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闇から出てきた亡霊/立花隆氏の新版“日共”批判をきる/岡 宏輔(しんぶん赤旗)
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投稿者 熊野孤道 日時 2007 年 8 月 23 日 10:01:23: Lif1sDmyA6Ww.
 

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2007-08-23/2007082325_01_0.html

2007年8月23日(木)「しんぶん赤旗」

闇から出てきた亡霊

立花隆氏の新版“日共”批判をきる

岡 宏輔

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30年前、特高警察の筋書きをむしかえした人物

 立花隆氏が、雑誌『文芸春秋』九月号に「“日共のドン” 宮本顕治の闇」と題する一文を書いています。立花氏といえば、三十年ほど前、日本の支配勢力の反共戦略の先陣をきって同じ『文芸春秋』の一九七六年一月号から「日本共産党の研究」という連載を開始し、戦前の日本共産党と宮本顕治氏の活動にたいする集中攻撃をおこなった人物です(これは七七年十二月号までまる二年にわたる長期連載でした)。このときの立花氏の攻撃の最大の特質は、戦前の特高警察や検察当局の諸資料をなによりの材料として、特高警察がでっちあげた反共キャンペーンを、戦後の日本でむしかえしたところにありました。

 日本共産党は、当時、この攻撃に全面的な反論をおこないました(小林栄三著『歴史の真実に立って――治安維持法・スパイ挑発との闘争』〈新日本新書 一九七六年十月〉、「赤旗」党史班『犬は吠えても歴史は進む――『文芸春秋』立花論文への総批判』〈新日本新書 一九七七年五月〉、『特高史観と歴史の偽造――立花隆「日本共産党の研究」批判』(党出版局 一九七八年十月)。そのなかで、特高警察のでっちあげた「事件」について解明した主要点は、次のような点でした。

 ――宮本氏が治安維持法違反で逮捕された一九三三年当時、専制権力は、日本共産党にたいして、弾圧にとどまらず、スパイの手で共産党に社会的犯罪を押しつけ、党を犯罪者集団に仕立てあげることまで企てたこと。

 ――宮本氏は、戦時下のもっともきびしい条件下の法廷闘争(一九四〇年、四四年)で、事実と道理をつくして特高警察の主張を全面的に論破したこと。

 ――その結果、専制権力の思惑ははずれ、戦時下の法廷でも、宮本氏に「殺人罪」を押しつけることはできず、治安維持法違反を主要な罪名として無期懲役の判決をくだし、一九四五年六月、宮本氏を網走刑務所に送ったこと。

 ――戦後、民主主義の時代を迎えたとき、悪法・治安維持法は撤廃され、戦時下の法廷が宮本氏に科した「罪」も、政府によって公式に取り消されたこと。

 立花氏の攻撃は、特高警察の主張をうのみにして、そのでっちあげをむしかえしたものにすぎません。内容的にも特高警察の資料以外の客観性のある材料は、何ひとつ持ち出すことはできませんでした。そしてこの時、立花氏が、日本共産党のこの反論にたいしてまともに答えることを、いっさいしなかったことも、特徴的なことでした。

 その立花氏が、宮本顕治氏の死去を機会に、三十年前に論破された日本共産党攻撃を、ふたたびむしかえそうというのです。立花氏は「闇」という言葉が好きなようですが、「闇」というなら、立花氏の今回の再登場こそ、“「闇」から出てきた亡霊”の名に値するのではないでしょうか。

兵本氏に党史の「証言能力」があるのか

 今回の二度目のむしかえしにあたって、立花氏は、自分のところには「未使用」の資料が「段ボール数箱分」もあるのだなどと道具だての豊富さを自慢していますが、その中身は検察側の「調書類がギッシリ」なのだそうです。特高警察の筋書きをもとにつくられた警察文書以外に頼るもののない、特高史観の持ち主らしい自慢ぶりです。

 ただ今回の論稿で、彼がいちばん強力な新資料だと思い込んで持ち出すのは、元共産党員の「証言」です。彼はこの「証言」をたいへん重要視しているようで、十一ページほどの論稿のなかで、立花氏とこの人物との雑誌対談がなんと八カ所計八十三行分も引用されているほどです。立花氏の主張の要所要所で、この人物が「証人」として呼び出されるというわけで、立花氏が、この「証人」の証言能力に絶大の信頼を寄せていることが分かります。

 ところが、この人物とは、証言能力のない点で札付きの人物なのです。誰かといえば、国会議員秘書でありながら、就職斡旋(あっせん)の依頼のためと称して、警備公安警察官と会食していたことが分かり、九八年八月に日本共産党を除名された兵本達吉氏です。

 兵本氏は、立花氏との対談(『WiLL』誌二〇〇五年八月号、十月号)のなかで、三十年前、自分が立花氏の攻撃に反撃する仕事の一部にくわわったと自称し、その時、日本共産党がいかに驚きあわてたかを、自分の「経験談」として自慢たらたら語っています。この自慢話が、今回、立花氏が日本共産党攻撃の真実性の論拠として大々的にもちだした“新”資料なのです。

“「獄中十二年」は大嘘”という珍説

 だが、兵本氏が、日本共産党の歴史を語るのにもっともふさわしくない、証言能力をまったく欠いた人物であることは、立花氏との対談のなかでも、十分に立証されています。

 実際、「宮本顕治“獄中十二年”の嘘」と題された立花・兵本対談第一回には、読者が目を疑うような一節があります。

 「兵本 (中略)私だって、詳しく調べるまでは宮本は本当に網走に十二年間入獄していたと思っていたもの。

 ――いや、みんなそう思ってますよ〔――は、対談司会者のこと〕。

 兵本 『十二年の手紙』という、奥さんの宮本百合子さんと獄中でやりとりした書簡集があって、網走の監獄へ送られるときの話とか、網走から百合子さんとやりとりした手紙とか読まされてるから、誰しも宮顕は十二年間網走の監獄に入っていたと思います。ところが、それは違うんだ。

 ――あれはまやかしですね。

 兵本 インチキなんだ。網走にいたのはわずか三カ月半にすぎない。(中略)十二年のうちほとんどは巣鴨の東京拘置所にいたんです」

 「立花 要するに共産党内部でもその頃は誰一人、宮顕が網走にいたのが三カ月半ということを知らなかったってことですか? 結局、その事実が知られるのは、兵本さんがああいうふうに書いてからなんですか?〔『正論』二〇〇四年十二月号に兵本氏が書いた「日本共産党の戦後秘史」第二十三回を指す〕

 兵本 知らなかったと思います。私も発見してびっくりしたんだから」

 ここで、兵本氏は、『十二年の手紙』さえ読んでいないことを、はしなくも自己暴露しています。獄内外を結んだ宮本顕治・百合子夫妻の書簡集『十二年の手紙』は、一九五〇年〜五二年に筑摩書房から三分冊で刊行されたものですが、その手紙の一通一通に、どこからどこにあてて出した手紙であるかが、明記されています。最初の手紙は一九三四年十二月七日付ですが、「上落合の百合子から市ヶ谷刑務所の顕治宛」であり、『その二』冒頭の一九三九年一月一日付の手紙は「慶応大学病院の百合子から巣鴨拘置所の顕治宛」、『その三』冒頭の一九四四年一月二日付の手紙は「駒込林町の百合子から巣鴨拘置所の顕治宛」です。現実にこの本のページをめくったことのある読者なら、“十二年間網走にいた”などと思い込むことはないはずです。巣鴨周辺が空襲を受けた四五年四月の手紙には、被害を心配して百合子が自宅から歩いて巣鴨周辺の被害状況を見てきた話まで、具体的に述べられています。『十二年の手紙』で、宮本顕治氏が網走から出した手紙で収録されているのは、四五年七月三日付と九月二十日付の二通だけです。

 だいたい、宮本顕治氏が、四五年六月まで東京巣鴨の「獄中」(拘置所)にいて、その月に網走の「獄中」に移ったという話は、党の内外で周知の話でした。宮本氏自身、戦後早い時期に「網走の覚書」(一九四九年、ほかならぬ『文芸春秋』に掲載)のなかでたいへん具体的に説明していますし、宮本百合子さんも、その二年前に発表した作品『播州平野』のなかで、顕治氏が逮捕され、十二年間の獄中・法廷闘争をへて、四五年に網走に送られる経緯をきちんと描いています。

 兵本氏は、この天下周知の事実を前にして、「獄中十二年は大嘘だ」と騒ぎたて、自分の「新発見」なるものを売り込んでいるのです。それは、彼が、党内にいた時代に、日本共産党の歴史にいかに無関心であったか、つまり自分にいかに「証言能力」がないかを、さらけだしているだけです。そして、宮本顕治氏が、十二年間、網走にいたと思い込んでいたような人物が、戦時下の法廷闘争について、あれこれ論じる資格がないこと、ましてや三十年前の反共反撃の仕事で重要な役割などになえるはずがないことは、あまりにも明瞭(めいりょう)です。特高警察の筋書きを打ち砕いた宮本顕治氏の法廷闘争は、一九四〇年と一九四四年に、網走ではなく、戦時下の東京でたたかわれたものだったのですから。

 そして、立花氏についても、兵本氏のこの“珍論”に相槌(あいづち)をうつその姿が、日本共産党についての無知だけでなく、自分が「証人」として呼び出した人物にたいする鑑定能力のなさをも証明しているということを、指摘しなければなりません。

「証言」資格のないことは筆坂氏も同じ

 兵本氏という「証人」の助けで戦前の日本共産党を論じた立花氏が、現在の日本共産党を論じるさいに頼りにするのは、筆坂秀世氏というもう一人の「証人」です。筆坂氏は、自ら起こしたセクハラ事件で党の処分を受け、参議院議員を辞職しましたが、その二年後、自分への対応が悪いといって共産党を離党、以後、共産党攻撃を売り物にしている人物です。立花氏が「共産党上層部の権力構造」などについて語るときに引き合いに出すのは、もっぱらこの筆坂氏が語る日本共産党の「現状」なるものです。

 共産党攻撃を生業(なりわい)とするようになったこの人物も、日本共産党についての「証言能力」が疑わしい点では、兵本氏に負けず劣らずです。

 筆坂氏が最初に出した日本共産党“批判”の書は、『日本共産党』(新潮新書)でした。この本の刊行のさい、筆坂氏がはじめて明かした“秘話”として、鳴り物入りで宣伝し、マスメディアでもかなり広く流布されたのは、“宮本顕治氏引退の真相”なるものでした。そこには一九九七年の第二十一回党大会のウラ話として、次のようなことが書かれていました。

 「宮本氏は(中略)まだ引退するつもりなどなかった。不破氏が数日間の大会期間中、その日の日程が終わると東京都多摩市の宮本邸まで行って、『引退してほしい』と説得し続けたのである。(中略)宮本氏の秘書をしていた小林栄三常任幹部会委員(当時)も同行したように聞いている」

 これは、まったく事実無根のウラ話でした。そのことについては、不破氏が、本の刊行直後に、当時の実際の経過も説明しながら、「しんぶん赤旗」で次のように指摘しています。

 「党の大会のことをまったく知らない人ならいざ知らず、少しでも大会の様子を知っている人なら、党の委員長であるとともに大会での中央委員会報告の報告者である私が、日々の日程が終わったあと、毎晩、伊豆多賀の大会会場から東京に取って返し、宮本邸を訪問しては伊豆多賀にとんぼがえりをしていたなどとは、想像しがたいことだろう。(中略)これは、筆坂氏の頭のなかでつくりだされた虚構と妄想の世界での話としか、考えられない」(不破哲三氏「筆坂秀世氏の本を読んで」、「しんぶん赤旗」二〇〇六年四月十九日付)

 この反論のあと、筆坂氏は、なんの反論もできず、あれだけ大宣伝したこの話には二度とふれなくなりました。それは、このウラ話が「虚構と妄想の世界での話」、はっきり言えばつくり話だったことを、自ら認めたということです。

 こういうつくり話を平気で持ち出す人物に、日本共産党の現状についての「証言能力」がないことは、誰でも分かるのではないでしょうか。

世界の共産党の見方――『タイム』誌と立花氏の対照的な議論

 この筆坂氏の「証言」を借りながら、立花氏が、現在の日本共産党にぶつけてくるのは、「ソ連・東欧型の民主集中制」をやめよ、という議論です。この議論の周辺には、“闇から出てきた亡霊”のにおいが立ち込めています。

 「民主集中制」批判というのは、立花氏のお得意の議論で、三十年前の「日本共産党の研究」で日本共産党が「暴力革命」路線をとっている証拠としてもちだした議論でした。「暴力革命とプロレタリア独裁と民主集中制の組織とは三位一体」だという公式を勝手につくりあげ、“「民主集中制」を捨てないことは、本音では「暴力革命」路線にたっていることの何よりの証拠だ”というわけです。この奇妙な「三位一体」説も、日本共産党は、当時、徹底的に論破しました。

 立花氏は、性懲りもなく、今回、この「民主集中制」論をむしかえすのですが、「暴力革命」路線の証拠だという議論が成り立たないことは、さすがの立花氏も認めざるをえなくなったのでしょう。今度は、“「民主集中制」を捨てないことは、ソ連・東欧型の党であることの証拠だ”という新しい道具だてでの攻撃です。ヨーロッパの共産党は、軒並み「ソ連・東欧型の民主集中制」を捨てて生き延びているのに、「日本共産党は(中略)民主集中制はかたくななまでに変えようとしない」、これでは「二一世紀型の新しい政治党派に生れ変ることができない」――これが、立花氏の論稿の最後の結論です。宮本顕治氏の葬儀が報じられた日に、立花氏が朝日新聞に書いた文章も、まったく同じ趣旨のものでした。

 三十年前は「暴力革命」路線の証拠だといい、こんどは「ソ連・東欧型」の証拠だという。立花氏が日本共産党についてあまりにも無知なことに、あきれざるをえません。

 立花氏は、日本共産党が、ソ連の覇権主義、専制主義にたいする、世界でもっとも徹底した対決者だったこと、ソ連崩壊のとき、これを「歴史的巨悪の党の終焉(しゅうえん)」として歓迎した、世界で唯一の共産党であったこと、その後、ソ連の体制の全面的な研究にもとづいて、ソ連社会が、社会主義とは無縁な、人間抑圧型の社会だったという結論を出し、そのことを党綱領にも明記していること、などなどを知ったうえで、こういう議論をあえて展開しているのでしょうか。

 立花氏は、日本共産党に無知なだけではなく、世界の共産党の状況をも知らなすぎます。不破哲三前議長が、先日の党創立八十五周年の記念講演会で紹介した話ですが、アメリカの『タイム』誌が、六月に、「共産主義は日本で活気にあふれ健在」という記事を掲載しました。「世界の他の先進国の共産党が九〇年代に重要性を失ってしまったのに、日本共産党は最盛期に比べれば弱くなったとはいえ、いまなお日本政治で重きをなしている」。ここでいう「世界の先進国の共産党」のなかには、もちろん、立花氏が「手本」として推奨してやまない「ヨーロッパの共産党」も入っています。

 特高史観的な偏見なしに、世界の共産党の現状を素直に見れば、アメリカの雑誌でも、こういう現状がすぐ分かるのに、共産党「批判」の専門家であるはずの立花氏の目には、ものごとが逆立ちの形でしか映らないようです。

 不破前議長は、『タイム』誌の記事を紹介しながら、「なぜ他の国ぐにで共産党が衰退したのか、なぜ日本では、最盛期よりは『弱い』とはいえ、元気でがんばっているのか」と反問し、次のように答えています。

 「この違いは、はっきり言って、自主独立の道に立った党と、ソ連覇権主義の側に居続けた党との違いであります」

 「民主集中制」を捨てないことを唯一の根拠に、この日本共産党に「ソ連・東欧型」の党といういいがかりをつけようとしても、そんな無理無法な議論が通用するわけがありません。

「民主集中制」批判の無残な到達点

 民主集中制とは何か。それは、党内の民主主義の発展の上に党の統一を堅持するという、党組織のあり方を指す言葉です。日本共産党の規約には、その内容が明確に規定されています。

 「第三条 党は、党員の自発的な意思によって結ばれた自由な結社であり、民主集中制を組織の原則とする。その基本は、つぎのとおりである。

 (一)党の意思決定は、民主的な議論をつくし、最終的には多数決で決める。

 (二)決定されたことは、みんなでその実行にあたる。行動の統一は、国民にたいする公党としての責任である。

 (三)すべての指導機関は、選挙によってつくられる。

 (四)党内に派閥・分派はつくらない。

 (五)意見がちがうことによって、組織的な排除をおこなってはならない。」

 いったいこの諸原則のどこに、「ソ連・東欧型の……専制システム」、「党内言論の自由を封殺するシステム」があるというのでしょうか。

 さらにいえば、「民主集中制」は「ソ連・東欧型」の制度だという立花氏は、ソ連共産党にこのような党内の民主主義の制度があったと思っているのでしょうか。そこにあったのは、専制的集中主義であって、民主集中制とは無縁の組織でした。こういう党が、国家と社会に対して支配的な権力を行使していたのです。

 立花氏の「民主集中制」批判では、「ソ連・東欧型」システムとか、「諸悪の根源」とか、非難の言葉だけが躍りますが、「日本共産党研究」の専門家としての具体的な事実は何一つありません。その事実の欠如を補うために、立花氏は、ここでもまた一人の「証人」を呼び出します。この「証人」も、インターネットで党を攻撃している「元党員」だとのことで、彼が流している文書の一つに、「不破哲三の宮本顕治批判〔秘密報告〕」という「面白い」レポートがあるのだそうです。「不破がこれから何年後かに」、フルシチョフのスターリン批判の真似(まね)をして、党大会で「宮本引退」をいかにして実現したかの「秘密報告」をする、そういう架空の設定でつくりあげたレポートだとのことです。

 はじめからこういう設定の話ですから、本来なら問題にするまでもないのですが、立花氏は、ここに自分の「民主集中制」批判の決定的な証拠があると言わんばかりに、この架空レポートに飛びつき、「この演説(注・つまり不破秘密報告)中の不破の心の中の動きは創作だが、それ以外の事実関係は現実に起きたことである」と言い切ります。

 立花氏がこうしてその実在を保証する「事実関係」とは、次のようなものです。

 「不破は実際に九四年から九七年にかけて秘密グループを作り、宮本側近グループを解体していった。一人一人査問にかけては、内部規律違反(分派行動)に問い、宮本周辺から全員引きはがした上で、宮本に名誉ある引退(名誉議長。一生の保障)を迫った。この手法は、政敵抹殺の手法と同じで、長らく宮本の右腕として働いてきた不破が自然に身につけたものだった」

 これは、まったくのつくり話です。私は、九四年から九七年まで、議長事務室の責任者をつとめていましたが、宮本議長(当時)の近くで仕事をしていた党員たちのなかで、「分派行動」で「査問にかけ」られたり、「周辺から引きはが」されたりした人が一人もいないことは、責任をもって断言できます。

 「民主集中制」批判を三十年ぶりにむしかえしてはみたものの、結局、最後は、根も葉もないつくり話でお茶を濁さざるをえない――ここに、立花氏の日本共産党非難の無残な到達点があります。

 立花氏は、架空レポートからとったつくり話を、「現実に起きた」「事実関係」の叙述だという保証書をつけた上で活字にしたのですから、その「事実関係」を立証する責任は、立花氏自身にあります。立花氏が、文筆家として、自分の文章にたいする責任をどう果たすのか、今後に注目したいものです。

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