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「孤独死のないベトナム」への疑問にこたえて (JANJAN)
http://www.asyura2.com/07/senkyo34/msg/102.html
投稿者 七瀬たびたび 日時 2007 年 4 月 28 日 20:14:12: bo2NmpzpRHGO6
 

http://www.janjan.jp/world/0704/0704270523/1.php

 昨年5月9日付で『これは社会の退化? 生きることに積極的になろう!』

http://www.janjan.jp/living/0605/0605080067/1.php

という記事を投稿し、おわりの方で「ベトナムでは孤独死という話など聞いたことがない」と書いた。

友人スーさんから送られてきたエッセイ

 本当にそういえるか、編集部からのアドバイスもあったので、ハノイに住む2人の友人に問い合わせた。その結果一人のスーさん(注1)からは、6章32条からなる『老人についての法律』と『尊敬される老人たち』というエッセイが送られてきた。

 老人法には歯がたたないから、何が書いてあるのかわからない。またベトナムでは日本のように国勢調査がおこなわれていないから、国民生活の動向を数字上から明確に掴むことはまだできていない。そういうことを勘案した上でも私は『孤独死の無いベトナム』ことを皆さんに伝えたい。

 1945年2月日本軍占領下のベトナム北部では200万人が餓死した。ベトナム人が作った米を没収し日本軍の食糧としたばかりでなく、それを戦利品として日本に送られ、横浜に住む私の家でもシャム米として配給があり、食べさせられた。

 ベトナム農民には米を作る代わりに亜麻を作らせた。軍需物資を運ぶ袋を作るためである。その後、大洪水が水田を破壊した。人々は米を運ぶ荷車を見つけると争ってその後について歩き、こぼれた米粒を一つ一つ拾っては口にいれていたという。200万人が餓死したことは独立宣言にも記されている。

 「ハノイの街の両側には幾人もの人がうずくまり、やがて動かなくなって倒れた。餓死したのだ。やがて荷車が来るとその遺体を載せて郊外の穴に捨てに行った(注2)。

 ハノイのスーさん宅で出会った、一人の婦人が話してくれた。

 『私はまだ子どもだったので何も知らなかったけど、父が朝になって戸を開けようとするといつもより重いので、思い切り力を出して開けると、そこによりかかっていた大人がころりと転んで2度と立ち上がらなかったと』

 初めてハノイを訪問する多くの外国人は、バー・ディン広場のホーチミン廟を参拝する。沿道には日除けテントの下で子どもたちが参拝の順番を待っている。外国人である私たちは、その途中から割り込んで参拝させてもらう。廟の表面には『自由と独立ほど尊いものは無い』というスローガンが赤い字で他のスローガンとともに掲げられている。

 1930年から31年にかけてフランスの労働者エスペランチスト、ルーチン・ペリエル(Lucien Peraire)がサイゴンに来た。彼は貧しいために学校へも行けず、12歳になったとき大工の親方のところで働き始めた。その親方からフランス語を教えてもらい、エスペラントも教えてもらった。26歳になった時、彼はエスペラントで何でも話せるようになり、自転車でヨーロッパ大陸からモスクワに行き、さらにシベリアを経由して南満州鉄道のレールの上を自転車で走り、やがて日本にも来た。東京・金沢・神戸から上海、広東を経てサイゴンに向った。そして見たものは?

 それはたった一人の羊飼いに追い立てられて動く羊のように、フランス植民地警官に追いまくられて働くベトナム人の姿だった。

 私はペリエルから送られてきた手記をよみ、またホーチミン廟のスローガンを読んで、この言葉は80年間苦しめられてきたベトナム人にとって忘れることの出来ないものだ、と感じた。

 1945年9月2日、東京湾に浮かぶアメリカの戦艦ミズーリ上で日本側全権大使重光葵らと、連合軍最高司令官マッカーサーとの間で降伏文書が調印されたのと同じ日に、ハノイではバー・ディン広場で満場の民衆を前にホーチミンが独立宣言を読み上げた。

 その前日のことだった。ホーチミンを送り迎えしている運転手が「田舎の親父に今度大統領になる人はどんな人か見せたいから明日は休暇をくれ」といった。やがてそのときがきた。壇上に立つやせた、目のきらきらするひげの老人は誰か?会場を埋めた群集は固唾を飲んで見守った。田舎から父親を連れてきた運転手も。それは毎日車で送り迎えている人ではないか。グエン・アイ・コックだ。ベトナム民衆はこのとき初めてホーチミンの名と顔を見た。

 長い間、ホーチミンの名はグエン・アイ・コック(阮愛国)として知られているだけだった。ベトナムでは今でもホーチミンの事を親しみと尊敬をこめて『ホーおじさん』と呼んでいる。

 独立宣言の翌日、臨時革命政府の会議が開かれ、6項目の議案がホーおじさんから提案された。その第1は、国民一人ひとりが10日に1度食事をぬいて全国の貧しい人たちを援助しよう、という提案だった。そして第2の提案は、国民の95%が文盲だから、夫が妻に、兄が弟にベトナム語を教えてか賢くなろう、という提案だった(注2)。

 現在のベトナムの初等教育普及率は95%を超えていると聞いた。東南アジアで最も教育程度の高い国だ。家督を譲り受けない子どもは争って大学まで進学を試みる。

尊敬される年寄り

 スーさんのエッセイ「尊敬される年寄り、−ベトナム文化の伝統−」に次のように書かれている。

 『ベトナムでは60歳をすぎると老人の仲間入りをするが、長い人生がもっと続くようにという儀式をおこなってその長命をたたえる慣わしがある。その人々は税金や労働から解放される。生活条件がよくなった現在ではその儀式を70歳に伸ばすべきだし、80歳、90歳までも生きる人々がいることを考慮されなければならないだろう。

 人々は祝宴を開き、後輩たちは老人たちに敬意を表し、絹や着物を贈って気持ちを表す。またホーチミン大統領は100歳になったすべての老人たちに絹を贈ることを常とした。

 長生きできることはよいことであり、よい行いの結果であると思われている。それは後に続くものを守る古木の面影のようだ。年をとればそれだけよいことをし、その効果は子や孫への教育にもおよぶ。

 ハノイ市中を走るバスの中で老人たちに席をゆずり、あるいは年寄りが町を歩くとき助けてあげるという行為はどこにも見られるベトナム人の習慣である(私もハノイに9ヶ月滞在したときバスに乗るといつも同じ扱いを受けた。満員のバスでは車掌が案内し、若い人を立たせて座らせてくれた)。

 夫婦でそのような年にまで生きることは、他人へ年齢、才能、道徳、経験の模範を示すものとしてより尊敬されている。

 4世代、5世代の人たちが同じ屋根の下に暮らすことはすべてをこえた理想であり、あこがれである。いくつもの世代の人々が共に暮らし、共に食べることを期待している。そして4世代を超えての共同生活や一緒の生活は特別に高く評価されている。

 尊敬されるべき年齢に達した人たちは、日常の生活において子どもたちに任せる以外は、結婚について、命日の行事について、生まれてきた子どもへの命名や不幸なことについても意見を求められる。

 生活の近代化は、老人の年齢について、4世代が共同生活をすることについて、贈り物の選択についても変化を持ち込むだろう。しかし、老人を大切にする伝統的な習慣は、ベトナムの人々の考えの中の深く根づいている』

 私が訪ねていったホーチミン、ダナン、ハノイ、カオバン市の新興住宅は、大抵5階建てであった。ホーチミン市のチャン・クワン・ゴクさん(注3)を訪ねた時、彼が家の中を案内してくれた。入り口に続く1階に応接間、家族の食堂と台所、2階はゴクさん夫婦の部屋、3階は若夫婦の部屋、4階は書斎やアトリエになっていた。5階は植木鉢を置いたり洗濯物をほしたり、物置として使っていた。

 1992年以来文通しているグエン・チ・ゴック・ランさん(注4)の家は、ハノイ旧市街地にあるために2階家だが1階は息子のお嫁さんが土間で午前中フォー(米の粉でつくったうどん、鶏肉、豚肉や野菜を載せてたべる)を料理して、近所の人に食べさせる店を出していた。家族ももちろん一緒にその周りで朝食としてたべていたし、私もランさんを訪ねるときは、お嫁さんの作ったフォーをご馳走してもらった。

 ベトナムでは町でも村でも家の中で家族が一緒に食事をするということは主に夜だけという。朝は忙しいせいか、みんなが外で食べる。ひるは勤め先で食べ、夜になって家族が集って食事する。ただし、祝い事や法事のあるときは親戚じゅうが集って食事する。

 学校に行く子どもたちは朝起きると勉強道具を持って出て行き、学校の前のフォーを売るおばさんの店で小さな椅子に腰掛けてフォーを食べてから校内に入る。商店が並ぶ舗道にもたくさんの屋外食堂があり、安くてうまい。日本円にして30円〜50円くらいだ。少し大きな商店の前で、食べ物を売る女性たちが朝早くから売切れるまで客を待っている。布地を売る店の前で食べ物を売るなんて日本では嫌われるが、ベトナムでは助け合いの精神が旺盛なのか、一向に頓着しない。

 店主とフォーを売るおばさんは他人同士だそうだが、毎日同じように付き合っていれば、お互いに家族のことをうわさし合うだろう。未婚の老女性の家に案内されたとき、その人の姪が一緒に暮らしていた。だからベトナムでは孤独死はでないのだと思った。

 これが1971年から2005年まで12回もハノイを訪ね、ベトナム各地を訪問して得た私の結論だ。

(注1):グエン・サン・スウ、(Nguyen Xuan Thu)ベトナム・エスペラント協会書記長、元ハノイ国家大学教授。

(注2):ボー・グエン・ジャップ(Vo Nguyen Giap)将軍著『忘れ得ない日々』エスペラント版1971年刊。ホーチミンと共にベトナムの最高の戦略家。

(注3):チャン・クワン・ゴック(Tran Quan Ngoc)、元ファン・バン・ドン首相秘書官、現在ベトナム・エスペラント協会副会長 画家で作家。日本へ来て1ヶ月滞在してスケッチをした。

(注4):グエン・チ・ゴック・ラン(Nguyen Thi Ngoc Lan)ハノイのフランス語女学校卒業後、英語、フランス語の教師を務める。その後ベトナム国際友好機関で働く、来日2回。現在ハノイ国家大学外国語大学エスペラント語講師。

(熊木秀夫)

http://www.janjan.jp/living/0605/0605080067/1.php

これは社会の退化? 生きることに積極的になろう! 2006/05/09

 5月7日の東京新聞(朝刊)によれば、都営・旧公団住宅で2004年に一人暮らし世帯で410人が誰にも看取られず「孤独死」をしていた、と報じた。

 私も一人暮らし老人だから他人事では済まされない。長命になりそうだが、時々自殺してこの世に縁切りするのも選択地の一つだ、と思わぬこともない。

 だが周囲を見回すと、まだまだやるべきことがあり、一つでも多く成し遂げ、お世話になった人びとに感謝し、エネルギーを使い果たしてからでも遅くない。見取ってあげた多くの先輩や友人はそのように生き最後を迎えた。

 孤独死した人の中には、3ヶ月後に発見された、という人もいる。このような人はどのように自分の最後の人生設計を考えていたのだろうか。いくつものことが考えられる。本人に対しても、周囲の人や社会にたいしても。

 私の友人は70歳を過ぎてパソコンを習い始め、難しい、難しい、といいながら私のためにホームページをつくってくれている。ある時「そんなに愚痴をこぼすなら止めてしまったらどうだ?」「お前のためにやっているのではない、難しくともおもしろい、これは俺に生き甲斐だ」といいきった。私とつき合っても1円の収入にならないのに、こつこつと仕事をつづけ、もう止めたかな、と思う頃に「できたぞ!」と連絡の電話やメールがくる。

 ベトナムの友人、ラン先生(女性)はもう75歳だろう。日本に2度も来た。もう18年以上の付き合いで、私が手紙を書くとすぐに返事をくれる。そんな一方で、スクーターを乗り回し、フランス語、英語、エスペラント語の個人教授をしている。

 ベトナムでも1円の収入にもならないのに、「エスペラントは視覚障害者にとって最も学びやすい外国語」とハノイ盲学校、視覚障害トレーニング・センターの青年たちに飽くことなく、無料で教え続けている。息抜きはハノイの中心にあるホアン・キエム湖の周辺を歩くことで、足は肩の高さまで上げることができる。

 ベトナムへ行く観光客の中に、ベトナム料理はヘルシーだと本場の料理をたのしむ人も増え、日本国内でもベトナム料理は人気があるのはご存知のとおり。ベトナムの高齢者も増えつづけている。

 私はベトナムで、結婚式にも葬式にも何回も参加したが孤独死した話しなど聞いたことはない。雑事が一段落したら、私は日本とベトナムの老人同志の国際交流旅行をやりたい。音楽大好きなベトナム盲学校の生徒たちと音楽を通じて友情を育みたい。

(熊木秀夫)

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