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日本を救うことができるのは、日本国民自身である(森田実の言わねばならぬ―憂国の士の論説コーナー)
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投稿者 クマのプーさん 日時 2008 年 5 月 16 日 09:52:57: twUjz/PjYItws
 

http://www.pluto.dti.ne.jp/~mor97512/


2008.5.15


堀本秀生(旧大宮市在住)
日本を救うことができるのは、日本国民自身である
――『脱アメリカで日本は必ず甦る』を読んで

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 7月29日、参議院選挙で与野党が逆転し、あたらしい政治プロセスが始まりました。昨年10月1日福田総理は、マスコミがいうところの衆参「ねじれ国会」で所信表明演説を行いました。同演説では、小泉・安倍の「構造改革」継承と、ブッシュ戦争大統領への協力を表明しました。そして参議選から8か月経った2月末に、森田実氏の『脱アメリカで日本は必ず甦る』が出版されました。
 「日本を救うことができるのは、国民自身である」という言葉は、森田氏と私たちの願いでもあります。願いを実現するには、私たちは困難ではありますが、国民の“覚醒”と国民と野党の協力、この2つの課題を解決する必要があります。森田氏の著書には、「構造改革」で私たちの生活がバラバラにされるありさまと、従米主義への国民的根拠、従米政治からの脱却への遺産が、描かれています。
 同時に森田実氏から、全国各地にいる無数の憂国の士に対して「マスコミに支配されない日本」をつくるために、「塾」を地域で立ち上げるようにと呼びかけがありました。森田氏の呼びかけは、あたらしい政治プロセスのしたで、小沢一郎民主党代表が推進した「従米大連立」策動をへて、行われました。
 「塾」の目的は、あたらしい政治プロセスを活かし、憂国の士が地域住民とともに「日本社会が直面するあらゆる大切な問題」に積極的にかかわり、政治体験を積むことで、日本国民の政治意識を「脱アメリカ」へと、政治を変えていくことです。

 国会で真っ向勝負を 第168回臨時国会の会期は、与野党で9月10日から11月10日までの62日間まで合意されていましたが、2度延長され、年を越した1月15日に128日間の会期を終えて閉会しました。同国会は、9月12日の安倍総理の辞意表明から始まり、11月の福田総理と小沢民主党代表との「大連立」が話し合われ、1月の「新テロ対策法案=新米軍支援法」の再議決などがありました。
 いわゆる「ねじれ国会」に対して福田総理は所信表明演説で、国会運営に対して「野党の皆様と、重要な政策課題について、誠意をもって話し合いながら、国政を進めてまいりたい」と「野党との対話」を強調しました。
 それに対して野党の民主党は、「解散・総選挙に追い込む」と発言しながらも、政権交代をしたいのかどうか、よくわらない対応をしていました。同国会冒頭での参議院での「安倍総理問責決議案」を提出せず、安倍総理が入院しても政府に「総理臨時代理設置」を要求し、国会審議の継続をめざしませんでした。また、「新テロ対策法案=新米軍支援法」の再可決に対して、「福田総理問責決議案」は提出されず、1月9日に開かれた党首討論では、自衛隊海外派兵のための「恒久法制定」の必要性をお互いに確認するというまことに不思議な国会でした。 
 私たちは国会議員に対して、同意人事や法案審議が国会の場で正々堂々行なわれるように監視を強化しなければなりません。

 民主党は意識改革が必要
 所信表明演説で福田総理は、小泉・安倍「改革の継続」と「日米同盟の堅持と国際協調」(従米主義のこと)の外交の継続を宣言しました。
 しかし、昨年の7月29日の参議院選挙において国民が示した意思は、小泉・安倍政治へ「ノー」でした。多数の国民は、@小泉・安倍『構造改革』の否定、Aブッシュ戦争米国大統領への協力の否定の2っの意思を示したのです。
 だが、私たちは野党の国会議員の中に、小泉・安倍の「構造改革」と小沢民主党代表をはじめ従米主義にさいなまれている人が少なからずいることを知っています。93年から国内での「市場原理に任せて」「個人が自立して自己責任で」やっていく「米国化革命」の嵐を支持している国会議員が、ブッシュ大統領を支持しています。小沢民主党代表と福田総理との「大連立」の話し合いで、衣の下から小沢民主党の「従米主義」がみえ隠れしました。
 小泉「構造改革」とは、かっての小沢氏の「普通の国」という主張の中身であった「官邸主導の政治」「政治改革」と「規制緩和(構造改革)」が実現している事態です。しかし、小沢氏は同じ主張に気がついて社会の平等化と福祉をめざす「国民生活第一」という社民主義の方向に舵を切ったようにも見えます。

 与党と野党の対立軸
 与党と野党の対立軸は、「構造改革(新自由主義)」と「国民生活第一経済(社民主義)」か、「従米主義(安保堅持)」と「アジアとともに生きる(脱アメリカ)」のか、です。縦軸に「従米主義」⇔「アジアとともに生きる」、横軸に「構造改革」⇔「国民生活第一経済」を設定してみてください。さらに、縦軸にも横軸にも直交する軸を設定します。この軸を前後軸とよびます。これは、政治の当事者である国民の力になります。どの軸も回転をします。縦軸の「国民生活第一経済(社民主義)」と横軸の「アジアとともに生きる」へ回転させるには、森田氏の呼びかけである「地域の草の根に無数の『塾』をつくり」、構造改革反対と従米政治一掃のあらゆる運動と力を合わせ、前後軸を回転させる必要があります。
 さいわい、他の野党の国民新党、社民党、共産党は「構造改革=米国型市場原理主義」とブッシュ大統領への協力には反対です。参議院選挙での民主党票の集中は、民主党への消極的期待です。国民の多数は、与野党の逆転で、「構造改革=米国型市場原理主義」反対とブッシュの戦争協力に反対することを、民主党が一つの任務にし解決することを求めていました。

 国民による野党への「協力戦術」 昨年9月27日、民主、社民、国民新の野党3党の選挙対策責任者会議が開かれ、次期衆院選の選挙協力に関する協議をスタートさせました。さらに、12月12日には、国民新党、民主党、社民党の3党が共同で参議院に提出した「郵政民営化見直し法案」が参院本会議で野党の賛成多数で可決され、衆院に送付されました。「見直し法案」の参院通過は野党共闘と多数の国民の期待に応じた有意義なことでした。
 昨年9月8日、大変よいニュースが飛び込んできました。
 それは、日本共産党が党本部で第5回中央委員会総会(5中総)を開き、志位和夫委員長は次期衆院選ですべての小選挙区で候補者を擁立する方針の見直しと擁立基準の設定を提案した、とのニュースです。これまで共産党が全選挙区で候補者を擁立していて、結果として野党の票が分散し、自民・公明党に有利になり、全体の獲得議席数が減少するという現実がありました。
 国民的政局に日本共産党が登場したのが、89年8月の参議院での土井たか子の指名と、07年9月の参議院での小沢一郎指名でした。土井たか子の指名は、89年7月の参議院選挙で「消費税廃止・政治腐敗の一掃」を掲げた日本社会党が第1党となり、「ねじれ国会」となったからです。
 しかし、社会党は、「消費税廃止」の公約を投げ捨て、有権者から見捨てられ、さらに「日米安保」容認となり、社民勢力は政治勢力としての主導性を放棄し、勢力の大半が96年に現在の民主党につながる勢力に吸収されていきました。社会党の外交・安保政策の根本転換について森田氏は「村山社会党は親米派に転換した」(226頁)と鋭く指摘されています。このことにより、いわゆる「55年体制」が崩れ去り、大きな政府の社民主義と社会福祉重視の協同主義の位置に、従米主義と新自由主義の勢力が進出してきました。
 「アジア・太平洋戦争」の敗戦前、共産党は政治勢力として国政に登場していませんでした。敗戦前の国政の世界では、天皇グループ、軍部、官僚、財界、政党=政友会、民政党(自由主義)、社会大衆党(社民主義)の勢力とが「戦争か平和か」「福祉重視か市場原理主義か」で争っていました。共産主義の勢力が新たに国政に加わったのは、ポッダム宣言受託後です。天皇が軍部を解体し、国政から排除し、議会での自由主義と協同主義、社民主義の勢力の争いに、戦時から平時に復帰したので、獄中から解放された共産主義者が参加したからです(1946年4月10日の第22回総選挙で5名当選)。
 今年の4月27日、衆議院山口2区補欠選挙で民主党候補(社民党推薦)の当選は、共産党支持者の積極的投票抜きには実現できませんでした。このように5中総の方向は、共産党が労働団体と民主団体の諸要求実現の政治から、国民の関心がある政局にアプローチする政治に転換する可能性があります。共産党の支持・協力の諸要求実現の政治が転換するならば、野党が協力して国民の利益を担い、政局に臨むことになります。日本の従米政治からの歴史的大転換過程を、共産党の支持層も共同で決定することになり、私たちにとっても、大変よいことです。共産党のスローガンは、国民生活と福祉の立て直しに有益です。私たちは民主党に対して、共産党の候補者がいない選挙区で、同党のスローガンを掲げる協力をお願いしなければなりません。 

 米国の狙いは富の移転
 森田氏は「現代社会において、企業は政府、家庭(家計)とともに大切な経済の基礎単位である。…大切なのは、政府・企業・家計の均衡をとることである」(88〜89頁)、さらに「家計を蔑(ないがし)ろにして、大企業だけを優遇して社会福祉を削るなどということはとんでもない大誤謬(ごびゅう)である」(89頁)と主張しています。
 「家計」を大切にされているのは、編集者時代の蓄積と想像します。敗戦後の「経済安定本部」と「経済復興会議」などに参加し、主導性を発揮していた経済学者(統制派、革新官僚など)の息使いが、森田氏を通して感じられます。
 いま政府は、個人の収入から家族控除をなくし、年金から介護保険と健康保険料などを差し引き、家計を破滅させ、外資系企業と大企業を優遇しています。家庭での貯金が奨励されたのは、1938年4月からです。前年度の37年6月に「戦時経済体制」が推進されたからです。この体制は、93年から95年の「55体制」の崩壊後から、米の外交誌『フォーリン・アンファアーズ』などが否定するものとして「1940年体制」とも名付けています。
 米国が日本政府に国民の貯蓄のとり崩しを要求したのは、1990年6月の「日米構造協議最終報告」からです。89年9月からの「日米構造協議」で米国は、日本政府に240項目の要求をしてきました。その一番目が「貯蓄・投資パターン」の変更でした。国民の貯蓄率が高すぎるので、とり崩しをして米国の製品を買え、米国の住民のようにクレジットカードの多重債務による個人破産者をめざせ、ということです。まったく余計なお世話です。
 かつて占領軍と政府によって家計・企業・政府の均衡が崩されたことがありました。それは、米国占領下の49年の予算でした。米国は、日本政府に「経済安定9原則」を要求してきました。米国は、政府にたいして歳出を削減し、歳入の増加を要求し、家計の貯蓄を企業の設備投資に、直接ふり向ける「小さな政府」の要求をしてきました。「ドッジ・ライン」にもとづいた予算案は、4月4日に国会に提出され、16日に衆議院で可決され、20日に参議院で可決し、成立しました。
 「ドッジ・ライン」にもとづく緊縮財政は、不況を招き、大量の失業者を生み、国民の多くに解雇などの負担を強いました。占領軍は、1ドル=360円のレートを設定し、米国の援助を受けさせるために賃上げ禁止の3原則を出しました。この局面で、占領軍の中の冷戦派、自由主義経済派と結びついた経営者と従米政治家が急速に台頭し、住民の経済復興をめざす協同主義と社民主義が後退をしました。
 昨年末から、サブプライムローンと呼ばれる米国の低所得者向け住宅ローン債権を証券に組み込んだ金融商品が、世界中で大きな問題となっています。米国はこの手法を、財務省と一緒になって日本で使い、日本国民の骨までしゃぶりつくそうと画策しています。「家計」を蔑ろにするのは米国の指示です。森田氏は「日本国民の真の敵はアメリカ従属主義の財務官僚」(60頁)と的確に指摘しています。そのとおりです。

 従米勢力は自由主義勢力から成長
 森田氏は「1945(昭和20)年の敗戦とともに日本がアメリカの占領下に置かれて以後、日本がアメリカの支配から脱却して独立に向うチャンスは3回あった」(224頁)と、主張しています。
 日本は戦後、敗戦国として再出発することになりました。事実上、戦勝国の米国が日本列島を単独占領し、戦後の日本の外交政策に、圧倒的な影響力を持つことになりました。敗戦後、米国からあたえられた戦後外交の枠組みから、新たな構想を形成し、脱却することが住民と政治家の政治課題となりました。
 しかし、森田氏は日本の戦後の政治家は、政権を担当すると、「自らアメリカ政府に従属する」(207頁)と、指摘しています。「岸信介、佐藤栄作、中曽根康弘、小泉純一郎らの形式的な独立後の長期政権は、例外なく本質的に従米政権だった。これら長期政権はアメリカ政府に忠実なるがゆえに、もしくはアメリカに利用されたがゆえにアメリカに守られて長期政権になったのである」(207頁)と、従米政治家の秘密を明らかにしています。
 従属について森田氏は、「政治的には、日本政府はアメリカ政府の目下の同盟者としての役割を課せられてきた」(205頁)と、冷戦期における米国の(ソ連邦、先進資本主義国での労働運動、民族解放運動に対応する)世界戦略からの日本の政治的・経済的・軍事的位置を明らかにしています。米国は日本列島を占領中に、冷戦期に対応する「受け皿」=政治勢力を形成する必要がありました。そこで登場するのが、近衛文麿、吉田茂、幣原喜重郎、鳩山一郎などの親米と自由主義のグループです。これらのグループが敗戦と占領に向けての政治潮流です。
 45年2月には近衛上奏がありました。近衛文麿は米英に直接降伏を主張しました。8か月前の44年7月には、東條内閣が総辞職しました。上奏を軸として和平派が、反東條連合として登場してきたことになります。反東條連合は、20年代の親英米派、皇道派などの連合です。政治勢力の中で、終戦への主導権を握ったのは、20年代の親英米派です。ここが戦後日本の政治潮流の出発点です。近衛文麿、吉田茂、幣原喜重郎、鳩山一郎などの親米と自由主義のグループの中から、占領下の公職追放、『東京裁判』を通して、政治勢力が再編され、従米政治勢力が成長してきます。
 48年10月の第2次吉田内閣の成立は、米国政府が目下の同盟者として望む「受け皿」でした。
 占領下の日本列島には、すでに「戦時経済体制」で変革された「社会民主主義」的社会がありました。課題の一つは住民生活の復興でした。「経済安定本部」と「経済復興会議」とは、政府、都道府県市町村、業界、労働組合とが日本列島の津々浦々で力を合わせる労働者の参加と経営の民主化と計画化の枠組みでした。外には「アジアと共に生きる」関係づくりが予定されていました。しかし、吉田茂総理は、この枠組みを否定をし、日本の国民経済が米国との緊密(従属)な関係の基礎を準備しました。
 森田氏は日本は「経済的には、1970年代まではアメリカのマーケットとして利用された」(205頁)と指摘されています。森田氏は大学卒業後は「初めは鉱山技師になろうと考えていた」(4月25日付け『森田実の時代を斬る』)と書かれています。鉱山技師の職場である日本の石炭産業を崩壊に導いたのは、第2次吉田内閣以来の政権担当者の従米政治、アメリカのマーケットづくりにあります。森田氏は「私も鉱山技師への道に進むのはやめて別の道(ジャ-ナリズム)に進んだ」と自らの人生を振り返っておられます。

 自由主義者は「モダン生活」で登場
 森田氏は「日本がアメリカの支配から脱却」するための一つの手本として「私は石橋湛山(いしばしたんざん)の『小日本主義』を参考にすべき」239頁)と、提案されています。
 石橋湛山は自由主義の立場です。当時、自由主義者は英米蘭と日本の戦争を、どうみていたのでしょうか。石橋湛山の知り合いの清沢洌(きよさわきよし)も自由主義の一人です。清沢は思想家で言論人と言われていますが、「太平洋戦争」を国家社会主義と自由主義の戦争としてみていました。国家社会主義とは当時の日本の政府と社会のことになります。「戦時経済体制」で変革された「社会民主主義」的社会の中で自由主義者は、その社会性に応じて社会の平等化・会社の所有と経営の分離・議会の大政翼賛会などに対して、個人を対置し、反総力戦体制の立場をとり、大政翼賛会批判を行いました。44年7月の東條内閣が総辞職以後の内閣の顔ぶれを見ますと、敗戦への主導性を発揮したのは自由主義派です。
 自由主義者は突然登場したわけではありません。自由主義者が台頭したのは、『戦時経済体制』前の日本社会に、1920年代からアメリカ的生活様式(大量生産・大量消費)をあこがれの対象とした「モダン生活」が都市部で成立していた背景があるからです。『小泉構造改革』前の90年代の消費は、国内総生産に占める割合が60パーセント以下でしたが、20年代には約80パーセントでした。今の米国と、ほぼ同じ割合でした。アメリカ的生活様式が、海外からの思想を受容し、マルクス主義が台頭してきました。また柳田國男に代表される偽史、日本主義(三井甲之など)とともに自由主義派を登場させました。

 押さば引け、引かば押せ
 「押さば引け、引かば押せ」は、柔道の極意と言われています。対戦相手が押してきたら下がり、引いてきたら寄って間合いを保つ、ことではありません。三船十段の映写を見たことがあります。
 三船十段のからだは、対戦相手の仕掛けにまかせて、なすがままのようにくっついていました。やりかたは、二人のからだがひとつになり、わざを仕掛けてきた相手のからだを使っていました。相手は自分が仕掛けたわざや、力で飛ばされていました。
 森田氏は石橋湛山の政治理念を書いています。長めですが、引用します。
「石橋は『朝鮮・台湾・樺太も捨てる覚悟をしろ。支那や、シベリアに対する干渉は勿論やめろ。これ実に対太平洋会議の根本』と書いて、日本の行き方として『小日本主義』を提唱した。戦前の大日本帝国の指導者が石橋湛山の警告に耳を傾け、中国、アメリカとの、無謀な戦争への道を断念するすることができなかったために、日本国民は第二次第大戦の大悲劇と戦後62年間もの長きにわたって、アメリカの事実上の従属国として生きてこなければならなかった」(239〜240頁)
 森田氏の指摘のように、米国と戦争になったのは、中国に侵略をしたからです。中国に戦争を仕掛けたのは、石橋湛山が書いているように、台湾征伐、朝鮮併合をしたからです。昭和の初めの大日本帝國の領土は、日本列島、「沖縄」、台湾、樺太、朝鮮、新南群島などで、満鉄付属地、租借地、委任統治区域などありました。米国と開戦をすることになったのは、時間的経過の中で、米国のからだにふれたからです。開戦をしないのならば、時間経過とは逆に中国、朝鮮、台湾、「沖縄」などを放棄しかありません。石橋湛山の主張は、講道館柔道の極意です。ところが鳩山一郎の自由主義は、「日本と中国とはお互いに貿易をする必要があったが、中国の内部に日本との連携を拒否をする強硬派がいたため戦争になった。また日本は中国に、満洲国と同じように共産主義の侵入に対する緩衡国家を建設する、必要がある」などと、占領軍に供述しています。中国にたいする日本の侵略が肯定されています。
 石橋湛山の敗戦後の動きは、46年1月26日の「野坂参三帰国歓迎国民大会」の世話人として名前が連ねています。同じ自由主義者でも鳩山一郎は、石橋たちの動きに対抗をしようと反共連盟の結成を提案してます。鳩山一郎は総理のとき、米国への従属を前提に、対米関係と国際関係の日本の相対的位置の向上をめざそうとしました。それに反して、石橋湛山は総理のときに国民に対して「福祉国家の建設」、労働者に対して「完全雇用の実現」、外交では「中国との国交回復」を公約としました。石橋湛山が健在であつたなら、反共・従米の岸に対して「対米自立」・「非軍事」(「平和4原則」全面講和、軍事基地提供反対、再軍備反対、自主中立)で社会党との連合の可能性があり、公約どおりに冷戦期の「世界平和」に貢献したかもしれません。

 力を合わせ「脱アメリカ」へ
 戦前から「戦争か平和か」「福祉重視か市場原理か」「米国を入れての東亜新秩序か否か」これらをめぐって協同主義、社民主義、自由主義勢力の対抗軸がありました。占領下も、片山、芦田内閣と米国資本、日経連、吉田民自党との対立にも協同主義・社民主義と自由主義の対抗軸は、継承されました。森田氏は「アメリカは数年間の占領のあと、1951(昭和26)年9月のサンフランシスコ講和条約によって日本に形式的な独立を与えた」(205頁)と、戦勝国の米国が無条件に敗者に「米国流」を押し付けるさまを書いています。しかし、片面講和では、戦勝国間の分裂で「米国流」を押し付けられ、日本の国民を含めた戦争責任、植民地支配責任、戦後処理としての性格を喪失しました。「日米安保条約」はこの上にむすばれました。自民党には、自由主義、協同主義、反共主義、日本主義などが、社会党には協同主義、国家派(革新官僚)、社民主義などが合流し、「55年体制」が形成されました。『55年体制』は、91年のソ連邦自壊後、93〜95年にかけて崩壊しました。
 94年に自民、社会、さきがけの連立政権ができました。社会党は、日米安保と自衛隊を認めました。社会党の大転換により、絶対平和主義を貫く潮流は、国政で、議席をもてなくなりました。社会党は自壊をしました。社会党は「サンフランシスコ体制」に反対する勢力でもありました。「サンフランシスコ体制」とは、片面講和と日米安保のことです。以後、社会党は「平和5原則」(全面講和、日米安保条約破棄、非武装、自主中立、国民経済の自主性)を掲げ、戦争反対の立場でした。
 20年代、無産政党の地方議会への進出は、地域末端から戦争への総動員体制構想に、抵抗することになりました。地方・地域を大切にする地方自治は、「脱アメリカ」への遺産です。
 今、私たちのかけがいのない日本が、バラバラにされています。従米勢力が「米国に日本の力を認めてもら」っているからです。自由主義者の石橋湛山の政治理念は、平和、自治、そして社会連帯と福祉を前提とする協同主義、大きな政府で税金を社会に再分配をする社民主義とともに、日本国民の「脱アメリカ」のための財産です。敗戦後、米国があたえた戦後外交の枠組みと、戦勝国国内の再生システムの同質化の押し付けから、脱却することが住民と政治家の政治課題です。平和を(戦争反対)を貫き、力をあわせて「脱アメリカ」を実現しましょう。


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