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従軍慰安婦問題について考える(証言の検証5)  [シコケン 〜思考研磨なブログ〜]
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投稿者 white 日時 2007 年 3 月 08 日 00:16:02: QYBiAyr6jr5Ac
 

(回答先: 従軍慰安婦問題について考える(留意点・証言の検証1) [シコケン 〜思考研磨なブログ〜] 投稿者 white 日時 2007 年 3 月 08 日 00:10:48)

□従軍慰安婦問題について考える(証言の検証5)  [シコケン 〜思考研磨なブログ〜]

 http://blog.so-net.ne.jp/sikoken/2007-03-06

従軍慰安婦問題について考える(証言の検証5) 李順玉/李相玉/李得南/李用女 [従軍慰安婦]  

今回も元・従軍慰安婦の証言の検証です。 韓国の挺身隊研究会のメンバーによってまとめられた「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」(明石書店)に掲載されている元・従軍慰安婦の内の4名です。

<李順玉(イ・スノク)(仮名)>

【生い立ち・慰安婦となった経緯等】
1921年慶尚北道盈徳(ヨンドク)に生まれる。1938年17歳の初夏、工場で働く娘を募集しにきたと言う40歳ぐらいの呉(オ)という男性に騙され、中国関東州の慰安所に入れられる。3年後にシンガポールの慰安所に移動し、1994年に階級の高い軍人に相談して慰安婦生活は終了。病院船の看護婦をしながら日本へ到着し、そこから朝鮮へと戻る。

【考察】
工場で働かせると騙されて慰安所に入れられてしまった話です。内容に特に不審な点は見当たりません。

【結論】
「従軍慰安婦」ではありません。

【資料等】
年月 1993.10
資料名等 韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊研究会編集「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」明石書店
内容等
こんな話をよくしていた頃、四十歳ぐらいの呉(オ)という男性が森田家に来ました。〜(中略)〜呉は工場で働く娘を募集しに来たとのことです。〜(中略)〜一九三八年満十七歳の初夏だったと思います。(P.183)
日本はきれいなところだと聞いていたのに、着いたところはそうでもなく変だと思いました。その時になって着いた所が日本ではなく中国の関東だと分かりました。そして、その時から私たちの悲惨な生活が始まったのでした。(P.184)


<李相玉(イ・サンオク)>

【生い立ち・慰安婦となった経緯等】
1922年(※住民登録では1920年)慶尚北道達城(タルソン)生まれ。暮らしは比較的裕福だった。兄の大反対で学校に行けなくなったため、親にも告げずソウルの伯母の所へ行き4年生になるまで学校に通う。伯母に学費が出せないので家に帰れと迫られた為、伯母の家を出て紹介所で知り合ったおばさんの養女となる。一年後の1936年、紹介所に来た、日本の工場で働くという女たちと共に日本人の軍属に連れられパラオ行き慰安所に入れられる。陸軍の兵士に刺されて入院した際、軍医に相談し、以降、病院で働く。

※紹介所・・・簡単に言えば人身売買の仲介所。お金が必要な者が娘等を売ったり、人手の必要な者が人を買ったりする所。買い入れ先の選定にはある程度本人の意思が尊重されたようです。

【考察】
同女たちをパラオへと引率したのが日本人の軍属で、また、「紹介所にいた年老いた朝鮮人の男と、日本人の軍属が村を回って女たちを集めて来るのでした。」とあり、軍が女性を集めていたことを示唆する記述もあります。
しかし、その軍属が、同女たちを慰安所経営者に引き渡す際、「経営者が日本人の軍属にお金を支払い、その金額によって各々一年半、二年、三年、と期限が決められました」という記述もあり、どう考えても軍属ではなく、ただの人間ブローカーでしょう。強制連行で軍属が引っ張ってきて慰安所から金を貰うのも不思議ですし(職務としてやっているのだから、軍から給料が出ているはず)、女性毎に貰った金額が異なるのも解せません。
さらに、軍の慰安所がグルなら女性毎に期限が違うのもおかしな話です。せっかく連行してきたのだから、期限など決めずに閉じ込めておけばいいのです。女性毎に金額が違うのは、単に人間ブローカーが紹介所に払った金額が違うからでしょう。

【結論】
同女達を引率したのが軍属であったという証言は信憑性が薄いと言えるでしょう。しかし、その他の部分は信憑性があると思います。
日本の工場へ働きに行くというウソ話に自ら志願してしまったという話で「従軍慰安婦」ではありません。

【資料等】
年月 1993.10
資料名等 韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊研究会編集「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」明石書店
内容等
いつ頃からか女たちがひっきりなしにやって来るようになりました。一人、二人とやって来ましたが、中には父親に売られて来た娘たちもいました。紹介所にいた年老いた朝鮮人の男と、日本人の軍属が村を回って女たちを集めて来るのでした。日本人の軍属は国防色の軍服を身につけ、肩には赤と青の飾りがついていました。赤いかもめの形をした肩章が一つありました。
彼女たちがどこへ行くのかと尋ねると、日本人の軍属について日本の工場へ行くのだと答えました。「私も行こうかな」と言うと、彼女たちは一緒に行こうと言い、日本人の軍属に話してくれました。〜(中略)〜私が一番下で、十五歳(一九三六年)のことでした。春だったと思います。(P.199)
一緒に来た日本人の軍属は、私たちを家の経営者に引き渡しました。経営者は朝鮮人夫婦で、全羅道の方言を使っていました。〜(中略)〜経営者が日本人の軍属にお金を支払い、その金額によって各々一年半、二年、三年、と期限が決められました。私は一年半でしたが、あらかじめもらったお金は一銭もありませんでした。(P.201)


<李得南(イ・トクナム)(仮名)>

【生い立ち・慰安婦となった経緯等】
1918年慶尚南道居昌(コチャン)生まれ。貧しい生活な上、酒とばくちをする父親の横暴に苦しめられる。17歳の時、縁談話が持ち上がり、口減らしの為に売られるような気がして家出をするが怖くなって、家に戻る。その後、再び家出をして満州でカフェを営んでいた叔母の元へ行き家事手伝いをして過ごす。1939年22歳の時、日本人の男に騙され、カフェで働いていた他の女性達と共に連れて行かれ慰安婦生活を強いられる。

【考察】
叔母の経営するカフェはただのカフェではなく、外で男性の相手もするカフェだったようで、もともとは、単なる引き抜きの話のようです。(ただし、他の女性達も慰安所に連れて行かれるとは思っていなかった)
同女は他の女性達と共に、叔母に何の相談もせずに男について行ってしまったようで、せめて一言断っていれば賛成されずに慰安所で働くこともなかったでしょう。

【結論】
証言には特に不審なところもなく信憑性があると言えるでしょう。
日本人の人間ブローカーに騙されて慰安所に入れられたと言う話で「従軍慰安婦」ではありません。

【資料等】
年月 1993.10
資料名等 韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊研究会編集「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」明石書店
内容等
カフェには、日本人と商売でやって来る朝鮮人が多く出入りしていました。その中に、常連の日本人男性で、三十歳くらいの、膚が白く、度の強い金ぶちめがねをかけた人がいました。
ある日彼が来て「ここより給料がいいカフェを紹介してやる」と姉さんたちに言いました。その時炊事場で手伝いをしていた私を見て、「かわいい娘だ」と言いながら、誰かとたずねたのです。姉さんたちが「あれは主人の姪だ」と答えると、一緒に連れて行こうと言いました。姉さんたちが、「あの子はカフェのようなところで働く子ではないけれど、仕事を探しているから一度聞いてみる」と言いました。それで私に、「私たちはお金がもっと儲かる所に移るけど、あんたも一緒に来て、今のように洗濯やお手伝いをしてくれたらお給料もたくさんあげるから」と言って誘うのでした。
私はお姉さんたちについて行くことにしました。一九三九年、私が二十二歳の年でした。(P.215)
漢口に到着すると私たちを連れてきた日本人は、金山(金)と名乗る三十代後半の朝鮮人男性に私たちを引き渡しました。(P.216)


<李用女(イ・ヨンニョ)>

【生い立ち・慰安婦となった経緯等】
1926年京畿道驪州(ヨジュ)生まれ。家が非常に貧しく8歳から奉公に出る。11歳の時、一家でソウルに上京し14歳で父親に飲み屋に売られる。その後、1942年、満16歳の時、その飲み屋の女主人に「金をたくさん稼げるところがあるから行かないか」と言われ承諾し、以降、ビルマ(現ミャンマー)のラングーンで慰安婦生活を強いられる。

【考察】
同女に「金をたくさん稼げる良いところがあるけど行かないか」と勧めた飲み屋の女主人が慰安所で働くかを知っていたかどうかは不明ですが、同女が承諾した後、小遣いを与えて休ませているところを見ると、この女主人が前金を受け取っていたのでしょう。

【結論】
証言には特に不審なところもなく信憑性があると言えるでしょう。
飲み屋に売られた後、さらに、そこの女主人に慰安所に売られたと言う話で「従軍慰安婦」ではありません。

【資料等】
年月 1993.10
資料名等 韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊研究会編集「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」明石書店
内容等
女主人が「金をたくさん稼げる良いところがあるけど行かないか」と言いました。一人で行くのではなく何人か行くのだから安心しろと言いました。どこへ行くのかと聞くと日本だと言いました。日本のどこにどうやって行くのか、そんなことはまったくわかりませんでした。お金をたくさん儲けて良いものを食べ良いものを着て、見物もできるというので行こうと思ったのです。〜(中略)〜女主人は薬を一包作って「これさえ飲めば、船に乗って日本に行くときも船酔いしない。すぐ家に帰って休んでいなさい。知らせる時までこれを小遣いにお使い」と言いながらお金をくれました。(P.230〜231)それから「集合」という通知が来ました。一九四二年、私が満十六歳の時でした。〜(中略)〜朝鮮人の男性と女性が何人かで引率しました。〜(中略)〜1ヶ月以上かかって船はビルマのラングーンに到着しました。(P.231〜232)


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