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1.三井財閥の拡大と苦悩       【財閥の改革者】
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投稿者 hou 日時 2008 年 4 月 19 日 22:19:49: HWYlsG4gs5FRk
 

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三井銀行のドル買い額はナショナル・シティ銀行、住友銀. 行に次いでいた。しかし、三井銀行は「ドル買いの張本人」であると非難され、デモ隊に. よる本店乱入や三井家に対する脅迫が相次いだ。 そうした状況の中でも、三井銀行筆頭常務の池田成彬 ...

1.三井財閥の拡大と苦悩

(1)三井財閥の拡大三井財閥は他の財閥に先駆けて、1909(明治 42)年に三井合名会社を頂点とするコンツェルン体制を確立した。そして、第一次大戦勃発直後の 1914(大正 3)年 8 月に団琢磨を三井合名理事長に就任させた。
第一次大戦ブームが出現すると、団は三井合名社長三井高棟(三井総領家当主)の全面的信頼の下で積極的な拡大戦略を展開した。その結果、5000万円で発足した三井合名の資本金は1917 年には 6000 万円、19 年に 2 億円に増資され,26 年には 3 億円に達した。

また、三井財閥の事業基盤を支えた三大直系会社の三井銀行の資金勘定(自己資金+預金)、三井物産の年商高、三井鉱山の資産額は、1915 年から 20年の大戦ブームの間で、それぞれ 3.6 倍(14,236 万円→51,165 万円)、4.4 倍(43,817 万円→152,976 万円)、3.9 倍(3,344 万円→13,117 万円)に膨張した。

拡大戦略は第一次大戦後の不況期にも継続された。とくに三井物産、三井鉱山を起点に造船、鉄鋼、石炭化学工業等の重化学工業分野への進出と信託、生命、損害保険等の金融部門の拡充・多様化が進行した。

その結果、第一次大戦勃発直前、直系・傍系 11 社、資本金合計額 1 億 6000 万円であった三井財閥の規模は、1930(昭和 5)年時点で直系・傍系 40 社、資本金合計額 10 億 3700 万円を擁するまでに肥大化した。この傘下企業の資本金合計額は主要財閥の中で最大であり、1929 年時点で三井鉱山は全国石炭産出高の 15.3%、三井銀行は全国銀行預金残高の 5.3%、三井物産は全国輸出・入高の 20.7%を占めていた。

かくして、昭和初年には「三井財閥の支配力がピークに達した時代」を迎えたのである(星野[1968])。

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(2)三井財閥に対する批判・攻撃三井財閥は最大財閥であったがゆえに、昭和恐慌期に頂点に達した財閥攻撃の標的とされた。

三井財閥攻撃の矛先は三井物産、三井鉱山、三井銀行の三大直系会社の事業活動に向けられた。三井物産については、中小商工業者が長年かけて開拓した国内外の市場を物産が強力な資本力で横取りし、また、疲弊した農村に進出して「農村の工業化」の名の下に小生産業者を同業組合に組織化し、彼らの利益を搾取していると非難攻撃された。

さらに満州事変時の張学良軍への塩の売込み、上海事変時の中国・一九路軍への鉄条網用針金の売込みは国賊的な利敵行為であり、それらの商行為を指揮、承認した物産筆頭常務の安川雄之助の利益至上主義的な経営姿勢に批判が集中した。

また、三井鉱山については、主力の三池炭鉱労働者に対して一方的に馘首や過酷な労務管理を強行し、同時に大牟田地域の政治、経済権益を独占・私物化していると非難攻撃された。そして、三井銀行については、1931(昭和 6)年 6 月のイギリスの金本位制離脱直後、国策に反して大量のドル買いを行い、日本の金本位制停止による円貨下落の中で巨利を稼いだと紏弾・攻撃された。三井物産が主導した「農村の工業化」策は小生産業者を同業組合に組織することで、商品の品質向上と競争力を強化し、農村の在来産業を輸出産業化するという側面をもっていた。

ただし、この政策によって物産自身も利益を拡大したことは事実であり、また、安川の積極経営政策は商社行動としては合理性を有していたとしても、反財閥運動が高揚する中では社会に受け入れられなかった。しかし、三井鉱山攻撃は久留米連隊の青年将校が策動したデマゴギーにもとづくものであり、三井銀行のドル買い自体も正当な商行為であった。

1931 年 9 月時点で三井銀行ロンドン支店は 8000 万円の円貨を運用していた。イギリスの金本位制離脱によるロンドン支店の円貨凍結を恐れた三井銀行は、自衛措置として横浜正金銀行から 2135 万ドル(4324 万円)を購入して、先物約定取引の履行と電力外債利払いの手当を行った。イギリスの金本位制停止後、日本内外の商社、銀行は、早晩日本も金輸出再禁止措置をとることを予想して、一斉に大量のドル為替を買い入れた。マスコミ各社は、連日、このドル為替買いの事実を私的利益の追求に走る、日本の金本位制堅持の国策に反した国賊的な投機行為であると報道した。

三井銀行のドル買い額はナショナル・シティ銀行、住友銀行に次いでいた。しかし、三井銀行は「ドル買いの張本人」であると非難され、デモ隊による本店乱入や三井家に対する脅迫が相次いだ。そうした状況の中でも、三井銀行筆頭常務の池田成彬は「三井のドル買い」の実情を公表しなかった。イギリスに凍結されている 8000 万円の円貨に 3 割、約 2400 万円の為替差損が生じており、その事実を公表すれば、三井銀行が預金取付けにあうだけではなく、当然、他の金融機関にも波及し、金融恐慌の再来が十分予想されたからである。

1931 年 12 月の日本の金輸出再禁止措置後、ドル為替差益を得た三井銀行への非難と三井財閥に対する批判攻撃はいっそうエスカレートした。そして翌 1932 年 3 月 5 日、三井合名理事長団琢磨は、白昼、三井本館玄関先で血盟団員によって射殺されてしまった。

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2.三井財閥の「転向」策

(1)池田成彬の登場団琢磨の暗殺後、財閥攻撃の嵐の中で三井財閥を防衛し、その改革を託されたのが池田成彬であった。


池田は 1867(慶応 3)年に奥州・米沢藩士の長男として生まれた。1890 年に慶応義塾別科から理財科に進学し、同年 8 月、理財科の代表としてアメリカのハーバード大学に留学した。1895 年に 5 年間の留学生活を終えて帰国した池田は、福沢諭吉の主宰する時事新報に論説委員として入社したが、わずか 3 週間で辞めてしまい、同年 12 月、中上川彦次郎による改革の最中にあった三井銀行に調査係として入行し、以後 25 年間におよぶ銀行員生活をスタートさせた。中上川に実力を認められた池田は入行2年後に足利支店長となり、1884 年には銀行視察のために欧米出張を命じられ、帰国後の 1900 年に本店営業部次長に抜擢された。1901 年に中上川の長女と結婚した池田は、中上川の死去後も順調に昇進して 1909 年には常務取締役に就任し、1919(大正 8)年には筆頭常務となった池田のトップ・マネジメントとしての最初の仕事は、三井銀行の増資と株式の公開であった。

1919 年 8 月、三井銀行は資本金を 2000 万円から 1 億円に増資した。当時、三井銀行の預金額は 3 億円を超えており、過少資本金を是正し、預金者に十分な安心を与えることが、増資の目的であった。そして、増資新株式 80 万株のうち 30 万株を公募した。前任の筆頭常務早川千吉郎は、「三井家のための三井銀行経営」を強く主張していた。これに対して、池田は「銀行は、単なる三井家の所有物ではあってはならない」という持論から三井銀行株の公開を計画し、三井高保同行社長、団琢磨三井合名理事長の支持と総領家当主三井高棟の同意を得て、同行株式の公募を実施した(三井銀行[1976])。

この株式公開は三井家の事業として最初であり、これによって三井銀行は一挙に 2000 名以上の株主を誕生させた。1927(昭和 2)年の金融恐慌の発生によって、多数の銀行が預金取付けにあい、休業・破綻した。三井銀行でも、1927 年 4 月 21 日の十五銀行の休業の余波を受けて、京都支店で預金取付けを受けた。しかし、三井銀行全体としては金融恐慌の影響は軽微で、逆に恐慌発生前後の 3 ヵ月間で 8491 万円の預金増加をみた。三井銀行の強固な信用力と金融恐慌時の池田の果断な意思決定が、同行の金融恐慌による打撃を軽減し、回復を容易にしたのである。

三井銀行は金融恐慌で破綻した鈴木商店に巨額の貸付を行っており、休業した台湾銀行に大量のコール資金を出していた。三井銀行にとって鈴木商店は大口取引先であった。しかし、第一次大戦後、鈴木商店の業績悪化が進む中で、池田は同商店への貸出しを縮小させ、無担保貸付金の回収を図った。そのため、鈴木商店倒産時に三井銀行の前者への貸付残高は担保付の 5、600 万円にすぎなかった。また、金融恐慌発生直前に三井銀行は台湾銀行に対して 3000 万円のコール資金を出していた。しかし、台湾銀行の経営悪化を察知すると、池田は同行休業 3 週間前に全てのコール資金を強引に引き上げてしまった。その結果、三井銀行は台湾銀行休業による打撃を回避できたが、池田の「台湾銀行コールの引き上げがパニックの端をなしたと」批判された(池田[1962])。

第一次大戦後、三井銀行は電力事業に対する融資と外国為替業務の拡大に力を入れた。池田は、三井銀行のような大手都市銀行の主要な任務は次世代のリーディング・インダストリーを育成することであり、第一次大戦ブームを契機とする貿易事業の拡大にともなって外国為替業務量が増大すると考えていたからである。明治末年以降の都市化の進展と重化学工業の発展をリードした電力業界では第一次大戦後、長距離高圧送電が可能となったため、電源開発・設備増強競争が激化した。三井銀行は東京電灯、東邦電力、大同電力、日本電力、宇治川電力の五大電力会社の資金需要に応じて積極的に融資し、社債発行を引き受けた。そして関東大震災後、三井銀行は米国のギャランティ・カンパニーを引き受け会社とする 1500 万ドルの東邦電力債を手始めに、日本電力、東京電灯債などの外債を米・英両国で相次いで募集した。

このように電力外債の発行と外国為替業務の拡大に力を注いでいた三井銀行が、上述のイギリスの金本位制離脱に際して、先物約定取引の履行と電力外債利払いの手当のために、大量のドル為替を購入したのは当然の経済行為であった。しかし、三井銀行はドル買いの元凶とみなされ、池田成彬は国賊視されたのである。池田はドル買い事件騒動の最中、2度辞表を提出した。しかし、その都度慰留された。

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(2)「転向」策の断行団琢磨の暗殺後

三井合名では有賀長文、福井菊二郎の両常務理事のほか、池田成彬(銀行)、米山梅吉(信託)、牧田環(鉱山)、安川雄之助(物産)の四大直系会社筆頭常務を現職のまま合名会社理事に任命し、この 6 人による合議制を敷いた。しかし、三井財閥が財閥攻撃の嵐を乗り切り、難局を収拾するためには、三井合名の業務に専念するリーダーシップをもったトップ・マネジメントの存在が必要であった、三井総領家当主三井高棟と最長老の益田孝は相談の上、「この難局を救えるものは池田成彬ただ一人」であるとして、池田を推薦した(江戸[1994])。

池田は先輩の有賀、福井の両者を差し置いて三井合名のトップに立つことを躊躇した。しかし、三井総領家の家督を高棟から引き継いだ高公の強い要請を受けて、1933(昭和 8)年 9 月、三井合名の筆頭常務理事に就任した。池田が、直ちに実施しなければならない課題は2つあった。1 つは三井家を財閥攻撃の嵐から守ることであり、もう 1 つは三井財閥の経営方針、組織機構を転換して、社会との「親和性」を回復させることであった。池田は両課題を遂行するために、三井高公の支持の下につぎの 5 つの施策を自ら立案し、不退転の決意で断行していった。


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@「三井報恩会」による公共・社会事業への寄付1933(昭和 8)年 9 月、三井家は 3000 万円を基本財産とする財団法人三井報恩会を設立し、公共・社会事業に対して寄付を行うことを発表した。その狙いは、三井「財閥は利益をほしいままにしている」との非難にこたえるものであった(三井銀行[1976])。報恩会は基本財産を順次補充する方針の下で運営され、1934 年から 41 年までの 8 年間で、総額 1363 万円の寄付を行った(表 2)。

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A傘下企業の株式公開・売出し三井報恩会の巨額寄付金を三井家といえども即座に調達する余裕はなかった。池田はこの巨額な寄付金の捻出と三井財閥による事業独占の印象を弱めるために、三井同族を説得して、傘下企業株式の公開と三井合名所有株式の放出に踏み切った。その結果、1933 年から翌 34 年にかけて、三井合名所有の三井銀行新株式、東京電灯、小野田セメント、台湾電力、北海道炭鉱汽船、北樺太鉱業等の株式が売却され、三井鉱山傘下の三池窒素工業、東洋高圧工業、三井物産傘下の東洋レーヨン等の株式が公開された。
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B三井同族の退陣三井同族は直系会社のトップ・マネジメントに就任していた。池田は、以前から「経営の才能の無いものが唯財閥の一族だという事だけで、経営の表面に立つというような事はおかしいと主張していた(池田[1949])。池田は、この自説に基づいて、三井同族を経営の第一線から引退させ、直系企業の同族色を薄めようとした。この措置に対しては、同族の中から、「こうした危機の時代にこそ三井の主人が第一線に出て働くのが国家のためになる」という強い異論が出た(池田[1949])。池田は反対する同族をねばり強く説得し、1934年 1 月から 2 月にかけて、三井銀行社長三井源右衛門、三井物産社長三井守之助、三井鉱山社長三井元之助を引退させ、後任社長に専門経営者を登用した。そして同時に、他の三井同族も三井系各社のトップ・マネジメントから引退させた。
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C安川雄之助の解任安川雄之助は有能な商社マンであり、三井物産の筆頭常務として、大正末年から昭和初年の不況期の中で物産の経営拡大を主導した。ただし、「カミソリ安」の異名をもつ安川の営利第一主義的な経営行動については批判も強く、マスコミから三井財閥攻撃の格好の材料とされていた。池田は三井批判の沈静化をはかるためにも、また「転向」を社会にアピールする上でも安川の引責辞任が必要であると判断し、彼に勇退を迫まった。安川は長老の益田孝、三井物産社長三井守之助の支援を頼んで容易に同意しなかった。しかし、総領家当主の三井高公が池田を強く支持したため、1934 年 1 月、安川は三井物産筆頭常務を辞任した。

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D停年制の実施池田は三井財閥の「転向」策の総仕上げとして、戦時体制の進展に対応できる経営者を抜擢するために、1936 年 4 月、以下の 3 点を骨子とする停年制実施を断行した。

1)筆頭理事と参与理事は満 65 歳

2)常務理事および理事は満 60 歳

3)使用人は満 50 歳この停年制は決定からわずか半月後にいっせいに実施された。そして、すでに 70 歳となっていた池田は、1936 年 4 月 30 日、停年制実施の第 1 号として、三井合名筆頭理事を退任した。
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三井財閥の「転向」策の実施後、日中戦争の勃発を契機に日本経済は戦時体制に移行した。そうした状況の中で、財閥批判と攻撃は次第に沈静化していき、財閥は戦時経済体制の有力な担い手と見なされ、やがて軍部と財界は「抱合」時代を迎えることになる。

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3.三井同族と専門経営者三井家を始めとする江戸期大商家では、主家に忠誠心をもつ番頭経営者に経営を委託していた。そうした経営委託制度は明治期以降も継続した。三井家では明治中期の「中上川の改革」後、高等教育機関出身の専門経営者が雇用され、彼らが伝統的な教育訓練を受けた番頭経営者と交代し、順次、経営の中枢に進出した。経営委託制度の下での所有者と雇用経営者の関係は、両者の「力」関係によって変化した。三井家では、「専門経営者の能力が高いときは、三井同族の発言権は弱くなり、専門経営者の力が相対的に弱いときには、同族の発言権が強くなるという関係にあった」(安岡[1998])。

そして、両者の「力」関係に同族間の対立や利害が影響した。三井家は 11 家からなる同族集団であり、各家の利害と経営意識が常に統一されていたわけではなかった。三井財閥の黄金時代をリードした三井高棟と団琢磨は同年齢で互いに信頼し合う間柄であった。しかも高棟は総領家の当主で同族の長老格でもあったから、他の三井同族は団の経営活動に干渉することはなかった。

しかし、1932(昭和 7)年の団の暗殺と高棟の引退によって、38 歳の高公が総領家当主となり、池田が三井合名筆頭常務に就任すると、三井同族は発言権を強めていった。同族の中には池田の「転向」策に難色を示す者もあり、池田は彼らの説得と同族間の意思統一に多大の時間と労力を割かなければならなかった。

池田はのちに三井合名筆頭理事時代のことを、つぎのように語っている。


「三井は 11 家あるのですが、持株の数は違うけれども、その 11 家には、やかましい人もあり、口を出す人があって、そのまとめ役というものは一通りではない。私は、あとで、『合名に行ってから、私の時間なりエナージーなりの 7,8 割まではその方に使い、あとの 2,3 割だけが本当の合名の仕事に向けられた』と述懐しましたが、全くその通りで、甲の人の言う方に決めようと思うと乙が何とかかんとか言う。乙の言うことに決めようとすると丙が何とか言う。朝から晩までそのまとめ役で手一杯です。・・・・・決めるのに暇がかかって、また決めたことを実行する点においても 11 家の主人がめいめい勝手なことをいうので、大変でした」(池田[1962]223 頁)。

三井財閥における典型的な内部昇進の専門経営者である池田成彬は、主家の三井家と事業体としての三井財閥を財閥攻撃の嵐から守るために、三井同族を根気よく説得して反対意見を押え、不退転の決意で三井の「転向」策を断行していった。しかし、池田の引退後、「軍・財抱合」気運が高まってくるにつれて、総領家当主・高公と三井合名筆頭常務・南條金雄は同族間の経営意思をまとめることができず、同族の発言力は強まっていった。

戦時体制の進展に対応するために、三井財閥は「時局産業」たる石炭液化事業、自動車工業、飛行機工業等の重化学工業分野へ進出する方針を打ち出した。しかし、そのためには巨額の事業資金を確保する必要があった。1937 年 3 月、住友財閥では住友合資会社を株式会社住友本社に、三菱財閥では同年 12月、三菱合資会社を株式会社三菱社に改組した。両財閥の本社の株式会社への改組は、節税対策と資金需要の高まりを見越して株式公開と社債発行による資金調達の道を開くことにあった。戦争経済の進行の中で、財閥同族による封鎖的所有・支配体制の本社機構を維持することはもはや困難であった。しかし、三井財閥本社の株式会社化は遅れ、複雑な経路をたどった。


まず、1940 年 8 月、三井物産が本社の三井合名会社を吸収合併し、ついで 1944 年 3 月、三井物産から「旧三井合名会社」が分離独立する形で株式会社三井本社が設立された。このように三井財閥本社の株式会社化が遅れ、しかも 2 段階の過程を経て実施されたのは、同族各家の相続税軽減対策もからんでいたが、その最大の原因は三井高公が「三井家全体をまとめ切れず」、三井合名筆頭常務の南條が「温厚、消極的で決しか
ねて、時間がいたずらに経過していった」からであった(江戸[1986])。

この点、住友の同族は 1 家、三菱の同族は 2 家であり、迅速な意思決定が可能であった。三井財閥では本社機構の株式会社化が遅れ、しかも 1940 年 8 月から 4 年間、三井物産の中に「本社」が存在するという変則的な形態をとったため、コーポレート・ガバナンス機能を発揮することが容易ではなく、戦時下の経営課題であった重化学工業分野への進出・拡充を十全に達成することができなかった

表2 三井報恩会の収支構成年   度19341935193619371938193919401941収   入 資 産 収 入千円千円千円千円千円千円千円千円株 式 配 当 金888888888888888888888888国 際 利 子214320320304274245212193銀行預金利子9030211610567 雑  収  入―11143043248 繰  越  金1,000255913660629542835329合   計2,1922,2942,1433,0812,5812,7222,3151,624(備考 繰入金)8001,2007501,000350200支   出 会 議 ・事務費92100108111112114114110 事  業  費1,8421,2761,3722,3361,9231,7691,8641,186 積  立  金34444488合   計1,9371,3801,4842,4522,0391,8871,9861,304事業費内訳︵決定額︶千円   件千円   件千円   件千円   件千円   件千円   件千円   件千円   件社会事業費(件数) 573(381)770(348)654(372)521(348)718(324)578(311)470(313)560(326)文化事業費( 〃 ) 382( 93)411( 26)401( 43)377( 48)443( 46)438( 41)414( 46)372( 37)特別事業費( 〃 ) 1,000( 1)798( 8)2( 1) 1,244( 2)799( 1)958( 6)491( 5)256( 2)  合 計 ( 〃 )1,954(475) 1,979(382) 1,058(416) 2,142(398) 1,960(371) 1,974(358) 1,374(364) 1,188(365)(出所) 三井文庫[1994]250−251頁注) 1. 株式は三井銀行新株式20万株(年8分配当)、三井信託株式5万株(年7分配当)。国債は四分利国債。銀行預金は三井銀行通知預金及び当座預金。2. 上欄の事業費と下欄(事業費内訳)の合計とが合致しないのは、当該年度に助成決定したもののなかで、事業進行の関係上、助成金を翌年度に繰 越し交付する場合があるためである。   3. 積立金は、職員の退職手当積立金。4. 事業費内訳の件数は、助成や貸付けを受けた件数である。5. 千円未満四捨五入、 ―は事実なし。−18−
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おわりに大正時代後半から昭和初年にかけて、財閥同族による「富」の集中と事業経営の封鎖的所有・支配に対する批判が高まり、その批判は財閥攻撃にエスカレートしていった。そのため、各財閥とも批判や攻撃から身を守るため、財閥の改革と近代化に積極的に取り組まなければならなかった。財閥の改革と近代化は財閥の所有者ではなく、財閥に雇用された専門経営者によって推進された。本稿で論じたように、安田財閥では結城豊太郎、三井財閥では池田成彬が改革を担当した。しかし、両財閥の改革とも、財閥同族による家産管理と事業経営の封鎖性の修正や変更を迫るものであったから、同族側の抵抗は大きかった。とくに安田は 12 家、三井は 11家からなる同族集団であっただけに、同族間の利害調整は容易ではなく、結城と池田は同族を説得し、彼らの同意を取り付けるために多くの時間とエネルギーを費やさなければならなかった。財閥批判・攻撃の矢面に立たされていた三井の場合、改革は衆人環視の下で「財閥の転向」策として実施されただけに、同族の抵抗はあったが、具体的な成果をあげることができた。しかし、安田の場合は、結城が日本銀行から移籍した落下傘型の専門経営者であったこともあって、同族と番頭出身の経営者による排斥運動を受け、改革中途で安田を去らねばならなかった。結城の退陣によって安田財閥の改革は頓挫した。その結果、安田は戦後財閥解体の対象となった十大財閥の中で最も同族支配が強く、専門経営者のトップ・マネジメント進出が遅れた、金融事業に偏重した企業集団のままで敗戦を迎えた。三井の場合も、池田の引退後、同族の経営介入によって改革の速度が鈍り、重化学工業分野進出とコーポレート・ガバナンス改革の両面で三菱、住友に後れを取ってしまった。こうした財閥改革のプロセスとそこでの財閥同族と専門経営者の関係は、第二次大戦後の財閥解体とその後の企業集団への再編成に大きな影響を与えた。解体された財閥系企業が再結集する際、要の役割を果たした社長会の結成は、住友が一番早く 1951(昭和 26)年に白水会を、ついで三菱系企業の社長会・金曜会が 1954 年に成立した。これに対して、三井系企業の社長会・二木会の結成は 1961 年までずれ込んだ。この遅れは、戦前、財閥同族と専門経営者の関係が良好であった住友、三菱系企業の専門経営者は再結集に意欲を示したのに対して、三井系企業の専門経営者は三井同族に対する反発が強く、そのことが再結集を遅らせた要因として作用したといわれている。さらに同族の支配力が強かった安田の場合は、財閥解体指令を受けると、専門経営者はそれを積極的に受け入れ、安田財閥を自発的に解体した。1952 年の平和条約の発効によって財閥商号の使用が可能になると、多くの旧財閥系企業はかって使用していた財閥名の社名に復帰した。しかし、旧安田財閥の中核企業であった富士銀行の専門経営者たちは、「安田」の行名にもどることを拒否した。−19−
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参考文献○テーマについて森川英正 [1980]『財閥の経営史的研究』東洋経済新報社武田晴人 [1995]『財閥の時代』新曜社安岡重明 [1998]『財閥経営の歴史的研究』岩波書店宮本又郎 [1999]『日本の近代 11 企業家たちの挑戦』中央公論社橘川武郎 [2002]「財閥のコンツェルン化とインフラストラクチャー機能」石井寛治・原朗・武田晴人編『日本経済史 3 両大戦間期』東京大学出版会○結城豊太郎について杉山和雄 [1975]「安田系銀行の大合同を推進した結城豊太郎」『金融ジャーナル』1975 年 7 月号加来耕三 [2004]「崩れかけた財閥を再建した大番頭 −結城豊太郎−(上・下)」『日経ベンチャー』2004 年 5 月、6 月号由井常彦編 [1986]『日本財閥経営史 安田財閥』日本経済新聞社小汀利得 [1937]『日本コンツェルン全書V 安田コンツェルン読本』春秋社秋田 博 [1996]『銀行ノ生命ハ信用ニ在リ 結城豊太郎の生涯』日本放送出版会結城豊太郎 [1974]「結城豊太郎金融史談」日本銀行編『日本金融史資料』昭和編、第 31 巻「安田保善社とその関係事業史」編修委員会編 [1974]『安田保善社とその関係史』安田不動産富士銀行編・刊 [1982]『富士銀行百年史』○池田成彬について杉山和雄 [1978]「池田成彬−転換期における財閥の改革者−」森川英正・中村青志・前田和利・杉山和雄・石川健次郎『日本の企業家(3) 昭和編』有斐閣安岡重明編 [1982]『日本財閥経営史 三井財閥』日本経済新聞社池田成彬伝記刊行会編 [1962]『池田成彬伝』慶応通信池田成彬・柳沢 健 [1949]『財界回顧』世界の日本社星野靖之助 [1968]『三井百年』鹿島出版会江戸英雄 [1986]『私の三井昭和史』東洋経済新報社三井銀行編・刊 [1976]『三井銀行 100 年のあゆみ』三井文庫編・刊 [1994]『三井事業史 本篇第三巻中』宇田川 勝(うだがわ・まさる) 法政大学イノベーション・マネジメント研究センター所長法政大学大学院イノベーション・マネジメント研究科教授法政大学経営学部教授−20−
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