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Re: テスト
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投稿者 ダイナモ 日時 2007 年 8 月 02 日 22:45:49: mY9T/8MdR98ug
 

(回答先: Re: テスト 投稿者 ダイナモ 日時 2007 年 8 月 02 日 22:42:42)

http://www.jcj.gr.jp/cinema.html#20070730

死にたくなかった、負けると思った (2007.7.30)


日系の米人女性が迫る、特攻の真実

米の記録映画『TOKKO−特攻』



老境の生存者の話など、多角的構成

 この映画は、日系二世のアメリカ人女性の、ドキュメンタリスト、リサ・モリモト監督が、自分の叔父が、太平洋戦争中の、特攻隊員であったことから、神風特攻隊に興味を持ち、その生き残りと言われる4人の老人にインタビューするとともに、特攻隊員に沈められた、米駆逐艦の生き残り乗員へのインタビューや、主としてアメリカ軍によって撮影された、当時の資料映像も数多く使い、神風特攻隊とは何かを解き明かした、長編記録映画である。ちょうど、時を同じくして、日系アメリカ人のドキュメンタリスト、スティーヴン・オカザキ監督による、長編記録映画『ヒロシマナガサキ』が公開されているが、奇しくも、太平洋戦争を語るときに、見落とすことの出来ない重要な史実、「特攻隊」と「原爆」を、当時を知らない若いアメリカ人が、改めて反戦の意志を込めて、浮き彫りにしてくれたことは、憲法を変えてまで、再び戦争のできる国にしようとする、日本国内の動きが、顕著になりつつある今、大変ありがたいことである。

米では自爆テロと同じ東洋的狂信者

 神風特攻隊の自己犠牲の精神は、アメリカでは、第2次世界大戦終結後も、人間の行為としては、とても理解できないという驚きを持って、語られてきたのであるが、01年の9.11のテロ事件があってからは、自爆テロの精神と同義的に扱われ、「東洋的狂信性」という蔑みの中で、一つに括られることが、多くなっているという。特攻隊員の生き残りとして、戦後を生きながら、病で他界してしまった叔父の、生前には自らを語ろうとしなかった、この特攻の秘密について、知りたいと思っていたリサ・モリモト監督は、アメリカ人ではあるが日系であるという宿命もあって、こうした蔑みの目の彼方に、切りこむ決心をしたのが、この映画の製作動機であるという。そんなときに出会ったのが、この映画のプロデュースを担当したリンダ・ホーグランドさんで、ホーグランドさんは、米人宣教師の娘として、日本で生まれ日本で育った経験を生かし、アメリカで公開される日本映画の英字字幕を担当したり、日本の戯曲や小説の翻訳もしている人で、日本映画のアメリカへの紹介に貢献したとして、日本の外務省から、表彰されたこともある人である。そんな日本通と、モリモト監督の、叔父を媒介とした特攻への思いが合体しあい、この映画は完成したのであった。

特攻生存者の叔父が語らぬ過去へ

 映画は、モリモト監督自身のナレーションで進行する。太平洋戦争の中の特攻隊とは何であったか、アメリカ側が撮った当時のフィルムも使っての、要領のいい説明があったあと、9.11同時テロのあと、その狂信性が再び見直されていることについての、簡単な説明があり、なぜ特攻に自分が関心を持ったかについても、叔父との関係の中で説明する。自分が特攻隊員の生き残りであることを、一切話そうとしなかった叔父、それは何故かと、叔父の家族や親族に尋ねることから、取材は始まる。しかし、家族や親族もそれを知らず、家族や親族も、叔父にあえてそれを聞こうとしなかった事実も明らかになる。「あの時日本人は、何故人間爆弾として出陣をしたのか」「国民は何故、彼等を送り出したのか」という、モリモト監督の疑問に、答えを出すためには、80歳を超える年齢で、今も生存している元特攻隊員に、直接インタビューするしかないと決断し、会うことが出来たのは、16歳と18歳で、海軍飛行兵に志願した二人と、大学生に来た赤紙で、20歳で学徒出陣をした二人の、合わせて4人の、元特攻隊員であった。

靖国の軍神を覚悟、他方生を求む

 学徒出陣で、俄か仕込みで、飛行士としての訓練を受け、特攻隊員として、茨城県の百里ヶ原基地に配属された江名武彦氏と上島武雄氏は、さすがに大学生とあって、当時の状況を正確に分析していた。経済力、資源力、武器の性能、そのいずれを取っても、アメリカに負けており、戦争は長引けば、日本が負けると思っていたという。しかしそんなことは口には出せず、武器がなくなれば、特攻隊戦術に頼るのも仕方のないことで、決して死にたくはなかったが、順番がくれば、国に殉じようと覚悟していたという。仲間が次々に大空に消えて行くのを見送るのは、決して気分のいいものではなく、いつ自分の順番がくるか、いざとなると立派に死んで行けるかと、自問自答しながら、いつも苛立っていた。江名氏は、「せめて昭和天皇が、半年早く、もう止めたと言ってくれたら、数十万人の犠牲者が少なくて済んだ」と、率直な感想だと断って述べる言葉には、大変な重みがあった。そこには、喜び勇んで、靖国にまつられる軍神になるよりも、ごく普通の生への執着を持った人間でありたかったことが、明らかにされているからである。

エンジン不調で不時着、広島も見る

 江名氏は、こうした苦悩の中で、4月28日、沖縄戦真っ只中の沖縄に向け、飛び立つことを命じられた。しかしエンジン不調ですぐ舞い戻り、出撃地近くの基地に不時着する。物資不足の当時、きちんと整備されていない航空機も多く、エンジン不調の事故は、しばしば起きていたのだ。5月11日に2度目の出撃、そして再びエンジンの故障で、鹿児島の沖合い75キロにある、黒島の海岸に不時着する。その島は、戦争による経済破綻で、全くの飢餓の島であったが、兵士の不時着ということで、備蓄の芋を食べさせてくれて、何とか2ヶ月半を生き延び、7月末やっと立ち寄った潜水艦に救出され、長崎に着いたという。そして江名氏は、陸路を茨城の基地へ戻る途中、被爆の翌日の8月7日の広島に立ち寄り、悲惨な原爆被害を目の当たりにした。このとき、「日本は負ける」と、はっきり認識し、「これからは、戦争には反対しなければ」と思ったという。

蛇の生殺しで終戦、家族に語れず

 上島氏も、同僚が次々と出陣していく中で、なかなか順番が来ず、蛇の生殺しのような苦悶と緊張の日々を、強いられたという。そして出陣を前にして、東京の実家に1日帰る機会があったのだが、特攻隊のメンバーに選ばれたことを、家族には一切言い出せないまま、基地に戻ったという。「はっきり言って、死は覚悟していたが、家族にまで心配をかけて、死にたくはなかった」という上島氏は、結局は出撃命令を受けないまま、終戦を迎える。「俺はまだ生きている」と、玉音放送を聞いた虚脱感の中で思った思いは、やがてじわじわと、大きな喜びに変わって行ったという。

米機と交戦、ボロボロで引き返す

 浜園重義氏と中島一雄氏は、志願して海軍の航空兵になった二人である。とくに浜園氏は、ラバウルなどで、米軍機との交戦経験も持ったベテランで、茨城県の百里が原基地では、新米の中島氏を教導する立場であった。4月6日、浜園氏は、後部座席に中島氏を乗せて、二人で出撃する特攻任務を命じられて出撃するが、途中の海上で、3機のアメリカ軍戦闘機に迎撃され、30分を超える空中戦を展開することになる。浜園氏は必死に操縦桿を握り、中島氏は、機関銃の射手の役割を演じ、これまた必死に米機を狙い続けたという。この交戦の模様は、アニメーションも使って、詳細に描かれるが、二人の特攻機は、何度も被弾し、正常な飛行が不可能な状態となってしまう。幸い米機は、とどめの銃撃をせず、理由不明のまま去って行ったため、距離の長い沖縄への飛行を諦め、引き返すことを決意、開聞岳の近くの林に不時着をした。浜園氏は重傷を負ったそうだが、二人はこうして、九死に一生を得たのであった。
 中島氏はさらに続ける。ボロボロの機体となって引き返す途中、新たに出撃して行く特攻機とすれ違ったが、その機に向かって、聞えるものなら、叫びたかった。「とても、迎撃されて沖縄までは行けないよ。引き返した方がいい」と。この率直な告白には、思わず観客の方もギクリとするほどだが、浜園氏もいう。「あの去って行った米機のパイロットは、私を殺さず、生かしてくれたのだ。まだご存命なら、是非会いたい人である」と。

特攻で沈没した米艦の生存者も切実

 映画は、特攻機によって沈められた、米艦船の元乗員にもインタビューをしている。とくに、沈められた米駆逐艦ドレッグスラー号の、生き残った二人の退役軍人の証言は生々しい。「我々は生きるために戦っているのに、死ぬつもりで突っ込んでくるのには閉口した」と率直に驚きを述べている。つまり駆逐艦側では、突っ込んでくる特攻機に、大砲の照準を合わせ、早い目に撃ち落とすことを、繰り返しやるのだが、何パーセントかは、その砲弾をかいくぐり、激突してきたという。砲弾に当って火の玉となった特攻機が、海上には落ちず、そのまま甲板に激突してきたことがあり、それは、証言する退役軍人にすぐ横に落ちて炸裂し、仲間が一瞬のうちに命を落としたという。やがて駆逐艦の沈没は、時間の問題となり、全乗員の離船命令が出るのだが、それはもう地獄図絵と言ってもいい、凄まじい混乱だったという。そんな状況の中で、泳ぎの達者な者だけが、辛うじて生き残れたのだ。

銃後の人、情報世論操作で反対せず

 銃後の女性たちの証言もある。それはモリモト監督が、なぜ叔父が特攻隊員であったことを隠そうとしたのか、そのことを親戚の女性らに聞いて回ることの中で、明らかにされて行く話である。「戦争に反対したり、特攻を可哀想だなどといったら、憲兵に捕まえられたから、そんなことを言う一般の人はいなかった」と叔母は語る。「また、少々戦況が悪くなろうと、日本は神の国で、必ず神風が吹いて勝つと信じていた。少なくとも沖縄戦に負けて、本土決戦が言われ、巷で竹槍作戦の訓練が始まるまでは」とも言い、いかに日本の情報と世論操作がひどく、庶民が情報過疎になっていたかを、物語っている。

 またモリモト監督は、ニュースや資料フィルムの中から、最初の特攻機の体当りが成功したとき、それを昭和天皇が称えている映像、また東京が大空襲で灰燼と化した日、国民に我慢を訴えるかのように、天皇が視察して回る映像なども、使用している。これらは、外人が太平洋戦争をどう見ているかを、まざまざと示す映像で、日本人なら避けてしまうこの客観性で、太平洋戦争への批評性を、見事にこの映画が、獲得していると言えるだろう。

戦争をなくさないと、地球は滅びる

 それにしても、この映画の真骨頂は、終盤近くで、江名氏が語る「戦争をなくさなければ、地球はもたない」という言葉である。江名氏は戦後、食品会社に就職し、大豆の輸入の仕事に携わって、何度も日米間を往復し、日本の経済発展と日米の経済親交に尽した人で、その出発点が、特攻隊で一旦死の覚悟をして生き残ったこと、そして広島での原爆の惨劇を目撃したことにあると考えると、この映画で語る「戦争をなくさなければ」の江名氏の発言は、大変重いのである。終盤映画は、この江名氏が不時着した黒島での慰霊祭に赴くのに同行し、一緒に鎮魂の思いを捧げているが、この祈りは、靖国派などが言う、特攻を美化し、その英霊に捧げるというようなものと同義ではない。心からは望まずして、海の藻屑と消えてしまった兵士たち、言わば犬死をしてしまった兵士たちへの、心からの鎮魂であり、真の意味での平和の誓いである。

 六十余年前に、こんな無意味で悲惨な戦争があったにもかかわらず、まだ戦争を繰り返している世界。そしてその戦争に、憲法を変えてまで、非戦の誓いを破ってまで、協力しようとしている今の日本。記録映画『TOKKO−特攻』は、日系ではあっても国籍はアメリカ、しかも戦争を知らない世代の映画人がまとめた、それだからこそ出来たとも言える、「特攻の真実」を描いた映画である。再び戦争に協力する愚かさに気付くためにも、今こそ、一見の価値がある映画だと言える。(上映時間1時間29分、写真提供(C)Edgewood Pictures. Inc)
(木寺清美)

東 京 渋谷 シネ・ラ・セット(上映中)、シネ・アミューズ
(8月4日〜上映)
横浜 黄金町 シネマジャック&ベティ 8月11日〜上映
大 阪 十三 第七藝術劇場 8月11日〜上映
名古屋 名駅 シネマスコーレ 8月25日〜上映
他地区、詳細は、配給社・公式サイトへ
■配給社 シネカノン 03−5458−6571

《公式サイト》http://www.cqu.co.jp/tokko/

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