちの身柄は憲兵隊に移される。ここから先は軍の管理下におかれ、憲兵隊の指示のもとに軍の指定する前線の慰安所まで軍の輸送機関によって運ばれ、目的地に着くと軍の用意した施設に入る。警察に登録された公娼には義務として定期的な性病検査が課せられるが、陸軍慰安所の場合は、麻生軍医の回想にあるように、また多くの軍の慰安所規定が定めるように、軍医が性病検査を実施するのである。
2.日本国内における慰安婦募集活動

  前章でみたように、1937年の12月に中支那方面軍が陸軍慰安所の設置を決定したことをうけて、軍と総領事館の指示のもと、慰安所で働く酌婦の調達のため募集業者が日本国内および朝鮮に赴いた。この章では彼等がどのような活動をおこなったのかを警察の報告を材料に見ていきたい。
  まず最初にあげたいのは、和歌山県知事から内務省警保局長に宛てた1938年2月7日付の「時局利用婦女誘拐被疑事件ニ関スル件」と題した報告書である(前掲史料5)。

  1938年1月6日和歌山県田辺警察署は、管下の文里飲食店街を徘徊する挙動不審の男性3名に、婦女誘拐の容疑ありとして任意同行を求めた。3人のうち2人は大阪市の貸席業者(売春宿経営者)で、もう1人は地元海南市の紹介業者(=女衒)であった。
  彼等は自分たちは「疑ハシキモノニ非ス、軍部ノ命令ニテ上海皇軍慰安所ニ送ル酌婦募集ニ来タリタルモノニシテ、三千名ノ要求ニ対シ、七十名ハ昭和十三年一月三日陸軍御用船ニテ長崎港ヨリ憲兵護衛ノ上送致済ミナリ」ととなえ、文里港の料理店萬亭に登楼して、そこの酌婦に上海行きを勧めた。3人が「無智ナル婦女子ニ対シ金儲ケ良キ点、軍隊ノミヲ相手ニ慰問シ、食料ハ軍ヨリ支給スル等」と、常識では考えられないことをあげて、上海行きの勧誘をしているとの情報をつかんだ田辺警察暑は、婦女誘拐の疑いが濃厚と判断して3人の身柄を拘束し、取り調べたのである。
 取り調べにたいして、大阪の貸席業主金澤某は、次のように自供した。

  1937年の秋頃に大阪市の会社重役小西某、貸席業藤村某、神戸市の貸席業中野某の三人が、陸軍御用商人で氏名不詳の人物と共に上京し、徳久少佐なる人物の仲介で荒木貞夫陸軍大将(元陸軍大臣、当時は近衛内閣の内閣参議(大臣待遇の顧問))と頭山満(明治以来の右翼の大物)に会い、上海の皇軍の風紀・衛生上、年内に内地から3000人の娼婦を送ることになったとの話を、2人の貸席業主(金澤と佐賀某)が藤村から聞き込んだ。そこで、渡航娼婦を募集するために和歌山に来訪し、地元の紹介業者の協力を得て、募集活動にあたっているところである。
  すでに藤村と小西は女性70名を上海に送り、その際大阪九条警察署と長崎県外事課からの便宜供与をうけた。

  この供述だけでは、荒木、頭山が小西、藤村、中野等に慰安所酌婦募集を命じたのか、それとも別のルートで軍から依頼された彼等が、挨拶と協力依頼のために荒木、頭山に会いに行ったのか、どちらとも判断できないが、私は後述する史料10の内容から判断して後者ではないか考える。

  また、同じ供述によると、慰安所酌婦の契約条件は「上海ニ於テハ情交金将校五円、下士二円ニテ、二年後軍引揚ト共ニ引揚クルモノニシテ前借金ハ八百円迄ヲ出」すというもので、すでに御坊町でそれぞれ前借金470円、362円を受け取った2人の女性(26歳と28歳)が上海行きに応じていた。
  ここで提示されている条件を分かりやすく言えば、将校が慰安婦を買う料金が1回5円、下士官が2円、そして慰安婦は最高800円の前払金を一括して受け取るが、そのかわりに最低2年間は軍の指定する慰安所で売春に従事するよう拘束されるということである。 

  事情を聞いて不審に思った田辺警察はことの真偽を確かめるため、長崎県外事課と大阪九条警察署に照会した。前章で紹介した上海総領事館警察から長崎県水上警察署宛の依頼文書は、この田辺署の照会に答えた長崎県外事警察課長の回答に添付されたものにほかならない。
 長崎からは、照会のあった酌婦渡航の件は、上海総領事館警察の依頼に基づくものであり、長崎県警としては、総領事館が指定した必要書類を所持し、合法的雇用契約によると認められるものについては、いずれも上海行きを許可しているとの回答が寄せられた。
  この時点では、内務省は前にふれた史料8ー2「支那渡航ノ婦女ノ取扱ニ関スル件」(1938年2月23 日)を各道府県警察に通達しておらず、「業務上又ハ家庭上其ノ他正当ナル目的ノ為至急渡支ヲ必要トスル者ノ外ハ、此際可成自発的ニ渡支ヲ差控ヘシムルコト」と定める1937年8月の外務次官通達「不良分子ノ渡支取締方ニ関スル件」がまだ有効であったから、軍及び総領事館からの前もっての依頼がなければ、長崎県警が女性の渡航を許可したかどうかは大いに疑問である。
 逆に言えば、この第1回の渡航を認めた時点で、長崎県警は陸軍慰安所要員の渡航は「業務上正当ナル目的」を有するものと認定したことになる。もちろんその根拠は、慰安所の設置が軍の決定に基づくものであり、慰安婦の募集と渡航に便宜をはかってくれるようにとの要請が総領事館から前もってなされていたことにある。
 吉見編『従軍慰安婦関係資料集』101ページには、1937年11月30日付で海軍慰安所酌婦二人に上海への渡航許可を与えた旨の福岡県知事の報告が収録されているが、これは海軍であってここで問題にしている陸軍の決定とは直接関係はないと思われる。しかし、やはり何らかのかたちで軍当局の便宜供与要請があったと推測される。
 また、次に示す大阪九条署からの回答は、内務本省からも渡航を認めるよう、内々の指示があったことを思わせる。
  大阪の九条警察署の回答は概略以下のようなものであった。

 上海派遣軍慰安所従業酌婦の募集につていは、内務省より非公式に大阪府警察部長(荒木義夫)へ依頼があったので、大阪府としても相当の便宜をはかり、既に1月3日に第1回分を渡航させた。田辺署取調中の貸席業者はいずれも九条署管内の居住者で、身元不正者でないことを九条警察署長(山崎石雄)が証明するので、しかるべく取り計られたい。

  この回答書から、1月3日に長崎から上海に70名女性が送られたとする金澤の供述が裏付けられたといえよう。その一部は大阪で集められたようであり、内務省の非公式の指示のもとに大阪の警察は慰安婦の渡航に便宜をはかったのである。
  金澤の供述を裏付けるとともに、慰安婦の募集と渡航に便宜をはかるよう内務本省から非公式の指示があったとする九条警察署長の言の正しさを示すのが、史料10「醜業婦渡支ニ関スル経緯」と題された手書きメモである。以下に全文を引用する。

一、十二月二十六日内務省警務課長ヨリ兵庫県警察部長宛『上海徳久■■■、神戸市中野■■■ノ両名ハ上海総領事館警察署長ノ証明書及山下内務大臣秘書官ノ紹介名刺ヲ持参シ出頭スル筈ニ付、事情聴取ノ上何分ノ便宜ヲ御取計相成度』トノ電報アリ
一、同月二十七日右両名出頭セルガ内務大臣秘書官ノ名刺ヲ提出シ徳久ハ自身ノ名刺ヲ提出セズ且身分ヲモ明ニセズ。中野ハ神戸市福原町四五八中野□□ナル名刺ヲ出シタルガ、同人ノ職業ハ貸座敷業ナリ
一、同両人ノ申立ニ依レバ、大阪旅団勤務ノ沖中佐ト永田大尉トガ引率シ行クト称シ、最少限五百名ノ醜業婦ヲ募集セントスルモノナルガ周旋業ノ許可ナク、且年末年始ノ休暇中ナルガ枉ゲテ渡支ノ手続ヲセラレ度キ旨ノ申述アリ
一、兵庫県ニ於テハ一般渡支者ト同様身分証明書ヲ所轄警察署ヨリ発給スルコトヽセリ
一、神戸ヨリ乗船渡支シタルモノナキモ陸路長崎ニ赴キタルモノ二百名アル見込ミ
一、一月八日神戸発臨時船丹後丸ニテ渡支スル四、五十名中ニ湊川警察署ニ於テ身分証明書ヲ発給シタルモノ二十名アリ
一、周旋業ノ営業許可ナキ点ハ兵庫県ニ於テハ黙認ノ状態ニアリ
(前掲『政府調査「従軍慰安婦」関係資料集成』第1巻、P.105-109)

  このメ モは欄外に「内務省」と印刷されている事務用箋に記されており、内容から判断して、1938年1月の第1回の慰安婦送出のあと、本省側が兵庫県警に事情を聴取した際のメモと思われる。なお、山下内務大臣秘書官とあるのは山下知彦。海軍大将山下源太郎の養嗣子で、男爵・海軍大佐、36年3月に予備役となり、末次信正の内務大臣就任とともにその秘書官に起用された。
  引用からわかるように、1937年12月26日に内務省警務課長(数藤鉄臣)から兵庫県警察部長(纐纈弥三)宛に上海の徳久と、神戸市の中野が協力要請におもむくので、何分の便宜を取り計らってほしいとの電報が届き、翌27日には徳久、中野の2人が内務大臣秘書官の名刺を示した上で、軍に協力して最小限500名の慰安婦を募集中であり、周旋業の免許のない点には目をつむって、渡航許可を与えて欲しいと頼んだのである。
 兵庫県警は二人の要請を容れて、違法行為には目をつぶり、集められた女性に身分証明書を発給した。長崎、大阪につづいて兵庫県警も募集業者に協力し、慰安婦の調達に支援を与えた。それだけでなない、非公式にではあるが、内務本省の高官(秘書官や警務課長)も彼らの便宜をはかっていたのである。和歌山田辺の事件に関連して大阪九条警察署長は「内務省ヨリ非公式ナガラ當府警察部長ヘノ依頼」があったと回答したが、このメモから判断して、同様のはたらきかけが大阪府警察部長にもなされたものと考えてまちがいないであろう。
  すでに見たように、徳久と中野の二人は田辺の事件にも名前が出ていた。上海総領事館警察署長の証明書を所持する彼らは、上海で軍・総領事館から慰安婦の調達を依頼された一連の業者の一員とみてまちがいない。徳久と中野が実在し、しかもそのような人物であったとすれば、細かい点はともかくとして、藤村経由で中野の話を聞いたと思われる金澤の供述には信用がおけそうであある。
  以上のことから、事実関係をまとめなおすと、上海で陸軍が慰安所の設置を計画し、総領事館とも協議の上、そこで働く慰安婦を調達するため募集業者を日本内地、朝鮮に派遣した。その一人であった身許不詳の人物徳久と神戸の貸席業者中野は上海総領事館警察署長の発行した身分証明書を持参して日本に戻り、知り合いの売春業者や周旋業者に軍は3000人の娼婦を集める計画であると伝え、女性の手配を依頼した。さらに警察に対しては慰安婦の募集および渡航に便宜供与をはかってくれるよう申し入れをなし、その際なんらかの伝手をたどって内務省高官の諒解を得えうのに成功した彼らは、内務本省から大阪、兵庫の両警察に対し彼らの活動に便宜を供与すべしとの内々の指示を出させたのであった。
 大阪、兵庫両警察は売春目的の渡航であることを知りつつ、しかも募集行為の違法性(営業許可をも たない業者による周旋・仲介である点)には目をつむり、集められた女性の渡航を許可した。上海に送られた女性の人数は正確にはわからないが、関西方面では最低500人を集める計画であり、1938年1月初めの時点で、大阪から70人、神戸からは220人ほどが送られたと推測される。
  このような慰安婦の徴集に対する内務省・警察の関与は、第21軍と陸軍省徴募課の求めに応じてなされた1938年11月の400名輸送の際には、より組織的に展開される。警保局から大阪、京都、兵庫、福岡、山口各府県にそれぞれ調達すべき人数が割り当てられ、当該府県知事あてに警保局長から、女性を引率して華南にわたり、そこで軍慰安所を経営することになる抱主の選定と取扱が依頼され、引率の方法、渡航婦女の取扱、抱主との契約、募集の方法、予防注射・健康診断、慰安所設置場所、営業指導について詳細に定めた極秘の通牒(史料9ー2)が出されたのである。

  最後に、長崎県及び大阪九条署からの回答を受けた和歌山県警の下した処置だが、同警察は、皇軍慰問所の事実の有無は不明であるが、容疑者の身元も判明し、九条警察署が「酌婦公募証明」を出したので、なお疑義の点は多々あり、真相確認後さらに取り調べをなす必要はあるけれども、容疑者の逃走、証拠隠滅のおそれはないと認めて、1月10日に3人の身柄を釈放したのであった。
  もしも、「皇軍慰問所」のことが事実でなければ、すなわちこの話が、戦場で一儲けをたくらむ売春業者が女性をだまして中国へ連れていくためのウソであったならば、金澤らは釈放されることなく、国外移送拐取またはその未遂で逮捕・送検されたにちがいない。田辺警察の最初の反応にあらわれたように、売春業者や周旋業者による中国向け売春婦募集は女性を甘言でつって国外に売り飛ばす行為だと誰しも思うにちがいないからである。
  ところが、「皇軍慰問所」がまぎれもない事実であったとしたらどうであろう。国外で売春に従事させる目的で女性を売買し(前借金で拘束し)、外国に送るという行為の本質においてはまったく変わりはないのに、ウソを言って騙しているわけではないので誘拐にはならない。逆に「酌婦公募」として警察から認定される行為となるのである。和歌山県警は、金澤らの女衒的行為がたしかに軍と総領事館の要請に基づき、また警察が内々に協力していることが判明した時点で、犯罪容疑として取り調べるのを放棄した。こういうかたちで、慰安婦の募集と渡航が合法的なものと認定されていったのである。

  次に、和歌山田辺の事件とは異なり、誘拐容疑で警察に検挙されることはなかったが、群馬、茨城、山形で積極的な募集活動を展開し、そのため警察から「皇軍ノ威信ヲ失墜スルモ甚シキモノ」あると認定された神戸市の貸座敷業者大内某の活動を紹介する。
  群馬県警が得た情報によると、大内は1938年1月5日、前橋市内の周旋業者反町某に次のように話をもちかけ、慰安所で働く酌婦の募集を依頼した(前掲史料1 群馬県知事発内務大臣・陸軍大臣宛「上海派遣軍内陸軍慰安所ニ於ケル酌婦募集ニ関スル件」(1938年1月19日付))。

1. 出征すでに数ヶ月に及び、戦闘も一段落ついて駐屯の体制となった。そのため将兵が中国人売春婦と遊ぶことが多くなり、性病が蔓延しつつある。
2. 「軍医務局デハ戦争ヨリ寧ロ此ノ花柳病ノ方ガ恐シイト云フ様ナ情況デ、其処ニ此ノ施設問題ガ起ツタ」。
3. 「在上海特務機関ガ吾々業者ニ依頼スル処トナリ、同僚」の目下上海で貸座敷業を営む神戸市の中野を通して「約三千名ノ酌婦ヲ募集シテ送ルコトトナッタ」。
4. 「既ニ本問題ハ昨年十二月中旬ヨリ実行ニ移リ、目下二、三百名ハ稼業中テアリ、兵庫県ヤ関西方面デハ県当局モ諒解シテ応援シテイル」
5. 「営業ハ吾々業者ガ出張シテヤルノデ、軍ガ直接ヤルノデハナイガ、最初ニ別紙壱花券(兵士用二円将校用五円)ヲ軍隊ニ営業者側カラ納メテ置キ、之ヲ使用シタ場合、吾々業者ニ各将兵ガ渡スコトヽシ、之レヲ取纏テ軍経理部カラ其ノ使用料金ヲ受取ル仕組トナツテイテ、直接将兵ヨリ現金ヲ取ルノデハナイ。軍ハ軍トシテ慰安費様ノモノカラ其ノ費用支出スルモノラシイ」
6. 「本月二六日ニハ第二回ノ酌婦ヲ軍用船デ(神戸発)送ル心算デ目下募集中テアル」

また前掲3 山形県知事発内務大臣・陸軍大臣宛「北支派遣軍慰安酌婦募集ニ関スル件」(1938年1月25日付)によれば、

7. 大内は、最上郡新庄町の芸娼妓酌婦紹介業社戸塚某のもとに現れ、「今般北支派遣軍〔上海派遣軍のまちがいであろう−永井〕ニ於テ将兵慰問ノ為全国ヨリ二千五百名ノ酌婦ヲ募集スルコトヽナリタル趣ヲ以テ、五百名ノ募集方依頼越下リ□、酌婦ハ年齢十六才ヨリ三十才迄、前借ハ五百円ヨリ千円迄、稼業年限二ヶ年之ガ紹介手数料ハ前借金ノ一割ヲ軍部ニ於テ支給スルモノナリ」と述べ、勧誘した。

また、前掲6 茨城県知事発内務大臣・陸軍大臣宛「上海派遣軍内陸軍慰安所ニ於ケル酌婦募集ニ関スル件」(1938年2月14日付)からは、 

8. 大内は茨城県出身であり、1938年1月4日頃遠縁にあたる茨城在住の人物に上海派遣軍酌婦募集のことを話して協力を求め、その人物を通じて県下の周旋業者大川某に斡旋を依頼した。
9. 大川の仲介で、大内は水戸市の料理店で稼業中の酌婦2名(24才と25才)とそれぞれ前借金642円、691円で契約し、上海に送るため1月19日神戸に向けて出発した。(その契約内容については後述)

ことがわかる。

 上の1から6のうち、次の諸点については、他の史料から裏付がとれるので、大内の語ったことはおおむね事実であったと解される。
 まず、1の「在上海特務機関」とは、最初に紹介した上海総領事館警察署長の依頼状にある「陸軍武官室」にほかならない。また、大内に「在上海特務機関」の慰安婦募集の依頼を伝えたとされる神戸の中野は、和歌山の婦女誘拐容疑事件や前記内務省メモに出てくる中野にほかならない。また、「酌婦三千人募集計画」の話は和歌山の事件の被疑者の供述にも出てくる(山形県の報告では「二千五百人計画」に縮小している)。
  これらのことから、軍の依頼を受けた中野が知り合いの売春業者や周旋人に軍の「酌婦三千人募集計画」を打ち明けて、協力を仰いだという大内の言には十分信をおいてよいだろう。また、4の「既ニ本問題ハ昨年十二月中旬ヨリ実行ニ移リ」や「兵庫県ヤ関西方面デハ県当局モ諒解シテ応援シテイル」も、既に紹介した史料に照らし合わせて間違いのない事実である。
  逆に大内の言葉から、なぜ神戸の中野が上海の特務機関と総領事館から依頼をうけたのかその理由が判明する。中野は神戸で貸席業を営むほか、上海にも進出していたのである。
  警察報告にあらわれた大内の言葉のうち、少なくとも3、4は事実に即したもので、誇張や虚偽はかりに含まれていてもわずかである。ならば、彼が語ったとされる慰安所の経営方針(上記5)も、根も葉もない作り話として一笑に付するわけにはいかないだろう。少なくとも、大内は中野からそれ軍の方針として聞かされたのはまちがいない事実といえよう。
  大内が勧誘にあたって示したとされる一件書類(契約書、承諾書、借用証書、契約条件、慰安所で使用される花券の見本)の中の承諾書が、前に紹介した上海総領事館の定める承諾書と、まったく同一のものであることと、派遣軍慰安所と記された「花券」(額面5円と2円の二種類−和歌山事件の金澤は「上海ニ於テハ情交金将校五円、下士二円」と供述していた−)を所持していたことが、それを裏付ける傍証となろう。
在上海総領事館警察「前線陸軍慰安所営業者ニ対スル注意事項」に定める承諾書(再掲)

   承諾書
本籍
住所             稼業人
                    生年月日
右ノ者前線ニ於ケル貴殿指定ノ陸軍慰安所ニ於テ酌婦稼業(娼妓同様)ヲ為スコトヲ承諾仕候也
   昭和 年 月 日
          右戸主又ハ親権者    何 某 印
          稼業者         何 某 印

大内の携帯していた承諾書(群馬県知事発内務大臣・陸軍大臣宛「上海派遣軍内陸軍慰安所ニ於ケル酌婦募集ニ関スル件」(1938年1月19日付))

    承諾書
本籍
住所             稼業人
                       年 月 日 生
右ノ者前線ニ於ケル貴殿指定ノ陸軍慰安所ニ於テ酌婦稼業(娼妓同様)ヲ為スコトヲ承諾仕候也
   昭和 年 月 日
            右戸主又ハ親権者
            稼業人 

  5で述べられているのが慰安所の経営方針であるとすると、慰安所は軍の設置する軍専属の将兵向施設であるが、日常的な経営は業者に委託されることになっていた。しかし、利用料金の支払いは、利用者が直接現金で行うのではなくて、軍の経費(=慰安費)からまかなわれるしくみであった。言い換えると、軍は所属兵員に無料の買春券を交付する計画をたてていたのである。このシステムでは、慰安婦の性を買うのは、個々の将兵ではなくて軍=国家である。もちろん、実際の慰安所ではこのような支払い方法は採用されなかった。だから、これがほんとうに軍の方針そのものであった断定することはできないのだが、しかしかえってこの計画にこそ、慰安所の性格がよくあらわれているのではないだろうか。 

  最後に、大内が慰安婦の勧誘にあたって周旋業者や応募した女性に提示した契約条件を紹介する。大内は募集活動を行うにあたって、まず下記のような趣意書を知り合いに配布し、その協力をよびかけた。慰安婦の契約条件はこの趣意書に記されていたのである。また、先に紹介した「承諾書」以外に、募集に応じた女性(ないしその親権者)との間にかわす「契約書」と「金員借用証書」の雛形も携帯していた。趣意書と契約書と金員借用証書の写しは群馬県警察と茨城県警察の報告に収録されている(ただし、「承諾書」と「壱花券」(買春券)は群馬のみ)。
 上海派遣軍慰安所酌婦契約条件(群馬県知事発内務大臣・陸軍大臣宛「上海派遣軍内陸軍慰安所ニ於ケル酌婦募集ニ関スル件」(1938年1月19日付))

拝啓年内余日も無之嘸御繁忙の事と奉存候陳者今回軍部の御了解の元に中支方面に皇軍将士慰安を目的とする慰安所設立致す事と相成り左之条件を以て約五百名の酌婦を募集致候に付何卒大至急御手配煩し度御報知次第直に出張可仕候間御一報被下度奉願候
 昭和十二年十二月二十八日                              大内
       殿

     条  件
一、契約年限     満二ヶ年
一、前借金      五百円ヨリ千円迄
  但シ、前借金ノ内二割ヲ控除シ、身付金及乗込費ニ充当ス
一、年齢        満十六才ヨリ三十才迄
一、身体壮健ニシテ親権者ノ承諾ヲ要ス。但シ養女籍ニ在ル者ハ実家ノ承諾ナキモ差支ナシ
一、前借金返済方法ハ年限完了ト同時ニ消滅ス
  即チ年期中仮令病気休養スルトモ年期満了ト同時前借金ハ完済ス一、利息ハ年期中ナシ。途中廃棄ノ場合ハ残金ニ対シ月壱歩
一、違約金ハ一ヶ年内前借金ノ一割
一、年期途中廃棄ノ場合ハ日割計算トス
一、年期満了帰国ノ際ハ、帰還旅費ハ抱主負担トス
一、精算ハ稼高ノ一割ヲ本人所得トシ毎月支給ス
一、年期無事満了ノ場合ハ本人稼高ニ応ジ、応分ノ慰労金ヲ支給ス
一、衣類、寝具食料入浴料医薬費ハ抱主負担トス

  このような契約は「身売り」とよばれ、現在なら立派な売春防止法違反であるが、戦前の判例解釈では、娼妓の契約を売春に従事することを約束させる契約(娼妓稼業契約)と前借金に関する契約に分け、前者は公序良俗に反するので無効であるが、後者の金銭貸借契約は前者が無効になっても有効性を失わないという、ややこしい理屈で、このような人身売買契約を容認していた(この解釈は1955年の最高裁の判例で否定される)。これが、人身売買として認定されておれば、大内の行為は「帝国外ニ移送スル目的ヲ以テ人ヲ売買」するものにほかならないので、刑法226条の人身売買罪に該当する。しかし、当時の法解釈では、このような娼妓契約は「公序良俗」に違反する民法上無効な契約とはされても、刑法上の犯罪を構成する「人身売買」とはみなされなかったのである。
  この契約を結べば、前借金(借金額は500円から1000円だが、そのうち2割は周旋業者や抱主がさっ引くので、実際の手取りは400円から800円まで、2年で2割5分の甚だしい高利である)を受け取る代わりに、向こう二年間軍の慰安所で売春稼業をつとめなければならない。衣類、寝具、食料、医薬費は抱主の負担とされているが、給与は毎月稼高の一割だから、かりに毎日兵士5人の相手をして(日本国内の平均人数)、実働25日としても、月25円にしかならない。50円を稼ごうとすれば、毎日10人を相手にしないといけない。
  しかも下記契約書では、所得の半分は強制的に貯金することになっている。戦前公娼制度のもとでの年季契約の具体的内容についてはよく知らないが、途中で病気休養しても2年たてば前借金がなくなるとされている点、食料だけでなく衣類や医薬費も抱主負担としている点で、通常の契約よりは有利なのかもしれない。 稼高の一割が本人所得になるのは、だいたい当時の相場ではないかと思われる。
 問題なのは年齢条項であり、十六才から三十才という条件は、娼妓取締規則が定める「十八歳未満は娼妓たることを得ず」に完全に違反している。また、日本が結んだ国際条約「婦人及児童の売買禁止に関する国際条約」(1925年批准)にも抵触する。この契約条件が、上海での軍・総領事館協議において承認されたものなのかどうか、そこが議論のポイントの一つとなろう。私見では、この契約条件がまったく大内の独断で作成 されたとはとても思えない。何らかの形で軍・総領事館警察との協議はなされていた(たとえそれが契約条件は業者に任せるとの諒解であっても)、にちがいないと思われる。
  しかし、この年齢条件の一点をのぞいては、趣意書の文面といい、契約条件の内容といい、公娼制度の現実を前提にし、さらに軍の慰安所が実在し、公認されうるものと仮定するかぎりでは、当時の感覚からはとりたてて「違法」あるいは「非道」とは言い難い内容の募集活動であったといわざるをえない。警察は要注意人物として大内の活動に監視の目を光らせ、大内から勧誘された周旋業者を説諭して、慰安婦の募集を断念させたりしたが(山形)たが、しかし和歌山でのように婦女誘拐容疑で検挙するにはいたらなかった。
 あと参考のために、大内が配布した「契約書」「金員借用証書」の雛形も下に掲げておく。
契約書と金員借用証書 (群馬県知事発内務大臣・陸軍大臣宛「上海派遣軍内陸軍慰安所ニ於ケル酌婦募集ニ関スル件」(1938年1月19日付))

         契約書
一、稼業年限
一、契約金
一、上海派遣軍内陸軍慰安所ニ於テ酌婦稼業ヲ為スコト。
一、賞与金は揚高ノ一割トス(但シ半額ヲ貯金スルコト)
一、食費衣裳及消耗品ハ抱主負担トス。
一、年限途中ニ於テ解約ノ場合ハ元金残額違約金及抱入当時ノ諸費用一切ヲ即時支払ヒ申スベキコト
右契約条項確守履行仕ル可ク依而契約証書如件。
  昭和 年 月 日
  本籍地
  現住所
               稼業人
  現住所
               連帯人
       殿
        金員借用証書
一、金
右之金員拙者要用ニ付キ正ニ請取借用仕候事実正也然ル上ハ返済方法ハ別紙契約書ニ基キ           酌婦稼業ヲ為シ御返済申ス可ク万一本人ニ於テ契約不履行ノ節ハ拙者等 連帯者ニ於テ速カニ御返金仕ル可ク為後日借用証書依而依如件
   昭和 年 月 日
  本籍地
  現住所
              借用主
  現住所
              連帯者
         殿

  第1グループの警察報告にあらわれる募集業者の活動は、これ以外にあと2件ある。
ひとつは、史料4の高知県知事の報告に出てくるもので、「最近支那渡航婦女募集者簇出ノ傾向アリ之等ハ主トシテ渡支後醜業ニ従事セシムルヲ目的トスルモノニシテ一面軍ト連絡ノ下ニ募集スルモノヽ如キ言辞ヲ弄スル等不都合ノモノ有之」ろあるだけで、具体的なことは何も述べらていない。
  最後の1件は、宮城県名取郡在住の周旋業者村上某宛に、福島県平市の同業者長谷川某から「上海派遣軍内陸軍慰安所ニ於ル酌婦トシテ年齢二十歳以上三十五歳迄ノ女子ヲ前借金六百円ニテ約三十名位ノ周旋方」を依頼する葉書が来たというもので、警察は村上の意向を内偵し、本人に周旋の意志のないのを確認させている。

  以上が、警察報告に現れた業者の募集活動のすべてである。じつはこれ以外にも警察報告がなされており、現在に伝わっていないだけなのかもしれないが、これ以降の考察は、これがすべてであるとの仮定のもとに進めていくことにする。
  さて、話をこの間の従軍慰安婦論争でその解釈が争点のひとつともなった、有名な文書、前掲Bの陸支密第745号「軍慰安所従業婦等募集ニ関スル件」(1938年3月4日)に戻したい。
  この文書は吉見義明氏の発見にかかるもので、軍が慰安婦の募集を含めて統制・監督していたことを示す資料として、1992年に朝日新聞で大々的に報道されたものである。吉見氏の解釈では、これは「陸軍省は、派遣軍が選定した業者が、誘拐まがいの方法で、日本内地で軍慰安婦の徴集をおこなっていることを知っていた」ことを示す史料であり、そのようなことがつづけば、軍に対する信頼が崩れるおそれがあるので、「このような不祥事を防ぐために、各派遣軍が徴集業務を統制し、業者の選定をもっとしっかりするようにと指示したのである」とされる(吉見『従軍慰安婦』p.35)。別の論文では陸軍省が「強制徴集(物理的な強制のみならず、だましたり、精神的な強制を加える場合も含む)の事実をつかんで」いたことを示す史料とされ、それゆえ軍には「それを防止する義務があったことになる」と言われている(吉見編『共同研究日本軍慰安婦』p.21)。
  いっぽう、自由主義史観派の論客は、これをもって「内地で誘拐まがいの募集をする業者がいるから注意せよという(よい)「関与」を示すものだ」「これは違法な徴募を止めさせるものだ」(小林よりのり『新ゴーマニズム宣言第3巻』小学館、1997年、p.165)、「「内地で軍の名前を騙って非常に無理な募集をしている者がおるから、これを取り締まれ」というふうに書いてあるわけです」(同『歴史教科書との15年戦争』PHP研究所、1997年、p.77)、「悪質な業者が不統制に募集し「強制連行」しないよう軍が関与していたことを示している」(高橋史朗「破綻した「従軍慰安婦の強制連行」説」『新しい日本の歴史が始まる』幻冬舎、1997年、p.144)、「慰安婦を集めるときに日本人の業者のなかには誘拐まがいの方法で集めている者がいて、地元で警察沙汰になったりした例があるので、それは軍の威信を傷つける。そういうことが絶対ないように、業者の選定も厳しくチェックし、そうした悪質な業者を選ばないように−と指示した通達部署だったのです。ですから、強制連行せよという命令文書ではなくて、強制連行を業者がすることを禁じた文書」(藤岡信勝『歴史教科書との15年戦争』p.58)と、とらえる。
  どちらも、前提として日本国内では悪質な募集業者による「強制連行」「強制徴集」が現実に発生していて、それをふまえてこの通牒が出されたのだとする点では共通している。小林よしのり氏を批判する上杉聡氏も「強制連行」の事実を示す資料としてとらえたうえで、そのような悪質な「業者の背後に軍部があることを「ことさら言うな」と公文書が記しているのだ。強制連行だけでなく、その責任者もここにハッキリ書かれている」(上杉『脱ゴーマニズム宣言』東方出版、1997年、p.77)としている。
  しかしながら、新発見の警察資料を見る限り、ここに出てくる「募集ノ方法、誘拐ニ類シ警察当局ニ検挙取調ヲ受クルモノアル」に該当するのは、以上の考察から明らかなように、和歌山田辺の婦女誘拐容疑事件のみである。この陸支密第746号の「募集ノ方法、誘拐ニ類シ警察当局ニ検挙取調ヲ受クルモノアル」が田辺事件をさしているのだとすると、この史料の上のような解釈は見直しをせざるをえなくなる。
  というのは、この事件で事情聴取された業者の勧誘行為は、たしかに軍慰安所なるものがなければ、まったくの詐欺・誘拐にほかならないが、軍慰安所の存在がまぎれもない事実であるとすると、そう簡単に誘拐とは断定できない性格の行為だからである。
  たとえ、本人の同意があろうとも、売春させるのを目的に前借金契約をかわして国外に女性を連れ出すことそれ自体が違法であるなら話はまったく別であるが、そうでないとすれば、この業者のやったことは、軍の要請に応じて、その提示条件をもとに、酌婦経験のある成人の女性に、むこうについて何をするのかをきちんと説明した上で、上海行きを誘っただけであって、決してウソ偽りをいってだましたのではない。まして、拉致・略取などを企てたりはしていない。考えてみれば、慰安婦の勧誘法としてはこれ以外にどんな方法がありえるだろうか。
  警察資料に登場する慰安婦募集活動は、いずれもこの和歌山田辺で行われたのと大同小異のものばかりであって、軍の定めた条件を提示して女性を勧誘ないし募集するだけで、詐欺や拉致・拐取の事件は一例もみあたらない。違法性が否定できないのは、大内の示した契約条件の年齢条項だけである。しかし、未成年の女性を勧誘した事実は警察報告にはあげられていない。
 現存する警察資料が明らかにしている事実関係からすれば、この有名な通牒が出されたときに現実に問題となった「誘拐」行為は、じつは慰安所そのものが合法ならば、当然合法とみなされるべきたぐいの行為にすぎなかった。現実には拉致・監禁や詐欺行為が起こっていたのではないとすると、この通牒それ自体も、直接的にはその種の行為を禁止することを目的に出されたのではないと解さざるをえない。いったい何が取り締まらなければならないとされたのか、それを理解するには、このような活動に地方の警察がいったいどうのように反応したのかを検討する必要がある。
3.地方警察の反応

 大内の募集活動を探知した群馬県警察はこれに対してどのような反応を見せたのか。
前記1の史料は次のような言葉で締めくくられていた

本件ハ果タシテ軍ノ依頼アルヤ否ヤ不明、且ツ公秩良俗ニ反スルガ如キ事業ヲ公々然ト吹聴スルガ如キハ皇軍ノ威信ヲ失墜スルモ甚シキモノト認メ、厳重取締方所轄前橋警察署長ニ対シ指揮致置候

  この史料からは、ほんとうに軍がそのような決定・依頼をしたのかどうか、警察にはにわかに信じがたいものがあったらしいことがわかる。上海総領事館警察から正式の通牒を受取っていた長崎県警察や、内務省から非公式の指示を受けた兵庫県、大阪府警察は軍の要請に基づく慰安婦の募集活動であることを知らされており、それゆえ内々にその活動に便宜をはかったのだが、その連絡を受けていない関東や東北では、大内の言うことは荒唐無稽に聞こえたにちがいない。軍が売春施設にほかならない慰安所を設置し、そこで働く女性を募集しているとの話そのものが公秩良俗に反するものであり、それを公然とふれまわるにいたっては、皇軍の名誉を著しく傷つける行為であると見なされたことも、以上の引用から明らかである。
 この反応は、他の二県(山形、茨城)にも共通している。どちらも警察の察知した大内の活動内容は群馬でのそれと大同小異であったが、山形県の報告では

如斯ハ軍部ノ方針トシテハ俄ニ信ジ難キノミナラズ、斯ル事案ガ公然流布セラルゝニ於テハ、銃後ノ一般民心殊ニ応召家庭ヲ守ル婦女子ノ精神上ニ及ボス悪影響少カラズ。更ニ一般婦女身売防止ノ精神ニモ反スルモノ

とされており、茨城県でも群馬県とほぼ同様に

本件果タシテ軍ノ依頼アリタルモノカ全ク不明ニシテ、且ツ酌婦ノ稼業タル所詮ハ醜業ヲ目的トスルハ明ラカニシテ、公序良俗ニ反スルガ如キ本件事案ヲ公々然ト吹聴募集スルガ如キハ皇軍ノ威信ヲ失墜スルコト甚シキモノアリト認メ、厳重取締方所轄湊警察署長ニ対シ指揮致置候

なる判断と処置をとっている。警察から「皇軍ノ威信ヲ失墜スルコト甚シキモノアリ」と非難されたのは、「誘拐まがいの方法」でもなければ、「違法な徴募」「悪質な業者による不統制な募集」「強制連行」「軍の名前を騙る非常に無理な募集」「強制徴集」のいずれにも該当するとは思えない大内の活動だったのである。もっと言えば、中国に軍の慰安所を設置し、そこで働く女性を内地や植民地で公然と募集することそのものが(つまり軍の計画そのものが)、「公序良俗」に反し、「皇軍ノ威信ヲ失墜」させかねない行為だったのである。
  以上のことから、当時の警察の考えは次のようにまとめられよう。

1. 軍の慰安所設置について何も情報を知らされておらず、慰安所の設置は俄に信じがたい事実であった。国家機関である軍がそのような公序良俗に反する事業をあえてするなどとは予想もしていなかった。
2. かりに軍慰安所の存在がやむを得ないものだとしても、そのことを明らかにして公然と慰安婦の募集を行うのは皇軍の威信を傷つけ、一般民心とくに兵士の留守家庭に非常な悪影響を与えるおそれがあるので、厳重取締の必要があると考えていた。

 この警察の姿勢をもっとも鮮明に打ち出したのは、高知県だった。高知県には大内は立ち寄っていないが、先ほど紹介したように、「渡支後醜業ニ従事セシムル目的」で、中国渡航婦女を募集する者が続出し、「一面軍ト連絡ノ下ニ募集スルモノゝ如キ言辞ヲ弄」していたのである。高知県警察は次のような取締方針を県下警察に指示した。

支那各地ニ於ケル治安ノ恢復ト共ニ同地ニ於ケル企業者簇出シ、之ニ伴ヒ芸妓給仕婦等ノ進出亦夥シク、中ニハ軍当局ト連絡アルカ如キ言辞ヲ弄シ、之等渡航婦女子ノ募集ヲ為スモノ等、漸増ノ傾向ニ有之候処、軍ノ威信ニ関スル言辞ヲ弄スル募集者ニ就テハ絶対之ヲ禁止シ、又醜業ニ従事スルノ目的ヲ以テ渡航セントスルモノニ対シテハ身許証明書ヲ発給セザルコトニ取扱相成度
(史料4 高知県知事発内務大臣宛「支那渡航婦女募集取締ニ関スル件」1938年1月25日付)

  警察としては当然かくあるべき方針といえるが、「軍ノ威信ニ関スル言辞ヲ弄スル募集者ニ就テハ絶対之ヲ禁止シ、又醜業ニ従事スルノ目的ヲ以テ渡航セントスルモノニ対シテハ身許証明書ヲ発給セザルコト」になれば、慰安婦の募集は不可能となり、慰安所そのものが成り立なくなる。このような地方警察の反応を知らされた内務省や陸軍省は早急に手を打たなけばならないと感じたにちがいない。
 軍の慰安所設置決定(国家機関が公然と売春宿を運営し、売春婦を募集する)は、当時の社会通念からいちじるしくかけ離れたものであったことに加えて、その情報が府県レベルにまで周知徹底されていなかったため、このような事態をまねいたのであった。この混乱を収拾し、慰安婦の調達に支障が生じないようにするとともに、警察の懸念する事態を防止するための措置としてとられたのが、冒頭にかかげたAの通達であり、それに関連してBの通牒が出されたとするのが私の結論である。

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