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投稿者 ダイナモ 日時 2007 年 9 月 21 日 20:16:31: mY9T/8MdR98ug
 


 このHPで既にお伝えしているように、同志社大学社会学部メディア学科・浅野健一ゼミ主催の「東アジアの安定とメディア」をテーマにした野中広務・元衆議院議員の後援会が2007年1月18日午後7時から9時まで今出川校地・明徳館21番教室で開かれた。
 大変遅くなったが、HPに講演会の全記録をアップする。記録の完成に当たっては、野中氏がお忙しい中、テープ起しを確認して、綿密な修正を行ってくれた。心から感謝したい。
講演録の編集は上地裕貴子、山田遼平、氏本ロナルド智之が担当した。

 講演会の趣旨は次のようだった。

 各メディアからの画一的な報道によって形成される国民の偏った価値観、東アジア諸国に対する虚像。そのような偏見や、思想の隔たり、そして日本に向けられた憎悪を越え、東アジア全体が真の協調、連帯関係を築くために日本の進むべき道はどこにあるのか。また、そこでメディアが果たすべき役割とはどのようなものなのか。議員時代に内閣官房長官、自民党幹事長などを歴任し、政界でその手腕を大いに振るった同氏に、そのあるべき姿を問う。





●●講演者 野中 広務(のなか・ひろむ)氏略歴

1925年、京都府船井郡園部村(後の園部町、現南丹市園部町)出身。園部町議会議員、園部町長、京都府副知事を経て、1983年衆議院に初当選。衆議院議員時代の選挙区は京都4区(当選7回)。全国土地改良事業団体連合会会長。
京都府身体障害者団体連合会会長。日中友好協会名誉顧問。社会福祉法人京都太陽の園理事長。
2006年7月より平安女学院大学客員教授。







以下は野中氏の講演の全記録である。講演録の後に、浅野の文章を載せている。

 浅野ゼミの講演会実行委員の山田さんから手紙をもらい、同志社の浅野ゼミといえば、私とは大変波長の合わないゼミであるのに、どうして私が招待されるのだろうと思ったが、アジアを想い、日本を想い、健全な日本を目指していこうという若者のために、私のような81歳になる老人の話を聞いてもらう機会があるなら、ぜひ聞いてもらおう、こう思ってお受けした。

 今の京都府南丹市に生まれ、25歳から33歳まで、町会議員を務め、同年町長となる。昭和30年、約1万あまりの市町村が3千6百になった昭和の大合併の頃、当時73歳であった町長が任期一年半で病で倒れてしまい、当時議長をしていた人物が繰上げで町長となり、私も副議長から自動的に議長となった。     

 しかし、この町長も任期一年で病に倒れてしまい、「こんな年寄りばかりではまともに合併した街づくりができない、お前がやれ」といわれ町長選挙に出馬しました。しかしその当時は、「共産党を骨まで愛している」と議会中に発言した蜷川虎三さんが絶世を極めていた時代だったので、私のような保守系無所属が勝てるのだろうかと思っていたら、案の上、社会党推薦で私の町の校長をやっていた方が対抗馬として出馬しました。ギリギリ5百票差で、町長になりました。二期目も共産党の推薦の、幼稚園、小学校が同じだった同級生にも6千票差あまりつけ勝ちました。

 当時、市町村の町長というのはだいたい職場の人間か、造り酒屋さんか、庄屋、特定郵便局長だったので名門もなにもない駆け出しの人間がたまたま町会議員として議長をやっていたので町長となったわけです。昭和35年ぐらいになると日本にはものすごい勢いで労働組合が生まれた。京都はまた革新の地でもあったので自治労を始め強い労働組合が結成され始めました。そうすると労働組合とまともに話合う町長はいなかった。私が町長になった時、私の町の有力者に「町長、私には3人の息子がいる、しかしせめて一人だけこの町に置いておきたい、しかし役場に務めさせておいて家を継がせたい」と頼まれ、私が面倒をみた息子が、労働組合が出来た瞬間、私の前で鉢巻を巻き、方膝を立てて「給料をあげろ」と叫んでいたので、「こんな仕事やってられるか」と思い組合との交渉も決別した。だが仕方ないので私に昔からあった繋がりの大阪で9年間労働組合の経験を持っているある方に「京都府町村の職員連合との交渉やってくれないか」と頼まれ、町長一期目の三年目に京都全体の町村会の会長を命ぜられることになった。

 東京に出て行ったが、当時、国際労働機関(ILO)第87号条約(ILO条約第87号=結社の自由及び団結権の保護に関する条約=日本は1965年6月14日批准)の修正案を出す時だった(1)。全国の町村長の役員の会議で、修正案について我々がもの珍しがっていたら、今後自治体経営は大変な事になる。しかし「ILO第87号条約とはどこの国の条約だ」、と言っている町村長もいたので、中々大変な時代に町村長などを経験させてもらった。

 人の縁とは面白いもので、その当時、私が京都の町村会長をやっていて、一緒になった森茂喜さんは、安倍内閣の後ろでいろいろ演説をする森氏の父で、彼は石川県根上町の町長であり、また石川県の町村会長をやっていた。そして今度は近畿・東海・北陸で一つのグループを作って仲を広める協議をして、そこから出すことになった。森茂喜さん、森喜朗さんの父上が「こんな変革の時代だからこそ、一つ京都町村会長である野中さん、貴方がこのグループから出る副会長をやってくれ」と頼まれ、町長2期目の初めに早くも全国の副会長を務めることになりました。

 政府の税制調査会などの委員をやらされ、地方から京都を学び、京都の地方自治と比較する経験をし、私自身、蜷川さんの地方自治はユニークだと思っていたが、京都では京都府政と地方自治は存在しても、市町村という地方自治は存在しないと感じるようになった。蜷川府政に忠実なものは栄え、それに反対するものに金は貸してもらえない、補助金ももらえない。そして保守派から出た市町村長などは蜷川府政に対する忠誠を見せなければならなかったことに疑問を感じ、昭和41年、蜷川さん五期目の選挙の時にこれ以上、蜷川さんとは一緒にできない。

 余談にはなりますが、実は市町村長もすべて、蜷川さんを推していました。会長である私はその代表者である、ところが今でこそ全国にある自動車取得税が、全国でたった一つ京都だけで行われていた時代、自動車を経営する会社は八百数社、税をほしい市町村あるいは京都府警関係は賛成をし、二回目は議会の議決を得た。あとは一生懸命、中央にも働きかけてきたのですが、選挙の最中であったので中々大臣の判が押してもらえない。当時岡山県から出ていた永山自治大臣(現総務大臣)が理屈の上では、各都道府県で議決をしたならば認めなくてはならない。だが大臣が一人の知事が喜ぶようなことはしてはいけないとして判を押せない、だから全国の町村会の副会長をしており、絡みのある野中君に話をさせればいいじゃないかとして、当時町村長に頼まれて選挙の最中、私は新幹線に乗りました。京都駅で自民党の府会議員に会い、京都新聞が社運をかけて蜷川府政の大批判キャンペーンをしていた最中だったので、どこにいくのか聞かれて、東京に用事があって行くんだ、と言った。











講演中の野中広務氏©浅野ゼミ

 東京に着いたら、京都の町村会の事務局長が電話をしてきて、京都府町村会長が、知事選挙に(特定の候補を推薦しない)自主投票を決め込むと、新聞の夕刊トップになるという。そこまでされて黙っていられない。
 京都府に頼まれて、全国町村会副会長として、岡山県から出ていた自治大臣に是非お会いしたいといって翌日朝飯を食いながら話をしようという、約束まで取り付けたところだったが、そこに電話がかかってきた。「えらいことです。京都は大騒ぎです」と言ったが、「気にするな」と答えた。夜もう一本の電話があって、「自治大臣にお会いしたら京都にすぐ戻ってきてください、そこで蜷川さんにお会いして身の証しを立ててください」。この発言により、翌日には役員を決め、町村会長をやめ全国の副会長をやめて蜷川府政との決別が決定した。  

 蜷川さんとは大変な思い出もあったが、社会党に推薦され、そして社会党に不信感を持ち、共産党一党に支えられるようになってきてから変質してしまった。そして府の金を使い共産党の権力を広げ、今日まで京都での共産党の力を作る土台となった。

 昭和42年私は府会議員選挙で京都の現職自民党を破って無所属として当選をした。元々自民党員ではなかった。そして自由民主党の府会議員軍団に入り、以来11年7カ月間、蜷川府政の野党となった。最後さすがに蜷川さんも八選目を諦め、28年間にわたる革新府政は終焉を迎え、彼は後任に杉村敏正さんを、私達は林田悠紀夫さんを立てた。林田悠紀夫さんが勝ち、保守・中道の林田悠紀夫府政が誕生した。後に知事となった荒巻禎一氏を副知事とし、京都府政の建て直しを図った。当時「三賢人」と言われた前尾繁三郎氏に、「28年間の府政を立て直すのに一人の副知事では難しい、もう一人の副知事は君がなれ」と言われ、町長は十二年、三期やらないと議員年金がつかない、もうすぐで年金がつくという11年7カ月で議員を辞め、共産党を始め、公明党、社会党などの厳しい反対を押し切り、僅か2票差で副知事となった。

 そのときから、いかにして共産党がこれだけ強くなったかを調査することになり、同和問題の会合にも注目し、芽を摘み京都の地ならしを徹底して行った。四年がたち林田氏に「もう一期、手伝ってほしい」と頼まれたが、「個性(の強い)人間がやることは組織的にまずい、組織が活性化しない」と言って断った。

 副知事になる前に障害者支援施設の理事長をやっていて、建てかけた障害者助産施設で障害者のために後の生涯を捧げようと思っていた。しかし前尾さんが突然死去し、立て続けに現在財務大臣谷垣禎一さんの父、谷垣専一さんも亡くなったので、京都で補欠選挙が行われることになった。その時、同じ青年団に属していた竹下登さんから電話があり、「今のような世襲的な政治形態の中、君のような地方の政治を知った経験深い人間がいない。君しかいない、君が必要なんだ」と言われ、京都を出た。世は田中角栄さんのロッキード事件の真っ只中に田中派から出馬したのだった。「宮沢(喜一・元首相)と竹下の代理戦争」と言われたぐらい激しいものになり、開票の晩は、一度は谷垣さんと共産党の有田さんの当確が出たので、敗北宣言をしようとしたが、後に6千票の報告がなされていないのが見つかり、見事当選しました。

 57歳から衆議院議員になって、20年2カ月の間、7回にわたって議員を務めた。

 昨日は12回目の阪神淡路大震災の日であった。私は当時、国家公安委員長をしており、その翌年に震災が起こり、その際、国家の危機管理が問われた。大変過酷で、私が死者20名、負傷者200名を超える見込みであると言っている頃に、5000名を超える人が既に命を失っていた。私は今尚、国家の危機管理が至らなかった、という反省から、1月17日には必ず神戸へ行って、献花をしている。昨日も夕刻に行き、目立たない時に献花をすることができた。3月20日には、地下鉄サリン事件が起こった霞ヶ関の駅に行って、献花をした。国家の危機管理が足りなかった時の犠牲者のための責任を、我々は忘れてはならないと思っている。

 去年の9月、戦後生まれの非常に若い、安倍晋三・自民党総裁が誕生した。小泉政権の5年10カ月。やれやれと思う。あれだけ演技力の上手な、あれだけ説明をしない、こんな人が高い支持率を得る。日本国民は一体どうなっている、これをまたこのようにもっていく日本のマスコミはどうなっている。一つも批判するマスコミがない。これは、戦時中の私たちが経験した青少年時代と同じだ。

 私は国会で、米軍用地特別措置法改正案(2)の委員長をやって、この法案を国会で、委員長報告をする最中に、私が初めて沖縄を訪問したのは昭和37年(1962年)。京都出身の亡くなった2700名の人たちの慰霊塔を建てたいと思って行った。まだパスポートが要る時代だった。今の那覇空港とは比較にならない、米軍飛行場の中に、日本の空港がある感じ。そしてタクシーに乗り、京都の人が一番たくさん死んだ、宜野湾市の嘉数(かかず)の丘に向かった。宜野湾の街に入ったら、運転手さんが急にブレーキを踏んで、「お客さん、私の妹が殺されたのは、あのさとうきび畑の中です。アメリカ軍に、じゃないんです。日本軍なんです」と、ワーッと泣き崩れた。40分ほど泣き崩れたと思う。私は沖縄戦の異常な姿を、この運転手さんから学んだ。2年後の昭和39年(1964年)、慰霊塔を嘉数の丘に建てることが出来た。その後、都市公園にしてもらい、普天間の飛行場が問題になると、宜野湾市が展望台を作り、飛行場が一望できる。都市の真ん中に米軍の普天間飛行場がある異常さを一番見られるということで、京都の塔に参ってくれる人も増えた。ほとんどの人が、摩文仁(まぶに)の丘に、慰霊塔がある時に、京都は栃木、島根と共に、宜野湾に慰霊塔を建てた。沖縄と私との出会いはそこからだ。

 北京にいる時、那覇の翁長市長から電話があって、頼むから沖縄に来てくれ、と言う。10日に帰ると言ったら、11日の集会に間に合う、と言う。「来る奴、来る奴、沖縄の人間の神経を逆撫でするようなことばっかり言って、沖縄の歴史や痛みを理解する政治家は日本にいなくなった。決起大会を開き、もう一度県民を呼び戻してもらわなければ、知事選挙に負けてしまう」。そう言って、悲痛な叫びだった。そして稲嶺知事に代わって、「先生、頼みます。ぜひ足を運んでください」。そうして、私はそのまま2日間、沖縄に入った。おかげで当選できた。

 沖縄との長い付き合いは、官房長官として小渕恵三総理に仕えた時、8つのサミット候補地があった。(2000年7月21日から23日まで「九州・沖縄サミット」が、沖縄県名護市の万国津梁館を会場に開かれた。九州・沖縄サミットは、情報技術(IT)格差や感染症への対策を盛り込んだ首脳宣言を採択し、閉幕した)。地方で開催するサミットなら、私と小渕さんは初めから「沖縄」に決めていた。そして米軍の基地が75%もある沖縄に、クリントンさんは本当に世界の首脳を連れてくる勇気があるか、世界の首脳に見せてもらいたい。その異常な沖縄を見てもらいたい。我々は、それを理由にして、遅れていた沖縄のインフレの整備を進める。そういう気持ちだった。ところが、8つを各省が内閣に報告してきたとき、沖縄は8番目だった。ダメだなぁ、総理どうしますか。「やろうよ」と、小渕さんは言ってくれた。駐米日本大使に電話をして、クリントン政権に話をして、沖縄でサミットをする了解をとるように、と言った。米軍からクリントン大統領には、了解が取れないから。大使は「私もそれが一番いいと思います。できる限り努力します」と言った。しかし、返ってきた電話では「残念ながら理解を得られなかった」という報告だった。しかし30分後、また電話がかかってきて、「ちょっと待ってください。今、フォーリー米駐日大使がワシントンに着かれ、大統領と話をして、これが重要な話であります。もう一度、大統領に会って話をしますから、待ってください」とのことだった。私たちは徹夜で、彼の努力を期待した。明け方、大使から、「おかげでクリントン政権の了解を得て、沖縄で開催していいとのことです」と、電話をもらった。

 こうして、私たちは沖縄に決定をした。政府関係機関は、全て反対。飛行機と船以外に沖縄に行く便はない、そんなところに警備上に問題がある、そんなサミットは大変だという話もでた。しかし、私たちは何とかして、沖縄の人たちの為に役立てたい、異常な米軍基地の存在を、世界の首脳たちに見てもらう最大のチャンスだとして、小渕さんはこの決定をし、倒れる5日前に、沖縄を訪問し、マスコミ4社を回ってお願いし、沖縄で首脳らを出迎えてくれる中・高生に会って、よろしく頼むということを伝えた。そして帰って来て、小沢さんと神崎武法さん(当時の公明党党首)と3党党首会談で、小沢さんは「とにかく、自民党を改革して、自由党も改革して、新しい保守政党の構想を、それが出来なければ、自由党は政権を離脱する」、こういう話を持ち込んだ。その回答期限は「今月いっぱい」と言う。小渕さんは、大変苦しかった。そして、4月1日に3党党首会談をやり、小沢さんと話をしたが、「これ以上自由党と連立するのは不可能になりました」と、会議後マイクを取って言った。その中で、言葉がちょっと途切れた。「疲れているなぁ」と思った。

 翌朝、午前6時に青木幹雄官房長官(現在、自民党参院議員会長)に「小渕さんが体調不調を訴え、順天堂大病院に入院した」と聞いた。それから、1カ月と14日たった5月14日、沖縄のサミットを行う万国津梁館の竣工式が終わる時間に、息を引き取った。翌日の15日は、ホテルオークラなどの有名ホテルの料理長を集めて、世界の首脳に琉球料理ばかり出すのはいかんと、料理を考えるようにと、小渕さんが言って、その試食会を予定していたが、それを見ないまま亡くなっていった。無念だったと思う。そういう中で、私は小渕内閣の官房長官をやる時に、「私はとても務まらない、学校も出てないし、経験もない私が、官房長官になって内閣の番頭なんて」と言った。しかし、小渕さんは「いや、あんたは私が持ってないものを持っている。だから頼むからやってくれ」と、地べたに土下座して頼まれた。そこに竹下登さんから電話がかかってきて、「君、小渕が頼んでいるだろ。運命だと思って諦めて引き受けてやれ」と言われた。私は、「あぁ、もう出来上がっているんだ」と思って、「それなら3つ条件がある」と言った。「1つは天下りを是正する。事務次官だった人間が、関連団体に天下ったら月に140万円以上をもらう、こんなことをしていたら日本はおかしくなる。もう1つは、国有財産の売却と活用。もう1つは、留学生対策について。特に東南アジアから来ている人達は自分たちのわずかな私費留学であろうが、この国に来て学んだことを喜んでいるけれど、日本の若い人が遊んでいる頃に、寝ずに働き食費を稼ぎ、あるいは、6畳ほどのところに10人入って、宿舎を借りて、宿舎費を出している、そんな人たちが、日本で学んだことを喜びながら、日本のやり方にいい感情を持たずに帰っていく。10年、20年後、彼らはその時の国を代表する人として日本にやってくる。これは、もっと日本という国は留学生に対して、特に東南アジアの留学生に対して、よくしてくれたそういう気持ちで感謝して帰ってくれる。それが将来に対する東南アジアとの連帯感であり、それが日本国民にとって大きな常識になるようになって欲しい」と伝えた。「その通りだ。それは小渕内閣の決定事項にしよう」と小渕さんは言った。そして、お台場の留学生会館や、尻切れとんぼになってしまっているが、海外交流の予算案などをやった。しかし、小渕さんは倒れてしまい、彼をはじめとする、本当のアジア全体を考える政治家が少なくなった。

 その後、森さんが立ったが、早稲田大学の出身だから、こういった学閥で演説すると120%喜ばれる演説をする。その中で、ちょっと問題発言をする。それがマスコミのネタになって、バァーっと広がる。はじめは、「神の国」発言(3)。小渕さんのお通夜の夜だった。幹事長として挨拶することになっていた私は、はじめに行って役員会に断ってお通夜に行った。スタートから蹴躓いた。愛媛県の水産高校の生徒たちが乗った船がハワイ沖で(米原子力潜水艦に衝突され)沈没した時(4)も、たまたま日曜日で、すぐ飛んで帰ればいいものを、家で着替えて来るからと、ちょっと遅くなって来る。そういうことが続き、マスコミの餌になって、参院選では、選挙に行かないと言う人が多い、という世論調査が出た。石川県に帰った時、地元では他ではあり得ない発言でみんなを喜ばせたいという気が起こるのか、彼の発言は石川発、金沢発のものが多かった。投票率が悪くなるようですが、という記者に対し、「その人達が寝とってくれたらいいわな」と言った。幹事長の時は、サミット時には、沖縄には赤旗の他に、赤旗のような新聞社、放送局が5社あるような状態だと言った(2)。











野中広務氏©浅野ぜミ

 小渕さんはマスコミ各社に協力、サミットの成功を頼んだ。サミット後、私もお礼を言いに言ったが、そういうことで、残念ながら支持率が下がっていき、退陣させられた。

 小泉さんは、それまで総裁選に2回出て、2回とも惨敗した。しかし、3回目にして、靖国神社参拝を掲げた。橋本龍太郎さんに対抗してだ。橋本さんはお父さんの代から、ずっと社会福祉、戦没者の遺族の問題、軍人恩給問題などをみている。ほとんど橋本さんに票が集まるはずだった。しかし、この靖国参拝のスローガンによって、支持が増えた。自分の理念があって言ったわけではない。最初は8月15日が13日になり、春の例祭になり、最後だけ15日に参拝したが。そんなこんなで、いかにして中国・韓国との関係が凍結状態になっているのを、じんわりといかに溝を埋めていくのか。

 浅野先生も理解しておってくださったが、南京大虐殺記念館に行った政治家は、私が日本の政治家として初めてだ。日本人はどんなひどいことをしたかを、戦地から帰ってきた多くの人たちから聞くべきだ。時には、自慢話もある。まだ中国が独立、国交正常化ができていない時に、私は後援会の慰霊の旅で二百名の人々と南京に行った。その時、私たちの中に、南京の城壁に来たら、倒れて動かない人がいた。ようやく落ち着いて立ち上がって、「どうしたんだ」と聞くと、こんなことを言った。

 「私はここにいたんです。ここにおって、いろんなものを見て、経験した。1つは、南京に入りかけたら、中国兵が倒れてしまって、手を合わせて命乞いをし、自分の水筒も残り少なかったが、一滴ずつ与え、我々の姿が見えなくなるまで手を合わせて拝むようにしていた。これは、私の大変心温まる思い出です。しかし南京市内に入ると、中は女性と子供ばっかりです。しかし、上官は、その中に兵隊がおるか、女・子供でも容赦しない、命令だ!と言って、我々は目をつぶって、そこにいた女性と子供を殺してしまいました」。

 辛い、辛い話を、この場にきて思い出して、地の中に体が引きずり込まれる思いがして、体が崩れてしまった。こう言って話をしてくれた。この話を私はずっと持ち続けて、そして、お前は日本の政治家で初めて中国に媚びる媚中派だと言われるが、この時の思いが、南京虐殺記念館ができた時に、そこへ行かせてくれた。総領事に電話して、献花をした方がいい、但し30万人という未確認の数字の元では出来ないので、献花台を他につくってくれるように言った。

 しかし、未だに行く政治家は少ない。私の次に行ったのは村山富市総理、土井たか子さん(元社会党委員長・衆議院議長)。やはり、嫌なものを見ないで避けて通るのは、やめなければいけないし、日本はどんな立派なことを言っても、日本が軍隊で攻め込まれたことは一度もない。元寇でも、福岡で止まった。秀吉の時代から、日本が攻めて行くばかりだ。私はもう80歳になるが、朝鮮戦争中、過酷な貧しい中、日本人孤児たちを助けてくれた中国の東北部に行って、感謝の言葉を述べたいと思って、11月に行ってきた。ちょうど安倍さんが就任して、中国も訪問してくれた直後だった。本当に過酷な中で、よくぞ孤児たちを育ててくれた、と言った。「お前たちは、戦争が終わってから今日まで、予算の枠組みを取らなかった。だから、軍人恩給と戦争遺族へのこの人たちが減るにしたがって、日本の戦後処理はやられた。もっと10年早かったら、日本の親たちも生きていて、日本に帰ってきたが誰も名乗ってくれない、無念さを抱いて帰っていく、こういった悲劇は起こらなかったのに」と言われた。

 あるいは、70万発の化学的兵器の押収。去年も一昨年も、傷を負った人達が私を訪ねてくる。私は官房長官の時、この報告を受けて、日本の金で日本に持ち帰って処理します、と言った。やったのか、と聞いたら、できておりません、と。それではやりますけど、やりません、ということだ。日本の金で、中国政府の協力を得て、現地で処理をさせてくれ、と。そうでないと事態が早く進まない。そう言って、去年で4万発。しかし今発表されている70万発以上になることは間違いないが、これを処理するのにどれだけかかるのか、あるいはそのためにどれだけの人が傷つくのか。38歳の青年と12歳の少女がいました。12歳の少女はやけどがひどく、青年は落ちつかなかった。12歳の少女は、「私の不注意でこれに触れたんだから、それを恨もうとは思いません。しかし、私が悲しいのは、学校にいると、私に近づいたらうつるだろうと思って、耐え難い差別されるのが、辛い」と訴えた。こういう人が、政治を引退し、関係がない私を訪ねてくる。私はこういった人々の心の慰めをしていかねばならないと思っている。

 私は中国に行って、前の指導者である江沢民国家主席や朱容基国務総理に会見した時に、これから我々の政府は遅れを取り戻し、臨海国として日本も政府の活動に協力してもらいたい、と言われた。日本も格差社会と言われているが、しかし、今の中国の状況では日本の企業も、日本の国民もそう簡単に協力できない。こういう言い方をしたら、中国の指導者や、日本の大使をはじめ、外務省の連中も真っ青になる。日本の企業が大変な発展をしているが、しかし、もうけたら儲けただけ、法律を変えて、税金を取ってしまう。日本に私利益を持って帰ることができない。一方品物を売ったら、半年たっても1年たっても、払ってくれない。日本企業は、もうダメだと、ベトナムやカンボジアにだんだん移していく。こう言ったら、朱総理が率直にこう言った日本の政治家は初めてだ、と言われた。「残念ながら、今の中国はあなたが言われた通りだ。しかし、我々は信頼回復のために努力をする。08年のオリンピック、次の指導者になるが、ぜひ、あなた方が2度とそういう指摘を受けない中国にしてみせます」と、国務総理は言われた。

 まぁ、どういう所が変わったか分からないが、福岡で中国人の留学生たちが一家の大切な人たちを殺した。そして、一部は日本で逮捕され、一部は逃げて帰って中国で拘束された。公安局に、私はこんなことをやって、大きな犯罪が起こったらだいたい中国人だ、とこういうふうになっている、これを両国が努力して是正しなければいけない、と話した。そうしたら、中国の公安局長が、翌朝来て、「先生の指摘された問題で、中国から密入国する7割が福建省であります。したがって、強制的に止めます。中国から日本に行く人は、保証人、許可書をとります。そこで、両国の協力として、日本政府も議員外交として、先生方から我々を招待してもらえませんか」。2ヶ月後に、日本に招待して、法務省や関係各部署に協力を求め、実際に施設を見せた。経費は我々が持った。犯罪がおきる場所なども見せた。そして、横浜・名古屋・大阪・広島・福岡、そして最後に京都でゆっくり食事したりしていった。2ヵ月後、大使館に中国の公安職が2人配置され、日本語の出来る公安職が入ってきた。警察庁長官が、「いい勉強をさせてもらった。コミュ二ケーションがうまく行って、現実に犯罪を止めることが出来るようになった」と感謝をしてくれた。やはりお互いが言い合いながらやらなきゃいけないと思う。

 韓国もまたそう。韓国は、日本軍として植民地化された中で、日本語を母国語とさせられた人がたくさんいる。例えば、亡くなった韓国人の方のお嬢さんから手紙を貰った。「父は病気でもう先が長くありません。しかし、16歳の時にソウルで日本軍に憧れて志願しました。その後、シベリアに抑留されて、5年後、船に乗せられて、日本の舞鶴に着いたら、日本軍人として評価を受けて、日本で愉快な生活を送れる、と言って見知らぬ日本に連れてこられた。舞鶴に着くと国籍条項で、お前たちには何一つ、軍事慰労金をあげることは出来ない、と言われた。父は日本軍として活動したことに誇りを持ち、船で帰ってきて、そして国籍条項で何一つ恩給を受けられないという戦後処理に不満を持ちながら、病床にいます」という話を聞いた。官房長官の頃で、このための法案を作ってくれ、と頼み、作り始めた。とりあえず、戦死者がどれだけになるか分からないから、とりあえずこれだけにして、そしてその他は、この後どれだけの金が要るかを見極めてからにしたい、と。しかし、思ったほど多くなく、予算が余ってしまった。

 広島の被爆者の問題もそうだ。これは北朝鮮も含めて、日本に来て治療を受けて頂くなら、日本の被爆者として扱うと小渕さんが言って始まったが、なかなか日本まで来て治療を受けられない被爆者を残している。こういう未処理問題がたくさんある。お父さんが重体という話を聞いた時に、私は韓国のお嬢さんに、「残念ながらお父さんを一般兵まで救済することはできない。しかし、官房長官として、日本軍人として参加されたお父さんに感謝状を出すことは可能である。それでよろしければ、金一封と官房長官としての書状とさらに、陛下の銀杯をあげたいと思うのだが、どうか」と聞いたら、「意識があるうちにそこまでして頂けたらありがたいです」と言って喜んでくれた。そして、「ようやく父は長年生きてきた1人の人間として認められたと、喜んで旅立って行った。そして私はようやく父から解放されて、東京で結婚生活を送ります」という手紙を貰ったのはつい数年前のこと。こういう未処理の問題はまだまだ残っているが、それを真剣にしようとする政治家がいない。

 日中戦争や、朝鮮戦争の植民地化について、いろいろ言う人がいるが、先ほども言ったように、向こうから攻めてこられたことは1度もない。日本が植民地化し、日本名に変え、日本の軍人として働かせ、あるいは軍属として働かせた。その償いが出来ていない。60年経った今でも戦争の傷跡をまだ残している。私も戦争の世代にいた者として非常に恥ずかしく思う。しかし、もうこんなこの国のことまで潰してしまうような小泉と一緒の政治家としておることは死んでからでも恥ずかしいと思い、政治家を3年前に引退した。

 しかし、未だに日中友好協会名誉顧問として、毎年1・2度は中国を訪問し、韓国も訪問し、ノムヒョン大統領に面会した。新しい国会議員がでたら、もう我々の知る国会議員は1人もいない、そして英語はペラペラだが、日本語を知っている議員は1人もいない。だから、前の大統領とは今も交流があるが、若い人達とは交流が全くない。そいう中で、在日韓国人の参政権というのが問題になっていた。日本にいて、対等に税金を払っている人に、地方参政権を与えるというのは、これは公明党に尼崎出身で在日が多いから冬柴代議士が頑張っている政界やマスコミの一般的な報道だが、全く違う。日本と韓国は、親善議員連盟というのを持っていて、竹下さんが会長になり、その後亡くなった衆議院議長の伊藤宗一郎さん(元議長)が会長をしていたが、その中で恥ずかしいなと思ったのは、むこうは国会議員が日本へ来ていても、日本ではいつも通りに国会をやる。すべて韓国政府が持ってくる。日本人は自分たちのプライド重視だから、そういう中で接待しなければならない。引け目があった。竹下さんが会長の時に、在日の人々に地方参政権を与える、ということを両国の議員連盟の総会で決めた。韓国・日本の議員連盟の幹事長が、双方が覚書きを作成し総会で決定したが日本は実現していない。韓国は地方参政権を認めたが、日本はやろうとしていなかった。政府が特別扱いをすると、必ずえせ情報が出る。

 瀬戸内寂聴さんとテレビに出て、どうして日本人はこんなにダメになったのか、という話になった時に、寂聴さんは、「これで完全にアメリカの占領政策は成功したということですよ。日本はあんなに資源のない国で、こんなに豊かになったのはなぜかと考えたら、アメリカは日本の家族の制度を変えた。根本的に家庭から崩していくと考え、それから教育やいろんなものに入ってきて、そして金融機関に、外資を入れる、外資が入るなどしてきた」。日本航空も狙われていると思う。宮沢内閣の頃から、アメリカは日本の政治に口出ししてくる(年次改革要望書)。政治家たちも知らないままに、占領政策が進み、規制緩和、アメリカ化された人によって、日本の良さを潰していこうというそういうところから始まった。私は反米論者ではない。そしてついに、目を覆いたくなるような事件が続発するようになり、これは、完全に瀬戸内さんが言った占領政策が成功したということだと思う。

 我々にとって、これから北朝鮮・中国・韓国との関係が大切だ。私は北朝鮮に90年から99年まで8回行ったが、難しい、難しい国だ。最近、北朝鮮との話が持たれるようになったが、金日成主席の時のように食糧難や、金融の低迷をなんとかしようという動きが北朝鮮の中にでてきた。安倍内閣は中国と韓国とを訪問して、中国の幹部が話をしてくれたが、「よくぞ決断をしてくれた。しかし、周りの閣僚や幹部が集団的自衛権や核武装しなくちゃならないと言う。そういう話を聞いていると、安倍さんはそれを抑えることができるのか、心配がつきまとってくる」と言っていた。私は安倍さんとはほとんど面識はないが、彼のお父さんは私の1つ上で、私の親友だった竹下登先生と滋賀の航空部隊に招集された頃からの付き合いだ。私は外務大臣などをしていた安倍晋太郎さんをずっと見てきた。安倍晋太郎さんが、「1国の運命を担う総理になったら、1番大切にしていかなければならない中国、韓国、朝鮮と連帯していかねばならない。東南アジアのみなさんとの関係が、俺の外交の根っこだ」と言った。

 安倍くんは戦後生まれの政治家として、立派に、もう1度この国を立て直すような政治をやってほしい。特に近隣諸国との関係を考えてほしい。小泉さんは演技者だ。支持率をあげようとする。小泉さんと違って、正直にものを言おうとするから、安倍さんは長くなる。

 マスコミの諸君が自分たちの責任がいかに重いかを知らなければならない。我々の知らないところでされる話し合いがどうか、国家の行方をどうあるべきかをマスコミは国民に訴えていくべきだ。

 米軍再編成が行われ、そこに自衛隊が関連してくる。私は、旧満州のことを考えると、同じようなことが再編、再編という形で行われ、その中で自殺者や失業者が増える。国の税金を使って平気でおれる政治家は辞めさせねばならない。それが戦争で死ぬことなくここまで生きてきた我々の責任であると思う。

 戦争を知らない若い皆さん。どうぞもう一度歴史に学んで、中国・韓国・北朝鮮・東南アジアを現実に歩いてください。どれだけ残忍なことをしてきたか、それの反省の上に、私達はこれらの国と謙虚に信頼関係を構築して、そして、これからお互いに連帯や友好親善ができるように日本を作り上げなければならない、と思う。










質疑応答

学生
 お話ありがとうございました。立命館大学3年生の榊原と申します。先生は東アジアとの友好が重要だとおっしゃっていましたが、東アジアとの友好を今後考えていくのであれば、今現在問題になっている総理の靖国参拝について、安倍総理を含めて今後の総理も参拝を控えたほうがよいとお考えでしょうか。よろしくお願いします。

野中さん 私は靖国は歴史の清算をしなければならない、こう思っております。明治2年、戊辰の役がありました。このとき、官軍としてレッテルを貼られた長州をはじめとする、土佐の人たちが東京招魂社に祀られる。本当の御所で朝廷を守っておった会津藩、いわゆる会津の精鋭たちが賊軍というレッテルを貼られて、東京招魂社に祀られないまま来たわけです。いまだに靖国に祀られておりません。あるいは明治10年、西南の役があり、明治の維新にその身を投げ打った西郷隆盛がついに、鹿児島で賊軍として敗北をするわけであります。このときもまた、西郷隆盛を中心とする明治維新に功労はあったけれども賊軍のレッテルを貼られた人たちは、招魂社に祀られておりません。これ以後、東京招魂社を靖国神社と変えて、そうして来たのであります。当時は陸軍省と海軍省の所管でした。昭和20年、戦争に負けて、そして米国の指示で、こんなものを国が持っておるというのはけしからん、ということで靖国神社を神社本庁擁する神社として位置づけて今日まで来たわけであります。
 そしてそれはなぜ、例えば皆さんが歴史を見てもらえればわかりますけれども、明治天皇がなくなられたときに殉死された乃木希典大将がおります。この人の、子供二人は戦死して靖国に祀られておりますけれども、乃木希典大将は明治天皇が亡くなられて、腹を切って亡くなられたわけですから、靖国には祀られておりません。戦争に参加した人を祀る。しかも、官軍として天皇の軍としてなくなった人を祀る。二・二六事件とか、五・一五事件とかありましたけれども、こういう人も祀られておりません。しかし、これが戦後一挙に祀られることとなりました。そして昭和27年に講和条約ができて後にA級戦犯、そしてそれ以下の軍人恩給が出されるようになりました。B級の戦犯は靖国に祀ったけれどもA級の戦犯は靖国に祀らなかった。それが昭和53年になって、時の松平宮司、かつての海軍の将校でありますが、この人がA級戦犯ということだけで靖国に祀らないのはおかしい、この人たちも殉職者だ、と言って一緒に祀ってしまう。それを昭和天皇は折に触れて靖国神社にお参りになっていたけれども、このことが新聞で明らかになって以来、昭和天皇はついにお亡くなりになるまで靖国神社にはお参りにならかったのであります。今の天皇に至っても、お父様の志を引き継いで靖国にはお参りになっていないのであります。

 だから本当に靖国神社を戦争で亡くなった犠牲者を弔うものだというなら、普通の社団法人から特殊法人にして、戦争で亡くなった人を祀るということで、明治の東京招魂社のときからの歴史の清算をやらなければ、私はいけないと思います。ましてや戦争の責任を一身に負って、国際裁判によって戦勝国が裁いたとはいえ、やっぱり昭和のあの時期を考えると、陸軍大臣と総理と総参謀長を兼ねた東条さんというのは異常な存在であります。こういう人を軍神として、神として祀る。日本は多宗教の国であります。日本古来の神道もあれば、ヨーロッパから来たキリスト教や、あるいは東洋から来た宗教をはじめとして、すべてを器用にこなす民族です。それがひとつの神社本庁に属する神社として位置づけてこられることは、他の宗教の人々も決して喜ぶことではない。こう考えたときにやはり、靖国は歴史の清算をしなければならないと思っております。
 だから安倍さんは今度中国に行って、靖国に参るとも、参らないともはじめから何も言っていないわけです。これは、参るといえばまた批判を受けるし、参らないと言えば国内のファシズムが台頭してくる。どちらとも言わないというのが安倍さんの奥深いところだと思います。先ほども申し上げましたけれども、いわゆるお爺さんの血を引いた人ですから、今すぐにどうこうというのではなく、せっかく生まれた総理ですから大事に、これからの日本の政治を作り直し、そしてやり直すために守っていってほしいなぁ、という気がしておりますけれども、このごろ世間で批判を受けがちでありますが、なかなか厳しいのでございますけれども、やっぱり私はそういう勇気、小泉さんの政策を180度転換させた。小泉さんはアメリカ至上主義だ、何だといって、大きい企業や銀行は儲かったけれども失業者やリストラされた人々は大変なことになっている。こういうところに視線を当てられて、安倍さんは格差を是正すると言っている。あるいは再チャレンジと言っている。これは小泉政治を完全に否定しているんです。ただ「小泉政治は間違いだった」、とそこまでは言えない。ただ私は彼がそこまで踏み込んでやっていることを皆にはわかってやってほしいなぁと、そう思います。

質問者 先頃、教育基本法改正案が通過し、防衛庁が防衛省へと格上げになりました。加えて、安倍政権は改憲問題を参院選の争点にしようとしています。その点についてどうお考えですか。

野中さん 私もなぜ教育基本法があんなに簡単に、民主党までもが賛成して通ったか、あるいは自衛隊の防衛庁が防衛省に、なぜあんなに野党である民主党までもが賛成をしてできたのか。野党がもっとしっかりしなければならない。あんなやらせ問題だとか、履修科目の不足だとか、このような問題を何一つとがめることなく、委員会や本会議にすら欠席して、結果として教育基本法は満場一致で通った。あるいは防衛庁も防衛省になって、自衛隊の活動範囲が広がった。そういうときほど謙虚にかつ今までの対案をよく見極めて、そしてやっていかなければならなかった。これから、自衛隊は本来業務として海外へ出て行けるわけです。防衛省になったことによって。そうしてどんどんいろんな名前をつけて海外に出て行くと、税金もいりますけれども、それ以上にサマワから帰ってきた自衛官は皆が健康というわけではないのです。自殺をした人、あるいは精神的なケアをしながらでとても正常な勤務に就けない人、こんな人がたくさんおる。そういうのをマスコミは報道しようとしない。だから今のような状況が許されるのです。インド洋でアフガン・イラクに行く 各国の艦船に日本の金でガソリンを給油して4年が経ちますが、私が質問をして初めて分かった。

給油中に人的犠牲はなかったのかと質問をしたら、二人死亡しました。一人は病気で死んだから公務災害補償としました。もう一人は休暇中に陸上で交通事故で死んだから、これは公務と報告したので、何を言っている、日本から派遣命令を出したそのときから公務ではないのか、東京の机上で考えるからこのようなことになったのだと申して、とうとう二人とも認められましたけれども、こういう問題が全然報道されない。だからあのサマワから帰ってきた人たち、今まだ航空隊が残っています。これが非常に危険な業務を帯びております。アメリカが増派をいたしまして、またイラクに軍隊を送り出しました。そして軍隊を増やしたと同時に民間の人間を雇って軍隊と同じ仕事をさせている。日本人も死にました。そんな中で日本に帰ってきた者も重い傷を負っているということを、もっとマスコミは報道しなければならない、と私は思います。そして海外派遣が本来業務化したことで、結果として怖いから自衛隊に行きたくなくなって、仕官する人が少なくなる。少なくなってきたら、今度は徴兵制度というところに行くわけです。だから非常に怖い方向に進んでいるということを考えなければいけない。
 そして憲法の問題は、私は常に憲法について論評すべきだと思います。やはり今の憲法が絶対に不動のものであるというのはおかしいわけであります。やはり憲法のどこに問題があるかということを徹底的に論議して、変えるべきなのは私も9条だと思う。1項はそのままにして、けれども2項はね、自衛隊を認めて専守防衛で集団自衛権は持たないということを明らかにすべきだと思う。憲法の中にはいくつかの問題点があります。そういう点は改めなくてはならない。それ以前に、論議をしなければならない。せっかく衆議院と参議院に、それぞれ憲法調査会ができて、今、論憲をしているのです。与野党を経て。それで自民党案なんかをポーンと出したころに問題があるわけです。安倍総理は憲法について論じて、そして憲法改正を一つの柱にするという言い方をしたのは、そういうところにブレーキをかけたのではないのかなぁ、と私は良い方にとっております。以上です。









【注】

(1)ILO(国際労働機関)はベルサイユ条約に基づき1919年国際連盟の一機構として設立された。第二次世界大戦後は国際連合の専門機関。政府・労使の代表によって構成され、労働条件について各国への勧告、藤堂関係資料の収集・紹介などを行う。
ILO条約第87号=結社の自由及び団結権の保護に関する条約=日本は1965年6月14日批准)の修正案を出す時だった。ILO条約とは、ILOが条約の形式で設定した国際的な労働基準。加盟国が批准すると、その国に対して国際労働法として拘束力を持つ。

(2)橋本政権は1997年、沖縄の米軍基地用地の確保を続けるため、米軍用地特別措置法改正案を出し、野中氏は衆議院で改正案の特別委員長を務めた。法案の委員会通過後、4月11日に野中氏は委員会報告を行ったが、報告の最後に「私たちのような古い苦しい時代を生きてきた人間は、再び国会の審議が、どうぞ大政翼賛会のような形にならないように若い皆さんにお願いをして、私の報告を終わります」と付け加え、物議を醸した。法案は保保連合によって圧倒的多数で可決される見込みとなっていたため、保保連合を牽制したためとも、(立場上反対はできないが)純粋に性急な成立を危惧したためとも云われている。この発言は、新進党の要求により、国会会議録から消されている。なお、法案は同日の衆議院通過後、4月17日に参議院で可決成立した。

(3)森喜朗首相(当時)は2000年5月15日夜、東京・紀尾井町のホテルで開かれた神道政治連盟国会議員懇談会(綿貫民輔会長)の結成30周年記念祝賀会で、「日本の国は天皇中心の神の国であるということを国民に承知してもらう、その思いでわれわれ(同懇談会)が運動して30年たった」と発言した。
 森首相は、00年3月20日、石川県内での講演で「天皇陛下御即位十年をお祝いする国民祭典」(1999年11月)のビデオを上映し、「君が代斉唱の時、沖縄出身の歌手の一人は口を開かなかった。恐らく(君が代は)知っているとは思うが、学校で教わっていないのですね。沖縄県の教職員組合は共産党が支配していて、何でも政府に反対、何でも国に反対する。沖縄の二つの新聞、琉球新報、沖縄タイムスもそうだ。子どももみんなそう教わっている」などと述べた。
 沖縄県教職員組合は二十一日、「君が代について教育の場に持ち込むべきではないとの立場だが、その考えを児童・生徒に押し付けることはない。教組は独立した組織であり、共産党支配下にあるとの見方はもってのほかだ」と反論した。
 森喜朗首相は00年5月14日、九州・沖縄サミット(主要国首脳会議)の主会場となる名護市の「万国津梁(しんりょう)館」落成式典出席やサミット関連施設の視察のため、就任後、初めて沖縄を訪問。那覇市内での記者会見で、沖縄県の教職員組合や報道機関などを「共産党が支配している」「何でも国や政府に反対する」とした自らの「失言」を謝罪した。

 首相は他にも多くの「問題発言」をしている。以下は朝日新聞の報道から抜粋した。
 ■「大阪人は金もうけばかりに走り、公共心も選挙への関心もなくした。言葉は悪いが、たんつぼだ」 (1988年4月、京都市内のパーティーで)
 ■「横浜には1500人くらいの韓国から来た労働者がいる。ベトナム戦争に参加しているから銃を撃つことは不慣れではない。まとまれば、大変な軍事行動ができるくらいになる、というおそれがあると言われている」(92年6月、東京都内の講演で)
 ■「(農業団体の有力者が対立候補にいて)私が『立候補のあいさつに参りました』と行くと、農作業をしている農家の方が全部家に入っていきました。なんかエイズが来たように思われちゃってね」(2000年1月、福井県内の講演で)
 ■「君が代斉唱の時、沖縄出身の歌手の一人は口を開かなかった。恐らく、知っていると思うが、学校で教わっていないのですね。沖縄県の教職員組合は共産党が支配していて、何でも政府に反対、何でも国に反対する。沖縄の二つの新聞、琉球新報、沖縄タイムスもそうだ。子供もみんなそう教わっている」(同年3月、石川県内の講演で)
 ■「夜も朝も総理番記者から『何時に寝て何時に起きたのか』と電話が来るので困っている。家内がホテルの方が楽だと言っている。ああいうのはウソを言ってもいいんだろ」(同年4月、取材陣に対して)

(4)2001年2月10日、ハワイ・オアフ島沖で米原子力潜水艦グリーンビルが緊急浮上の訓練中に愛媛県立宇和島水産高校生が乗った漁業実習船と衝突し、実習生ら9人が死亡した事件。事故当時、原潜には民間人16人が乗船していた。訓練はPR用のデモンストレーションと見られている。 
 森喜朗首相は同日午前、横浜市旭区で大学時代の友人とゴルフをしていた。一報を受けたのは午前10時半ごろ。しかし、プレーを続け、ゴルフ場を出発したのは約2時間後だった。
 事件から丸6年を迎えた07年2月10日(現地時間9日)、ハワイの慰霊碑前や同県宇和島市の同校で犠牲者を追悼する式典が営まれ、遺族らが9人の犠牲者の冥福を祈った。









 野中広務氏と対話

 浅野健一

 野中氏は07年1月18日午後6時、同志社大学今出川校地の有終館にある担当理事室に来た。講演会を企画・担当した2回生の北野万里香さんと山田遼平君が同席した。

 野中氏は名刺交換の後、こう言った。「浅野健一ゼミに呼ばれるとは、という思いだ。浅野先生と私では、波長が全然違う。若い学生たちの依頼文を読んで、講演を引き受けた。」

 学生たちと06年11月に打ち合わせたときは、浅野ゼミについて詳しく知っている様子はなかったので、講演会が決まった後に、周辺の人たちから何か言われたのだろう。浅野ゼミでの講演に反対した関係者もいたのではないかと推測する。若い人に話したいということで来てくれたのだと思う。

 同志社で講演するのは初めてだと聞いた。顔に艶があり、鋭いが、同時にやさしい目でもある。81歳とは思えないほど元気だ。携帯電話に連絡が度々入る。

 「私は1990年から99年まで計8回北朝鮮を訪問した。『よど号』事件の人たちとも会ったことがある。ハイジャックという犯罪を侵したのだから日本に帰ったら刑に服するしかないと伝えた」。

 野中氏はそう言って、朝鮮民主主義人民共和国(朝鮮)との話を始めた。
 「渡辺美智雄元副総理(元外相)が病床にあった95年夏、私に『北朝鮮へのコメ支援は正しい政策だったということでいいか』と聞いたので、『間違っていない』と答えたら、にっこり笑った」。
 渡辺氏(当時、自民党外交調査会長)は95年3月、自民、社会、新党さきがけ3党代表団の団長として朝鮮を訪問、中断していた国交正常化交渉再開への道筋を付けた。また、日本は同年6月30日、朝鮮へコメ合計30万トン(うち無償は15万トン)を送ることが閣議で決まった。国交のない朝鮮に対して、政府レベルの援助が実施されるのは初めてだった。
 「琵琶湖の底に密封した余剰米を備蓄したらどうかという計画があるぐらい、日本ではコメが大量に余っている。隣にコメ不足で困っている国の人たちがいたら助けるのが当たり前だろう」。

 野中氏は東アジアとの友好をライフワークにしている。日中友好協会の名誉顧問を務めている。「平山郁夫会長に頼まれてやめられないんだ」。

 野中氏は95年6月16日、東京都千代田区の衆議院第二議員会館で衆議院議員会館の野中事務所に松本サリン事件の第一通報者・河野義行氏を招いて、「国家公安委員長(自治相)たる衆議院議員の野中が政治家として、河野さんへの警察の不当な捜査について謝罪する」と表明した。河野さんを守った永田恒治弁護士も同席した。
 警察当局は当時、河野氏に対する謝罪を拒否していたので、野中氏が個人として謝った。河野氏は、野中氏との面談の内容を記者会見で発表した。
 朝日新聞によると、野中委員長は「捜査の内容については聞いておらず、立ち入る立場にもない」としながらも、「一政治家として、一人の人間として、河野さんが(警察捜査で)受けた苦しみは十分理解できる。心からおわびを申し上げたい」と語ったという。河野さんは、「事実上謝っていただいたと感じ取っている」と話した。
 河野氏は私に、「閣僚としての謝罪ではなかったが、警察を監視する国家公安委員長の野中さんが私に謝ってくれたのだから、実質的には公的な謝罪表明であり、私の潔白が当局から証明されたと考えている。大きなけじめになった」と述べた。

 野中氏から、自宅で取れたというタケノコなどが毎年送られてくるという。河野氏は京都駅近くにある野中事務所を訪れ、野中氏と懇談している。

 講演会から5カ月が経った。米朝関係が大きく動いている。安倍・自公政権の内政、外交政策の行き詰まりが様々な面で露呈している今、野中氏のメッセージをすべての市民が受け止めるべきであろう。

(了)









掲載日:2007年6月23日


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