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秦郁彦が金学順さんの証言をでっち上げ(1)   blog*色即是空
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投稿者 Kotetu 日時 2007 年 6 月 28 日 11:00:17: yWKbgBUfNLcrc
 

(回答先: 戦争板UP>秦郁彦が金学順さんの証言をでっち上げ(3)   blog*色即是空 投稿者 Kotetu 日時 2007 年 6 月 28 日 10:56:34)

2007-06-16■秦郁彦が金学順さんの証言をでっち上げ(1)


秦郁彦氏は、金学順さんが言ってもいない証言を捏造しておきながら「重要なポイントでいくつかの差異が見られるのは問題だ」(『慰安婦と戦場の性』p.180)と主張しています。

下記の表は、秦氏が金学順さんの証言を比較したものであり、この表には秦氏による引用部分の改ざんが数多く見られるのですが、今回はBf「慰安婦にされた事情」の「中国語ができたので中共軍の密偵役もやった」という部分に絞って反論しようと思います。証言の中でも一番食い違っているかように見える部分です(実際には金学順さんはこんなことは言っていません)。

<表6-1>金学順証言の異同

  A B C
a 生年 1924 Aに同じ 1924・10・20
b 父の死亡事情 事情は不明。 独立運動家で日本軍に撃たれ死亡。 死因は知らない。
c 母の再婚 14歳の時に再婚。 母の再婚を嫌い家出。 Bに同じ。
d キーセン 母が40円でキーセンへ売った。 養女としてキーセン修業3年。 平壌の「妓生券番」に3年通う。
e 中国行きの事情 若すぎて朝鮮で営業許可が出ないため、1941年中国へ行けば稼げると養父に言われ。 お金を稼ぐために養父につれられ。 養父が金もうけをしようと中国へ同行。
f 慰安婦にされた事情 北京の食堂で日本将校にスパイと疑われ養父と別々に、そのままトラックで慰安所へ。処女を奪われた。 Aに同じ(中国語ができたので中共軍の密偵役もやった)。 養父をおどして日本兵が慰安所に連行、3ヵ月後に趙の手引きで脱走。
g 脱走と結婚 4ヵ月後に朝鮮人アヘン商人の手引きで脱走し、42年上海で金貸し。 Aとほぼ同じ(上海で韓国独立の光復軍と連絡)。 Aと同じ。
h 現在の心境 私をこんなにした奴らをズタズタに引き裂いてしまいたい。 日本政府が悪かったと謝罪しない限りは、私の気持ちは晴れません。 体験を暴露して、スッとした気持ちになりたかった。


A 挺対協編『証言強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち』の証言(原著は1993年2月、邦訳は93年10月刊行、ヒアリングは91年か)

B 解放出版社編『金学順さんの証言』(1993年2月刊行、91年12月来日時の金証言)

C 伊藤孝司編『証言従軍慰安婦女子勤労挺身隊』(1992年8月刊行、伊藤のヒアリングは不明)

(秦郁彦『慰安婦と戦場の性』p.181)

引用元の著書、解放出版社編『金学順さんの証言』に実際に当って、検証してみましょう。

以下に、秦氏の「引用」とは大きく食い違う原文の一部を引用しておきます。これを読んでみれば明らかなように、金学順さんが「中国語ができたので中共軍の密偵役もやった」ために慰安婦にされたというような記述はどこにも見当たりません。下記の引用は慰安婦にされた経緯ですが、もちろん全文チェックした上でそのような記述はないことを確認しています。

日本憲兵が拘束

養父と、そして一緒に養父のところからキーセンの学校に通った娘と私の計3人で新義州から「満洲」に出発する時、駅でこれまで別れて暮らしていた母と会いました。そのとき母と会った最後です。いまこの歳になって、母のことを知りたいのも勿論ですが、再婚で義父となった人には二人の子どもがいたので、私にはきょうだいができたわけです。ある時まで「兄さん」「姉さん」といって育ったんです。名前まで覚えています。その兄、姉がどうしているか知りたいのです。姉は一歳年上でした。私が15歳のときに結婚しました。姉はいまどうしているのでしょうか。

「満洲」へ行くのは大変でした。私たち3人を乗せた汽車は新義州を出発して、安東(アントン)橋を渡っていきました。そして、中国の地、アントンに到着するのですが、安東橋はとても長く、いまもよく記憶しています。

中国に入ると、そこは日本軍が監視していて誰でも行けるところではありませんでした。そうこうするうちに私たちは日本兵に捕まりましたが、養父がどんな手を使ったのかは知りません。私たちは釈放されて、そこから養父と汽車に乗って北の方に行きました。北に向かってたぶん、3日間は汽車に乗っていたと思います。そして着いたところが、北京でした。

北京は大きな都市ですから、日本軍や日本人の目を逃れて暮らせると思い、住む家をさがしていましたが、ある日、食堂で食事をとろうとしている時、日本軍の将校に見つかってしまいました。その将校は「お前たち、朝鮮人だろう」と尋ねました。あまりにも怖くって、答えることもできずじっとしていました。養父も私も、もう一人の娘も「もうこれで最後だ」と手足がブルブル震えだしました。

軍人は「お前ら朝鮮人か」とたたみかけられました。将校らしい軍人は「この朝鮮人はスパイではないのか」と言うんです。当時日本軍は朝鮮人を見ると「スパイだ」と疑ったのです。将校は長い刀を背中にしょっていたのですが、その刀を抜いてつきつけて養父を離れたところに連れて、膝まずかせました。何をいってるのか知りませんが、刀をふりまわしていました。その光景をみて怖くって怖くって、ブルブル震えていました。

私は養父について行こうとしましたが、将校はいっしょにいた若い軍人二人に私たちを連れていけと命令するのがわかりました。そして私たちが抵抗すると、「ついて来ないなら殺す」と脅しました。養父は引っ張られてどこかへ行ってわからなくなりました。その時が養父を見た最後でした。残されたのは、私より一つ上の姉さんと私の二人だけになりました。

最前線の慰安所へ

私たちはそのまま軍人につかまって、道ばたに止めてあった軍用トラックに乗せられたのです。先に養父を連れていった将校が戻ってきて、「出発しろ」と命じると、トラックは走りだしたのです。

養父がどこに行ったのかも分からないし、怖くて隅の方に静かに隠れていました。トラックはずっと走り続けました。途中で中国軍の銃撃にもあったことを覚えています。「早く車の下に隠れろ」と言われて、トラックの下に隠れたりもしました。

どこか分からないまま、夜になるまでトラックは走り続けました。夜中に村の様な所に着いたようでした。トラックから下りてみると、言葉はよく理解できませんが、日本の兵士が私たちのことを命じて「どこかへ入れてしまえ」と引っ張っていくようでした。

日本軍が攻めてきたので中国人が全部逃げて、空き家になっていました。そこに入ったのです。真っ暗な家に連れられました。部屋の中に閉じ込められて、しばらくしたら光が見えたのです。蝋燭の光のようでした。よく見ると軍服を着た私たちを引っ張ってきた将校のようでした。その将校がついてこいと言って、私の腕を引っ張りました。怖くてブルブル震えていました。

私は行きたくないので抵抗すると、「なぜ来ないか」と足で蹴ったり、引っ張ったりしました。さらに抵抗すると「殺してしまう」と言いました。いまでもそのときの怖さ、恐ろしさは生々しく覚えています。それから連れて行かれたのは、真っ暗な部屋でした。それから起ったことは、自分の口から恥ずかしくって言うことはできません。人間がやることではありません。

そこで「服を脱げ」と言いました。服を脱ぐことなどどうして出来ますか。ブルブルと震えていると、その将校は新しく買って着ていた服をびりびりに破りました。そのとき将校に女として口に出来ないことをされてしまいました。そのことを考えると言葉が出ません。どう表現していいかわかりません。

女として一番最初に体験することを、そんな状況でやられてとても言葉ではいい表せません。将校は喜んだかも知れませんが、私は女性として一生価値のないものになったのかという、そういう思いがしました。

将校は「ここでは朝鮮の服を着ることができない。ここでは軍服や中国の服しか着ることができない。明日の朝になれば、お前はここがどういうところかわかるはずだ」と吐き捨てたのです。

本当に口にも出来ないことです。人間なのに、人間であることが考えられない、本当に恥ずかしくって口に出来ないことです。引き裂かれた服を抱いて、どれだけ泣いたかわかりません。

(後略)

(解放出版社編『金学順さんの証言』p.16)

上記の証言からわかるとおり、「スパイではないのか」と言われ連行されたのは、金学順さんではなく彼女の養父です。

秦氏が何か勘違いをしているとすれば、下記の部分かも知れません。金学順さんが「当時の状況」として語った「そのときには日本軍のいろんな秘密を八路軍に伝えたり」という部分です。しかし、その後に続く「最後には中国軍の中に入っていっていっしょにたたかった」という言葉からわかるとおり、これは金学順さん自身のことではないということは明白です。

朝鮮人男性に助け出され

鉄壁鎮と呼ばれていたその地に2ヶ月ほどいて、次の地に移動しました。また戦闘の最前線の地です。軍人たちは教えてもくれませんから、地名はよくわかりません。私は中国語もよくできるし、日本軍がどこにいるかはだいたいわかってきましたが、どこかはわかりません。

当時の状況を知らない人にはわからないでしょうが、中国人、韓国人、日本人が入り乱れてたたかった時期であり、中国の八路軍と戦闘をしていました。そのときには日本軍のいろんな秘密を八路軍に伝えたり、最後には中国軍の中に入っていっていっしょにたたかった。そういう状況でした。

それまでと同じく軍人が来ると相手をせねばならず、どんなにつらくても逃げられませんでした。すでにそこに送られていた3人と一緒に行動することになりました。

あまり悔しく腹がたったとき、抵抗したりして命令を聞かなかったりすると、ひどく殴られました。

最前線では、作戦に出かける時には軍人は来ませんが、作戦から戻ったときは一日に10人、20人といわずとにかく相手をしなければならないので、そのつらさは言いあらわせません。

もう人間のすることではありません。いまでもその夢を見ることがあります。私が死んでいのちが消えてしまうまで続くでしょう。死んだときにやっと自由になれるかもしれません。しかし何をやっても、その悪夢を忘れることはないでしょう。

部隊がどんどん前進していくので、軍人といっしょに車に乗って移動しながら過ごしました。移動先でも同じことをするのです。私は死んではいけない。とにかくどうやっても生きるのだと決心したのです。

そうこうするうちに、ここを脱出しなければ生きられないと思うようにもなりましたが、どこへ行ったらいいのか分からなくて、脱出する勇気も出ないまま、軍人たちに酷使されてからだをこわしました。肺が悪くなり病の床にふせってしまったのです。

軍人たちが作戦で出かけてしまったある日の夕方のことです。ふせっている私の部屋に朝鮮人男性が突然入ってきました。驚いていると、私に「声をあげてはいけない」と口を押さえて、「私は朝鮮人だ。お前も朝鮮人だろう。どうしてこんなところにいるのか。何もしゃべってはいけない」と言いました。だいぶ年上の男性でした。

日本人、韓国人、中国人が入れ乱れてたたかっていたのですから、韓国人男性が前線に忍び込んでくることはそう不思議ではありませんでした。彼は「商売をしている」といっていましたが、何かを調べているような人でした。

彼を見ると、私は「おじさんも朝鮮人、私も朝鮮人。おじさんがここを出るときには私を逃がしてほしいのです。このままここにいたら死んでしまう。どうかいっしょに連れて行って下さい」と頼みました。彼は「お前はいくつだ。こんなかわいそうなことがあるのか。17歳でどうしてこんなところに連れられて、苦労しているのか」と言いながら、「自分といっしょだと、あちこちに移動しなくてはならない。それが出来るか」と聞いてきました。

私は「おじさんが行くところについて回りますから、助けてください」と言いますと、彼は道をよく知っていたので、手をつないでいっしょに連れて出てくれたのです。その日の夜明け前、軍人たちが戻らないうちに慰安所を脱出しました。

(解放出版社編『金学順さんの証言』p.24)

まさか秦氏は、金学順さんが慰安婦をしながら実は中共軍(八路軍)のスパイで「最後には中国軍の中に入っていっていっしょにたたかった」という解釈をしているのでしょうか???

秦氏は、(1)養父が「スパイではないのか」と言われ連行されたこと、(2)金学順さんが「私は中国語もよくできるし」と言ったこと、(3)当時の状況として「日本軍のいろんな秘密を八路軍に伝えたり」と語ったこと、以上そもそも主語の異なる(1)(2)(3)を繋ぎ合せて、金学順さんが言ってもいない「中国語ができたので中共軍の密偵役もやった」ために「スパイと疑われ」慰安婦にされたという話をでっちあげ、「重要なポイントでいくつかの差異が見られるのは問題だ」と主張しているのです。

これは間違いで済まされる問題ではありません。

秦氏が改ざんした引用部分を鵜呑みにした小林よしのりが、金学順さんを嘘つき呼ばわりしています。

「金もうけができる」と養父にいわれ中国へ。

中国語ができるので中共軍の密偵役もやったところ、

スパイ容疑で捕らえられ、慰安所へ。

ぜんぶちがうぞぜんぶ!!確実にどれかはウソじゃないか!!

(『新ゴーマニズム宣言』第3巻、特別編p.177)

性暴力を訴えた被害者を嘘つき呼ばわりするからには、それ相応の根拠が必要ではないでしょうか。原文を確認すればわかることなのにあまりにもズサンです。

ウィキペディア「金学順」のページも、秦氏の文献を参照し次のようにデマを広めています。

証言履歴:初期は中国軍のスパイをやっていたために日本軍に捕らえられ、慰安婦とさせられた、との証言をしていたが、インタビューや講演を行うたびに微妙に証言がずれていくことでも知られている。

リファレンス:秦 郁彦 慰安婦と戦場の性 1999

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%AD%A6%E9%A0%86#_note-1

大部分の否定派もこれに追随する形で元「慰安婦」を嘘つき呼ばわりしています。

金学順さんが言ってもないことをさも言ったかのように捻じ曲げて、その結果、元「慰安婦」の証言はいかにも信用できないというデマを広めた秦郁彦氏と小林よしのりは、どのような責任をとるつもりでしょうか。

【秦郁彦に関する参考記事】

歪曲の手法 -- 『歪められた私の論旨』の歪んだ論理

http://homepage3.nifty.com/m_and_y/genron/hatsugen/ianfu-hata.htm

秦郁彦『慰安婦と戦場の性』批判

http://www32.ocn.ne.jp/~modernh/paper44.htm

※金学順さんは1997年12月16日にお亡くなりになっています。金学順さんのご冥福を心からお祈り申し上げます。


blog*色即是空
http://d.hatena.ne.jp/yamaki622/20070616/p1

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