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投稿者 染川瀝青 日時 2007 年 4 月 25 日 01:52:58: OrTq7AIvkoYi.
 

(回答先: 投稿者 染川瀝青 日時 2007 年 4 月 25 日 01:43:40)

<娘身売りの時代>昭和初期・東北


河北新報
http://www.kahoku.co.jp/spe/spe059/19991125tk.htm


特 集
時よ語れ 東北の二十世紀

(22)わかれっぱ/壱千参百円 望郷の念売り払い 苦界に沈む



わかれっぱ
暗く冷たい雪雲の田んぼ道に、思い出す人ももういない、大凶作の村の「わかれっぱ」が浮かんだ。大根飯を流行語にした「おしん」の時代である。身売り同然に家を出され、辛抱を重ねて成功した東北の女の物語の陰に、おしんになれなかった無数の娘たちがいた

 古い和紙の分厚い帳面に出合った。「10年ほど前だ。古道具屋の棚に、無造作に積んであった」と、仙台の庶民史研究家である持ち主も偶然に見つけた品だ。
 帳面には20数人の女性の名前が並ぶ。東北6県の村の出身者。昭和恐慌や大凶作で東北が疲弊した1920−30年代(大正末−昭和初め)、村から「売られてきた」娘たちと、遊郭のある楼主との、生々しい証文(契約覚書)だった。
 「壱千(いっせん)参百(さんびゃく)円也(なり) 正金貸(まさにかねかす) 但(ただし)無利子 稼業所得ヲ以(もっ)テ返済ノ約 契約方は満5年トス 玉代(水揚げ)ハ楼主5分本人5分ノ割合」
 「当時、仙台では1000円で2階建ての家を買えた」という。証文では女性本人が借用人。だが、現実には農家である親が楼主から大金を借り、その形として娘を遊郭で働かせ、肉体と心を犠牲にした稼ぎで返済させた。親は「連帯人」、本家や地主が「保証人」に名を連ね、契約を破れば全員が責任をかぶる。親思いであればあるほど、娘をがんじがらめにする契約だった。
 「人身売買である」とGHQ(連合国軍総司令部)は46年(昭和21年)、娼妓(しょうぎ)解放を指令したが、遊郭は12年後の売春防止法施行まで存在した。中でも仙台の遊郭は「三十三楼、娼妓300人」。東北一のにぎわいは農村の陰画だった、と古い証文は物語る。

 高齢者と兼業農家の多い、のどかな北の村。「昔、ここは水利の悪い小作村でな」と寺の住職は話す。「条件のいい田んぼはみな大地主のもの。マッカーサーの農地解放と、農業用ポンプによる開田のおかげで、ようやく自作農の村になった」。こんな話が伝わる。
 子供のいない地主から、ある小作人に「娘を“奉公”に」と話があった。「男を産んだら田んぼを1枚やる」という。娘は奉公に行き、1年後に女の子が生まれた。娘は地主の家を出されて、迎えの衆に赤ん坊を預けて夜道を帰った。が、村に着くころ、元気だったはずの赤ん坊が「死んでいるぞ」と聞かされた。娘は泣き叫んだが、死んだ赤ん坊はそれきり消え、村の話題に上ることもなかった。
 凶作続きで小作料も払えなかった昭和初めには、娘の身売りがあった。「村人はだれも口にしない」と住職。だが、記憶を捨てることができないのも人間だ。
 「○○日の仏、供養してくだされ」。こう言って、ぽつんとお参りにくるばあちゃんがいた。過去帳をめくっても見つからない仏。住職はそれが、母親だけが忘れずにいる、娘を売った「命日」とだれからともなく知り、黙って拝んできた。
 「わかれっぱ」と、昔から呼ばれる場所がある。一本杉や地蔵が残る分かれ道だ。「おんちゃんに、いい物を買ってもらえる」と聞かされた無邪気な娘が、親と一緒に「わかれっぱ」まで来て、そこからは見知らぬ“おんちゃん”と2人きりで村と別れる。遊郭への周旋人と知るよしもなく。



証文

東北に遊郭があったことを伝える古い和紙の帳面類。写真左の証文には、850円の借金を5年で返済するという契約が記されている


 マンションや商店が立ち並ぶ、仙台の街の一角。遊郭があったと想像するのも難しく、道で途方に暮れていると、駄菓子屋の奥から「お茶っこ飲んでがい」。
 間もなく創業100年という亀谷まさ子さん(81)の店では「昔は郭(くるわ)の女衆に反物や白足袋を売ってた。毎日、お茶飲みをしたもんだ」。
 遊郭は1つの町のように大門があり、夏には各楼が景気良さを競う七夕祭りや盆踊り。だんな衆や大漁祝いの船乗り、兵隊も来た。
 茶飲み友達には、同じ年ごろの姉妹がいた。「同情したけれど、恨みつらみは聞かなかった。見栄でも張るくらい強くならなきゃ、生きていけなかったんだ」
 亀谷さんは、大騒ぎになった事件を覚えている。借金を払いきれず、その立て替えを条件に関西に「くら替え」(再身売り)が決まった女性が遊郭を抜け、鉄道の高い鉄橋から恋人と身を投げた。「道行きの汽車の中で、遊郭の女の印である日本髪をほどいていたんだと。古里と別れ、好きな人とも別れ…。そんな人生がいやだったんだべもな」

 近くの寺で「仙台睦(むつみ)之墓」という1904年(明治37年)建立の大きな墓石を見た。住職によれば、10年ほど前の墓地整理で下を掘ると、「一抱えもある石棺が現れ、累々と無縁の骨が詰まっていた」。楼主たちが建てたという墓の裏には、なぜか「慈照妙喜信女」の戒名がたった1つ。名も数も知れぬ女たちが遊郭に生き、死んでいった。
 亀谷さんのお茶飲みは、遊郭が消えた後も続いたという。「そのまま近くに住み着いた女の人たちでね。長く体を痛めたから子宝はできなかったけど、好きな人と所帯を持って八十まで長生きして、みんな仏さんのところに行っちゃった」
 帰りたかった古里を、「わかれっぱ」が永遠に隔ててしまったのだろうか。
(文・寺島 英弥/写真・門田  勲)



<娘身売りの時代> 世界恐慌(1929年=昭和4年)のあおりで、輸出品だった東北の生糸の値が3分の1、コメも半値に暴落。重い小作料にあえぐ農村の娘身売りが急増した。「青森県農地改革史」によると、特に大凶作があった34年、農家一戸平均500円以上の借金を抱える町村が百を超え、「芸娼妓(げいしょうぎ)に売られた者は累計7083人に達した」。山形県内のある女子児童は「お母さんとお父さんは毎日夜になるとどうして暮らそうかといっております。私がとこにはいるとそのことばかり心配で眠れないのです」と書いた。



これらはその大凶作の1934(昭和9)年の写真。満州事変は1931年。五・一五事件は1932年。二・二六事件は1936年。

伊佐沢村相談所村の身売り相談所身売りされ救世軍に引き取られた子供達
1:伊佐沢村は山形県2:村の身売り相談所3:身売りされ救世軍に引き取られた子供達

写真 1 はhttp://www.agri-history.kais.kyoto-u.ac.jp/panel.htmから拝借。
写真 2,3 はhttp://www.mni.ne.jp/~t44672/zibunnsi/zibunsi.htmから拝借。


 毎日新聞2001年1月30日
     

http://www.mumyosha.co.jp/docs/01new/kyosaku.html

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