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クロウリーの生涯
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投稿者 新世紀人 日時 2008 年 5 月 22 日 15:47:33: uj2zhYZWUUp16
 

(回答先: 謎の地下王国シャンバラは 投稿者 新世紀人 日時 2008 年 5 月 22 日 15:37:58)

http://www5e.biglobe.ne.jp/~occultyo/magic/colulysyougai.htm
クロウリーの生涯


 20世紀最大の魔術師とも呼ばれるアレイスター・クロウリーは1875年にイギリスのリーミントンで生まれた。この時の彼の名はエドワード・アレクサンダー・クロウリー。彼がアレイスターを名乗るのは十代の後半になってからである。
 彼の両親はビール醸造業の経営者で裕福な一族だった。皮肉なことに、この魔術師の両親は熱心なキリスト教原理主義者だった。より正確にはエクスルーシブ・ブレスレン派という宗派で、英国国教会派からの分派である。多くの伝記作家達が、この極端な原理主義派が、クロウリーの人格形成に大きく関わっていると指摘する。それが正しいかはともかく、彼がキリスト教を嫌う大きな原因となったことは、おそらく間違い無い。

 クロウリーの父は、彼が12歳の時に死去した。父の死の直後に彼は、このエクスルーシブ・ブレスレン派の寄宿学校に入れられたが、そこで宗教的な虐待を受けた。この虐待によって衰弱した彼を、叔父の一人がみかねて退学させ、その後は家庭教師による教育を受けた。
 1892年にパブリックスクールに入学するもすぐに自主退学、ケンブリッジに神学したが健康を損ねてここも自主退学。その後、化学と医学の道を進む決心をしてキングス・カレッジに入ったが、すぐに医学への関心をなくし、ケンブリッジ大学に移籍した。そこで哲学や心理学を学ぶも、それにも飽きて古典学に変えた。
 このケンブリッジ時代の彼の生活は、当時の学生にしては優雅なもので、詩やスポーツ、女遊び(時には男遊び)、政治運動などにも熱中した。
 彼が魔術に関心を持ったのも、この時期である。彼は、A・E・ウエイトの著書にふれ、魔術に関心を持った。彼はウエイトに質問の手紙を出しているが、その返事は「いずれ君の前に、師になる達人が現れる。そのための前準備として精進しなさい」というものだった。

 その後、彼はヘルメス哲学にのめり込み、錬金術に夢中になった。1898年に、ある激的な偶然に出会う。彼はツェルマットに登山に出かけ、地元の酒場で錬金術について一演説をした。たまたまそこにジュリアン・ベイカーという青年がいて、彼はクロウリー以上の錬金術の知識を持っていた。いわば、「釈迦に説法」をやらかしていたことを思い知らされた彼は、このベイカーこそが、自分の探していた達人、師ではないか? と思った。
 しかし、ベイカーは、あっさりとそれを否定し、「代わりに私の師を君に紹介しよう」というものだった。
 そして、彼はジョージ・セシル・ジョーンズという化学者を紹介した。彼こそが、かのGD(黄金の夜明け団)の幹部であった。クロウリーは、彼の手引きでGDに入団し、イニシエーションを受けたのである。
 かくして、魔術師クロウリーが誕生した。彼の魔法名はペルデュラボー(耐え忍ぶ者)であった。

 しかし、クロウリーはGDの教義に不満を持つようになる。彼にとって、教義文書は簡単すぎたのだ。一方、クロウリーも団の内部で、その生意気な態度が祟って、次第に孤立してゆく。
 1899年、彼はアラン・ベネットという電気技師に出会う。GDの中でも実力派の魔術師と呼ばれる。そして、クロウリーから終生に渡って尊敬を受けることになる数少ない人物だ。彼は東洋オカルティズムにも造詣が深い。しかし、重度の喘息に悩まされていた。
 彼は、ベネットにひきつけられ、ベネットも彼に何か感じるものがあったらしい。やがて二人は同居する。この時、ベネットは団の規則を破り、クロウリーに魔術の上級知識を伝授したらしい。
 この時期に、早くも彼は伝説となる作業を行う。強力な護符を作成し、重病の老婦人を回復させたという。また、彼の下宿の儀式場にはポルターガイスト現象も起こったという。
 だが、その年の冬になるとベネットは持病の喘息を悪化させた。クロウリーは「ゲーティア」を実践し、健康をもたらす悪魔ブエルを喚起した。そしてブエルの頭部と足を出現されることに成功したが、ベネットの喘息の回復は良くならない。そこで、彼は転地療法を考え、ベネットをセイロン島へ送った。この判断は正解だった。彼は温暖な島国で、みるみるうちに健康を回復した。クロウリーは、これをブエル召喚成功の結果と考えたらしい。

 1900年、彼はネス湖の畔の別荘を借りると、そこで「アブラメリン」の魔術を実践する。
 この時、屋敷でポルターガイスト等の不思議な現象も起こったという。
 だが、クロウリーは、この作業を途中でやめてしまう。

 この頃、GDの内紛は激しくなっていた。
 パリに居た首領のメイザースの独裁に、ロンドンの幹部達が反旗を翻していた。
 クロウリーは既に1899年に内陣入りを望んでいたが、それをロンドン幹部達から拒否されるということがあった。そこで彼は、1900年にパリのメイザースを尋ね、助けを求める。そこでメイザースは、ロンドン幹部達への面当ての意味も籠めて、彼に内陣入りのイニシエーションをほどこした。
 イギリスに帰国したクロウリーは、内陣の権利である文書の閲覧を要求したが、これを拒否されてしまう。
 そこで仕方なくクロウリーは、またネス湖の湖畔に戻り、「アブラメリン」魔術を再開する。
 一方で、メイザースとロンドン幹部の関係はさらに悪化。一触即発の状態になる。
 この時、極度のメイザース派だったクロウリーは、師の兵士役を買って出る。
 そして、クロウリーは首領メイザースの全権大使となって、団の幹部を査問し首領に従わない者を除名し、団の儀式室・文書を差し押さえる、ということになった。
 また、この時、魔術戦のようなものも行われたらしい。いわゆる「プライス通りの戦い」である。
 しかし、ロンドン幹部達は、彼を無視し、合おうともしない。部屋の差し押さえに関しても、民事訴訟その他で、失敗に終わる。
 結局、クロウリーは、そのまま全てを投げ出し、いきなりアメリカへ旅行に出かけてしまった。その後、メキシコに向かい、セイロンへ行き、アラン・ベネットと再開する。彼は仏教に改宗していた。そこで、彼はベネットから、ヨーガの伝授を受ける。
 その後、フランスはパリに行き、メイザースにヨーガの素晴らしさを説いたが、彼の態度は冷淡だった。これがきっかけとなって、両者の関係は悪化してしまう。

 この頃、彼はパリの芸術家達の溜まり場だった酒場「白猫亭」に入り浸り、そうそうたる芸術家達と知り合っている。あの文豪サマセット・モームは、この時の経験をもとにクロウリーをモデルにした長編小説「魔術師」を書いている。これは国書刊行会から邦訳が出ている。また、オーギュスト・ロダンは、クロウリーに7葉のリトグラフ版画を贈っている。

 同1902年、彼は世界の登山史に残る冒険をしている。ヒマラヤのK2初登頂を試みるのである。また、1905年にはカンチェンジュンガ初登頂を試みる。共に失敗には終わるものの、これらの冒険は、彼の名を登山史に永遠に残すことになった。

 その後、彼は自分の旧友の姉、ローズ・ケリーと最初の結婚をする。そして、二人は数ヶ月に及ぶ世界一周のハネムーンに出かける。
 この時、エジプトを旅行した折に、彼は重大な経験をする。そう、1904年の「法の書」の伝授である。
 この伝授に自信を深めたクロウリーは、「自分こそGDの首領に相応しい」という旨の手紙をメイザースに送る。当然のごとく無視され、両者の間に魔術戦が行われた(とクロウリーは信じた)。

 1907年、彼はGD風の儀式魔術結社AA(銀の星)団を設立する。
 共同設立者は、かつて彼をGDに入れてくれたG・C・ジョーンズである。
 やがて、この団に重要な人物二人が入団する。一人はフラー大佐という軍人で、かのヒットラーとも個人的に友人だったという一癖もある人物だ。もう一人は、クロウリーの最初の高弟ともいうべきヴィクター・ノイバーグである。
 クロウリーはノイバーグの魔術的才能に気づき、マン・ツー・マンの英才教育を施した。みるみるうちにノイバーグは、その才能を開花させた。
 とはいうものの、クロウリーとノイバーグの関係は、あまり理想的なものとは言えなかったようだ。どうもクロウリーは弟子に対し、強い愛情を持ちながらも、サド的な行為におよんでいたらしい。実際、彼がユダヤ人であったため、彼に差別的な言葉をぶつくけるのも、しばしばだったという。
 その一方で、クロウリーと最初の妻ローズとの関係は、非常に悪化していた。とくに最初の娘の死がきっかけとなり、二人は事実上の大喧嘩となる。二人目の娘が生まれるも、二人の関係は修復不能であった。結局、二人は1909年に離婚する。

 同じ1909年から、クロウリーはかの伝説的魔術専門誌「春秋分点」の著述、編集、発行を開始する。最初の編集を終えたクロウリーはノイバーグと共に北アフリカの砂漠へ行き、かの「大いなる隠遁」の作業を実践した。ここで、クロウリーは自分の第三陣入りを宣言することになる。

 1910年にクロウリーは、「春秋分点」でGDの儀式を部分的に公開する。この時に、メイザースとの間で著作権を巡る訴訟沙汰を引き起こすが、勝訴する。
 同じ年、彼は「エルウシス儀礼」という魔術儀式を、一種の演劇的芸術として一般公開した。最初のうちはマスコミはこれを好意的に報道した。これに気をよくした彼は、この儀式の公開を続けたが、これは当時のイエロー・ジャーナリズムの関心を引くことになり、格好の餌食となる。特に「ルッキング・グラス」紙は、クロウリーのみならずベネットやジョーンズまでもを誹謗中傷する記事を載せた。この騒動は、ジョーンズがイエロー・ペーパーの新聞社を相手取り、名誉毀損の裁判を引き起こすまでになる(彼は敗訴した)。
 この時の騒ぎがきっかけで、ジョーンズとの関係は冷却化し、フラー大佐もAAから脱退した。
 クロウリーにまつわる悪評は、この辺りから始まった。
 彼はイギリスのイエロー・ペーパーから眼の敵にされてしまうのである。

 1911年、クロウリーはメアリ・デスティ・スタージスという女性に出会った。
 彼女は霊媒体質で、かの「第4の書」の執筆にも大きく関わっている。
 ともあれ、AAは次第に多くの人々をひきつけることとなり、会員には画家のニーナ・ハメットや近代手相の祖ともいわれるキケロ等も居た。1913年には団員は80人を越えていたらしい。

 1912年に、また大きな事件が起こる。
 そう、OTOとの接触である。これにより、クロウリーはOTOのイギリス支部のMMMを設立する。
 そして、クロウリーの関心は、次第にOTOの性魔術に向けられる。
 1914年には、かのパリ作業を実践している。
 同じ年、彼はアメリカへ渡る。OTOの思想の普及のためであるという。
 しかし、ここで第一次世界大戦が勃発。船の運航が出来なくなり、5年近くもアメリカに閉じ込められることになる。ここで彼は、いきなり反イギリス的親ドイツ的アイルランド人を名乗り、新聞などにイギリス批判、ドイツ賞賛の記事を書く。
 彼が言うには、これは愛国的な活動だったという。すなわち、馬鹿な親ドイツ主義者を演じることにより、逆に母国イギリスの株を上げていたのだと。
 ともあれ、1915年に、高弟ノイバーグはクロウリーのもとを去っている。
 二人の決別の遠因は、ノイバーグの愛人を巡ってだった。ノイバーグはある女性と恋に落ちたのだが、クロウリーはこれに嫉妬したらしく、強く反対した。ついには「弟子をたぶらかそうとしている魔女め」を退治するために呪いをかけたらしい。彼女はピストル自殺を遂げる。これが呪いのせいか偶然かは判らないが、ノイバーグが呪いのせいと信じたことは間違いない。
 その後、ノイバーグは神経症に悩まされたが、それを克服し、魔術から完全に足を荒い、文学関係の編集者として一生を過ごした。

 また1916年には、クロウリーはさらなる位階の昇進を宣言した。
 この時の儀式は、ハタから見たら、黒魔術に見えたかもしれない。蛙をキリストに見立て、これを生け贄にして、処刑する儀式であった。
 1918年には、愛人ロディー・マイナーを霊媒にして、星幽界的存在のアマントラに接触している。
 彼の名著の一つ「アレフの書」も、この頃に書かれたらしい。
 ともあれ、彼のアメリカ滞在は、事実上新大陸の実践オカルティズムにとっては、一つの大きな事件であったことには変わりない。
 良かれ悪しかれ、これがあったからこそ、GBGもマートの魔術もあったといえる。

 1919年に一端イギリスに帰国した後、彼はテレーマ教の修道院を作るべくイタリヤに渡った。いわゆる「テレーマの僧院」の設立である。この時、僧院の場所選びは、易占いによって行われたという。場所はシチリア島。これは1920年のことである。ここには、文字通り世界中から、彼を慕う弟子達が集まった。
 しかし、ここで不幸が起こる。当時の愛人だったリアとの間に設けた娘が病死する。これによってクロウリーは精神的な打撃を受けた。
 そこへもって1923年。悲惨な事故が起こる。弟子の一人が食中毒で倒れてしまったのである。クロウリーは、彼を医者に見せず、自分で治療しようとするという重大なミスをしでかす。それがため、弟子は死亡する。
 クロウリーは、その弟子を「テレーマ教の尊い殉教者」として、魔術式の葬式を行った。しかし、それが地元のマスコミに煽情的に取り上げられ、またムッソリーニ政権下の締め付けが厳しい状況もあり、イタリア政府から国外退去を命じらた。これによって、テレーマの僧院は閉鎖を余儀なくされるのである。
 この後、しばらくクロウリーは、北アフリカやパリを放浪した。
 また、だいぶ前からドラッグを魔術に応用していたが、この時期は既に中毒症状がかなり悪化していたらしい。

 1925年、OTOの三代目の首領に正式就任する。
 後のOTOの4代目首領となるカール・ゲルマーは、この頃から財産を食い潰してしまっていたクロウリーを経済的に支えることになる。なお、ゲルマーはドイツにテレマ書店なる小さな出版社も作り、クロウリーの著書の発行に尽力した。
 1928年には、重要な弟子が二人現れる。一人は、ジェラルド・ヨークであり、彼は裕福な企業の重役であった。クロウリーに経済的援助をしただけではなく、師の文書を蒐集した。なお、彼はGDの文書の散逸を防いだ功労者でもある。
 もう一人は、かのイスラエル・リガルディである。リガルディは、クロウリーの無償の秘書となった。彼については別項で述べたい。
 1929年フランスにて、クロウリーはまたもや「緋色の女」を見つける。マリア・テレサ・フェラーリ・ド・ミラマーという女性で、卓越した魔術的才能を持っていたらしい。クロウリーは彼女を「ブードゥーの女司祭」と呼んだ。二人は同年、結婚する。だが、同年、この夫婦と弟子はフランス政府より国外退去命令を受けるのである。
 翌1930年には、今度はハンニ・イェガーというドイツ人の若い女性画家を愛人にする。クロウリーはハンニとの結婚を望み、マリアとは離婚した。だが、その年のうちに、ハンニはあっさりとクロウリーのもとを去った。
 1931年に、またもやビリー・ブッシュという愛人を見つけ、彼女をパートナーに性魔術を実践した。
 1933年には、クロウリーは名誉毀損の裁判を2件起こしている。書店を相手どった最初の裁判では勝訴したが、2回目の(かつてのAAのメンバー)画家のニーナ・ハメットを相手どった裁判は、悲惨な敗訴であった。この裁判の結果、クロウリーは世間の評判を著しく下げた。
 クロウリーは、若い自分は、かなりの美青年であったが、この年になると、要望は見る影も無く衰えていた。髪は抜け、歯も欠け、かなり肥満していた。にもかかわらず、彼は以前、女性にもて続けた。
 今度は19歳の少女が、自分のほうからクロウリーに言い寄って来た。クロウリーは彼女との間に息子を一人もうけている。

 その後のクロウリーの動向は不明な点が多い。
 というのも、彼の主な伝記が書かれた当時、この頃の彼と付き合いのあった人物達が存命であったため、伝記作家達は、この時期の彼の動向を省略したのである。何しろ、クロウリーと親交があったというだけで、それはスキャンダルになりかねなかったのだ。
 ただ、1939年頃から、彼は非常に重要な仕事をしている。かの「トートのタロット」の作成である。同じく名著の「トートの書」の執筆も行われた。
 そして、おそらく1942年頃には、蓄音機でもって、詩を朗読する自分の声を録音している。

 彼は、1947年、心筋退化及び慢性気管支炎で死去した。彼の最後の言葉は「私は当惑している……」。赤貧と衰弱の中、彼は世を去った。

 実際、クロウリーの生涯は、簡単に言い尽くせるものではない。上記は、駆け足の紹介で、多くのことを省略した。
 彼は、実に様々なものに手を出し、多くの業績を残した。
 言うまでも無く、魔術における業績は、まさに想像を絶するものがある。西洋魔術を実践する上で、彼の存在を無視することは、絶対にできないであろう。
 その反面、彼の自己中心的な性格、極端さは、しばしば批判に晒される。カルト教団の教祖的な人物だったとの批判もある。
 しかし、そんな彼であったからこそ、このような途方もない業績を残せたともいえるのではないだろうか。


「アレイスター・クロウリーの魔術世界」 フランシス・キング 国書刊行会
「法の書」 アレイスター・クロウリー 国書刊行会
「黄金の夜明け」 江口之降 亀井勝行 国書刊行会

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