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社会保障の危機的状況
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投稿者 kanon 日時 2008 年 2 月 28 日 12:27:25: FUgy0.1v81/ao
 

kanonです。

今、この国では格差社会と呼ばれる社会現象が顕在化し、国民の間では貧富の二極化が進行することで、80年代までの一億総中流といわれた平等神話が崩壊し、頑張っても報われない社会状況が露呈してきています。貧しいものは「自己責任」という言葉で短絡的に努力が足りない結果だと片付けられてしまい、それを自ら招いた怠惰な性向によるものとすることで切り捨ててしまう風潮がますます強くなってきています。あるいは、本当は他人の不幸に目を背けない心情があったとしても、それにかまけていると今度は自分自身がそのような立場(弱者)になってしまうという不安も手伝ってか、相変わらず他者との競争で食うか食われるかの闘争が社会の中で常態化し繰り広げられているように映ります。このような不公平を回避するために、歴史を遡ると19世紀に社会保障制度が成立したわけですが、昨今では、これらの教訓から得たものはないかのごとく社会保障制度が機能不全に陥っている始末です。社会保障制度は、国家社会主義に対抗した形で資本主義社会の存続のために自由主義社会が格差是正の改善策として導き出したシステムなのですが、90年代に入って社会主義国家の大半が消滅するに伴いその存在意義も希薄になり、やがて、資本の暴走が激しくなることで、もはや剥き出しの資本主義が露呈するに至っています。ここにきて、再び社会保障施策のレールを引きなおす時期に差し迫っているかと思われるのです。論考は社会保障の歴史を振り返るところから始まり、現在においての課題まで広く浅く扱っています。憲法に則って一人ひとりの生存権が国家責任の原則に守られるように、あるいは国家が暴走しないようにと先人たちが勝ち取った権利を死守し続けて、更にそれを発展・進化させる義務が私たちに課せられているのではないでしょうか。

社会保障とは英語で(social security)と呼ばれ、「social」は 「社会的な・社会上の」、「security」は「安全・安全確保・安心感」といった意味で使われています。つまり、社会保障(social security)とは、「社会的な(または社会的な原因から生じる)心配や不安のない状態を実現させるもの」と言い換えることができます。大辞林では『国家が国民の生活を保障する制度。日本では社会保険・社会福祉事業・公的扶助・公衆衛生などがある。』と説明しています。

そうしたことからも分かるように、国家が国民の生活を保障する制度として社会保障が発展していったわけですが、社会保障が成立する前提には、国民国家としての福祉国家政策を推進できる基盤が整っている必要があります。近代以前の中央集権的な国家観は、君主が神から付与された王権を媒体として臣民を統治するシステムであり、そこでの臣民は国家(王権)の臣下としての役割を担っていますので、近代以降に見られる国民主権の概念が未発達でした。個人の権利として、あるいは国家の義務として国民の生活を保障するには、国民一人ひとりの人権を尊重できる民主主義的な国家観の成立を待たなければなりませんでした。

社会保障の創設の先駆けとして、まず、イギリスにおいて1601年にエリザベス救貧法が成立し、続いて1834年には救貧法の改正が行われました。この制度の特徴としては、当時イギリスでは囲い込み政策によって農地を追い出された農民たちが、都市へと流れ込んだため、その多くが無産者(貧民)となり、貧困者は救貧院というところへ収容されて、そこで働かされることになりました。ここでの給付水準の考え方として、働いている人のうちの最も貧しい生活水準化で救済するという劣等処遇の原則が貫かれていました。

フランス革命以後からですが、法的にも人民主権が整備されはじめたことで市民権(ただし、この宣言において保障されていた人権は、「市民権を持つ白人の男性」に対してのみ)も徐々に確立していくことになるわけですが、具体的には「人間と市民の権利の宣言」(フランス人権宣)に集約されます。やがて、それらの流れが国民と国家の関係を権利・義務関係で捉えられるような変化の兆しに辿り着くことになっていきます。要約すると、これまでの近代以前の絶対王政から立憲君主制への移行を辿り、さらに近代的な国民主権への思想へと繋がる過渡期の段階で、主権が国家側の観点から国民の側へシフトする方向へ傾いたことが、社会保障の施策の萌芽を準備したと考えられます。特に、ビスマルクの「飴とムチ」政策は社会保障の発展に大きく影響を及ぼした施策といえるでしょう。つまり、国家が国民の生活を保障していくという社会保険のプロトタイプを作った一方で、当時、社会主義運動が盛んで革命が勃発した時期であり、ビスマルクはこれを抑えるために社会保険の導入などによって国家の政策に批判的な流れを食い止めようとしました。それは、国家体制の基盤強化という名目で施行されることになったのですが、やがて、それが社会民主主義的な政策のモデルと見なされるようになっていきました。ここで、当時の世界状況の外観を振り返っておきますと、ロシア革命の成功によって社会主義計画経済が台頭してきており、その影響もあり資本主義諸国は危機にさらされて存続が危ぶまれていました。やがて、20世紀に入ると、資本主義における労働者階級の生活保障や経済の復興といった観点から、ケインズの経済政策や社会保障の拡充政策へシフト変換し、資本主義の延命策として福祉国家政策がとられることになりました。

さて、日本の社会保障は、ドイツのビスマルクの社会政策制度にならって順次、整備されていきました。例えば、1927年に施行された健康保険法、1938年に施行された国民健康保険法などが挙げられます。しかし、日本の社会保障制度が本格的に充実していくのは戦後に入ってからのことですが、敗戦によって帝国主義的な国家観から一転して社会民主主義政策の転換が起点となったことから基盤整備は始動していきます。まず、戦後補償として行われたのが引揚者や失業者などを中心とした生活困窮者に対する生活援護施策や公衆衛生の改善などに対する取り組みでした。1946年に生活保護法が制定されたことにより、国家責任の原則、無差別平等の原則、最低生活保障の原則の3原則である公的扶助が確立されたことで、各分野における福祉施策の展開に大きく寄与していくことになりました。換言すれば、戦後の経済復興で国民皆年金制度が確立したのに加え、福祉政策においても、生活保護法・児童福祉法・身体障害者福祉法・知的障害者福祉法・老人福祉法・母子及び寡婦福祉法のいわゆる福祉六法が整備され、一定の成果がもたらされるようになりました。それは、憲法25条の生存権を請けて、衣食住などの生活に欠かせない必要最低限度のレベルを法体系の中で、権利として認められていったことからも理解できます。そして、当初は貧困救済の性格が強かった政策でしたが、そのような流れの中で、生活の質を含めた文化的生活の保障までも包含するようになっていきました。

このようにして日本では社会保障政策が拡充されていったのですが、その要因として繰り返しになりますが、ケインズ政策の受容があったことは重要だと思われます。それによって、国家の市場のへ介入が容認され公共投資が刺激を受けて雇用が推進されたこと。また、朝鮮特需やフォーディズム段階の中での農村人口の都市部への流出などにより、労働生産力の飛躍的な伸びがあり、労働力をフルに積極的に活用したことで景気が拡大していきました。さらには、富が一極集中せずに国民へ再分配されるように働いたこと。戦後の復興段階で日本が経済的に成長した要因はケインズ的な国家介入による市場調整であり、そうした政策が社会保障政策として国民への再分配効果をもたらすことに繋がっていきました。しかし、70代ごろからのオイルショックを契機に日本の経済成長は停滞していくことになり、やがて福祉国家から市場原理・新自由主義に基づく「効率」と「自由競争」を容認する経済優先の秩序がヘゲモニーを握ることになり、現在では、国家責任の原則(社会保障)よりも自己責任の原則が幅を利かすようになっています。

1990年代に入るまでは、生存権の保障とその公的責任の関係から、福祉国家政策といわれる公的責任主体である社会福祉の枠組みが発展してきましたが、90年代以後の社会保険の推移を概観すると自由競争、市場原理を導入した施策を中心に施策が展開されていくことになりました。例えば、2000年度に施行された介護保険制度では、これまでの行政主体の「措置制度」から一転した、市場原理を導入する形でいわゆる個人の権利と自己責任としての「契約制度」へ移行し、大きな転換をもたらすことになりました。ちなみに、医療制度に目を向けても診療報酬を公民二階建ての医療制度(財界では「混合診療」の解禁と表現されている)へと改変し、高度医療は自由契約、自由診療という名目で自己負担で賄うシステムの構築に先駆けて、国民を「医療崩壊」の言葉で惑わせて、負担が国よりも個人に比重を置くような新制度の改変が必須であると世論に訴えることで国民意識を操作しようとする心理的操作、言い換えれば、思想をある方面へ定着させる手法は、心脳コントロールと言われますが、これからは国民が騙されたと思う前に、意識の改変が無意識下で進められる中で操作される仕組みも組み込まれるようになってきているので、このようなことが空想のレベルのみでなく現実に存在するということを肝に命じる必要もありましょう。

それで、社会保障の国家補償が自己責任に置き換わる背景には経済的な施策の転換を図ったことを念頭にする必要があります。ニューライト政策や新自由主義政策といったレッセフェール(自由放任)が、これまでの主流であったケインズ主義的な保護政策の反動として顕著に現れてきました。もちろん、自由に競争することは、互いを切磋琢磨する上では問題ないといえますが、この政策を推し進めると、畢竟、格差の問題に突き当たります。競争に勝ち残った者は当然の権利として、貨幣によって、この世界でのさまざまな権利を享受できることとなります。一方で、残りの大部分の者は、その結果がまさに当人の自己責任として追及され、事実として突きつけられるので、これを否認できないゆえに日々の雑多な生活の中に埋没することになっていきます。つまり、持つものと持たざるものの階級分裂が起こることに繋がるのですが、持つべきものは、与えられた特権を利用してこの世界でのさまざまな選択の自由を享受することとなり、持たざるものは、さらに余裕のない生活、つまり雑多な仕事にあてがわれ、勝者に銭で使われる身に甘んじることになるのです。

さらには、適者生存という社会ダーウィニズムの思想というのが戦前の歴史の中で一国の帝国主義を進展させた歴史がありましたが、これを繰り返す方向に向かいつつあります。だから、社会保険制度を再度、理念的な側面から見つめなおすことは肝心なことだと思います。マクロ的に論及すれば、政策自体が新国家主義と新自由主義のセットで、この国を未来のない閉塞した社会に向かわせることになり、その批判の視点の矛先には、教育を含む公的責任の場が削られていくという現実が横たわってきます。これらを見過ごすわけにはいかないでしょうし、これからは、下々の者達を使い捨てにしようと目論むお偉方連中こそが、この国の社会保障の充実にとって、本当の「敵」になっていくのかもしれません。

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