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プーチン体制を貫く強国精神 [ル・モンド・ディプロマティーク]
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投稿者 white 日時 2007 年 3 月 11 日 16:39:31: QYBiAyr6jr5Ac
 

□プーチン体制を貫く強国精神 [ル・モンド・ディプロマティーク]

 http://www.diplo.jp/articles07/0702.html

プーチン体制を貫く強国精神

ジャン=マリー・ショーヴィエ特派員(Jean-Marie Chauvier)
ジャーナリスト、在ブリュッセル
(協力:アニック・ルヴョー)

訳・三浦礼恒、斎藤かぐみ


 2007年初め、ロシアは勝利を謳う。国内総生産はついに1990年の水準を回復した。1990年代の低迷の後、年平均6%の成長が過去6年にわたって続いた。石油収入が潤沢だったうえ、冶金、アルミニウム、兵器、食品加工などの分野も堅調であり、家計消費は大きく伸び、対外公的債務は完済した。さらに、この5年間で教育への支出は2倍に、公衆衛生への支出は3倍に増加した。ロシア企業のいくつかは多国籍の資本家としての事業展開を始め、世界を瞠目させている。

 しかし、この好況の足元は危うい。ソ連時代よりも貧困と不平等が拡大したロシアが、資本や頭脳の流出、インフラの老朽化、他の工業国に後れをとる技術力の格差拡大、平均余命と人口の減少といった弱点を克服するためには、多大な投資が必要とされる。とはいえ経済学者のジャック・サピールによれば、2006年は「戦略的再検討の年」だった(1)。もはやガスと石油の収入だけでは将来はおぼつかないという認識から、産業政策が推進されるようになった。国家による介入政策が必要だという発想だ。国際機関とロシア国内のリベラル派はこれに異論を唱える。とりわけ争点となっているのは、800億ドル近くにのぼる安定化基金の使途である。

 新たに米国防長官に就任したロバート・ゲイツの見るところ、「ウラジーミル・プーチンはロシアの大国としての地位の回復」と「国民としての誇りの復活を目指している(2)」。世論調査によると、こうしたプーチンの姿勢をロシア人の70から80%が支持している。裕福な中産階級と高所得の労働貴族の間では特に支持率が高い。社会政策研究所のリリヤ・オヴチャロワによれば、実質賃金は1989年の80%の水準に達し、消費は167%も増加した。ただし、これは言うまでもなく平均値であり、社会的な格差は考慮されていない。だが貧困は、後退したとはいえ慢性化しており、不平等が拡大している。市場論理の下で、ソ連時代に由来する社会保障が縮小しているだけになおさらだ。

 したがって、過去15年間にわたる体制転換期の成果に関しては、厳密な再検討と補正を加える必要がある(3)。「インフォーマル」な経済と社会という大きな「裏面」を割り引いて考えなければならない。

 プーチン大統領には、ベネズエラのチャベス大統領やボリビアのモラレス大統領のようなところはまったくない。プーチンは多くの国民の願いに反して、1990年代の「犯罪的な民営化」の見直しも、社会的市場経済という視野に立った重要分野の再国有化も行わなかった。政治的野心を持つ者を別として、「盗人」たる新興財閥層を訴追することもしなかった(4)。

 プーチンは超自由主義と国家管理主義の間で躊躇した後、新しい有産階級も欧米諸国も安堵させる妥協策を採用した。それは、国家と主権の再確立を図りつつ、新興財閥層に縛りをかけ、市場経済は尊重するという路線である。そうした路線の下で、ロシアの経済成長を促すために、どのようなシナリオが想定されているのだろうか。エネルギー・金融研究所のレオニード・グリゴリエフ所長は「経済が近代化されないまま、GDP(国内総生産)が倍増するなどというのは、嘆かわしい快挙でしかない」と述べる。「多くの国民、とりわけ若者と経済界は、新たな現実をはっきりと見据えるようになった。ロシアは中進国であり、原料生産国であり、社会的に著しく不平等な国なのだ。この15年は科学にとっては失われた年月となった。戦後に高い教育を受けた世代は定年を迎えようとしている。(・・・)5年前から投資水準が回復しているとはいえ、GDPの20%にも満たないし、資本の3分の1は1990年に集中的に投じられたものだ(5)」

 大きな政策転換が行われたのは2003年、第二次プーチン政権が発足した時のことだ。石油・ガスという重要部門が、プーチンの息のかかった国家企業家に任されるようになった。これらの企業の一部は、エリツィン政権による民営化の際に「友情価格」で払い下げを受けていた新興財閥層の手に渡った(6)。戦略資産の保護政策は、外資の参入を禁じているわけではないが、ガスプロムとトランスネフチという国策エネルギー会社による攻勢と同様に、ロシア政府の戦略の一環をなすものだ。つまり、大国ロシアの「抑え込み」という、1991年以降アメリカが進めてきた政策への反撃である。北大西洋条約機構(NATO)の拡大も、ロシアのパイプライン網に替わるエネルギー回廊の構築も、そうしたアメリカの政策の表れだった。クレムリンの戦略は、広くはヨーロッパ・アジア経済圏を再構築しようとする動きの中に位置づけられるものであり、ヨーロッパとロシアのパートナーシップを排除するものではない。

 この戦略は、カフカス南部では失敗したが、ウクライナ、カザフスタン、ベラルーシでは成果を上げた。ウクライナでは、国民の60%がNATOへの加盟に反対している。ベラルーシは「時代錯誤的」な体制の維持を断念し、ロシア資本へさらに広く門戸を開放することを余儀なくされた。これと並行して、ロシアは中国、インド、イスラム諸国との協力を強化している。プーチン大統領は、11月8日に参謀本部情報総局(GRU)の情報センターの開所式の際に見られたように、国際情勢について不穏な発言を続けている。アメリカが「一方的な行動」をとっていること、アメリカが新たな戦略兵器体系を構築しており、ロシアとしても「適切な対応」の必要性を考えざるを得ないこと、そしてロシアにおける「テロ活動」を外国勢力が支援していることを憂慮するといった発言だ。

犯罪事件で利益を得ているのは誰か

 2006年秋に発生した一連の暗殺事件について、多くのジャーナリストは異口同音に、クレムリンが反対派を消すために行ったものだという極めて単純な説明を与えた。もっと複雑な背景があることが明らかになると、これらの事件は瞬く間に欧米紙の一面トップから消え去った。ロシアのメディアは、もつれた手がかりの調査を続けた。そこで強調されているのは、いくつかの符合があるということだ。ジャーナリストのアンナ・ポリトコフスカヤの暗殺事件が起きたのは、プーチンの誕生日である10月7日だ。彼はこの時、欧ロ関係にとって重要なドイツ訪問の最中だった。同様に、かつてロシア連邦保安局(FSB)に在籍し、その後にボリス・ベレゾフスキーと手を組んだアレクサンドル・リトヴィネンコが、毒を盛られて死亡した11月23日は、ヘルシンキでロシア・ヨーロッパ首脳会議が開催された時期と一致している。
 他の事件は、政権の中枢を直撃するものだった。9月13日にはロシア中央銀行副総裁のアレクサンドル・コズロフ、10月半ばには対外貿易銀行支店長のアレクサンドル・プロヒンが暗殺された。この2人は、プーチンの戦略の要を担っていた。コズロフは組織犯罪対策を指揮し、プロヒンはヨーロッパの航空分野への参入を担当していた。11月24日には「ロシア改革の父」とされるエゴール・ガイダルがダブリンで体調不良を訴え、「連続事件」の被害者リストに連なることとなった。

 元副首相のアナトリー・チュバイスも、一連の事件はクレムリン、そして西側との関係に対する攻撃であるという説を採り、一部で言われているようにベレゾフスキーが関わっていると見る(7)。「犯罪事件で利益を得ているのは誰か」という問いに対して、いずれにせよ「プーチン」と答えることはできない。イタリア人の専門家であるジュリエット・キエーザによれば、一連の事件が「ロシアの信用を失わせ、被告席に座らせる企てであるのは明白だ。ロシアや欧州連合(EU)の一部のグループにとって、またブッシュ政権内の一部のメンバーにとっては有益な展開だ(8)」

 1993年に議会に対して戦車が使われた時点から、ロシアにおける「民主主義の後退」は明らかだった。しかし、それが厳しく非難されるようになったのは、ごく最近のことにすぎない。2度にわたるチェチェン戦争の間は黙視していた欧米諸国は、2003年に政府の手が民間の石油企業グループ、ユコスに及んだ段になって声を上げ始めた。メディアではほとんど報じられなかったが、当時ユコスはシブネフチとの合併を控えており、またシベリアの油田開発にアメリカ資本を大々的に導入しようとして、エクソンモービルおよびシェヴロンテキサコと交渉しているところだった。イラク戦争が始まる直前のことだ(9)。

 ユコスの一件は、エネルギー分野の「再国有化」に向けた第一歩であり、一部のロシア企業と外国企業の密接に絡み合った利権に打撃を与えた。これによりプーチンは、当時の顧問アンドレイ・イラリオノフが提案していた「チリ型」の超自由主義にはっきりと背を向けた。イラリオノフは2005年末、「ロシアは別の国になってしまった。もはや自由な国ではない」と言い捨てて辞任した(10)。

 2006年5月にリトアニアの首都ヴィリニュスで開催された「反ロシア首脳会議」において、アメリカのチェイニー副大統領はロシアの「権威主義的偏向(11)」を糾弾した。経済の自由度に関するロシアの順位は130カ国中102位に後退した。トランスペアレンシー・インターナショナルによれば、ロシアは世界で最も腐敗した国になっている。国境なき記者団は、報道の自由に関してロシアを168カ国中147位、つまりスーダンやジンバブエよりも下位に位置づけている。事実、放送メディアと大衆紙に続いて、リベラル色の強かった高級紙も再び国家の統制下に置かれるようになっている。これまで高級紙の一部の支配権を握っていたベレゾフスキーは、ごく最近、1990年代に市場イデオロギーの先兵となっていた有名なコメルサント・グループを手放した。同様の政策の下で、ロシアと外国NGOに対する統制も強化されている。

 このプーチン時代をガイダルは「ソフトな権威主義体制」と形容し、2つの段階を区分する。2000年から2002年にかけては、強力な企業家団体の影響力の下で、改革が続行され、議会とメディアは比較的独立性を保っていた。2003年から2004年は、「統制下」に置かれた「飾り物」の民主主義へと向かった時代である。連邦内の州知事や共和国大統領はもはや選挙で選ばれるのはなく、政府によって任命されるようになった。ガルリ・カスパロフはガイダル以上に大胆不敵で、プーチンが「微妙な違いはあるとはいえ、ソ連体制を復活させ」、「権威主義体制と限定的な改革というゴルバチョフの夢を実現させた」と評しており、「モスクワのムッソリーニ」だとまで言っている(12)。「人権のための運動」の指導者レフ・ポノマレフは、「ナチス流のクーデター」に進む可能性さえ排除できないとする。

国民の祝日の変更

 11月7日は、現在でも(公の祝日ではないが)1917年のロシア革命の記念日である。2006年のこの日、共産主義勢力は行進の実施を禁じられた。ゲンナジー・ジュガーノフ率いる共産党(CPRF)のデモ参加者は、許可の出た集会の場所に向かうために、警察の厳しい監視の下で歩道を歩くことに甘んじた。総勢1万人ほど、平均年齢は高めだったが、共産主義青年団、赤色青年前衛団、エドゥアルド・リモノフの民族ボリシェヴィキ党など、急進的な青年グループも加わっていた。ある調査(リベラル派が実施したもの)によれば、若い世代の間でボリシェヴィキ革命の「人気が上がっている」という。
 プーチンは11月7日の伝統に替えて、民族統一の日として11月4日を新たな祝日に制定した。11月4日にクレムリンで催された式典には、諸宗教の代表者、在外ロシア人の代表者、それに1917年に廃された皇帝の末裔であるドミトリー・ロマノフが参列した。「ソ連以前の時代の出来事を記念する祝典は、今回が初めてとなる」と、祝日制定を主導した大統領は述べた。1612年11月4日という日は、クレムリンがポーランドによる占領から解放され、1598年から続いた「動乱期」に終止符が打たれ、ロマノフ朝の初代皇帝ミハイル1世の即位(1613年2月21日)の序幕となった日であった。この日が象徴として選ばれたのは奇妙なことだ。ロシアは再び、占領者と動乱から「解放」されなければならないのだろうか。ロシアには皇帝が必要なのだろうか。

 ファシスト勢力は「解放」に関してまったく別の考えを持っている。2005年11月4日、彼らは「ロシア人のロシアを」と声高に叫び、ヒトラー式の敬礼をしつつ、ドイツ語で「ジーク・ハイル!」と唱和した。モスクワ市長ユーリー・ルシコフは「恥ずべきことだ、こんなことを二度と許してはならない」と語り、翌年の11月4日には、この「ロシア人の行進」を禁止した。当日は8000人の警察官が動員され、電車や地下鉄の駅の周囲で、何人かのネオナチを容赦なく押し返した。スキンヘッドの面々は歯がみするほかなかった。

 この行進に集まったのは、アレクサンドル・ベロフ率いる不法移民反対運動、アレクサンドル・セヴァスチャノフ率いるロシア民族力党、略号「SS」を誇らしげに掲げるスラヴ連合、そして今回は鍵十字の使用を見合わせたロシア民族統一などだ。ロシア正教系の運動団体(教会からは認められていない)やコサックの団体、さらに、ドミトリー・ロゴジン率いる社会民族主義政党ロージナ(母国)も加勢していた。ロージナは2003年に選挙対策のために結成された寄り合い政党で、排外主義に傾いたことを非難する左派が後に離脱している。この行進にあたり、ヨーロッパの新右翼ともつながりのある有力な作家で、週刊誌ザーフトラの編集長を務めるアレクサンドル・プロハーノフは、アゼルバイジャン人「マフィア」を追放せよと呼びかけた(13)。行進の参加者はどれぐらいだったかと言えば、せいぜい3000人というところだった。

 ロシアの総人口1億4300万人のうち、「ファシスト」や「スキンヘッド」に共鳴する者は5万人程度と考えられている。彼らに関する最大の懸念は、しばしば人殺しさえ伴う暴力的な行動を起こしていること、移民を排除せよという煽動に乗る者も出ていることだ。ただし、あるクレムリンの関係者によれば、11月4日のデモ参加者の「半数」は、実は「治安要員」だったという。帝政時代の官憲と同様に、一部の警察幹部は「大衆運動」を利用あるいは惹起することで「テロリスト革命家」を抑え込もうと考えていた。

 国民の祝日が11月7日から4日に移されるとともに、愛国主義の中身も入れ替わった。新世代の青年たちが大きな奔流となり、ソ連への郷愁を公言する共産党とその関連団体である民族愛国連合は傍流と化した。荒廃した地方に生まれ育ち、ショック療法式の資本主義を学校で教えられた青年たちは、生き延びるために一計を案じつつ、古来よくあるようにスケープゴートを求めている。

 こうしたムードをはっきりと示す衝撃的な事件が、2006年9月1日に発生した。ロシア北西部カレリア共和国のコンドポガで、カフカス出身者を標的とする暴動が起きたのだ。これは人種差別的な虐殺と形容できるものなのだろうか。政治学者マクシム・グリゴリエフの調査によれば、この事件は「異民族間」の衝突というよりも、むしろ社会的な衝突である。住民の関心事は、貧困の悪化(24%)、犯罪(19%)、失業(16%)、テロリズム(13%)、教育・医療・住宅問題(13%)、役人の汚職(9%)と続き、民族間抗争は最下位(2%)でしかなかった。

「主権民主主義」の旗印

 しかしながら、メディアでは他の問題よりも民族間抗争が大きく取り上げられる。「他の問題を『民族問題』に見立てるのは容易だからだ」とイズヴェスチヤ紙は率直に書く(14)。政府当局もまた、商売に「地元の住民が入る余地を作り出す」ことを望んでおり、近代化と公衆衛生を口実として、カフカス出身者に占拠された卸売・小売市場の新たな分割を断行している。そのうえ、市場で働くロシア人以外の「民族グループ」が犯罪に結びついていると治安関係者は主張する。ロシア人の排外主義は、最近も数百人のグルジア人を国外追放することでさらに高まっており、新たな暴走を避けることは難しい。大統領の公式発言によれば、ロシアは依然として多民族、多宗教の連邦である。だが、ロシアの領土の一体性と地政学上の国益を守るという名目の下に、荒っぽい「対テロ作戦」がなしくずしに展開されていく。その嚆矢がチェチェンだった。
 タタルスタン共和国のシャイミエフ大統領は、イスラム教徒が5人に1人を占めるロシアにおいて「民族主義が過激化する危険が存在する」と明言する。「こうした多民族国家にとって、それは極めて危険なことだ。差別的愛国主義の兆しには即座に対処しなければならない」。プリマコフ元首相も同様のことを述べる。ロシアのイスラム教徒は「多くの西欧諸国に見られるような移民ではなく、土着の住民である。生来の国民の大半がキリスト教徒とイスラム教徒からなり、(・・・)ロシアのように共存を続け、文化的に影響し合い、一つの独特な共同体を形成してきた国家は他には存在しない。それはまた、ヨーロッパとアジアの架け橋たるロシアにしか見られない状況とも言える(15)」。新たに育ちつつあるロシア人意識は、多民族からなるロシア市民という意味の「ロシースカヤ」なのか、それとも他の民族は含まないロシア民族という意味の「ルースカヤ」なのか。この問いへの答えは出ていない。移民の流入が増大するという予測の下で、ロシアは前代未聞の問題を抱え込むことになる。

 2006年11月30日、エカテリンブルクで統一ロシア(ER)の大会が開かれた。この中道右派政党は絶対過半数の獲得を狙っている。党首ボリス・グルイズロフの言によれば、同党は「指導的政党」として、今後20年にわたり国政のトップに立つことになる。党の路線は「リベラル保守に集約されるイデオロギー」と「主権民主主義」であるという(16)。しかし実際には「大統領与党を構成するための」雑多な連合体だと言える。

 プーチン大統領は2005年4月、連邦議会で行った演説の中で、ソ連崩壊後の体制転換期に関して、欧米の顰蹙を買うことになった分析を披瀝した。「ソ連の崩壊が20世紀最大の地政学上の惨事であったことを認識すべきである。数千万人にのぼる我々の市民同胞が、ロシアの領土外に置かれてしまったのだ。ロシアは分解という伝染病に見舞われた。市民の貯蓄は目減りし、古い理想は打ち砕かれ、多くの機関が性急な分散あるいは改革の対象とされた。テロリストの介入とハサヴュルト(チェチェン独立派勢力の勝利を認めた1996年の停戦合意)に続く降伏により、国の一体性は侵された。報道の分野で限りない権力を手に入れた新興財閥層は、内輪の利益に尽くすばかりだった。大衆の悲惨は『普通のこと』として容認された。これらすべての背景で、経済の低迷、金融不安、社会生活の麻痺が進行していた(17)」

 この分析から感じ取れるのはデルジャヴノスチ、つまり「強国精神」である。その論客たるウラジスラフ・スルコフは、ロシアを「民族誌的自然保護区」にしようとする者たちを嘲笑して、「主権民主主義」の下でこそ「各自が、そして世界の中でロシアが、正義を得る」ようになるのだと主張する。彼はロシアが「ソ連・北朝鮮型の閉鎖社会」になることも、「多国籍企業のための原料貯蔵地」になることもよしとせず、「オフショア貴族層」が「経済の脂肪吸引」を企てたとして激しく非難する。6万社にのぼる国外のロシア系企業へと密かに移転された逃避資本は、8000億から1兆ドルに達している。スルコフによれば、ロシアのエリート層はアメリカのエリート層と違って国民たる自覚に欠けており、「外国で暮らし、そこで子供を教育し、ロシア国内の封土をプランテーションよろしく経営している(18)」

 2006年12月16日、右派勢力連合(SPS)の総会が開催された。新指導者のレオニード・グスマンとニキータ・ベールイの見方は楽観的だ。「ロシアは資本主義の完成に向かいつつある。1990年代の改革の推進は、全市民の利益に適うものだった(19)」。とはいえ、2003年の選挙以後、リベラル政党のSPSとヤブロコの下院議席はゼロになった。逆に穏健リベラル派は、経済相ゲルマン・グレフや財務相アレクセイ・クドリンのように、政府の要職にとどまっている。

右派リベラルの視点

 SPSの母体となった「自由ロシア」は、11月中旬に会合を開いている。とある銀行が会場となり、名だたる民主派の知識人や人権運動の代表者が勢揃いした。ヘルシンキ・グループを率いるリュドミラ・アレクセーエワ、グラスノスチ財団のアレクセイ・シモノフ、「エリツィン派」色の強い「民主ロシア」の指導者だった歴史学者ユーリー・アフナシエフ、ペレストロイカの立役者だった社会学者タチヤーナ・ザフラスカヤ、同じく社会学者のレフ・グドコフとマルク・ウルノフ、政治学者のイーゴリ・クリヤムキンとタチヤーナ・クトコヴェツ、アメリカの財団と組んで「汚職対策」の急先鋒に立つINDEM財団を率いる物理学者ゲオルギー・サタロフ、経済学者のエフゲニー・ラシンとアンドレイ・イラリオノフ、といった顔ぶれだ。この会合の書籍売場には、内部関係者の著書とともに、ミルトン・フリードマンとフリードリヒ・ハイエク(20)の本が並べられていた。
 「5%のエリートが、他の人々を左右する立場を握っている」とサタロフは言う。不幸なことに、その5%の中にリベラル派はもはや含まれていない。サタロフによれば、現在進行しているのは、ロシア人に付き物とすら言える権威主義志向の復活である。攻撃性を強め、外敵を探す姿勢は「いかんともしがたい状況に対して権威主義志向が示す神経症的な反応」であり、ロシアに「強力な反リベラルの波」を起こそうとする指導層によって煽られている。プーチンのこの手法には危ういところがある。彼が当てにする「ソ連式国際主義の慣性力」が、予想を超えた事態を招かないとも限らない。以上のリベラル派の政府批判は、対外政策の「迷走」にも向けられる。イラク民主化戦争への消極姿勢、イランやシリアとの「馴れ合い」、モスクワへのハマスの招待というイスラエルに対する「裏切り行為」、そして「社会主義者」チャベスなど「反米派」との共謀などだ。

 民主派勢力の中でもさらに急進的な者は、既に行動を始めている。カスパロフ周辺の「オレンジ派」がそうだ。彼が創設した統一市民戦線を中核として、奇妙な一団が形成された。そこに集まっているのは、グリゴリー・ヤヴリンスキーに率いられたヤブロコの若手リベラル派や、民族ボリシェヴィキ勢力、スターリンを信奉するヴィクトル・アンピロフの「働くロシア」、あるいは汎ロシア市民会議を構成する人道NGOなどであり、リベラル右派と様々な左派が、プーチン体制に立ち向かう「神聖連合」への結集を目指している。2006年12月16日、デモに繰り出したのは総勢2000人というところだった。

 この右派リベラルと「急進左翼」の人々は、2006年7月のG8サミットに先立って、米国国民民主基金(NED)からの潤沢な資金援助の下に、「もう一つのロシア」というフォーラムを開催した。彼らの主張には、自国をこの大国クラブから除名することさえ含まれていた。カスパロフは言う。「政治的に見てロシアはG8のメンバーたり得ない。他の諸国と違って民主国家ではないからだ。経済面でもロシアは基準を満たしていない。他の諸国が作り上げてきたような自由で透明な制度にはほど遠いからだ。ここロシアでは、国家の役割がいたるところで拡大を続けている(21)」。彼らのフォーラムはライス米国務長官や、「反体制派」の支援に熱心なブレントン駐ロ英大使が来場するという栄誉に浴した。

 イラリオノフに言わせれば、「西側に(冷たい)戦争を布告したのはプーチンの方」である。このクレムリンの主は、ヴィリニュスでチェイニー米副大統領が表明した「友好と戦略的パートナーシップの提案」を受け入れて、アメリカの財団が旧ソ連諸国で有益な役割を果たしていることを認めるべきだった。「自由ロシア」の見るところ、政権上層部は「西側の国家制度の本質が民主主義にあるのに対し、ロシアの制度が権威主義的であることを理解できずにいる。(・・・)西側諸国は民主主義を推進する目的が自国の利益のためであることを何も隠し立てしたことはない。西側諸国にとっては表裏一体のことなのだ。民主主義は、発展のための最良の方策であるだけでなく、諸国家の民主的同盟にとって平和の保障、安全保障の手段となるものである(22)」

 2007年3月には地方選挙、12月2日には下院選挙、2008年3月2日には大統領選挙が行われる。プーチンを支持する勢力が勝利することだろう。そして、ロシア国内や欧米の反対勢力は、選挙結果に対して抗議の声を上げるだろう。ベレゾフスキーは既に明言している。「現在の政権が公正な選挙を許すはずがない。したがって、活路は一つしかない。力による権力の奪取である(23)」。この有名な「民主革命」運動家は、居住地のロンドンで政治亡命者の認定を受けている。

 未知の要素が一つある。ロシア人の3分の2が、憲法で認められていないプーチンの三選を望んでいるのだ。彼の退任は、後継候補がほとんど知られていない(24)だけになおさら想像しがたい。この「安定化の父」が次に就任するだろう役職については、「統一ロシア」の党首であるとか、ガスプロムの社長であるとか、憶測が乱れ飛んでいる。プーチン後体制は、人口危機や、世界貿易機関(WTO)への加盟、石油枯渇後に向けた対応策といったロシアの課題を前に、どのような政策を進めるのか。大統領与党連合にはまだ、羅針盤もなければ、真の社会構想と呼べるものもない。現大統領が舵を取らなければ、彼らの前途はかなり危うい。

 平穏に指導者が交代することになるとはまったく言い切れない状況だ。新しい「甘美なる死骸」の出現、欧米との緊張の激化、「大中東の民主化」に向けたアメリカの大立ち回り、カフカス南部での紛争勃発、ポスト・ブッシュ時代のワシントンの動静といった要因に応じて、情勢ががらりと変わる可能性もある。ロシア政権がどのようなものとなり、世界の中でどのような地位を占めることになるかは、近いうちに明らかになる。第二の「新生ロシア」は既に胎動を始めている。

(1) Jacques Sapir << La situation economique de la Russie en 2006 >>, in << Tableau de bord des pays d'Europe centrale et orientale >>, Etudes du CERI, No.132, Paris, December 2006.
(2) イズヴェスチヤ紙(モスクワ)2006年12月15日付。
(3) See Jean-Pierre Page and Julien Vercueil, De la Chute du Mur a la nouvelle Europe, L'Harmattan, coll. << Pays de l'Est >>, Paris, 2004.
(4) 「逃亡中」のウラジーミル・グシンスキー、ボリス・ベレゾフスキー、レオニード・ネヴズリンや、収監されたミハイル・ホドルコフスキーのような新興財閥は、違法もしくは悪質な形で「利益」を得たとして訴追されているが、特にプーチンの気に障ったのは、政治とメディアに関わる彼らの野心である。
(5) イズヴェスチヤ紙2006年3月15日付。
(6) 厳密には政府による「再国有化」が行われたわけではない。政府は公営企業、官民混合企業および民間企業(外資も含まれる)を通じて経営権を握る。第一の対象は戦略的部門である(政府の管理下にある石油部門は、2003年には10%だったのが、現在では30%以上になっている。ガスプロムの政府の持ち分は48%から51%に引き上げられた。トランスネフチが運営するガスパイプラインは全面的に政府の管理下に置かれている)。第二の対象は、ロシアに強みがあると考えている分野である(原子力、航空、兵器、そして目下のところは銀行)。その一方で、電気通信、自動車製造、食品加工その他、いずれにせよ世界貿易機関(WTO)体制の下での競争に耐えられそうにない分野に関しては、外資を広く受け入れることを容認している。
(7) Cf. Jacques Sapir in Le Figaro, 5 December 2006. ロシア公共テレビ(ORT)の経営者、ロシア安全保障会議の副書記、独立国家共同体(CIS)の事務局長を歴任したベレゾフスキーは、1999年夏までクレムリンの黒幕であり、プーチン大統領誕生の立役者の1人となったが、その後プーチンによって政権から遠ざけられた。
(8) ヴラスト誌(モスクワ)第48号、2006年12月。
(9) Cf. Gerard Chaliand and Annie Jafalian (eds.), La Dependance petroliere. Mythes et realites d'un enjeu strategique, coll. << Le tour du sujet >>, Universalis, Paris, 2005.
(10) http://www.orangerevolution.us/blog/
(11) The Wall Street Journal, New York, 27 December 2005.
(12) Politique internationale, No.110, Paris, winter 2006 ; The Wall Street Journal, New York, 21 December 2004.
(13) ザーフトラ誌(モスクワ)第44号、2006年11月。
(14) イズヴェスチヤ紙(モスクワ)2006年12月22日付。
(15) Yevgeny Primakov, Blijnii Vostok na stsene i za kulisami, Rossiiskaya Gazeta, Moscow, 2006.
(16) アンドラニク・ミグラニャン、イズヴェスチヤ紙2006年12月13日付。
(17) ロシア語 http://www.kremlin.ru、英語 http://www.kremlin.ru/eng/
(18) 『論拠と事実』紙(モスクワ)第33号、2006年、および『モスクワ・ニュース』紙(モスクワ)第21号、2006年。
(19) 『モスクワ・ニュース』紙2006年12月8日付。
(20) ミルトン・フリードマン(1912-2006年)はアメリカの経済学者。シカゴ学派の中心人物で、自由主義を強く擁護した。2006年11月16日に死去。フリードリヒ・ハイエク(1899-1992年)はオーストリア学派の哲学者・経済学者。社会主義と国家主義に反対し、自由主義を奨励した。
(21) ル・ソワール紙(ブリュッセル)2006年7月14日付。
(22) << Kremlevskaya shkola politologii >>, Liberalnaya Missiya, Moscow, 2006.
(23) 『論拠と事実』紙、第49号、2006年12月。
(24) 第一副首相でガスプロム会長のドミトリー・メドヴェージェフ、国防相のセルゲイ・イワノフ[2006年2月15日に第一副首相に昇格]などの名が挙がっている。


(ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電子版2007年2月号)

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