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大川周明:未発表原稿見つかる 大物右翼・頭山満の評伝、自由民権運動の評価記す(毎日新聞)
http://www.asyura2.com/07/senkyo44/msg/776.html
投稿者 新世紀人 日時 2007 年 11 月 30 日 14:21:52: uj2zhYZWUUp16
 

http://mainichi.jp/enta/art/news/20071129ddm012040066000c.html
大川周明:未発表原稿見つかる 大物右翼・頭山満の評伝、自由民権運動の評価記す
 
 戦前の右翼・国家主義者でA級戦犯だった大川周明(おおかわしゅうめい)(1886〜1957年)が、第二次世界大戦の終結前後に書いたとみられる未発表の原稿が見つかった。大物右翼、頭山満(とうやまみつる)(1855〜1944年)の評伝で、自由民権運動の評価を詳しく記すなど、大川の歴史観を示す重要な資料だ。【鈴木英生】

 原稿は00年、中央公論新社の社屋引っ越しの際、廃棄予定の書類の山から同社関係者が掘り出した。執筆時期は1945年7〜8月とみられ、200字詰め原稿用紙318枚分。中島岳志・北海道大准教授(アジア研究)の調査で、未完ながら頭山伝の草稿と分かった。

 大川は革新右翼の代表的論客として活躍し、5・15事件の支援などで国家改造を目指した。頭山は政治結社・玄洋社を設立。伝統的な尊皇思想とアジア主義を掲げ、政界に影響力を広げた。2人は運動の方法論などで大きく違うが、大川は頭山を尊敬していた。

 伝記は明治維新から始まり、日露戦争前までの内容。「尊皇と民選議院とは、表面一致せざるが如(ごと)くにして、実は同一精神に出(い)でて居る」など、明治期の自由民権運動から出発した頭山の思想への支持を述べ、大川自身の立場と重ね合わせている。

 執筆の背景には、戦時中の言論弾圧である横浜事件(42〜45年)がある。事件の影響で44年に廃業(戦後に再建)した中央公論社から、朝日新聞社出版部に転職した編集者、佐藤哲男が頭山の死去した同年10月、大川に執筆を依頼。終戦を経て出版が立ち消えとなった後、佐藤は原稿を古巣に託したものの、結局、忘れられたらしい。

 中島准教授は「伝統右翼の頭山を、革新右翼の大川がどう見たかが分かり、貴重だ。大川が自由民権運動を、ナショナリズムの文脈に位置づけていた点も興味深い」と話している。この原稿は「頭山満と近代日本」(春風社)と題し、12月1日に刊行される。

毎日新聞 2007年11月29日 東京朝刊

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B7%9D%E5%91%A8%E6%98%8E
大川周明
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

大川 周明(おおかわ しゅうめい、1886年12月6日 - 1957年12月24日)は、戦前の代表的な思想家の一人。敗戦後、A級戦犯として起訴されるが病を理由に不起訴扱いとなる。

なお戦後は、イスラームへの興味から、コーランの全文翻訳するなど日本のイスラーム研究にも貢献した。

(中略)
日本精神復興を唱え、独自の視点で代表的日本人(佐藤信淵、源頼朝、上杉謙信、横井小楠ら)の評伝をまとめた『日本精神研究』(1924年)を執筆、更に日本史を概観する書物として『日本二千六百年史』(1939年)を著す。同書は大ベストセラーとなるも、内容に、当時賊徒として批判の対象であった北条義時、泰時や足利尊氏・直義兄弟を称賛するなど不敬の箇所ありとして多方面よりの攻撃に晒され、改訂を余儀なくせられる。 これらの本の内容からも知れるように、大川の歴史観は、いわゆる皇国史観のそれではなかった。

大正・昭和期に、北一輝、満川亀太郎らと親交があり、猶存社、行地社、神武会を結成。三月事件・十月事件にも関与し、五・一五事件では禁錮5年の有罪判決を受け服役。

(中略)
北守南進を主張していたが、それはあくまでも「日中連携」を不可欠のものとしており、日中間の戦争を望むものではなかった。なお、日中戦争が勃発した当時、大川は獄中にあった。

対米戦争について、大川は「最後の瞬間までこの戦争を望まず、1940年に、日本がもっと準備を整える時まで、戦争を引き延ばそうと努力した」(『国際検察局尋問調書』第23巻)のであって、巷間言われるような、大川が無謀な対米戦争に日本をし向けた、というイメージは適切なものではない。


[編集] 東京裁判
太平洋戦争終戦後、A級戦犯として起訴される。東京裁判に出廷した被告の中で唯一の民間人だった。

大川は水色のパジャマを着、素足に下駄を履いて東京裁判に出廷した。休廷中に前に座っている東条英機の頭を後ろから音がする程はたいたり(軍人は坊主頭)、「インダー、コメンジー!(「Inder kommen Sie! 独訳:インド人よ来たれ!」、アメリカはインディアンを収奪したことを主張していたという説がある)」、または「イッツア、コメディ!(「It's a comedy! 英訳:これは茶番だ」、戦勝国による裁判に対する不公正を主張した説がある)」、「アイ、アイ、シンク」と奇声を発するなど、常識を逸した行動をとり、法廷は爆笑の渦に巻き込まれた。

翌日の法廷で、オーストラリアのウェッブ裁判長は大川周明を精神異常と判断し、1947年4月9日に、大川を正式に裁判から除外した(この時下記のように脳梅毒に罹っていたためである)。


[編集] 免訴後
大川は米軍病院に入院させられ(のち東大病院、松沢病院に転院)、梅毒による精神障害と診断された。のち精神鑑定で異常なしとされたが、裁判には戻されず、松沢病院に入院継続させられた。入院中、以前より念願であったコーラン全文の翻訳を完成する。なお東京裁判終了後、まもなくして松沢病院を退院した。その後は、「瑞穂の国」を築く為の農村復興運動に取り組んだ。


[編集] エピソード
大川は、極東裁判が始まった時から、「すべて茶番なんだ、こんなもの裁判じゃない」と周囲に漏らしていたなどといわれ、現在でも詐病説が絶えない。

ちなみに、のちにイスラーム研究者となる井筒俊彦に、精神的にも物質的にも援助をしていたのが、大川周明だった。

『大川周明関係文書』柳澤一二宛て書簡(昭和30年4月27日)に云う、「平泉澄博士は、当代の学者中、生(周明)が先生と敬ひて師事する唯一人」とあり、年下の国史学者平泉を評価していたと云う。大川の墓銘は、平泉が書いている。


[編集] 代表的著作
『復興亜細亜の諸問題』(1922年、中公文庫)
『日本精神研究』(1924年)
『特許植民会社制度研究』(1927年)
『国史読本』(1931年)
『日本二千六百年史』(1939年)
『米英東亜侵略史』(1941年、第一書房)
『回教概論』(1942年、1991年に中公文庫から刊行)
『古蘭』(1950年)
『安楽の門』(1951年)
『大川周明全集』(1961年-1974年)

[編集] おもな研究書
松本健一『大川周明』(岩波現代文庫)
大塚健洋『大川周明』(中公新書)
『大川周明日記』(1986年)
『大川周明関係文書』(1998年)
佐藤優『日米開戦の真実 大川周明著『米英東亜侵略史』を読み解く』(小学館、2006年、ISBN 409389731X)
刈田徹『大川周明と国家改造運動』人間の科学社(2001年)
呉懐中『大川周明と近代中国』日本僑報社(2007年)


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