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東ティモールにおける日本軍性奴隷制(古沢希代子)
http://www.asyura2.com/07/senkyo32/msg/360.html
投稿者 天空橋救国戦線 日時 2007 年 3 月 21 日 18:37:02: ZtsNdsytmksDE
 

http://www.asahi-net.or.jp/~ak4a-mtn/news/quarterly/number3/sexslavery3.html

 四半世紀にわたるインドネシア支配の陰で、封印されてきたもうひとつのの占領の記憶がある。それは1942年2月から1945年8月までの日本軍占領期の歴史、特に「慰安婦」という名の性奴隷にされた東ティモール人女性の体験である。それは問題の優先順位を男たちが決めてしまう東ティモールの社会で、これまで、いや今でさえ、耳を傾けられず、癒されることのない、女性たちの深い痛みである。しかし、昨年の「日本軍性奴隷制を裁く〈女性国際戦犯法廷〉」をきっかけに、この閉ざされたファイルを開くプロジェクトが、東ティモールと日本で始まった。このプロジェクトは、現在産みの苦しみを経験している東ティモール女性解放運動の一部であり、日本軍占領の実態について証言を続けた故岩村正八さん(元台湾歩兵第二連隊/陸軍中尉)の弔い合戦であり、日本の東ティモール連帯運動の長年の宿題である。

■日本軍によるポルトガル領ティモール侵攻と占領の概要

◆ポルトガル領ティモールへの関心

 ティモール島はアジアと太平洋の接点として古くから交通の要衝であり、1930年代には日本もその戦略的重要性に注目を始める。1935年になると、日本海軍の要請を受けて、南洋興発の松江春次がリスボンの代表的商社である SAPTと合弁会社を設立し、ポルトガル領ティモールでコーヒーやヤシのプランテーション経営を開始した。また、燐鉱石の掘削を行ない、鉱物資源開発にも着手した。一方、1920年にパラオ近海でカツオ船を操業していた南洋水産が、のちにティモール近海でも操業するようになり、冷凍船や運搬船を経営しながら軍のための通信連絡業務も行なった。平行してポルトガルとの外交交渉も進み、1940年にリスボンで「日本ポルトガル航空協定」が調印され、パラオとディリ(ポルトガル領ティモールの首都)間に航空路がしかれることになった。この協定に先立ち、ディリにはオランダ、イギリスについで日本の総領事館が開設された。ティモール島はABCDラインの要地だったのである。

◆連合軍と日本軍の東ティモール侵攻

 1941年12月17日、連合軍(英/豪蘭軍)はポルトガル領ティモールに上陸した。12月7日のパールハーバー襲撃によって太平洋地域への戦線拡大を予期したオーストラリアは、日本がオーストラリア本土攻撃のためにティモール島を占領する可能性もありと考えた。当時中立国だったポルトガルの総督はあくまで連合軍の上陸を拒否したが、それをくいとめるに足る軍事力はなかった。

 さて、オーストラリア北端の都市、ダーウィンは、東ティモールから飛行機で約1時間半の距離にあり、北部オーストラリアの戦略基地であるポート・ダーウィンを擁していた。日本軍は、1942年1月19日、ティモール侵攻の前日に、最初のダーウィン爆撃を行なった。ティモール島は、日本軍にとって、「ジャワ島攻略後、印度と並び最大の対日反攻拠点となるであろう豪州に対する要地として確保しなければならぬ島」(『戦史叢書・豪北方面陸軍作戦』(防衛庁防衛研修所戦史室著、朝雲新聞社刊)となっていた。

 1942年2月、日本軍はティモール島に上陸した。日本軍は連合軍の侵攻によりポルトガル領の中立は破られていると判断した。侵攻作戦の実施部隊は、海軍の支援を受けた陸軍第38師団の第228連隊(東方支隊。連隊長土井定七陸軍大佐)だった。この部隊は二手に別れ、主力部隊は当時オランダ領の西チモール・クパンに、もうひとつの部隊は当時ポルトガル領だった東ティモールのディリを攻略した。ディリ上陸は2月20日のことだった。この侵攻により、連合軍のオーストラリア部隊は東ティモール中西部の山岳地帯にたてこもり、ゲリラ戦を開始した。その後、日本軍は、特務機関による住民工作と戦闘部隊による討伐作戦によって徐々に豪軍を追いつめ、 1943年2月10日、最後の豪部隊が南岸からオーストラリアに撤退した。

◆日本軍による東ティモール占領

 1942年9月初旬、第38師団は第48師団(師団長は陸軍中将・土橋勇逸。歩兵師団長は陸軍少将・安部孝一)と交替した。第48師団で最初にポルトガル領ティモールに展開したのは、陸軍大佐・柳勇率いる歩兵第47連隊の第2大隊だった。彼らは9月5日にディリに上陸し、土井部隊の任務を引き継いだ。その後到着した後続部隊は、台湾歩兵第2連隊、台湾歩兵第1連隊、歩兵第47連隊(第3大隊を除く)、捜索第48連隊、台湾山砲兵第48連隊、台湾工兵第48連隊などだった。これらに加えてふたつの特殊工作機関も存在した。ひとつは、富木大尉に率いられた陸軍系の富木機関で、もうひとつは海軍系の鳳機関である。合計で第48師団に所属する12000名以上の兵士がポルトガル領ティモールに展開した。

  第48師団の司令部はディリにおかれた。ポルトガル領ティモールの東部は陸軍大佐・田中透が率いる台湾歩兵第2連隊の主力が統轄し、ラウテンに連隊本部が、第2大隊の拠点がアビスに、第3大隊の拠点がコムに置かれた。ラウテンにはまた工兵第48連隊の主力も配置された。中央部の主力部隊は、陸軍中佐・北村九郎に率いられた捜索第48連隊で、オッスを拠点とした。西部の主力部隊は陸軍大佐・柳勇が率いる歩兵第47連隊で、連隊本部をディリに置いた。その他、当初オランダ領ティモールのクーパンに上陸し、1942年11月頃にポルトガル領に転じて柳の指揮に入った歩兵第47連隊第1大隊の宇野藤一少佐がアイリウを、馬場鉄之進少佐率いる第2大隊がマナトゥトを拠点とした。日本軍は、西部のマウバラ、ボボナロ、エルメラ、ハトリア、マロボ、ベコから中部のベニラレ、ビケケ、ルカ、ダラバイ、ロレに展開した。 

 日本軍とポルトガル政庁は日本軍の侵攻以来緊張関係にあった。ポルトガルは日本軍侵攻を「領土主権と中立に対する侵害」と抗議し、一方日本は「ポルトガル人による潜在的利敵行為(連合軍への支援)」を非難した。しかし結局、頻発する住民反乱(ポルトガル人への襲撃)に手をやいたポルトガル総督は、日本軍による保護と引きかえに、ポルトガル軍の武器引き渡しやポルトガル人の集団居住に合意した。実はこれら「住民反乱」は日本軍特務機関の住民工作によって操作されたものだった。こうして「ポルトガルの主権を尊重し、英蘭軍掃討という進駐目的達成後には撤退」という当初表明された日本軍の方針は消えた。

 日本軍は約1年でポルトガル領ティモールの支配を確立したが、その一年後には、連合軍の巻き返しによってティモール島周辺の制海・制空権を失った。その結果、約二万の日本軍駐留兵士は、連合軍の空爆にさらされながらティモール島に閉じ込められた状態となった。日本軍のティモール島占領は敗戦まで約三年半続いたが、東ティモールには多くの深い傷痕が残された。空爆による破壊、強制労働、食料供出による飢え、抗日ゲリラ活動を展開したオーストラリア人や親豪派のポルトガル人を助けるなどの「利敵行為」をはたらいた」住民の処刑、住民間の亀裂、そして、日本軍将校や兵士の性奴隷とされた女性たちの、踏みにじられた尊厳である。

■証言

 1942年から1945年の間に慰安所はポルトガル領ティモール全土に設置された。関係者の証言や東ティモールに駐留した部隊の記録によって現在までに確認された慰安所の所在地は、ボボナロのメモ村、ウアタ村、マロボ村、オアト村、バウカウのティリロロ村、アイレウ、サメのキラス、クレディリ、アラス、オッス、バギア、アビス、ラウテンそしてディリである。日本軍は、リウライと呼ばれる伝統社会の王や村長に命じて少女や女性を集めさせた。彼らは反抗すれば殺されると脅された。また多くの住民が日本軍の治安管理を助ける「ポムベラ」として使われた。 

◇エスメラルダ・ボエさんの話

 ある日、私が兄と畑でタピオカを収穫していると、日本軍の兵士が5人やってきて、何か言いあいながら私の腕を取り、首を締め、彼らの家に引きずっていった。そこからシモムラ(Shimomura)という司令官の家に連れていかれ、そこで私はシモムラに強姦された。私はその後解放されて家に戻り、両親に自分の身に何が起きたか告げた。両親は村長に相談した。村長は両親を「逆らうと殺される」と諭した。当時私は12、3歳ぐらいで初潮もむかえてなかった。

 それから夕方になるとシモムラがやって来て、私を家に連れていき強姦した。こうして約2年間私はシモムラの相手をさせられた。シモムラが去るとシモムラと同じ家にいたカワノ(Khawano)の相手をさせられた。カワノの次はハルカ(Haruka)だった。兵舎にいる一般の兵士のために女性たちが連れて来られているのも見たが、別の村の女性たちなので誰が誰かわからなかった。

 性の相手をさせられる以外に農作業もさせられた。働きが悪かったり疲れて休んだりすると、その場で殴られたり、厳しい罰が待ち受けていた。私は日本の歌を憶えさせられて日本軍の娯楽のためによく歌わされた。私は3人の司令官の名前と何度も歌わされた日本の歌を決して忘れない。

 東ティモールに侵攻した日本軍はすべてを破壊した。私たちの牛や豚や鶏を奪い、男や女を殺害した。多くの女性が慰安婦にされた。ティモール人はみな重労働を強いられた。農作業も木材伐採も道路や橋の建設も全部ティモール人の仕事だ。

 午後、外の仕事が終わると男は家へ帰されるが、女性は慰安所で働かされた。女を求めて兵士が村へやってくることもあった。少女が家から引きずり出され、慰安所に連行され、強姦された。そうした少女の中には死んだ者も重い病気になった者もいる。強姦された後殺されて山の中に捨てられた者もいる。私とマルタがこうして生きていられるのは幸運だ。生きてこうして話ができるのはありがたいことだ。

 私の兄のひとりは日本軍に殺された。兄は逆さ吊りにされて喉を切られた。死体は埋葬されなかった。埋葬されるどころか吊るされたまま火がつけられた。なぜ兄がこんな目にあったかというと、彼は私の姉と妹を助けようとしたからだ。この姉と妹は10人以上の兵士に強姦されて殺された。彼女たちの遺体は山の中に放置された。

 兵士たちは既婚女性の家にも踏み込むことがあった。そこに夫がいても気にせず、その妻を連行し犯した。夫が家にいない時間をみはからって踏み込み、その場で妻を強姦するという場合もあった。日本人は本当にひどい国民だ。既婚の女性に何の敬意も払わないのだから。残虐だよ。あるティモール人の男は日本の憲兵に協力して働いていたのに、日本軍の酒宴に妻を出すことを強要された。

 私たちには着る服も与えられなかった。しかたないので米の袋を切って服をつくった。それでもその時着ていた服よりははるかにましだった。私たちの身なりがあまりにみすぼらしい時は、酒席に呼ばれても行く気がしなかった。しかしそんな時でも「お前たちは慰安婦だ。俺達を楽しませるのが仕事だろ」といわれ引きずり出された。

 日本軍は私たちから何でも奪った。あらゆる食べ物を奪った。キャッサバ(いも)さえだ。日本は豊かな国だと聞いたが信じられないね。何でも私たちから奪ったんだから。キャッサバさえも。

 兵士は私たちの家にやって来て、何か欲しいものを見つけると、金はあるからそれをくれといった。でも金など払ったためしはない。ひと度機嫌を損ねると厳しい罰が待っている。例えば片手に岩を持たせ片足で立たせるとか。疲れて手や足を下ろすと竹の棒で肘や膝をしたたか殴られた。

 心の傷が残っているかだって?今でも誰かのおしゃべりが聞こえると「エスメラルダは日本軍の慰安婦だ」って嘲笑されている気がする。思いだす度つらくてこれまで人に話したこともない。でもしゃべってよかったよ。すっきりしたよ。シモムラたちが生きて目の前に現れたら?そうだね、思いきり殴ってやるさ。(2000年12月11日談)

◇マルタ・アボ・ベレさんの話

 エスメラルダも言ったが、当時、私たちは日本軍からさまざまな労働を強制された。私たちは、橋や道路や家屋の建設のための労役に従事させられたし、家屋をつくるために必要な竹などの資材を遠くから調達し運搬しなければならなかった。

 私はオアト村から温泉のあるマロボに連れて行かれた。マロボには慰安所があり、そこで働かされた。その慰安所で私は毎日10人もの兵士に強姦された。

 昼は昼で畑仕事やその他の労働をさせられた。そして夜になると慰安所に戻される。マロボの慰安所で毎日10人もの男性に強姦されて、私は自分が家畜になった気がした。実際私たちは家畜のように働かされた。まるで日本軍に所有された馬だ。昼は戸外で働かされ、夜は兵士に対する性的サービスをさせられた。

 あれは動物としての扱いだった。その慰安所にはいくつかの部屋があり、小さめの部屋に5人ほど、中くらいの部屋に7人ほどが入れられた。寝床と寝床の間にはカーテンなどの仕切は一切なく、他の少女たちが犯されるのを見ながらまた自分も犯された。私たちの性器は彼らのためのものだった。まるで動物の、牛の性器のようだ。ひとり以上の男、十人以上の男に毎日使われて。十人以上の男に強姦された後はもう普通に歩けない。ちゃんと立てなくてこんなふうにしか動けない。でも昼は昼で外で働かされるんだ。私たちはいつも牛の角で作ったメガフォンで呼び集められた。「さあ出てこい。男も女も。仕事だ、仕事だ」って。

 あんたたちは本当に酷いことを私にしたよ。あんたたちは強姦したんだ私を。あの時私たちの性器はすごく痛いんだ。十人以上の男にされたらもう何もできないんだよ。

 もし嫌だといったら、仕事を拒もうものなら、逆さ吊りにされて喉をしめられた。怖いよ。すごく怖くて、だから行くしかないんだ。

 私たち女性は神様が造られたものだ。でも日本の男たちは女性が神の創造物と考えない。自分たちだって女性から生まれたのに。母親が産んでくれたのに。どうしてこんなふうに女性を扱えるんだろう。私たちだって彼らの母親と同じなのに。

 あの男たちだって、疲れれば家に帰り休息を取るだろう。私たち女だって人間なんだから疲れるんだ。男と同じ仕事を昼間して、夜は一晩中セックスの相手をしなければいけない。私たちだって疲れるんだ、人間なんだ。

 仕事が終わっても家(宿舎か?)に戻って何か食べてくることも許されない。お腹がすいて死にそうだった。あまりにひもじい時、私は日本軍のために働かされているティモール人の村長に食べ物を取りに家に帰らせてくれと頼んだ。何も食べる物がないと働らけないんだ。(2000年12月11日談)

【補足/マルタ・アボ・ベレさんが慰安婦にされた経緯】

 ある日、日本軍の兵士と東ティモール人のガイドが家にきて「いっしょに行こう。キャッサバを食べに行くのだから怖がらないでよい」と言った。日本軍のために道路や兵舎をつくる仕事をしろということらしいが、怖かった。しかし、叔母に自分が行かないと両親や叔母が日本兵に殺されるといわれ、しかたなく従った。マロボに連れていかれると、集められた他の少女たちとともに草刈りや道路づくり等をさせられた。しばらくしてそういった仕事が一段落すると、アツァベ出身のドミンゴスという男が適当な少女を選んで慰安所に連れていった。マルタも連行され約3カ月間慰安婦として働かされた。三カ月後病気になり、両親の懇願によりもとの村に帰ることを許された。)

 ボボナロに駐留した部隊は、1944年3月まで駐留した歩兵第47連隊の第7中隊、 1944年3月に同部隊と交代した台湾歩兵第1連隊の第6中隊、軍用道路の建設に携わった台湾工兵第48連隊などである。

◇エルメネジルド・ベロさんの話

 日本軍がバウカウに来た時、ほとんどの者が山へ逃げた。オーストラリアに避難した者もいる。私の親族にもオーストラリアに逃げた者がいる。しかし私と妻は東ティモールに残り、一旦山へ逃げた。町に戻ってくると自分の家は日本軍に奪われていた。

 日本軍が駐留するようになると、彼らは「慰安婦」にする若い女性を求めた。私も日本軍に差し出すための美しい若い女性を捜さなければならなかった。命令に従わなければ殺すと脅された。若い女性を捜すだけでなく、私の家も明け渡せと命じられた。家は大きく慰安所にするのにうってつけだったからだ。家は改造され「ティリロロ慰安所」となった。

 ティリロロの慰安所にいるほとんどの女性は17才から20才くらいだった。全員がバウカウ出身というわけではなく、オッスなど他の場所から連れてこられた女性もいた。また、インドネシアのジャワ島のような東ティモール以外から送られてきた女性もいた。ティリロロの慰安所には中国(台湾?)出身の女性もいた。ほとんどが独身の女性だったが、結婚しているのに無理やり夫から引き離された女性もた。ジャワや中国から来た女性たちはずっとその慰安所にいたわけではなく、2、3日あるいは2、3週間で別の場所に移された。

 慰安所の女性たちは苦しんでいた。昼間は農場で働かされ、日本兵のために洗濯をし、料理をつくり、夜は性的欲求を満たすことを要求された。もし日本兵に対する性的奉仕を拒否すれば、彼女たちは拷問を受けたり、ひど暴力を受けるのが常だった。あまりの野蛮さに耐えられず逃げ出した女性もいた。中にはうまく逃げおおせた女性もいた。しかし、例えば、ススディオという女性が逃げた時の話だが、私は罰としてひどい目にあった。ススディオは17才くらいで、褐色の肌をしたとても美しい女性だった。彼女はカイシドゥ・ポボサンというティリロロ村の出身で私が差出した女性だった。日本軍は私がススディオを逃がしたと疑った。日本軍はススディオを見つけることができなかったので、逆上し、私を尋問し暴行を加えた。血だらけになった私は馬の背に括りつけられて家へ返された。

 私のいとこのアナシタシアは慰安婦にされる前、カルロス・レモスという男性と暮らしていた。彼女も日本軍の慰安婦にさせられた。自由の身になった後、二人は別れた。その後アナスタシアは今日まで結婚せずひとりで生きてきた。彼女が二度と結婚しなかったのはこの時経験した心の痛み故だ。

 ブランカという女性はポルトガル人ピレス中尉の妾のひとりだった。ピレス中尉はかつてバウカウの警備隊長だった。彼は日本軍侵攻時に一旦オーストラリアへ避難したが、その後東ティモールに潜入し、しかし結局日本軍に捕らえられてディリに護送された。ピレス中尉が逮捕されるとブランカは日本軍に連行され慰安婦にされた。

 日本軍のある軍曹の「妻」にされたエルダ・サルダーニャは既に亡くなっているが、その軍曹との間に娘がいる。その軍曹の「妻」にされる前、彼女は結婚していた。彼女の夫は日本軍に殺害されていた。(2001年1月2日談)

【補足/エルメネジルドさんの記憶にある慰安所設置の責任者の名前及び階級は、捜索第48連隊所属のある将校の名前及び階級と一致した。さらにエルメネジルドさんは多数の将校写真の中からその人物を特定した。】

◇クレメンティーナ・カルドゾさんの話

 私はスアイのティリマールのワラ村の出身だ。ある時、日本軍の命令を受けたジョン・オリベイラというリウライ(村長?)の指示で、村の者は男性も女性もズマライに行かされ、軍用道路建設の人夫をさせられることになった。ズマライでは、村の男性と女性は分けられ、別々の住まい(小屋)をあてがわれた。日本軍の兵士は女性たちの住まいから気に入った女性を次々とバラック(兵舎)に連行し、性の相手をさせた。これらの女性たちは昼間はその他の村人とともに肉体労働に従事させられた。

 当時、私は17、8歳で結婚していた。私も軍のバラックに連れていかれ、慰安婦をさせられた。そのバラックにはたくさん、そう60名ぐらいの少女たちがいた。私は一度女性たちの小屋に戻された。二度と連れていかれたくなかったので、夜中に密かに男性小屋へ行き、夫に事情を打ち明け、助けを求めた。夫はその時まで私の身の上に起きていたことを知らなかったので、非常に怒った。その後夫は女性小屋までやってきて、日本軍の兵士が私を連れていこうとするのにはむかった。兵士が夫に向かって武器を振り上げたのを見て、私は夫をかばおうとして抱きついた。兵士は抱きついた私ごと夫を殴った。夫は死んだ。私はこの時に右手首を骨折した。大怪我だったので、その時は兵舎に連れていかれなかった。傷は薬草で癒したが、私の右手首は折れたまま二度と動くことはなかった。その後も日本兵は私を慰安婦にしようと連れにやってきたが、「夫が死んだのだから命は惜しくない。連れていくなら死んでやる」と叫び、抵抗し続けた。夫の死後、私が慰安婦として働かされることはなかった。私の知るかぎり、自分の意思で慰安婦になった女性などいないし、また女性たちに報酬など一切支払われていない。
(2001年3月26日談)

◇リム・ファ・ニエさんの話

 私はアイリウの出身だ。アイリウには日本軍の中枢があった。ある日、中国人のポンベラが家にやってきて日本軍のために働けといった。14歳か15歳の頃だった。母親が死んでから父親は病気がちだった。それから二年間は飯炊きとして働かされた。この時未婚の少女が3人とティモール人の男性3名がいっしょに働いていた。ポンベラが来た時自分はまだ幼かったが、ポンベラたちは「しばらくすれば使いものになるだろう」と言った。二年たつと、慰安所(小さなホテル)に移された。その慰安所には中国人の少女だけが集められていた。アイナロやボボナロ出身の女性もいた。アイナロ出身のある女性は、日本軍によって夫を殺された後、連行されたと言っていた。

 慰安所で私はハナコと呼ばれた。アイリウは軍事拠点でアイリウの兵営にはヘリコプター、タンクその他様々な兵器・機器が置かれており、兵士は夜間それらの警備を行なうため、私たちが慰安所で兵士の相手をさせられたのは朝から夜までだった。相手をさせられた兵士の数は1日20人ぐらいだったと思う。仕事が終わると立って歩くこともできなかった。兵士はコンドームを着用していた。性病検査はなかった。

 賃金は一切支払われなかった。すごくつらかったが逃げようとは思わなかった。そんなことをしたら親が殺されると思った。ある中国人(英国人との混血)は娘を差出すのを拒んだため殺されたという話を聞いていた。私が解放されたのは日本軍が撤退する時だった。

 その後結婚したが、ある時夫は娘と自分をおいて逃げた。夫には自分が慰安婦にされたことを話していないが、夫はそのことを誰からか聞いて知っていたのかもしれない。夫が逃げたのは自分が慰安婦だったことを知ったためだと思う。

 何か、あんたの祖父(だったかもしれない男たち)が戦争中ここでひどいことをして、その孫がその話を聞きに来ているっている感じだね。(2001年3月27日談)

◇ガブリエル・ラランジェラさんの話

 私はサメ県バブル村のある慰安所で警備長だった。バブル村には慰安所がみっつあった。慰安所には毎日担当の軍人がやって来て「女たちを清潔にしろ」と私に命令した。私は部下に命じて女性たちを水浴びさせ、よごれがないかチェックさせた。その軍人はこういう時にも現れ、慰安婦たちの身体を検査し、例えば足の指に泥がついたままだったりすると私たちを叱りつけた。一日の終わりには女性たちの部屋の床は使用済みのコンドームでいっぱいだった。私たちは毎日その掃除をした。寝台の間に仕切はなかった。慰安婦たちは穴のあいたボロボロの服を着ていた。いくらさがしても布らしきものは穀物袋だけ。女性たちはそれらを利用して服を縫った。女性たちへの報酬はなかった。もし彼女らが金をもらってたら、あんなボロを身にまとったりしないだろう。

 日本軍の将校は村の女性を気に入ると、その女性が既婚者でもかまわずに、性欲を満たそうとする。ある女性が所望された時、その夫婦は困ってリウライに相談した。リウライはその女性を自分の娘だと偽って、その将校とかけあったが、無駄だった。言うことを聞かなければ妻も夫も殺すと脅された。結局、その将校はその女性を思いのままに扱い、事が済むと家へ返した。

 慰安婦たちに食事は支給されなかった。だから親が食料を運んだり、女性たちが食料をもらいに家に戻ることもあった。だからといってそれが逃亡の機会にはならない。女性たちは自分たちが逃げたら身内にどんな害が及ぶか理解していた。逃げ切れないことも知っていた。あの状況で日本軍の意向に逆らえる者などいなかった。(2001年3月30日談)

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(コラム)連隊史・部隊史から
「軍医従軍記」

[・・・それからオッスで初めて慰安所を作る事が許され村長さんに命じて日本人の恋人志願を集め(これは宣撫班舛田中尉の仕事だった)これを身体検査して合格、不合格をきめる。

 合格者も「スワアイテイー」だのなんだのと現地名では兵隊さんには分からん。そこで北林君の発案で魚の名前をつける事にした。「ドジョ−」「フナ」「ナマズ」等々。大体顔や身によった改名が出来上がりこれはよかった。下手に日本名をつけると誰やらの奥さんだったり、誰やらの妹の名だったり、一度に十五〜十六人の女に名前をつける事のむずかしさをしみじみ感じた。せめてセツ子位ならなんとかね。 それに他の将校連中にはうらやましがられたが、一週に一度の身体検査、之がきたなくてくさくて、こんな事をする為に大学迄出てきたのではないと思いも乍ら皆を病気から守る為に。然してその中に一人ものすごい「キンチャク」が居た。名は忘れたが顔は一番まづく小さい子だった。検査のために入れる一本の細い人さし指を痛いほどしめてくる。正直言って小生話には聞いたが実物に逢ったことはない。この細い指一本でこの位だから本物ならさぞやと思いながらある時、毎週助手に連れて行く衛生兵に世間話のついでに「あの○○顔はまづいし体もやせて小さいのに売れ行き一番だろ」と知らんぷりしてつぶやくと「軍医殿知りませんか?」「何を」「あれはすごいキンチャク」ですよ・・・・・いや話は行く所まで行った。・・・・]【下線は引用者による】(出典/捜索第四十八聯隊戦友会『捜索第四十八聯隊汗と哨煙と轟音の記録』1982年2月)

解説:ポルトガル領ティモールのオッスにおいて48師団捜索第四十八連隊が慰安所を開設した際の状況が記述されている。同地における慰安所が「許可」を受けて開設されたこと、村長に命じて女性を集めたこと、軍医による女性たちへの定期的な身体検査が行なわれたことが書かれており、また、慰安婦となった女性たちに対する軍人たちの意識もうかがい知ることができる。(該当部分:114-115頁、鈴木達夫「軍医従軍記」より)


みなさんへ


 ポルトガルの植民地支配、日本軍の占領、インドネシアによる占領、数世紀にわたる外国の支配を通じて、占領者のなぐさみ者にされる女性の苦しみはいつも同じだった。たとえ東ティモールが独立しても、女性たちを「最後の植民地」にする東ティモール社会の封建制と家父長制との闘いが残っている。「法廷」の東ティモール人参加者たちは、50年前の日本軍の犯罪、住民投票前後のインドネシア軍と民兵による犯罪、そしてずうっと続いている家庭内暴力は、どれも根っこは同じで、だから被害者による告発、真相究明、被害者救済及び責任者処罰は、女性たちが家畜ではなく人間として生きるために絶対に必要なことと口をそろえて言う。本当に長い間、当事者たちは言葉を奪われ、言葉を発せないまま、その想いや願いは勝手に解釈され代弁されてきた。

 マルタさんは言った。「自分がしゃべる気になったのは、このままでは日本人はおろか東ティモール人にだって真実は伝わらないって思ったからだ。こんなつらい目にあったのに、本当はいいおもいをしたんじゃないか、役得があったんじゃないかなんて考えているヤツだっているかもしれない。近しい人たちが真実を知らないままだっていうのはつらいよ。知ってほしいよ」。

 私たちは感動した。ストーカー被害がきっかけで引きこもりになった私の学生にも聞かせてあげたい。こうしたおばあちゃん達の想いは娘たち孫たちに引き継がれ、いつか東ティモールで「山の動く日」が来るだろう。

 今回、東ティモール人がきちんとした態勢で「法廷」と国際公聴会に参加できるようにと、国境を越え多くの友人が資金集めに奔走した。日本でも、資料調査、翻訳、アテンド、映像資料作成、法廷提出文書作成、メディア対応などに仲間たちが動き、また多くの方が東ティモール人の現地調査にカンパを寄せて下さったり、彼女たちが冬の東京で寒さにふるえないようにと洋服を送って下さった。心から感謝したい。

 「女性国際戦犯法廷」はゴールではなくスタートだ。チームの現地調査は今も続いている。この連載もずっと続く。近い将来東ティモールが独立しても女性の人権にこだわる私たちは未来永劫〈野党〉だと思う。

 どうか今後とも叱咤激励、ご支援下さい。

http://www.asahi-net.or.jp/~ak4a-mtn/news/quarterly/number9/sexualslavery7.html

東ティモールにおける日本軍性奴隷制(第7回)

日本と東ティモールとの外交関係樹立のための文書が独立の日に交わされた。そこには、(1) 5月20日をもって外交関係を樹立する、(2) 大使級の外交使節を交換する、としか書かれていない。実はこの時、日本側から「今後両国は戦後賠償問題には触れない」というような文言を入れる提案が出ていた。今回東ティモール政府はこの提案を蹴った。しかしこういった圧力は今後ずっと続くにちがいない。そして、そのうち、世界中で誰も日本という国には説明責任や正義を期待しないという日が来るかもしれない。

 日本軍は、ポルトガル領ティモールの支配に現地のリウライ(伝統的首長)や村長を利用した。マリアナのアルベルト・ベルディアスさんの例(第2回参照)を見ても、スアイのヴェロニカ・マイヤさんの例(第3回)を見ても、日本軍への「協力」をめぐってひとつの家の中で態度がわかれることがある。そして、それが強制によってであろうと、ひと度その任につけば、コミュニティーの人々に食糧や家畜や土地や労働力や女性の供出を強いることとなり、戦後復活したポルトガル行政の下で裁きの対象となった。
 
◆アレクサンドル・フレイタスさんのお話

 東ティモール東部の町、ルロで一番長生きなのは、アレクサンドル・フレイタスさんだ。彼は日本軍占領時代のことをよく憶えている。

 例えば、村長が日本軍の命令を受けてタニヤマという軍人に差しだしたある女性についてである。彼女の両親は娘がタニヤマの「妻」になることを承服しなかったが、あらがいようがなかった。タニヤマは乱暴者で、鶏や山羊など物資を集めさせるためによく村人を殴った。フレイタスさんは、当時日本軍のために警備や道案内をさせられていたため、そういった場面を目撃した。タニヤマが去るとその女性はヤマモトという別の軍人に引き継がれた。戦後彼女は死ぬまでひとり身だった。 戦後アタウロ島の監獄に送られた人はルロにもいる。フレイタスさんの父親もそのひとりだった。父親は、日本軍ととともに住民を殺したという嫌疑をかけられた、戦後ポルトガル軍に捕らえられた。裁判はディリではなくロスパロスでポルトガル人の県知事によって行なわれた。その結果、父親はアタウロ島の監獄に送られた。フレイタスさんによると、ルロでは住民の殺害はなかったが、ラウテン、ピサ、ブアワタ(バイララ)、ワイワイ・ルトゥロの日本軍司令部では住民の処刑があった。理由は、日本軍の命令に応じて人を集めないとか、呼びだしに応じないとかいうことだった。

 フレイタスさんは、ルロのラカワ村でリウライ及び村長をしていたドゥアルテの一家に起こったことも記憶している。ある時、ドゥアルテのふたりの妹、モル・ダイとエナ・カイが日本軍に連行された。ドゥアルテは妹たちを返してくれるよう司令部に談判に行ったが叶わず、その後日本軍から「追われる身」となり、首つり自殺した。ドゥアルテの死後、弟のジョゼ・ダ・コスタが村長の職を継いだ。その弟は日本軍「協力者」として戦後アタウロ島の監獄に送られた。彼はアタウロ島から生還し 1998年に亡くなった。


◆自殺した父親

 アンジェリーナ・ノローニャさんがその父、ドゥアルテの死について憶えているのは以下のことだ。

 「ある日、父の妹たちが日本軍に捕まってワイワイ・ルトゥロの司令部に連行された。父は自分の妹たちが身体を縛られて木に吊るされていると聞いて、彼女たちを返してもらうため司令部におもむいた。その後帰宅した父は「日本軍が追いかけてくるので逃げてきた」と語った。父はその夜の午前3時頃、田んぼの中のタマリンドの木で首をつって死んだ。発見したのは母だった。母はそれを見て自分のお腹を刺して死のうとしたが死ねなかった。朝、日本軍がやってきて父の死体を見つけた。その後、日本軍はエナ・カイという妹を釈放したが、もうひとりの妹がどうなったかは知らない。

 なぜ、父の妹たちが司令部に連行されたのか、なぜ父が死に追いやられたのか、それらについての正確な理由はわからない。ただ、父が家で語っていたことから推察するに、父は日本軍には協力的ではなかった。

 母はその後日本軍から何もされなかった。母の連行はなかった。

 自分が見たわけではないが、女の人たちが選ばれて連れて行かれるということはあったらしい。村の女性たちが選別されて連れていかれたラウテンのビサというところだ。この話は日本軍に協力した人たちから聞いた。」

 ドゥアルが女性の徴集を命じられていたかどうかは不明である。しかし、日本軍から何らかの命令を突きつけられていた可能性はある。ドゥアルテは妹たちの命とその命令の間で板挟みとなり自らの命を絶ったのかもしれない。

 アンジェリーナ・ノローニャさんは私たちに会って話をすることをすごくためらっていた。私たちの到着を知らされていながら、彼女はその時間、家にはおらず、畑に出ていた。しかし畑の近くで話をうかがっているうちにそのためらいの理由が少しずつわかってきた。私たちは彼女に「被害に関する話」をしてもらいたいと事前に伝えていたのだが、彼女の方は親族にアタウロ島に送られた者がいることで「日本軍協力者」として改めて追及されることを恐れていたのだ。日本軍による占領は、戦後50年を経てなお、東ティモール人の心にこんな重荷を背負わせたままである。その理由は明快だ。暴力の構造が明らかにされず、責任者が追及されず、問題が未解決のままだからである。

◆キラス(またはキクラス)の慰安所

 2000年12月の「日本軍性奴隷制を裁く〈女性国際戦犯法廷〉」に提出された東ティモール検事団からの起訴状にはサメ県の事例が含まれていた。起訴状には三人の目撃者と一人の被害者による供述が添付されている。

 これら三人の目撃者は何らかのかたちで日本軍に協力して仕事をした者たちだった。彼らによると、日本軍は1942年にサメ県のファトゥベルリウに侵入し、1945年の敗戦まで駐留した。

 日本軍はファトゥベルリウのキラス村に司令部を設置した。当時、多くの若者が日本軍のために警備を行なうポンベラとして日本軍に使われた。クレディク村の司令官はセルカと呼ばれていた。ポンベラの従軍地域はファトゥベルリウだけでなく、サメ、ビケケ、ウアトカラバウ、ベニラレ、バウカウ、ロスパロスと東ティモール南部と東部の全域を含んでいた。彼らは見回りや警備の任務の他、農場や畑で働かなければなかった。これらの労働に対して賃金は支払われなかった。

 キラスの軍人たちは、しばらくすると、リウライや村長に女性をつれてくるよう命令した。このような命令には従わなければならなかった。もしそむけば、拷問や暴行が待ち受けており、そして時には殺されることもあった。結局、集められた女性たちは全員、キラスの日本兵のいるところに連れて行かれた。彼女たちは、昼は畑仕事と洗濯や食事づくりをさせられ、夜は日本兵たちの性的要求に応じなければならなかった。

 被害者のひとりマルガリーダ・ホルナイは次のように語っている。

 「日本兵は私たちを動物のように扱った。私たちは彼らが要求することは何でも従わなければならなかった。時には順番に彼等の相手をしなければならなかった。彼らは私たちを自尊心のない動物とみなしていた。私たちは友人のルルマウクと一緒にある場所に入れられた。そこには他にも多くの女性がいた。数ヵ月の間、私はそこにいたが、日本兵の残酷な扱いに耐えられず、逃亡を決意した。」

 三人の目撃者のひとり、ジャヌアリオ・ファリアはこう語っている。

 「私は日本兵と一緒に生活をしていた。特に ナカヤという衛生兵とその助手を手伝っていた。慰安所はキラスだけでなくクレディクやアラスにもあった。村長たちによって連れてこられた若い女性たちはしばらく慰安所で使われた。それから日本兵のいるところに一時的な性の相手として連れて行かれ、その後、家に帰るように言い渡された。アラスの慰安所にはティモール人だけでなく、東ティモール以外から連行された女性も6人くらいいた。この女性たちは3つの家に入れられていた。この家には毎日多くの日本兵が来たが、特に木曜と日曜には他地域からも兵士がどっとやってきた。彼らは目的を果たすとそれぞれの駐屯地に戻った。 また、日本兵の女性に対する暴力行為は慰安所だけでなく、行軍中の休憩地でも行われた。それらの地の村長は伝統的な踊り(Tebe-Tebe)で兵士を楽しませるために若い女性を連れて来たが、彼女たちは兵士の性的要求にも応じなければならなかった。欲求が満たされないと彼らがどれほど残虐になるか私は目の当たりにした。

 エウジニアという女性は、その夫、クセアクを失った。クセアクは自分の妻が日本兵にレイプされるのを許さず抵抗したので日本兵に殺されたのだ。クセアクが殺害された後、エウジェニアは、敗戦で日本軍がファトゥベルリウを去るまで日本軍の慰安婦として使われた。彼女はこのことで心に深い傷を負い、死ぬまで再婚しなかった。

 コロハレ、カサマリ、マルタ、ビテのような被害者たちは、その後コミュニティーで村八分にされた。彼女たちも一生一人で暮らすことになった。」 今回、キラスの慰安所に関して新たな目撃証言者があらわれた。現在マウバラに住んでいるデビッド・ペレイラ・ジェロニモさんである。ジェロニモさんは戦後小学校の教師として生きてきた。彼はキラスの慰安所と日本軍の軍人について以下のように語っている。

 「キラスの軍隊慰安所を管理していたのはファトベリウ出身のアフォンソという東ティモール人だった。慰安所の下手には兵舎があり、女性たちはそこへも連れていかれていた。女性はリウライに命じて集めていた。宣撫班にコマキという副官がいたが、非常にどう猛な人物で、日本軍の兵士からも恐れられていた。

 クレディックには宣撫班にセリカワという軍人がいた。私はセリカワが1945年の 1月か2月、作業から逃げ出した東ティモール人を捕まえて、さかさ吊りにし、殺したのを見た。その後セリカワは〈お前達も逃げたら同じめにあうぞ〉と脅した。その日は市がたつ日だったから火曜日の出来事だったと思う。セリカワは流ちょうにテトゥン語を話した。私は1944年の11月からサゴ椰子の根をついて澱粉を取りだしカンに入れて日本軍に納めるという作業グループのリーダーをさせられていた。ひとつのグループは14名で全部で5つあった。その作業をしている最中の1945年の1、2月に事件は起きた。」

 「女性法廷」への証言者のいうクレディックの「セルカ」とジェロニモさんの語るクレディック「セリカワ」が同一人物である可能性は高い。もしこの「セリカワ」がクレディックの「司令官」で労働者の管理も握っていたのなら、彼が慰安所の運営に関与していた疑いは濃厚である。(続く)

http://www.asahi-net.or.jp/~ak4a-mtn/news/quarterly/number13/sexslavery13.html

東ティモールにおける日本軍性奴隷制(第10回)

カルバリョ知事の報告書

 当時ポルトガルの海外州のひとつだったティモールで日本軍占領期に知事を務めたマヌエル・デ・アブレウ・フェレイラ・デ・カルバリョの報告書、『ティモールにおける出来事の記録(1942年-1945年)』(1947年6月)が、2003年4月にポルトガルで再版された。『Manuel de Abreu Ferreira de Carvalho, Relatorio dos Acontesimentos de Timor (1942-1945), Instituto da Defensa Nacional』。その最終章ではポルトガルに忠誠をつくして犠牲となった愛国的な人々を顕彰している。

 連載第2回でふれたが、台湾歩兵第一連隊の連隊史『軍旗はためくところ』で日本軍の協力者として描かれているボボナロ県マリアナのリウライは、リウライ・タロベレではありえない。なぜなら、リウライ・タロベレ(Talo-Bere)は、この「顕彰」の最初のページに登場する。「父は日本軍協力者などではありえない。なぜなら日本軍協力者に殺されたのだから」という息子のアルベルト・ベルディアスさんの抗議は正しかったようだ。リウライ・タロベレが殺害された後、リウライを継いだのはアルベルトさんの兄、マヌ・モロ・カイ・ラランで、彼は日本軍に協力したというから、連隊史に書かれているのはその兄のことかもしれない。それにしても、リウライ・タロベレの殺害がふせられ、土地のリウライが自発的に日本軍に協力したように描かれているのはフェアではない。

『記録』の中のラクルタの人々

 ところで、この「顕彰」には、「ルカの碑」や「ラクルタの碑」(連載第9回参照)に刻まれた犠牲者の多くが登場する。なぜ彼らが日本軍によって殺されたのか、今では遺族でも確かなことはわからなくなっていた。1947年に書かれた彼らに関する記述を紹介したい。

☆ルカの村長、ジェレミアス・ドス・レイス・アマラル あらゆる緊急事態において彼が示した並々ならぬ愛国心によって(顕彰する)。彼はルカ一帯のポルトガル人を保護することによって多くの人命を救い、自らを危険にさらすことになった。彼は捕らえられ、虐待され、拷問されたが、所持していた重要な文書を渡したり、ポルトガル人に関する情報を与えたりはしなかった。そしてその忠誠心により彼は犠牲者となった。(752頁)

☆シルクンスクリサオン*・マナトゥトのポスト**・ラクルタのウア・タロのリウライ、カシミロ・デ・カルバーリョ
 ポルトガル人の友人であり、不屈の援助者であったことにより、1945年8月にオッスで日本人によって殺害された。彼はポルトガル人に関するどんなささいな情報も与えはせず、彼らが獄につながれることを許すより自らが犠牲になることを望んだ。彼はポルトガルに対する忠誠のひとつの偉大なる例である。(752頁)
 [* シルクンスクリサオンはポルトガル語で「地区」という意味。「郡」という意味のコンセリョとともに「州」のひとつ下の行政単位をさす。どちらも東ティモールでは「県」に相当すると考えられる。ただしシルクンスクリサオンはコンセリョより格下。定訳がないので以下ではシルクンスクリサオンを「県」と訳す。
 ** ポストはコンセリョやシルクンスクリサオンの下の行政区。以下「郡」と訳す。]

☆マナトゥト県ラクルタ郡ディロールの村長、ルイス・ダ・フォンセカ・ソアレスと前村長の兄弟であるモイゼス
 クルタに身を隠したポルトガル人に対して示した忠誠によって。彼らはポルトガル人に食料を与え、住む家を建て、あらゆる方法で彼を助けた。例えば、クーリエのシステムを駆使して、彼らに日本人や反乱者が接近するのを警告し、彼らの安全を確保した。彼らは日本人に捕まり、彼らのポルトガルへの忠誠ゆえに、拷問にかけられた後殺害された。(752頁)

☆マナトゥト県ラクルタ郡ディロールの現地人、ウィッタル・ノローニャ、マリオ・ミランダそしてジョゼ・リノ
 彼らはポルトガル人、パトリシオ・ルスの隠れている場所に関して照会される情報をたえず否定し、そのポルトガル人を助けることによって勇気と献身と忠誠を示した。彼らは1945年8月に捕らえられ、オッスで殺害された。(753頁)

☆マナトゥト県ラクルタ郡ラリネの村長、エステバオン・デ・カルバーリョ、ラクル郡アヒクの村長、フランシスコ・ソアレス、ラクルタのラリネの首長、そしてアレクサンドル・デ・カルバーリョ
 ホルトガル人を救い、隠れ家を提供し、彼らにとって偉大な友人であり忠実な奉仕者であり続けた。彼ら3人は、1945年8月にパラシュートでルカの平原に上陸したふたりのオーストラリア人とひとりのティモール人をかくまったことで日本人に逮捕され、同月、その理由とパトリシオ・ルスを居場所を供述しようとしなかったことにより、オッスで殺害された。(753頁)

 碑には刻まれていないが、『記録』にはラクルタの関係者として次の人々も登場する。

☆ラクルタ郡アヒクのある部落の長であるイナシオ 彼はラクルタの郡長であるジョゼ・ティノコを決して見捨てず、ジョゼ・ティノコが現地人反逆者によって捕らえられて殺害されるまであらゆる面で彼を助けた。 (753頁)

☆マナトゥト県ラクルタ郡ディロールの村長、ドミンゴス・ソアレスとセント・ドミンゴス県ヴィケケ郡ルカの首長、ドミンゴス・アマラル 彼らは、彼らの地区を通過するポルトガル人につきそい、決して彼らを見捨てず、最適な方法で彼らに奉仕した。ピレス中尉の逮捕が起こった時、彼らはパトリシオ・ルスとともに逃れることができ、戦争が終結するまでパトリシオ・ルスを決して見捨てず、常に彼にとって良き奉仕者だった。(755頁)

☆ラクルタ郡ラリネの村長、アゴスティニョ・ゴンサルベス 彼はラクルタの郡長がいなくなった後、同郡を治め、ラクルタ周辺にいたすべてのポルトガル人に支援を提供した。彼がラクルタのポストを離れたのは、日本人がやってきてまだにその地域にいたポルトガル人を集合させた時だが、最後の人たちが出発するまで、彼はその人たちにつきそい支え続けた。その頃までには彼は息子たちのもとに戻っていたが、ついに日本人に逮捕された。日本人は彼を虐待したが、彼にポルトガル人に災いをもたらすことを言ったり行なわせたりすることはできなかった。その後、1945年8月、彼は再び捕らえられ、オッスで日本人に残忍な暴力を受けたが、殺すと脅されたにかかわず、絶対的忠誠の態度を変えることはなかった。(755頁)

〈ラクルタの碑文〉***
***碑の下には19人の遺体が埋葬されている。下線は『記録』で顕彰されている人物。

侵略者による死 1942年-1945年
ポルトガルは彼らを記憶し称える(仮訳)
1. ルイス・フォンセカ・ソアレス(ディロールの村長)
2. カシミロ・フェルナンデス・デ・カルバーリョ(ウマ・トルの村長)
3. エステバオン・デ・カルバーリョ(ラリネの村長)
4. アレサンドル・デ・カルバーリョ(ディロールの村長)
5. アフォンソ・フォンセカ・ソアレス(ディロールの村長)
6. マテウス・デ・カルバーリョ(ウマ・トルの村長)
7. フランシスコ・ソアレス(アヒクの村長)
8. タイ・ベレ(ファトゥカドの長)
9. ジルベルト・ソアレス(ファヒ・ラインの長)
10. ミランダ・シメネス(ディロールの村長のアシスタント)
11. マリアノ・デ・カルバーリョ(伝道師)
12. ジョゼ・リノ・フェレイラ(伝道師)
13. フィタル・デ・ノローニャ(ディロールの助役)
14. フェリシアノ・ソアレス(農民)
15. フランシスコ・ソアレス(
16. トマス・ソアレス(農民)
17. カイ・モド(農民)
18. フノ・ウアイ(農民)
19. エスペランサ・フォンセカ・ソアレス(ディロールの助役)

BC級戦犯裁判の「謎」

 ピレス中尉もパトリシオ・ルスも、いわば、ポルトガルの「中立政策」を離脱して豪軍側についた人間である。日本軍が「敵性」とするポルトガル人を助けた(それが政治的理由であれ人道的理由であれ)たために多くのティモール人が犠牲になったのだとしたら、そしてその行為がこのように称賛されるのであれば、ポルトガルは彼らに対する日本軍の虐待行為や処刑を戦争犯罪として裁こうとしたのだろうか。

 オランダとオーストラリアが管轄するBC級裁判の中で、クーパン、ダーウィン、アンボンでの裁判の記録から判明することは、「ポルトガル領ティモールで発生した住民虐待」に関する起訴が一件もないことだ。起訴がないということは有罪はありえない。
一方、「オランダ領ティモール(西ティモール)で発生した住民虐待」に関してはクーパンの臨時軍事法廷で扱われ有罪が出ている。アンボンの臨時軍事法廷ではポルトガル領ティモールに駐留していた台湾歩兵第二連隊が「オランダ領セルマタ島」で行なった討伐にともなう住民虐殺に関して有罪が出ている。

 では、連合軍兵士の捕虜に関する虐待に関してはどうだろうか。捕虜虐待に関してはポートダーウィンの裁判でポルトガル領ティモールで発生した事案が一件扱われ、有罪も出ている。これはピレス中尉ら逮捕の件である。

 とにかくポルトガル領ティモールに関しては日本軍の占領で住民が受けた被害が一切扱われていないのだ。これはいったいどういうことなのだろう。東京裁判ハンドブック編集委員会編[編集委員/住谷雄幸、赤澤史朗、内海愛子、幼方直吉、小田部雄次]『東京裁判ハンドブック』(青木書店、1989年)では、第36頁で東京裁判の訴因53が紹介されており、戦争法規の違反行為が行われた対象者を米、英連邦、仏、蘭、比、中、ポルトガル及びソ連の軍隊・俘虜及び一般人としている。

戦犯裁判とポルトガル政府

 ジェフリー・ガン氏の著書『ティモール・ ロロサエ500年』(Geoffrey C.Gunn, Timor Loro Sae 500 Years, Livros do Oriente,1999 )の第12章「戦時のティモール(1942-1945年)」には戦争犯罪に関する項目があり、おおよそ以下のことが書かれている。

 終戦後、オーストラリアは日本軍の戦争犯罪に関してポルトガルと協議した。オーストラリアはポルトガルとの合同調査を申し入れたが、ポルトガルの知事はポルトガル人に対する犯罪はポルトガルが単独で調査すると譲らなかった。1946年6月に(極東国際軍事裁判所の)戦争犯罪委員会のキントン少佐がディリに到着すると、キントン少佐とボボナロの行政官であるルス・テイセイラとオランダ軍のポス大尉で「委員会」が組織された。この「委員会」は東京法廷の米国人検察官の下におかれた。オーストラリアは再度、戦争犯罪の合同調査を要請したが、受け入れられず、オーストラリアによる調査はオーストラリア人がらみの犯罪のみに封じ込められた。キントン少佐はポルトガルの頑迷さと日本軍協力者のリストさえ渡そうとしない非協力さに不平を述べている。
 以上から、ポルトガル領ティモールにおける戦争犯罪全般は裁判の枠組みから排除されているわけではないことがわかる。また、自国民がらみの犯罪とオーストラリア人がらみの犯罪がそれぞれポルトガルとオーストラリアによって別々に調査されようとしたこと、調査に関する両者の関係が悪かったことがうかがえる。そもそも両国の間には確執があった。オーストラリアには第二次大戦におけるポルトガルの中立政策が本質的にはナチス寄りだとして不信感が強い。一方、サラザール体制のポルトガルは民主主義を標榜する連合国の影響がティモールに及ぶのを警戒し、オーストラリアの動きを押さえこもうとしていた。

 では、ポルトガル政庁は、ポルトガル人(ティモール人を含む)に対する犯罪をどのように調査したのだろうか、結果として住民が受けた被害に関して起訴に持ち込めたものが一件もなかったのはなぜなのか。それともポルトガルは故意に持ち込もうとしなかったのか。これらの問いにはガン氏の本にも回答がない。明らかなことは、その後、日本軍の住民に対する犯罪は裁かれぬまま、日本軍に「協力した」ティモール人に対する著しく公正さを欠いた裁判や制裁が東ティモール内部で大規模に展開されたことだ。日本に対する賠償交渉は中途で絶ち切れた。

 あの戦争はティモール人が起こしたものではなかった。ティモール人にとっての正義はいったいどこで落っこちてしまったのだろう。(続)

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