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フジモリ元大統領に対して「公正な裁判を求める」ことの厚かましさ。
http://www.asyura2.com/07/senkyo43/msg/626.html
投稿者 ダイナモ 日時 2007 年 10 月 26 日 23:59:30: mY9T/8MdR98ug
 

(回答先: フジモリ氏裁判で議連発足へ=自民山崎、民主前原氏ら(時事通信) 投稿者 熊野孤道 日時 2007 年 10 月 26 日 18:36:22)

フジモリ元大統領は、1992年のクーデター以降、「反テロリズム」法を制定し、反政府勢力と見なされた人々を証拠もなく大量に逮捕した。当時は反政府ゲリラのセンドロルミノソと政府軍及び政府軍の別動隊である民兵組織との間でテロや誘拐が頻発し、治安は非常に乱れていた。

そうした状況でフジモリ元大統領は、「反テロリズム」法を制定し、大量逮捕によって反政府勢力を押さえ込むことに成功した。その一方で、無実の市民が逮捕される事例が頻発し、現在に至っても、釈放に向けて裁判闘争を行なっている人々が大量にいる。

治安が落ち着いた後でも、ペルーに民主主義が実現することはなく、フジモリ元大統領のもとで司法の独立は失われていた。

自民党の山崎拓前副総裁や民主党の前原誠司副代表、公明党の東順治副代表らは26日、国会内で、ペルーのフジモリ元大統領に対して公正な裁判を求める超党派の議員連盟の発起人会を開いたとのことだが、フジモリが大統領時代に何をやって来たかを謙虚に見るならば、そのような厚かましい行いはすることができないだろう。


以下は参考情報です。
http://homepage2.nifty.com/ai152hannah/0107nl1.htm

フジモリ政権下のペルーの実態

(アムネスティ・ニュースレター 2001年7月号掲載)

はじめに
 昨年の一一月、ペルーで一〇年間大統領を務めたアルベルト・フジモリ氏が日本滞在中にペルー国会によって罷免された。ペルーではフジモリ氏がペルーに帰国すべきだという声が高まっているが、フジモリ氏に帰国する意思はない。いったいフジモリ氏の日本滞在のどこが問題なのだろうか。この小論では、主として人権と民主主義の観点から見たフジモリ政権の問題性を検証する。
 フジモリ氏は一九九〇年に大統領に当選したが、民主主義制度による制約を嫌って独裁体制による統治をめざし、一九九二年四月、軍と共謀して国会閉鎖・憲法停止という上からのクーデターを決行した。この試みは国際的圧力によって後退したが、国民の人気はむしろ上昇した。一九九二年一一月の憲法制定議会選挙ではフジモリ氏の勢力が多数を制し、九五年の大統領・国会議員選挙でもフジモリ氏は楽々と勝利を収めた。
 また、フジモリ氏は大統領に当選した当初から軍、特に陸軍と接近したが、とりわけ一九九二年の自主クーデター以降は、元陸軍大尉ブラディミロ・モンテシーノス大統領非公式顧問を媒介として、軍に大きく依存することになった。
 このような背景の下にフジモリ政権が持つに至った問題点を四つに整理して概観したい。

一 反体制武装勢力の鎮圧過程での深刻な人権侵害(殺人、誘拐、拷問)
 ペルーの人権団体の連合組織によると、一九八〇〜九二年に政治的暴力の犠牲者(死亡者プラス失踪者)は二八八〇九人であったが、そのうち五三パーセントが政府側によるもの、四五パーセントがセンデロ・ルミノソによるもの、一パーセントがトゥパク・アマル革命運動(MRTA)によるものであった。政府の手による死者の中には戦闘で死んだゲリラも含まれているが、治安部隊に殺された無実の人々も多く含まれており、その数は数千人に上ると考えられている。一九八〇年代末から九〇年代初頭にかけてペルーは、国連に報告される強制的失踪者数が世界一という不名誉な地位まで占めた。ペルーの反体制武装集団鎮圧作戦では疑わしきは殺せという戦略が採られていたのである。
 もっともこの種の人権侵害は一九八〇年に反体制武装闘争が始まって以来のことで、フジモリ政権に始まったわけではない。フジモリ政権にそれまでの政権と異なる点があるとすれば、それまでの政権が軍と疎遠で統率力を欠いていたのに対して、フジモリ大統領が軍を権力基盤としていたことである。軍と同盟を組んだフジモリ氏は、軍・警察をかばい、人権侵害を告発するペルー内外の人権団体をゲリラの味方呼ばわりした。そして政府の非協力的態度にも拘わらずジャーナリストや一部の司法関係者の努力で殺人が立証されてしまった軍人たちに対しては、一九九五年六月に恩赦法を作って一切の罪を帳消しにした。恩赦法は、他の立証されていない何千という違法な殺人や拷問も免責したのであった。
 フジモリ大統領は人権侵害の批判に激しく反発したが、一九九三年以降、超法規的処刑と強制的失踪が大幅に減少したことも事実である。これは、反体制武装勢力の活動が一九九三年以降大きく低下したことに影響されていると考えられる。しかし一九九二年以降には、無実の人がテロの嫌疑によって大量に投獄された。一九九二年に覆面法廷の制度が導入され、疑いをかけられた者が次々に無期ないし長期の禁固刑を宣告されたためである。裁判は形ばかりのいい加減なもので、事実上ペルーでは推定無罪ではなく、推定有罪が原則となっていた。また、超法規的処刑と強制的失踪が一九九三年以降大幅に減少したのとは対照的に、拷問はその後も広く行なわれ続けた。

二 民主主義制度の破壊
 まず第一に、一九九二年の自主クーデターがそもそも民主主義制度破壊の最たるものであった。その後国際的圧力を受けて一応民主体制に復帰したものの、特に一九九五年に第二期の大統領当選を決めて以降、フジモリ大統領は自己に権力を集中させるために自ら作った一九九三年憲法を無視し、行政府をチェックすべき公的機関を次々に骨抜きにしていった。形式的にはそのような機関を廃止したわけではない。しかしフジモリ政権はそれらの機関の人事を操作したり実質的に憲法に違反する立法を行なうことによって、チェック機関の機能や中立性を奪ってしまったのである。そのようにして骨抜きにされた公的機関には、憲法裁判所、裁判所、検察、国家司法官審議会(裁判官・検察官の任命と懲戒処分を担当する機関)、選挙管理委員会、税査察機関、関税当局などが含まれる。紙幅の関係でそれらのすべてを詳述することはできないので、ここでは裁判所・検察と選挙管理委員会の例のみを簡単に見ることにする。
 一九九二年の自主クーデター後、裁判所の判事と検察官のほとんどは暫定任命となった。その人事権を握っていたのは、行政府が任命し、モンテシーノスに忠実な「執行委員会」である。暫定判事や暫定検事は身分保障がなく、執行委員会によっていつでも辞めさせることができたので、彼らの地位はフジモリ派の機嫌を損ねないことにかかっていた。こうして裁判所・検察は、行政府に対する独立性を失った。
 しかしそれだけでなく、暫定判事、暫定検事の一部は、モンテシーノスとの密接な共謀の下に、反対派を冤罪で迫害し、フジモリ派の不法行為を免責するという共犯関係に入った。行政府がコントロールする最高裁、最高検察庁の執行委員会は、フジモリ派の汚職や人権侵害を免罪したり、政治的反対派を迫害するためには、これらの共謀関係にある暫定検事、暫定判事に事件を担当させればすんだのである。税査察機関や関税当局も、フジモリ政権下で冤罪による反対派迫害の道具になった。
 選挙管理委員会の例も、フジモリ政権のやり方を典型的に表わしている。ペルーの選挙管理委員会は五人で構成され、最高裁判所、最高検察庁、リマ法曹協会、国立大学法学部、私立大学法学部がそれぞれ一人の代表を出すことになっている。二〇〇〇年の選挙を控えた一九九七年五月に与党は法律を改正し、五人の委員のうち四人の賛成がないと選挙違反が認定できないようにした。人事を握られている最高裁判所と最高検察庁からフジモリ派の委員が出ることは確実であったので、フジモリ側による選挙違反が認定されることが事実上不可能になったのである。このようにフジモリ政権下の選挙では選挙の公正が保障されていなかった。
 権力に対して重要なチェック機能を果たすべきもう一つの存在は報道機関であるが、フジモリ政権に批判的な報道機関の記者が暴行されたり、発砲されたり、脅迫されたりする事件がいくつも起こった。中にはテロ関連の冤罪で投獄されたり、殺されたり、軍による人権侵害を追究したために亡命に追い込まれたジャーナリストもいる。
 このような個々のジャーナリストに対する迫害、弾圧とともに、報道機関そのものに対しても締め付けが行なわれた。たとえば、政府の広告を親政府のメディアに集中的に与え、政府に批判的メディアには与えないという形で経済的な圧力をかけた。
 このようなソフトな締め付け以外に、もっと露骨な弾圧と賄賂も用いられた。特に地上波のテレビ局はすべて政府に従属させられ、政府の政治的道具となった。ほとんどのテレビ局はすんなりと政府に買収されたが、第二チャンネルは軍情報部による拷問・殺人事件、モンテシーノスの巨額の所得、野党勢力に対する盗聴などを暴露してしまった。そのために第二チャンネルの社主イブチェル氏は、一九九七年七月に国籍を剥奪され、その上テレビ局の社主はペルー人でなければならないという法律の下にテレビ局も取り上げられて、テレビ局はフジモリ派の少数株主に引き渡されたのである(少数株主が株を買い足す資金はモンテシーノスが提供したとされる)。第二チャンネルはその後批判派攻撃の宣伝機関と化した。
 二〇〇〇年の選挙では、政府は巨額の報酬と引換に、地上波のテレビ局と秘密契約を結び、すべての番組の内容について国家情報局の命令に従うようにした。たとえばニュース番組の内容はモンテシーノスの承認が必要だった。報道において野党候補を不利に扱うことはもちろんのこと、金を払う宣伝広告も与党候補のみ受け容れ、野党候補には拒否することが秘密契約に定められていた。
 こうしてフジモリ政権下で独立的なテレビはケーブルテレビ一局のみとなったが、ケーブルテレビは中産階級以上の一部の人しか見ない。新聞は政府に批判的なものがいくつもあったが、そもそも新聞を毎日買う人は多くない。特に下層階級はあまり新聞を買わないし、買うとしてもサッカーや犯罪記事で売る安いタブロイド紙を買うことが多い。国家情報局はこのようなタブロイド紙に金を流し、反政府派の政治家やジャーナリストに対する誹謗中傷キャンペーンを行なわせていた。
 また、フジモリ政権下で軍、特に情報部門はフジモリ政権の政治警察として機能するようになり、野党勢力を盗聴したり、野党の政治活動を妨害したりした。情報部門の公金はフジモリ氏の三選キャンペーンやその他の政治工作に使われたと言われ、現在調査が進んでいる。

三 反対派の迫害
 反対派の迫害についてはすでに一、二においてかなり触れた。迫害といってもペルーでは、フジモリ氏の悪口を言ったら直ちに投獄されるという状況ではなかった。一般人であれば悪口を言うことも自由であった。しかし、野党指導者、ジャーナリスト、人権活動家などは、襲撃を受けたり、暗殺の脅迫にさらされたりした。
 迫害の主要な手段の一つは冤罪であった。すでに述べたように、政府は司法府、検察庁、徴税機構を支配していたので、反対派に対して冤罪をでっち上げて迫害することができた。腐敗や人権侵害を内部告発した人が逆に冤罪で逮捕、投獄されるという事例が何件も起こっている。また、二〇〇〇年七月、フジモリ氏の三回目の大統領就任式の折に、ペルーの民主化を求めるデモがあった。このとき国家情報局はエージェントをデモ隊に潜り込ませて国立銀行などに放火し、多大の物質的損害を与えるとともに警備員六人を焼死させたとされる。これも反対派に罪をなすりつけるためだったという証言や文書が明らかになっている。

四 腐  敗
 現在、フジモリ政権が中枢から腐敗していたことが調査によって明らかになっている。モンテシーノス顧問は兵器輸入における不正や麻薬業者との癒着によって巨額の裏金を作っていた。四月下旬の時点で、海外で凍結されたモンテシーノスの資産は二億五〇〇〇万ドルに上っている。
 ただし、フジモリ政権の特徴は腐敗の金額ではない。ある識者が述べたように、腐敗が統治のシステムとなっていたことが特徴であった。モンテシーノスは脅迫の材料とするために、自分が様々な人と会談する模様を逐一隠しビデオで撮っていたが、それらの膨大なビデオから明らかになってきたことは、フジモリ政権下でモンテシーノスが官界、民間の多くの人と頻繁に会い、行動の指令を出していたことである。そういう人たちの中には、軍幹部、最高裁の裁判官、検察官、選挙管理委員、与党議員、テレビ局社主、新聞編集長、さらには一部の野党議員などが含まれる。指示の内容には、誰を選挙管理委員に選出すべきか、民間テレビのニュース番組でどう報道すべきか、議案を国会でどう扱うべきかなどが含まれている。モンテシーノスの指令を受けた人の多くは巨額の報酬で買収されていた。このような買収等に費やされた公金は四億ドル以上とも言われている(四月二五日ロイター電)。

   §   §

 以上、フジモリ政権の暗部を四点に分けて説明したが、これら一つ一つについて、フジモリ氏が直接関与していたかどうかという問題と、それらの悪行を是認し、放置していたかどうかという二種類の責任問題がある。
 フジモリ氏の直接関与については充分に明らかになっていない。フジモリ政権の汚い仕事は、ほとんどモンテシーノスが中心となって行なっていた。現在明らかになりつつあるのは、モンテシーノスの役割が想像以上に大きかったことであり、フジモリ氏は単なる操り人形だった可能性さえある。
 フジモリ氏の直接的関与の立証を困難にしているのは、モンテシーノスが逃げた後フジモリ氏がモンテシーノスの家を違法に家捜しし、都合の悪いビデオを持ち去ったと考えられることである。フジモリ氏はペルーを出るときに数十箱の荷物を運び出したとされるが、それがどこに消えたのかわからない。
 このようにフジモリ氏の直接関与はまだ明らかでないが、フジモリ氏がモンテシーノスに騙されたと主張しているのは責任逃れに過ぎない。フジモリ氏がモンテシーノスの悪行を是認していたことは疑いない。腐敗に関して言えば、モンテシーノス氏の不正蓄財をどこまで知っていたか、フジモリ氏自身が個人的蓄財を図ったかどうかはまだわからないが、フジモリ氏が政府の公金を党派的に利用した疑いは強いし、フジモリ政権がモンテシーノスを含めて政府関係者に対する腐敗の告発を取り上げず、調査を妨害し、告発者をむしろ迫害したことは純然たる事実である。フジモリ氏個人がそのような迫害を命じたかどうかはわからないが、迫害を放置したことは事実である。
 また、腐敗以外の一から三の問題点、すなわち人権侵害、民主主義制度の破壊、反対派の迫害は公然の事実であり、フジモリ氏が知らないことはありえない。フジモリ氏は明らかにこれを是認し、そこから政治的利益を得ていた。しかも、それらの蛮行を止めることができるのは、ペルーの大統領である彼しかいなかったのである。したがって、一から四のいずれの点においても、フジモリ氏の政治的責任は免れないし、今後の調査によってフジモリ氏の直接的関与が明らかになっていくことも充分に考えられる。
 フジモリ政権はこのような問題を抱えていたのだが、日本ではマスメディアがフジモリ氏に好意的な報道を繰り返したために、フジモリ善人説が強固に根付いている。また、フジモリ政権に反体制テロリズムの打倒やインフレの収束などいくつかの功績があるのは事実であるが、それらの功績も日本では誇張して伝えられている。そして、フジモリ氏が貧しい者の立場にたって白人支配層に対して闘っていたなどという実態とかけ離れたイメージまで流布されている。
 そのような世論を背景にして、日本政府はフジモリ政権の一〇年間、フジモリ政権に強力に肩入れしてきた。そして、フジモリ政権による民主主義制度の破壊や人権侵害に対して欧米諸国から批判の声が上がったときも、批判的態度を見せなかった。
 その態度の延長として、日本政府は日本の国内法である逃亡犯罪人引渡法が日本国民の引き渡しを禁じていることを盾にとり、ペルーがフジモリ氏を刑事訴追してもフジモリ氏を引き渡さないと公言している。国際法では重国籍者に関して実効的国籍(つながりが深いほうの国籍)を重視する判例・学説が有力だと言われるが、日本政府はこれを無視し、あくまでもフジモリ氏をかくまう構えである。
 もし日本政府が本当に法に則った解決を主張するのであれば、少なくとも日本とペルーのどちらの国籍が優先するかについて国際的仲裁を受け容れるべきであろう。また、ペルーで具体的な犯罪事件におけるフジモリ氏の直接関与が立証されれば、日本国刑法の「国民の国外犯」の規定に従ってフジモリ氏を日本国内で起訴すべきであるし、日本も批准している拷問等禁止条約が規定する犯罪行為が立証されれば、日本は条約に従ってフジモリ氏を引き渡すか自国内で裁かなくてはならない。確実なことは、もしこのまま日本がフジモリ氏をかばい通すならば、日本国民全体がフジモリ政権の犯罪の共犯になるということである。

(おおぐし・かずお/東京大学法学部教授・ラテンアメリカ政治)
 

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