★阿修羅♪ > 国家破産57 > 916.html
 ★阿修羅♪
検証・拓銀破たん10年 特別リポート    【北海道新聞】
http://www.asyura2.com/08/hasan57/msg/916.html
投稿者 hou 日時 2008 年 8 月 21 日 02:14:55: HWYlsG4gs5FRk
 

http://www.hokkaido-np.co.jp/cont/report/

<1>西村吉正・旧大蔵省銀行局長に聞く(2007/04/25)

破たんから10年を経て、解体が進む旧拓銀本店。壊されていくその姿は、北海道経済を混乱に陥れた「震源地」のように映る=札幌市中央区

「正論」拓銀のみこむ 経営悪化なら厳正処理を

 一九九七年十一月十七日、北海道拓殖銀行が破たんした。あの激震から十年が経過しようとする今、破たんの前年まで旧大蔵省銀行局長を務めた西村吉正・早稲田大学大学院商学研究科教授(66)に「拓銀はなぜつぶれたのか」をあらためて聞いた。元銀行行政のトップは、当時の国内を覆っていた強硬な構造改革路線に国内経済が落ち込んでいく局面が重なり、国の方針を存続ではなく破たんに向かわせたとみる。(経済部 沢田信孝)

【96年夏まで】
中小行の処理で金融正常化できる

 西村氏が銀行局長に就任したのは、自民、社会、新党さきがけ三党による村山富市連立内閣が発足した直後の一九九四年七月。九六年七月に退任するまでの間、金融機関の破たん処理に道筋をつける一方で、住宅金融専門会社(住専)の不良債権問題の対応に追われた。ビルや土地を買いあさり、バブルを生み出した主役の一つである住専への公的資金投入は、その先にある問題、住専に巨額資金を貸し込んできた銀行の不良債権問題を国民に強く意識させることになった。

 −−当時、拓銀を含む金融機関経営に対する認識はどのようなものだったのでしょう。

 「銀行局長に就任し、金融機関の実情を知るに連れ、破たん処理は避けて通れないと強く感じました。ただ、その対象はあくまで中小金融機関でした。率直に言って、大手行まで破たん処理しなければならない状況だとは認識していなかった。バブルに踊った一部の中小金融機関を処理すれば、金融システムは健全化すると考え、九四年十二月から東京の二信組(東京協和、安全)、コスモ信組(東京)、兵庫銀行、木津信組(大阪)…と破たんさせた。私が局長時代、拓銀まで破たんするなどとは思いもしませんでした」

 −−しかし、そのころから週刊誌などの拓銀危機報道が徐々に盛り上がり始めました。

 「確かに拓銀と日債銀(日本債券信用銀行)に関心が集まり始めました。あのころの週刊誌は『拓銀を放っておいていいのか』『つぶさなくていいのか』と金融当局に要求を突きつけてくる感じでした。ただ、彼らも本当につぶれるかもしれないと思っていたら、ああいう書き立て方はしなかったでしょう。いざとなれば、大蔵省が救うに違いないと思っていたからこそ、無責任な内容になっていった。そんな状況ですから、外国人記者にまで、『大手二十一行は大丈夫か』と聞かれました。その記者は拓銀を念頭に置いていたのでしょうね。私は『日本の金融システムの崩壊につながる事態を防ぐのが、金融行政の責任者の役目だ』と答え、間接的な言い回しですが、『大手行はつぶさない』という政府方針を示したものです」

 −−拓銀にまで破たんが及ばないと考えた根拠は何だったのですか。

 「日本経済への自信です。日本は創意工夫によって、敗戦を克服し、オイルショックや、プラザ合意(八五年)後の急激な円高も乗り切ってきました。九五年当時、私たち行政当局はもちろん、国民全体にもまだ自分の国への自信が残っていた。バブルの後遺症を軽視したつもりはありませんが、弱い中小金融機関を破たんさせて不良債権処理すれば、景気が回復し、金融システムも正常化すると確信していたのです。拓銀が破たんする事態にまで経済状況の悪化が進むとは、考えられませんでした」

【急転の97年】
時代の空気 生き残りの道狭めた

 結局、拓銀に「退場」を宣告したのは大蔵省ではなく、「市場」だった。一九九七年十一月三日、三洋証券が破たんし、コール市場(短期金融市場)で初の債務不履行が発生すると、拓銀への信用不安も一気に高まり、株価は額面割れ寸前に。コール市場では資金の貸し手が現れず、資金繰りに行き詰まった拓銀は同十七日についに破たんした。さらに一週間後の同二十四日には、山一証券も自主廃業に追い込まれる。当時の首相は、故橋本龍太郎氏。金融改革や構造改革、行政改革などの六大改革を「火だるまになっても断行する」と宣言。それまでは当然のように受け止められていた大蔵省の「護送船団方式」が突然通用しなくなった、と西村氏は振り返る。

 −−西村さんが銀行局長を務めた九六年半ばまでは大手行を破たんさせない方針だったのに、わずか一年半後に拓銀が破たんした理由をどうお考えですか。

 「私は九六年から九七年にかけての時期を『正論の時代』と命名したい。今や小泉純一郎前首相の専売特許のような構造改革ですが、初めて本気で『思い切った改革を実行しなければ日本の将来はない』と言い出したのは橋本龍太郎さんです。実際に(金融機関の規制緩和を進める)日本版ビッグバンなどの改革に取り組んだ。筋を曲げるのが嫌いな橋本さんは『正論の人』。国民も支持した。九六年暮れから九七年半ばまで橋本内閣の支持率は非常に高かったんです。そこに拓銀と山一証券の危機が浮上した」

 −−「正論路線」が拓銀を破たんさせたと…。

 「山一の場合は『飛ばし(損失隠し)』の発覚がきっかけでした。それ以前なら経営陣は処罰しても、証券市場をめちゃめちゃにしてはいけないという政治の自制が働き、会社を残す方向に進んだ可能性もあった。しかし、『厳正に処理することが日本の将来のため』という正論によって自主廃業に追い込まれた。拓銀もこうした空気の中で、生き残りの道が狭められた側面があったように思います。時代の空気と無関係に行政運営が行われることはあり得ません。それは非常に大きな要素、いや、すべてと言っていいほどの影響を持つものです」

都銀ゆえのマイナス

 −−「正論の時代」ではなかったら、拓銀も存続できたということでしょうか。

 「難しいところです。経営難の金融機関を存続させるにしても、破たんさせるにしても、返すべき預金額と、不良化によって目減りした資産との差額は、税金などの公的資金で埋め合わせする点は変わりません。問題は、差額を税金で埋めて銀行を生かすか、銀行をつぶしてから税金で穴埋めするかの判断です」

 「当時は経済環境も悪化し、差額という穴がどんどん広がっていく状況にありました。仮に、行政当局が先に税金で穴埋めするという手段によって、拓銀を生かそうとしたとしましょう。当初は穴が一兆円だとみて埋めてみたが、二兆円、三兆円と広がっていく可能性が強い。そうなると追加支援が必要になり、拓銀は『不良債権を隠していたんじゃないか』と国民に疑われ、行政は『見込みが甘かった』と批判を浴びます。時の政権への打撃にもなりかねません。正論の時代だったからこそ、あの時期に拓銀が破たんしたとはいえますが、時代が拓銀存続を許したとして、その後もずっと行政が支え切れると判断したかどうかは微妙なところでしょう」

 −−道民には今も「拓銀は不良債権処理の実験場にされたのでは」「国に見捨てられた」という思いがあります。

 「それは断じてあり得ません。第三者の学者なら『実験してみたらどうだ』と言えるかもしれないが、大混乱が起きるのが明らかな実験をするなどというのは、行政や政治の責任ある立場の人間の発想ではありません。それでなくても、役人というのは思い切った措置を避けたがるものなのです。当時の行政当局は、ぎりぎりまで破たん回避の努力をしたと思う」

 「あえて言うなら、最終局面で拓銀の位置付けが北海道の地域経済にマイナスに作用したのかもしれません。拓銀がもっと小さな北海道の地方銀行だったら、北海道経済と拓銀の経営問題が一対一の重みのあるテーマとして議論されていたはずです。例えば(債務超過に陥り、二○○三年十二月に一時国有化された)足利銀行が生き残ったのは、地域経済への影響が配慮された点が大きかった。正論の時代にあって、拓銀は『都市銀行』の看板を背負っていたがゆえに、地域の問題が後回しにされてしまった可能性もあります。これは私の推測にすぎませんが」

【そして現在】
復活した大手行…サービスは低下

 この十年間で、日本の金融秩序は一変した。かつて、大蔵省が「つぶさない」と明言した二十一の大手行は再編に次ぐ再編により、三大メガバンクを中心とする六グループに集約された。二○○一年四月には小泉純一郎政権が発足し、竹中平蔵金融相が「金融再生プログラム(竹中プラン)」を公表(○二年十月)、大手銀行に○五年三月末までに不良債権比率の半減を求めた。国内景気回復の追い風に支えられて目標は達成され、金融庁は同年五月に金融システム正常化を宣言した。拓銀破たんが残した教訓とは−。

 −−小泉・竹中改革への評価は。

 「ハードランディング論者と言われる竹中さんですが、政策的には実はソフトランディング路線でした。竹中さん以前の約十年で拓銀を含め百八十の金融機関が消えましたが、竹中さん以降は実質ゼロ。足利銀行もりそな銀行もつぶさなかった。金融システム崩壊の危険性をよく認識されていたと思います。それでも『改革者』の印象が強いのは、努力しない経営陣の首を飛ばすなど、銀行経営者に厳しい姿勢を示したからです。改革を掲げる小泉政権の維持に必要な演出で、役人にはできないことです。竹中さんは学者ながら、優れた政治家でもあった」

 −−拓銀危機の当時に竹中さんが指揮を執っていたとしたら…。

 「それでも拓銀は救えなかったでしょう。日本経済は○二年一月から回復期に入りました。小泉政権の誕生とほぼ同時期です。こうなると金融機関を生かしておく方が悪影響は少ない。貸したお金が返ってきて、不良債権の穴がどんどん小さくなる。りそなグループの公的資金も戻る見通しです。竹中さんの手腕は評価しますが、日本経済の回復が大きく寄与したのです。とはいえ、不良債権処理に使われた九十兆円の大半は金融機関が負担した。破たんせずに済んだ銀行も、高度成長期から蓄積した資産をすべて吐き出す痛みがあったことを忘れてはならないでしょう」

 −−拓銀破たんが残した最大の教訓は何だと考えますか。

 「何が、と問われると難しいですが、『金融機関もつぶれる』という認識ではないでしょうか。競争に負けると市場から退場しなければならないのが市場主義です。ところが大蔵省の護送船団方式の下、金融業界だけは、負けても退場しないのが当たり前だったのです。この価値観の下で、金利自由化や銀行の証券参入などの制度改革をやっても、どの銀行も率先して経営改善やサービス強化に取り組もうとはしません。ところが拓銀が破たんし『競争に負けると落ちこぼれるぞ』となった途端、金利自由化などの取り組みが表面化してきた。この十年で三大メガバンクに集約される大再編が起きたのも業界の意識改革があったからでしょう」

 −−一方でそうした金融業界の経営改善が預金者に十分に還元されているとは思えません。

 「メガバンクの寡占化を国民が認めたのは、経営安定と引き換えに優れたサービスと国際競争力向上を期待したからです。ところが、店や現金自動預払機(ATM)の数が減り、ATMの前にお客の長い行列ができている。同じ銀行の別の店に金を振り込んでも手数料が取られる。海外での活躍もほとんど聞かない。金融危機を教訓とした合理化を否定しませんが、規模が大きくなったのにサービスが低下している現状はおかしい」

 「メガバンクが北海道などの地方都市に営業攻勢をかけ、信金と客を奪い合っているのも問題です。メガバンクは地域の金融機関を追い込むために経営規模を拡大したわけではない。もっと国民の期待に応える事業を進めてほしい。それが拓銀破たんという痛みを無駄にしないことだと思うのです」

http://www.hokkaido-np.co.jp/news/economic/

観光再興 <第2部>脱却
観光再興 <第1部>曲がり角
検証・拓銀破たん10年 第5部
検証・拓銀破たん10年 第4部
検証・拓銀破たん10年 第3部
拓銀破たん10年 教訓に学べ 高向巌・宮脇淳両氏が語る
合併破談真相は 藤田前道銀頭取に聞く 検証・拓銀破たん10年
検証・拓銀破たん10年 第2部
検証・拓銀破たん10年 第1部
検証・拓銀破たん10年 特別リポート

 

  拍手はせず、拍手一覧を見る

 次へ  前へ

▲このページのTOPへ      HOME > 国家破産57掲示板

フォローアップ:

このページに返信するときは、このボタンを押してください。投稿フォームが開きます。

 

  拍手はせず、拍手一覧を見る


★登録無しでコメント可能。今すぐ反映 通常 |動画・ツイッター等 |htmltag可(熟練者向)
タグCheck |タグに'だけを使っている場合のcheck |checkしない)(各説明

←ペンネーム新規登録ならチェック)
↓ペンネーム(2023/11/26から必須)

↓パスワード(ペンネームに必須)

(ペンネームとパスワードは初回使用で記録、次回以降にチェック。パスワードはメモすべし。)
↓画像認証
( 上画像文字を入力)
ルール確認&失敗対策
画像の URL (任意):
投稿コメント全ログ  コメント即時配信  スレ建て依頼  削除コメント確認方法
★阿修羅♪ http://www.asyura2.com/  since 1995
 題名には必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
掲示板,MLを含むこのサイトすべての
一切の引用、転載、リンクを許可いたします。確認メールは不要です。
引用元リンクを表示してください。