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宮沢喜一死去 自民 ついにハト派の「命脈」が途切れる?
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投稿者 memento mori 日時 2007 年 6 月 30 日 12:31:53: 1mvWlnKGcvCrw
 

中国新聞社説 '07/6/29
宮沢元首相死去 護憲の信念継承したい

 改憲論が一段と台頭するのを、どんな思いでみていただろうか。宮沢喜一元首相がきのう、八十七歳で亡くなった。平和憲法の大切さを訴え続け、ハト派の論客として存在感を発揮した政治家だった。

 北朝鮮の核実験を機に日本の核武装論議が公然と語られ、集団的自衛権の憲法解釈の見直しまで始まった中での訃報(ふほう)である。「戦争だけはしてはいけない」と口癖のように繰り返した宮沢氏は、この国の行く先がさぞ気掛かりだったに違いない。

 宮沢氏の政治家としての原点は、「権力(軍部)が暴走し、国民の言論の自由が奪われていった苦しさ。そして最後には原爆投下、敗戦という悲劇を招いた記憶」(中国新聞社刊「ハト派の伝言」)である。そこから生まれたのが、戦後日本の復興と繁栄を成し遂げたのは憲法があったからだとの信念だった。

 憲法九条の戦争放棄を守るよう強く訴えたのも、そのためだ。「憲法をつくるのは国民であって、それより先に国家や憲法があるわけではない」との発言(同書)をいま一度、かみしめたい。

 55年体制幕引き

 「保守本流」を自負した政治家でもあった。戦時中に旧大蔵省に入り、戦後日本の出発点となった一九五一年のサンフランシスコ講和会議で吉田茂首相に随行。五三年に政治家に転じた後、広島を選挙区に、二〇〇三年に引退するまで半世紀にわたり国政に携わってきた。

 八〇年代には島根県選出の竹下登氏、安倍晋三首相の父親で山口県選出だった安倍晋太郎氏とともに「ニューリーダー」と呼ばれ、当時の中曽根康弘首相の後継を競った。宮沢氏が死亡し、三人とも旅立ったことになる。一つの時代が終わったことをあらためて感じさせる。

 宮沢氏が首相を務めたのは、九一年十一月から九三年八月まで一年九カ月。政治改革関連法案を成立させることができず、自民党内の造反もあって内閣不信任決議案が可決された。その上、衆院を解散して臨んだ総選挙で惨敗。三十八年間続いた自民党一党支配の「五五年体制」の幕引き役という辛酸をなめた。戦後保守政治のけん引役だっただけに皮肉な巡り合わせとしか言いようがない。本人も無念だっただろう。

 首相在任中に、国連平和維持活動(PKO)協力法を成立させたのは印象深い。冷戦終結後の国際社会で、武力行使をせずに新たな平和秩序づくりに道を開いた点を評価したい。

 経済では志半ば

 政界きっての経済通としても知られた。首相退陣はバブル経済の崩壊と重なり、その後、不況が長引いたため小渕内閣で、首相経験者としては異例の蔵相に就任。「平成の高橋是清」と話題になったこともある。だが、景気回復を軌道に乗せることができず、財政赤字も膨らんだ。国民の期待を受けながら、経済再生の志を遂げられないまま政界を引退したのは気の毒だった。

 指導力と決断力の欠如を指摘する声も根強かった。首相在任中の九二年に住宅金融専門会社(住専)の不良債権処理のため、いち早く公的資金投入の必要性を指摘したのに、銀行だけを優遇すると財界が反発し、構想自体が頓挫したのが一例である。トップとしてリーダーシップを発揮し、持論を貫いていたら、評価は変わったかもしれない。政権基盤の弱さもウイークポイントだった。

 引退後も、ことあるごとに政界へ注文を付けた。郵政民営化選挙の後、巨大化した自民党の国会運営に「今の在り方は感心しない。もう少し時間をかけて政策を議論すべきだ。大政党として、こんなことを長く続けていてはいけない」と語ったのは的確だった。

 「権力はなるべく使わないほうがよい」との本人の言葉が宮沢氏の政治姿勢をよく表している。成熟した民主主義時代の理想像を求めたのだろう。これからの政治家にこの姿勢を求めたい。
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山陽新聞社説 2007.6.30
http://www.sanyo.oni.co.jp/syasetsu/syasetsu.html

宮沢元首相死去 ハト派代表し護憲を体現

 宮沢喜一元首相が老衰のため死去した。国政の中枢に長年かかわり続け、軽武装・護憲、積極財政による経済運営といった戦後政治を体現してきた。歴史の証言者でもあった宮沢氏の死が惜しまれる。

 その歩みは、戦後政治そのものだ。大蔵省に入省し、一九五一年にはサンフランシスコ講和会議に吉田茂首相の随員として出席している。政治家に転身し、六二年には池田内閣の経済企画庁長官として高度経済成長を推進した。中曽根内閣の蔵相として、プラザ合意後の急激な円高などに対応して財政出動や低金利政策を続け、バブル経済の一因となったと指摘された。

 九一年十一月から九三年八月まで首相を務め、国連平和維持活動(PKO)協力法を成立させ、自衛隊の海外派遣に道を開いた。政治改革法案が挫折して自民党分裂の中で「五五年体制」の最後の首相ともなった。小渕、森内閣で蔵相に再登板し、大型景気対策を進めた。一人の政治家がこれほど重要局面に関与するのは希有(けう)なことだろう。

 「保守本流の旗手」として長く派閥の領袖であったが、大物政治家では珍しい学究肌で、党務、閥務を不得手とし露骨な権力闘争とは距離を置いた。一方では政治力、決断力の弱さが指摘された。首相当時、金融機関の不良債権をいち早く問題視し先見性を示したものの不良債権処理断行に至らなかったのも、そうした側面と無縁ではあるまい。

 「経済通」といわれた宮沢氏の政策は、不況時に政府が公共事業や減税を行うなどの「積極財政主義」だった。財政を絡めて経済をコントロールしていこうというケインズ政策の理念が貫かれていた。戦後の復興と成長をけん引したのは確かだろう。

 蔵相再登板時の大型景気対策では、国債を大量発行した。景気の底割れを食い止めた一方、抜本的な経済再生には至らず、現在の財政悪化にもつながった。「私は大変な借金を残した大蔵大臣として歴史に残ることになるが、やむを得ない」と自ちょう気味に語ったのが印象に残る。

 安全保障政策では、「ハト派」保守政治家の代表格であった。憲法九条の改正に慎重な立場で、専守防衛路線の堅持を唱えた。議員引退後も自民党新憲法起草委員会幹部として、「外国で武力行使をしないことが一番大事」などと軍事面の抑制を主張した。

 安倍晋三首相は「戦後レジーム(体制)からの脱却」を掲げているが、時代の潮流の変化にも忘れてはならないものはある。宮沢氏が体現してきたハト派の命脈をつないでいくことが必要だ。
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