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ニヒリズムと孤独と「もう一つの道」。(山形浩生)
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投稿者 そのまんま西 日時 2008 年 2 月 20 日 00:23:54: sypgvaaYz82Hc
 

ニヒリズムと孤独と「もう一つの道」。(山形浩生)
連載第?回  (『CUT』1994 年 4 月)

 もう一年近くも前のことだ。近所のコインランドリーへ洗濯に出かけたら、少年ジャンプに混じって山岸凉子の『日出処の天子』全 11 巻が積んであった。そういえば、連載最初の十回くらいは欠かさずに読んでいたのに、大学に入ってから(生協がまんがを置いていなかったこともあって)読まなくなってしまったっけ。最後に読んだのは、確か蘇我・物部戦争の最後で物部守屋が殺されるところだった。あれはいったいどうなったのだろう。

 洗濯機をまわしながら、むさぼるように読んだ。乾燥機をまわしながら、一ページづつなめるように読んだ。それでも飽き足らず、全巻乾いた洗濯ものといっしょにアパートにかっぱらって帰った。アメリカ行きの荷物の中に放りこみ、さらにモロッコにまで抱えていって繰り返し読んだ。真夏のサハラ砂漠から、砂とともに熱風がヘアドライヤーのように吹き付けてくるザゴラの町では、人は日中はほとんど外に出ない。夕方涼しくなるのを待ちつつ、ぼくも現地の人々を見習ってぼろ宿にこもり、『日出処の天子』十巻目を繰り返し読んでいた。

 いったい山岸凉子はどこからこんな荒唐無稽な話を思いついたのだろう。
日出処の天子こと聖徳太子といえば、法隆寺を建てたとか、仏教振興に力を入れたとか、十人の話をいっぺんにきけたとか、日本史上で一番聖人のイメージに近い人物だろう。それがマザコンの超能力者で、蘇我毛人(蝦夷)に同性愛感情を抱いていて、仏教も現世御利益的なレベルとは全く無縁の不可知論じみた認識を持っていて、外面にあらわれる崇仏的な動きは、すべて信仰とは無縁な、ただの政治的ポーズにすぎなかった?

 またもう一人の主人公である蘇我毛人は、息子の入鹿とともに傍若無人の限りを尽くした日本史上の大悪人の一人で、大化の改新で見事に始末されたことになっているけれど(まあ、歴史は記録者のバイアスを反映するから)、ここに登場するのはまったくちがった人物像だ。

 だが、これは歴史まんがではない。舞台を六世紀の日本に置きつつも、登場する人々の行動や思考は非常に現代的であり、そして物語も現代日本にまっすぐ焦点をあてた、きわめて現代的なものだ。それも宮台真司(この人は「自由なんてものは存在しない!」というのを論証した(!!)『権力の予期理論』という非常に面白い本を書いている)の主張するような、少女まんがの持つお手軽代用人生体験といった意味での現代性ではない(まんがが実体験のかわりになるなら苦労しねーよと思うので、この議論には実はあまり説得力を感じないのだ)。
 このまんがが扱っているのは、もっと大きな、われわれの社会の根底に関わるものであり、単純な世渡り指南の域を超えた個人の生きざまに関するものだ。いまの日本の女どもが、そして男どもが、本当にこの作品を指南としていたら、この作品発表以降の十年で日本はまるでちがった世界と化していただろう。

 ここでの厩戸王子はまぎれもない天才である。母親の愛を拒まれ、その孤独のせいで天才にならざるを得ず、天才であるがために他人に見えないものが見え、それゆえに孤独に追い込まれ、その孤独ゆえにまたさらに天才にならざるを得ない。『日出処の天子』は、この堂々巡りから抜け出そうとする厩戸王子の苦闘の物語である。その手段としてかれは、あらゆる手を尽くし、あらゆる策を弄して蘇我毛人の愛を得ようとする。
しかし挙げ句に挫折した王子は、麻痺状態にも似た出口のないニヒリズムに落ち込む。

かれにはすべてが見えている。この先、大化の改新をはさんで百年近くにわたって続く、血みどろの権力争いも、その中で殺される自分や蘇我の子供たちのことも、そして支那との朝貢貿易の中で、ほとんど無意味に失われる無数の命も。それを知りつつ、かれは隨の皇帝宛ての有名な親書を書く。「日出処の天子、書を日没処の天子へいたす。つつがなきや……」

 物語はそこで終わる。これ以降、日本史の教科書に登場する出来事は、すべてがつけたしでしかない。法隆寺も、奈良や平安の世界も、そしてこの平成の御世の現代日本ですら。王子が最後に落ち込む深いニヒリズムと孤独は、そのまま今の日本を色濃く染め上げている病でもある(そんなものは知らないと言い切れるあなたは、たぶんうらやましいくらいに幸せな人なのだと思う。皮肉抜きで)。

 六世紀という、すべてがまだ揺れていた時代、世界が別の方向に踏み出せたかもしれない時代を舞台に、そこですべてを変えられるだけの力を持っていた一人の人間を主人公に据え、その挫折を描くことで、『日出処の天子』はわれわれを冒しているこの病がいかに根深く痛ましいものか、ひしひしと伝えてよこす。厩戸王子が最後に白痴の少女(!)とともに歩む「黄泉にも似た道」は、そのままわれわれの足元へと続く道なのだ。

 山岸凉子は、「もう一つの道」を示してはいる。そのニヒリズムと孤独から抜け出す道を。それは言わば、個人として他の個人を愛することだ。蘇我毛人と布都姫は、その「もう一つの道」を進みおおせた。なおも自分を求める王子に、毛人はこうさとす。


「王子のおっしゃっている愛とは、相手の総てをのみ込み、相手を自分と寸分たがわぬ何かにすることを指しているのです。(中略)あなたさまは、わたしを愛しているといいながら、その実それはあなた自身を愛しているのです。その思いから抜け出さない限り、人は孤独から逃れられぬのです」


 だが、逃れられた者のなんとわずかなことか。「もう一つの道」のなんとか細いことか。王子の妻たちは、人間として、女として扱われることすらなく、ひたすら王子の孤独を共有させられる。男たちは、政治的なたちまわりだけに長けていて、やがて「もう一つの道」の結晶たる蘇我入鹿すら、かれらの権謀術策に取り込まれて殺される運命にある。男たちには、自分を包む孤独すら見えていない。だがそうした男たち、女たちが、幾世紀をかけて今の日本を築き上げてきたのだ。

 おそろしいまんがだ。この一年、モロッコから戻ってからも、何度これを繰り返し読んだかしれない。この先も、何度となく読み返すだろう。大島弓子の『バナナブレッドのプディング』とともに。ちなみに『バナナブレッド』は、ぼくにとっていまだにわからないまんがである。

 ところで最近思うのだけれど、十年も前にこれほどの水準のものを平気で受け入れていたはずの読者層は、今はいったいどうしているのだろう。最近のまんがや、わざとらしいテレビドラマに、物足りなさを感じたりはしないのだろうか。それとも、かれらが『日出処の天子』に見ていたのは、ぼくが見ているのとまるでちがったものなのかもしれない。ぼくがここで力説しているようなことは、ほかの人たちには何の意味も持っていないのかもしれない。この手の駄文を書き散らすのに何の使命感があるわけじゃないけれど、自分の書いているものにふと不安をおぼえるのはそういう時だ。

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