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パール判事「異議判決」の虚構(東京外国語大学 印パ会 「会報第16号」)
http://www.asyura2.com/07/senkyo41/msg/245.html
投稿者 gataro 日時 2007 年 8 月 25 日 23:54:49: KbIx4LOvH6Ccw
 

http://www.geocities.jp/inpakai/kaiho/genko/genko-kaiho_16.html#01 から転載。

パール判事「異議判決」の虚構

東京裁判におけるパール判事の態度は、戦争責任について 「日本は無罪である」という立場を擁護する論拠として、しばしば、日本の保守、革新両陣営から引用されてきた事実は あまりにも有名である。だが、その論拠の根底を揺るがす事実が 本誌で明らかになった。筆者は、パールが 独立インドを正式に代表していなかった事実や、初代首相ネルーも、パール判事の判決に批判的だった事実を はじめて明らかにした。小泉総理の靖国神社参拝をめぐる論議が 内外に波紋を広げる中で、本稿が示した事実の重みは大きい。東京外国語大学教授(アジア・アフリカ研)から専修大学に移った内藤雅雄氏の最新の研究成果をご紹介する。(編集部)

内藤 雅雄   1964年(昭和39)H卒
(専修大学文学部教授)


2005(平成17)年 6月、靖国神社境内にある展示館(遊就館)の前に、ラーダー・ビノード・パール博士(Dr. Radha Binod Pal 1886〜1967)を讃える碑が建てられた。大きな半身写真と 彼自身の文章の一部、それに 南部利昭・靖国神社宮司の「頌」がはめ込まれている。

パールとは、太平洋戦争後の極東国際軍事裁判(「東京裁判」)に 判事の一人としてインドから参加し、多数派判決に対して 日本人被告25名の無罪を表明する異議判決(Dissentient Judgement、通称「パール判決書」)を提出した人物である。

宮司の「頌」(平成17年 6月25日の日付)によれば、「大多数連合国の復讐熱と史的偏見が漸く収まりつつある現在、博士の裁定は 今や 文明世界の国際法学界に於ける定説と認められたのです。私どもは 茲に法の正義と歴史の道理とを守り抜いたパール博士の、勇気と情熱を顕彰し、その言葉を 日本国民に向けられた貴重な偉勲として明記するために この碑を建立(原文、旧仮名・旧漢字)」したという。

なぜ今ごろ、しかも 靖国神社が「パール顕彰」を行うのか、この「頌」の文章を読む限りは 全く伝わってこない。しかし これが、同神社内の「戦争博物館」とも言うべき遊就館に飾られた時代錯誤的展示、または 「新しい歴史教科書をつくる会」の歴史教科書に共通して見られる「大東亜戦争」を正当化する「歴史観」に繋がるものであることは明白であろう。

筆者自身が 東京裁判におけるパール判決書というものに関心をもったのは、「15年戦争とパール判決書」(『みすず』 1967年11月)と「極東裁判についての試論」(『みすず』 1968年 8月)という家永三郎の二論文を通じてであった。パールの議論は、戦勝国が敗戦国を裁く際に 「事後法」を適用したことの不当性、アメリカによる日本への原子爆弾使用決定の違法性を指摘するなど、極めて重要な内容を含んでいる。とくに インド版原著(1953年 4月)の「付録」に収められた24枚の広島・長崎被爆の写真(The Asahi Picture News, August 6, 1952からとられたもの )は、強烈なメッセージを世界に伝えた。

しかし、柳条湖事件に始まる日本の中国への侵略は 周到な計画に基づくものであり、「共同謀議」の不在というパールの推測の主要な論拠は意味をなさない点は、家永三郎が上記の論文ですでに明らかにしている。

全体としてパールの議論は 事実認識において誤りが多く、例えば 「満州事変」が日本の「自衛権」の範囲内のことであるという議論などは、国際法に通じた人物の発言とは思われない。また 彼の論述には、当時の日本社会に関して、「世論は 大いに活気にあふれていた。社会は その意志を有効たらしめるためのいかなる手段をも全く奪われてはいなかった」など 憶測とでも言うべき不正確な記述が目立つ。また、「日本の憲法(「大日本帝国憲法」)は 完全に機能していた」ということをもって、「いま われわれの眼前にいる被告たちのケースは、いかなる形であれ ナポレオンやヒトラーのケースと同日に語り得ない」とするパールの言葉は極めて形式的な法律論議の感がある。

家永が具体的な実例に言及しつつ説明したように、当時の日本社会では、「権力の欲する方向と異なる方向に国家の進路を誘導させるに足りる、下からの自由な国民意志の表現と それに基づく有効な政治運動の発展が抑圧されていた」(家永『太平洋戦争』)のが実態であった。

それに加えて、日本の侵略の対象であった中国に関するパールの誤解ないし無理解は 異常なほどのものである。

家永の指摘にもあるように、彼の文章には 強烈な反共意識が見られるが、例えば「その[中国における共産主義の― 引用者]発展は、事実上 外国の侵入と同等であり…、中国に権益を持つ他の諸国が、その権益を守るため中国に入りこみ、この[共産主義の― 引用者]発展と戦う資格をもつかどうかは たしかに適切な問題」であり、「端的に言えば、共産主義とは 国家の枯渇を意味し、かつ それを試みるものである」と書くとき、彼の思考には 中国および中国人への配慮は全く入っていないようである。

この「パール判決」は、彼が 当時の新興国としてアジアの第三勢力を代表したインドの法律家であったことから、「あたかも公正無私の見解であるかのような先入主」(家永「15年戦争とパール判決書」)を多くの日本人に与え、さらに「日本無罪論」としてねじ曲げられて 保守勢力に最大限に利用され続けてきた。しかし 実際に果たしてパール自身、また 彼の議論は 全体としてインド人とその見解を「代表」していたのであろうか。

筆者には、いま 東京裁判やパール判決そのものを新たな角度から検討する準備はないので、この小論では、同判決をめぐる論議の中で しばしば人々が誤解していると思われる点だけに関する私見を述べようと思う。

パールに関するさまざまな叙述で目立つのは、多くの人が 彼を「インド代表判事」と称していることである。しかも そこでの「インド」は、あたかも1947年 8月15日に独立した新興国インドであるかのように見なされている。

しかし その時、パールは何を「代表」していたのだろうか。その答えの一つは、第二次世界大戦後の数年間の日本 および インドをめぐる年表を見れば 明らかになろう。

まず 裁判関係で言えば、連合国最高司令官ダグラス・マッカーサーの名で「極東軍事裁判所の設定」が宣言されたのは 1946年 1月19日であり、それと同時に 「極東軍事裁判所条例」が公布された。条例第一章「裁判所の構成」の第二条は 裁判官に関して、「本裁判所は 降伏文書の署名国 ならびに「インド」「フィリピン」国により申し出られたる人名中より連合国最高司令官の任命する 6名以上11名以内の裁判官をもって構成す」(東京裁判研究会編 『パル判決書』下の「資料」より)と規定している。

2月 5日には マッカーサーが、アメリカ、イギリス、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、フランス、オランダ、中国、ソ連各国から通知された計9名の判事を任命した。このあと インドとフィリピンにも判事の派遣が要請された。こうして インドから名前が出されたパールが、マッカーサーによって判事に任命され、裁判が開始された 1946年 5月 3日の二週間後、 5月17日に東京に着任した。彼は 裁判終了の翌48年11月12日まで、ほぼ二年半を この裁判のため東京で過ごす。

この時期のインドは 独立を間に挟む政治的激動期であった。大戦終了後の1945年12月の中央立法議会選挙、翌46年 2月の州議会選挙は インド国民会議派と全インド・ムスリム連盟がインドを代表する二大政党であることを改めて明示した。45年11月から46年 2月までの間、インド国民軍(INA)将校裁判に反対する大衆的抗議行動、ボンベイ(ムンバイー)から始まったインド海軍(RIN)ストライキの波及など、全インドが大きく揺れていた。

46年 3月には イギリス労働党政府は 内閣使節団を派遣し、会議派・連盟はじめ各政党との折衝後、5月にインド独立の内容に関する提案を行った。これを受けて インド側には 様々な対応が見られたが、 7月の制憲議会選挙、 8月の連盟による「直接行動日」の実行と その後に頻発するヒンドゥー・ムスリム衝突を経て、ネルーを事実上の首相とする中間政府(臨時政府)が樹立されるのが 46年 9月 2日であった。その約一年後の 47年 8月14日〜15日に 植民地インドは二分され、パキスタンとインドが独立する。

言うまでもなく、パールが東京裁判の判事に任命された時期のインドは 未だイギリスの植民地であった。この時に 連合国最高司令官からの要請に応じて 国際裁判への「インド代表判事」の名を提示できたのは イギリス人の上級行政官、例えば イギリス政府のインド担当大臣(ペシック・ロレンス)か インド政庁のインド総督(ウェーヴェル)ぐらいであったかと思われる。裁判が結審した 1948年11月には インドはすでに独立していたが、選出のされ方からして パールは その時点では 実質的にはインドを代表する判事とは言えなかったであろう。上に見た歴史的状況からすれば、「東京裁判の開始時点では 英国の属国であったが、臨時政府の首班ネールの要請を受けて パル判事が(裁判に―引用者)参加した」(寺島実郎 「インドが見つめている―英雄チャンドラ・ボースとパル判事」、Foresight 2001年 〓月、58ぺージ)という記述が事実に反しているのは明らかである。

また 田中正明 『パール判事の日本無罪論』(このタイトル自体、パールの意図からも外れた 極めて問題の多いものであるが)が、パールの紹介として次のように書くのも間違っている。すなわち、「(パールは)46年 3月には(カルカッタ大学)総長を辞任した。なぜなら、ネール首相は 彼を、日本のA級戦犯をさばくための極東軍事裁判のインド代表判事に任命したからである」(214ページ)と。上記の邦訳 『パル判決書』に関わった一又正雄が 同書末尾の「パル博士の人となりと業績」で、パールが「カルカッタ大学副総長在職中、インド政府の懇請で、東京裁判の判事就任…」(下、750ページ)と書いている文章も同様である。

ところで、上記の田中正明の著書その他でしばしば用いられてきた「日本無罪論」ということばが、同書のような確信犯的論者のものとしてだけでなく、東京裁判を否定しようとする論調に反対する人々によっても しばしば用いられてしまうことにも留意する必要があろう。たとえば、『朝日新聞』の 2005年 5月28日付社説 「東京裁判否定―世界に向けて言えるのか」には、「日本無罪論を主張したインドのパール判事もいた。だが、日本は 東京裁判の結果を受諾することで 国際的に戦争責任の問題を決着させる道を選んだ」という文章があり、また 同紙 2005年 6月 9日付の 「私の視点」欄で、森茂子・日本大学教授は 第二次世界大戦後の日本の友好国としてのインドにふれつつ、「戦後の極東国際軍事裁判で、少数意見を代表して「日本無罪論」を主張したのは インドのパール判事だった」と書いている。これらの論者が、前出 『パール判事の日本無罪論』の著者らの「東京裁判史観否定論者」と立場を同じくするとは いささかも思えないが、こうした不注意な語句の使用が全国紙上で見られるのは 決して好ましいことではない。

これまでのことから、東京裁判において パールがどういう意味でインドを「代表」していたかは明らかであろうと思われる。しかし 何よりも説得的にそれを証明するのは、上述の何人かの人物によってパールの「任命者」とされたネルー自身のことばである。すなわち 1947年 8月以降 インド首相となるネルーが、裁判終了後に公文書で述べている見解がそれである。A級戦犯の25被告に判決が下されたあとの 1948年11月29日、西ベンガル州知事からのマッカーサー連合国最高司令官に電報を送るべきかどうかとの問い合わせに対して、彼は電報で 以下のような回答を送った。

『貴官の11月28日付電報。146‐S。同僚閣僚と協議。マッカーサー将軍にいかなる電報も送る要なし との見解で一致。本件とは別に、わが方のそうした動向は 東京裁判でのパール判事の異議判決とわれわれを結びつけてしまうだろう。同判決においては、その多くについて われわれが全く同意しない的外れの大雑把な陳述がなされている。インド政府がパールの判決を唆したとする疑惑に対し、関係各政府に 公式に われわれがそれに関して何らの責任も負わないことを通達せばならなかった』。

また 12月 6日付の各州首相宛書簡では、日本人戦犯への死刑判決に対するインド内での不満の声に言及しつつも、次のように明確に述べている。

『あの判決は、インド政府が同意し得ない 多くの見解や理論を表明した。もちろん パール判事は、インド政府の代表として使命を果たしていたのではなく、著名な判事として 個人の能力でそうしていた。』

ここでネルーが言う 「インド政府が同意し得ない見解・理論」 「大雑把な陳述」の中には、おそらく 自らの反共産主義思想を主張するに当たって ネルーの社会主義・ソ連評価を批判した部分(邦訳 『パル判決書』、505ページ)も含まれているかと思われるが、おそらく それにとどまるものではないだろう。

この点については 今後明らかにしたいところであるが、ここに引用したネルーの文書は、少なくとも パールが1947年に独立したインドの政府が公式に選出した人物ではなかったことを確実に証明しているであろう。それは、パール判決書の内容を正当づける根拠の一つに、彼が 新興国インドの「代表判事」であったとする主張を援用してきた人々にとって厳しい事実であろう。

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