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国家破産は秒読みの段階に入っていた。        【アラキラボ】
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投稿者 hou 日時 2008 年 3 月 10 日 00:49:16: HWYlsG4gs5FRk
 

http://www.araki-labo.jp/jecono17.htm

4. 明治・大正のカタストロフとしての昭和恐慌

 日露戦争を活写した司馬遼太郎の「坂の上の雲」の中に、この戦争を戦った日本軍は、それから30数年後の昭和の日本軍と同じ国の軍隊とは思えないほど違う、という言葉があったと記憶している。
 司馬遼太郎氏がどのような意味で云われたか知らないが、私も明治の日本と昭和の日本は、同じ国といえないほど変わったと考えている。
 その大きな過度期が大正時代であった。そこで日本は第一次世界大戦によりかって経験したことのない大バブル経済と戦後恐慌、そして関東大震災による大破局を経験した。更に、この破局に追い討ちをかけた昭和恐慌の中で、日本の政治・経済は明治のそれとは大きく変わっていった。
 それがここで云う「明治・大正のカタストロフ」である。

 どのように変わったかといえば、昭和の国家財政は巨額の借金を定常的に内包するようになった。そして、それらの資金は内政ではなく、ロシア、中国との戦争、ひいては世界を相手にした戦争とその準備のために使われるようになっていった。 
 そしてその結果、1945年に日本は国家として破綻した。敗戦である。そこに至る経済的なカタストロフが、昭和恐慌であったと考えられる。

(1)明治国家の破産を救った第一次世界大戦
★明治47年日本帝国破産!
 明治という時代を通じて、日本国は経済的に常に苦しい状態が続いていた。
 明治30(1897)年頃の経済指標を見てみよう。当時は、明治27-28年の日清戦争により、総額3億6486万円という巨額の賠償金を英貨で受取ることに成功した。
 そのおかげで従来の銀本位制から金本位制に転換することができて、ようやく経済制度面で西欧諸国の仲間入りを果たした年である。

 この年のGNPは20億円、年間の一般会計規模は1億円である。この財政規模は、当時のアメリカの中堅企業並みの大きさである。
 その小さな国が、明治27-28年に大清帝国を相手に戦って勝った。明治初期の「征韓論」は、この頃から「大アジア主義」へ拡大の様相を見せはじめ、自由民権以来の国内の不平・不満は、国外に対するナショナリズムに転化させられた。
 日清戦争の開戦時の日本の年間予算は、わずか8千万円程度に過ぎない。その少ない予算の3年分にもなる2億3千万円もかけて戦った。外国から資金を借りる信用もないので、多くは国民からの借金であった。

 小国・日本が大清帝国に勝利し、巨額な賠償金が入った。戦費を差し引いて1億3千万円も儲かった。これによって日本はやっと外国に対する正貨支払いの基礎条件ができた。日清戦争の開戦時には、海外から資金を調達するのも難しい状態にあったのに、日清戦争の勝利によって国内のナショナリズムは高揚し、海外における日本の信用は一挙にあがった。

 ところがこの状況は、日露戦争により一挙にひっくり返った。日露戦争の開戦時には、既に日清戦争の賠償金は使い果たしており、外国への支払に必要な正貨準備は、なんと5千万円に減少していた。驚くべきことに、日本はわずか5千万円の手持ち金で、超大国ロシアを相手に戦争を始めたのである。日露戦争開戦時の日本の年間予算は3億円にも達しない規模である。

 その日本の日露戦争の戦費はなんと年間予算の6倍の18億3千万円という驚異的支出額になった。日露戦争は、20世紀最初の近代戦であり、その戦争の費用も性格も日清戦争とは大きく異なっていた。
 たとえば難攻不落の旅順要塞の攻撃に使用された大砲の砲弾1発の値段が、高級官僚の年収に匹敵する高価なものであった。当時の女工さん達の安い賃金では、砲弾1発は10数人以上の年収になったであろう。

 こんな高価な砲弾を何千発も使って日本は戦い、かろうじてロシアに勝った。しかもこの日露戦争の戦費は、すべてイギリス、アメリカからの借金で賄われたものである。その上戦後に期待していたロシアからの賠償金は1銭も入らなかった。

 そのため日本経済は、明治43年から7〜8年にわたる長期の大不況に突入した。貿易赤字は増大し、もともと借金で作られている正貨準備も急速に減少した。そして、そのままいくと明治47年には、この正貨準備も底をつき、日本は国家破産が予想されるところまできていた。

 ちなみに明治40年の日本の債務残高は22億円にのぼる。その額は、日露戦争前の国家予算が2〜3億円であったことを考えると、国家債務は予算の10年分に近い巨額なものに膨れ上がっていた。そのための利払いだけで年間の予算が消滅するほどの巨額に達しており、国家破産は秒読みの段階に入っていた。
 
 この深刻な国家破産の危機の中、明治45(1912)年7月30日、明治天皇が崩御された。
  
★第一次世界大戦下の日本
 日本経済の前途に暗雲立ち込める中で迎えた大正3(1914)年6月28日、ヨーロッパにおいて第一次世界大戦が勃発した。 日本はイギリスと同盟関係にあったため、連合国の側に立って、8月23日にドイツに宣戦を布告し、陸軍は山東半島の青島を、海軍はドイツ領の南洋諸島を占領した。
 
 これらの占領地は、戦後の講和会議において、膠州湾地帯の租借権、鉄道敷設権、鉱山採掘権の継承、南洋群島の委任統治など多くの権利を獲得した上に、この大戦を通じて経済規模を飛躍的に発展させて、明治末年以来の日本の危機的な経済状況を一挙に好転させることに成功した。
 
 明治末には正貨準備が殆ど底を突き、その額は3億円台に落ち込んでいたが、戦後の大正8年には一挙に20億円になった。同年の日本の債務残高は32.7億円であるが、そのうちの外国債は13.1億円にすぎない。
 つまり第一次大戦を通じて日本は、借金国から一躍、成金国に変貌し、大戦中にはイギリスから1千万ポンドの借款が申し込まれるという信じられないほどの状態になっていた。

 大戦中の経済状況は、大正4年頃から連合国であるロシア、イギリス、フランス等から兵器、軍需品、食料品などの注文が次々に日本に殺到し、更にこれらの国々の輸出先である中国、インド、南洋の各地からも欧州品の代替として日本製品の需要が殺到した。
 一方、アメリカの経済が好転したことから生糸を始めとする対米輸出が躍進した。
外国からの原材料の輸入も増加し、日本の国内産業は活況を呈した。貿易額は急増し、大正4〜7年の4年間の貿易黒字は14億円という巨額なものになった。
 戦争による船舶不足による運賃、カーター料の高騰、保険料収入の増加などで、大正4年から7年までの受取勘定の超過は13億円に上った。

 国際貸借関係の好転、正貨の流入などを受けて、日本の国内産業は軍需産業のみならず、海運、造船、石炭、銅などの主要産業が一斉に前代未聞の活況を呈した。
 金融界も非常な発展をとげた。預金残高は大正3年末に23億円であったのが、大正7年には82億円になり、日銀の兌換券発行高は大正3年末に3.85億円であったものが、7年には12.47億円に激増した。

 物価は上昇し、日本経済はバブル景気に沸いていた。しかし物価騰貴は米相場の暴騰を惹き起こし、大正7年8月に米騒動となって全国に波及した。そして貧富の差は激しくなり、ブームの反面で争議も増えていた。

★第一次世界大戦の戦後バブルと深刻な経済恐慌
  大正7(1918)年11月11日、休戦条約が成立する少し前から、休戦を予想して商品市場に影響が出始めていた。それが休戦とともに海外市場での輸入の中止、契約解除などにより経済状況は一挙に悪くなった。

 そのため日本の国内でも、染料、薬品、鉄工業、造船などでの経営破たん、工場閉鎖、成金の破産などが始まった。金融界では不渡りが激増し、銀行の支払い停止などが起こり、金利の上昇が始まった。

 この戦後の混乱は大正8年に入って激しくなり、1-3月の景気は特に停滞した。
 しかし一方でアメリカの景気の好況が持続していたため、4月頃からアメリカからの生糸、羽二重等の注文が増加し、生糸市場が活況を取り戻し始めた。
 6月28日に講和条約が締結され、7月にはアメリカが金輸出を解禁された。これにより、戦時中に蓄積された海外債権による金が流入し、ドイツからの賠償取立ての可能性なども好材料となり、戦後不況は一転して戦時中を上回る熱狂的な好況になった。

 この大戦後のバブル景気は、日銀総裁・井上準之助が「根拠のない空景気」と警告するほど投機性が強い危険な性格をもっていたが、日本の経済界にその認識はなく強気が圧倒的に支配していた。
 大正8(1919)年4,5月から始まった景気の好転は、下半期に入ると次第に熱狂的ブームに向かい始めた。しかしその反面で、物価騰貴の被害を受けた賃金労働者の争議も頻発するようになった。

 この景気の過熱、物価上昇に対して日銀は金利を明治38年以来の最高利率まで引き上げた。物価騰貴、賃上げ要求、投機熱沸騰という狂乱的状態の中で、日銀は11月に、東西シンジケート銀行に投機抑制への協力を依頼し、更に12月には一般銀行にも投機抑制の協力を依頼していたが、それでも翌9年の春まで投機的なブームは続いた。

 大正9(1920)年3月15日、第一次世界大戦の戦後恐慌が始まった。その日、東西株式市場の崩落を契機にして、商品市価は一斉に反落し、貨物の停滞、信用の梗塞、金融の不円滑、事業の頓挫が始まった。
 その当初は単なる株の一時的な暴落と思われていたが、3週間後の4月6日には増田ビルブローカー銀行の破綻が明確になった。これによって銀行は自衛上、新規貸し出しをやめ、貸し出しを急に回収し始めた。このことから、それまでの投機熱で信用の限界まで思惑の手を広げていたものが一斉に縮小し始め、それが総崩れのきっかけになった。

 その間の経過を当時、東洋経済新報の記者であった高橋亀吉「財界史話」に見る。
 増田ビルブローカー銀行の破綻が、銀行、財界に与えたショックは激甚であった。その翌7日、株式は再崩落して立会い中止になり、三品取引所(綿糸布)、横浜生糸取引所、米穀取引所がいずれも崩落で立会い停止になった。

 この市場の混乱と不安動揺が収まらないので、首相の原敬はこの混乱を静めるために、4月25日、財界救済の声明を出し、29日には日銀が株式決済資金として5千万円を放出することを決定し、財界の不安を一先ず鎮めた。
 ところが5月25日に横浜の巨商・茂木商店が倒れ、その機関銀行であった横浜74銀行が支払いを停止した。そのショックにより十数銀行が取り付けにあって破綻したことから、5月末になって事態は深刻化した。

 大正9(1920)年の恐慌は、3月15日の東西株式市場の暴落、4月7日の増田ビルブローカー銀行の破綻、5月24日の茂木商店の破綻の3段階によって全貌を現してきた。それは当時の人々の想像を遥かに超えた大規模なものであった。
 この国内的な恐慌の波に加えて、6,7月頃からアメリカ、イギリスの戦後恐慌の影響が現われ始め、その影響は10月頃まで続いた。

 日銀の調査によると、大正9-14年の間に銀行・会社の減資・解散により整理された資本金は20億円の巨額に達して、世界大戦当時の泡沫企業はこのことにより殆ど消滅した。その意味でこの恐慌の中で「財界整理」が進行した。
 しかし一方で、会社の総資本額は、大正9年の恐慌によって激減する筈が、驚くべきことに逆に激増した。ちなみに銀行を除く会社総資本額は、大正8年に107億円であったものが、10年には154億8千余万円、13年には179億8千余万円に激増した。

 つまり、大正9年の戦後恐慌によってバブル経済は崩壊したが、その恐慌によって整理されるべきバブル企業が逆に増殖し、不良債権もその中で増え続けていった。
 その状況は高橋亀吉「最近の日本経済史」(昭和5)に詳述されている。つまり大正9年から昭和初年にいたる日本経済は、その全体がほとんど粉飾経済とでもいうべき状態にあり、その粉飾経済が昭和大恐慌によって崩壊することになった。

(2)関東大震災
 第一次世界大戦の戦後不況から回復できないまま、大正12(1923)年9月1日の正午、日本の首都・東京はマグニチュード7.9の激震に襲われた。関東大震災である。そしてその直後から2日間にわたり、東京・横浜のほとんどを焼き尽くす大火災が発生した。
 
 この災害による被災者は340万人、死者・行方不明は14万人に上った。わずか2日間の死者数は、日清・日露の戦争の戦死者の合計に匹敵するほどになった。
 物的損失は大蔵省の調査によると会社資産その他の総計で約101億円と推定されており、全国的な債権・債務の被害や個人財産の被害を合わせると、想像を越えた損害額になっていたと思われる。

 関東大震災がおこると、政府は被災地の租税の減免、非常資金の貸し出し、支払い延期令を出し、大正12年度の予算外支出として1.3億円を支出したが、本格的な復興計画としては清浦内閣が、大正12年度以降22年度にわたる7億590余万円の復興予算を作成した。
 この復興予算の大部分は公債財源により支弁されることになり、外債が発行されることになった。

 大正13年2月12日、震災復興資材購入のため、6分半付米貨公債1.5億ドル、6分付英貨公債2,500万ポンドをニューヨーク、ロンドンで募集した。大正11年には大体48ドルを維持していた対米為替相場は、大正13年11月には38ドル2分の1という最低記録を示しており、この時期の発行は著しく不利であった。
 そのため安い価格・条件で販売された公債は、「国辱公債」と呼ばれた。
  
 日本の貿易は、大戦が終わった大正7年から戦前と同様の輸入超過に転じていたが、関東大震災による復興資材の輸入のため国際収支はさらに悪化し、大正12年の貿易赤字は6.2億円、大正13年には7.2億円という過去最高の赤字額を記録して、そのことにより為替相場は更に低落した。

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