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戦争と経済 恐慌にのまれ疲弊   【読売新聞】
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投稿者 愚民党 日時 2008 年 12 月 21 日 22:45:03: ogcGl0q1DMbpk
 

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資料/戦争と経済 恐慌にのまれ疲弊

【読売新聞】から転載

2006. 01. 13

[検証・戦争責任](7)戦争と経済 恐慌にのまれ疲弊(連載)

東京朝刊 朝特C

16頁 8078字 07段 写真・図


 ◆恐慌にのまれ疲弊 国力差見えず開戦 

 昭和初期、「金解禁(きんかいきん)」で収縮した日本経済は、世界恐慌とも重なって未曽有の「昭和恐慌」に陥った。当時の財政の舵(かじ)取りはどのようなものだったのか。財閥は、戦争とどうかかわったのか。アメリカとの国力差について日本は、どんな認識をもっていたのか。「戦争と経済」の側面から考える。

 ◆金解禁の「失政」重く 

 昭和初期の経済政策で注目されるのが、民政党の浜口雄幸内閣が1930年(昭和5年)1月11日に断行した「金解禁」だ。金の輸出禁止を解除するもので、日本は13年ぶりに金本位制に復帰した。

 この政策を推進したのが蔵相の井上準之助(じゅんのすけ)だ。金解禁のためには、財政の引き締めが肝要になる。井上は、公債を出さない非募債・無借金の徹底した緊縮予算を編成した。

 ただ、当時の日本は、関東大震災の影響を引きずり、銀行の倒産が相次いだ金融恐慌から2、3年しかたっていなかった。旧平価(円高)か、新平価(円安)で解禁するかの論争もあり、経済ジャーナリストの石橋湛山(たんざん)(戦後、首相)や高橋亀吉らは新平価での解禁を主張していた。

 さらに、金解禁の2か月余り前には、米ニューヨーク株式が大暴落し、世界恐慌が始まっていた。

 しかし、浜口内閣は、米国の不況によって、日本からの資金の流出が止まるから、金解禁にはかえって好都合との判断のもと、予定通り、旧平価での金解禁に踏み切る。だが、30年3月、日本でも株式などが暴落。米国を主な輸出先とする生糸の価格は6割、綿布も5割それぞれ下落した。

 ■GNP18%減

 金解禁と世界恐慌のダブルパンチで生じたこの昭和恐慌が、日本経済に与えた打撃を振り返ってみよう。

 31年(昭和6年)の名目GNP(国民総生産)は、29年に比べて18%も縮んだ。この間、輸出は47%減少、個人消費支出は17%減った。

 農産物の価格は急落した。30年及び31年のコメの値段は、29年に比べて4割も低い。「キャベツ五十で敷島(たばこの銘柄)一つ」――30年は豊作、31年は凶作だったが、「豊作飢饉(ききん)」とも言われた。

 31年の秋田県の例では、全児童の2割近くが弁当を持参できない「欠食児童」だった。32年1〜6月に、新潟県の農村で遊郭などに売られた娘は4962人に上った。(北岡伸一『政党から軍部へ』中央公論新社)

 30年の大卒者の卒業後2か月の就職率は、39・1%に過ぎなかった。30年の労働争議は28年の倍にのぼる2289件に達した。当時最大の紡績会社だった鐘紡のストライキは、2か月近くに及んだ。

 井上は、浜口内閣の後の第2次若槻礼次郎内閣で留任した。井上は、恐慌による歳入欠陥を埋めるため非募債方針を修正し、「井上財政」は挫折してしまう。そもそも、井上は金解禁について、蔵相就任の直前まで「肺病患者にマラソンをさせるようなものだ」と公言していた。

 河原宏・早稲田大名誉教授(日本政治思想史)は、「金解禁が、法律改正を伴う新平価ではなく、大蔵省令改正ですむ旧平価で実施されたのは、議会の多数を野党・政友会が占めていたことと、井上のそれまでの言動が議会で追及されるのを回避するためだった。金解禁は、経済失政だっただけでなく、政党政治の失敗でもあった」と指摘する。

 岩田規久男・学習院大教授(金融論、経済政策)は、「井上財政は、非効率な企業は整理すればよいとする清算主義、緊縮財政、円高によるデフレ政策で、国内経済は縮小したパイを奪い合うゼロサム・ゲームの世界になった。経済政策として失敗だった」と手厳しい。

 ■国家財政破綻

 井上財政を根本的に転換したのが、高橋是清(これきよ)蔵相だった。犬養毅内閣の発足直後、直ちに金輸出の再禁止を決定した。高橋は、財政拡張と金融緩和で景気回復を図るリフレ政策(物価をデフレ前の水準に戻すこと)をとった。

 財政拡張は、満州事変による軍事費増大と農村救済のための土木工事費が中心だった。財源不足から初めて赤字国債を発行し、日銀に引き受けさせた。また、円安を放置して輸出の増加を図った。これらの政策が功を奏し、日本は、35年には欧米諸国に先駆けて景気回復した。

 高橋時代の財政規模は、最初の2年間で一気に膨らんだ。しかし、その後は横ばいで、軍事費の増大要求は抑えられ、一定の財政規律が保たれていた。岩田教授は、「高橋財政は、マクロ経済政策として成功したが、昭和恐慌で打撃を受けた農村は、窮乏から立ち直っておらず、軍部のテロを抑えるためにも、農村対策にもっと力を入れるべきだった」と語る。

 金解禁とその後の金輸出再禁止にかかわった首相(浜口、犬養)と蔵相(井上、高橋)は、右翼や軍部によるテロやそれがもとで命を奪われた。そんな異常な時代だった。

 2・26事件後に成立した広田弘毅内閣の馬場エイ一(えいいち)蔵相は、財政規律を失うほどの国債を乱発するきっかけを作った。馬場は、37年度予算を高橋時代の22億円から30億円に一挙に増やし、軍部の要求に応えた。景気はこのころピークに達したが、急激な輸入の増加から外貨が底をつき、国際収支危機が生じた。大蔵省は為替取引を許可事項としたが、これは経済統制の端緒になった。

 日中戦争と太平洋戦争の約8年間に日本が費やした軍事支出は7558億円で、戦前のピーク時のGNPの34倍に上った。終戦の45年度の政府債務は1994億円に達し、国家財政は破綻(はたん)、戦後のハイパーインフレーションを招いた。

 ◆軍と「抱合」財閥膨張 

 ■ドル買い事件

 三井財閥の持ち株会社「三井合名」理事長の団琢磨(だんたくま)が、東京・日本橋の三井本館前で射殺されたのは、1932年(昭和7年)3月5日のことだった。右翼団体「血盟団」のメンバーによる犯行だった。

 団暗殺の背景にあったのが、「ドル買い」事件である。政友会の犬養毅内閣が、金輸出再禁止を実施すると、それまで実力以上の水準で固定されていた円の対ドル相場は急落し、ドルが急騰した。かねてから金輸出再禁止を見越し、大量にドルを買っていた財閥系の銀行や商社は、巨利を手にした。

 中でも三井財閥は、政友会との結びつきが深かったから、「ドル買い」批判の矢面に立たされ、政友会も「犬養、ドル買い」の非難を浴びた。

 ■財閥の転向

 相次ぐテロに危機感を感じた三井は、33年(昭和8年)、持ち株会社・三井合名の常務理事、池田成彬(しげあき)の主導で、3000万円を投じて「三井報恩会」を設立し、社会・文化事業の助成を開始した。また、財閥家族による独占への批判をかわすため、傘下の東洋レーヨン、王子製紙などの株式公開も行った。“弱肉強食”の悪評を払拭(ふっしょく)しようとする財閥の試みは、「財閥の転向」と呼ばれたが、これは軍部や右翼へのすり寄りであった。寄付金の多くが、軍関係に向けられたといわれる。

 池田はその後、日銀総裁に転じ、第1次近衛内閣の改造(38年5月)では蔵相兼商工相に就任。当時、陸軍省次官だった東条英機と、軍需企業の株式配当の扱いなどをめぐって対立したが、軍と財閥が結びつく「軍財抱合」の構図は確実に強まっていく。

 三菱財閥の持ち株会社「三菱合資」も、「富豪の利益壟断(ろうだん)のそしりなからしめんことを期す」とした「三菱精神綱領」を発表し、三菱重工業の株式を公開した。住友財閥も住友化学工業などの株式を公開した。

 この株式公開は、軍需用の膨大な設備投資資金を調達するためでもあった。満州事変以降、日本の軍事費は増大し、特需への対応から事業を拡大する必要に迫られていたのだった。

 住友財閥の幹部社員から企画院次長に転じた小畑忠良(のちに大政翼賛会事務総長、愛知県知事)は、満州事変勃発(ぼっぱつ)後の経済界について、「それまでの消極財政と経費節減で、もう抑えられるだけ抑えてきたので、能率は非常に上がってるんです。そこへ戦争でにわかに需要が広がってきたんですから、それはもうかりますわ」と戦後、回顧している。(『昭和経済史への証言・中』毎日新聞社)

 ◆「新興」は満州へも 

 ■岸と鮎川の連携

 満州事変後、これら既成財閥にも増して躍進を遂げたのが日産、日窒、森、日曹、理研などの「新興財閥」と呼ばれるコンツェルンだった。

 特に、鮎川義介(あいかわよしすけ)率いる日産は、日本鉱業や日立製作所などの傘下企業の株式を市場で売却し、そこから得た利益で企業買収を進め、グループを拡大していった。33年には既成財閥も尻込みしていた自動車事業(現在の日産自動車)に乗り出した。ピーク時には、グループ77社の資本金合計額が6億2000万円と、住友を抜いて三井、三菱に次ぐ規模にまで成長した。

 32年3月、関東軍の主導下に満州国が建国した。満州国の実権を握る日系官僚は、新興財閥の誘致を図り、これに積極的に応じたのが日産の鮎川だった。

 鮎川は、同郷(山口県)の満州国総務庁次長・岸信介(東条英機内閣商工相、戦後首相)の誘いで日産本社を満州に移し、37年(昭和12年)12月、社名を満州重工業開発会社(満業)に変更した。岸たち日系官僚にとっては、「満州産業開発5か年計画」の一環だった。37年度を初年度とする同計画は、ソ連の計画経済にならったもので、ソ連との戦争に備えて、満州における軍備と生産力の充実をめざした石原莞爾(満州事変の首謀者)の構想を基礎にしていた。

 鮎川は、「地下資源の開発利用から自動車・飛行機までをワンマンコントロール」する世界を想定して満州に渡ったが、現実の世界は違った。傘下企業は満州国政府に厳しく統制され、外資の導入もできなかったからだ。太平洋戦争開戦から1年後の42年(昭和17年)末、鮎川は満業総裁を辞任して失意のうちに日本に帰国する。

 ■戦争に協力

 戦時経済で財閥は膨張を続けた。三菱重工業は日本の軍艦の4割近くを、航空機の5分の1を生産した。戦艦「武蔵」や零戦は三菱重工の製造だった。三菱は重工業部門の拡大によって、三井とのグループ規模の差を縮めていった。

 戦後の財閥解体を実施した持株会社整理委員会の資料によれば、37年時点で、4大財閥の傘下企業の払い込み資本金は、日本の資本金全体の10・4%にとどまっていたが、45年には24・5%まで上昇した。

 戦後、三菱電機社長をつとめた高杉晋一は、「他の財閥についてもいえることだが、三菱は戦争のたびに大きくなった」(『私の履歴書』日本経済新聞社)と記している。財閥は満州事変以降の戦争で寡占化を強めていった。

 アメリカ政府は、財閥を「日本における最大の戦争潜在力」と見なし、終戦後すぐに解体に乗り出したが、旧財閥系の各社は、やがてグループとしての結束を取り戻していった。

 旧財閥と戦後の企業グループに詳しい経済評論家の奥村宏氏は、「戦前の財閥が戦争の推進者だったとまでは言えないにしても、戦争に協力した責任は認めざるを得ないだろう」と指摘している。
     
 ◆石油生産 米国は527倍 

 1941年(昭和16年)12月、日本は米英との戦争に入る。いったい、日米の力の差を政府はどう認識していたのだろうか。

 まず、当時の日本の経済状況について触れておきたい。近衛文麿内閣は、日中戦争が勃発した翌年の38年、国家総動員法を制定した。政府が国民の徴用を含めて各種資源の統制・運用をすることができる、広範な委任立法だった。

 しかし、戦時経済への移行は、物価の騰貴を招く。政府は国家総動員法に基づいて39年10月、価格等統制令などを公布(九・一八ストップ令)し、物資の価格や家賃、給与を固定した。40年には、マッチと砂糖を手始めに生活必需物資の切符制が始まった。しかし、こうした経済統制も、戦争自身がもたらす膨大な消耗の前には限界があった。

 日本の実質GNPは、39年に220億円と戦前のピークをなした後は停滞した。鉄鋼生産のピークは38年で、その後、下降線をたどった。「日本経済が、中国との戦争の早くも二年目で、もう縮小再生産の過程に陥っていた」(安藤良雄『日本資本主義の歩み』講談社新書)のだった。

 総力戦の時代、国力の差は軍事力に直結する。太平洋戦争開戦前、日米間の国力の差は著しかった。40年の米国のGNPは、日本の10倍あった。開戦時の41年には、この格差は12・7倍へと拡大した。ちなみに現在の日米の国力差をGDP(国内総生産)で見ると、2・5倍程度だ。

 鉱工業製品ではさらに圧倒的な差があった。戦後、国民経済研究協会がまとめた「基本国力動態総覧」によれば、41年当時、米国の主要物資の生産高は、平均で日本の約77倍もあり、とくに石油は527・9倍にも達していた=表。しかも、日本は石油の約9割をアメリカから輸入していたほか、鉄鉱石は英領マレーやオーストラリア、銑鉄はインド、アルミや鉛はカナダからと、重要物資は英米経済圏から輸入していた。

 ■つじつま合わせ

 日米開戦は、米国による石油の対日輸出禁止が契機となった。米国との国力格差は軍部も認識してはいたが、南方に資源を取りに行けば、戦争は遂行できるという判断があった。

 東条英機内閣は、成立直後の41年10月23日から11月1日にかけて、連日、大本営政府連絡会議を開き、国策を練り直している。期限付きで対米戦を決意した9月6日の「帝国国策遂行要領」(近衛文麿内閣が御前会議で決定)について、昭和天皇から再検討を求められたためだ。

 再検討会議では、企画院総裁の鈴木貞一が、石油備蓄量840万トンに対し、開戦した場合、南方の石油を見込んで、開戦1年目が255万トン、2年目が15万トンと石油残量は減るが、3年目は70万トンに増えるとして、戦争遂行は可能との見方を示した。

 しかし、南方油田の期待産油量を試算した陸軍中尉は、「これならなんとか戦争をやれそうだ、ということをみなが納得し合うために数字を並べたようなものだった」と回想しており、対米戦を始めるためのつじつま合わせの性格が否定できなかった(猪瀬直樹『昭和16年夏の敗戦』文春文庫)。

 資源を獲得できても、日本の輸送船は、米潜水艦から徹底的に攻撃され、期待通りに運べなかった。森本忠夫『マクロ経営学から見た太平洋戦争』(PHP新書)によれば、日本の物資輸入量は、開戦した41年に4872万トンあったが、終戦時の45年1〜8月には771万トンまで減少した。月平均に換算すると、45年は41年の約24%の水準にまで激減し、日本経済は崩壊に追い込まれていった。
  
 ◆戦争なければ経済成長 

 ◇東大名誉教授・中村隆英氏 

 ――浜口内閣の金解禁は、経済失政だったか。

 それはわからないな。結果的に非常に困ったことになったけれど、当時は金本位制への復帰が世界的な潮流ですから。日本だけいつまでも為替を安くして、金本位制に戻さないのは具合が悪い、という意識が財界にも政界にもあった。金解禁をやったのと一緒に世界恐慌になっちゃったんで、世界恐慌を予測した人は世界中でいない。金解禁をやらない方が、昭和恐慌ほどの不景気にならずに済んだかもしれない。

 ――井上準之助は蔵相就任前、金解禁は時期尚早と主張していたというが。

 そうですね。当時、民政党の方が国際潮流に敏感であってオーソドックスな立場。政友会は国内経済にウエートを置いていた。民政党の浜口内閣が、金解禁を必ずやるという姿勢をとったとき、蔵相に民政党内からでなく、日銀総裁を2度やった金融のエキスパートの井上をわざわざ呼んできた。井上は、政界に野心があって、金解禁をやり遂げれば総理大臣になれるかもしれない、と思ったんじゃないでしょうか。

 ――政界には、経済、金融に精通した人が、いなかったということか。

 いなかったですよ。だから、大蔵省出身者とか、日銀出身とかいう人がいると丸投げで任せちゃう。その人に任せるほかない。

 ――犬養内閣の高橋是清蔵相による政策転換をどう評価するか。

 高橋財政はインフレ財政だと悪口を言われたが、高橋は承知のうえだった。それが非常にうまくいき、33〜36年は大変景気がよかった。高橋は、練達な人で勘が良かったんでしょうね。恐慌対策のようなことは、ずばっとやる。僕のおやじは商人だったけど、「高橋さんが出てきただけでみんな安心したんだ」と言っていたからね。

 あのあと戦争をやらずにじっとしていれば、かなりのスピードで日本の経済は成長を続けただろう。戦後の昭和20年代の経済成長に近いものが、昭和10年代に実現していたかも知れない。高橋が殺された後、財政の舵(かじ)を取れる人がいなかった。

 ――満州事変の勃発を歓迎する声が経済界にはあったという。

 第1次大戦で財界は大もうけしたから、戦争で会社の利益が増えるなら結構じゃないか、という議論は一般的にはあった。満州国の成立は、国内景気を刺激する材料にはなったでしょうが、三井、三菱のような財閥は、満州にはほとんど投資していない。関東軍には親軍的な新興財閥を発展させようという考えがあって、日窒の野口遵(したがう)、日産の鮎川義介、理研の大河内正敏(おおこうちまさとし)は、軍部とよろしくやっていたかもしれない。

 ――日本は、圧倒的な国力差にもかかわらず、アメリカと開戦した。

 工業生産力は、いくらでも膨らませることができるという、その怖さが分かっていなかった。こっちの軍艦は、アメリカを10とすれば7・5だ、それなら何とかなるはずだと。ところが、2年くらいの間に、相手の軍艦も飛行機も、何倍にもなっていく。潜在的な戦争能力の違い、アメリカの国力、底の深さというのがわかっていなかった。(聞き手・川戸直志)
   
 ◇なかむら・たかふさ 1925年東京都生まれ。経済史家。『昭和史』で大仏次郎賞。東大、お茶の水女子大、東洋英和女学院大各教授を歴任。
         
 〈金本位制〉

 国家の金保有量を通貨価値の裏付けとする制度で、通貨を金に交換できる。戦前、各国がブロック経済に移行するまで採用された。金本位制には、〈1〉好景気で輸入が増え、貿易赤字になれば金が流出し、これに伴って通貨供給量も減るから物価は下落する〈2〉物価が下がると、輸出競争力が高まるので、輸出が増えて景気が回復し、金が流入に転じて通貨供給量も増加し、物価が上昇する――という自動調節作用があるとされた。
        
 〈新興財閥〉

 満州事変以後、軍部の支持などを受けながら重化学工業を中心に急速に発展した新興企業集団(コンツェルン)。創業者のほとんどは技術者出身で、既成財閥のようにグループ内に銀行を持たず、外部資金を積極活用した。戦後、財閥解体の対象になった。日産、日窒(日本窒素肥料。現チッソ)、日曹(日本曹達)、森(昭和電工)は、大手企業・グループとして今日に至る。理研(理化学研究所)は、官民の資金を集めて財団法人として設立され、後に自らの発明品を製品化する会社を多数設立。戦後は特殊法人化され、現在は独立行政法人。
  
 ◇この特集は、解説部・笹森春樹、経済部・川戸直志が担当しました。
   
 ◇主な参考文献は次の通り。( )内は著・編者。

 ▽昭和経済史(中村隆英)岩波書店▽昭和恐慌と経済政策(同)講談社学術文庫▽昭和史1(同)東洋経済新報社▽昭和経済史(有沢広巳監修)日本経済新聞社▽昭和恐慌 日本ファシズム前夜(長幸男)岩波書店▽昭和恐慌の研究(岩田規久男編)東洋経済新報社▽近代日本政治思想史(河原宏ら)有斐閣新書

 ▽財界回顧(池田成彬)世界の日本社▽私の住友昭和史(津田久編)東洋経済新報社▽三菱とは何か(奥村宏)太田出版▽日本の六大企業集団(奥村宏)朝日文庫▽明治以降 本邦主要経済統計(日本銀行統計局)日本銀行統計局
  
 ◎企画「検証・戦争責任」の次回は、「テロリズム」(20日掲載)の予定です。
     
 図=日本の国民総生産(GNP)と政府債務の推移
 図=昭和恐慌期の物価
 図=資本金の産業別構成
 図=日米の主要物資の生産高比較
      
 写真=戦車の増産が続く三菱重工の工場
 写真=中村隆英氏

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