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天智と天武は兄弟ではない!! 真説・壬申の乱
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投稿者 忍 日時 2008 年 12 月 21 日 12:01:46: wSkXaMWcMRZGI
 

(回答先: 話をちぐはぐしてごめん。出雲はユダヤ系列であるというか、今は鬼信仰の町ではないか 投稿者 忍 日時 2008 年 12 月 21 日 11:55:17)

663年、朝鮮南西部の白村江(はくすきのえ)で、東アジアを揺るがす一大決戦が行われました。決戦の名は「白村江の戦」。唐・新羅(しらぎ)、倭国(九州王朝)・百済(くだら)の二つの連合軍による、朝鮮半島の権益を巡る一大決戦は、唐・新羅連合軍の勝利によって幕を下ろしました。この戦いにより、百済は名実共に滅亡し、新羅による朝鮮半島統一へと時代は動き始めます。この教科書でも習った白村江の戦が、実は日本にも多大な影響を及ぼしていた事をどのくらいの方がご存じでしょうか? 近未来の朝鮮半島有事にも少なからぬ示唆を与えるこの戦いの結末について、書いてみたいと思います。


倭国(九州王朝)は、かつて、北方の大国・高句麗と朝鮮半島で、その権益を巡って戦いました。なぜ、倭国、ひいては日本が朝鮮半島に古代から関わらなければならなかったのかと言う問題は、この際は抜きにしますが(いずれ取り上げようと思っています)、とにかく、倭国は事ある毎に朝鮮半島に一定のプレゼンス(影響力)を行使してきました。その帰結が先に挙げた「白村江の戦」なのですが、この戦争で負けた倭国・百済連合の一方の当事者・百済は名実共に滅亡し、その領土は新羅に併合されてしまいました。では、もう一方の当事者、倭国にはどの様な結末が待っていたのでしょうか?


「倭国は滅亡していた」。ずばり、それがこの答です。国が滅亡したと言う証拠は、「日本書紀」671年の条の、


「筑紫君薩夜麻(ちくしのきみ・さちやま)が唐から帰国した」(要約)
と言う記事です。「筑紫君」と言うのは、「倭王」の事です。自らは、「日出づる処の天子」・「オオキミ」等と称していた倭王ですが、大和朝廷(日本国)側からは、筑紫君と呼ばれていました。しかし、この事が倭国の滅亡の証拠になるのかと思われる方もおられるでしょう。それが、証拠になるのです。

白村江の戦で、戦争が終結したのが、663年。倭王(筑紫君薩夜麻)が唐から帰国したのが、671年。その間、実に8年。一国の王(現代で言えば、天皇だとか首相)が他国に8年間もいたと言う事実。更に、倭国・百済連合が「敗戦国」だったと言う事実。これらが物語るものは一つ。それは、倭王が「戦犯として戦勝国・唐に抑留されていた」と言う事です。


敗戦国の元首(王)が戦勝国に抑留される。これは、先の大戦で満州国皇帝だった愛新覚羅傅儀(ラストエンペラー)がソ連、更に中国の撫順収容所に「戦犯」として収監された事実を見ても、明らかです。倭王の場合も、おそらく、傅儀同様、戦後、唐に抑留されていたものと思われます。そして、8年後、ようやく、「釈放・帰国」を許されたのでしょう。しかし、帰国を許された倭王に、帰るべき祖国は最早ありませんでした。


九州、かつて、東アジアの超大国、隋・唐に対して対等外交で臨んだ「倭国」の地は、倭国に代わって日本列島の新たな「代表」となった「日本国」(大和朝廷)の領土と化していました。そして、その新領土・九州を管理統括する為、「日本国」が設置したのが、かの有名な「太宰府」なのです。


太宰府と言うと、皆さんは単に朝廷(政府)の九州に於ける地方出先機関と言ったイメージしか無いのでは無いでしょうか? しかし、当時の太宰府と言うのは、現代人のイメージとは全く違った存在でした。倭国の異称・「九州」の意味を皆さんはご存じでしょうか? これは字義通り、「九つの国(州)」の事です。倭国は九ヶ国で構成されていたので、「九州」なのです。これは関東地方をかつて「関八州」等と言ったのと同じです。その九ヶ国の統治を朝廷に代わって代行したのが、太宰府なのです。これは東北(蝦夷)地方の統治を朝廷に代わって代行した「奥州鎮守府」と同じです。そして、近・現代史に当てはめれば、「朝鮮総督府」や「台湾総督府」と同じ、つまり、「新たな領土となった他国(植民地)経営の為の行政機関」なのです。その様な機関である太宰府が九州に設置されたと言う事実が物語るものは、一つ。やはり、「倭国は滅亡した」と言う事なのです。


白村江の戦がもたらしたものは「倭国の滅亡」だけではありませんでした。筑紫君薩夜麻らの帰国は、唐人2000人の「進駐」(日本書紀に記述)を日本側に告知する為になされた措置だったのです。つまり、先の大戦終結後、米軍が「進駐」してきたのと同様に、唐人が進駐してきたのです。更に、様々な資料から、唐人だけでなく、もう一方の戦勝国・新羅人も、亡国の民・百済人も、日本に流れ込んできました。日本側の史料では、彼らを日本に「帰化」したと書いていますが、実際は、日本に「進駐」したと言う方が正しいでしょう。その証拠に、その後の「親唐路線」や、朝廷内に於ける「帰化」系氏族の増加(彼らの多くが先の敗戦まで「貴族」としての特権を有していた)と言った事実が挙げられます。


もし、近未来の朝鮮半島で有事があった際、日本が日米防衛協定(現在調整中のガイドライン)に則って介入し、「敗戦」したとしましょう。おそらく、その時は、白村江の敗戦同様、中国人民解放軍が日本に進駐、五星紅旗をはためかせ、日本政府に中国人の閣僚を多く送り込み、「親中路線」と言うよりは、「中国の属国としての日本」を強要すると言う「悪夢」が現実のものになるのでは無いでしょうか? これが単なる「悪夢」ならば良いのですが、軍拡まっしぐらの中国・北朝鮮情勢・「歴史は繰り返す」と言う法則が重なり合い、「現実」にならなければと只々願うばかりです。


提供情報

以下、平成16(2004)年11月4日に、50代男性の読者から頂いたメールをご紹介致します。


「白村江で検索して、ここを見つけました。
学士会会報2004-VI No.849の『法隆寺のものさしは中国南朝尺』川端俊一郎著 pp104-124に、

「倭の五王が筑紫にあって、白村江の戦いでこの王朝が滅亡し、法隆寺は筑紫にあったものを移設したのでは」
との説が、建設に用いられた寸法標準の違いから説かれていて、非常に説得性があります。
ご参考まで。」

●天智と天武は兄弟ではない!! 真説・壬申の乱 (1997.9.16)
672年、古代日本最大の事件、「壬申の乱」が起こりました。時の天皇・弘文天皇(大友皇子)に、先帝・天智天皇の「実弟」・大海人皇子が挙兵、遂に、「甥」・弘文天皇を倒して、新帝(天武天皇)に即位したのです。この古代最大の「内戦」を天武天皇を通して、見てみましょう。そこには事件の意外な「真実」が隠されていたのです。


まず、天智・弘文・天武三天皇の関係を一般の「皇室系図」で見てみましょう。

┌(34)舒明天皇┬(38)天智天皇┬(41)持統女帝(天武帝皇后)
│      │      ├(43)元明女帝
│      │      ├──施基皇子−(49)光仁天皇−(50)桓武天皇
│      └(40)天武天皇└(39)弘文天皇
│      
└──茅渟王─┬(35)皇極・(37)斉明女帝(舒明帝皇后)
       └(36)孝徳天皇

上記の系図でお分かりの通り、天智と天武は舒明天皇を父とする「兄弟」、天武と弘文は「叔父・甥」の関係になります。しかし、これには間違いがあるのです。例えば、


天智天皇 671年没(享年46歳)
天武天皇 686年没(享年65歳)


と言われていますが...天智が死んだのは、天武より、686年−671年=15年、つまり15年前。
すると、天智が死んだ時の天武の年令は、65歳−15歳=50歳、つまり50歳。
どうでしょう。天智が死んだ時の年令が46歳なのに、その時、「弟」の天武は50歳!! 4歳も年上の「弟」等どこにいるでしょうか? つまり、ここで、天智が「兄」で天武が「弟」と言う関係はあっさりと壊れてしまったのです。しかし、『古事記』(ふることふみ)も『日本書紀』(やまとのふみ)も、天智が「兄」で天武が「弟」と書いているのです。これは不思議としか言いようがありません。そこで新たな疑問が生まれました。天智と天武は本当に「兄弟」だったのでしょうか?


天智と天武は「兄弟」か? 私は兄弟では無かったと思います。では、なぜか? それは、天武の妃を見れば分かります。

天智天皇┬大田皇女─────────┬大津皇子
    │             └大来皇女
    ├ウノサララ皇女(持統女帝)──草壁皇子─┬元正女帝
    ├大江皇女─────────┬長皇子  └文武天皇──聖武天皇
    │             └弓削皇子
    └新田部皇女─────────舎人親王──淳仁天皇

上記の通り、天武の妃の四人までが、「兄」天智天皇の娘なのです。古代では兄弟・姉妹・従兄弟通しでの「近親婚」が珍しくなかったとは言え、「弟」が「兄」の娘を四人も娶(めと)るのは「異常」です。まるで、戦国時代、互いの娘を相手方の男子に嫁がせ、「同盟」を結んだようなものです。しかし、戦国時代と大きく違うのは、戦国時代は、「毛利」と「小早川」と言った様に、違う「家」通しでの通婚なのに対し、かたや、「兄弟」通しでの通婚です。これをどう解釈するか? 先の「年令逆転」からしても、天智と天武は血がつながっていなかった・・・つまり、「兄弟」ではなかった、としか考えられません。


天武は天智の弟ではなかった。では、天武とは一体何者なのでしょうか? これを解く鍵はその「名前」にあります。天智の名前が「中大兄皇子(なかのおおえのみこ)」なのに対し、天武の名前は「大海人皇子(おおあまのみこ)」とされています。しかし、『日本書紀』天智天皇の条には、一つも「大海人」と言う名前は出てこないのです。ちなみに、大海人皇子が皇太子(弟なので皇太弟)になったと言う664年の部分には、「大皇弟」・「東宮太皇弟」・「太皇弟」・「皇太子」・「東宮」と言った普通名詞が出てくるだけで、「大海人」と言った固有名詞は見当たりません。ここで考えられる事は、664年の立太子時に、「大海人」と言う名前を持つ人物が存在しなかったのではないかと言う事です。そう考えれば、『日本書紀』天智天皇の条に、「大海人」と言う名前が出てこなくても納得がいくのです。では、天武の本当の名は一体何だったのでしょう? 私は「金多遂」だったと思います。


天武の本名は「金多遂」だった!! 「金(キム)」と言う以上、朝鮮系です。私自身、彼は新羅人だったと思います。なぜか? 第一に、天智・弘文父子は親百済政権だったと言う事。これは、当時の「閣僚名簿」を見れば一目瞭然。主要な高級官僚は祖国を失った亡命百済人が名前を連ねています。第二に、天武即位後の思い切った「行政改革」にあります。それまでの親百済政権とは一線を画す政権を樹立し、百済人官僚の多くが冷や飯を食わせられました。第三に、天武系の諸天皇は「天皇家の菩提寺」に祀られていないと言う事実です。天智以前及び光仁以後の諸天皇が祀られているにも関わらず、なぜか、天武系は祀られていません。そして、これが核心なのですが、天武が新羅人だった最大の理由は、「壬申の乱」にあるのです。


壬申の乱で、弘文天皇率いる朝廷軍を、大海人皇子率いる反乱軍が制圧、大海人皇子は遂に天皇の座を手中に収めたと冒頭で書きましたが、これこそ、彼が新羅人ではないかと言う最大の理由なのです。時は遡りますが、「白村江の戦」以前、新羅王族に連なる一人の人物が日本に「人質」として滞在していました。彼の名は「金多遂」。「人質」とは言っても、日本の戦国時代同様、決して邪険にされるような存在ではありませんでした。従者もいたでしょうし、仮にも新羅王族なのですから、朝廷や地方の有力者(豪族)とも交流があったでしょう。そんな彼もやがて母国・新羅に帰ります。そして、運命の白村江の戦が起こったのです。結果は日本・百済連合の敗退。日本には母国を失った亡命百済人と共に、戦勝国・新羅も多くの新羅人を送り込んできました。その中には、かつて日本に滞在し「知日派」として知られた新羅王族の「金多遂」が含まれていたでしょう。以前は「人質」として、今度は「戦勝国のVIP」として。朝廷側は、彼をどう扱ったでしょうか? 新羅王と血縁がある人物です。丁重に扱ったでしょうし、天皇にしても、有力なコネクションを持ち、「進駐軍」と言う軍事力を背景に持つ人物にある種、「畏怖」を抱いたのではないでしょうか? だからこそ、天智天皇は自分の娘を四人までも嫁がせ、良好な関係を維持しようとしたのではないでしょうか? しかし、結果は天智の危惧した通りになりました。


672年、古代日本最大の事件、「壬申の乱」が起こりました。時の天皇・弘文天皇(大友皇子)に、先帝・天智天皇の「実弟」・大海人皇子が挙兵、遂に、「甥」・弘文天皇を倒して、新帝(天武天皇)に即位したのです。この古代最大の「内戦」を天武天皇を通して、見てみましょう。そこには事件の意外な「真実」が隠されていたのです。


まず、天智・弘文・天武三天皇の関係を一般の「皇室系図」で見てみましょう。

┌(34)舒明天皇┬(38)天智天皇┬(41)持統女帝(天武帝皇后)
│      │      ├(43)元明女帝
│      │      ├──施基皇子−(49)光仁天皇−(50)桓武天皇
│      └(40)天武天皇└(39)弘文天皇
│      
└──茅渟王─┬(35)皇極・(37)斉明女帝(舒明帝皇后)
       └(36)孝徳天皇

上記の系図でお分かりの通り、天智と天武は舒明天皇を父とする「兄弟」、天武と弘文は「叔父・甥」の関係になります。しかし、これには間違いがあるのです。例えば、


天智天皇 671年没(享年46歳)
天武天皇 686年没(享年65歳)


と言われていますが...天智が死んだのは、天武より、686年−671年=15年、つまり15年前。
すると、天智が死んだ時の天武の年令は、65歳−15歳=50歳、つまり50歳。
どうでしょう。天智が死んだ時の年令が46歳なのに、その時、「弟」の天武は50歳!! 4歳も年上の「弟」等どこにいるでしょうか? つまり、ここで、天智が「兄」で天武が「弟」と言う関係はあっさりと壊れてしまったのです。しかし、『古事記』(ふることふみ)も『日本書紀』(やまとのふみ)も、天智が「兄」で天武が「弟」と書いているのです。これは不思議としか言いようがありません。そこで新たな疑問が生まれました。天智と天武は本当に「兄弟」だったのでしょうか?


天智と天武は「兄弟」か? 私は兄弟では無かったと思います。では、なぜか? それは、天武の妃を見れば分かります。

天智天皇┬大田皇女─────────┬大津皇子
    │             └大来皇女
    ├ウノサララ皇女(持統女帝)──草壁皇子─┬元正女帝
    ├大江皇女─────────┬長皇子  └文武天皇──聖武天皇
    │             └弓削皇子
    └新田部皇女─────────舎人親王──淳仁天皇

上記の通り、天武の妃の四人までが、「兄」天智天皇の娘なのです。古代では兄弟・姉妹・従兄弟通しでの「近親婚」が珍しくなかったとは言え、「弟」が「兄」の娘を四人も娶(めと)るのは「異常」です。まるで、戦国時代、互いの娘を相手方の男子に嫁がせ、「同盟」を結んだようなものです。しかし、戦国時代と大きく違うのは、戦国時代は、「毛利」と「小早川」と言った様に、違う「家」通しでの通婚なのに対し、かたや、「兄弟」通しでの通婚です。これをどう解釈するか? 先の「年令逆転」からしても、天智と天武は血がつながっていなかった・・・つまり、「兄弟」ではなかった、としか考えられません。


天武は天智の弟ではなかった。では、天武とは一体何者なのでしょうか? これを解く鍵はその「名前」にあります。天智の名前が「中大兄皇子(なかのおおえのみこ)」なのに対し、天武の名前は「大海人皇子(おおあまのみこ)」とされています。しかし、『日本書紀』天智天皇の条には、一つも「大海人」と言う名前は出てこないのです。ちなみに、大海人皇子が皇太子(弟なので皇太弟)になったと言う664年の部分には、「大皇弟」・「東宮太皇弟」・「太皇弟」・「皇太子」・「東宮」と言った普通名詞が出てくるだけで、「大海人」と言った固有名詞は見当たりません。ここで考えられる事は、664年の立太子時に、「大海人」と言う名前を持つ人物が存在しなかったのではないかと言う事です。そう考えれば、『日本書紀』天智天皇の条に、「大海人」と言う名前が出てこなくても納得がいくのです。では、天武の本当の名は一体何だったのでしょう? 私は「金多遂」だったと思います。


天武の本名は「金多遂」だった!! 「金(キム)」と言う以上、朝鮮系です。私自身、彼は新羅人だったと思います。なぜか? 第一に、天智・弘文父子は親百済政権だったと言う事。これは、当時の「閣僚名簿」を見れば一目瞭然。主要な高級官僚は祖国を失った亡命百済人が名前を連ねています。第二に、天武即位後の思い切った「行政改革」にあります。それまでの親百済政権とは一線を画す政権を樹立し、百済人官僚の多くが冷や飯を食わせられました。第三に、天武系の諸天皇は「天皇家の菩提寺」に祀られていないと言う事実です。天智以前及び光仁以後の諸天皇が祀られているにも関わらず、なぜか、天武系は祀られていません。そして、これが核心なのですが、天武が新羅人だった最大の理由は、「壬申の乱」にあるのです。


壬申の乱で、弘文天皇率いる朝廷軍を、大海人皇子率いる反乱軍が制圧、大海人皇子は遂に天皇の座を手中に収めたと冒頭で書きましたが、これこそ、彼が新羅人ではないかと言う最大の理由なのです。時は遡りますが、「白村江の戦」以前、新羅王族に連なる一人の人物が日本に「人質」として滞在していました。彼の名は「金多遂」。「人質」とは言っても、日本の戦国時代同様、決して邪険にされるような存在ではありませんでした。従者もいたでしょうし、仮にも新羅王族なのですから、朝廷や地方の有力者(豪族)とも交流があったでしょう。そんな彼もやがて母国・新羅に帰ります。そして、運命の白村江の戦が起こったのです。結果は日本・百済連合の敗退。日本には母国を失った亡命百済人と共に、戦勝国・新羅も多くの新羅人を送り込んできました。その中には、かつて日本に滞在し「知日派」として知られた新羅王族の「金多遂」が含まれていたでしょう。以前は「人質」として、今度は「戦勝国のVIP」として。朝廷側は、彼をどう扱ったでしょうか? 新羅王と血縁がある人物です。丁重に扱ったでしょうし、天皇にしても、有力なコネクションを持ち、「進駐軍」と言う軍事力を背景に持つ人物にある種、「畏怖」を抱いたのではないでしょうか? だからこそ、天智天皇は自分の娘を四人までも嫁がせ、良好な関係を維持しようとしたのではないでしょうか? しかし、結果は天智の危惧した通りになりました。


大海人皇子(金多遂)、反逆!! そして、天智天皇の子・弘文天皇は、「大海人皇子」率いる反乱軍(その主力は進駐新羅軍ではなかったでしょうか)に滅ぼされました。しかし、これは「叔父」が「甥」を殺したのではなかったのです。天智と天武が兄弟でなかった以上、弘文が天武の甥でなかった以上、そして、天武が日本人でなかった以上、「壬申の乱」は決して「甥殺し」等ではなく、「新王朝」の始まりだった
 

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