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渡辺雄二はユダだ
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投稿者 愚民 日時 2008 年 2 月 23 日 01:36:26: afj4..n989UAI
 

http://www.geocities.jp/srybx731/watanabe.html

週刊SPA!がすっぱ抜いた渡辺雄二の過去
 本年8月15日号の週刊SPA!に気になることが書いてあった。「買ってはいけない」で急に有名になった科学評論家=渡辺雄二が書いた本である「エイズは人類を滅ぼすか」(時事通信社)に、きわめて差別的な内容が書いてあるというすっぱ抜きである。彼は

ゲイ解放運動で不自然な性行為が世間で弾圧されなくなり乱交が始まった、それを戒めるようにエイズが登場した

と書き、その上患者を「自業自得」であるとまでいっているというのだ。

 驚いてこの雑誌の編集部に問い合わせたところ、この本は1986年の出版であり、おそらく今では廃版になっているだろうと言うことである。これで幾分ほっとした。1980年代半ばに日本で書かれたエイズ問題の本で、今の視点で見て差別的でないものを探すほうが無理だからである。

 ただ気になることがあった。彼はこの本を含めていくつかのエイズ問題についての本を出しているが、薬害エイズ問題で何か活動をしたとか、発言をしたという話を聞かないということである。

 そこで友人知人のつてを頼って、過去に渡辺雄二がエイズについて書いた本を手に入れて読んでみた。

 今私の手元に、3冊の本がある。1冊目は週刊SPA!がすっぱ抜いた「エイズは人類を滅ぼすか」、それからこの本を1992年に書き直した「エイズは怖くない?」、及び、その翌年に書いた「検証 エイズの常識」(すべて出版元は時事通信社)である。

 これらの本はすべて、一般向けに書かれたエイズ問題の入門書であるという性格をもっている。当然ながら、それぞれの本に、現代の知識からすれば間違った記述が見られるのは避けがたい(病気であるエイズと病原体であるHIVを混同して書いていること。「激症エイズ」あるいは「サイレントエイズ」など、その存在が否定されている概念など。)。私の関心はもちろんそこにはない。私の知りたいのは、13年前、同性愛者を差別する発言をした人物が、そのあと性差別や薬害問題でどのような態度をとったのかである。

3冊の本とその変遷
 3冊を並べて読むと、彼が性差別の問題で、徐々に変化していったことは見て取ることが出来る。すなわち「エイズは人類を滅ぼすか」および「エイズは怖くない?」では男性同性愛者の蔑称である「ホモ」という言葉があちこちに書かれていたが、これが「検証 エイズの常識」では「ホモセクシュアル」にかわっている。もちろん、本来「ホモセクシュアル」とは、同性愛全般を意味する言葉であり、男性同性愛者は「ゲイ」とよばれるべきではあるが。

さらに呼称だけではなく同性愛者に対する記述にも変化が見られはする。たとえば、1986年の「エイズは人類を滅ぼすか」には次のような、同性愛者に対する敵意あるいは嫌悪感むき出しの表現がある。


このような「性革命」を、ホモたちは巧みに利用したといえる。もともと「性革命」は、それまでの「性に対する不合理」を改草するために起こつたものである。つまり性的抑圧による不自然な性を「自然な性」に戻そうというものであったはずである。  ところが、ホモ行為は性の不自然な形の極致であり、「性革命」とはあい入れないもののはずなのである。しかしホモたち、特にサンフランシスコ、ロサンゼルス、ニューヨークのホモたちはここがチャンスとばかり、「性革命」も「ゲイ解放運動」も同じものだとみせかけ、まんまと一般市民をだますことに成功した。

なかにはこれに悪乗りする政治家がいた。サンフランシスコのマスコーン市長などがその代表である。彼はゲイを積極的に認めた。しかしこれは政略だったのである。サンフランシスコのゲイ人口は七万人にのぼり、一大勢力になっていた。これを味方にすることは、、何よりも当選を有利にするからである。これに似たことは、ゲイ人口の多い、ニューヨークやロサンゼルスでも起きていたに違いない。このつけがいま回ってきたのだ。その証拠にエイズ患者はサンフランシスコとニューヨークだけで全米の四〇%以上にのぼっている。

(「エイズは人類を滅ぼすか」94頁)

このように197年代に同性愛者が、自らの人権を獲得・回復するために起こした「ゲイ・ライツ・ムーブメント」を、あたかも陰謀でもあるかのように書いたきわめて差別的な記述は、その後の1992年の本からは削除されてはいる。

またつぎに引用する、エイズという病気を「不自然な性行為」に対する遺伝子の反乱であるようなこじつけも、その後の改訂で削除・改竄されてはいる。もちろんどのように改訂されたのかについての記述は、見つけることは出来ないが。


人間という生物だけは、そのようなことを全く無視した行為を始めた。ただただ快楽を得るだけのために。しかし「同性愛行為は昔からあったではないか」と、反論する人もいるであろう。

確かにそのとおりである。おそらくその人たちも、その不自然な行為によって、もろもろの被害をこうむっていたはずである。生理的なものもあったろうが、それ以上に世間からのものが大きかった。

ローマ帝国時代や中世の弾圧はその代表といえる。結局、そういった不自然な行為をする人間がいても、人間の相対関係の中で抑制がきいていたのである。

ところが、一九七〇年代に始まった「ゲイ解放運動」は、この抑制をとっぱらってしまった。もはや人間の相対関係では、不自然な性行為を抑えることが出来なくなってしまった。

そこに、それを戒めるように、エイズが登場した。「人間が出来ないなら、オレがやる」と、生命の根源者がまるで陣頭指揮をとるかのように。

生命の根源者とは?そう、まさしく「生命の究極=遺伝子」である。こう書くと、多少漫画的になってしまうが、ウイルスとはそもそも遺伝子にほかならないと思えば、この考えかたもそれほどおかしなものではなくなる。

「ちょっと考え過ぎではないか」あるいは「こじつけではないか」という意見もあるだろうが、事実エイズウイルスにより不自然な性行為をしている人が、一万人以上も死んでいる。また、二十世紀のいま、突然このウイルスが登場したという点でも、あながち妄想とも思えない。

(「エイズは人類を滅ぼすか」141〜142頁)

このように同性愛を「不自然」であるといい、かつ同性愛者がもっぱら性交渉だけを目的にしているととらえる考え方が、全くの偏見であることは、もはや常識に属することであるが、あえて一言だけ解説を加える。

 まず、渡辺雄二も認めているように、同性愛の歴史が人類の歴史と同じくらい古いことは、内外の文献からすでに明かである。近代日本だけに限っても、戦国時代の武将の多くが、織田信長、武田信玄の例のように、衆道を好む、現代の言葉に直せば、バイセクシュアルだったことはよく知られている。また当時そのことを道徳的にとがめる、渡辺雄二のような人物もいなかった。

また異性愛と同性愛が社会的に同居する性文化は、江戸時代に入り儒教が持ち込まれていくぶん抑圧されるが、それでも1900年代のはじめまで、確実に日本に根付いていた(詳しくは「武士道とエロス」を参照のこと)。また歌舞伎や宝塚歌劇のように、舞台の上でとはいえ、別の性を演じることに寛容な文化は、今でも残っていると言える。

またキリスト教以前のヨーロッパ文明でも、同性愛に寛容な文化がむしろ一般的だったこともすでに明らかになっている。ここではむしろ同性への愛が純粋な愛であり、異性との結婚は子孫を残す社会的な義務であるととらえられていた("Same Sex Union"参照)。当然、ここでいう同性どうしの結びつきが、単なる肉体的関係に限定されるものではないことは、異性同士の性的関係が狭い性交渉に限られないことと同様である(「同性愛の基礎知識」参照)。

もちろん性行為の目的が生殖、すなわち子孫を残すことであり、同性愛はその意味で「不自然」であるという、いわば「生物学的」な断罪もしばしば見られるところである(渡辺雄二も、すぐあとにふれるが、そのような意見に「修正」してきてもいる)。しかし、我々が自分自身の性をちょっと振り返って考えればすぐ分かるように、狭い意味での生殖=挙児だけを目的とした性関係というものは、王国の後継者を得るために行われる性関係(大奥!)など、ごく特殊な場面でしか存在しない。

むしろ今までも議論してきたように、私たちの性を通じた結びつきは、より広い意味で私たちの相互交流の一側面であり、マルクスのいう「交通」の一部をなすものである。さらにこうした相互交流・交通の1形態としての性関係は、人間だけではなく、霊長類の一部にも見ることの出来ることである。

長い歴史を経て発情期をなくした人類の歴史は、渡辺雄二のいう素朴生物学的倫理を否定しているといえる。

閑話休題。1992年段階でも、渡辺雄二の態度は、相変わらず性差別的であり、エイズを不道徳な同性愛や性の乱れ一般に対する神罰・天罰と捉える頑固派基督教右派の立場と、ほぼ同様であることは以下の記述から、明かであると思える。

人間がつくり出した放射能や化学物質は、細菌やウイルスの遺伝子に作用して、突然変異を起こす力を持っている。ならばエイズウイルスの場合も、これらの人為的なものの力によって、従来のウイルスが突然変異を起こして、エイズウイルスに変化したとしても不思議ではない。もちろんそう断定することはできないが、しかしまた否定もできないであろう。

さらに、エイズがホモセクシャルの間に広がったというのも警告的である。生物学的にみれば、同性愛行為というのは、反自然的な行為である。その反自然的な行為をしている人たちをエイズが狙い撃ちしている。まるで、何か見えない力が、われわれ人間を諌めてでもいるかのようである。

われわれ人間は地球上の一生物種にすぎない。にもかかわらず、まるで地球がすべて自分たちのものであるかのように振る舞い、そして個体数を急激に増やしている。エイズは、そんな思いあがった人間を、数的にバランスを崩しつつある人間を、たたきのめすために突然出現したのかもしれない。

(『エイズは恐くない?』86頁)

これは週刊SPA!がいみじくもいったように「科学評論家の肩書きを持つ先生が『バチ』を科学的に解説」する、神罰・天罰論、あるいは「ノストラダムスの大予言」、オウム真理教が振り回したハルマゲドンなどの終末論ともきわめて近い、非科学的な暴論でしかない。

荒唐無稽な仮説を持ち出して「断定することはできないが、しかしまた否定もできない」などというのは、下劣なレトリックである。エイズの人類史における黙示録的意味などという妄想は、空想科学小説に任せるべきで、「科学評論家」のいうことではない。そしてむしろ、もし人類が増えすぎたことが、神の叡慮であるエイズをもたらした原因ならば、決して妊娠しない同性愛こそを、渡辺雄二は、神の真意を述べ伝える予言者として、推奨すべきではないのだろうか。

私はこのような科学的精神の欠如した人物が、進歩的な装いをして科学を「評論」する事に、強い恐怖感を覚える。

彼がやり玉に挙げたのは、同性愛者だけではない。ハイチ人、売春婦もそうである。


媒介役となったハイチ人

エイズウイルスは、性行為によって、人から人へと移っていった。その感染には、売春婦が大きな役割を果たしたようである。

アフリカ中央部の国では、エイズ患者は売春婦に多い。NCIとベルギーのサンピエール病院の共同調査によると、ルワンダでは、検査した売春婦八十四人のうち何と六十七人(七九・八%)がエイズに感染していた。さらに、同性愛傾向のない一般人五十一人のうち八人(一五・七%)が感染していた。これらは、エイズが異性間セックスによって広がっていったことを裏づけている。

アフリカ中央部とアメリカの媒介役はハイチ人とみられている。カリブ海諸島は、アフリカからの移住者が多く、アフリカと密接な関係を持っている。一九六〇年から七〇年にかけて、多数のハイチ人がザイールに居住していた。これらの人たちが故国に引き揚げたときに、エイズを持ち帰った疑いが非常に濃い。

このほか、ハイチ人媒介説を裏づけるものは数多くある。まず初期の患者数がアメリカ、フランスに次いで多いことである。さらに、アメリカで当初に発見されたエイズ患者が、ハイチからの移民や、彼らと同性愛の関係を持った者に多く発生している。また、ハイチはフランスの元植民地であり、現在もフランスとの交流は盛んだ。

ハイチは非常に貧しい国で、結婚も思うように出来ない男性が多いという。それらは、しかたがないのでホモセクシャルに走る。あるいは男娼となる。また女性は売春婦になる者が多い。そういったホモや売春婦が不特定多数の者と性交渉を持つ。そこにエイズが入ってくれば、当然急速に広まってしまう。

こういった男たちが、貧困を逃れるため、アメリカヘ移住して男娼となり、エイズを感染させる。あるいは、アメリカ人がハイチで男娼との性行為によりエイズに感染し、それを本国に持ち帰る。こういった形で、アメリカのホモの間にエイズが入り込んだと考えられている。

(「エイズは恐くない?」37〜39頁)

こうした一見科学的な説明で引き起こされるのは、特定の人間集団(人種、職業、性的志向)が、「媒介役」となり、エイズが持ち込まれるという差別意識である。これだけ差別的な文章を読んだことも珍しい。

すでにこの時点で、アメリカでは特定の人間集団を「ハイリスク・グループ」とよび、彼らから社会を守ろうとする社会防衛論が、非現実的であることが明らかになっていた。「(病気を持った)人間を敵に回すのではなく、ウイルスと闘おう」(Fight Against Virus, not Against People)という言葉が、この問題に取り組む人間の間では常識になっていた。ところがエイズ問題の専門家を自認した渡辺雄二は、こんな常識さえわきまえていなかった。彼は次のような恐怖をあおる最低の扇動家だった。


アメリカのエイズ患者のうち、約六%は異性との性交渉が感染の原因だ。これは、男性→女性、女性→男性のいずれをも含む数字である。男性→女性の感染は、最初は男性がバイセクシャルだったために、起こったと考えられる。もしバイセクシャルの感染者がふつうの女性とセックスすれば、エイズウイルスが一般家庭の中に入り込む。そして夫に感染し、生まれてくる子どもにも感染する。まさにその家庭は全面的に崩壊してしまう。

(「エイズは恐くない?」43〜44頁)

不思議なことには、エイズが広がることで、在米ハイチ人社会が崩壊したり、同性愛者のコミュニティーが崩壊することを、一度も心配しない渡辺が、なぜか唯一、一般家庭の崩壊の恐怖をあおる。それは結局渡辺雄二にとって、「ホモ」「売春婦」「ハイチ人」が、個人として尊重され、幸福に暮らす権利を持った人間としてではなく、平和な家庭にエイズを「媒介」する存在としてしかとらえられてこなかったということなのではないか。


薬害隠し、「エイズ予防法」賛成論をぶった
御用評論家としての過去
以上述べてきた性差別主義者、人種差別主義者としての渡辺雄二も許せないが、それと並んで彼の本が物語るのは、彼が厚生省の御用評論家として、薬害隠しと「エイズ予防法」賛成論をぶってきた恥ずべき過去である。

 1986年の「エイズは人類を滅ぼすか」には「日本でホモと並んでエイズ患者が多いのは、血友病患者である。これは、治療に使っている輸入血液製剤に、エイズウイルスが混入していたために、発病したものである。」(72頁)と記述がある。これもきわめて不正確な記述である。当時でさえも日本のエイズ患者は圧倒的に血友病患者が多かった。しかしとりあえずここは目をつぶろう。

では薬害エイズ問題が大きく取り上げられはじめた1992年、彼の記述はどう変わったのだろうか。彼は、上に引用した記述とほぼ同様のことを書いたあと、次のように述べる。

やがて、日本でも薬剤メーカーが血液製剤を製造するようになった。これらは、主に売血で得られた血液からつくられていた。

ところが、輸血による肝炎が流行し始めたことから、売血制度はとりやめられ、献血制度が採用されることになった。このとき、献血は日本赤十字社の血液センターが一括して行うことになったため、薬剤メーカーが手に人れられる血液は少なくなり、血液製剤をつくることが出来なくなってしまった。日赤は、献血で得られた血液のほとんどを、手術などの輸血用に回したからだ。

このため、血友病の治療には輸入血液製剤を使うしかなくなった。しかし、輸入血液製剤はアメリカから十分な量が供給され、また効果も非常に優れていたので、医師たちはこれを積極的に使った。

(「エイズは恐くない?」73〜74頁)

これは、1986年版の記述が無修正で引き写されているのだが、注意すべきはこの本がすでに東京、大阪で薬害エイズ訴訟が提訴され、石田吉明さんが大阪地裁で証言をした同じ年に出版されているということである。つまりこの時点で渡辺雄二は、その気になれば、東京・大阪の弁護団から資料を取り寄せることは出来たし、すでにカムアウトした石田吉明さんに取材することもできた。そうすればこの明らかに誤った、厚生省と製薬会社を免罪する記述を修正することも、できたはずなのだ。

このあと次のような安部英の言い訳まで書いて平気でいられたほどには、彼が薬害エイズ問題に距離を置いていたことは明らかだ。


しかし当時(1981年;引用者註)は、アメリカでもエイズ患者が発見されたばかりのときであり、安部教授はすぐさま彼がエイズだという確信が持てなかったようだ。ただ、外国から入ってきた情報から、ひょっとしたらという気持ちはあったという。

(「エイズは恐くない?」75頁)

もちろんこれらの記述は、1992年当時でも、明らかな誤り・言い逃れであった。1980年代のはじめ、多くの血友病患者は、エイズ問題におびえ、アメリカから輸入される血液製剤の安全性に強い疑問をもっていた。より安全なクリオ製剤に代えるように要求した患者もいた。それらの懸念を押し流したのは、安部英らの血友病専門医が製剤を安全であるといい、エイズの危険性を一笑に付し、又製薬会社が安全を保障したからだ。

もちろん安部が1981年の患者をエイズと確信し、「日本ではじめての患者を診断した名誉」を主張したことも、今ではよく知られている。

そしてここで重要なことは、当時薬害エイズ問題に取り組んでいた私たちが、そのことをよく知っていたということである。いやだからこそ、原告団はこれを「薬害」だといい、私たち支援者もその主張に共鳴して闘った。

ところが渡辺雄二は、明らかに意図的にこの訴訟のことを本に載せず、厚生省と製薬会社に都合のいいことばかりを書いていた。患者側か、企業側か、当時彼がどちらの立場に立っていたのかは明らかだと思える。

さらに決定的なことは、彼が薬害隠しの悪法=エイズ予防法の宣伝マンだったということである。1986年、彼は次のように焦燥感を口にした。


厚生省のエイズ患者発見体制

いまのところ、エイズ治療の決定打はない。したがってエイズ対策で最も重要なことは、新たな感染者を、つくり出さないようにすることである。それには、エイズ患者あるいは感染者を出来るだけ早く発見し、感染を広めないように指導することが必要である。

(「エイズは人類を滅ぼすか」169頁)

このことから彼は、感染のリスクの高い集団を国家管理するという思想にのめり込んだのである。


エイズ検査の強制は出来ない

エイズ患者、あるいは感染者のハイリスクグループは、日本の場合、ホモと血友病患者である。ただし血友病患者は、その治療のための主治医を持っているので、それらを通してエイズ患者か、あるいは感染者かを把握することが出来る。

(「エイズは人類を滅ぼすか」171頁)

 
彼は、しかし把握されている血友病患者自身が、HIV検査を受けたことを知らされず、さらにその結果HIVに感染しているかどうかも知らされず、あちこちで治療の遅れや二次感染という悲劇を生んだことには、何の関心も示さない。さらにこの文章に続く部分は、むき出しの感染者狩りの思想であり、吐き気を催す代物である。

やっかいなのは、ホモセクシヤルである。厚生省は、この的確な数をとらえていないし、その生活ぶりさえもよくつかんではいない。厚生省のある担当官は、新聞記者に、「ホモの団体を知っていたら、連絡先を教えてくれませんか」といってきたという。その記者は、「日本にそんなものがあるはずないじやないか」と笑っていたが、役人のホモに対する知識はその程度のものなのである。

またもう一つやっかいなのは、売春婦である。アメリカでは売春婦にエイズ患者が多いのは周知の事実だし、厚生省もハイリスクグループの中に、「職業的売春婦」を入れている。これらの数や実態をつかまえるのも容易なことではない。

(「エイズは人類を滅ぼすか」171頁)

結局彼は、法的手段で「ホモ」「売春婦」にHIV検査を強制するという白昼夢にたどり着いた。

もし仮に、それらの数やそしてどの人がホモ、あるいは売春婦かが分かったにしても、それらの人にエイズ検査を強制的に受けさせることは出来ない。エイズは法定伝染病には指定されていないので、法的に検査を受けさせることが出来ない。もし、行政指導のような形で検査を受けさせようとすると、人権を無視した行為、あるいは差別だなどとの非難があがることは間違いない。結局、エイズの知識を一般に広め、それらの人たちの自主的検査を待つという、非常に受け身の方法しかとれないのである。

(「エイズは人類を滅ぼすか」171〜172頁)

注意をしたいのは、彼が検査の強制が出来ないというのは、そのようなことがエイズ対策として実際的でないということでもなければ、それが重大な人権侵害であるということでもない。ただ強制検査に法的な根拠がないからということが引っかかり、「非難があがる」ことをただただ恐れているということだ。では彼は、法律が出来れば、彼のいうハイリスク・グループの人に検査を強制できるとでも思いこんだのだろうか。彼はそうだとおもった。

もし、エイズが法定伝染病に指定されれば、強制的に検査を受けさせることもある程度可能であろう。しかしこれに指定されているものは、コレラ、赤痢、腸チフス、バラチフス、痘瘡、発疹チフス、猩紅熱 、ジフテリア、流行性脳脊髄膜灸、ペスト、日本脳炎の十一疾病だけである。

(「エイズは人類を滅ぼすか」182頁)

渡辺雄二は、厚生省の弱腰をたたき、もっと断固たる処置にでるように要求する。


厚生省感染症対策室を訪ねると、エイズの担当官は、いつも気が抜けたような、困った顔をしている。そして、「もっと積極的な感染防止方法がないんですか」と聞くと、「プライバシーがからんできますからね」と、困惑の表情でいう。彼らは、性にからんだ感染症の防止対策がいかにむずかしいかを、あらためてかみしめているようである。

(「エイズは人類を滅ぼすか」183頁)

ここで彼のいう「積極的な感染防止方法」が、人権侵害の強制検査であることは、以上の文脈から明かである。そしてこのような人権を無視する法律が、差別といわれのない恐怖感をあおる一方で、感染の広がりを防止することが出来ないことは、すこしでも理性のある人間には明らかだった。

国家により「ホモ」「売春婦」を管理しよう、人権を制限しようという法が出来たとき、誰が自ら「同性愛者です」「性労働者です」と名乗る人間がいるものか。

感染予防のためにもっとも大事なことは、感染のリスクのある人の、感染予防プログラムへの自主的な参加である。そして感染者が社会的に守られ、安心して暮らせる社会づくりこそが、こうした自主的な参加を促す。生前石田吉明さんが「必要なことは感染対策ではなく、感染者対策だ」といったのは、まさにこのことを意味した。

そしてこの対極に、感染者の国家管理=患者狩りという焦燥感に狩られた連中の妄想が位置した。そしてこの非理性的な人間の中に、後年「買ってはいけない」で進歩的評論家の名声を欲しいままにする渡辺雄二がいたわけだ。

このような渡辺雄二が、1989年に成立した「エイズ予防法」をもろ手をあげて歓迎したことは明らかだ。彼はこの法律の成立の背景を次のように説明する。

エイズ予防法の制定とエイズ対策

一九八七年一月、神戸市で日本初の女性エイズ患者が発見され、国民の間では感染への恐怖心が急激に高まっていった。そこで厚生省は、二次感染、三次感染を防ぐという目的で、エイズ予防法なるものの制定の動きに出た。

(「エイズは恐くない?」143頁)

ここには当時の厚生省の意図的な情報操作で、パニックが演出されたことも、その結果当の患者が不当な報道により、重大な人権侵害を受けたことも、まるで書かれていない。そして何より、この法律が薬害隠しであり、薬害患者の声を封殺する目的でつくられたことにも、全く触れられていない。

上に引用した次の部分はこのようだ。

法案は次の四つの柱から成る。@エイズについての知識と普及と研究の推進、A感染源の把捉、B二次感染の防止、C個人の秘密保護。

 しかし、これだけならよかったのだが、厚生省は思いもかけない規定を法案に盛り込もうとした。それは、「患者や感染者が予防措置をとらずに性交渉をもったり、献血や臓器の提供を行なった時は、その人を処罰する」という内容であった。

(「エイズは恐くない?」144頁)

この記述は、エイズ予防法案が国会に上程されたとき、「患者狩りにつながり、感染者が逆に潜在化する」という、血友病患者と同性愛者からわき上がった批判を、渡辺雄二が完全に無視していたことを意味する。

エイズ予防法案に対する反対は、渡辺が「これだけならよかった」と述懐する「@エイズについての知識と普及と研究の推進、A感染源の把捉、B二次感染の防止、C個人の秘密保護」という骨子そのものに向けられていた。

この事情を、薬害エイズ弁護団の一員である菊池治氏が、著書「つくられたAIDSパニック」で引用している保田行雄「全国血友病友の会」会長代行の証言から見ていこう。

この法案は、社会にAIDSに対する恐怖心を植えつけて予防しようというのが基本的な考えであり、いわば、AIDSに対する防疫の姿勢が強く、その政策によって幾度となくパニックが作られ、そしてこの法案が準備されたと理解しています。

この病気に対する恐怖心が社会に定着したとき、植えつけられたとき感染をした患者やその家族は社会生活をやっていけないのです。

(菊池治「つくられたAIDSパニック」桐書房、1993年、139〜140頁)

繰り返しておくがこの発言は、患者の処罰規定をのぞいた最終法案への反対論であって、処罰されるからいけないというようなものではない。ところが、この患者団体の血のにじむような声を、渡辺雄二は聞く耳を持たなかった。彼はいう。

これに対しては、医師やマスコミから強い批判が起こった。なぜなら、こういった処罰を恐れて、検査を受けるべき人、つまり感染の疑わしい人が受けに来なくなってしまう可能性があるからだ。

(「エイズは恐くない?」144頁)

注意して欲しい。ここには、「医師やマスコミから」の「批判」に触れているが、血友病患者からの批判や同性愛者からの批判には、全く触れていない。きっと渡辺の目には、触れる価値もない議論と映ったのだろう。だから彼は、エイズ予防法の記述の中に、国会審議の最後に、血友病患者を沈黙させるために、法の対象から血友病患者を除外するという修正が加えられたことまで「省略」して見せた。

結局彼は、処罰規定のない修正案が成立したことを、当の患者たち・親たちの嘆きをよそに喜んだ。

そこで、厚生省はこれらの批判を受け入れ、処罰規定を取り除くことを決めた。結局最終案では、患者や感染者を診断した医師に対して、診断の事実を都道府県知事に届け出ることが義務づけられた。

報告すべき内容は、年齢、性別、感染した原因などで、プライバシーにかかわる名前や住所は報告しなくてよいことになった。

しかし、患者や感染者が医師の指示に従わずに、他の多くの人に感染させる行為をする恐れがあると医師が判断した際には、その名前と住所を、都道府県知事に報告しなければならないとした。知事の方では、この報告に基づいて、その患者あるいは感染者に感染防止の指導を行うことになった。

エイズ予防法は、一九八九年二月から施行された。そして、この法律に基づいて、患者や感染者の把捉やエイズ教育などが行われるようになったのである。

(「エイズは恐くない?」144頁)


渡辺雄二はどこにいたのか
1993年「検証 エイズの常識」のあとがきに彼はこう書いてある。

本書ができ上がったのは、アメリカで取材に応じてくれた多くの患者や感染者、そして日本でエイズと取り組んでいる研究者の方々の協力があったからである。とくに、エイズ医療情報センターの桜井賢樹班長と日本赤十字社中央血液センターの西岡久壽彌顧問にはいろいろでご指導いただいた。ここで改めて、感謝の意を表したい。

(「検証 エイズの常識」185頁)

この謝辞に日本の患者・感染者があげられていないのは、当たり前だろう。日本国内の患者感染者を徹底的に無視することで、渡辺雄二の「仕事」が成立しているからだ。

しかしそれ以上に私の目を引くのは、日本赤十字社中央血液センターの西岡久壽彌顧問という名である。彼は、1980年代はじめ、日赤の血液センター副所長として、血液製剤の国内自給を怠った、結果として日本の血友病患者にエイズ禍を広げた責任者のひとりであり、さらにエイズ予防法の際、この悪法を推進する立場から、国会で証人として発言をしたひとりでもある。(菊池治「つくられたAIDSパニック」90〜96頁)

これで我々は、渡辺雄二に対する疑問のすべてを解くことが出来た。彼は1980年代から90年代のはじめまで、薬害エイズの加害者側に近い立場にいた。そのため彼は患者差別と感染者管理の思想を本にしてばらまいた。もちろん抜け目なく、形のうえでは「差別はいけない」という言葉はちりばめていたが。

その上で1989年に成立したエイズ予防法の薬害つぶしと患者差別という本質と、当然ながらわき起こった厳しい批判を無視し、国家管理による感染予防というありもしない、誰ひとり本気に出来ない幻想まで振りまいた。彼は薬害つぶしの弱々しい論客のひとりという立場を、意識的にとった。

だからこそ彼は薬害エイズの運動がまだ盛り上がりを見せるまでは、「エイズ問題の評論家」というポーズを取ったが、いったん薬害問題が大きな注目を浴びるや、御難を恐れ、エイズ問題から逃亡した。

これ以外のいかなる解釈が可能だろうか。彼が薬害問題で患者の利益になるようなどんなことをしたのか、証拠があれば示して欲しい。

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