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日本一国でアジア全体を守る、という「アジアのモンロー宣言」は失敗に終わったが往時の日本人のこの気迫は貴重である。西尾幹二
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投稿者 TORA 日時 2007 年 5 月 05 日 13:41:04: CP1Vgnax47n1s
 

株式日記と経済展望
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日本一国でアジア全体を守る、という「アジアのモンロー宣言」は
失敗に終わったが、往時の日本人のこの気迫は貴重である。

2007年5月5日 土曜日

◆「国民の歴史」 西尾幹二(著)
http://www.sankei-books.co.jp/books/title/S99X3001.html

◆若い国アメリカの気概

思い切って歴史を二百年ほどさかのぼって、列強の動きをひとわたり広い角度から、大雑把に眺めておくことにしよう。

十九世紀の初めのヨーロッパにナポレオン戦争があった。ナポレオンが失脚した一八一五年に、いわゆるウィーン体制が始まる。ナポレオン時代は戦争に戦争があいつぐ動乱期だったが、フランス革命の精神的余波がヨーロッパ中に広がった革命精神の高揚期でもあった。ウィーン体制はこの反動で、安静、安定、秩序というものをなによりも望む保守的時代に入る。その中心にいたのがオーストリアの宰相メッテルニヒである。ヨーロツパではしばらく平和が保たれる。

しかるに、ナポレオン戦争中にすでにスペインの植民地であった中南米諸国が、スペイン本国が占領された機に乗じて、次々と反抗の狼火をあげた。一八一六年のアルゼンチンの独立をはじめ、各国が続々と独立した。一八一八年にチリが、一八一九年にコロンビアが、一八二一年にメキシコが独立し、一八二二年にはブラジルもポルトガルの支配を脱して独立国になった。

メッテルニヒはこれらの動きを革命運動とみなし、武力をもって干渉しようとしたが、まずイギリスの反対にあった。イギリスはようやく中南米市場を自由貿易に開放したばかりであった。スペイン・ポルトガルの重商的植民地帝国を叩きつぶしたばかりなのだ。ヨーロッパのどの国でも中南米の一角に干渉しようとしたら、無敵のイギリス海軍がただちに出動するかまえだった。大西洋世界における平和を守ったのは事実上イギリスの海軍力だった。

ところが、面白いことに、イギリスから独立して少しずつ力を貯えつつあったアメリカ合衆国が、一八二三年に南北両大陸へのヨーロッパの干渉を拒絶する宣言をして、独自の力を誇示した。いわゆるモンロー宣言である。アメリカにはまだまだそんな大見得を切るだけの実力も裏づけもなく、モンロー宣言はどうみてもたんなる空威張りにすぎなかった。しかし、アメリカにはすでに南北両大陸を広く見渡す目と、いずれはこれをわが勢力下におこうとする気概があった。

一八一〇年代、ロシアはべーリング海峡からアラスカに支配権を拡大し、北アメリカ大陸を太平洋に沿って南下する政策を進めていた。これに対しアメリカはイギリス領カナダとは国境確定をすでにしたが、太平洋側のオレゴンと呼ばれた一帯はイギリスと領土紛争をつづけていて、モンロー宣言はさしあたり、イギリス、フランス、そしてロシアの動きに敏感に反応し、ヨーロッパ全体の介入を牽制した宣言であった。

その際、中南米諸国の独立を擁護し、オーストリアの宰相メッテルニヒの野望を砕いたのは、自分の実力以上の差し出がましい行動だったともいえる。なぜなら、中南米の平和を守っていたのはイギリスであり、当時アメリカはインディアンの土地をメキシコと奪い合ったり、荒らくれ者の集団を中米に暴れこませたりする程度で、南アメリカ大陸に対し十分に責任の持てる体制ではなかったからだ。

それなのにアメリカは言うべきことを言った。いちはやく、先手を打つようにして言った。アメリカにはまださしたる海軍力さえない。しかし、その陸軍力はいっでもイギリスの植民地カナダを侵略する力を備えていた。それにカナダを脅かしているのは、アメリカだけではない、南下するロシアもあった。

アメリカはイギリスに対し、たくさんの貸しがあるのである。中南米諸国の独立擁護を宣言した背景には、イギリスの海軍力をも外交的政治的に利用しうるとの敢然たる意志があってのことと思われる。なぜアメリカにはこれほどの気概があったのだろうか。

同じ英語を話す移民国家カナダとオーストラリアには当時も、そして今もこの気迫がない。カナダ移民の始まりは漁業資源の商業目的であったし、オーストラリアはなんと十八世紀の末までイギリスの囚人の捨て場であった。どちらもイギリス本国に経済的に束縛されつづけていた。

しかし、アメリカはイギリスと戦争をして独立を勝ちえた国家である。植民地と戦争して敗北したイギリスはひどく落ち込んで、自信を失う時期さえあった。過去二世紀の国民国家の形成期に、きちんと自分を主張し、戦争をも辞さなかった国とそうでない国との差ははっきりと出ており、今日まで影響を残している。

国家の起源はこの上なく大切である。囚人の捨て場であったオーストラリアは今も元気がなく、資源大国であるのにそこに住む人は亡命者の群れのようにひっそり、浮かぬ顔で生きていると聞く。過日ある人から、オーストラリアの住民はテーブルスピーチの前に、「自分は一八○○年以後の移民の子孫だ」というようなことをいちいちことわるという話を聞いて、なるほどと思った。囚人の捨て場が国家の起源だったということを国民規模で気にしているのである。

話は元へ戻るが、日本人は、太平洋の向こう側のアメリカ人の生き方とその歴史を、長いあいだじっと観察し、考えてきた国民である。アメリカの政治行動はヨーロッパのそれ以上に日本に与えてきた影響が大きい。日本にとって中国と韓国は二千年の文化と歴史で結ばれた隣人である。アメリカにとっての中南米諸国よりはるかに関係が深い。アメリカ合衆国と中南米諸国との間には歴史的文化的になんのつながりもない。そのアメリカが中南米に関してモンロー宣言を発するのなら、日本がアジアに関して同じ宣言を発してなぜ悪いのだろう。

実際、昭和九年(一九三四年)に、外務省情報部長の天羽英二は、日本だけが極東平和の責任を負うという宣言、やがて「大東亜共栄圏」の理念に発展する、を行い、これは「アジアのモンロー宣言」と呼ばれ、国際社会を騒然とさせた。残念ながら、当時すでに日本は五大国の一つであったとはいえ、中南米を実際に防衛していたイギリス海軍のように、ほかにアジアを実際に防衛してくれているスーパーパワーは存在しなかった。日本一国でアジア全体を守る、というのである。

「アジアのモンロー宣言」は失敗に終わった。それでも、往時の日本人のこの気迫は貴重である。アメリカだってまったく実力もない時代に、イギリスとロシアなどとの対立をうまく利用して堂々とした言動を示していたのである。

◆英露対立を利用したアメリカと日本

さしあたり明治の日本に話題を戻そう。十九世紀の日本はまだそんな偉そうなことが言える立場ではなく、なんとかして列強と同等の地位になり、仲問に入れてもらうのが先決だった。そのとき、とても興味深いアメリカとの共通点がある。

アメリカを助けたのは具体的にはイギリスとロシアの伝統的対立だった。そしてまったく同じことが日本についても言えるのが面白い。アメリカや日本が、国際的に少しずつ自由に動き出せるようになるのは、もちろん日本はアメリカより半世紀以上遅れていたが、英露対立が基本にあったからである。日本もアメリカもこの対立を利用した。

ユーラシア大陸を南北に二分割する英露対立は、かつてのスペインとポルトガルの東西分割のように、十九世紀から二十世紀へかけての世界史の一大ドラマだった。陸地を回って中央アジアからシベリアの端まで広がったロシアと、海を回って西太平洋にまで艦隊を派遣したイギリスとが、どこで出会い、どこでぶつかるかというと、ひとつは日本列島なのである。もうひとつは北アメリカ大陸である。

イギリスは自分の勢力圏とみなす地域にロシアが人ってくるのを防ぐために、同盟相手をいろいろに変え、ありとあらゆる策を弄するのを常としていた。アメリカがイギリスやフランスに先がけて、ペリー来航というかたちで日本に接近することが出来たのは、ちょうどその頃イギリスとフランスはトルコを援助してロシアに宣戦していたからである。クリミア戦争(1853−1856年)である。

イギリスとフランスはなんとかしてロシアの地中海進出を防ごうと必死だった。対日接近に両国が一歩遅れ、アメリカに乗じられたのはそのせいである。しかしやがて幕末の日本にともに影響を与え、イギリスは薩長連合を援助し、フランスは落日の幕府を支えつづけることになる。

その後アメリカは日米修好通商条約(一八五八年)を最後に、対日接近を少し手びかえるかたちになるのは、ヨーロッパの二強国に遠慮したからではなく、アメリカが最大の内乱である南北戦争(一八六一〜一八六五年)に突入し、外交上の余裕を失ったためである。これは日本に幸運だった。

一方、クリミア戦争に敗れたロシアは、海への出口を失って、太平洋の不凍港を求めて、東北アジアヘの進出を企て始めた。まず、ロシアは朝鮮に隣接する沿海州のウラジオストックに座を占めた。日本の北辺はにわかに風雲急を告げた。

ロシアはいち早く日本列島とひとつづきである千島列島と樺太に人を入れた。日本は一歩遅かったのである。なにしろ幕末から明治への動乱期で、外を考える余裕がない。一八六九年、ロシアは樺太の領有を認めるよう日本に求め、日本はこれを拒否。明治の新政府ができてから、両国間にようやく取引が成立し、日本はもはや樺太は間にあわないと悟ってこれをあきらめ、かわりに千島列島全部の領有権を得た(千島・樺太交換条約、一八七五年)。

ロシアも一八六一年に農奴解放令を発するなど、国内に困難をかかえていた時代である。イギリスは一八五七年、インドでセポイの大叛乱(セポイは東インド会社のインド人傭兵)を処理し、アヘン戦争を終結したあとの中国でアロー戦争(一八五六〜一八六〇年)を起こして、再び清を屈服させ、九竜半島の一部を割譲せしめた。

しかしイギリスは、ロシアが日本の北辺に迫ったことがいかにも面白くない。どこの国であってもとにたかくよその国が極東で支配的地位を占めることには耐えがたい。それが七つの海を支配した当時最大の帝国イギリスの受けとめ方である。

しかしながら、当時の日本はいまだ無力なる半植民地国家であった。だからいかなるゲームにも参加できない。そうかといってイギリスはロシアと争って日本を分割するには、日本は地下資源などの魅力に乏しく、戦えば手ごわい抵抗相手にもみえた。それくらいなら日本を助け、育てて、ロシアに対抗する防波堤とするほうがよい。

日本は自分の自由意志で国際情勢を乗り切っていく国家になりたがっていた。そのためになんとしても不平等条約を撤廃してもらわなくてはならない。列強と対等な関係を一日も早く築くことを強く希望していた。そのことにむしろ利益を見出したのはイギリスである。日本は急速に近代的な国家体制を整え始めていた。イギリスはそれをみて、ロシアとの極東における取引ゲームに日本が参画することをむしろ期待し、その方向に誘導した。

ここからは少し話が先へ行きすぎるが、日本は残念ながら厳密な意味での独立国ではなかったといえるだろう。イギリスの対ロシア政策の傀儡であった一面が小さくない。しかしあえてその役割を引き受け、果たさなければ、当時の世界情勢のなかでは相手にされず、踏み潰されてしまうのが落ちだった。明治日本を最初から"悪しき強国"として描くのはどうみても間違いである。(P511〜P516)


(私のコメント)
極東における情勢は日清戦争以前の頃とよく似ていますが、地政学的にロシアや中国は日本という国によって太平洋への出口を塞がれている状況にある。実際の歴史においても日清・日露戦争により中国とロシアは太平洋への進出は出来なくなった。もし日本がロシアや中国の支配下に入ればアメリカの太平洋の制海権は危ういものになってしまう。

それなのになぜ日本とアメリカとが戦争をすることになったのかは後日触れたいと思いますが、当時はイギリスが七つの海の制海権を持っていた。それに対してロシアの南下政策で満州から朝鮮半島にかけてのロシアの影響が大きくなり、日本はイギリスにそそのかされるようにロシアや中国と戦争をする状況になってしまった。

戦略的にいえば日本は海軍力でロシアや中国に対して優位に立てばいいのであり、大陸に進出する必要はなかった。軍事的には沿岸地域を制圧できればいいのでしょうが、そうすると日中戦争のように奥へ奥へと引きずりこまれてしまう。今から考えれば朝鮮半島へ進出した事が間違いの元だった。

むしろ大陸に進出するよりも、太平洋やインド洋への制海権を確保すべきだったし、アメリカによる日本への海上封鎖が日本への一番の脅威であり、大東亜戦争はアメリカに対する防衛策の不備が敗戦の原因となった。日本はソ連の共産主義にばかり警戒の目が向けられてアメリカへの備えを怠ってしまった。

明治維新の頃はイギリスはクリミア戦争で戦っていたように、現在のアメリカもイラクやアフガニスタンで戦っている。こうなるとロシアや中国は極東へ勢力を伸ばしてくるのは歴史的必然だろう。北朝鮮の核武装も背後から中国やロシアが操っているからであり、それに対してアメリカは動きが取れない。

アメリカは明治維新の頃のイギリスのように日本を強化して中露に対抗させるという戦略をとるだろう。それに対して日本はそれだけの体制を築く事ができるだろうか? 憲法改正や集団安全保障体制などの体制整備の対する国民の合意がぜんぜん出来ていない。

西尾幹二氏が言うように「当時の日本は無力なる半植民地国家」であり、現在もアメリカの半植民地状態であるのだ。アメリカという国家が強力であり続けてくれれば半植民地でもいいのでしょうが、アメリカはイラクの戦況を見れば分かるようにアメリカの国力の衰退は歴然としている。

一番注意しなければならないことは、日本が半植民地に安住してしまうと、朝鮮半島のように中国、ロシア、アメリカに分割支配されかねないということだ。西日本は中国に、中部日本はアメリカに、北日本はロシアに分割されてしまうかもしれない。だからこそ「株式日記」では自主防衛体制を主張しているのですが、日本国民は真の近代の歴史をほとんど知らない。

「国民の歴史」という本を読めば歴史の真相がある程度読めてくるだろう。戦後の歴史書は多くが東京裁判史観で書かれており、日本は戦争犯罪国家であり非武装国家にされて、世界情勢が分からない愚民化政策がとられてしまった。だから、自主防衛だの核武装だのと言うとびっくりして思考が停止してしまう。

国会では核武装について考えることも禁止されている。まさに日本はアメリカの半植民地なのです。例えば日本とオーストラリアとで核兵器を共同開発したらどうだろうか? オーストラリアにはウラン鉱石があるし、広大な核実験場も出来るだろう。アメリカは反対するかもしれないが、英国はどうだろうか?

このままでは日本は中国かロシアの支配下に入ってしまって太平洋の覇権は中国やロシアのものとなってしまう。そうなる事をアメリカやイギリスは望むだろうか? 歴史が分かる人ならば答えはすでに出ている。分からない人は「国民の歴史」を読んでもらえれば分かると思う。


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