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最近の母親は、赤ん坊に話しかけることを忘れ、テレビに子育てさせ、テレビ脳では、他人との会話ができない、本も読めない子供が
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投稿者 TORA 日時 2009 年 1 月 18 日 17:39:26: CP1Vgnax47n1s
 

株式日記と経済展望
http://www5.plala.or.jp/kabusiki/kabu184.htm
http://blog.goo.ne.jp/2005tora/
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最近の母親は、赤ん坊に話しかけることを忘れ、テレビに子育てさせ、
テレビ脳では、他人との会話ができない、本も読めない子供ができる。

2009年1月18日 日曜日

◆テレビが消える日 2006年11月21日 内田樹
http://blog.tatsuru.com/2006/11/21_1013.php

小田嶋さんは「テレビの終焉」をこんなふうに予想している。「W杯に合わせてDVDレコーダーを買った組は、完全にナマのテレビ視聴から撤退している。『いやあ快適快適。ゴールデンのバラエティーとかは、ハードディスクに丸録りしとくと10分で見られるな』『ドラマも倍速でいけるぞ』『ニュースはどうだ?』『報道ステーションなんかは、解説のオヤジの説教をトバせば、30分で見られる』『てか、古舘も要らないだろ』『うん、テロップだけ読めば、10分』・・・。」

その結果どうなるかというと「まず、CMが無効化する。だって、ハードディスク録画の番組を見るときには、CM飛ばしが前提なわけだから。これは非常にヤバい。ただでさえ、リモコンを握って生まれてきた21世紀のテレビ視聴者は、CM入りの瞬間、他局に退避している。ということはつまり、『CMスポンサーによる番組提供』という昭和のテレビを支えてきた黄金の無料視聴システムは既に半ば以上泥沼化しているわけで、この上録画視聴者がCMスキップを徹底していくのだとしたら、地上波民放局の集金システムは、根底から崩壊してしまう。」(223−4頁)

私は小田嶋さんのこの見通しはかなりの確度で事実を言い当てていると思う。ただ、私はこの集金システムは「根底から」ではなく、当面は「部分的にしか」崩壊しないのではないかというやや悲観的な見通しを持っている。たしかに、小田嶋さんの指摘のとおり、テレビCMはすでに末期症状を呈している。

ゴールデンのCMスポンサーの主流はすでにサラ金と薬屋である(深夜ワクになるとエロ本屋やラブホテルもCMを出している)。カタギのメーカーさんはもうテレビCMから退避しつつある。あんな番組にCMを出し続けていたら、企業イメージがダウンするからである。残っているのは「消費者はバカだ」ということを企業活動の前提にしているスポンサーだけである。

うつろな幻想を追う消費者から収奪することを経済活動の根幹にしている企業と、消費者と企業とテレビ局のすべてを騙すことを経済活動の根幹にしている広告代理店と、視聴者をバカにした番組を作れば作るほど視聴率が上がるという経験則から出ることのできないテレビ局の黄金のトライアングル。そこから生み出されるのがどのようなものか、想像しただけでなんだかわくわくしてくる。
少なくとも私はわくわくしてくる。

ふだんテレビを見ない私でさえ「そこまでひどいものなら」思わず見たくなってしまうくらいである。私が見たいのはそれが「スナッフ・フィルム」だからである。あるメディアが死ぬところをリアルタイムで放映してくれるのであるから、これは私だって見たい。だから、「テレビの断末魔」を垂れ流し的に放映したら、視聴率がどんどん上がることになる。

「おい、テレビ、ひどいことになってるぞ」「ほんとかよ?」「おお、見てみろよ、すげーぞ。信じられねーよ、あのひどさ」「わ、見る、見る」というふうになって、視聴率がうなぎのぼり。TV局もスポンサーも歓喜雀躍。「もっとやれ、もっとやれ」ということになる。

その段階で「こんなことしてたら、テレビは終わりですよ」という諫言を述べるようなまともな社員はもうどこにも存在しない。だって、「テレビが終わる」ことからテレビを延命させるというアクロバシーをテレビはもう選択してしまったからである。

「『テレビがもうすぐ終わる』とみんな思っているだろ。みんなその『死の瞬間』を見ようとしてテレビをつける。だから、今日もテレビは生きてられる。オレらの仕事はただできるだけこの断末魔を引き延ばすことだけなんだよ。それで飯が食えるんだから、『らくだ』のかんかん踊りとおんなじだよ」という狡知が今日もテレビを延命させている。

視聴者がこの「死ぬ死ぬと言うだけで、さっぱり死なないメディア」にいつまで面白がってつきあってくれるか、私には予想が立たない。あまり長くは続かなそうな気がする。というのも、『週刊現代』の先週のコラムで高橋源一郎さんが「テレビが消えた」という話を書いていたからである。

半世紀にわたるテレビ視聴を止めて、5年愛用したソニーのテレビを知人に譲り、高橋家はいま「テレビのない生活」に入っている。その理由を高橋さんはこう書いている。「ある日、タカハシさんは、長男と一緒に、ぼんやりとテレビを眺めていた。そして、ちらりと、テレビの画面を見つめている長男の顔つきを見て、愕然としたのである。

長男は床に猫背になって座り、口を半開きにして、顎を突き出し、ぼんやりと澱んだ瞳で、画面を見つめていた。タカハシさんは、長男の名前を呼んだ。反応がない。もう一度、呼んだ。まだ反応がない。そして、三度目、ようやく、長男は、タカハシさんの方を向いた。その瞳には何も映っていないように、タカハシさんには見えた。まるで魂が抜けてしまった人間の表情だった。」(「おじさんは白馬に乗って」第23回「テレビが消えた」、週刊現代11月18日号、65頁)


◆「あるある大事典」騒動、テレビの害毒は「協力金」 2007年2月7日 JANJAN
http://www.news.janjan.jp/media/0702/0702059521/1.php

 デタラメばかりやっているテレビが、「儲かって儲かって……」という状況である。いまの日本は、まったくおかしな社会になっているが、その最たるものがテレビの儲けぶりだろう。

 東京のテレビ局(4大ネットのキー局)に行くと、その建物の大きさ、立派さに驚く。TBS(赤坂)とテレビ朝日(六本木)は以前から同じ場所だが、どんどん増築し、巨大ビル群に膨れあがっている。フジ(産経系)はお台場、日本テレビ(読売系)は汐留(旧国鉄操車場跡)と、巨大再開発地域に移転した。土地買収と社屋の建設に巨費を要する場所だ。

 それほどテレビが儲かるのは理由がある。テレビのコマーシャル料金は、「税金代わり」なのだ。大企業の広告費は電通などの広告代理店が取り仕切っている。代理店は企業に対して「広告費をケチって利益を計上しても、税金で持って行かれるだけじゃないですか。多額納税しても何のメリットもない。広告費は経費として認められますから、税金を払うつもりで支出するのが賢いんです。広告費を出しておくと、いざというときメディアに顔が利くというメリットがあります。何かあったときは、わが社がメディアに圧力をかけます。広告費は危機管理のための必要経費でもあるのです」というセールストークを展開している。

 総広告費をどう配分するのか?テレビは視聴率、新聞は部数をもとに、代理店が方程式をつくっているが、テレビの配分比率が増える一方。だからテレビは、景気低迷と縁のない「好況」を謳歌している。

 いま日本社会が音を立てて崩壊している元凶は、テレビであろう。大人の場合は、いったん身につけた知性を、テレビによって失うから「白痴化」であろう。

 受け身だけで楽しめるのがテレビだ。寄席を考えてみよう。客が全くの無表情だったら、落語家でも何でも、まったくつまらない。講談・浪曲等を含めて、聴衆の盛り上がりによってこそ、感動が得られるのだ。笑ったり泣いたりすることによって、聴衆も芸に参加していると言える。

 演劇も同じことだ。舞台俳優は、いつも客の反応を気にし、盛り上がらないときは、その理由を考えるという。映画になると、観客の反応が演技者に伝わることはない。それでも時間をつくり、切符を買うというのは1つの行動である。それによって映画館という特殊な空間に入り、映画という絵空事の世界に入り込む。

 テレビは、こうした能動をすべて捨てさせる。与えられたものの中から、楽しいものを選ばせるだけなのだ。その瞬間、面白くなければリモコンのボタンを押してチャンネルを変えるだけでいい。こういう生活に慣れきってしまうと、人間は自らの行動によって状況を切り開くことを忘れる。政治の流れを変えるために、投票所に足を運ぶことすらしなくなるのである。

 子どもの育ち方はとくに重要だ。ヒトは他のほ乳類と比べて、胎内での成熟度がきわだって劣っている。他のほ乳類並みの完成度で誕生となるためには、倍の妊娠期間が必要だという。未完成品として生まれる新生児の中でも、とくに劣っているのが大脳皮質の発達であるらしい。その大脳皮質は、母親らとの対話の中で完成する。

 赤ん坊は言葉が分からないのに、母親が語りかけるのは、大脳皮質を育てるための本能なのである。テレビに慣れきった母親は、赤ん坊に話しかけることを忘れ、テレビに子育てさせる。その結果、テレビ番組の楽しさだけにしか反応しない「テレビ脳」ができるという。テレビ脳では、他人との会話ができない、もちろん本も読めないと考えられている。「耐える」などは死語になり、代わりに「キレる」「ムカつく」という「新生語」ができた。人々はすぐにキレて、ナイフなど持ち出す。

 『本が死ぬところ暴力が生まれる――電子メディア時代における人間性の崩壊』(バリー・サンダース著、杉本卓訳、新曜社)という本が刊行されたのは1999年。電子メディアの普及によって、識字による自己形成が喪失したと説くこの本はほとんど話題になっていない。それこそ21世紀日本社会の危機であろう。


(私のコメント)
携帯電話とテレビが子供に及ぼす影響は非常に大きなものですが、その実態に気がつく人はまだ非常に少ない。携帯電話を子供に持たせるべきかという事がニュースになっていますが、子供に携帯電話が必要である理由があるのだろうか? 同じことはテレビにも言えるのですが、テレビや携帯に依存しすぎて脳の発達に大きな影響があるとすれば問題だ。

今日は「テレビ脳」に関して取り上げますが、テレビに子育てをさせる母親が増えてきた事で、携帯を使わないと他人とのコミニケーションが取れない子供が増えてきているようだ。携帯といっても通話ではなくメールでやり取りをして、1日に100通以上ものメールをする子供がいるそうです。

今までテレビの視聴に使われていた時間の他に携帯のメール発信の時間も増えた。さらにインターネットなどに使う時間が増えてテレビの視聴時間は減ってきたというよりも、テレビも見るしインターネットもしてメールの返事書きもしなければならなくなって、12時過ぎまで時間を費やしている。つまりテレビも見てネットもしてメールもするといった忙しい子供が増えたのだろう。

その結果、睡眠時間と読書や勉強の時間が確実に減る。これは大人にも共通している事であり、携帯料金やインターネットに使う費用は5000円から10000円位使うから、それだけ本代は確実に減る。平均的小学生や中学生のお小遣いは1000円から2000円程度ですが、親が子供に携帯を持たせれば5000円はかかるから大きな費用になる。

読売新聞の記事では1ヶ月に1冊も本を読まない若者が半数に及び、1−3冊程度が40%ということで子供の本離れが進んでいる。分かりやすくいえば本代が携帯等の費用に費やされて本離れが進んでいるようだ。私も子供の頃は小遣いが少ないから古本しか買うことが出来なかった。読書も普段から読んでいないと習慣にならない。

このように現代の子供の環境は変わって来て、テレビや携帯などが非常に大きな影響を与えるようになってきて、小中学校の学級崩壊も珍しくはなくなってきた。つまり暴れる子供や切れやすい子供が増えてきたという事が教育現場で問題になってきた。いろいろ原因は考えられるのですが、子供たちの生活環境の変化が影響している事は確かだ。

特にテレビや携帯等の普及は問題だと思うのですが、ある年齢までの子供はテレビや携帯などから隔離するくらいの対策を打たないと子供の一生に関わるような影響をもたらすだろう。私などもテレビ世代なのですが、幼児からテレビを見続けていると「テレビ脳」になって前頭葉が働かなくなり、知的関心が持てない人間が出来上がる。

小さい頃からテレビを見て育った子供は思考能力を失い、テレビが言った事しか頭に入らなくなり、バラエティ番組で納豆がダイエットに効果があると放送すると納豆が売り切れになるほど売れたり、バナナダイエットが放送されるとバナナが売り切れになりスーパーからバナナが消えた事がありました。

JANJANの記事には「あるある大事典」のケースが紹介知れていますが、それくらいテレビに洗脳されやすい人が増えた事を物語っている。ダイエットならネットや本などを買えばいくらでも情報は手に入るのですが、テレビのワイドショーでやるとニュースになるほどの影響を与えている。つまりテレビの情報しか信用しない人が増えて切るのだ。それが「テレビ脳」の恐さだ。

最近では毎日のように麻生内閣の支持率がニュースで発表されていますが、20%を割ったといわれると麻生内閣は支持されていないと言うテレビによって作られた世論が出来上がる。小泉内閣の時は反対に高い支持率が毎日のようにニュースで報道されて9・11総選挙では300議席に迫る大勝利したりする。

実際に小泉政治がそれほど良くて麻生政治がそれほど悪いのかは時間が経たないと分かりませんが、テレビによって作られたムードが政治を左右しているのではないだろうか? 納豆ダイエットやバナナダイエットなどの騒ぎなどを見るとそう考えざるを得ない。

内田樹氏のブログを見ても、子供がテレビに見入って魂が抜けたような子供の様子を紹介した記事を載せていますが、現代人の「無気力」「無関心」「無責任」といった現象は前頭葉が退化して「テレビ脳」になってしまった現代人の原因がそこにあるのではないかと思う。テレビCMはサブリミナル効果や繰り返しといった洗脳手段で商品を買わせていくのですが、テレビショッピングでつい入らない商品を買ってしまったというのも洗脳効果によるものだ。

アメリカの大統領選挙もテレビ広告の威力は絶大であり、テレビCMの量が多いほど効果が上がるのは洗脳効果によるものだ。テレビが支持すれば選挙に勝つというのは民主主義の悪用ともいえるものですが、ネットの普及によってその危険性が明らかになってきて若い人たちにはテレビを見ないと言う人が増えてきた。ネットでニュースも動画も見られるようになり、テレビ放送も録画してCMはカットして見るといった人もいる。

子供に対しても、テレビの見方や携帯の利用の仕方を大人や親が教えてやるべきですが、大人自体がテレビや携帯の利用に仕方を知らないし、テレビの弊害もまだ十分に認識されていない。テレビでしかニュースや情報を受け入れない人が多いからだ。インターネットやメールも利用の仕方もまだ試行錯誤の段階であり、子供にも有害サイトなどの対策も必要だ。

子供の携帯の所持も、携帯がないと友達とのコミニケーションが取れない子供が増えてきた。「テレビ脳」のように「携帯脳」があるのかもしれない。携帯を使って文章などを書いていると定型的な文章しか使わずにこれも前頭葉が退化していくようだ。若年性のボケなども前頭葉が退化することで起きる現象ですが、「テレビ脳」や「携帯脳」が原因になるのかもしれない。


◆認知症は感情が突出する 2006年8月26日 小林勇一
http://musubu.sblo.jp/article/1190123.html

前頭葉が働かないというとき理性が働かない、抽象的思考ができない、これは文章が読めなくなる。文章は漢字などが読めなくなるのは漢字は抽象化した絵であるからだ。太陽とあれば太陽をイメ−ジしなければならないし山や川とあっても常にイメ−ジする働きが必要なのだがそれが脳の弱体化でむずかしくなる。つまり人間を人間たらしめたのは理性の前頭葉であり感情ではないのだ。感情で行動したら好き嫌いとかで行動したら常に喧嘩ばかりするようになるし人間は戦争で滅びてしまっただろう。嫌いでも付き合いしなければならないときもあるし自分の感情のおもむくままに行動はできない、頭に来てなぐりたいけどここはなんとか頭を冷し抑えておこうとなる。それで社会生活も成り立つのである。認知症になると感情は爆発して暴力になる。前頭葉−理性で抑えることができなくなるのだ。図では回りの前頭葉で感情が抑えられず前頭葉が正常に働かないので感情部分が突出して肥大化して抑えがきかなくなるのだ。
子供も感情の動物である。意にかなわぬことがあると欲望を達成するのには泣き叫んだり駄々をこねるとにているのだ。

 

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