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温故知新 新自由主義 ピノチェト(ラテンアメリカ史の重大場面を読む)
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投稿者 あ+ 日時 2008 年 11 月 30 日 15:37:54: 8WlTWJKy3iQ86
 

(回答先: 温故知新 新自由主義 アジェンデの遺言(マスコミに載らない海外記事) 投稿者 あ+ 日時 2008 年 11 月 30 日 15:30:46)

1973年9月11日、チリ・サンティアゴ もう一つの911

9.11と言えば、まずたいていの人が2001年9月11日にニューヨークで起こったテロ事件のことを思い浮かべるでしょう。しかし、この事件の 28年前、1973年の同じ9月11日に、ニューヨークのテロにも匹敵する惨劇として現代史にその名を刻まれている大事件が起こっています。舞台は、南米のチリです。

チリ・サンティアゴの大統領府(通称モネダ宮)1989年11月、ピノチェト時代の最末期→

前史

チリは、1818年にスペインから独立し、その当初は別にして、19世紀中頃からは1930年代初頭の短期間を除き、ほぼ一貫して民主的な選挙に基づく政権運営が続いていました。もちろん、その民主的な選挙というのは、当初はごく限られた上流階級だけが参加できるものでしかありませんでしたが、 1884年にはラテンアメリカで最初の普通選挙(ただし男子のみ)が実施されています。また、20世紀の諸島以来、労働者階級を代表する左翼政党も、着実にその力を伸ばし続けてきました。1973年のその日までは。

チリの左翼政党は、1863年に、当時の支配的政党であった自由党から分裂して結成された急進党を起源とします。余談ですが、結成直後の1870年代、この党の国会議員にラモン・アジェンデ・パディンというバスク系の人物がいました。彼の家系は、どうやら代々政治と急進的思想と縁が深いらしく、彼の孫も左翼的な思想を抱いて政治の世界に進みます。サルバドール・アジェンデです。(ラモン・アジェンデは1884年に39歳の若さで亡くなっており、 1908年生まれのサルバドール・アジェンデは、当然この祖父と直接の面識はありません)
しかし急進党は、その後政策を右に左に転々とさせ、その間に左派が1887年に分裂して民主党を創設します。更に1912年、民主党から分裂したルイス・エミリオ・レカバレンらが社会主義労働者党を結成、1922年にはチリ共産党と改称します。
共産党は、1920年代に一時非合法化されたことがありますが、その勢力は着実に増加していきました。

それとは別に、1932年、空軍の司令官であったマルマドゥケ・グロベらがクーデターを起こし、たった12日間で崩壊するものの、「社会主義共和国」の成立を宣言するという事件が起こります。この社会主義共和国の中心メンバー、支持した左翼諸政党(チリ共産党は支持しなかった)が大同団結し、翌 1933年にチリ社会党が結成されました。その結成メンバーの一人に、25歳の若き医師、サルバドール・アジェンデの名もあったのです。

1938年、急進党・共産党・社会党など左派政党・労働組合・各種団体が統一して「人民戦線」を結成、急進党のペドロ・アギレ・セルダを大統領に当選させることに成功します。チリ社会党からは、当時30歳のサルバドール・アジェンデが保健大臣として入閣しました。その後、アギレ・セルダの死去、急進党の右傾化などによって人民戦線の結束は次第に崩れていきますが、1946年までの8年間、この政党連合が政権を握り続けました。
1946年、統一戦線は崩れ、社会党が脱退し急進党と共産党だけの連合によって、急進党のガブリエル・ゴンサレス・ビデラが大統領に当選します。共産党はそのときまで、事実上の与党でありながら、閣外協力に留まって閣僚のポストを得ていませんでしたが、このとき、チリ史上初めて共産党員が閣僚に就任したのです。

ところが、1948年、東西冷戦とともに米国の意向に従って保守化したビデラ大統領は、突然共産党の閣僚を解任し、チリ共産党を非合法化したのです。共産党は、同じ大統領の下で連立与党から非合法政党へという急転直下を味わうことになります。共産党の活動禁止は10年続き、1958年にイバニェス政権の元で合法化されました。(このイバニェスという人物も、政治姿勢を左右に何度も大きく流転させており、1920年代に大統領を務めたときは共産党を非合法化した当人だったのですが、その後社会党に接近し、今度は非合法の共産党を合法化したのです)

それ以降、社会党と共産党、労働組合は一貫して共闘態勢を組み、1958年、1964年、そして1970年と3回の大統領選挙に社会党のサルバドール・アジェンデを立候補させ続けます。1958年の選挙では、「人民行動戦線」を名乗るアジェンデは28.8%の得票を得ましたが、アレッサンドリ(右派の国民党)とわずか3万票、得票率で3ポイントに満たない差で当選を逃しました。
続く1964年の選挙では、アジェンデは得票を39.9%まで伸ばしたものの、対立候補のエドゥアルド・フレイが右派の国民党と中道のキリスト教民主党の一致した支援を受けたため、大差での敗北となりました。

そして、1970年、アジェンデにとって3回目の、そして最後の大統領選挙を迎えたのです。

 

1970年大統領選挙

1970年の大統領選挙はアジェンデにとって苦難の道でした。過去2回の大統領選での敗退で左翼勢力は意気消沈し、その結果として社会党内で暴力革命を指向する勢力が拡大します。一方で、あくまでも選挙による政権獲得を目指す共産党は、社会党のアジェンデではなく、後にノーベル文学賞受賞を受賞する詩人で共産党員のパブロ・ネルーダを独自候補に指名しようとしました。ところが当のパブロ・ネルーダがこれを辞退、選挙1年前の1969年10月に、やっとアジェンデが3度目の左翼統一候補に選ばれたのです。
しかし、一方でアジェンデに有利なことも起こっていました。1964年の選挙では「反アジェンデ」という一致点で共闘した中道のキリスト教民主党と右派の国民党が決裂して、別々の大統領候補をたてたのです。また、キリスト教民主党から左派が分裂し、左翼陣営に加わったことも大な意味を持ちました。更に、一時は完全に右派政党となっていた、かつての人民戦線の一員、急進党が急激に左傾化して左翼陣営に回帰してきたのです。

1969年12月、社会党・共産党・急進党・人民統一行動戦線(MAPU)と社会民主党・独立人民行動(AVI)の6政党が「人民連合」を結成し、 1970年9月の大統領選挙に臨みます。MAPUと社会民主党は、前回選挙の後キリスト教民主党の左派から分裂した小政党です。

選挙は、前々回1958年の大統領選挙とほぼ同じ組み合わせになりました。右派は国民党のアレッサンドリ、左派は人民連合のアジェンデ、そして中道がキリスト教民主党のラドミロ・トミッチという三つ巴の対決です。当時のチリ憲法の定めによって、大統領の連続再選は禁じられていました。だから58年に当選したアレッサンドリは64年の大統領選には立候補できず、1期空けた70年の大統領選に挑戦した一方、現職のキリスト教民主党のフレイも、70年の選挙には立候補できなかったのです。一人、落選を重ねたアジェンデだけが3回続けての立候補が可能でした。
大統領選の投票は70年9月4日行われました。36.3%の得票で1位になったのは人民連合のアジェンデです。遂に、3度目の挑戦で初めて、1位となったのです。しかし、まだ大統領に当選したわけではありません。チリの当時の選挙制度では、過半数の得票を得る候補者がいない場合は、国会議員によって得票1位と2位の候補者の決選投票が行われることになっていました。(1989年の民政復帰後は、決選投票は国会ではなく、1回目の投票と同じく一般投票で行われる)
アジェンデは1位にこそなりましたが、2位のアレッサンドリとの得票差はごくわずかで、得票率50%には遠く、国会での決選投票に当選はゆだねられたのです。
ただし、実際にはチリの歴史始まって以来、大統領選で1位となった候補者が、国会の決選投票でひっくり返されて落選した例はありませんでした。1958年の選挙で、わずかの差で2位となったアジェンデは、策を巡らせればこの決選投票で逆転することも不可能ではなかったかもしれませんが、民主主義の慣例を遵守して、あえてそうせず、決選投票ではアレッサンドリを支持したのです。

しかし、そのときのお返しで今度は右派が決選投票でアジェンデを支援、というわけには行きませんでした。彼らはなりふり構わず、とにかく左翼政権を阻止したかったのです。その背後には、自国の「裏庭」での左翼政権樹立を阻止したい米国のニクソン大統領とキッシンジャー国務長官の意向がありました。 CIAは、アジェンデ政権を阻止するためのあらゆる謀略を駆使しました。のちにコルビーCIA長官が証言したところによると、1962年から70年までの期間だけで、アジェンデ当選阻止のためにCIAがつぎ込んだ資金は1000万ドル(当時のレートなら36億円以上)を越えています。アジェンデ自身の暗殺も、CIAの選択肢には含まれていました。ただし、実際に暗殺の標的にされたのは、別の人物でした。

 

シュナイダー暗殺とアジェンデの就任

チリの軍部には、この当時不穏な空気が漂っていました。

1930年代、空軍司令官のグロベが「社会主義共和国」を樹立したクーデター以来、チリではクーデターによって樹立された政権はありませんでした。これは、クーデターが日常茶飯事のラテンアメリカにおいては、ほとんど奇跡的なことと言って良かったのです。政権は民主的な選挙によって選ばれ、軍隊は政治に介入しない、という当たり前のことが、チリでは当たり前に行われてきました。このときまでは。
しかし、アジェンデの大統領当選の可能性がささやかれはじめた1969年頃から、アジェンデ政権を阻止しようという意図に基づくクーデター未遂事件が頻発するようになりました。もっとも、それらのクーデター未遂事件は、ことごとく失敗に終わりましたが。陸軍総司令官レネ・シュナイダー将軍の威光が行き届いていたからです。

レネ・シュナイダー、更にその後任となったカルロス・プラッツは、アジェンデに協力的だったこと、その悲劇的な最期と、後のピノチェトの反動ぶりとの対比から、進歩的な軍人とみなされることが多いのですが、実際のところ個別具体的にどの程度進歩的だったのかはわかりません。ただ、彼らはチリ軍部の伝統に基づき、軍は政治に介入してはならないという信念、国民党政権であれキリスト教民主党政権であれ、そして左翼政権であれ軍は民主主義によって選ばれた政府に対して忠実であらねばならないという、ごく当然の信念を持っていたことだけは、はっきりしています。しかし、その当たり前の信念の持ち主が陸軍総司令官の地位にいることが、いかなる非合法な手段を用いても左翼政権を阻止したい右派勢力と米国政府にとっては、邪魔だったのです。

10月22日、前年にクーデターに失敗して軍部から追放されていたビオー将軍の一派が、CIAの支援を受けてレネ・シュナイダー司令官を襲撃します。銃弾を浴びたシュナイダーは、4日後に死亡しました。
しかし、このあまりに露骨な反アジェンデ派のテロは、結果としてみれば逆効果となってしまいました。
襲撃と連動して行われるはずだったクーデターは未然に封じ込まれて失敗しました。キリスト教民主党も国民党も、ここでアジェンデ落選に動けば「テロリストの同盟者」であると自ら認めることになってしまいます。また、さすがに彼らもテロリストの背後にCIAがいることが、自国の独立の危機と感じられたようです(もっとも、このときまでにキリスト教民主党にも国民党にも相当額のCIAの工作資金が流れ込んでいたのですが)。結局、国会での決選投票は大差でアジェンデの勝利となりました。1970年10月24日のことです。史上初めて、選挙によって社会主義政権が樹立された瞬間です。
シュナイダーの後任の陸軍総司令官には、やはり軍は政治に関与してはならないという信念を持つカルロス・プラッツ将軍が就任しました。

 

社会主義へのチリの道

政権を獲得したアジェンデの人民連合は、最初の1年間にめざましい業績を上げます。チリの基幹産業である銅鉱山を国有化、物価凍結令と賃金一律引き上げ令などの社会主義的な経済改革が実施され、それが好結果を生んだのです。71年4月に行われた統一地方選挙で、人民連合は躍進し、得票率はとうとう 50%を越えました。
しかしその一方で、左翼諸党派の内部対立も次第に表面化し始めました。

人民連合は、先に述べた6政党の連合体ですが、実はそれ以外にもう一つ、人民連合には加盟していないものの大きな影響力のある、一つの左翼組織が存在しました。左翼革命運動(MIR)です。キューバ革命の影響を受けて、1965年に社会党左派から分裂した組織で、武力革命を目指して議会主義を否定し、それゆえ選挙にはいっさい参加せず、選挙のための共闘組織である人民連合にも加わっていませんでした。しかし、共産党を除く人民連合内各党の内部には、MIRの路線を支持するグループが存在し、特にMIRの出身母体である社会党左派ではその勢力は侮りがたいものとなっていったのです。彼らは、土地占拠や工場占拠などの過激な行動を繰り返し、あくまでも議会主義・民主主義に基づく改革を行おうとする共産党や社会党の中間派などとのあいだで亀裂が目立ってきます。

それでも、この亀裂はチリの経済が好調であった間は、それほど目立たなかったのです。しかし、政権が丸1年以上経過して1972年にはいると、チリの経済状態は急激に悪化し始めます。物価は統制令で安価のまま、賃金は一律にアップという、ある意味では天国のような政策は、残念ながら経済が好調でなければ維持できるものではありませんでした。アジェンデ政権は、チリ経済の屋台骨である銅鉱山を国営化することで、その収入によってこの政策を賄おうと考えていたと思われますが、銅の国際価格が低迷したことと、銅鉱山の旧経営陣が徹底的にサボタージュしたために、思惑どおりに行かなくなってしまったのです。
米国が、戦略備蓄として保有していた銅を大量に売却して、銅の国際価格を下落させ、それによってチリの経済状態を悪化させようと画策したことが、後に明らかになっています。

物価の上昇圧力に価格統制令は耐えられず、72年3月に撤廃されます。以降インフレが猛烈な勢いで進行し、それとともに物不足も激しくなります。73年2月には、食料品が配給制になるところまで追い込まれます。
その一方で、CIAは国民党やキリスト教民主党など反アジェンデ派に大量の資金を援助してその活動を支援し、また人民連合内でもっとも思想的に不安定な急進党を狙い撃ちにして札束攻勢をかけて、党内右派を分裂させて反アジェンデ派に転向させることに成功します。

このような危機的な状況の中で、人民連合内部の亀裂も拡大していきました。MIRを中心とする急進派は土地占拠・工場占拠と自主管理を激化させ、また軍部やキリスト教民主党に対して妥協の道を探るアジェンデや共産党との対立が拡大します。一方反アジェンデの右派はCIAの資金で連日激しい反政府運動とサボタージュを展開します。右翼のテロリストも盛んに破壊活動を行い、国内は混乱状態に陥りました。

しかしそれにも関わらず、アジェンデの背後には、依然として熱烈に支持する民衆がいました。73年3月に行われた国会議員選挙で、人民連合は43% の得票を獲得したのです。これは、2年前に行われた統一地方選挙よりは後退ですが、アジェンデが当選した大統領選の得票率36%よりはるかに多かったのです。反アジェンデ派は、2/3を越える議席の獲得を目指していました。国会議員の2/3以上の賛成があれば大統領を罷免できるからです。結果は罷免の権限を手にするどころか、大幅な後退でした。
しかし、国民党とキリスト教民主党、それに急進党から分裂した左翼急進党(名前は左翼だが中身は右派)が反アジェンデで結束している限り、彼らが国会議席の過半数を制していることは歴然としています。また、この件で選挙によってアジェンデを政権から引きずりおろすことが不可能と悟った右派は、公然と軍部のクーデターに荷担するようになっていきます。
そのような意味では、議会選挙に辛勝したことで、政治的には人民連合は追い込まれていきます。

 

高まる危機

73年6月、陸軍の機甲部隊が反乱を起こします。このときは、クーデター計画が事前に露見して逮捕されそうになった首謀者が準備不足のまま、半ば自暴自棄的に決起したもので、3時間で鎮圧されました。しかし、早朝とはいえ首都サンティアゴのど真ん中で、機甲部隊が大統領府に向けて戦車砲と機関銃を乱射し、20名以上の犠牲者を出したのです。チリの民主主義は大きく揺らぎました。この事件によってクーデターの脅威は現実のものとなり、以降人民連合内の急進派は、対抗措置として武装化を指向するようになります。

反アジェンデ派のテロとクーデターの脅威、デモとサボタージュ、対して与党内では武力革命路線の急進派と反政府勢力との対話を指向する穏健派の対立、進退窮まったアジェンデは、大統領信任の国民投票を目指します。信任投票で過半数を取れば、国民の支持があるということを見せつけることで反政府派に対して優位に立つことができるし、負たら負けたで、政権を潔く返上して、名誉ある撤退によって人民連合を立て直そうという意図があったようです。また、国民投票は武力蜂起で社会主義革命に突き進もうとする与党内急進派に対して、あくまでも民主的な制度によって決着を付けるのだという宣言でもありました。そのため、共産党は国民投票に賛成、社会党左派は反対しますが、最終的にアジェンデの強い意向によって、実施が決まります。

もし、この国民投票が実施されていたら、どういう結果になったでしょうか。得票率の合計から考えれば、不信任が過半数を制する可能性が高かったでしょう。アジェンデも共産党も、そのことは覚悟の上でした。しかし、アジェンデには与党のもつ基礎票を越えて、個人的な人気もありましたから、勝てる可能性もゼロではなかった。いずれにしても、直前の国会議員選挙の結果から類推して、大差での敗北は考えられず、負けるにしても僅差での名誉ある撤退が可能だったでしょう。

しかし、実際にはこの国民投票は行われることがありませんでした。アジェンデ打倒を目論む勢力は、民意がどうあろうがアジェンデの政権を維持させるつもりも、名誉ある撤退をさせるつもりもなかったのです。

クーデターを押しとどめている最後の砦は、立憲派の陸軍総司令官プラッツ将軍でした。しかし、軍内部の強烈な圧力、直接的には軍人の妻たちがプラッツ将軍の自宅に抗議デモに押し寄せたことによって、プラッツは73年8月23日に辞任を余儀なくされます。後任の総司令官が、アウグスト・ピノチェト将軍です。クーデターへの最後の砦は、このとき取り払われたのです。

 

1973年9月11日

73年9月11日、人知れずクーデターは動き出しました。最初に血祭りに上げられたのは、軍内部の左派・もしくは立憲派の将兵でした。軍は政治に介入してはならないとの信念を持つ立憲派の雄、陸軍のカルロス・プラッツはすでに辞任に追い込まれていましたが、同様の信念をもつ海軍総司令官モンテーロ提督を筆頭に、上は将軍・提督から下は兵士に至るまで、多くの軍人が逮捕され、あるいは人知れず抹殺されたのです。その中には、一時アジェンデ政権の閣僚を務めたこともある空軍のアルベルト・バチェレ准将も含まれていました。逮捕されたバチェレ准将は、半年後に拷問死を遂げることになります。彼の娘は社会党の活動家であったため、やはり逮捕され拷問を受けますが、かろうじて生き延びて釈放され、国外に亡命しました。32年後の2006年に、チリ社会党から大統領に当選することになる、ミシェル・バチェレです。

朝6時、首都サンティアゴの西約200kmにあるチリ最大の港町・軍港であるバルパライソで、海軍が反乱を起こします。海軍ナンバー2の第1管区司令官メリノ提督が、総司令官モンテーロ提督を逮捕して実権を奪い、市内を制圧、人民連合に属すバルパライソ市長も逮捕されました。
同時刻、首都サンティアゴでは、私邸にいるアジェンデの元に、反乱発生の報がもたらされます。バルパライソで海軍の反乱発生、しかし詳細は不明。陸海空軍の総司令官に電話を入れるも、誰も電話に出ません。ただ、陸海空に並ぶ第4の軍隊である治安警察軍(通称カラビネーロス)の司令官だけが電話に出ました。

朝7時20分、アジェンデは私邸を出て大統領府(通称モネダ宮)向かいます。このときは、まだ官邸に向かうアジェンデの車列はカラビネーロスの護衛の下にありましたが、上空には、すでに反乱に加わった空軍のホーカー・ハンター戦闘機が飛び回っていました。
9時少し前、モネダ宮から窓の外を眺めていたアジェンデは信じられない光景を目にします。それまでモネダ宮を警備していたカラビネーロスの部隊が突然退却を始め、あろうことかモネダ宮に銃口を向けたのです。アジェンデのとなりには四軍の司令官の中で唯一大統領に従っていたカラビネーロスの司令官が立っていましたが、彼の命令はもはや通じません。クーデターに荷担するメンドーサ将軍に実権を奪われたのです。
ほぼ同じ頃、反アジェンデ派のラジオ局が、陸海空軍とカラビネーロスの四軍総司令官による政権奪取の共同宣言を読み上げます。中心となったのは、陸軍総司令官に就任したばかりのアウグスト・ピノチェトでした

アジェンデが完全な敗北を悟ったのは、この時だったかもしれません。しかし、この状況を前に、アジェンデは自らの思想と良心に殉じることに命を賭ける覚悟を決めたのです。

10時、モネダ宮の前に陸軍の戦車部隊が姿を現し、砲口を向けます。
10時15分、アジェンデは大統領執務室の電話を取り上げました。電話の先は、共産党系のラジオ局、マガジャネス放送でした。この時点でまだ反乱軍に制圧されていなかった、唯一の左翼系ラジオ局です。執務室の電話を通じて、アジェンデは放送を行います。

我が友人たちよ。
おそらく、これがあなた方に向かって話をする最後の機会となるでしょう。空軍は、ポルタレス放送とコルポラシオン放送の放送塔を爆撃しました。
私はつらくはありませんが、失望しています。私の言葉は、誓約に対する裏切りをなしたチリの兵士たち、任官された司令官たち、自薦で任官したメリノ提督、浅ましいメンドーサ将軍たちへの、道徳的な罰となるでしょう。彼らは昨日、政府に対して忠誠を誓ったばかりなのです。カラビネーロスを指揮する将軍も、任命されたばかりです。

何よりもまず、私はこれだけは労働者たちに申し上げることができます。私は決して辞任しない、と。
この歴史的な危機に際して、私は、支持してくれた人民に我が命をもって報います。我々の蒔いた種子は、多くのチリ人の、誇り高き良心に受け継がれ、決して刈り取られることはないと、私は確信しています。軍部は武器を持ち、我々を屈服させるでしょう。しかし、犯罪行為であろうと武器であろうと、社会の進歩をとどめることはできないのです。
歴史は、我々のものであり、人民がそれをつくるのです。

我が祖国の労働者たちよ!
私は、正義を熱望し、憲法と法を重んじることを誓う一人の代弁者にすぎません。その私を常に支持し、信頼していただいたことに、感謝を申し上げたい。この最終的な瞬間、あなた方に話しかけられる最後の機会に、私は教訓を生かしたいと思います。
シュナイダー将軍がさし示し、アラヤ司令官が再確認した軍部の伝統を破壊するような雰囲気を、外国資本、帝国主義、反動主義の連合は作り上げたのです。彼らは、今日期待に胸を膨らませて家にいるのです。他人の手によって、彼らの利益と特権が奪回されることを願って。

私は、何よりも、この土地の質素な女性に、我々を信じてくださった農民女性に、働き者の女性労働者に、我々が子どもたちの心配をしていることを知る母親たちに向かって、申し上げたい。私は、我が祖国の職人たち、資本家の利益を守るための職人協会の騒乱に抗して日々働いている愛国者の職人たちに申し上げたい。
私は、歌い、楽しみと闘争の精神に身をゆだねる若者たちに申し上げたい。私は、チリの男たちに、労働者に、農民に、知識人に、それに多くの人々に申し上げたい・・・・・、なぜなら、我が国においては、ファシズムによるテロが以前から存在しているからです。彼らは、行動する義務を負う者たちが沈黙している前で、橋を吹き飛ばし、鉄道を寸断し、石油とガスのパイプラインを破壊し、我が国を損なってきたのです。歴史は、彼らを裁くでしょう。

ひょっとして、マガジャネス放送はもう沈黙していて、私の声はあなた方に届いていないかもしれません。しかし、それでもいい。あなた方はきっと聞いているでしょう。私は、永遠にあなた方の元にいる。少なくとも私の記憶は、祖国に忠実な一人の男として残るでしょう。
人民は、きっと身を守り、犠牲にはならないでしょう。人民は、破壊され、蜂の巣にされたままであってはなりません。屈服したままであってはなりません。

我が祖国の労働者たちよ!
私は、チリと、その運命を信じています。私に続く者たちが、裏切りの支配するこの灰色で苦い時代を乗り越えていくでしょう。遅かれ早かれ、よりよい社会を築くために、人々が自由に歩くポプラ並木が再び開かれるでしょう。
チリ万歳!人民万歳!労働者万歳!
これが、私の最後の言葉です。私が犠牲になることは無駄ではないと確信しています。少なくとも、裏切り・臆病・背信を断罪する道徳的な裁定となると、私は確信しています。

音源へのリンク(MP3 約1.44MB 6分20秒、最後の銃声は、あとから編集して挿入されたものだと思われます)

http://www.salvador-allende.cl/上記の音源の置かれているサイト(他にもアジェンデの肉声がたくさんあります)

原文のテキスト

反乱軍に取り囲まれた絶体絶命の状況で、騒然とした執務室のなかで、命を捨てる覚悟を決めたアジェンデは、一人淡々と、しかし決然と、静かに、しかし力強く、人民への別れの言葉を述べたのです。マガジャネス放送(マガジャネスは、マゼランのスペイン語読み)が、まだ反乱軍に制圧されていないかどうか、自分の声がちゃんと放送されているかどうか、アジェンデには知る術がなかったので、自分の声はもう届いていないかもしれないと言っていますが、実際にはちゃんと放送されており、このように音源も残されています。

反乱軍は大統領に辞任を要求し、辞任すれば生命の安全は保証し、出国用の飛行機を提供すると伝えます(もっとも、後に映画監督のミゲル・リティンが入手した証言によると、このときクーデターを起こした将軍たちはアジェンデの乗る飛行機に爆弾を仕掛けるつもりだったようですが)。それに対するアジェンデの答えは、「裏切り者諸君、私という人間が分かっていないようだね」というものだったといいます。彼は、人民に引きずり出される(国民投票敗北のことか)のでない限り、任期が終わるまで生きてモネダ宮を出ることはない、と公言していました。

10時30分頃、モネダ宮を包囲する陸軍の戦車部隊が砲門を開きます。さらに11時52分、上空のホーカー・ハンター戦闘機からモネダ宮に向けてロケット弾による爆撃も始まりました。
激戦、と言っても実際は反乱軍がモネダ宮を一方的に攻撃するばかりでしたが、それは2時間以上も続きました。最後の瞬間、アジェンデの元にあった兵力は、皮肉にも政治的には対立的だった武力革命組織MIRの武装民兵たち数十名に過ぎなかったのです。

アジェンデ最後の日の写真

アジェンデは、前年にチリを訪問したキューバのカストロ首相に贈られたAK-47自動小銃を手に、モネダ宮に進入してきた反乱軍と戦い、2時過ぎ、「みんな伏せろ、武器を捨てて伏せろ。私は一番最後にそうする」という言葉を最後に、自ら銃を顎に向けて自殺を遂げた、とされています。ただし、銃撃戦の中で戦死した、との説もあり、実際のところはよく分かりません。いずれにしても、炎上するモネダ宮の中で、アジェンデは65年の生涯を閉じたのです。

 

血の弾圧

アジェンデの死は、しかし悲劇の幕開けでしかありませんでした。陸軍総司令官アウグスト・ピノチェトを中心とするクーデターの首謀者たちは、まずクーデターの障害となる左翼支持の軍人たち、軍部は政治に介入してはならないという信念をもつ軍人たちを血祭りに上げ、アジェンデを殺して政権を奪い、しかしそれで満足したわけではありませんでした。彼らは、チリから左翼勢力を根絶し、民主主義も根絶しようとしたのです。

まず、左翼勢力が血の弾圧を受けました。フォルクローレの歌い手、ビクトル・ハラは他の多くの左翼支持の市民たちとともに逮捕され、チリ・スタジアム (サッカー場)に拘留されたあげく、「二度とギターが弾けないように」と両手を打ち砕かれた上に射殺されました。同じく左翼支持のフォルクローレの歌い手、アンヘル・パラは、強制収容所で拷問を受け、辛くも生き延びて国外亡命することができましたが、心身に大きな打撃を受けました。
2年前にノーベル文学賞を受賞していたパブロ・ネルーダは、すでにガンで病床にありましたが、軍人たちは容赦なく彼の家に押し入って破壊の限りを付くしました。ネルーダは絶望の中で危篤状態に陥り、救急車で病院に搬送されましたが、途中で軍の検問で救急車から引きずり出されて取り調べを受け、病院に着いたときには既に亡くなっていました。
同じようにして、逮捕され、そのまま殺されたり、あるいは闇から闇に「行方不明」にされた市民の数は、後に民政復帰後の調査で政府が認めた数字でも3000人以上、実際にはそれよりずっと多く、数万に達するのではないか、とも言われています。

血の弾圧の対象は左翼勢力だけにとどまりませんでした。9月11日までは、打倒アジェンデという共通目的のために軍部と協力していた政党勢力、つまり右派の国民党や中道のキリスト教民主党は。クーデターの成功に大喜びをしていましたが、ほどなく彼らの笑顔は凍り付くことになります。弾圧は、彼らにまで及んだのです。クーデターという目的さえ達すれば、政党など用済みだとばかりに、ピノチェトは、すべての政党を活動禁止にしました。そして、そのままピノチェトが退陣する1989年まで16年間にわたって、議会は解散されたままで選挙も行われなかったのです。

多くの市民が国外に逃亡を余儀なくされましたし、クーデターの際にたまたま国外にいた左翼系の有名人は、そのまま入国を禁止されました。たとえば著名なフォルクローレのグループ、キラパジュンやインティ・イリマニなどです。
さらに、魔の手は国外に亡命した反政府勢力の指導者にまで及びました。
前陸軍総司令官、「軍は政治に介入してはならない」という信念に従って、最後までアジェンデを守ったカルロス・プラッツ将軍は、クーデター直後の9月15 日にアルゼンチンに亡命しましたが、ちょうど1年後の1974年9月27日、その地でピノチェトの創設した秘密警察DINAの工作員のテロによって妻とともに暗殺されました。
アジェンデの前任、キリスト教民主党のフレイ政権で副大統領を務めていたベルナルド・レイトンは、クーデターの後次第に軍政批判を強め、その結果1974 年10月に国外追放され、1年後の1975年10月に亡命先のローマで、妻とともにDINAのテロの標的となり、辛くも一命は取り留めたものの、重傷を負いました。
更に、1976年9月には、米国に滞在していたアジェンデ政権で外務大臣と駐米大使を務めたオルランド・レテリエルが、米国の首都ワシントンで、友人の米国人ともどもDINAのテロによって暗殺されます。

 

抵抗のチリ

すさまじい弾圧によって、チリの左翼勢力、中道勢力は一時窒息状態に陥ります。その中で、チリ共産党は重大な路線変更を強いられます。過去2度の非合法時代も守り続けた非武装路線・平和的活動を放棄し、アジェンデ政権時代には激しく対立したMIRと共闘して、武力闘争に転じたのです。もっとも、この時点でMIRは激しい弾圧によってほとんど壊滅状態に陥っていましたが、それに代わって共産党が主導して、武装ゲリラ「マヌエル・ロドリゲス愛国戦線」(FPMR)を組織し、1986年にはピノチェトに対する襲撃事件を起こします。しかし戦車並といわれるピノチェトの専用車の装甲は、約10分間にも及ぶ自動小銃と対戦車ロケットの猛射をはじき返し、襲撃は失敗に終わりました。なお、現大統領ミシェル・バチェレは、当時FPMRのメンバーだったと言われています。

しかし、ピノチェトの圧制を終わらせたのは武力闘争ではなく、民主主義を求める民衆の平和的な運動のうねりでした。
ピノチェトの独裁政治は、経済政策もそれまでとは一変させました。産業の国有化や貧富の格差を縮小するための政策はすべて放棄し、徹底的な新自由主義経済体制を敷いたのです。その結果、クーデターの直後、チリはすさまじい不況に陥ります。しかし1980年代にはいると経済が好転し、一時は史上空前の経済成長を記録しました。もっとも、競争原理至上主義の新自由主義経済の元での経済成長は、必然的に貧富の格差の拡大を伴います。そして80年代中頃からは、ラテンアメリカ全体を襲った不況の波がチリも襲い、経済の失速、急激な対外債務の増加、失業率の増加、中産階級の没落といった事態が進行していきます。それとともに、ピノチェト独裁体制に対する反対運動が急激に盛り上がっていったのです。
社会党やの右派から枝分かれしたPPD(民主主義のための党)、かつてはクーデターを支持していたキリスト教民主党など中道政党が大同団結して、運動のイニシアチブを取ります。

1888年、世論の盛り上がりに押されたピノチェトは、ついに自身の任期を10年間延長することの是非を問う国民投票の実施に追い込まれました。任期延長に反対する運動は、かつてない盛り上がりを見せ、それに押されて、共産党も武力闘争路線を放棄して平和的活動路線に回帰します。MIRも、いくつかの派に分裂しますが、主流は武力闘争を停止しました。

ピノチェトの任期延長が否決されたため、翌1989年に19年ぶりの大統領選挙が行われました。ピノチェト支持派は二人の候補者に分裂し、一方反ピノチェト派は、かつてクーデターに荷担していたこともあるキリスト教民主党のパトリシオ・エイルウィンにすべての党が大同団結して結集します。共産党や MIRすら、かつての恩讐を越えて打倒ピノチェトの一点の目的のためにエイルウィンを支持したのです。
選挙の結果はエイルウィンの圧勝でした。ピノチェトが依然として陸軍総司令官の地位に留まり続けているといった問題は残るものの、チリに、17年ぶりに民主主義が復活したのでした。


http://andesfolklore.hp.infoseek.co.jp/historia/historia8.htm  

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