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123便 生存者川上氏「前方から懐中電灯の光が近ずいてきたので助かったとおもった。そのあとまた意識がなくなり、次に目が覚
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投稿者 愉快通快 日時 2008 年 5 月 28 日 15:10:05: aijn0aOFbw4jc
 

・この日航ジャンボ機の機体材料に、劣化ウランが使われていたということ。
・機内に、ラジオアイソトープ(放射性物質)が積まれていたこと
・事故直前に、すぐ近くを別の航空機のような物が飛んでおり、この写真は新聞紙上にも掲載された。そしてボイスレコーダーでも、おそらくそのことについてであろう客室乗務員と機長らの会話も聞き取れる。
などの重大な事実がまずある。

いろんな専門家の意見が書かれてるのを読むと、政府・事故調の報告にある「圧力隔壁の破損が原因で起こった事故」というのは、まるっきりデタラメだということも事実のようだ。
次に、最重要な証拠となるボイスレコーダーを一切公開しなかった。 10年ほど経ってから、その一部を公開したものの専門家の分析ではその音声には数々の編集跡がみられるとのこと、さらに大事な部分がカットされてる模様だ。
そして、事故後の理解し難い数々の行動、目撃証言等・・・
その中からごく一部を拾うと、たとえば、

・事故当夜、旅行先の伊豆町稲取のホテルで「水戸黄門」を見終えたあと、窓の外を見るとおびただしい数の軍艦がライトで海上を照らしていた。怖くなり、窓を閉め部屋の電気を消した後、カーテンの隙間から様子を窺った。そのあとテレビで事故を知った。―医師の証言
・相模湾でみつかった尾翼下にある補助動力装置の吸気口は、機体の右側にとりつけられていた部品。この部品は、胴体に内臓されているもので、よほどの力が加わらない限り抜け落ちない。この装置の本体らしいものは墜落現場で見つかっている。
・事故当夜、基地で待機していると「相模湾で魚雷が行方不明になったので捜せ」との命令があり僚友を含む数機が飛んだ。僚友は見つけなかったが、「別の機が海上の浮遊物を発見した」と語った。―元航空自衛隊パイロットの証言
自衛隊に出動の確認を取ったところ「機密である」とし回答はなかった(証言の裏付け確認の著者)
・当時から今日まで友人が語ってくれた話がどうしても私の脳裏から離れる事ができないのです。事故当時、航空○○隊に勤務していた友人が、事故から数週間後に休暇を貰って地元に帰ってきた時に聞いた、本当の話です。友人は、私(普通の一般人)に対して嘘をつかなければいけない理由なんてないだろうし、そして、まだ事故原因も分かっていない時期に、私に、いずれは分かると思うんだけど(直ぐに真の原因が分かると言う意味だったんだと思います)...と言って話してくれた事は、「123便の事故は、本当は○○隊が○落させたんだよ。当時訓練で標的機を飛ばしていて、それが操縦不能になって、行方が分からなくなり、そのとき近くを飛んでいた123便にぶつかったんだ。墜落現場には標的機のオレンジ色の残骸があったから、誰もいないうちにヘリで回収したんだ」と言っていました。当時まだ事故から数週間しか経っていない時にそう言ったのが当時、凄く印象的でした。もちろん当時私は半信半疑でしたが、今考えても彼が私に嘘を語る理由もないし、嘘の話をしたところでなんにもないのです。ただ、彼も自分が知っている事を誰かに話したかったんだと思います。そして、一般隊員(だと思います)の彼が知っているくらいだから、当時○○隊内ではこの話を知っていた人は結構いたのではないでしょうか。私がこの話を投稿(このような話を真実と確認していないのにいいのかと迷いましたが、聞いた話は本当だったので)したのは、「8・12連絡会」が発行した「旅路」を目にしたからです。
・実際の事故機墜落現場は早くからわかっており、地元民らは救出に向かおうとしていたのに、わざと違う事故現場を報道させ、また地元民らにも救出に向かうことを禁止した。
・事故が発生したのは相模湾上空で、その海底には多数の部品が沈んでいる筈である。それらを引き揚げて調査・解析することによって、初期破壊がどこに発生したのか、そしてその破壊がどのように進展していったかを知ることが出来るにもかかわらず、海底からの部品の回収と、それらに関する調査・解析を全くと言っていいほど行なわなかった。
・事故直後、航空自衛隊・百里基地の航空救難隊のヘリコプターKV−107機(バートル)が現場上空到着。 さらに、朝日新聞社の取材ヘリが現場の炎を確認。このとき炎の上で超低空飛行をしている捜索ヘリも見ている。これについては1995年になって米海兵隊救難チームのヘリであことが判明した。が、(日本政府からの要請で)横田基地から救出せず引き返すように命ぜられたとのこと。
・墜落から1時間後に、上野村三つ岐というところに自衛隊の一団が集結しはじめ、その数50人100人――彼らは何かの合図を待っているように静かに待機。そして、米軍のC−130と救難ヘリが横田基地からの連絡により、乗員・乗客の救出を断念して引き上げたのと同時に、墜落現場=御巣鷹山方向から信号弾が上がり、それに呼応して、一団は整然と御巣鷹山の墜落現場へ移動を開始した。おそらくその一団は特殊訓練を受けた自衛隊の秘密部隊。
・ジャンボ機のあとを、戦闘機みたいなのが2機追いかけていった
・マンションのベランダから西空を眺めていたところ、突然雲の 透き間から太陽が射すようなオレンジ色の閃光を見た。双眼鏡で覗くと両側から青、真ん中から赤い光を発した大型機が北の方に消えた。―浦和市に住む住民の目撃証言
(垂直尾翼を破壊されても、エンジンには支障のない飛行機が火を吹くはずはないのです)
・飛行機が飛んで行った後から、流れ星のようなものが近くを飛んでいるのが見えた。―長野県南相木村中島地区の住人3人
・生存者救出のために山腹に到着した時、既に自衛隊員が到着していて生存者救出そっちのけで、(証拠隠滅に)機体の一部を回収していた。(先の特殊部隊と思われる)
・奇跡的に生還した川上慶子さん(当時12歳?)の証言。
同乗していた両親が亡くなったので島根の祖母宅へ帰ったときの話。「墜落したあと、ふと気が付いたら周囲は真っ暗だった。あちこちでうめき声が聞こえ、私の両親もまだ生きていたような気がする。しばらくすると前方から懐中電灯の光が近ずいてきたので助かったとおもった。そのあとまた意識がなくなり、次に目が覚めると明るくなっていたが救助の人は誰もいなくて、周りの人たちはみんな死んでいた。」 慶子さんから上記の話を聞いた祖母はご近所のひとに伝えたらしい。しかし「慶子は夢でも見たんじやろう。」で終わってしまった。
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