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昭和恐慌の教訓       【龍尾経済論集 第7号 1999年3月 100頁〜107頁】
http://www.asyura2.com/08/hasan56/msg/469.html
投稿者 hou 日時 2008 年 5 月 10 日 23:50:54: HWYlsG4gs5FRk
 

(回答先: 特別融通損失審査会第一回委員会 ・・・ 国民の負担に於いて右三行を救済するものなり 【時事新報】 投稿者 hou 日時 2008 年 5 月 10 日 23:41:50)

http://www2.ipcku.kansai-u.ac.jp/~hamano/semi/inter_semi98/ryubi07.htm

龍尾経済論集 第7号 1999年3月 100頁〜107頁

昭和恐慌の教訓*

― 平成「恐慌」を回避するために −

 

石田裕樹 岡田一秋 川上真理子 河原 大 荘 真弓

白井健司 千野周一 塚田麻里 中澤茂樹(浜野ゼミ)

 

今日、日本は不況下に置かれている。株価は下落し、日本発の世界恐慌が懸念されている。昭和初期、世界中が恐慌に陥った時、その結末は戦争へとつながっていった。このような過ちを二度と起こさないように、恐慌を回避する策を早急に立案し、実行する必要がある。本研究グループは、今日の経済と昭和恐慌期の経済を比較し、その中から何らかの教訓を得て、最悪シナリオからの回避策を考えようと試みた。以下はその報告である。

 

1 昭和恐慌

(1)金解禁まで

1897年(明治30年)以降の日本の貨幣価値は、金本位制によっていた。金本位とは、金を貨幣価値の基準に用いるということである。当然、兌換銀行券を持つ者は紙幣と金を兌換することができる。従って、国内の通貨供給量は、日銀の保有する金の量によって決定される。実際には供給されている紙幣の量の金を日銀が保有していたわけではなく、ロンドン、ニューヨークに外国為替の形(在外正貨)もあった。しかし、原則的に金が貨幣であった。

グローバルスタンダードであった金本位制を各国が採用した理由は次の通りである。一国が輸入超過になると金が流出し、国内の通貨は収縮する。すると信用は不足がちになり、利子率が上がり国内物価は下落する。その結果、輸出は増大し輸入は押さえられる。その結果、国際収支は好転し金の流出は止まる。もし、輸出超過になり金が再び流入してくると通貨は膨張し信用は拡大して、物価の上昇と景気の回復が生ずる。

つまり、金本位の仕組みが忠実に動いていけば、一国の景気の行き過ぎによる物価の騰貴や不況による物価の下落は金の流出入を通じて自動的に国際水準に調整されるということである。しかし、金本位には次のような問題点があった。

 

@ 金本位のもとにおいて金の保有高に見合う通貨だけが常に発行されていたわけではない。現実には紙幣の限外発行などいくつかの例外があって、金の保有量と通貨量が全く同じであったわけではない。

A 金が流出し始めて利子率が上がれば、高い利子を目当てにする外国の資金が流入し、金の流出が抑制されることも多い。

B 19世紀、世界貿易と資本市場の中心はイギリスであった。そのイギリスは常に、国際収支上では受け取り超過であった。イギリスの貿易は赤字であったが、保険、運賃などの貿易外収支は黒字で、貿易の赤字を補ってもなお余りが出るほどであった。一国の国際収支が常に黒字であるならば、他の諸国の国際収支は赤字でなければつじつまが合わない。イギリスは余った黒字分を海外に投資して、他国の慢性赤字を救い、金本位制を維持させたのである。金本位制はロンドンの金融市場の行動によって支えられ、維持されていたのである。

 

(2)日本の金本位制

第一次世界大戦の後、世界経済の中心であったイギリスは債務国に転落し、ヨーロッパの参戦国の輸出余力は全くなくなった。例外は日本と米国であった。この2国はアジア・アフリカの巨大な市場を独占した。その結果、輸出超過となり、日本は債務国から債権国になった。ところが、その輸出超過の最中、1917年(大正6年)日本は金輸出を禁止し、金本位制から離脱する。

このときの理由は各国が戦時下において、金輸出を禁止したために、上海や香港あたりの投機筋が日本から金を持ち出すことを恐れたこと、また為替相場が異常に騰貴したこと、あるいは、アメリカも金輸出を禁止したので輸出超過でありながら金が流出するという変態的な状況が生じたことなどが考えられる。また、大戦のもとで日本にもどのような事変が起こるかわかったものではないと、在外正貨などは当てにならない。従って自国内に貯め込んでおいた方がよいと考えたふしもある。

金解禁にむけて大きな障害となったのは、軍部の満州への進出であった。傀儡政権を建てるにしても、その資金は日本からのものでなければ意味がない。そこで、軍部はその資金を戦争状態になっても確保できるよう、金解禁に歯止めをかけたのである。しかし、1921年(大正10年)のワシントン条約で大幅な軍備削減が国際的になされ、軍部の計画は一時頓挫する。これにより政治的な障害はなくなったが、今度は経済的な理由から金解禁に踏み切れない状態が起こった。世界恐慌である。

 

(3)金融恐慌

金解禁を行ったうえで輸入超過が続くならば、国内の金はたちまち流出してしまうであろう。それに備えて、国内の輸入品需要を切り詰めるために、消費の節約を行わなければならない。政府が率先して行ったのは、不要の歳出を節約することであった。

結果として、第一次世界大戦後の不況の痛手に加えて、不良債権を抱えているにも関わらず、バランスシートを誤魔化そうとした。売上げが少ないのに不動産の簿価を引き上げて見せかけの利益を捻出する方法などが用いられた。今日と同じような経理操作が当時も行われていたのである。

また、この頃の銀行は一部大手を除いて個人経営に近いものが多く、銀行の資産が重役の関係する事業につぎ込まれ、こげついているものが多かった。その企業が倒産するということはすなわち、銀行の運命を決めたということである。

金融界の整理と震災手形の処理を行ったのは大正15年大蔵大臣に就任した片岡直治である。片岡は金解禁の前提条件として、事実上支払い不可能であった震災手形の処理をまず行った。震災手形を抱えた中小銀行を一時救済した上で、整理し、新銀行を創立するいったヴィジョンであった。

金融恐慌の火付けとなったのは片岡の失言であった。渡辺銀行が破綻したと国会で公言してしまったのである。片岡の金融界整理手形処理策は政商救済のための法案である。不良企業と不良銀行の腐れ縁とも言うべき関係が公表されてしまうと、政府がそれに波及して起きる状況に対応することは出来ない。渡辺銀行が手形交換じりの決済が出来なくなり、頭取が大蔵次官を尋ねその旨を申し出た。法案審議の中、野党議員の質問に答えて片岡は先の発言をしたのである。

結果として法案は通った。ただし震災手形委員会を設けて厳正公平なる審査を行うことと、台湾銀行の地位を強化するために特別に設けた調査委員会によって必要な措置を行うという条件が付いた。

片岡の次に蔵相に就任したのは高橋是清である。憲政会と政友会という与野党対立の結果の人事であった。高橋は緊急勅令をもって、3週間の短期支払猶予令を発した。日本銀行については金融危機を乗り越えるために5億円以内の損失保証を約束した。これらの損失保証は合計7億円であった。これらの結果、金融恐慌は収まり、日銀から借りた紙幣を山積みした各銀行にもはや預金を引き出そうとする人の列はなかった。モラトリアム実施から3週間後、5月13日のことであった。

 

(4)金解禁の実施

金融恐慌が収まり、引き出された預金は再び銀行に戻ってきた。しかし、もとの中小銀行にではなく、当時の五大銀行(三井・三菱・住友・安田・第一)へ大量の預金が集中する結果となった。その結果、中小銀行の整理が一挙に進んだ。大手銀行や台湾銀行へは大幅な融資が行われたが、金融の流れは緩慢であり、中小企業の金融はかえって苦しくなった。

金解禁を実際に執り行ったのは田中義一内閣のあとを受けた浜口内閣の大蔵大臣井上準之助であった。金融界の大物である。井上は片岡が行った金解禁へ向けた中小銀行の整理策が失敗に終わり金融危機を引き起こした結果をみて、金解禁はまだまだ無理という判断を下していた。しかし、蔵相に就任するなり、金解禁に向けて動き出したのである。これは浜口内閣が発表した『十大政綱』にもりこまれた予算削減を背景としていた。金解禁が実施されたのは昭和5年1月11日のことである。その日を以て大正6年からの金輸出禁止を解禁したのである。

半年後、金の流出は予想の倍に達した。金解禁を行った以上は金の輸出や在外正貨の払い下げを拒むわけにいかない。昭和5年1月から5月までに外国銀行は1億2千3百万円、その他の要求を合計すると1億9千6百万円の紙幣が金に換えられ、同時期の正貨の流出は2億2千万円に達した。為替相場安定による輸入増加の為もあった。当初の金及び正貨の流出予想は1億ないし1億4千万〜1億5千万円と見込まれていた。この状況を政府は隠していた。これには議会の解散に伴う選挙への影響を考えたものである。しかし、この予想を上回る流出は結果としてやがて押し寄せる恐慌の波によって表面化せざるを得なくなる。

(5)恐慌下の日本

昭和恐慌下において日本政府は欧米と同じく、産業界の合理化を図った。臨時産業審議会をつくり、商工省を中心に臨時産業合理局を置いたのである。

もともと産業合理化というモノはアメリカで始まった大量生産のための生産機構の改善と改良を意味するモノで、フォードシステムやテイラーシステムがその代表的なものである。

昭和6年には重要産業統制法を制定、企業合同よりもカルテルによって産業の合理化の達成を目指したのである。政府はドイツにおいて行われていた産業合理化を先例とした。

その先例とは次の8項目である。

@ 工業製品の標準規格を統一する。

A 作業工程の改善、作業時間研究、工程別の生産能率の平準化。

B 動力の無駄の排除。

C 研究と機械の活用。

D 経営組織の改革。

E 無謀な競争や消費のために生じるコストの削減。

 F 作業の専門化。

 G 労働力の節約。

 紡績、鉄鋼、セメント、精糖、製粉、製紙、カーバイトなどを重要産業に定め、カルテルを形成させる。カルテルを通じて企業の自由な活動を押さえ、法律をバックに産業の統制を図ろうとし、1931年(昭和6年)「重要産業統制法」が制定された。また、企業合同と人員削減も盛んになった。退職者の補充を一切行わないとか、新卒者の賃金の大幅な切り下げ等を行い、コストの削減に努めたのである。機械工業や鉄鋼業採用者に比べて志願者数は年々増加していった。倒産する企業が続出し、倒産しない企業も、人員整理や減資によって不況の対策を構ずるのが精いっぱいであった。日本の合理化運動は人員整理の代名詞と言えるだろう。

恐慌の波が最も早くおそったのは工業界ではない。まず農業界に影響が波及した。日本の農業は繭を除いて国際競争力を持たなかったため、養蚕農家は別として、一般農家には何らの直接的な政府の保護政策は採られてはいなかった。

農家のうち最大の被害を出したのは、養蚕農家であった。当時の日本の輸出産物は生糸であったからだ。そしてその最大の輸出先であったのが、アメリカであった。農産物価格は長期にわたって低落したため、農家は所得の減少を避けるためかえって増産し、ますます値下がりが激しくなる悪循環が続いた。政府は生糸の値下がりにより、生糸商が破産しそうになれば買い上げ機関を作って保護するというような動きはみられたが、直接保護政策をとろうとしなかった。

第一次大戦後は中小企業の増加が目立った時期で、当時の輸出は中小企業によって支えられるとさえ言われた。増加した中小企業は膨張した国内消費や輸出を当てにして成立し、金融的には地方の小銀行や問屋金融にたよっていたが、金融恐慌以降、地方銀行の資金が大銀行に流れたため、十分な金融が受けにくくなった。銀行の併合が進んで、小銀行が消滅すれば金融的に苦しくなり、大銀行は怖がって中小企業へは貸し出さない、また、輸出の不振と国内需要の急減により、中小企業は激しい危機にみまわれた。

しかし、不況下でも、中小企業の数は減らず、増加していった。その状況に対して政府は大企業と同じくカルテルを作らせた。しかし、全体としてみれば統制が行われたのはごく一部で、中小企業は不況から脱出するにはいたらなかった。

また、失業率の増大は国内の消費の低下も各種産業に影響する。なかでも大卒者、インテリの失業が問題視されてくる。政府内に置いても合理化は行われた。公務員の給料の削減を行い、恩給法を改正しコストの削減に努めたのである。

 

2 平成不況

 (1)バブルの発生――アメリカに仕組まれた金融の自由化?

 1980年代初頭、レーガン大統領は高金利とドル高政策により財政赤字の拡大と経常収支の赤字をもたらした。その頃、アメリカの財務長官を努めていたリーガンはドル高、高金利がアメリカ経済の強さを示すバロメーターと理解する楽観主義者だった。この政策の失敗がアメリカの経常収支を大幅に悪化させた。そこで、アメリカはドル高・円安の原因は、アメリカの高金利のせいばかりでなく、日本の金融市場・資本市場が閉鎖的で円に投資する魅力に欠けるため外国資本が流入しにくいことが大きく影響しているというシナリオを準備した。それを受けてレーガン大統領は1983年11月に来日することになったのである。

 レーガン大統領は日本に対し金融市場の開放を迫った。それまでは、企業は主に銀行から資金を調達していたが、金融の自由化を行うと、より簡単に株や債券の発行ができるようになる。その結果、大企業を中心に銀行離れが進むのである。

 各銀行の企業預金獲得の競争が激しくなった。高利回りのものが次々に出現し預金量は増加した。しかし、大企業の銀行離れにより新たなる貸付先を求める必要が生じた。銀行は内需拡大政策による開発ブームにのる不動産業や大企業のように自由に資金調達のできない中小企業に目をつける。こうして、金融の自由化により土地や株に資金が流れるようになったのである。

1985年までのリーガン財務長官時代はドル高の動きは変わらなかった。リーガンは市場への介入は消極的だった。ところが、1985年1月から始まった第2期レーガン政権で財務長官に就任したベーカーは市場介入政策に積極的な人物だった。1985年9月22日、ニューヨークのプラザホテルでG5(先進5カ国蔵相・中央銀行総裁)を招集し、いわゆる「プラザ合意」を成立させた。その結果、歴史的速さで為替レートの円高ドル安が進んでいったのである。それにより日本は円高不況にみまわれるのである。

そこで、日銀は1985年には5.0%あった公定歩合を1987年には当時史上最低である2.5%まで引き下げたのである。その結果、景気は上向いてきたが、マネーサプライが予想以上に伸びた。 しかしながら、1987年10月ニューヨークの株式市場の大暴落が起こると、世界同時株安を抑えるための各国の協調政策に日本も歩調を合わせて、金利は低めに抑えたままとなった。

 

(2)開発ブーム

 当時の開発ブームはどのような背景の下で行われたのだろうか。まず、地方の過疎化がある。若い人口が首都圏、大都市へ流れた。企業の人手不足も手伝って過疎地域は増える一方であった。また、都心への進出する企業が増え、都心でのオフィス不足が深刻化する。それを克服するがために都心での再開発計画が持ち上がる。東京を国際金融センター化する計画である。

このような背景のもと、多くの銀行、ノンバンクからの超低金利で貸し出された資金をバックに土地開発(=土地投資)が行われた結果、地価の上昇、それに伴う株価の上昇がおこった。評価額の高い土地にオフィスを持つ企業の資産価値が上昇し、それが株価に影響を及ぼしたのである。また、金融緩和政策下での銀行による見境なしの資金投入も土地開発ブームが加熱した原因の一つである。

 地方でも開発ブームは起こった。都心の不動産価格が急騰した結果、住宅問題が持ち上がってくる。所得が増えても不動産価格に追いつかない状況であった。その結果、都心から離れた通勤圏内の宅地開発ブームがおとずれる。東京では多摩、立川、八王子までニュータウン開発の手は伸びた。バブル末期には静岡、山梨、長野あたりまで通勤圏内に含まれることになる。都市から人が地方に溢れ出したのである。

 

(3)バブル崩壊

一連の不動産市場に対する過剰な融資を規制するために、大蔵省が採った政策が総量規制である。

その内容は次の通り。全国銀行、信用金庫、信用組合、生保、損保、外銀に対し、不動産、ノンバンク、リースの3業種に対する貸出について1990年4月〜6月期(その後7月〜9月以降も継続)は1990年3月末比で純増をゼロにする。またノンバンクについても住専以外は総量規制の監視下にはいることとなった。その一方で日銀は窓口規制の強化を通じて、金融機関の貸出全体について厳しい抑制措置を行った。

総量規制後の流れをみてみよう。資金繰りが難しくなった不動産業者やノンバンクは不動産の購入に慎重になった。また、資金繰りが苦しくなったため、不動産の換金が急増した。そして不動産価格が暴落に転じるのは時間の問題となった。経済の血液を止められた規制対象の企業は経営難になり、規制対象外の住専や一部ノンバンクからの融資追加を求めることになった。

そしてバブル崩壊が起こった。住専や一部ノンバンクを経由した資金の流入だけでは、巨大に成長した不動産市場を支えることは出来ず、総量規制を解除した1991年末には売るに売れない不動産が山積みになり(コゲつく)、ノンバンクは極度の経営不振に陥った。そして巨額の不良債権の発生となる。

 

(3)公定歩合の引き上げ

バブル景気は80年代後半から90年まで続いた。それまでの日本経済は世界経済を背負っていたと、世界中の誰もが信じて疑わなかっただろう。当時の日本の対外純資産は約3千8百億ドルで世界最大であった。当時の大企業は有り余る資金を不動産、美術品に投資し、果ては犬猫にまで投資の手を広げた。これらの巨額の投資が現在の景気回復の足を引っ張る要因や環境問題となることは、当時の誰もが考えなかったことである。

これらの投資の結果は株価に反映され、株価は急騰し、円高が急速に進むのである。株価は平均3万9千円を記録し、現在の平均株価1万4千円に下降するなどと誰も予測し得なかった。そんな中に第一の警告が、株価に現れる。

1990年1月4日から4月5日に発生した株価の急落である。最高高値の約3万9千円から約2万8千円まで平均株価が下がったのである。下落率は約30%であった。バブル以前であれば、この下落の原因を突き止めるべく、調査が開始されたであろうが、当時は楽観主義がこれに取って代わり、株価は再び上昇すると考えられた。それを裏付ける形で、株価は約3万3千円まで反騰した。その背景には、日本市場は1987年のアメリカで発生したブラックマンデーほど悪い材料を持っていなかったためか、これを乗り越え海外からは、日本は世界を救ったと、礼賛の声が鳴り止まなかったことがある。このような背景で日本経済は極端な自信過剰になってしまっていた。

第二の警告は1990年10月1日から10月7日に現れた。当時最大大手銀行である住友銀行会長磯田氏の突然の辞任で、政財界を巻き込んだ多くの銀行・証券会社の不正が明るみに出たのである。当然のごとく株価に影響を与え、1992年8月には約1万4千円にまで株価は下落した。

 この間、冷戦終結によるアメリカの勝利を背景にドル買いが起こった。世界中で金利が上昇したため、日本も世界各国に協調して公定歩合を上げた。ピークである1990年8月には 6.0%まで公定歩合が引き上げられた。その理由として、@国際協調Aインフレを払拭させるため B経済の実態を離れた地価を下げるための3点が挙げられる。

 

 (4)少子化

 最近では核家族化が進んでいる。子供が3人と1人の家族とでは、1年に費やす費用が全く違ってくる。それを日本の国全体の人口とかけあわせて考えてみると、消費の減少は計り知れないものになる。この少子化の問題は、これからの先の問題にも関わってくる。

 つまり、彼らが大人になり結婚していく人間も、当たり前だが減っていくのである。すると、今現在、存在する家屋も減っていき、家具や電気製品など、今まででは新しい世帯が増えることによって売れていた物が、世帯が減ることによって売れる数が減っていく。

さらに、年金問題による将来の不透明さが国民の財布の口をしめさせている原因とも考えられる。将来もらえる年金の金額だけで生活をしていけるのだろうか、などと考えると誰でも、貯蓄にはしる。したがって、必要な物しか購入しないと言った考え方が出てくるのである。

 

3 昭和恐慌と平成不況の比較

 昭和恐慌と平成不況を比較してみると、日本の経済規模が異なるためいくつか大きく違う点が見られるが、共通点として、昭和恐慌・平成不況共に株価の下落が大きな原因であった事が挙げられる。

 昭和初期、大戦景気で日本は空前の好況であった。特に、船舶業では船成金と呼ばれる人が続々と生れまた。足元が暗いので、お金を燃やして明かりにするといった話があったほどで、決して平成のバブル期に負けることがないほどの好景気であった。しかし、戦後不況と関東大震災で景気が後退した、まさにその時、アメリカから世界恐慌の影響がおよぶことになった。その結果、日本も深刻な恐慌状態に陥った。

 アメリカでは恐慌が起こった時は誰しも、いつでもありがちなリセッションだから心配には及ばないと考えていた。不況が深刻化してきても、共和党のフーバー政府は、増税や政府の実業界への干渉を嫌う共和党の伝統があったため、ほとんど見るべき対策を打ち出せられなかった。この時、恐慌の引き金となったのが、ウォール街の株の急落である。アメリカでは「永遠の繁栄」に酔いしれていて、株が下落し始めていても極めて楽観的であった。この株価下落に対する楽観的考えはバブル崩壊時の日本にとっても同じであったと言えよう。

 1990年から発生した株価の下落の際、日銀は再び株価が上昇するだろうと公定歩合を引き上げたのである。これは、大恐慌前のアメリカが「永遠の繁栄」を信じたのと同じように、ブラックマンデー後の世界経済を救った日本は永遠の繁栄をするのだという、ひどい自信過剰になっていたためとしか考えられない。

 いずれの恐慌を引き起こした要因の中に含まれるものが大蔵・日銀の政策失敗である。昭和恐慌時の銀行の救済策は、まさに政商の救済が目的であり、経済を支えている中小銀行・企業を無視した政策であった。また、井上の行った金解禁も世界情勢を全く無視した政策であった。バブルの頃は総量規制、それに伴う地価の下落、株価の下落、政財界を巻き込むスキャンダル、金融不安から金融恐慌につながる予測と修正は明らかにできたはずであるのに行わなかった。恐慌・不況の金融機関の救済政策も昭和恐慌同様、大手都市銀・住専などの政府系金融機関を中心にしたものである。

 崩壊以前の状況はどうであったろう。どちらもバブル景気に日本中が湧き起こっていた。大正・昭和初期は好調であった紡績業に銀行・個人の過剰融資は流れていった。また、それに伴う株式市場でも同様のことが行われた。バブル期も同様に、不動産市場とそれに伴う株式市場に過剰融資が行われた。

現在、世界経済はドル本位制で動いている。ドル本位制以前は金本位制であった。昭和・平成における恐慌・不況期いずれにおいても世界経済の中心はアメリカである。金本位からドル本位に取って変わっただけである。

昭和恐慌の原因の一つに金の国外流出が挙げられる。バブル期にもドルが湾岸戦争時と冷戦の終結とともに多額のドルがアメリカ、旧東側諸国、ロシアに経済援助等の形で流出した。トロントにおける第14回サミット(1988年6月)において、旧ソ・東側諸国の累積債務改善化問題が初めて主要テーマに取り上げられて以来、医薬品や食料などの形で旧ソ・東側諸国に援助がなされた。日本による対ロシア援助は表明額約28.2億ドル。うち無償約1.8億ドル、有償26億ドル、技術支援その他が0.4億ドルである。これらは東西ドイツ統一にかかった費用の一部分である。

また、アメリカに合計140億ドル(車などの物資を含む)が湾岸戦争期に、東西ドイツ統一時に1,087億ドルがユーロ市場経由で東側諸国へ、特にロシアへの援助は相手が核保有国であるからその流出を防ぐためにも、多額の円、ドル借款をせざるを得なかった。

金やドルの保有量はその国の国力をあらわしていると言っても過言ではない。その国力が流出するのだから、その国の通貨に対する信用も低下する。90年代初頭は円高が加速し、対米貿易黒字が更新された。その後は円安にシフトしていく。1995年には株価が2万円まで上昇するが、長続きせず再び下降した。しかし、1998年現在、アメリカの好景気も翳りが見え始め、日本の貿易黒字も減少を始めている。

 

4 おわりに――不況は回避できるのか?

この不況を克服しうる策はあるのであろうか?まず、円の信用を回復させるために、金融不安を取り除くことが急務である。それには、銀行、ノンバンクが抱える不良債権の正常化を行わなければならない。しかし、今現在の公的資金投入では解決には至っていない。BIS規定などの問題が障害となっている。公的資金を投入して不良債権を正常化しても、自己資産の8%を割ってしまうのである。結果として通貨保有量を維持することになる。これが貸し渋りにつながっているわけである。小出しの公的資金投入ではなく、大量の資金を投入して現在の状況を変化させなければならないだろう。

このような状況の上に新産業の育成と新たな市場の創成を行うことが決定的に重要だろう。それにより、内需の拡大、なかんずく消費を増やさなければならない。バブル経済は1991(平成3)年に終わり、それ以降の不況はデフレであるといわれている。今、現在の生産力と需要の差、つまりデフレギャップは供給が約500兆円に対して需要が約470〜485兆円と言われており、約3〜6%の差がある。このデフレギャップの差を埋めるにはどうすればよいかと考えてみると、GDPの中身、つまり生産する物の内容を変えていく必要があると考えられる。例えば、この状況の中でも比較的売上げの伸びている通信機器や携帯電話。この両者を見てみると凄まじい速さで新しい機能の付いた新製品が出ており、更に開発を進め充実させることによって、ますます伸びていくのではないかと思われる。これからは情報産業やアメニティー産業の内容を今よりも更に充実させることによってあたらしい消費の創造をめざすへきではないだろうか。

 

参考文献

宮崎義一『複合不況』中公新書 1992年。

中村隆英『昭和恐慌と経済政策』講談社学術文庫 1994年。

高橋文利『経済報道』中公新書 1998年。

飛岡健『バブルの経済学』実業之日本社 1992年。

高尾義一『平成金融恐慌』中央公論社 1994年。

千葉明『ザ・ノンバンク』実業之日本社、1992年。

荒和雄 他『銀行の秘密』宝島社、1992年。

E・M・プリマコフ『だれが湾岸戦争を望んだか』日本放送出版会 1991年。

会田弘継『戦争を始めるのは誰か』講談社 1994年。

塩田潮『金融崩壊 昭和経済恐慌からのメッセージ』日本経済新聞社 1998年。

上田六郎『国際経済学 エッセンシャル経済学シリーズ』東洋経済新報社 1997年。

NHK『なるほど経済』1996年放送。

小川和男・渡辺博史『変わりゆくロシア・東欧経済 市場化の試練と西側の対応』中央経済社 1994年。

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