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[民主主義の危機]「むき出しの斧」を欲する“美しく不純な情熱”(1)
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投稿者 鷹眼乃見物 日時 2007 年 5 月 21 日 10:51:07: YqqS.BdzuYk56
 

[民主主義の危機]「むき出しの斧」を欲する“美しく不純な情熱”(1)


<注>お手数ですが、当記事の画像は下記URLでご覧ください。
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070519


(プロローグ)


リブラ(中立・公正=司法・憲法・授権規範性の象徴)
[f:id:toxandoria:20070519045649j:image]http://serendip.brynmawr.edu/sci_cult/courses/beauty/justice.htmlより


ファスケス(fasces/共和制ローマ時代、執政官・権力の象徴)
[f:id:toxandoria:20070519045759j:image]http://www.legionxxiv.org/fasces%20page/より


『 ファシズムの語源はラテン語のファスケス(fasces)で、それは共和制ローマの統一シンボルである「束ねた杖」のことです。ここから、ファシズムの特徴は過去における国家の栄光と民族の誇りのようなものを過剰なまで誉め讃え、それをこの上なく美化する、つまり一定の目標に到達した「美しい国」を熱烈に希求する、ある種の強烈なロ マンチシズム的情念であることが理解できます。注意すべきは、いつの時代でもこのような意味での情念は人間であれば誰でもが普通に持っているという現実です。


また、ファシズム (fascism)という言葉が生まれたのはムッソ リーニを指導者とする「イタリア・ファシズム運動」の台頭によるものです。ヒトラーのナチズムは、このイタリア・ファシズム運動の刺激を受けたと考えられますが、ムッソリーニのファシズム運動にはナチズムのような余りにも激しすぎる人種差別主義は見られません。それどころか、1930年代の初め(ドイツがジュネーヴ軍縮会議と国際連盟を脱退した)ころにドイツを訪ねたムッソリーニは“ドイツは狂った人種差別主義者が作った収容所だ”と言ったとされています。 』


上の『〜〜〜』の部分は、以前に書いた記事[妄想&迷想、ヒトラー的なものについて、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070420]の部分的な引用ですが、この中に出てくる、共和制ローマの統一シンボルである「束ねた杖」(fasces/執政官の権威の象徴/上の画像を参照)の中心にあるのが鋭い刃を持つ「むき出しの斧」(=武器/暴力的権力の象徴)であることに、我われはよく注目すべきです。


つまり、古代のローマ人たちは、「共和制」の時代から、既に<政治権力の本質が暴力的なものであること=ほんの紙一重で市民への抑圧・弾圧と戦争への暴走に走る能力を帯びているという政治権力のリアリズム>を理解していた訳です。無論、ローマの歴史はそれに先立つ王制の時代を持っており、このような考え方の伝統はどんどん人間の歴史そのものを遡ることになると思われます。


いずれにせよ、バイオポリティクス(生政治/http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070517の『生政治の定義』部分を参照)が喝破するとおり、喩え今が民主主義の時代であったとしても、ある程度まで統率的・内部統制的とならざるを得ない政治権力・国家権力には“生々しい暴力性”(=その象徴がfascesの斧)が潜んでおり、それが「美しい国」のように特異で空想的な民族主義的なロマンチシズムの情念(=閉鎖的でカルト的なナショナリズムの情念)と結びつくことはとても危険です。この政治的リアリズムを直視できるのが本物の民主主義意識です。


従って、それを“公正・中立な司法の立場から適切に制御・コントロールするための知恵の歴史とも見做せる欧米の法制の歴史”、その中でも、特にわが国の『大日本帝国憲法/明治憲法』(=“美しい国”の『戦後レジームからの脱却』が追憶する“カルト的な情念”の源流=fascesの斧(政治権力のむき出しの暴力性の象徴)を囲む複数の棒を縛る赤い紐(政治権力の暴走を抑制する知恵としての授権規範性の象徴)を切り裂こうとする独善的、ファシズム的な情念)へ大きな影響を与えた近世ドイツ法の歴史について、より深く理解することが重要だと思われます。


・・・・・・・・・・


(本  論)


[第1回] ナチズム誕生のプレリュード(19世紀以前のドイツ法制事情)

<注>このシリーズ記事は、大分前に[「改憲論」に潜むナチズムの病巣(王権神授と民族精神の高揚)、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20050519]としてUPしたものを、部分的に手直ししながらシリーズ記事として再掲するものです。


[13〜16世紀におけるドイツ法曹界の事情]


●中世にはSchoeffe(参審員、判決人)と呼ばれる職業の人々が活躍していましたが、13世紀末頃になるとJurist(法曹人)と呼ばれる新しい職業人が現れます。彼らは、専らローマ法・ローマ教会法の学識研究者ですが、従来からドイツで使われてきた慣習法や民衆法(部族法)の上で、これらを止揚した新しい「学識法」(法曹法)を創造し始めていたのです。そして、彼らの法曹の伝統は「ローマ法の継受」と呼ばれています。やがて、このような流れの中からドイツ地域内で普遍的に通用する「普通法」が成立することになります。


●このような「ローマ法の継受」という現象は、12世紀のボローニャ大学(イタリア)で再興されたローマ法(「ローマ法大全」(Corpus Juris Civilis/東ローマ皇帝ユスティニアヌスの勅命によって編纂されたローマ法の集大成))の研究を学んで「万国教授資格」を得た留学生たちが、それぞれの母国に戻りローマ法の伝統を講じたり、Schoeffeなど法実務家の仕事に加わることから始まっています。そして、これらJuristたちは、その高い学識故に身分制社会で特有のW血統の誓約”から解放される立場を与えられていました。


●このような訳でドイツにおける法律の実践はローマ法を基礎とすることになったのですが、この時代は未だ近・現代的な意味での中枢となる裁判機関が存在しなかったので、実際の審判・判決は大学の学問的な権威、つまり「博士の共通見解」を適用することになっていました。ともかくも、ドイツにおける法制は大学におけるローマ法研究の偏重によってイタリア(ローマ)の影響を強く受けていたのです。そして、この時代頃までのドイツ法曹界ではローマカトリックの受容と同じ様にローマ法をドグマティック(教条主義的)に受け入れる「学識法」が普通のことでした。


[17〜19世紀のドイツ法曹界と「プロイセン憲法」の誕生]


●17世紀に入ると、ドイツへのフランス・ルネサンス文化の影響、フランスのユグノーたちのドイツへの移住、更にオランダ独立戦争(1568-1609)などの影響によって、学問に関する様々な新しい考え方がドイツへ入ってきます。例えば、オランダの「典雅法律学」(Elegante Jurisprudentz/フット(Johannes Voet/1647-1714)に代表されるオランダ典雅学派の法律解釈学)は、人文主義的な視野の広い法解釈の方法をドイツへ伝えました。このため、ドイツの法曹家たちは、ローマ法大全のような「権威的典籍」の中に「書かれた言葉」を教条的(文字・言語原理主義的)に解釈するという、まるで呪縛されたようなドグマ的法解釈の作業から解放されるようになります。また、視野が広がることによって、多様で生きた法制度を新しい観点から体系的に組み直す方法なども手に入れました。この時代は「パンデクテン(Pandekten/ローマ法大全の主要部分を意味するドイツ語)の現代的慣用の時代」と呼ばれる、本格的な「ドイツ法学」の揺籃期です。


●この「ドイツ法学の揺籃期」に決定的とも言えるほど大きな影響を与えたのがホッブス(T. Hobbs/1588-1679/イギリスの経験論哲学者)、ロック(J. Locke/1632-1704/イギリスの経験論哲学者)らの自然法思想(哲学)です。この結果、ドイツでは法哲学が重視されるようになり、国家理念と法哲学が人間の精神環境で通底する可能性が理解されるようになります。ここで起こったのは、かつて哲学がキリスト教神学から解放されたことと同じです。つまり、法律学が史上で初めて「ユスティニアヌス法典」(ローマ法大全の勅法集の部分/最も権威的な位置づけにある部分)という典籍の権威(呪縛)から離れて、科学的な道筋(法体系)の可能性を見出した重要な出来事であり、ここで近代的な法学の方向性が決定したと言っても過言ではないのです。


●19世紀に入るとプロイセン王国(この頃、ドイツで最も強大な王国に成長)の啓蒙専制君主時代(フリードリヒ・ヴィルヘルム3世、4世頃)から「ドイツ第二帝国」(1871-1918/プロイセン王国が中心)初め頃(ヴィルヘルム1世、2世)にかけて、法形成の淵源を「民族の精神」に求める「歴史法学」がドイツの法学会を支配します。この「歴史法学」の創始者は、経済学における歴史学派の先駆者と見なされるF. リスト(Friedrich List/1789-1846)の影響を受けたと考えられるF.K. サヴィニー(F. K. von Savigny/1779-1861)です。サヴィニーはプロイセン国王(フリードリヒ・ヴィルヘルム4世)の懇請を受けて立法改定相(実質的なプロイセン宰相)に就任(1842-1861)しています。また、1861年にサビニーが死去したときには、彼の功績を記念して「サビニー財団」が設立され、ここから現在も刊行が続く法史学雑誌「Zeitschrift der Savigny-Stiftung f・ Rechtsgeschichte 」が発刊されています。


●サビニーの功績は偉大なものですが、その中で筆頭に挙げるべきものがドイツの新しい市民法体系の創出を目指して構想された「歴史法学」です。そして、このサヴィニーの功績が、18世紀の「ドイツ法学の揺籃期」に確立された新しい方向性を引き受けたものであることは言うまでもありません。サビニーの思想の根本にはW歴史を遡れば、民族と法律が共同して法形成に参与していた時代(慣習法の時代)がある”という基本的な考え方があります。そして、現代は法律が民族に代わってこの発展の仕事を引き受ける時代になっており、過去における民族精神の発掘の仕事を法哲学が担っているのだと論じています。また、サビニーは歴史と法の関係について次のような言葉を残しています。・・・『法の素材は国民の全ての過去によって与えられており・・・途中略・・・国民自身の最も内奥にある本質とその歴史から生み出される』


●ここで忘れてならないのは、19世紀のドイツは統一国家を模索する中でナショナリズム(民族国家主義)の熱気が湧き上がった時代でもあったということです。無論、このことは、フランス革命の余波(厳密にはナポレオン戦争)とイギリスの産業革命などが刺激となって、統一された国民国家を求める意識がドイツ人たちの間で高まったためであることは明らかです。そして、奇しくも、この時代にサビニーの「民族精神」を根本に据えた「歴史法学」が着想され、そのサビニーが国王の懇請によってプロイセン王国の実質的な宰相となっていたことを想起すべきです。


●その「民族精神」の高揚とは背反するようなことですが、同じ頃のドイツ(フランス革命などの市民革命で遅れをとり、同じゲルマン民族から成る国民としての意識と誇りを傷つけられたドイツ人たち)が精神の拠り所としたのが、すでに遥か昔のウエストファリア条約(1648)で消滅していた『中世ドイツ(第一)帝国』(神聖ローマ帝国)の「栄光」でした。このような経緯で、偉大なる法学者・宰相サビニーは「ゲルマンの純血と民族・伝統精神」への憧れ、そして「神聖ローマ帝国の栄光」の復権という二つの根本原理をアウフヘーベン(Aufheben)する形で、新たなプロイセン・ナショナリズムに熱気を吹き込む理念の創造に成功したのです。そして、この時代のプロイセン社会の中には、微かながらも「ナチズムの空気」が漂い始めていたのです。


●誤解を招かぬよう敢えて言っておきますが、論者はサビニーこそがナチズムの原因だなどというトンデモ論を主張するつもりはありません。もし、このように“不埒な放言”をすれば法曹界の方々から大目玉を食らうことになります。それどころか、サビニーはドイツが誇るべき伝統の一つである「歴史法学」(historische Rechtswissenschaft)の道を樹立した偉大な法学者です。ましてや、この「歴史主義」というドイツの伝統には、現在、市場原理主義・金融原理主義に毒されたアメリカ型グローバリズムが世界に撒き散らしつつある恐るべき汚染現象に対する解毒剤・緩和剤の役割が期待されているのです。問題は、どのように優れた理念やシステムにも必ず欠点や弱点があるという現実を謙虚に自覚し、それを如何にして直視できるか、ということです。


●更に、世界に先駆けて、先進的で民主的な「ワイマール憲法」を作ったワイマール共和国が、何ゆえに脆くもナチス・ヒトラー政権を受け入れることになったのか、という痛ましいほどの歴史的現実があります。しかし、現代のドイツ人は、この痛ましい歴史と真っ向から向かい合うという厳しい生き方を現在に至るまでの長い時間をかけて持続的に選択してきました。決して「ワイマール憲法」に全ての罪を着せて、理想の民主主義を捨て去るような愚考(愚行)はしていません。そこでモラル・ハイグラウンドの光を燦然と放つ光源は唯一点です。それはドイツ人たちが、自ら犯した誤りである歴史的事実に真っ向から対峙しながら、全世界に向けて「率直な反省」の意志を表明しているということです。


●歴史と向き合って「反省」することがどうして「自虐史観」だなどと言えるのでしょうか。もし、歴史を反省することが「自虐史観」だというのであるならば、このほどベルリンに「ホロコースト記念碑」を17年越しで完成させたドイツ人たちの勇気ある行為(詳細はURL、
http://www.asahi.com/world/germany/news/TKY200505090321.htmlを参照)は「自虐史観の記念碑づくり」だということになるでしょう。だから、「自虐史観」のような視野が狭い批判の言葉は、不勉強な輩の単なる“強がり、開き直り”の類なのです。ともかくも、勇気あるドイツの人々の「反省」の中から、現在の拡大EUの一角を支える新たな理念が創造されたのです。つまり、サビニーが樹立したドイツ法に関する「歴史主義」についても同様のことが言えるのです。「反省」の接木によってこそ、人類の未来は切り開かれるのです。(ドイツ人たちが自ら犯した誤りであった歴史についての「反省」がどのようにして拡大EUの理念の中に取り込まれているかについては右のURLを参照)http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20050329


●1882年(明治15)、伊藤博文らは「大日本帝国憲法」(1889年公布)起草の参考とするため憲法事情及び諸制度の調査を目的に、このような時代のプロイセンへ渡航しました。その頃は、丁度プロイセン王国を中心とする「ドイツ第二帝国」が成立してから10年ほど経過したばかりの時代で、初代皇帝ヴィルヘルム1世の治世です。ドイツの統一は、ベルリン・ウイーンの「三月革命」(1848/同年のフランス「二月革命」の影響)以来のドイツ市民層の悲願となっていました。しかし、「三月革命」と「プロイセン憲法紛争」(1862-66/詳細は下記<参考1>)の挫折によって、ドイツ統一のリーダーシップは、既に政治的な覇権を掌握したプロイセンの王権へ移っていたのです。


●また、プロイセンは「プロイセン・オーストリア戦争」(1866)で、ライバルであったオーストリアを破り、オーストリア(人口約1,000万人)を排除する形(小ドイツ主義)で「北ドイツ連邦」を成立させていました。この戦争の勝利は「プロイセン憲法紛争」を巡り王権と対立していた議会内の自由主義勢力を抑えることにもなります。そして、「鉄血宰相」(重工業の振興と軍事力(つまり富国強兵の政策)を最大限に活用したので・・・)と呼ばれたビスマルクは「普仏戦争」(1870-71)でフランスのナポレオン3世軍を破り、南ドイツ4カ国を加えて、遂に悲願の「ドイツ第二帝国」(1871-1918/人口約4,100万人)を誕生させていたのです。


●これに先立ち、1850年(国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世、宰相サヴィニー)には、「授権規範性」が意図的に排除された「プロイセン憲法」が制定されています。この憲法の大きな特徴は次の3点(★)にあります。同時に、この「プロイセン憲法」の根本には、先に述べたとおり「ゲルマンの純血と民族・伝統精神」への憧れ、そして「神聖ローマ帝国の栄光」の復権という二つの根本原理をアウフヘーベンした「新しいプロイセン・ナショナリズムの熱気」(ナチズムへ向かう予兆のような空気)が仕込まれていたのです。やがて、この独特のプロイセンの空気が伊藤博文らを介して「大日本帝国憲法」のなかに流れ込むのです。(下記三項(★)で、国王を天皇に読み替えれば、そのままで「大日本帝国憲法」の根本理念となります)


<注>授権規範性:フランス革命、ピューリタン革命以降に認識された「憲法」の本性的な役割。立憲君主制であれ、議会民主制であれ、政治権力は必ず暴政へ走る恐れがあることが前提とされる。このため、「憲法」によって政治権力の手足を縛る役割が期待されるようになった。これが「憲法」の授権規範性ということである。当然ながら、「日本国憲法」を始めとして、現代世界の民主憲法にはこの役割が強く期待されている。つまり、国民は「憲法」を介して政治権力の腐敗や暴走を監視していることになる。


★国王の権力は神の恩寵によって授与されたもの(神権政治としての最高権力)と規定されている。


★立法権は国王と両議院(衆議院・貴族院)が共同でつくるものである。(見かけだけの立憲君主制)


★しかし、行政権は国王のみにあり、国王は法案の拒否権を持つ。また、国王は緊急勅令を出すことができ、大臣を任免する大権を持つ。(国王の権力はすべての政治的権力の頂点にある)


<参考1>プロイセン憲法紛争


・・・「プロイセン憲法」が出来た後の1860年、プロイセン政府(国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世、宰相サヴィニー)は、軍事力強化のための軍制改革案を議会へ提示しますが、下院で多数派であった自由主義者たちが反対し、これが「政府」対「下院」の激しい対立をもたらすことになりました。これは、議会の統制下に軍隊を置くか否か(軍事予算の決定権を議会と軍隊のいずれに持たせるべきか)という問題が本質です。この後、ユンカー出身のビスマルクが宰相に就任すると、この対立が一層激しくなりますが、「プロイセン・オーストリア戦争」の勝利で軍備強化の成果が実証されたため、やがてビスマルクの与党・自由党が指導力を握ることになります。


<参考2>「プロイセン憲法紛争」の「大日本帝国憲法」への影響


・・・「プロイセン憲法」をめぐる、このような紛争の経緯が、憲法起草関連の調査・研究のために、遥々と遠い日本からプロイセンを訪ねた伊藤博文らに大きな影響を与えたことは間違いないと思われます。つまり、「大日本帝国憲法」の下で、天皇大権を背に帯びた軍部が暴走し始めたとき、それを国会も政府も止めることができず(事実上、国会は軍事予算への統制能力を失ってしまった)、それが日本の「太平洋戦争」への突入を決定づけたことは明らかであり、それを可能ならしめたものは、万世一系の天皇の「非常大権」と優秀な単一民族である大和民族の「民族精神」の二つ(「大日本帝国憲法」の根本に位置するもの)に他ならないからです。


<参考3>プロイセン改革とドイツ・ロマン主義文化の高揚


・・・1807年から「ドイツ第二帝国」が成立する頃にかけて、プロイセン王国では農制、営業・租税制度、行政、軍制、教育制度などの分野にわたる近代化のための様々な改革が推進されました。この改革が「プロイセン改革」と呼ばれるものであり、それはフランス革命の影響を受けた市民層からの要求に応えるとともに急激な政治的革命を巧妙に回避するという意図も併せ持っていたのです。このため、表向きは英仏などの諸国に比べて近代化が遅れた(プロイセン)ドイツの民族的自立を達成し誇りを取り戻すという理念の下で行なわれた改革です。そして、その指導的な役割を担ったのが、主に開明派の官僚たちであり、彼らのリーダーシップによって「上からの啓蒙的な改革」を成し遂げようとしたのです。


・・・目を転じると、18世紀から19世紀のドイツはロマン主義文学が高揚した時代です。特に、ブランデンブルグの中心地ベルリンはロマン主義文学活動の一大中心地でした。また東プロイセン(ケーニヒスベルク、現在はロシア領カリーニングラード/プロイセン公国誕生の地)のケーニヒスベルク大学(1544年創立)では哲学者カント(I. Kant/1724-1804)が教鞭を取りましたが、このカントに始まるドイツ観念論哲学は、1810年に創立されたベルリン大学の教壇から、フィヒテ(J.G. Fuchte/1762-1814)、ヘーゲル(G.W.F. Hegel/1770-1831)などの哲学者たちによって広く市民層の間へ伝えられました。また、ベルリン大学で忘れてならないのは歴史学者ランケ(L. von Renke/1795-1886)の活躍です。ランケは、厳密な資料(史料)批判と史実の客観的な解釈の重要性を主張して、近代ドイツ歴史学の厳密な研究手法を確立しました。


(「ドイツ第二帝国」の誕生以降の展開、つまり「ワイマール共和国」の崩壊から「ヒトラーのナチス・ドイツ」が誕生するまでの経緯については下のURLを参照、
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20050514


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