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従軍慰安婦問題について考える(証言の検証4) [シコケン 〜思考研磨なブログ〜]
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投稿者 white 日時 2007 年 3 月 08 日 00:15:20: QYBiAyr6jr5Ac
 

(回答先: 従軍慰安婦問題について考える(留意点・証言の検証1) [シコケン 〜思考研磨なブログ〜] 投稿者 white 日時 2007 年 3 月 08 日 00:10:48)

□従軍慰安婦問題について考える(証言の検証4) [シコケン 〜思考研磨なブログ〜]

 http://blog.so-net.ne.jp/sikoken/2007-03-05

従軍慰安婦問題について考える(証言の検証4) 黄錦周/文必ギ[王+基]/李玉粉 [従軍慰安婦]  

今回も元・従軍慰安婦の証言の検証です。 韓国の挺身隊研究会のメンバーによってまとめられた「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」(明石書店)に掲載されている元・従軍慰安婦の内の3名です。


<黄錦周(ファン・クムジュ)>

【生い立ち・慰安婦となった経緯等】
1922年(or1927年)生まれ。吉林の慰安所で慰安婦を強いられる。
(※証言がまちまち過ぎて詳細不明)

2000.12月、女性国際戦犯法廷で証言を行う。

【考察】
下記資料の通り、連行された年でさえ14歳〜20歳と、数え年と言うものを考慮してもフォローするのは不可能。

1992年の「従軍慰安婦と戦後補償」では「ソウルの金持ちの家で小間使いをして以来、ずっと、色々な家で子守、女中をしてきました」はずが、1993年の「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」では、夜学に通って休学していた情報が加わり、しかも、養父である崔(チェ)という人の妾の家と本妻の家の二つでのみで女中していたことになっています。
さらに、最初、崔(チェ)さんの妾の家で女中をしていましたが、妾と折り合いが合わずに本妻の家に変えてもらいます。そこで、単に本妻の家に連れて行ってくれただけの人に、最初に養女になった時と同額の100円を渡して借金が200円になるという矛盾も披露しています。

また、夜学は休学中だったはずが、2001年のTBSのTV放送では、「学校を卒業する25日前に日本軍に引っ張りだされ」と発言して、休学していなかったどころか卒業間際だったことに変更になっています。

自らの過去を願望を交えて変更し、全ての不幸を日本軍のせいにして「虚構の過去」が築きあげられていく過程をまざまざと見せ付けられているようです。


なお、1995.3.11の産経新聞では以下の通り証言の食い違いが指摘されています。
生まれた年 慰安婦にされた年
朝日新聞の記事(1995.7.24夕刊) 1922年 17歳(1938年か1939年)
伊藤孝司氏編著 「証言 従軍慰安婦女子勤労挺身隊」(風媒社、1994.8) 1927年 シンガポール陥落の年
(1932年)

【結論】
証言の信憑性は全く無し。
「吉林の慰安所で働かされた」と言う証言は一致していますが、満州の吉林は都市部でそんな所には慰安所は無かったはずです。単に売春宿で働いていただけでしょう。

【資料等】
年月 1992.7
資料名等 「従軍慰安婦と戦後補償」高木健一著
内容等
 一九二二年、忠清南道扶餘で生まれました。生家は貧しく、十二歳の時、一○○円で売られ、ソウルの金持ちの家で小間使いをして以来、ずっと、色々な家で子守、女中をしてきました。数えで十七歳の時、女中をしていた咸鏡北道ハムン郡の金持ちの家に、工場供出の員数割り当てがきて、その家には十九歳と十五歳の娘がいたのですが、私が工場に行くことになったのです(P.47)
年月 1993.10
資料名等 韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊研究会編集「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」明石書店
内容等
 夜学の二年生を修了して1年ほど休学していたときのことです。私が住んでいた村の班長は日本人でしたが、〜(中略)〜その夫人が村を歩き回って「日本の軍需工場に三年の契約で仕事をしに行けばお金が儲かる、一家で少なくとも一人は行かなくてはならない」と暗に脅迫しました。〜(中略)〜養母が困っているのを見て、私は自分が行くと養母に告げました。〜(中略)〜二十歳になった年(1941年)の陰暦二月のことでした。(P.105〜106)
年月 1996.1.4
資料名等 国連・経済社会理事会 クマラスワミ報告
内容等
 17歳のとき、日本人の村の指導者の妻が、未婚の朝鮮人少女全員に日本軍の工場に働きに行くように命じました。そのとき私は労働者として徴用されたのだと思いました。
年月 1995.7.24〜27
資料名等 朝日新聞
内容等 ○威興の女学校在学中の17歳の時1939年に国民徴用令で動員され軍需工場に行 くと思っていたが着いた所は吉林の慰安所だった
○クリスマスのときは客が多かった
年月 1997.夏
資料名等 日韓社会科教育交流団韓国を訪問
内容等
 満18歳になった時のある日、男がやって来て村から娘を出すように伝達をしました。
年月 1997.12.5
資料名等 元日本軍「慰安婦」の証言を聞く集会(福岡)
内容等
 1912年扶餘生まれ。父の発病後家運が傾き、13歳のとき家をでて、奉公に出ました。村の班長(日本人)に「日本の軍需工場に行けば、お金がもうかる。一家に一人は行かなくては」と脅かされ、奉公先の娘たちにかわって、1941年、二十歳で国を離れましたが、ついた所は慰安所でした。敗戦のときは、軍隊に置き去りにされ、やっとの思いで逃げ帰りました。
戦後、苦しい生活と性病の後遺症に悩まされ、悔しい思いをだいて生きてきました。
年月 2001.5.17
資料名等 TBS「ここが変だよ日本人」
内容等
 私は19歳で学校を卒業する25日前に日本軍に引っ張りだされ仕方なく慰安所に行ったんだ!
年月 2001.7.17
資料名等 黄錦周さんの証言を聞く会 東京大学にて
内容等
 14歳のとき、いわゆる「少女供出」で満州に連行され、皇軍兵士のセックスのはけ口にされたつらい体験を語りました。
年月 2006.6
資料名等 西野瑠美子・金富子編集「証言 未来への記憶 アジア『慰安婦』証言集T」 (P.128〜129)
(※管理人注:同書の内容は「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」を転載したもので内容は同じ)


<文必ギ[王+基](ムン・ピルギ)>

【生い立ち・慰安婦となった経緯等】
1925年慶尚南道生まれ。家はさほど苦しくはなかった。1943年18歳の時、勉強もできるし、金儲けもできるという男の言葉に騙されて、満州で慰安婦生活を強いられる。

2000.12月、女性国際戦犯法廷で証言を行う。

【考察】
この方の証言は、以下の通り「従軍慰安婦」を意識し過ぎた内容になっていて、私は逆に胡散臭さを感じます。

○「日本人の手先として働いていた五〇代くらいの男の人がいました。ある日その人が私に、勉強もできてお金も儲かる所に行かせてあげると言いました。」
  ・・・騙したのはあくまで日本人の手先 

○「そこには村の派出所に勤務する日本人巡査のタナカという人も来ていました。」(※「そこ」とは、同女を連行する為のトラックが停められていた場所)
  ・・・日本の公権力の関与を匂わす記述

○「私たちが乗った汽車には民間人用の車両と軍人用の車両がありましたが、私たちは軍人用の車両の方に乗りました。日本の軍人が私たちを引率していましたが、軍人たちは私たちを別々に座らせて互いに話もできないようにしました。」
  ・・・日本の軍人たちが引率

○「慰安所にいた朝鮮人男性が、女を連れて来いという日本の軍人の依頼を受けて、故郷に行ってキヨコを騙して連れて来たのだと言っていました。」
  ・・・主犯格が日本の軍人であったことを明示

○「慰安所から近い部隊に所属する軍人たちが交替で派遣されて歩哨に立ちました。」
○「歩哨兵がいつも私たちをいつも監視していました。」
  ・・・ここでも軍の関与を示唆。慰安所に歩哨を置く程、暇ではないと思うのですが

○「軍人は全員日本人です。もし、朝鮮人が入って来たなら思いっきり泣きつくこともできたでしょうが、三年間、朝鮮人の軍人は一人も見ることがありませんでした。ほかの「慰安婦」の中には朝鮮人を見たと言っていた人もいました。」
  ・・・女性を性奴隷として扱うのは日本人だけで、朝鮮人はいてもホンのわずかと言うことか

以上、恣意的な感じ(※あくまで「感じ」)がする記述が多数見受けられます。
また、同女は

 「慰安所に送られて三年目の二十歳のとき終戦を迎えました。」

と、「終戦」という言葉を使用しています。8月15日は日本人にとっては終戦記念日でも、韓国人にとっては植民地支配から解放された「光復節」です。他の元・従軍慰安婦の方々も「終戦」ではなく「解放」という言葉を使用しています。
裏に日本人のゴーストライターがいたのではと疑いたくなります。

【結論】
発端は騙されたにしても、軍人による強制連行を示唆する証言です。証言内容は怪しいものですが、資料が少なすぎて信憑性を否定するほどの決定的なものはありません。現段階では、判断は保留したいと思います。

蛇足ですが、この方の証言は「強制連行」なのですが、なぜか、従軍慰安婦否定論者の中には「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」で証言している19人の内、強制連行を示すものは4人だけ(金学順、文玉珠、姜徳景、尹頭理)とする人がいて、その情報が出回っているようです。発端が詐欺なら連行したのは軍人でも強制連行に含めていないのでしょうか??

【資料等】
年月 1993.10
資料名等 韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊研究会編集「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」明石書店
内容等
普陽郡の私の村には、日本人の手先として働いていた五〇代くらいの男の人がいました。ある日その人が私に、勉強もできてお金も儲かる所に行かせてあげると言いました。私は勉強ができないことをとても恨めしく思っていたので、勉強できるという言葉に引かれて承諾しました。〜(中略)〜私が満十八歳になった一九四三年秋のことです。〜(中略)〜数日後の夕刻、再びその男が家に来て、ちょっと用があるから出て来いと言うので、両親には何も言わずに家を出ました。すると、家から少し離れた場所にトラックが停められていました。そこには村の派出所に勤務する日本人巡査のタナカという人も来ていました。その二人が私をトラックに乗せて釜山に連れて行きました。〜(中略)〜食堂で朝食をとったあと、他の四人の女たちと一緒に釜山駅を出発しました。私たちが乗った汽車には民間人用の車両と軍人用の車両がありましたが、私たちは軍人用の車両の方に乗りました。日本の軍人が私たちを引率していましたが、軍人たちは私たちを別々に座らせて互いに話もできないようにしました。〜(中略)〜汽車に一緒に乗って行った私たちは全員、満州にあった軍慰安所に配属されました。(P.119〜120)
年月 2006.6
資料名等 西野瑠美子・金富子編集「証言 未来への記憶 アジア『慰安婦』証言集T」 (P167〜168)
(※管理人注:同書の内容は「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」を転載したもので内容は同じ)


<李玉粉(イ・オクプン)>

【生い立ち・慰安婦となった経緯等】
1926年慶尚北道永川(ヨンチョン)生まれ。家の暮らしは楽な方だった。11歳の時、永川南部小学校に入学、12歳の時、蔚山(ウルサン)に引っ越す。その2ヵ月後、友達とゴム遊びをしている時、日本人一人と朝鮮人一人が来て、お父さんが探しているよと騙され、そのまま3ヶ月監禁される。その後、船に乗って下関を経て台湾の慰安所に入れられたが、年齢が14歳未満だった為、そこでは小間使いをさせられていた。
ある日、警察に逃げ込むが、実家に問い合わせた際、母親が突然来た巡査に驚いて「そんな娘はいない」と答えてしまった為、そのまま警察署の部長の家で5年間、女中をすることになる。
1942年の17歳の時、部長一家の帰郷と共に慰安所に入れられ、以降、終戦まで慰安婦生活を強いられる。

【考察】
日本人の人さらいに拉致されたという話。帰郷と共に慰安所に入れてしまった警察署の部長もひどいと思いますが、そもそも、母親がちゃんと答えてさえいれば慰安婦をすることなく帰れただろうにと思います。

また、以下のように、所々、怪しい記述が見受けられます。

○証言によると、高尾特攻隊の慰安所に入れられたのは1942年になっていますが、特攻隊の設立は1944年です。
○管理人の板倉という男の階級が軍曹だったと述べていますが、慰安所にいる慰安婦以外の人は仲居の女性2人と小間使いの小僧だけになっています。慰安所の主人が軍人だったとは思えません。


なお、ネットで以下のような記述を見つけたのですが、裏づけとなる資料を見つけることができませんでした。

「当初は1926年生まれの彼女は12歳の時に強制連行されて、高雄の特攻隊用慰安所で働かされていたと証言したが、特攻隊の設立は44年だとツッコマれた結果、強制連行された後で脱走したが警察署の部長 の家政婦を5年間させられて、その後に慰安婦をさせられたと証言を訂正した。」
 ・・・仮に証言を修正したのだとしても、やっぱり特攻隊設立前で修正しきれていません。

【結論】
信憑性は薄いですが、どちらにしても人さらいに拉致された話で「従軍慰安婦」ではありません。

【資料等】
年月 1993.10
資料名等 韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊研究会編集「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」明石書店
内容等
一九三七年九月十六日頃のことでした。その日も近所のお姉さんたちとゴム跳びをして遊んでいました。その時、日本人一人とその手先らしい朝鮮人一人が、私たちのそばに近づいてきました。日本人は乗馬ズボンをはき、朝鮮人はパジ・チョゴリ姿でした。「あんたのお父さんがチョさんの家で碁を打ってるんだが、あんたに来るようにいってるよ。」と言いました。〜(中略)〜チョという人の家に連れて行かれ、私は納戸に押し込められました。(P.145〜146)
部長の家族は、翌年日本に帰りました。一九四二年、私が十七歳の時でした。私も連れて行ってくれるとばかり思っていましたが、それどころか、五年間月給もくれずにこき使った藤本は、自分の家に朝鮮ピーが一人いると部隊に申告したようでした。〜(中略)〜トラックに乗って六里ばかり行くと山がありました。そこが高尾特攻隊でした。(P.150)

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