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【タモ神・航空バカ僚長の自衛隊クーデタ計画大綱】『航空自衛隊を元気にする10の提言』(空自幹部学校幹部会発行『鵬友』)
http://www.asyura2.com/08/senkyo55/msg/724.html
投稿者 passenger 日時 2008 年 11 月 07 日 16:58:41: eZ/Nw96TErl1Y
 

(回答先: 【いつのまにやら土建屋の私兵になっていた自営隊w】前空幕長投稿の「懸賞」テーマ、小松基地で幹部論文に採用 投稿者 passenger 日時 2008 年 11 月 07 日 10:14:50)

【タモ神・航空バカ僚長の自衛隊クーデタ計画大綱】『航空自衛隊を元気にする10の提言』(空自幹部学校幹部会発行『鵬友』)


   
   

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航空自衛隊を元気にする10の提言
〜パートT〜 (H15)
〜パートU〜 (H16)
〜パートV〜 (H16)
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たもがみ としお
田母神  俊雄
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 本著は、統合幕僚学校長在任中に、これまでの部隊および航空幕僚監部における勤務を通じ感じていることを、自衛隊が元気になるための提言として航空自衛隊幹部学校幹部会発行の『鵬友』に発表した論文をまとめたものである。本提言は筆者の私見であり、中には同意できない提言もあるかもしれない。読者の皆さんには大いなる批判精神をもって読んで頂きたいと思う。
 これから部隊長等に配置される後輩諸君に限らず、皆さんの隊務運営上、何らかの参考になれば幸いである。

              平成16年9月吉日
                航空総隊司令官 空将 田母神 俊雄
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筆者紹介:
田母神 俊雄(たもがみ・としお)

 71年、防衛大学校(第15期)卒業。同年、航空自衛隊入隊。これまで、空幕業務計画班長、3空団基地業務群司令、空幕厚生課長、南混団幕僚長、6空団司令、空幕装備部長、統合幕僚学校長、航空総隊司令官など歴任。 H19.3から、航空幕僚長。
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論文掲載誌紹介:
1 「航空自衛隊を元気にする10の提言 〜パートT〜」
  (『鵬友』第29巻第2号(平成15年7月号)1-29頁)
 
2 「航空自衛隊を元気にする10の提言 〜パートU〜」
  (『鵬友』第29巻第6号(平成16年3月号)1-38頁)

3 「航空自衛隊を元気にする10の提言 〜パートV〜」
  (『鵬友』第30巻第2号(平成16年7月号)1-24頁)
  (『鵬友』第30巻第3号(平成16年9月号)1-24頁)
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  2004年7月22日初版発行
  2004年9月30日第2版発行

 航空自衛隊を元気にする10の提言

発 行 : あれでいいんだ同好会事務局

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田母神 俊雄 平成15年7月
航空自衛隊を元気にする10の提言
〜パートT〜

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目    次
  はじめに
1 80対20の法則
2 一勤務一善
3 報告の遅れを叱らない
4 TOTAL SUM IS CONSTANT
5 厳正な秩序と組織の能率は反比例する
6 あれでいいんだ同好会
7 訊くな、基準を求めるな
8 後輩に夢を与える
9 えこひいき大作戦とお邪魔虫大作戦
10 国民の国防意識の高揚
  おわりに

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 はじめに

 誰がシナリオを書いているのかわからない。しかし何か日本の国を弱体化するような大きな流れが少しずつ進行しているような気がしてならない。平成の初めまでは日本弱体化の流れは大きなものにはならなかった。バブル景気が国中を元気にし、日本人がみんな自信を持ちチャレンジ精神に溢れていたから、弱体化の流れもその陰に隠れていた。しかしバブル崩壊後の景気低迷が長引くにつれて日本人が自信を失い始め、また政治家や高級官僚の不祥事が明るみに出るにつけ国民の国家に対する信頼が揺らぎ始めた。一方では東京裁判史観すなわち日本悪玉論を信奉するグループなどは、これを機会に日本弱体化の動きを加速させつつあるような気がする。例えばわが国が近年推進している男女共同参画社会、夫婦別姓、情報公開、公務員倫理法等は、その有用性を否定するものではないが、他方これが日本弱体化のために利用されているのではないかという危惧を禁じえない。

 男女共同参画社会は、能力があるにも拘わらず女性というだけで差別を受けないためにはあるべき方向であるが、一方ではこれをエリートを廃し弱い者に全てを合わせる競争のない社会を造るために利用しようとする動きがあるような気がする。これらの動きは、学校における男女混合名簿の作成、男らしさ、女らしさの否定等に現れている。男女の差を認めないくらいだから当然同性の差は認めない。エリートを認めるはずがない。しかしながら人類の歴史を見れば社会を発展させてきたのは一部のエリートであるし、競争のない社会にどれほど活力がないかは言うまでもない。

 夫婦別姓は仕事の都合上、姓を変えたくない女性が救われる効果はあるが、日本の家族制度を崩壊に導きかねない恐れがある。何よりも田中さんの奥さんが佐藤さんで、佐藤さんの奥さんが田中さんだなどというのは私にとっては漫画に思える。社会が混乱するだけではないか。多くの女性は結婚をしたら相手の姓を名乗ることに喜びを感ずるはずである。うちのカミさんだって最初は喜んでいた。

 また情報公開は、民主主義国家において国民が政府の活動を理解する上では当然のことであるが、わが国においては本来これとペアであるべき機密保護に関する法律がない。情報公開に熱心な人たちが一方では、機密保護法がないことには頬かむりしているのが心配である。これら両法はペアであることが先進国の普通の姿である。自由民主主義の国では、国家は国民を守るものである。それにも拘らずわが国では国家を危殆に陥れるような重大な国家機密を漏洩しても軽微な犯罪として取り扱われる。国の安全保障上問題である。

 公務員倫理法は確かにこれまでの官民癒着、官僚の汚職など役人の行き過ぎを是正する効果はあるものの、一方では役人の行動を制約し士気を低下させる。また産官学の情報交換を局限し日本の産業の国際競争力をそぐというマイナス面があることも事実である。多くの役人がそれを認識しながらも、これに対する対策の必要性を口に出せないのは厳しい社会的批判を恐れているからだと思う。

 このような状況から日本の国全体が、そして役人が押しなべて縮み指向になり、自衛隊にもその傾向は現れている。何か新しいことや改革をやろうとして失敗するよりは恒常業務を淡々とこなすことが大事になりつつある。しかし自衛隊は本来行動する際にこそ真価が試される組織である。自衛隊は常に来るべき行動に備え、社会の状況や軍事情勢の変化を見逃さず常に自己変革が求められている。日本全体が縮み指向の今こそ元気を出す必要がある。元気がなければ各種変化を察知し、来るべき行動に備えることは困難である。そんな思いから、これまでの部隊および空幕における勤務を通じて感じていることを自衛隊が元気になるための10の提言として以下にまとめてみた。もちろん本提言は筆者の私見であり、中には同意できないような提言もあるかもしれない。読者の皆さんには大いなる批判精神をもって読んで頂きたいと思う。これから部隊長等に配置される後輩諸君の何らかの参考になれば幸いである。


1 80対20の法則

 SOCに入校していた頃に時間を有効に使うための本を読んだことがあった。その中に80対20の法則というのがあり、確か「目標の80%は20%の努力で達成できるが、目標の残り20%を積み上げるために80%の努力が必要である。従って時間を有効に使うためには目標の達成率を80%程度に抑えなければならない。」というような内容であったと記憶している。自衛隊に入隊以来、私の誤解かもしれないが、どんなことにも常に完璧を期すよう教えられていたような気がするので、当時の私にとっては大変に新鮮な印象があった。しかし今になって考えてみればこれは極めて真っ当なことであると思うし、いろんな場面に適用できるように思う。

 まず自分が自ら仕事をする場合において重要であると考える20%の仕事に80%の努力を集中した方が良い。そして残り80%の仕事を20%の労力で実施するのだ。これまでの部隊等における経験に照らしてみれば、これで必要な目標は達成できていたように思うし、効率的に業務が進んだようだ。組織において上の立場になればなるほどやることが多くて、全てについて完璧にやり遂げることはいかなる超人でも無理であるし、もしそれを求めると時間的に遅れ遅れになり結局は任務遂行ができないことになる。

 部下を使って仕事をする場合には、仕事の20%以内を掌握し80%以上は部下に完全に任せた方が良い。部下に任せるということは部下の決めた振り付けに従って踊ってあげるということである。部下を信頼するということである。しかしながらこの任せるということが極めて難しい。特に真面目といわれる人ほど全てを掌握したがる傾向があるような気がする。真面目な人はおそらく部下は自分と同じほどは真剣に仕事に取り組まないのではないかと深層心理で考える場合が多いのではないか。従って完全に任せることが心配になる。しかしそれでは仕事の能率も悪いし、部下も育たない。指揮運用綱要に「指揮の要訣は部下を確実に掌握し・・・」とあるが確実に掌握することと全てを掌握することとはまったく異なることである。

 さらに言えば自衛隊でも上級の指揮官になれば部内の仕事は20%ぐらいにして、自衛隊の外で自衛隊のための仕事をすることに80%以上の努力を費やすべきではないかと思っている。対外的には基地司令とか群司令とかのポストを得ないと、どんなに能力の高い人でも部外では相手にして貰えないことも多い。ポストを得た人はそこのところを十分に理解して部下にはできない仕事に努力を傾注すべきである。それは部隊や部下の努力を広報し、自衛隊を支援してくれる人を増やし、自衛隊に対する国民の理解を深めることにある。手を変え品を変え行われる国家安全保障にとって好ましくない活動に負けない親日活動を行うことは部隊長等の責任と認識すべきである。しかしながら対外的な行動は面倒だし、各種困難も伴う。またそれほど熱を入れなくても誰からも文句を言われない。部下を指導している方が楽である。いきおいエネルギーは内向きになりがちである。しかし指導と称して部下に任せるべき仕事に過度に介入することは部隊の精強化には逆効果であることを理解しなければならない。任せたことは指導しないで好きなようにやらせることだ。通常は部下の手のひらの上で踊ってやる覚悟が必要だ。


2 一勤務一善

 空幕に勤務している担当者は朝から夜まで忙しい。私も担当の頃に月曜日に出勤して土曜日に帰宅するような時期を過ごしたことがある。六本木の空幕の建物の中によく泊まったものだ。恐らく自宅で寝ているよりは空幕で寝ていた日の方が多かったに違いない。どんなに頑張っても次から次と仕事が流れてくる。いやになって自衛隊を止めて他の仕事を探そうかと思ったことも度々あった。当時はバブル景気の最盛期であった。今では懐かしい思い出である。

 あれから十数年の年月が流れたけれども、現在でも各担当の諸君は同じように仕事に追いまくられていることと思う。しかしどんなに忙しくともルーティンの仕事をこなしているだけで満足してはいけない。ルーティンをこなすと同時に、日本の国のために、空自の精強化のために、或いは後輩諸君のために何か一つ良いことを成し遂げなければならない。これは俺がやったと言えるような、あの人がこれをやってくれたと言われるような仕事を是非やって欲しい。前任者から申し送りを受け、ルーティンの仕事をこなして、全く変化のない状態で次の人に申し送ることは恥だと思わなければならない。

 新たな配置を命ぜられたならば、状況を分析して、できるだけ早く自己の職務に関し在任間に実施すべき目標を立てることだ。この目標を達成するには通常他の人の協力も必要だから、必要な場合周囲に対し公言しておく方がいい。もちろん目標はかなりの困難を伴うものであることが必要であるし、正義の旗が立つものでなければならない。正義の旗が立つとは、国家のため、自衛隊のため、あるいは後輩のためになる目標であるということである。自己満足のための目標であっては意味がない。

 自衛隊に勤務していると幹部であれば2〜3年ごとの転勤は当たり前である。それぞれの人がそれぞれの勤務地で一つずつのいいことをしてくれれば空自はもっともっと強くなる。後輩諸君にも感謝される。日本の安全保障がより確固たるものになる。一日一善という言葉があるが一勤務一善の心構えを持とう。その心構えがない人は次の言葉を額に入れて飾っておけばよい。
 「こなせルーティンワーク!!」


3 報告の遅れを叱らない

 部隊等において服務事故等が発生し上級指揮官にその報告が行われず、後日それがマスコミ沙汰等になった場合、上級指揮官は、ゆめゆめ「なぜもっと早く報告しなかったのか」などと言ってはいけない。何をいつ報告するかは本来部下指揮官の判断事項である。もし事前報告がないことを責めれば部下指揮官は次からは細かいことまで報告を実施するようになるであろう。しかしこれが続くと部下指揮官が自らの責任で物事を処理するということが出来なくなる。とにかく何でもいいから報告しておけと言うことになり、また何でもかんでもお伺いをたてることになる。上司の顔色ばかりうかがい上司に対していわゆる仕事の丸投げを行い、部下指揮官として十分な能力を発揮しなくなる。当然のことながら組織としての総合戦力は低下していく。従ってこんな場合上級の指揮官は次のように言ってやるのだ。「お前も自分の責任で部隊と部下を守ろうとしたんだよな。お前の気持ちは良く分かるよ。その心構えは指揮官としてはとても大切なことだ。あとは俺が耐えるから心配するな」と。そうすれば部下指揮官は、その後いろんなことがあったとしても状況に対応して最も適切な処置をするようになるであろう。彼等は、上司は俺のことを守ってくれる、俺のやることは支持してくれると感じ、のびのびと行動し、その結果として組織戦力は最大になるのだ。

 ところが上級部隊や外からの圧力に耐えきれず、報告の遅れをなじったり、部下指揮官にあれこれと細かい指示をしたり、怒りの感情をぶつけたりする事は往々にしてあり得ることだ。しかしそのとき上級の指揮官は部隊の精強化よりは部隊の弱体化に貢献していることを認識する必要がある。特にマスコミ等で事故やこれに関する報告の遅れなどを取り上げられた場合に日ごろ冷静である指揮官でさえも心の平静を保つことはかなりの困難を伴う。しかし指揮官はこれに耐えて我慢することが必要なのだ。決して部下に当たってはいけない。そのときたまたまミスがあったにしても、航空自衛隊においては、通常は報告はやり過ぎくらいに行われていると私は思う。報告は本来報告を受ける人の状況判断に必要な事項に限られるべきであり、何でもかんでも報告されるべきでない。これまで部隊等において上下の意思疎通をよくするためにと称して「何でも報告せよ」と指導されたこともあったが、私はこれは基本的に間違いであると思っている。不必要な細事を上級指揮官の耳に入れて上級指揮官を煩わせるべきではない。上級指揮官には常に大局的判断に専念してもらうことだ。また上級指揮官は部下指揮官の所掌事項について細部にわたり知りたがってはいけない。組織の能率を低下させ、部下指揮官のやる気を失わせるだけである。


4 TOTAL SUM IS CONSTANT

 指揮官は何のために存在するのか。平時においては部隊を精強にするためにこそ存在し、部隊を精強にできない指揮官は存在意義がない。しかしながら自らは誠心誠意のつもりでも指揮官の指揮振りが部隊の精強化に逆行する場合があるので注意を要する。

 自衛隊においてはランクが上がるにつれて上司等の指導を受ける機会が少なくなるために上級の指揮官ほど自ら省みて第三者的に自分の指揮官振りを評価してみる着意が必要である。上になればなるほど注意されないだけ、わがままが出やすいと心得るべきである。それだけ自律心が要求されるが上級指揮官も人の子、自分だけで律することは極めて難しい。一般的に人は他人を見る能力に優れているが、自分を見る能力となると極めておぼつかない。指揮官も他人の力を借りることが必要であるが、現実的な方法としては自分の指揮官としての評判等を聞き、自分に注意を与えてくれる同期生や期別の近い友人を持つことが良いのではないか。もちろんそれは部下でもいいが、一般的に部下の場合は精神的拘束があり、あれを直せ、これを直せとは言いにくい。これについては私は自衛隊の監察制度を活用すればよいと考えているが、細部については別の機会に譲りたい。

 さて指揮官として最も避けなければならないのは、自分の行動によって部下を萎縮させてしまうことである。指揮官が任務達成への情熱を燃やすことは極めて重要であるが、仕事に情熱がある人は、他方では部下の指導も厳しくなる場合が多い。勢いあまって怒ったり、怒鳴ったりしてしまう場合も多い。部下の性格にもよるが、それによって部下が萎縮してしまうとしたら大問題である。部下が萎縮してしまうと上司に怒られまいとすることに最大のエネルギーを使い、本来の仕事に注ぐエネルギーはどんどん減ってゆく。結果として組織戦闘力はどんどん低下していく。つまり部下が上司に対し気を遣う量と仕事そのものにがんばる量の和はいつも一定なのだ。TOTAL SUM IS CONSTANTである。

 部下が自分に対し気を遣わないですむようにする最も良い方法は、知らない振りをする、あるいは少し抜けたところを見せることだ。私のこれまでの経験では上司が抜けたところを見せてくれたときにほっとしたことが何度もある。だから時には上司が部下の机の周りに出かけて馬鹿話をし、大笑いをする配慮が必要である。このときほんとに馬鹿と思われるのではないかと心配する必要はない。上司が利口ぶろうが馬鹿な振りをしようが上司の能力、識見、品性は部下はとっくにお見通しだ。だがあんまり馬鹿な振りを続けると、癖になってほんとに馬鹿になってしまうので要注意である。


5 厳正な秩序と組織の能率は反比例する

 国家や社会には適度の秩序が必要であり、秩序が維持されていないとみんなが快適に暮らせない。今のイラクのことを考えれば良くわかると思う。昔の日本は、街中等において若い者が悪さをすれば年寄りがこれを諌めることができた。今では年寄りが注意でもしようものなら若い者に殴り飛ばされるので見て見ぬ振りをするしかない。勇気がないといって年寄りばかりを責めるわけにはいかない。戦後の学校教育において、個人の権利と自由ばかりが強調され、道徳教育を軽視してきた結果が傍若無人の若者を多数生み出している。他人の迷惑を顧みない若者が多すぎる。一時話題になった成人式の光景などは正に目にあまるものがある。目上の人を敬うということがきちんと教えられていれば、若者は年寄りの忠告に従うはずである。昔の日本にはそういう風土があった。しかし今の日本にはそれがない。学校の先生でさえも尊敬の対象にならない。

 一方自衛隊においては世間と違ってきちんとした秩序が維持されている。多くの心ある人達が自衛隊の各種行事や成人式等を見て、同世代の若い隊員が街中で見る若者達とまったく違っていることに感動される場合が多い。自衛隊においては目上の人あるいは上官を敬うという風土が出来上がっている。軍事組織である自衛隊にとっては、これは組織存立の要件であり、上官は権威のある偉い存在である。しかしながら上官が偉すぎると、一方では部下は精神的自由を失い適切な権限の委任が行われにくくなる。部下指揮官や幕僚が細かなことまで一々上官の御沙汰を仰ぐようになるし、意見具申や部下から上官に対する意見の表明も少なくなっていく。即ち自衛隊における厳正な秩序を徹底的に追求すると部下指揮官等の精神的硬直が起こる。行き過ぎるとイラクや北朝鮮のようになり、上司を満足させることが組織の目的になってしまう。航空自衛隊の現状を見るに組織の秩序は適正に維持されているので、上司が部下に対し、よほど目に余るものは別として、礼儀正しさや完璧な手続きをあまり求めるべきでない。それを求めた途端に組織に硬直が起きる。厳正な秩序にも適度のあそびが必要であり、あそびがないと仕事の能率はどんどん低下する。規則ガチガチ型の人に改革のエネルギーや仕事の馬力が期待できないのはこのためである。指揮官は、部下にのびのびと仕事をして貰うことが大切である。厳正な秩序と組織の能率は反比例するのだ。


6 あれでいいんだ同好会

 防衛庁設置法と自衛隊法は防衛2法と呼ばれ、予算成立等に伴うこれらの改正については戦後の55年体制下でいつも与野党の対立法案であった。このため自衛隊において各種事故や事案が発生すると、某野党などはここぞとばかり自衛隊を攻撃し一部マスコミもこれに同調してきたのではないかと思う。残念ながら我が国においては今なお自衛隊が国民の財産として十分には認知されていない。部隊等においてはこのため事故防止に格別の努力をし、隊員指導を強化してきた。その結果25万人の人員を抱える自衛隊の各種事故率は25万の人口を持つ市や郡に比較して圧倒的に低い状態に抑えられている。犯罪白書によれば、千人あたりの日本国民全体の刑法犯は平成11年から13年まで22.9、25.7、28.1であるが、自衛隊の刑法犯は、4.0、4.4、4.9とその約6分の1である。しかも25万人の平均年齢は35.1歳と若く、20歳そこそこの若者を数多く抱えた組織であるのにである。高校等において全く先生の言うことをきかなかった者が自衛隊に入って数ヶ月もすると礼儀正しい立派な社会人になるのを見るにつけ自衛隊は素晴らしい教育機関であると思う。

 にもかかわらず一民間人が起こしても何の話題にもならないような事故でさえも自衛隊員が起こした場合、マスコミ等で激しく叩かれる場合がある。しかも10年以上も前に自衛隊を辞めて民間人になっている人あるいは昔自衛隊に数ヶ月勤務しただけの人の不祥事についても元自衛官などと報道される場合もあり、それ自体は確かに事実ではあるが、なんとなく不自然さやある種の意図を感じざるを得ない。

 しかしこのようなことが長期間繰り返されると、われわれ幹部自衛官の心の中にも萎縮が起り、空幕やメジャーコマンド司令部等においてさえ、事故はゼロにはならないことを忘れ、隷下部隊等が起こした事故、あるいは事故に対する許せる範囲の対応のまずささえ責めたくなる。しかし私はこれを統率上絶対にやってはいけないと思う。私自身それをやってしまった場面に何度か出くわしたが、それによって空自内の団結を損なうこと著しいものがあると痛感した記憶がある。事実その事故が起きても相変わらず空自の事故は少ないし、隷下部隊等の対応もまずまずの合格点であると思っていた。しかしながら外から責められているという事実をもって誰かを悪者にしないといけないような雰囲気が充満していた気がする。問題を起こしたことが問題なのである。「どうしてこんな事故を起こしたんだ。だから俺達の仕事が増えて大変だ。そうでなくても忙しいのに。」という気持ちはよくわかる。しかしここは気持ちを切り替えて隷下部隊を護ることを考えなければならない。それをやらなければ部隊の上級司令部に対する信頼は失われてしまうし、何か理由があって自衛隊を攻撃している人達の思う壺である。自衛隊員がやる気をなくすことが無上の快楽である人たちに迎合しては国益を失ってしまう。よく自衛隊に対する信頼が失われたとか、警察に対する信頼が失われたとか報道されることがあるが、今までわが国においては自衛隊に対する信頼も警察に対する信頼も失われたことは一度もないと私は思う。国民は自分の生命等がもし真に危険にさらされたならば、信頼が失われたと報道されているときでさえきっと自衛隊や警察に助けを求めたであろうと思うからである。どこかの国の軍や警察とは我が国の自衛隊や警察は違うのだ。

 従ってこのような場合上級司令部等は隷下部隊等を護る発言をすることが大切である。事故を起こしたことは謝罪するにしても、少なくともそれに対する隷下部隊等の対応については「あれでいいんだ」と言わなければならない。これまでの私の経験ではあれでいいんだと言えない程のまずい対応は経験したことがない。空自の部隊長等になる人はそれなりの能力も常識も備えており、それなりの対応をしていると思って間違いない。よく調べもせずに「いったい何をやっているんだ」などとゆめゆめ言うなかれ。万が一あれでよくなかった場合は上司が責任を取るのだ。しかし「あれでいいんだ」と言わなければ、その責任を部下たちに取らせることになる。幕僚等が指揮官に迷惑をかけてはいけないという気持ちはよくわかる。しかしそのための予防線として初めから隷下部隊の対応のまずさを強調するようでは、決して部隊は精強にはなり得ない。幕僚は指揮官も部隊も両方護る責任がある。隷下部隊の対応はいつでも合格点であることを信じよう。みんなであれでいいんだと言おう。私は自称、航空自衛隊の「あれでいいんだ同好会」の会長である。

7 訊くな、基準を求めるな

 部隊等に勤務していると、規則類の細部についてどう解釈すればいいのか疑問が生ずることが多い。特に司令部の幕僚としては、法令の解釈の間違いによって指揮官に迷惑をかけてはいけないという心理が働く。従って「方面隊に訊いてみます」、「総隊に訊いてみます」、「空幕に訊いてみます」ということになる。空幕においては「内局に訊いてみます」、「財務省に訊いてみます」、「経済産業省に訊いてみます」ということがごく自然に行われていることが多い。そして多くの場合訊かれた側も即答できず、調べて回答するということになる。時間が経って回答が届き、担当者としてはこれで法令解釈についてお墨付きを得て、目出度し目出度しということになる。

 しかしここに一つの大きな罠がある。法令の解釈について疑問が生ずるのは、いわゆるグレーゾーンの解釈についてである。明確に解釈できることについてははじめから他人に訊く必要はないので、上記のような事態は生じない。それではグレーゾーンの解釈について問われた側はどう対応するのか。問われた側は法令解釈についてより責任が生ずることになるので、グレーゾーンの解釈については、より安全サイドの解釈をする場合が多い。これが繰り返されると判例的に解釈が定着し、グレーゾーンはだんだん狭くなっていく。それによって通常は部隊の行動にとってより選択肢が減り、より経費がかかることになる場合が多い。

 もうひとつの問題は、訊くことの繰り返しにより上司の意向が明示されないと動けないという体質が出来上がることである。即ち作戦的体質が失われるということである。上司の意向の範囲内で一生懸命頑張りました。結果はあまりよくなかったけれども私の責任ではありませんということになりやすい。これでは任務達成にかける情熱が感じられない。大部隊の指揮官が自分の部隊の行動を細部にわたり全て掌握することは不可能である。作戦の方針や計画の大綱的事項を示し細部については部下指揮官等に任せることになる。部下指揮官等は上級指揮官の意向等全般状況をよく把握し自らの判断で最適行動計画を作り部隊を動かすのだ。自衛隊が行動する場合、細部の状況は常に千変万化する。その際一々上司に指示を仰がないと動けないというのでは任務達成は不可能である。「どうしたらよろしいでしょうか」と訊かれれば、上級指揮官としては「お前はどうしたいのか」と訊き返すことになろう。

 第3の問題は訊くことによって自分の権限や力をどんどん失っていくということだ。自衛隊は服従の重要性を教えるせいか、隊員は一般的に服従心が旺盛で上司の言うことには素直に従う習性がある。それは一方では大変重要なことであるが、他方何かわからないことがあると、自分でよく考える前に上司に訊いてしまうのである。しかしちょっと待って欲しい。グレーゾーンの問題について、自分より権限のある部署等に訊いた場合、万が一法外と思う指導をされたとしてもそれに従わざるを得ない。自分の判断でやれる範囲を自ら狭めることになる。グレーゾーンの解釈については、人により解釈が違うのは当然である。だからグレーゾーンなのだ。だからその解釈については可能な限り自分でやることだ。自衛隊の精強化のため、どこまでできるか、何ができるかという視点で自ら解釈する着意が必要だ。他人に訊くという事は、裏を返せば「私の力あなたにあげます、私はあなたのコントロールを受けます」ということだと知るべきである。しかしながら中にはどうしても訊くことが必要なこともあるだろう。私は絶対に訊くなと言っている訳ではない。簡単には訊くなと言っているだけである。そして訊く場合には自分の力を失うかもしれないという覚悟が必要である。

 もうひとつ付け加えたいことがある。訊くことと類似の事項として「基準を示して欲しい」というのがある。航空自衛隊は業務がSOP化されているせいか、ルーティンの業務をこなすことは大変便利になっている。しかし長い間SOPに従って業務をこなしていると、自ら考える習慣が失われていく。何か基準がないと途端に仕事ができなくなる。ルーティンではない仕事をするときに「これは基準が決まってない。空幕で何か基準を示してくれればいいんだが」というような例はよくあることだ。そして空幕に基準作りをお願いし、お願いされた空幕も基準を示すということが相互に無意識のもとに行われているのである。日本人特有の横並び意識もあると思うが、ルーティンではない1回限りの仕事に基準を示すことを求めるべきではない。基準が示されていなければ、自分の裁量の範囲が広げられているとアグレッシブに考えてはどうだろうか。「そんなに細かい基準を示さないでくれ。やりづらくてしょうがない」というくらいの元気があっていい。基準が示されていないことは自分の権限を拡大するチャンスなのだ。上級部隊等もまた要請に応じて簡単に基準を示すべきでない。部下指揮官等が自ら判断し、自ら決心するよう部隊等を指導したほうがいい。部隊毎に指揮官毎にやり方が違うことを許容しなければならない。もしそうでなければ部下指揮官の存在意義がなくなってしまう。統一するのは真に必要なものに限定することだ。そうしなければ千変万化する状況下で効果的に任務遂行ができる強い部隊を育成することは出来ない。統一の極致は全体主義である。部隊の行動が統一されていないとどうも落ち着かないという人は、頭の中が全体主義に侵され始めている。

 「訊くな」、「基準を求めるな」というと、一般的に指導されていることには反するかもしれない。しかし空自の現状を見るに訊き過ぎ、基準の要求し過ぎのような気がする。例えば今、自宅から2百メートルほど離れた駐車場にいて、車を20メートルほど移動することが必要になった。このとき運転免許を携帯していないことに気がついた。もし車を動かしたら免許の不携帯に当たるか。これを警察官に訊いた後でないと行動に移せない、というような仕事をしていないかどうか反省してみる必要があろう。訊かれた方はそれは不携帯に当たらないとは言えないであろう。自分の責任で処置してくれと言いたくなる。何事も行き過ぎは修正されなければならない。決められたことを決められたとおりやるだけの航空自衛隊になってはいけない。「俺のやりたいようにやらせろ、必ずみんなが満足する結果を出してみせる」というくらいの元気のある部隊長がいっぱいいて欲しいと思うのである。


8 後輩に夢を与える

 後任者が自分のポストに配置された場合、自分よりは楽に仕事ができ、自分よりは大きな力が振るえるようにしておくことは先輩の責任である。「今はいいよな。でもおまえたちの時代になったら大変だぞ」と言い残し何の責任も感じないようでは困るのだ。先輩は後輩に夢を与えなければならない。将来は少なくとも今よりは良くなるという夢である。当面の対応としてどんなに立派なものでも、それによって後輩が手足を縛られ、自分よりも困難な事態に直面することが予測されるような解決策では後輩に対して申し訳ないし、自衛隊の精強化には反するものとなる。私たちは常に、自分の判断が将来後輩たちに負の遺産を残すことがないよう配慮する必要がある。

 例えば空幕における防衛力整備について考えてみよう。航空機やミサイルシステムあるいは警戒監視レーダー等を整備する場合、もし1社独占の体制になるような選択をした場合は、後輩たちは会社間の競争をさせることもできないし、もちろん会社を選ぶことはできなくなる。1社に集中したほうが効率的という主張もあるが、短期的にはそうであっても長期的には高い買い物になる場合が多い。通常は各種不測の事態等を考慮して、最低2社の体制は残したほうが後輩のためになる。もちろんそれは空自のためであり、日本国のためでもあると思う。国の財政事情が許せば3社や4社の体制が望ましいが、通常はそれでは非効率であり、2社体制を目指し、国としては常にナンバー2の育成を心がけておけばよいのではないかと思う。ナンバー2の育成は、弱い者に味方するということであり、自衛官のメンタリティーにはぴったり来るのではないか。

 航空事故や服務事故等で基地対策を実施する場合は相手が空自の味方であるか否か、日本国民として国家の発展を真に願っているか否かが対応の重要な分かれ目になる。味方ではないと考えられる人やある種の思想を持った人に十分な誠意を尽くして説明したり、細かい調整をしたりするのは基本的に間違いである。また、説明者の選定に当たってはレベルを考慮する必要がある。群司令や団司令などがはじめから出て行くようでは相手に足元を見られるだけである。まして簡単に空幕から部長等が派遣されたりすれば、相手によっては現地指揮官を相手にしてくれなくなる。現地指揮官のステータスの低下は著しいものがある。一度中央から人が派遣されると、次回にはさほど必要がなくても「何故中央から人が来ないのか、現地を軽視しているのか」と言われるだろう。

 戦後我が国の外交が謝罪外交に徹したと言われているが、その結果はどうか。もっと謝罪しろと言われ状況はどんどん悪くなるだけである。その場を収めようとして1歩下がる、あるいはより誠意を尽くすことは、当事者にしては楽な選択である。しかしそのために後輩がもっと苦労するようでは正しい選択とはいえない。そうしないためには多少の摩擦を覚悟しても踏ん張ることだ。のらりくらりと不真面目にやることが必要な場合も多い。結局は誰かが踏ん張らなければならない状況がいつかは訪れる。防衛庁や自衛隊の基地対策が謝罪対策になってはいけない。自衛官は本質的に純粋な人が多く誠意を尽くせばいつかは分かると思っている人が多い。しかしある種の思想を持つ人たちには誠意を尽くしてはいけないのだ。毅然とした対応をしないと泥沼にはまるだけである。誠意を尽くすべきか否か、相手をよく見て判断しなければならない。そしてもっと大事なことは現地における対応を空幕においては支持することだ。これまで県知事や当該市長が中央を訪れ、現地部隊の対応に不満を漏らすこともあったが、よくよく調べてみれば、ほとんどの場合現地の対応は大筋で適正なものであったと記憶している。よく状況を調査することなく、現地で摩擦が起きたらいつでも部隊側に問題があると考えることは自信のなさの裏返しである。あるいは部内の誰かを攻撃したくて言っているに過ぎない。航空自衛隊はもっと自信を持っていい。

 我が国は中国や韓国に謝り続け、自衛隊は基地周辺に対し謝り続けるような構図に近づいているような気がしてならない。部隊指揮官等がもっと毅然として国民に接することができるようにしなければならない。彼らが精神的に萎縮して自信を失っているようでは自衛隊を精強にすることはできない。国の安全保障上マイナスである。そのためには中央における対応が毅然としたものでなければならない。防衛庁も空幕も部隊を守ることが必要であり、それによって部隊等からの信頼を得ることが必要である。部隊を攻撃し、部隊を弱体化しておいて中央のステータスを維持するというような馬鹿なことがあってはいけない。部隊を精強にすることは中央の責任そのものである。部隊があっての防衛庁、部隊があっての空幕である。決して「部隊は一体何をやっているんだ」などと言うなかれ。


9 えこひいき大作戦とお邪魔虫大作戦

 自衛隊は、部外の人に対する対応について、極めて公正、公平な組織であると思う。私は行き過ぎているくらいだと思っている。この国を愛し国民の発展を願う善良な人も、とても善良であるとは思えない人も同じ扱いをしようとする。自衛隊を応援してくれる人と反自衛隊活動をする人さえ同じく扱おうとする。しかし何だか少し変な気がする。私は本当の公正、公平と不公正、不公平は、もう少し中間点がずれたところにあるのではないかと思う。現在自衛隊が実施している公正、公平は反自衛隊の人たちから見て極めて公正、公平なのだ。そして自衛隊を応援してくれる人たちから見た場合には極めて不公正、不公平に見えるのではないだろうか。自衛隊を応援してくれる人たちは、「俺とあいつが同じ扱いか?」と感じるに違いない。しかしこれらの親自衛隊派の人たちはそれでも自衛隊に注文をつけてくることはまれである。自衛隊は、反自衛隊派の批判を恐れ彼らを丁重に扱い、親自衛隊派の人たちに我慢を強いているのだ。あるいは親自衛隊派の人たちに自衛隊が甘えさせてもらっているのだ。しかしこれが長い間続くと親自衛隊派の人たちが自衛隊を離れてしまう。国家安全保障にとってマイナスになる。私は決して違法行為を勧めているわけではない。公正、公平にもグレーゾーンがある。このグレーゾーンを親自衛隊派の人たちのために最大活用すべきである。私は自衛隊はもう少しえこひいきをしていい、即ちグレーゾーンを活用していいと思っている。そしてそれが普通の組織における公正、公平の概念に近い。

 航空団司令をやっているときに、部外者の戦闘機の体験タクシーに関し「司令、あの人を飛行機に乗せたらあの人も乗せざるを得ません」という話があった。部隊等においてはよくある話だ。しかし私は「そんなことはない。体験タクシーは国民に対する広報が目的なのだ。効果を考えて乗せたい人は乗せるし乗せたくない人は乗せない。それは自衛隊の利益、国益を考慮して自衛隊側が決めることだ」と答えた。そして部隊は部隊の意思として主体的にそれを決めた。自分の決めたことが部外から批判され問題になることを恐れれば確かにそんなことはある。しかしそのために始めから自分に与えられた正当な権限の行使をためらう必要はない。人間のやることに完璧はないから必ず一部の批判はある。どんな選択をしてもすべての希望者を同時に体験タクシーさせることは無理であるから、順番が来なかった人や外れた人からは批判がある。権限を行使した者が一部の人から批判を受けるというのは民主主義社会では当然のことなのだ。にも拘らず批判に対し非常に敏感に反応する人がいる。いわば批判恐怖症とでも言おうか。だから誰も乗せないというのだ。「俺に関係のないところで決めてくれ、決まった通り実施するから」というわけだ。同意しかねる考えである。指揮官は批判恐怖症に陥ってはいけない。そんなことを他人に決められてたまるか、俺が決めるんだという気構えが必要だ。選択的に自分が乗せたい人だけ乗せればいい。ただし部外に対しては「あなたは乗せたくないから乗せない」とは決して言わないことは言うまでもない。角の立たない理由はいくらでも考えられる。いい人とそうではない人の扱いは違って当然である。各種事情があり、いつでも自分の思うとおりにはできないかもしれないが、頭の片すみに是非えこひいき、即ちグレーゾーンの活用を留めておいてもらいたい。もちろん合法的なえこひいきである。

 念のために断っておくが、親自衛隊派も反自衛隊派も有事に際し自衛隊が等しく安全を保障する対象であることはいうまでもない。いかなる思想を持つことも自由民主主義国家においては許容される。しかしながら有事自衛隊が効果的に任務を達成するためには、平時においてこれらの人たちと自衛隊の関わり合いについては差があって当然と思うのである。親自衛隊派の人たちとより親しく付き合い、必要な情報を提供し、あるいは情報の提供を受け、国の守りの態勢を整えることは自衛隊の義務とさえ言えるだろう。

 また、えこひいきできない人は決して尊敬されることはない。戦後のわが国の全方位外交なるものがあった。どんな国とも等しく仲良く付き合うというものだ。こんな考えを持つ人と長い間友達でいることはできない。困ったときに助けてくれるかどうかいつもわからないのだ。友人としては最も信用できない類の人たちである。結果としてわが国は国際的に信用の高い国であるのか。どうもそうとはいえないようだ。結局は経済大国にふさわしい尊敬を得ていないのではないか。日本の国は顔の見えない国といわれるが、自衛隊も善良な国民から顔が見えないと言われてはいけない。もっと自己主張をすべきである。自衛隊はえこひいきをするくらいで丁度公正、公平になることができる。

 もう一つは徹底的にお邪魔虫することが大事である。組織のステータスとか個人のステータスとかは、どれだけ人や仕事について影響力があるかで決まる。欧米諸国のようには責任と権限が明確ではない日本型組織においては、どんな仕事にも多少の関連を見出し参加することができる。自衛隊は今回は支援してもらわなくても結構ですとか、これは○○課は特にやって頂くことがないので会合に参加する必要はありませんとかいう話はよくある。しかしここで「はいそうですか」と下がってはステータスは上がらないし能力向上のチャンスを失ってしまう。何か貢献できることがあるかもしれない、将来の勉強のためにとか理由をつけて参加させてくれるよう主催者側や主管部下に迫ることだ。参加しなくてもいいと言われれば、これは仕事も増えないし、やらなくていいチャンスだと考える人もいる。わざわざ仕事を増やして一体何が幸せなのかと言う意見もあるには違いない。しかし自衛隊を強くする、部隊を鍛えるとかいうことを考えた場合、このような姿勢はいささか消極的ではないかと思う。もっと前向きな積極的な姿勢こそが1歩前進や改革の原動力になる。

 手前味噌で恐縮だが具体例を挙げないと理解しづらいと思うので小松基地司令のときの話をしたい。毎年秋に小松市のどんどん祭りが開催される。私はこれを2度経験したが、着任して最初の祭りの時には市役所前に造られた特設ステージに、市長、市議会議長、商工会議所会頭など約20名とともに小松基地司令の席が準備され、祭りの開会式が行われた。特設ステージに並ぶ人たちは1人ずつ紹介があり、紹介後入場するという形だった。2年目には開会式のやり方が変わった。場所も小松市の陸上競技場に移され、ひな壇に並ぶ人たちも大幅に数が減り、市長、市議会議長、商工会議所会頭など限定された数名の人たちになるということだった。そこで小松基地司令は並ぶ必要がないという連絡を受けた。私は監理部長を派遣して是非並ばせて欲しいと申し入れを行った。結果はやはり並ばなくていいというものだった。それでも私は諦めなかった。祭りは日曜日に行われたが、私は、開会式の時間にひな壇のちょうど正面になる陸上競技場の観覧席に制服を着て副官とともに座っていた。開会式の直前になって私の姿を見つけた祭りの実行本部の人がやってきてひな壇の人たちが基地司令にもこちらに並んでもらってはどうかと言っているということで、結局私はひな壇に並び場内放送で紹介を受けることになった。これを私はお邪魔虫大作戦と呼んでいる。

 並ばなくていいと言われたときにそのとおりにすることもできた。申し入れを行って再度断られた時点で諦めることもできた。しかし結果としてひな壇に並び場内放送で紹介を受けたことにより、小松の祭りに集まった人たちは、基地司令のそれなりのステータスを認めることになったと思う。このこと自体はそれだけを見れば取るに足らない些細なことである。しかし私はこの些細なことの積み上げがその人や職位のステータスを造っていくのではないかと思う。

 もうひとつ例を挙げる。福井県で全国農業祭が行われ皇太子殿下御夫妻が参加されるために小松空港経由で現地に向かわれることがあった。石川県が出迎えの計画を作ったが一般市民が道路沿いに並んで殿下御夫妻を歓迎し、多くの警察官が警備のために動員されるというものだった。私は警察官とともに自衛官の雄姿も是非殿下御夫妻に見て頂きたいと思った。そこでこのときも自衛隊にも是非と列をさせて欲しいと申し入れた。しかし場所の関係とかで基地の外でのと列は遠慮して欲しいという回答が来た。それでは自衛隊の姿が一般の人たちには見えることがない。諦めきれずに交渉したところ、それでは空港ターミナルの出口で基地司令にも県知事、県議会議長や小松市長とともに約20名の出迎えの列に並んでもらうことにしましょうということになった。この出迎えの光景は多くのマスコミが取材していたので多分小松基地司令の姿も多くの県民が認識したのではないかと思う。何か重要な行事等があるときは必ず自衛隊が参加している、基地司令はひな壇等に並んでいると県民が自然に思ってくれればそれがステータスである。

 部外で実施される国防を真に考える政治家や研究者の講演会等にも積極的に参加したらいい。参加基準などが示されることもあるが、それを超えて参加できないのかどうかを知っておく必要がある。何にでも顔を突っ込んでいる、いつもジャブを出している、それが大事である。ジャブを出し続ければたまにはアッパーカットが決まることもある。単一の事案から成果を求めてはいけない。犬も歩けば棒にあたる。面倒だと思っても仕事だと思って出向いてみることが大事である。その地道な努力がその人のステータスを築いていく。組織的にやれば、それは組織のステータスになる。ひとつの事案のみを取り上げればほとんど取るに足らないことだ。しかしその積み重ねがやがて大きな成果を生むことになる。いつもあの人がいる、いつも自衛隊の姿が見えるということが大切である。ステータスの向上に意を用いない組織はやがて衰退すると思う。だから私はあえてお邪魔虫大作戦を推奨する。


10 国民の国防意識の高揚

 近年我が国の歴史教科書が極めて自虐的に書かれていることが産経新聞等によって明らかにされ、扶桑社の新しい歴史教科書が作られることになった。多くの日本国民はこのことを歓迎し、本教科書は市販本として数十万部の売れ行きを示し暫時ベストセラーの一角を占めた。私はこの教科書が売れて本当によかったと思っている。残念ながら学校の教科書採択においてはあまり採用されなかったが、市販本としてかなりの数が売れたことにより今後とも学校における歴史教育を正す運動は継続されることになろう。

 問題は自衛隊が歴史教育を正す運動をどう考えるかである。もちろん自衛隊には本件に関する法律上の責任は全くない。しかしながら今後とも学校教育において日本の国の悪いところばかりを強調するような歴史教育が継続されることは、国家安全保障上重大な問題があるのではないか。学校を卒業した一般国民は、そんな悪い国なら守るに値しないと考えて当然である。しかしながら事実はどうか。第2次大戦前の我が国の中国、韓国や東南アジア諸国に対する対応は欧米列強の対応に比較すればよほど穏健である。道路や鉄道などインフラを残し、回収が投資を下回るような植民地政策を実施したのは列強の中では我が国だけである。一番悪くない日本が一番悪く言われている。政治家がもっと頑張ればいいのにとか、文部科学省は一体何をしているのかとかいう意見もあろうが、自衛隊にも国の機関として国民が正しい歴史観を持つためにやれることがあるのではないかと思う。国民が国の伝統を尊重し、国を愛する心を持つことは国家安全保障の基盤であり、その具体的戦略についても今後検討が必要である。

 自衛隊はこれまで政治的活動に関与せずということを強く指導されてきたために部外において意思を表明する活動については極めて慎重な対応をしてきた。自衛隊の外で行われることには無関心を装ってきた。しかし気がついたら反日活動がこれほどにも進展している。これを認識すれば、今後はこれに負けない親日活動をするぐらいの心構えが必要である。それは国の安全保障上必要であり、現行法の枠内でもできることはたくさんあるのではないか。我が国は民主主義国家であり自衛官にも言論の自由は保障されている。従来のような慎重な対応に終始することなく、国の安全保障を担当する専門的見地から積極的に意見を述べるよう心がけるべきである。そして自衛官はそのための勉強を平生から継続しなければならない。

 さて先にも触れたが自衛隊は、部内者に対する教育機関としては極めて優れている。学校でどれほど言うことを聞かなかった者でも入隊して3ヶ月もすれば立派な社会人になる。私たちはこれまで余計なことをして社会的に糾弾されるよりは、自衛隊の中だけでしっかり頑張っておけばよいと考えてきた。しかしマスメディアの発達により、いかなる組織においても広報の重要性が叫ばれるようになり、国民の自衛隊に対する関心も高まりつつある現在、自衛隊ももっと国民に対する広報、国民の国防意識の高揚について配慮すべきではないかと考えている。私は現在統幕学校長であるが、例えば統幕学校の研究部門を充実させて、自衛隊の発信基地として活用するのだ。ホームページを毎週書き換える、定期刊行物を発刊する、マスコミが取り上げるような国際的セミナーを開催する、雑誌や新聞に投稿する、テレビやラジオで直接国民に訴えるというようなことを組織的に実施するのだ。更に部隊等において基地司令等が基地周辺住民等に対しあらゆる手だてを尽くして広報乃至は国防意識の高揚のための活動を行うのだ。今現在は反日的グループの活動が我々の活動を上回っている。彼らの努力が我々の努力を上回っていたから教科書はどんどん自虐的になり、中国や韓国から事あるたびに謝罪を要求され、国のために尊い命を捧げた英霊をまつる靖国神社への総理の参拝さえままならないのではないか。

 国の安全保障を全うするために国民の国防意識を高揚するのも自衛隊の任務だと考えた方がいい。平時における部隊指揮官等の主要な任務は精強な部隊を造ることであるが、今後は国民の国防意識の高揚にも努力すべきである。その心構えを持てば各部隊指揮官等の動きも従来とは少し変わってくるだろう。部隊指揮官等はもっと外に出てどんどん多くの人に語りかける必要がある。6空団司令をしているときにある新聞社の論説委員をしていたO氏と話をすることがあった。話が国民の国防意識に及び、私が「政治家が国防の必要性についてもっと国民に訴えるべきですね」というとO氏は「団司令、それは自衛隊がやるべきだ。自衛隊は国民の国防意識の高揚にももっと意を用いるべきだ」という趣旨の意見を述べた。私は従来から多少そういう感じは持っていたが、この時以来確信を持ってそう思っている。米ソの冷戦は終わった。しかし我々は今、日本国内において反日的グループとの冷戦を戦っている。この冷戦に勝たなければ、日本の将来はないと思っている。


 おわりに 

 景気が長期に亘って低迷し回復の兆しがなかなか見えない。日本経済は外国資本に乗っ取られる恐れも出てきているという。北朝鮮の日本人拉致問題の解決も遅々として進まない。また自虐的歴史教科書問題等いわゆる歴史認識に関しては中国や韓国から言いたい放題言われている。国民のフラストレーションも逐次増大しつつある。日本国民は今これらの諸問題を解決してくれる強いリーダーを求めている。先の東京都知事選で石原都知事が投票総数の約7割、308万票という票を集め圧倒的強さで再選された。石原都知事は中国や韓国に対してもまったく卑屈になることなく、堂々とものを言い、南京大虐殺や慰安婦の問題などで日本人の心にたまっている鬱憤を見事に晴らしてくれる。北朝鮮の日本人拉致問題でも、「どうして日本政府は報復を考えないのか」と勇ましい。中国や韓国の日本政府に対する内政干渉に辟易している日本人にとっては、石原都知事のような強いリーダーの出現を待ち望んでいる。強い知事の下で都民も元気が出る。わが国では一部の人たちが、彼を右翼だとかタカ派だとか批判するが、石原知事くらいで普通の国の普通のリーダーである。多くの国民はそれを理解している。

 自衛隊においても今、強い指揮官の出現を隊員が待っている。日本の国がよく外圧に弱いといわれるが、国内においては自衛隊も外圧に弱い。部隊指揮官等は外圧から部隊等を護ることにもっと意を用いる必要がある。従来自衛隊で事故や事案が起き、マスコミ等で報道された場合、やや公正を欠いている報道も多かったような気がする。今までは「またやられた」の繰り返しだから、自衛隊も次第に元気をなくしていく。指揮官や上級司令部に対する信頼が損なわれ、部隊の士気が低下し団結が崩れてゆく。東京裁判史観、日本悪玉論を信奉する反日的グループは事あるごとに自衛隊を攻撃し弱体化を図ってきた。しかし今東京裁判の呪縛から日本国民も少しずつ解放され、自衛隊に対する国民の期待も高まりつつある。強い自衛隊であることを国民も望んでいる。隊員が元気をなくし部隊の士気が低下するようでは国民の意に反することになる。部隊長等は自衛隊に対する不当な攻撃に対しては断固戦う必要がある。空幕の広報室等もその都度きちんと反論しなければならない。きちんとした対応ができないと、その場は収まっても次回はもっと人手も金もかかることになる。今後はもっとしたたかに対応することが必要である。

 指揮官は部下から見て、さすが、強い、頼もしいと言われる存在でなければならない。それが軍事組織に絶対的に必要とされる指揮官を中心とした部隊の強固な団結を生む。強い指揮官のもとで部隊にも元気が出る。自衛隊を元気にしておくことは、国民に対する我々自衛隊員の責任である。元気であってこそ部隊等を錬成し精強な自衛隊を造ることができる。以上述べてきた10の提言は強い指揮官になるために私自身がこれまでの勤務の自己反省を含め心に留めているものである。指揮官によって部隊は大きく変わる。部隊に対する指揮官の影響力は絶大であり、多くの隊員が身をもってこれを体験している。指揮官の部隊統率要領によって部隊は元気にもなるし、不元気にもなる。「最近の若手幹部はどうも云々」などと部隊等でよく耳にすることがある。しかしその責任は彼らにあるのではない。自衛隊のより上級の指揮官の部隊指揮要領が彼らの隊務に対する取り組み方を規定しているのだ。下を変えるのには上が変わるのが一番早い。指揮の要訣は「部下を確実に掌握し…」と教わると真面目な人ほど部下指揮官の仕事の中身まですべて掌握し管理しようとする傾向がある。それが徹底されると管理される側、即ち部下指揮官はどんどん意欲を失っていく。人は自分に裁量の幅があるとき心底意欲をかき立てられる。自衛隊は今管理が行き過ぎている気がする。空幕や上級司令部等も部隊等に任せることができることについては努めて部隊等に任せることだ。我々はもっと部下に対してはのびのびと仕事をさせ、部下の振り付け通り踊ってやる覚悟が必要ではないか。それが将来航空自衛隊を担ってくれる強い指揮官を育てることになるのだ。そしてそれによって空いた時間は、部隊の改革、一歩前進のための創造的な仕事や部外に対する広報、国防意識の高揚のための活動に振り向ければいい。それによって自分自身もまた強い指揮官になれるのではないかと思う。

 時代は大きく変化している。今有事法制が国会を通過する情勢になり、自衛隊が行動する時代になって来た。自衛隊も変革を求められ、防衛庁をあげて防衛のあり方検討が実施されている。陸海空3自衛隊の統合運用も17年度の法制化を目指し鋭意検討が行われている。これらに追随するためには自衛隊が元気でなければならない。元気がなければ新たなことに取り組む情熱もわかない。その鍵を握っているのは自衛隊の各級指揮官である。なかんずくそれは自衛隊の上級指揮官等の隊務に対する取り組み方に掛かっている。

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田母神 俊雄 平成16年3月
航空自衛隊を元気にする10の提言
〜パートU〜
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目    次
  はじめに
1 頼まれたら頑張れ
2 法令改正を年度要求する
3 上司が部下を補佐する
4 お手並み拝見致します
5 日本一を目指せ
6 止(や)めない勇気と始める勇気
7 身内の恥は隠すもの
8 戦場は2つある
9 脱「茶坊主」宣言
10 国家感観、歴史観の確立
  おわりに
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 はじめに

 もう20年以上も前のことになろうか、我が国において総合安全保障なる言葉がもてはやされたことがあった。エネルギー安全保障とか食糧安全保障とか、いろいろな安全保障について議論され、安全保障の中核に軍事力を据えるのはもはや時代遅れだと声高に叫ぶ人たちがいた。そしてこのことは我が国の非武装中立を支持する人たちから、故意に軍事力の役割を低下させようとする意図で盛んに利用された。しかしながら冷戦後の状況を見ても分かるとおり、国際社会の安定のためには相変わらず軍事力が絶対的な役割を果たしている。もし米軍を中心とする先進諸国の軍事力がなければ、国際社会は第2次大戦前の弱肉強食の世界に戻ってしまうであろう。

 現在のように富める国が貧しい国を支援するようになったのは第2次大戦後のことである。第2次大戦までの世界は端的に言って、強い国が弱い国を虐め回った世界であった。いまアメリカ合衆国は抑制のきいた世界のリーダーとして立派な国である。日本の若い人たちの中には、日本はアメリカみたいないい国とどうして戦争をしたのだろうと思っている人も多い。日本人は今も昔もアメリカ大好きである。しかしこのアメリカでさえも第2次大戦までは人種差別の急先鋒であった。我が国は19世紀後半以降、執拗な米国の虐めに苦しめられたのである。これは米国に限らず、英、仏、露、蘭などの強国は世界中に植民地政策を押し進め、アジア、アフリカ諸国などはその犠牲になった。世界地図でみるとアフリカ諸国の国境だけが直線になっているが、これは英、仏などが適当に線引きした結果である。アジアでは我が国とタイだけがこれら列強の支配を受けずにいたが、不幸にも我が国は第2次大戦の結果、一時期米国の支配を受けることになった。米国は我が国が再び強国として米国に刃向かうことがないように徹底的に日本を精神的に破壊しようとした。いわゆるウオーギルトインフォメーションプログラムである。これは折からの国際共産主義運動と相まって大成功を収め、今なお我が国には多くの反日的日本人が存在し、米ソの冷戦構造が崩壊したにも拘わらず、国内的な冷戦状態が続いている。

 第2次大戦が終わって国際連合が設立された。そして1948年には国連において「世界人権宣言」が採択された。これは、もう弱い者虐めは止めましょう、人種差別は止めましょうという先進国間の協定であると考えられる。それ以来世界は変わった。建前上、強い国が弱い国を虐めることができなくなったのである。むしろ強い国あるいは富める国が弱い国ないしは貧しい国を支援することになった。我が国も、いわゆるODAなど巨額の経費を発展途上国に対し支援している。

 このように世界が変わったことから、先進国の軍事力は国際社会の安定のために必要になった。決して他国を侵略するために使われることはない。世界には今、大人の判断力を持った先進諸国と自分のことだけで精一杯の発展途上国がある。これら発展途上国の中にはいわゆる悪ガキみたいな国がたくさんある。今、国際社会では、大人が悪ガキよりも強い腕力(すなわち軍事力)を保有している。国際社会の安定のためにはこれは不可欠の用件である。もし大人の腕力が、悪ガキの腕力よりも弱かったならば国際社会は無茶苦茶になってしまう。先進国の軍事力は、帝国主義時代の侵略する軍事力ではなくて、国際社会の警察力と認識すべきなのだ。

 これを理解しないのが戦後の我が国の知識人といわれる人たちである。彼らの国際社会を見る眼鏡は殆ど歪んでいると言わざるを得ない。先進国の軍事力が今なお弱い者虐めをすると信じているのだ。時代錯誤も甚だしい。彼らは学校やマスコミ界を中心に、あらゆるところに棲息し、純真無垢の青少年の目を曇らせてきた。それら青少年はやがて成長し、今では我が国の各方面において重要な役割を果たすようになったが、一部の人たちの目は今なお曇ったままである。その結果、我が国には今なお軍事アレルギーがはびこ蔓延っている。我が国は、軍事あるいは自衛隊のことに関し、他の先進諸国と同じような考えをもつことができない。あるいは同じような行動をすることができない。一部の人たちは、国民の財産である自衛隊を有効に使うことよりは、自衛隊の手足を縛ることばかり考える。自衛隊が悪さをしなければ世界は平和であると信じているのだ。だから北朝鮮のようなテロ国家に対してでさえ自衛隊に対するよりも親近感を覚えたりする。ここまで目が曇ってしまうともはや治療法がない。

 しかしながら先の国会において有事関連法案が成立し、また自衛隊の海外における活動も逐次増加の方向にあることを考えれば、今後我が国も次第に変わっていくだろう。21世紀の100年間を見れば、我が国も普通の先進国として、軍事力の活用を含め、国際的な責務を果たすことになると思う。21世紀においても自衛隊は我が国安全保障の根幹である。自衛隊がなければ我が国の安全保障は成り立たない。外交交渉だって軍事力の裏付けがなければ、ぎりぎりのところで相手を動かすことができない。軍というのは国家の最後の拠り所である。従って自衛隊はいつでも元気でなければならない。たとい国民が自信を失って悲嘆にくれているときでも、自衛隊は心身共に元気であることを求められている。自衛隊が元気であってこそ有事即応の態勢を維持し、国民の負託に応えることができるのだ。

 そこで昨年の鵬友7月号に「航空自衛隊を元気にする10の提言」として小論文を寄稿させてもらった。予想以上の反響があり、全国の空自の先輩、同期生、後輩の皆さんから電話や手紙を頂いた。またこれを読まれた一部防衛産業の皆さんからもコメントを頂戴した。そのほとんどが私の論文を肯定的に捉え、激励していただくような内容であった。特に後輩の皆さんから大いに参考になったとか元気が出たとかいう言葉を聞いて大変嬉しく思った。私としては常日頃の職場の会議などで話してきたことをまとめたつもりであったが、作者として大変な満足感を味わうこととなった。改めて文章の力の大きさを感じた次第である。更に後になって陸上自衛隊、海上自衛隊の上級指揮官等からも部下等に配布したいという話があり、喜んで配布させて頂くことにした。

 その後一部の皆さんから続編を書かないのかという話があり、この度鵬友編集室からも改めて依頼されたので、常に「頼まれたら頑張れ」ということを部下に指導してきた手前、受けざるを得なくなった。そこで今回もう一度頑張ってみようかと思った次第である。

 さて日本には建前と本音という言葉があり、人は立場上、本音の部分は公にできない場合も多く、そのためにストレスがたまることも多い。その点、前作で努めて本音の部分に迫ろうと努力したことが評価して頂いたのではないかと思う。そこで今回もできるだけ本音に迫ろうとするスタンスを維持したいと考えている。例によって、本論文に述べる内容は私の私見である。私の提言の中には同意できない提言があるかもしれない。読者の皆さんは前回同様、大いなる批判精神を持って読んで欲しいと思う。これから部隊長等に配置される皆さんや若い幹部諸君の何らかの参考になれば幸いである。


1 頼まれたら頑張れ

 景気が長期に渡り低迷し、我が国の中小企業も生き残りを懸けていろんな分野に進出することとなった。従来防衛調達に関係していなかった会社も多数自衛隊にモノを売りに来るようになった。また旧調達実施本部における調達不祥事により、防衛調達改革が実施され、防衛装備品調達における競争入札が強化された。空幕、補給本部などの実施する防衛関連調達が、従来からこれに参加していた会社だけではなく、多くの会社に拡大されることとなった。更に防衛予算は年々縮減の傾向にあり、これに輪をかけてインターオペラビリティーの観点から米国製装備品等の調達額が増加している。このようなことから従来から自衛隊に物品等を納入している国内企業からみれば、当然自衛隊に対する売り上げが減るので、自衛隊に対しいろいろと相談にくる。「何とか当社の製品を買ってもらえないか」というようなお願いをされることも多い。しかしながら一般競争入札である限りお願いをされても自衛隊としてもどうしようもない。会社側に出来るだけ安価で良質のモノを提供してもらうことを期待するだけである。

 空幕で防衛力整備に携わっていると頼まれごとが多い。もちろん頼まれても出来ないことはどうしようもない。しかし出来ないことが反復されると、出来ることまでやらなくなってしまうことも多い。近年のように諸制約が多くなり、担当者の裁量の幅が狭くなってくるとその傾向は一層強くなる。人は自分の裁量の幅が小さくなればなるほど精神的に沈滞してしまう傾向がある。意欲があれば出来ることさえ放置してしまう。自衛隊の戦力発揮を支える防衛産業を護る意欲さえ失われてくる。自衛隊以外には市場がない航空機、艦船、ミサイル及びその部品などの製造会社は、自衛隊がこれを支えなければやがて会社は傾き、結果として自衛隊の行動が出来なくなるのだ。我が国は、諸外国が保有する軍の工廠を保有せず、工廠の役割を民間企業に依存している。これらの会社からの依頼事項については、防衛産業・技術基盤の維持の観点から、担当者は頑張らなければならない。

 空幕の装備部長をしているときに「最近は頼まれてもどうしようもない。何も出来ない」というようなことを聞くことがあった。それに対し私は、「頼まれたら頑張れ」と指導していた。確かに10個頼まれてそれを全部受けることは不可能なことが多い。しかし1つでも2つでも頑張ってあげるという姿勢が必要だ。頼みにくるということは相当困っていると認識すべきである。そのときに助けてあげなければ、やがて誰も頼みに来なくなる。あの人の所へ行ってもどうせだめだから行ってもしょうがないということになる。結果として自分の力を失っていくことになる。

 これは防衛力整備に限らず、部隊等における隊務運営においても同じことが言えると思う。人は仕事をすることによって力をつける。ステータスも向上する。頼まれたことを面倒がって断り続ける人と、多少面倒でも快く承諾し頑張る人とでは長い間には、その力量に大きな差が生まれる。彼に頼めば何とかしてくれる、彼が出来なければ誰も出来ないというような信頼を得たとき、その人は一回りも二回りも大きくなっている。これまでの部隊勤務の経験で幹部や准尉、空曹に限らず周囲の人たちから絶対的な信頼を得ている人たちがいた。そういう人が増えれば自衛隊はより強くなる。彼らは周囲からの依頼に対しては例外なく困難なことにチャレンジしていたような気がする。困難なことを簡単に出来ないと言ってはいけない。ほんとに出来ないかどうかよくよく考えることが大切である。

 しかしみんなから一斉に頼まれたらどうしようもないではないかという人がいる。そのときは2度3度と頼みにくる人を優先してあげてはどうか。現実にはみんなが一斉に頼みに来ることなどあり得ない。そこはやるかやらないかを含めて自ら判断する必要がある。それはいわゆる不公平とかいうものではない。不公平だから何もしないというのは、多くの場合何もしないことの言い訳であるように思う。面倒くさがったり自分の行動に対する批判や摩擦を恐れたりしているのだ。確かに面倒であるし、自分が判断して行動すれば必ず何らかの批判や摩擦を生ずる。それを覚悟の上で頑張らなければ仕事をすることはできない。頼まれて何もしないことだってどうせ批判を受ける。同じ批判を受けるなら仕事をして批判を受ける方がましではないか。仕事をしなければ力も付かないし、周囲の信頼を得ることもできない。

 あの人は頼りになると言われるようになろう。自衛官はみんなから頼りになると言われる存在でなければならない。だから頼まれたら頑張ってみよう。


2 法令改正を年度要求する

 空幕でも部隊でもルーティンの仕事は法令を始め各種規則類によってやり方が決まっている場合が多い。そして長い間それらに基づいて仕事をしていると、次第に疑問を感じなくなってくる。それどころか決まっていないことを新たに実施することが面倒に思えてくることも多い。どうしてやり方が変えられないのかと尋ねると規則でそうなっていますという答えが返って来たりする。しかし所詮規則は目的や目標を効果的、効率的に達成するための手段なのだ。時代が変わり、状況が変われば規則を見直すことが必要である。法令や規則絶対主義に陥ってはいけない。

 空幕では毎年内部部局を通じて財務省に対し予算要求が実施される。航空自衛隊の装備品の取得や改善の要求、部隊等の編成上の要求及び自衛官の処遇に関する要求に分けて実施されるが、法令改正の要求は陸海空自衛隊とも編制や処遇の要求に関わるもの以外は実施していない。しかしインド洋やイラクなどに自衛隊が派遣されるようになると、自衛隊が最も効果的に行動できるように普段から自衛隊の行動に関わる法制について、自衛隊が自ら考えておくことが必要であると思う。前国会において有事関連3法案が成立したが、今後とも国家のためによりよい法律を策定すべく研究を継続することが必要である。

 我が国は、これまで自衛隊の海外派遣については個別の事案ごとに法律を作り対処してきたところであるが、今、自衛隊の海外派遣のための包括法を作る動きがある。自衛隊も今後要求される海外或いは国内における行動を予測して、年度の業務計画の一環として定例的に法律改正要求を実施していくことが必要ではないかと思う。それをやらないとこの動きの速い世界の中では、自衛隊が国家のために適時適切に行動することが困難になる。またそれをやることによって自衛官も我が国の有事関連法制等の要改善事項等を把握することが出来る。

 因みに我が国以外の先進国では、軍は国際法に基づいて行動することになっており、軍が各種行動をするための国内法上の根拠を必要としない。諸外国においては、我が国が自衛隊法で規定している海上警備行動や対領空侵犯措置などは軍としての当然の行動とされ、特別に行動のための法律は存在しない。有事法制関連で自衛隊の任務ではないとされている領域警備の話なども、諸外国の軍では当然の任務とされていることも知っておく必要があろう。これに対し我が国では自衛隊が警察予備隊として発足した経緯があり、自衛隊が何か行動をする際に国内法上根拠規定を必要とするというふうに考えられている。昨年イラクで日本人外交官2名が殺害され、日本大使館の警備に自衛隊を使うという話が出たときに、自衛隊法を改正しなければそれはできないということになった。しかしわが国以外の国では、このような場合直ちに軍を使うことができる。

 国際的には軍の行動に関わる法制については禁止規定とすることが一般的であり、軍に対しては予め禁止事項が示される。外敵の侵入に際し国内法、国際法によって禁止されていない事項は全てやって良いということになっている。この点で自衛隊が実戦に臨んで、いちいち何を根拠にそれが出来るのかと考えるようでは、適時迅速な行動が出来るはずがない。戦いにおいて自ら手足を縛っては、両手両足を自由に使える相手に勝つことは出来ない。国家の防衛に責任を有する者としては、これを重大な問題として認識しておくことが必要であるし、また国民にもその現実を知ってもらう努力が必要であると思う。恐らく多くの国民は自衛隊も諸外国の軍と同じように国際法に基づいて行動できると思っている。しかし現実はそうなっていない。

 さらに有事でなくとも平時においても不具合と考えられる規則等がある。火薬類取締法、電波法、武器輸出許可手続き等は、もともと民間の会社や個人を対象に定められたものと思うが、今では自衛隊にも殆んど同じように適用されている。対領空侵犯措置や災害派遣などに際し、自衛隊の即応態勢を維持する上での障害になっている。またPKOやイラク派遣の際にも自衛隊はこれらの手続きと承認受けを要求される。自衛隊が行動するに際し経済産業省や総務省の許認可を必要とするなどという国が世界のどこにあるのだろうか。軍は悪いことをする、暴走する、だからこれを監視する必要があるという東京裁判史観がここにも息づいているような気がする。もっと自衛隊を信用して任せてもらってもいいのではないか。

 法令関連の要求を年度要求とすることにより自衛官が法制上の問題点を改善しようとする意識が生まれる。いま現在は、自衛官は決められた枠の中で精一杯任務を遂行することだけを考えている場合が多い。もちろんそれは大事なことであるが、よりよく任務を遂行するためには法令の改正も視野に入れて努力することが大事である。現行法制上の問題点を国民に理解してもらうためにも、それが大切ではないかと思っている。


3 上司が部下を補佐する

 部隊等の勤務においては、通常は部下が上司を補佐する。しかしながら大きな事故があったりあるいは部隊等が何らかのトラブルに巻き込まれたような場合は、これが逆になるということを理解しなければならない。上司が部下を補佐するのだ。上司が部下を支えるのだ。

 例えば航空事故によってパイロットが死亡するとか、ミサイル事故によって整備作業中の隊員が死亡するとかの事故があった場合、マスコミでも大きく取り上げられる。このとき一番大変なのは誰なのだろうか。もちろん肉親を亡くした御遺族は最も大変であるが、自衛隊にあっては現場の近くにいる人ほどいろいろと大変である。状況の違いもあり一概に言えない場合もあろうが、通常は団司令よりは群司令、群司令よりは隊長が大変だと考えておいた方が良い。従って団司令は群司令が各種処置をし易いように、群司令は隊長が動きやすいように配慮してあげることが必要である。当然方面隊司令部の幕僚は、方面隊直轄部隊長である団司令を支えるという心構えが必要である。隷下部隊の状況を把握し方面隊司令官に報告するだけが仕事だと思ってはいけない。

 空幕でもメジャーコマンド司令部でも、各幕僚はそれぞれ空幕長やメジャーコマンド司令官になったつもりで仕事をしなければならない。もし自分が空幕長や司令官であったならこの状況でどうすべきなのか、自ら判断し決心する覚悟が必要である。どんな場合にも部隊等を強くすることが各幕僚の仕事と心得るべきである。事故発生等により部隊等が混乱に陥っている場合には部隊等の戦力が極力ダウンしないように、隷下部隊を護ることを考えなければならない。上司に報告するための自分の仕事のやり易さのみを考えるようでは幕僚としては失格である。

 練成訓練計画や業務計画に従って部隊等が訓練や恒常業務を実施している間においては、各級指揮官は上級司令部や上級指揮官の支援を必要としない。支援を必要とするのは何か突発事態が生起し、迅速な対応が必要になったときである。事故等があった場合に上級司令部や上級指揮官は当該指揮官にとって頼りになる存在でなければならない。一部の対応のまずさに怒ったり怒鳴ったりすることは極力避ける必要がある。そうでなくとも当該指揮官はあれやこれやと処置事項が多くて混乱している場合が多い。上司の意向は気になるし、上司の支援を必要としているのに上司によって一層混乱するようでは困るのだ。事故処理で「一番大変なのは上司対応です」と言われるような上司になってはいけない。事故等の処理に際し上司が冷静であってくれると部下指揮官は落ち着いて各種対応ができる。もちろん部下指揮官はこれに甘えてはいけない。上級司令部や空幕においてマスコミ等への対応が必要な場合もある。そこで状況によっては上級部隊等への報告専門係をおいてできるだけリアルタイムで状況が報告されるよう処置する配慮が必要である。

 さて事故処理に際し各級指揮官は、何故こんな事故が起きたのかとか、あの時こうしておけば良かったとか考えてはいけない。それは後ろ向きの発想である。事故はすでに起きてしまって、過去のことはもう戻ってこない。我々が出来るのは、今からどうするのかということだけである。眼前の受け入れたくはない現実を受け入れて今から実施すべき事項を早急に列挙することだ。そしてそれを冷静に着実に実行するのだ。これが前向きということだ。

 事故を起こした上に部隊の士気が低下するようでは、部隊にとっては二重のマイナスとなる。事故は起きてしまったのだから、被害は事故だけに限定し、士気の低下はさせないようにしよう。指揮官としては被害の局限に努めなければならない。当初は何をしていいのか分からない、その混乱状態が指揮官を悩ませる。しかし行動方針が決まり指揮官の的確な指示があれば部隊は力強く動き出す。行動方針が決まらず、指揮官やこれを取り巻く幕僚が「大変だ、大変だ」と騒ぎ立てることが部隊を混乱させる。部隊の頭脳が混乱していては部隊は右往左往するばかりである。当初の何をしていいか分からないという時にも指揮官は無理にでも泰然自若としていなければならない。部下指揮官等の行動を助けることが任務だと思えば少しは心も平静になれる。事故があると部隊の士気が低下すると言われるが、事故に伴う各級指揮官の対応の拙さがその3倍も5倍も部隊の士気を低下させる。事故そのものではなく上司が混乱し、あれこれ言うことによってより一層士気が低下することがあるのだ。部下指揮官の立場に立てば「アンタがギャーギャー言うから士気が低下する」と言いたくなる場合もある。

 思うに指揮官に3種類あるのではないか。@何かをやって部隊を強くする指揮官、A何もやらない指揮官、B何かをやって部隊を弱くする指揮官である。私たちは常に@の指揮官を目指すことが必要であるが、最小限人畜無害のAの指揮官ではいたいものだ。この場合部下がしっかりすれば何とかなる。しかしBの指揮官になってしまうと部隊にとって害毒を垂れ流しされているようなものだ。むし寧ろいない方が良いということになる。Bの指揮官は頭の中が混乱しているのだ。これを病名「大変だ症候群」ともいう。大変だ症候群を患うととても部下を支えてやることはできなくなる。

 指揮官の混乱はその事態を上手く処理しきれないのではないかという不安が原因である。しかし上手くやるということはあきらめた方が良い。緊急事態であるから多少の抜けはあってもしょうがない。格好良くは出来ないと腹をくくった方が冷静になれる。基本教練や飛行展示のように整斉とは出来ない。このような際の業務処理は、荒馬に乗ってでこぼこの荒野を駆け抜けるが如しである。さっそう颯爽と馬を乗りこなすのではなく、如何にも下手くそ、落ちるかな落ちるかなと思われながらも、馬の腹にしがみついて、どう見ても格好は悪いが、どうやら落ちずに駆け抜けてしまったという感じである。落ちなければいいのだ。そう思えば冷静になれる。指揮官の心は直ちに部下の心に投影される。指揮官が冷静でないと部下は混乱し力強い部隊行動が出来ない。


4 お手並み拝見致します

 近年IT化の進展等によりマスコミ等の情報伝達が極めて迅速になっている。自衛隊の地方の一部隊において起きた事故等があっという間に全国に報道される。その結果中央において記者会見等が行われ、航空幕僚長や関係部長等がこれに対応することになる。自衛隊の事故防止対策はどうなっているのか、自衛隊はどのような隊員指導をしているのかとか、今後の対策はどうかとかいろいろな質問が実施される。幕僚長や幕の部長等がこれに回答すれば幕の関係幕僚が動き出す。これに伴ってメジャーコマンド司令部が動き出す。更には団司令や群司令や隊長が動き出すということになる。空幕、メジャーコマンド司令部或いは方面隊司令部等において監察団が編成され、特定監察が行われることもある。

 このような上級部隊等の動きは、隊員の心の引き締めや事故防止意識の高揚のためには非常に効果があるが、一方では大きなマイナス面があることも理解しておく必要がある。それは現場の隊員がどうせ対策は上がやるので指示を待とうという姿勢になりがちであるということである。事故の度に上級部隊等の指導が入ると、現場としては上級司令部等のお手並みを拝見致しますということになってしまう。私は上級司令部等が動くときは本当にそれが必要なのか、現地部隊等に任せることは出来ないのかということを自問自答してみるべきだと思う。中央にいる人が、確かに仕事をしているという自分のやり甲斐を求めるだけで、部隊の精強化が二の次になっているようではいけない。もちろん空自を挙げての対策が必要な場合があることを否定するものではないが、上級司令部等が動くことが何時でも事故防止効果が最大であるというものでもない。部隊の精強化を考えると、このような対策や処置は出来る限り低いレベルで実施した方がよいと私は思っている。現場の部隊が自ら問題点を究明し、自ら対策を取るような方向で処理されることが重要である。上級司令部等が動きすぎると指示待ちの部隊や隊員を造り上げてしまうので注意することが必要である。

 例えば隊員の服務に関する事故の場合、彼がそういう行動をしているのを何故周囲の人たちが知らなかったのかとか、心情把握が不十分だったのではないかとか質問がある。しかし行動や心情を把握しようとする場合、部隊でいえば内務班長、先任空曹、レベルを上げても小隊長クラスがその気にならなければそれは極めて困難である。群司令や隊長が大勢の隊員の全てについて心情や行動を把握できるはずがない。私は若い頃にペトリオットの前身であるナイキの運用幹部として高射隊で勤務していたが、小隊長としての仕事の大半が隊員指導であった。隊員の服務事故が多くて困っていたある時、服務関連の事故を起こした隊員の処分等に関しその処置を内務班長であるI3曹に任せてみた。それまでは小隊長が直接処分等を検討することが多かったが、I3曹は私が期待した以上の処置を見事にやってくれた。このときの経験以来私は内務班のいろんなルールを先任空曹の指導の元に内務班長会議に任せることにした。それまで小隊長が決めていたことを内務班長に決めさせるようにしたのだ。結果は驚くべきものだった。服務事故はぴったりと止まってしまった。私は内務班長たちがそれまでは小隊長から管理されているという意識で、小隊長のお手並み拝見という状態に置かれていたのではないかと思う。それが今度は自分たちの責任で事故防止等に頑張ることが必要になったのだ。人は管理されるより管理する側に立つと意識が変わる、心構えが変わる。自らは事故を起こせないという気持ちになる。思い切って部下たちに任せてみることだ。それは決して部下への迎合とか甘やかしとかいうものではないのである。

 近年若手幹部自衛官や上級空曹等の事故が増加しつつあるが、上級司令部等が部隊等の服務事故等の防止に熱心になるあまり、彼らを管理する側から管理される側にしてしまっていることはないのだろうか。自衛隊全体としては出来る限り管理する側の人間を増やし管理される側の人を減らすことだ。事故防止の責任を小隊長や班長、SHOP長、先任空曹、内務班長等に預けてしまうことだ。そうすれば管理される側の人は極めて限定された数になる。私は時々自衛隊は管理が行き過ぎていると感じることがある。すなわち管理される側の人が多過ぎるということである。各級指揮官は事故等の処理に際し、緊急に処置を要するものは別にして、可能な限り「こうせよ」と指示をせずに「どうするのか」と尋ねた方がよいと思う。そして彼らの持ってきた案が余程おかしくなければそれを支持してやることだ。指揮官は我慢が必要である。その我慢が部隊を強くする。全てのことに全力投球とか言って何にでも100%を求めることは決して部隊を強くしない。指揮官がいつでも何でも部下に完璧を求めて指導を始めると、部下から上司に対する仕事の丸投げが始まる。それは貴乃花もびっくりするほどの立派な丸投げだ。「あの文書、どうせ部長がまた細かく直すから適当に書いて早く持って行け」などという話はよくあることだ。部下たちは自ら判断し自らの責任で仕事を進める習慣を失っていく。千変万化する有事の状況下において必要とされる実戦的体質が失われていくのだ。指揮官は満足感を味わいながら部隊は緩やかに弱体化していく。

 指揮官は、部下が積極溌剌として隊務に取り組むことができるように、自分の満足度は80%ぐらいで抑えておく必要がある。それが長期的にみると部隊を強くするのだ。経験上80%を超える部分は通常指揮官の好みに左右されることが多い。指揮の本質は意志の強制であると言われる。しかしこれを完璧に追求することがいつでも正しいとは限らない。何事もほどほどがよい。


5 日本一を目指せ

 第2次大戦後の40数年間の冷戦において、最終的に米国を中心とする西側陣営がソ連を中心とする東側陣営を圧倒し、ソ連の崩壊という結果になった。経済的側面では自由競争を原則とする西側が、統制経済を柱とする東側に勝ったということだ。何故ソ連が成功しなかったのかと言えば、努力してもしなくても結果が同じ競争のない社会では、努力する人がいなかったからといえるだろう。我が国ではJRやNTTが旧国鉄、旧電電公社から民間の会社になってどれほどサービスが良くなったかは国民が肌で感じている。JRもNTTも民間会社との競争にさらされることになったからである。

 さて自衛隊も国内において何をやっていようが潰れることはない。だから油断していると部隊がどんどん弱体化してしまうことがあるのだ。気が付いたら国民の期待に応えることができなかったでは自衛隊の存在価値がない。国民に対し申し訳がない。そこで我々も競争する対象が必要である。幸いにも自衛隊の場合は同じ形の部隊が複数存在し、戦技競技会などが定期的に実施されるので個人の戦技に関しては競争状態に置かれている。しかしながら指揮官としての指揮統率能力や作戦における指揮能力はあまり競争にさらされることがない。本人が競争意識を持って努力しない限り競争のない状態に置かれている。

 そこで6空団司令を拝命したときに、司令部の部長、各群司令、各隊長等に対し、「私は日本一の航空団司令になるよう努力するので諸君もそれぞれ日本一の部長、日本一の群司令、日本一の隊長になるよう頑張って欲しい」と要望した。何が日本一か評価基準はそれぞれの人に任せていたが、少なくともそれぞれの人が隣の航空団等を見ながら日本一になろうとして頑張ってくれたのではないかと思う。基地内の視察の折りに若い空曹が「司令、日本一になります」などと言って話しかけてくることがあったが、みんながあいつには負けないと思って努力してくれることが第6航空団を精強にしてくれることだと思っていた。また空自の全部隊長がそれぞれ日本一を目指して頑張れば航空自衛隊の精強性はより一層向上することになろう。

 もう一つは各人の努力目標を常に明確に意識させておくことが大切であると思う。そこでこれも6空団司令の時に、部隊の練成訓練目標とは別に、全隊員に対し当該年度の仕事上の目標と私生活上での目標をペーパーに書いてもらうことにした。もちろんその全てを団司令が見るわけではなく、各隊或いは班、小隊等で管理してもらっていた。若いパイロットや隊員を例に取れば、仕事上の目標はエレメントリーダーの資格を取るとか7レベルの特技試験に合格するとかいうようなことである。また私生活上の目標でいえば今年中に100万円の貯金を貯めるとか今年は車の免許を取るとかいうもので良いと思う。タテマエ的な目標ではなくホンネの目標を掲げることが大切である。目標が展示用の立派過ぎるものであると達成の困難さにやがて努力することを止めてしまうことになる。

 人間は目標に向かって努力するよう神様によって造られている。目標を持つと人は生き甲斐を感ずると思うし、またつまらないことで事故を起こしたりすることもなくなる。目標を持つことは若い隊員にとって服務事故をなくすという副次的効果もあるのではないかと思う。具体的な目標を持って、常に自分が負けてはいけない対象を見ながら日本一を目指して頑張ることだ。もちろん我々は外敵と戦うことが本務であり、比較の対象として外国軍人や外国軍隊を視野に入れておくことが必要であろう。特に自衛隊の1佐以上の高級幹部を目指すような立場にある人は、米国、韓国、中国、露国等の軍人の力量を把握し、これに負けない識見、徳操を身につけなければならない。しかしながら多くの隊員にとってはもう少し国際交流が盛んにならなければそれは困難であるので、当面は国内において日本一を目指すことで良いだろう。


6 止(や)めない勇気と始める勇気

 景気がなかなか回復しない。十数年前のバブル景気が忘れられず、夢よもう一度と思っている人も多い。景気が悪いと隣の芝生が青く見える。ひがみ根性が強くなり、何かうまくいかないと他人のせいにしたくなる。自分よりいい思いをしていると思えるような者に対しては腹が立つ。また戦後の社会風潮や日教組に牛耳られた学校教育のせいで、何にでも自分の権利を主張したがる人が増えてしまった。会社においても或いは行政に対してでも些細なことでも注文をつける。自分にとって都合の良いことは当然の権利と思う反面、少しでも気に入らないと文句を言わずには収まらない。このような人が増えると世の中いろいろとうるさくなる。マスコミもこれをあおり立てるようなところがある。自衛隊においても縮み指向が加速され、何事にも慎重に対応する人が増えてくる。積極的に仕事にチャレンジするよりは、上から指示されたことだけやろうと思うようになる。チャレンジしようとすればエネルギーが必要だし、失敗したときのリスクもある。主導権争いなどで周辺との摩擦を生じたりすることも多い。とにかく部内外からいろいろ言われないことが大事になる。マスコミなどで批判されることが一番困るのだ。

 こうなってくると自衛隊の中で今までやってきたことでも、ひょっとするとあれは止(や)めたほうがいいかもしれないというものが目についてくる。それは自衛隊の仕事としてやっていいのかとか、情報公開を求められたときに耐え切れるのかとかいう議論が出てくる。例えばOB会の面倒を見るなどということに関しては、自衛隊はやたら慎重になり過ぎている。しかし自衛隊がやっていることで明らかに違法であると言いきれることなどないと言っていい。あらゆることは社会常識の範囲内でやっていると私は思う。いま現在やっていることは何かの理由があって始めたことであり、そのとき当然法令や規則のフィルターはかけられているはずである。自衛隊は極めて順法精神の高い組織であるので各級指揮官等にはこの点自信を持ってもらいたい。もちろん自衛隊を好ましく思っていない人たちから見ればあれやこれや言いたいことがあるかもしれない。しかし私のこれまでの経験では、指摘を受けた後でも議論できるようなものばかりであったと思っている。いわゆるグレーゾーンに属するようなものはあるだろう。しかしそれは自衛隊を精強化するために諸先輩が知恵を出したぎりぎりの選択なのだ。だから何かを止(や)めようとするときは、それを止(や)めたら自衛隊が強くなるのか弱くなるのか自問自答してみる必要があろう。年月が経って現状にそぐわなくなっているものもあるだろう。或いは最早自衛隊の団結の強化や士気の高揚に効果がなくなってしまっているものもあるかもしれない。そんなものなら止(や)めたらいい。しかしそれが自衛隊の精強化に貢献していると思われるものについては、外からとやかく言われるかもしれないという理由だけで中止すべきではない。それを止(や)めるということは、外から何か言われるということを理由に、自衛隊が弱体化するという選択を予めしてしまうということなのだ。止(や)めない勇気を持つことが大事である。是非自分の胸に手を当てて考えて欲しい。心の底で自衛隊が弱くなっても自分がトラブルに巻き込まれなければいいと思っていないかどうか。もしそうだとしたら是非止(や)めないで頑張ってもらいたい。貴君がそこで踏ん張ってくれることが自衛隊の精強性を維持することになるのだ。

 反対に何か新しい事を始めようとしたときに、それは問題になるのではないかとか、時期尚早ではないかとかの意見が出る。いわゆるつぶしの論理である。しかし自衛隊が一歩前進するためには常に新たなチャレンジが必要である。今までと同じやり方では何も変わらない。むしろ後退している可能性さえある。新たなことを始めようとするのだから摩擦があるのは当然である。絶対に問題がないと言い切れることなど殆どない。何か言われるぐらいのことは覚悟しておいた方がいい。しかし摩擦や問題を恐れていては一歩も前進できないこともまた事実である。失敗を恐れずにチャレンジを継続しなければならない。一般に真面目と云われる人ほど慎重になる傾向があるので、自分が真面目だと思っている人は注意する必要がある。慎重すぎる指揮官は決心が遅れ、適時適切な部隊行動を損なうこともある。或いは部下たちの成長の芽を摘んでしまう場合もある。何か問題が起こるかもしれないということで予防整備に走りすぎてはいけない。指揮官が予防整備症候群にかかってしまうと部隊の活力はどんどん失われていく。だから案外真面目な人が自衛隊をだめにすることがあるのだ。そこで部下たちの提案が自衛隊の精強化に貢献するものであるならば、それが外からとやかく言われるかもしれないという理由で、これを退けるべきでない。明らかに違法であるものは論外であるが、その他については始める勇気を持つことだ。よそから絶対に何も言わせないと自信を持てるまで行動しないようではタイミングを失ってしまう。それが違法であるとか明確に非常識であるとか思われるものでない限り、とやかく言われることなど気にしなければいいのだ。上司がそう思っていてくれると部下としてこれほど有り難いことはない。反日的な人たちに気を遣い過ぎてはそれらの人たちの思いで自衛隊が動かされてしまう。自衛隊は本来我が国を愛する国民の思いに応えて動かなければならないのだ。

 自衛隊の現状を見るに、止(や)めない勇気と始める勇気がとても大切であると思っている。各級指揮官は精神的に伸び伸びとしていなければならない。


7 身内の恥は隠すもの

 近年「行政機関の保有する情報の公開に関する法律」、いわゆる情報公開法が施行され、自衛隊においても国の安全保障上秘匿を要すると考えられるものなど、一部を除き保有する文書等が要求に応じ公開されることになった。部隊等においても情報公開に関する教育が徹底され、最早如何なることでも隠すのは悪であるというような風潮が生まれつつある。しかし私は少し行き過ぎているのではないかと思っている。昨年話題になったサーズなどは、これを隠蔽することは他人に迷惑をかける。だから絶対にその情報を公開する必要がある。中国政府の対応に非難が集中したことは記憶に新しい。またエイズの非加熱製剤による感染の話なども情報公開が遅れたことにより被害が拡大する結果となったものであり、けしからん話である。そのほかにも医療ミスとか原子力発電所の放射能漏れ、あるいは建設工事のミスなど当該情報が公開されることにより、第3者が対応行動をとることができ被害に遭わないようにすることができるものについては、情報を隠蔽することは厳重に戒められるべきである。更に事故に伴う民事裁判等を有利にするために、官公庁や民間会社などが情報を隠蔽することも責められてしかるべきである。

 それでは何でもかんでも全て公開する必要があるのか。そんなことはないと思う。またそれが情報公開の趣旨であるとも思えない。情報公開法の第1条(目的)には、「公正で民主的な行政の推進に資すること」が目的であり、そのために「@政府の諸活動を国民に説明する責務を全うすること、A国民の的確な理解と批判を得られるようにすること」の2点が書いてある。その本来の狙いとするところは、当該情報が公開されないことにより国民が損失を受けることを防止することなのだ。国民の知る権利を楯に、のぞき趣味的なことまで情報公開を要求することは、また戒められなければならないのではないか。情報公開法第5条第二項イ号には「公にすることにより、当該法人等又は当該個人の権利、競争上の地位その他正当な利益を害する恐れがあるもの」について、情報公開を拒否できることになっている。公人や公的な組織にもプライバシーがあると考えて良いのではないか。自衛隊は国の安全保障を最終的に担保する組織であり、公にできない秘密が存在することはいかなる人も否定はできない。しかしそれ以外にも自衛官にも自衛隊にもプライバシーが認められていいと思う。部隊や隊員が三面記事や週刊誌で笑われただけで終わるようなもの、いわゆる身内の恥的なものまで公開されるようになると、隊員は自分のことを上司に相談することができなくなる。上司に知られてしまえば全て情報公開の対象になってしまうようでは部下隊員の指揮官に対する信頼感は失われてしまう。

 最近はマスコミの情報が迅速でまた突っ込みも厳しいので、下手に隠すと後が大変になるというようなことを聞くことがある。それは言葉を換えれば、「俺はマスコミで叩かれるのがいやだから部下隊員を護らない」と言っているに等しい。上司が部下を護れないことほど上司に対する信頼を失わせるものはない。社会的な影響が大きいか又は国民に損失を与えるようなものでない限り指揮官は部下隊員や部隊の保全に努めるという明確な意志を持つ必要がある。自分の部下が公衆の面前で笑われたり辱めを受けたりすることは指揮官の恥である。指揮官のその姿勢が部隊団結の基盤なのだ。

 論語に次のような話がある。
「楚の葉公(そのようこう)が自慢話をして孔子に言った。『私の村に正直者の躬(きゅう)という正義漢がおります。その男の父親が羊を盗んだとき、息子である彼がその証人となって父を告発したほどであります』と。これに対して、孔子はこう答えました。『私の村の正直者はそれと違っています。父親は子どもをかばって隠してやるし、子どもは父親をかばって隠してやります。これは不正直のようにも見えますが、実はこういう行為の中にこそ、本当の正直さがあると思います』と」(子路第十三)

 私がこの話を初めて知ったのは昭和54年に陸自業務学校(現小平学校)幹部精神教育課程入校に際し、上智大学渡部昇一教授の「日本史から見た日本人(古代編)」を読んで読後所感文の提出を求められたときであった。現代社会において何にでもこれが通用するとは思わないが、何となくほのぼのとするいい話である。身内の恥は隠すものという意識を持たないと自衛隊の弱体化が加速することもまた事実ではないか。反日的日本人の思う壺である。

 自衛隊の精強化を望まない人たちは、どんなことにでも隠蔽体質とか言って攻撃をしてくるであろう。念のために断っておくが私は公開すべきものを隠せと言っているわけではない。各級部隊指揮官が、もはや何もかも公開しなければならないと思い、部隊や隊員を保全するという意識が低下しているのではないかと心配しているのである。情報公開法が我が国や自衛隊の弱体化を目論む人たちに利用される可能性についてもっと注意を払うべきだと思うのである。自衛隊は我が国有事に際し部隊の行動を秘匿しながら作戦を実施しなければならない。そのために常日頃から保全を意識した隊務運営を心がける必要がある。公開を要しない事項については徹底的に秘匿するということで、有事のための訓練をしていると思えば良い。秘匿すると決めたことを秘匿できないようでは作戦遂行に大きな支障が出る。指揮官はそれが出来るまで部隊を鍛えるべきである。もし現状でそれが不可能ならば、これを作戦実施上の重大な問題として認識しておくことが必要である。もし秘密が漏れたならば、なぜ漏れたのか、誰が漏らしたのかを徹底的に追求しなければならない。それが秘密漏洩の抑止力になる。それは国家のため、国民のために必要なことなのだ。自衛隊の秘密保全の態勢は、諸外国の軍と同様に完璧であることを求められている。私たちは航空事故ゼロを目指すと同じように秘密保全についても完璧を目指して努力すべきなのだ。


8 戦場は2つある

 湾岸戦争が終わった1991年にボブ・ウッドワードの書いた「司令官たち(文藝春秋)」という本が出た。当時自衛隊でもかなり多くの人がこの本を読んでいたし、いま私のこの小論文を読んでいる皆さんの中でも読んだ人がいるのではないかと思う。1989年のブッシュ政権誕生後1991年の湾岸戦争開始までの米国における軍事上の意思決定について書かれたものである。米軍のパナマ侵攻及び湾岸戦争を題材に大統領、国防長官、三軍長官、統合参謀本部議長、現地司令官などの心の内面の動きを見事に描き出している。その177ページにパウエル統合参謀本部議長の次の言葉が出てくる。「なにもかもが正しい方向に進み、すべてのことが司令官の手中におさめられれば、そこでテレビに目を向けるべきだ。マスコミの報道を正しい方向に向けさせなければ、戦場では勝っても、戦争には負けたことになってしまう」。また232ページには、パウエル統合参謀本部議長が司令官たちに宛てた手紙の内容として「ほかのことはすべて上手くいったとしても、マスコミへの対応が適切に行われない限り、その作戦は完全に成功したとは言えない」と。またこの著者ボブ・ウッドワードは2003年2月にはブッシュの戦争(日本経済新聞社)という本を出している。こちらは2001年9月11日の同時多発テロ以降米軍のアフガニスタン攻撃に至るまでの、米国政府内の意思決定やブッシュ大統領以下最高権力の中枢にいる人々の心の動き、発言、行動を追ったものである。この369ページにも「われわれは広報戦争に負けつつある」というブッシュ大統領の言葉が紹介されている。

 私たちは米軍のマスコミに対する対応が大変に上手いと感ずることが多い。それはこのような考え方がベースにあってのことなのだと思う。米軍では軍の戦場は2つあると認識されているのだ。第1の戦場は我々自衛隊も考えている伝統的な戦場である。戦闘力をぶつけ合う本物の戦場である。しかし戦場はこれだけではない。世論やマスコミと戦う第2の戦場があるのだ。民主主義国家においては世論の支持がなければ戦争を継続することは出来ない。マスコミが高度に発達した現代においては、アメリカのCNNに見られるように、戦地の映像がほぼリアルタイムで茶の間に届く。多くの戦死者や戦傷者の映像を見て、戦争の悲惨さばかりが強調されるような報道に接すれば国民の厭戦気分はいやが上にも高まることになる。だから戦争の目的や必要性を国民が理解し、自国の軍は正義のために或いは平和のために、止むを得ず血を流しているというマスコミ報道が必要なのだ。国家として軍としてマスコミの報道をそのように導くことが出来なければ、戦争の継続は困難となるばかりか、パウエル現国務長官の言うように、戦闘には勝っても国家や軍が悪玉に仕立て上げられてしまうことがあるのだ。つまり戦闘に勝って戦争に負けてしまうことになる。

 さて、この第2の戦場における戦いは、我が国においては戦時のみならず平時から常続的に実施されていると考えた方がよい。特に我が国の場合、他の先進国と違い国家防衛についての国民的合意が必ずしも十分とは言えないため、平時からマスコミ関係者や国民に対し、国防の必要性について理解を深めさせる努力が必要である。これまで自衛隊の各級指揮官は第1の戦場における勝利を目指し部隊の練成に精を出してきた。それはもちろん我々自衛官の最重要任務であるが、今後は第2の戦場における勝利も併せて追求しなければならないと思う。そのため各級指揮官は平時から第2の戦場における戦いについて明確に意識しておくことが必要である。我が国においては反日グループの熱心な活動のせいで、自衛隊があるから戦争になると信じ、自衛隊の動きを出来るだけ封じたいと思う人たちが多い。これらの人たちは、あれやこれやで自衛隊を攻撃し、自衛隊の精神的弱体化を目論んでいる。一部マスコミにはこれを支持する人たちもいる。自衛隊はいま第1の戦場で戦うための訓練をしながら、第2の戦場では正に戦闘実施中なのだ。冷戦が終わってなお我が国には国内でイデオロギーの対決、すなわち冷戦状態が残存している。私たちはこれまでこれを戦いと認識していなかった。だから攻撃されてもそれを止むを得ないものと感じ、防御手段も講ずることをしないし、まして積極的な攻勢に打って出ることなど考えもしなかった。今ならインターネットを使って簡単に反論することも可能である。国民の国防意識の高揚という第2の戦場における戦いは、自衛隊はこれまで総理大臣や政治家の戦いだと思ってきた。しかしこれからは、各級指揮官や基地司令等がこれを第2の戦場における戦いと位置付けて勝利を追求することが必要であると思う。

 国民の世論を形成する上でマスコミの果たす役割は絶大である。だから我々はマスコミと正対せざるを得ない。これまで自衛隊ではマスコミには出来るだけ関わりたくないという風潮があったが、今後はもっと積極的にマスコミに関与するぐらいの気構えを持つべきである。広報担当者などは、自衛隊担当の記者とは、繰り返し、繰り返し意見交換を行い、安全保障や自衛隊に関して理解を深めてもらうことが必要である。幸い自衛隊においても近年広報の重要性が叫ばれるようになり、各級指揮官等も第2の戦場があるという意識に目覚めつつある。今後この動きをより進展させるためにアグレッシブな広報を専門とする組織を自衛隊の中に造ることも一案であると思う。従来のマスコミ対応にとどまるのではなく、ホームページの更新、テレビ、ラジオを通じた発信、定期刊行物の発刊、新聞、雑誌への投稿などを常続的に実施するのだ。本を書く人を育てることも必要であろう。若い人たちを自衛隊に呼んで教育することも必要であろう。また隊員に対しては部外で個人や団体が実施する親日的な活動には経費も含めて個人的に支援するという意識を持たせるべきであろうと思う。例えばここ数年新しい歴史教科書が話題になっているが、今後このような本などが出た場合、これをみんなで買いまくるぐらいの意識があっても良いのではないか。更に若い幹部や隊員の場合には新聞や雑誌でもそれがどういう思想傾向を持ったものであるのかさえ理解していない場合もある。無知故に反日活動に協力するようなことがあってはいけない。親日的活動が一定の成果を収めないと、やがて反日活動に圧倒されることになる。それは正に組織的に実施されている。我が国の現状を見れば自衛隊の指揮官、特に上級の指揮官は、いま第2の戦場に目を向けることが大事であると思う。


9 脱「茶坊主」宣言

 自衛隊においては賞詞を与えるときなど部下を誉める際に「上司の意図を体し‥」という言葉が使われる。それでは上司の意図を体するとはどのように理解すればよいのか。それはそれぞれの上司と部下が置かれている状況によって少し異なってくる。下級指揮官とその部下の場合は、文字通り上司が考えていることを具現化することで十分かもしれない。しかし上級の指揮官と部下の関係においてはそれだけでは不十分である。

 部隊等で業務を実施していると、幕僚作業を経ないで指揮官から「このようにしたい」と意図が示されることがある。しかし直ちにその具現化に走るのは禁物である。上級の指揮官になると状況判断のために考慮すべき事項が多くなり1つや2つは大事な考慮事項が抜け落ちる可能性もある。従ってこのような場合、上級指揮官を補佐する者の心構えとして、果たして上司の意図は任務遂行上正しいのか疑ってみる必要がある。何か重要な考慮要素が欠落しているようなら上司に対して意見具申を行い意図の再確認を実施する必要がある。そして正しいことが確認できてから、その意図の具現化に努力するのである。その確認作業をしないで上司の意図のみを後生大事にすることは、いわゆる茶坊主のすることである。部下が茶坊主ばかりになると指揮官が一歩間違えば部隊は間違った方向に大きく舵を切ることになる。だから茶坊主的に指揮官を補佐する場合、部下としてどれほど誠心誠意でも、それは指揮官にとってあだ仇になることがある。茶坊主は側に置くと心地良いが、指揮官にとっては毒にもなる。

 20代の頃は5年とか7年とか年齢差があると若い部下が先輩の上司よりも広い考察をしていることなどないと言っていい。しかし10年以上もの部隊経験を積んだ3佐や2佐ともなると上司の考えが及ばない部分についても考えが及ぶようになる。上級の指揮官を補佐する場合、上司の考えを具現化する前に、上司の考えが及んでいない部分を補うことが必要である。それにより大きな部隊が正しい方向に舵を切ることが出来るのだ。だから佐官以上の部下ともなれば、上司に対し平生どれだけ意見を述べているかを自ら確認しておく必要がある。勤務半年以上も経過したのに上司の言ったことをひたすら真面目に実施するだけで、何ら採用されるような意見を言ったことがないとしたら、それは真剣に職務に精励しているとは言い難い。もっと勉強しなければならない。3佐や2佐にもなった者が茶坊主であってはいけない。

 さて茶坊主は上司の満足がいつでも最優先であるから、とにかく上司の意図が示されればその実現に突っ走ることになる。しかし自衛隊における部隊の目的は上司の満足ではなく、作戦の目的、目標を達成することなのだ。これに関し部下は上司に対し責任を負うべきであるが茶坊主にはその覚悟がない。茶坊主は、結果が良くない責任は上司にも自分にもなく、状況が悪かった、不運だったということにしたいのである。上級指揮官を補佐する者が茶坊主になってはいけない。軍事作戦においては結果がすべてと言って過言ではない。目標とする結果を招来するために上司と部下は良く意見の交換をして意思疎通をしておくことが大切である。もっと尤も部下が上司に対し意見を言わないのは部下の勉強不足ばかりが原因ではない。上司の側に問題があることもある。上司は部下が意見を言いやすいような雰囲気を造ることが必要である。部下が真剣になっていないときや明確に命令違反をした場合は別にして、部下が一生懸命作った案や部下のやり方に対し、怒ったり怒鳴ったりすることが最もいけないことだ。これを頻繁にやると部下はみんな茶坊主になってしまう。部下がみんな茶坊主になるということは、もはや民主主義国家の軍における上司と部下の関係ではない。独裁国家北朝鮮と変わらないことになる。そうならないために上司と部下は穏やかに話し合わなければならない。それによってより効果的、より効率的な任務遂行が出来るのだ。

 話はやや飛ぶが我が国における政治と軍事の関係では、我が国の政治は戦後、よく自衛隊を怒ったり怒鳴ったりしてきたのではないか。戦前の我が国はといえば今とは全く逆で、5.15事件や2.26事件に見られるように軍が政治家にテロを行っても軍の思いを実現しようとするような行き過ぎがあった。政治は無理矢理軍の意向に添わされたと言って良い。その反動で戦後は制服自衛官にはモノを言わせないという風潮が広がってしまった。だから自衛官は国家に対し茶坊主になるしかなかった。しかし、これらはいずれも民主主義国家における政軍関係のあるべき姿ではない。

 自衛隊が行動しない時代には自衛隊は国家の茶坊主でも良かったと思う。しかし自衛隊の海外派遣が頻繁に行われるような情勢になると、自衛隊が茶坊主であっては我が国の国益を損なうことになる。自衛隊は最終的には政治の決定に従わなければならない。しかしながら国家の方針決定に当たっては、自衛隊は軍事専門的見地から意見を述べなければならない。だから2003年9月の自衛隊高級幹部会同において石破防衛庁長官が、自衛隊は茶坊主になってはいけないと戒められたのだと思う。石破長官は訓示の中で次のように述べておられる。少し長くなるが長官訓示を読んでおられない方のために引用させて頂くことにする。「‥‥。私はこの国において、本来の意味における民主主義的な文民統制を実現したいと考えております。それは主権者たる国民に説明責任を果たし、政治が正確な知識に基づく判断を下すということであります。その過程において、いわゆる軍事の専門家である自衛官のみなさんと法律や予算や技術などの専門家である事務官、技官などのみなさんが車の両輪となり、最高指揮官である内閣総理大臣を支えることがもっとも肝要であります。法律や、予算や、装備・運用に対して、それぞれの専門家であるみなさんが意見を申し述べることは、みなさんの権利であると同時に義務であると考えます。‥‥」。

 昭和53年に栗栖弘臣統合幕僚会議議長が、我が国の有事に関わる法制上の問題点を指摘したいわゆる超法規的行動発言のときには、栗栖統幕議長は国民に対し無用の不安をあおったとかの理由で更迭された。その後自衛官はモノを言わずに言われたことだけやればよいのだというような時期が続いたような気がする。しかしあれから四半世紀を経て今明らかに時代は変わった。石破長官は「制服の自衛官が意見を述べることは権利であるだけではなく義務である」と言っておられるのだ。義務であるからには問題を認識しながら意見を言わなかった場合には義務の不履行になる。栗栖発言は、当時は言ったことが問題になったが、これからは言わないことが問題になるのだ。

 時代が変わっているということを自衛官も認識する必要がある。自衛官も我が国の政治に対し軍事専門的見地から意見を言うべきなのだ。これは自衛隊の将官等高級幹部に課せられた義務であると考えなければならない。自衛官にとってはより厳しい時代になってきたと思う。高級幹部を目指す者は、若いうちからよく勉強し、それなりのことが言えるだけの見識を身につける必要がある。我々の仕事は部隊運用だなどという人がいるが、それでは責任の半分を回避しているようなものである。これまで自衛隊では政治的活動に関与せずということが強く指導されてきた経緯があり、政治家と接触することさえ臆病になっていたようなところがある。しかし政治家を知らずして政治に対し意見を述べることは出来ない。

 かつて私は防衛庁長官政務官を辞めた後の岩屋毅議員のパーティーに出席したことがあった。グランドヒル市ヶ谷で実施されたそのパーティーには、当時の中谷防衛庁長官、石破現防衛庁長官初め歴代の防衛庁長官経験者、現在の安倍自民党幹事長、石原国土交通大臣ら多数の有力政治家が出席していた。そして内局からは事務次官以下ほとんどの局長、参事官とともに一部の課長が出席していた。一方、各幕僚監部はといえばそれぞれ総務課長が出席しているのみだった。また防衛政務次官を辞めた後の自由党の西村真悟議員の出版記念パーティーが九段会館で行われたことがあった。各幕僚監部の出席者はまた同じく総務課長のみだった。政治家及び内局の出席者は岩屋議員の時とほぼ同じ顔ぶれだった。当時自由党はすでに野党になっていたが、なんと野党の西村議員のパーティーにも拘わらず与党の防衛関係議員のほとんどが出席しているのだ。そして内局も政治家の出席状況に合わせたかのように事務次官以下各局長、参事官などが出席していた。内局と各幕の対応の差が如実に現れている。しかしこれでは政治家から見て制服の顔が見えないのではないか。また政治に対し意見を述べるチャンスをみすみす失っているのではないかと思うのである。石破防衛庁長官の訓示を生きたものにするためにも、自衛官も今後は政治家と積極的に接触するよう努めるべきではないのだろうか。国家のため国民のため、政治に対し軍事専門家としての意見を述べるためにはそれが第1歩である。因みに私はこのようなパーティーには時間のある限りお邪魔虫大作戦を敢行することにしている。確かに面倒ではある。しかしそれは自衛隊の高級幹部に課せられた任務ではないかと思う。


10 国家観、歴史観の確立

 先日新しい歴史教科書をつくる会の藤岡信勝先生(東大教授)の話を聞く機会があった。つくる会ではその主張を英語に翻訳して米国で出版しようとしているが、米国の出版社でこれを請け負ってくれる会社がないそうである。戦前の日本の行動を弁護し、米国にも大きな非があったというつくる会の主張を、たとい出版社の利益のためであっても受け入れることが出来ないということなのだそうだ。そういえばマスコミに関しても、少なくとも欧米のマスコミ人は、それぞれの国家に対する愛国心を持っており、国益を損なうと考えるものに関してはそれなりの考えた対応をすると聞いたことがある。翻って我が国の状況を見るに、一部を除きそのようなマスコミ人は存在しない。我が国をおとし貶めてもとにかく日本の暗部をあば暴こうとする。小学校に入ったときから日本国を個人に敵対するものと教えられてきた結果なのだろう。彼らにとって日本国は個人の幸福を邪魔する忌み嫌うべき対象なのだ。そして日本以外の国は北朝鮮でさえも素晴らしい国なのだ。

 自衛隊に入隊してくる人たちも、このような教育を受け同じ世相の中で育ってきた青少年たちである。しかし彼らは入隊後自衛隊の中で教育を受け、また自らいろいろと勉強する内に国家に対する愛情が芽ばえる。しかしそれでもなお多くの幹部自衛官でさえも、日本が中国や韓国にひどいことをした、南京大虐殺があったと思い込まされている。しかし歴史を紐解いてみれば、中国や韓国に対しては経済的に見れば日本は持ち出しだったのだ。回収が投資を下回るような植民地政策を実施した国は日本以外にはない。また南京大虐殺は実際に見た人は一人たりとも存在しないのだ。すべては東京裁判における伝聞証言である。更に東京裁判でさえも正当な裁判であると思っている人も多い。だから戦前の我が国の行動について中国、韓国や東南アジア諸国に謝り続けることはやむを得ないと思っているのだ。しかし歴史の真実はそうではない。東京裁判が誤りであったことは、その執行者であるマッカーサー将軍でさえも米国の議会で証言しこれを認めている。因みにいわゆるA級戦犯と呼ばれる人々が起訴されたのは昭和21年4月29日、昭和天皇の誕生日である。東条総理大臣以下7名の死刑執行が執り行われたのが昭和23年12月23日、現在の天皇陛下の誕生日である。こんなことは歴史の偶然ではないと思う。4月29日といえば当時の天長節、国を挙げて天皇陛下の誕生日を祝う日である。いわゆるA級戦犯とされた人々の起訴が行われたのではお祝いが出来ないではないか。死刑執行が行われたのでは皇太子殿下の誕生日のお祝いが出来ないではないか。

 さて戦後しばらくの間は反日運動は起こらなかった。いや継続的に実施はされていたが日本国内でそれほど盛り上がることはなかった。日本にも、中国、韓国にもそして東南アジア諸国にも真実を体験した人たちが多く存命していたからである。日本の占領地統治が欧米諸国のそれと比較してどれほど慈愛に満ちたものであったか多くの人が知っていた。1982年の例の教科書問題の頃から反日運動が盛況になってきた。真実を体験した人たちが社会の大舞台から引退されるようになったからだと思う。変わって戦後教育を受けた世代が政治や行政や会社の中枢を占めるようになった。この世代は戦後教育を真実の歴史だと思っている。アサヒビールの中條高徳氏が書いた「おじいちゃん戦争のこと教えて(致知出版社)」という本がある。1998年の12月に発売された。これを読んだ国家公務員上級職の超エリートだった人がいる。その人は終戦時、尋常小学校の生徒だったというが、「日本の国がそんなに悪い国ではなかったことがわかって目から鱗だった」と言っていた。すなわち公務員である間は、彼は日本の国が中国や韓国の言うような極悪非道の国だったと思っていたわけである。また先日統幕学校学生に対し、外務省から中国情勢を講義に来たある講師が、学生から南京大虐殺関連の質問を受けたが、ほとんど知識がないのにはいささか驚いてしまった。これでは中国からの抗議に反論できるはずもない。我が国をリードする立場にある人たちにして現状はこの通りなのだ。これは恐らくこの人たちだけに限られる話ではないのだろうと思う。国家としてこの現実をどのように考えればよいのか。

 国家防衛の基盤となるものは愛国心である。国民は国家や国民の歴史、伝統に対する誇りを持たなければならない。まして国を守る自衛官はその先達となる覚悟が必要である。これを民族主義の台頭などと批判する人たちがいるが、我が国を民族主義と言うなら、世界中の全ての国が今までずっと民族主義だったと言わなければならない。少なくとも我が国は、学校で教える歴史教育の内容についてグローバルスタンダードに比較し、民族主義とは正反対の方向に大幅に振れている。偏狭な民族主義は排されなければならない。しかし大昔から和の政治を旨とする我が国に、そんなものが台頭する可能性など心配する必要がない。聖徳太子の時代から仏教の伝来にしろ、大陸文化の受け入れにしろ、我が国は外来のものを国内のものとうまく融合させてきている。民族主義の台頭とか言うのは歴史に無知であるか或いは他に目的があって言っているのだ。

 1980年代のアメリカで、そしてイギリスで、レーガン大統領やサッチャー首相が米英それぞれの国を再生させるため最初に着手したのも国家に対する国民の誇りを取り戻すことだった。統幕学校では今年の一般課程から「国家観・歴史観」という項目を設け、5単位ほど我が国の歴史と伝統に対する理解を深めさせるための講義を計画した。主として部外から講師をお迎えして実施してもらっている。これがきっかけとなり今までこれに関する勉強をしていなかった学生も、真実の歴史に興味を持ってくれれば幸いである。これから信頼醸成のため、関係諸国との間において軍人の相互訪問等がますます盛んになっていく。その際に意見の対立による緊張が嫌でいつでも相手国の言い分を認めるようなことになっては我が国の国益を損なうことになる。その場で一時的な対立状態になろうとも国家を背負って頑張らなければならない。言わなければどんな状況になるのか。この50年の歴史が証明している。なおその場に臨むと反論するのは勇気がいる。昨年のマレーシア訪問の際私はそれを体験した(航空自衛隊連合幹部会機関誌『翼』平成15年9月号参照)。しかし反論しようにも国家や歴史に対する基本的な素養が無ければ出来ないのである。幹部自衛官は明治維新以降の我が国の歴史について勉強し、我が国の歴史と伝統について揺るぎない自信を持ってもらいたい。各級指揮官のその自信が自衛隊を元気にする源である。無知故に、我が国の歴史に対する贖罪意識を持っているようでは部隊を元気にすることは出来ない。

 我が国の戦後教育においては国家というものがすっぽりと抜け落ちてしまっている。他の先進国の国民と日本国民とでは、国家に対する感じ方がかなり違っているような気がする。それは国民に対する国家や歴史に関する教育の違いによるものと思う。幹部自衛官は我が国の歴史や伝統について理解し国民を啓蒙できる能力を育成しておく必要があると思っている。これから部隊指揮官等に配置される皆さんは、この国を愛する正しい国家観、歴史観を確立して、部下隊員を指導することはもちろんのこと、部外における講演などでも国民を啓蒙する気構えを持って頑張ってほしいと思う。


 おわりに

 1991年の湾岸戦争の時、私は防衛研究所の一般課程の学生であった。この課程における森繁弘元統幕議長の講義で私はPKOとかPMOとかの言葉を初めて知った。当時はこれらの言葉が自衛隊の中でも出始めたばかりの頃であり、まさかこの年にペルシャ湾に掃海艇が派遣され、翌年に自衛隊がPKOに派遣されるとは思っていなかった。1992年9月自衛隊創設以来初めて陸上自衛隊施設部隊が他国の領土であるカンボジアに派遣されることとなった。その後ルワンダ、モザンビークへの部隊派遣を経て、現在でもゴラン高原と東チモールのPKOに自衛隊が派遣されている。まして自衛隊が今のようにインド洋やイラクまで派兵されることなど思いもよらなかった。

 当時は防衛庁の内局や各幕の仕事は防衛力整備がほとんどであり、部隊運用が話題になることもなかった。現在との比較でいえば自衛隊が働く時代ではなかったのだ。従って内局の関心も自衛隊をいかに管理しておくかが関心事であったと思う。おとなしく礼儀正しい自衛隊がそれまでの我が国の求める自衛隊だったのだと思う。自衛官は自衛官である前に立派な社会人たれなどという言葉が象徴的にそれを言い表している。東西冷戦構造が壊れたばかりの時期であったが、それまでは自衛隊も米国を中心とする西側の抑止戦略の一端を担っていた。抑止戦略の中では軍としての形が立派なものであれば中身はあまり重要ではない。見かけが重要である。最先端の戦闘機やミサイルシステムなどを保有していればそれが大きな抑止力になる。いわゆる張り子の虎でもよかったのである。

 しかし自衛隊が働く時代になってくるとそれだけでは困るのである。自衛隊は形だけではなく一旦国の命令が下れば的確に行動し勝利を収めることが必要となる。我々自衛官は今、精強な部隊を造ることに、より一層努力しなければならない。仏造って魂入れずになってはいけないのである。ここ10年間の自衛隊の海外派遣を巡る動きを見ると、あっという間に進んだというのが実感である。次の10年の変化はもっと早いかもしれない。その速い動きに追随するためには自衛隊が元気であることが大切である。元気がなければ積極進取の気風も隊員の任務にかける情熱も生まれない。これまではおとなしい礼儀正しい自衛隊であれば十分であったが、これからは腕白でもいい、逞しいといわれる自衛隊に脱皮する必要がある。

 昨年は我が国においても、ようやく有事関連法案が成立した。その内容が不十分であるとかいろんな批判はあるが、いままでゼロであったところにいわゆる有事法制の形が出来たのだから、これまで永年にわたりその成立に努力された諸先輩始め関係者の皆さんには頭が下がる思いがする。また3自衛隊の統合運用についても平成17年度末を目途に態勢の整備が鋭意進められている。米国やNATO諸国に遅れること約15年の我が国の統合運用のスタートである。いよいよ自衛隊が働く時代がやってくる。その時自衛隊は伸び伸びしていなければならない。精神的に萎縮していては戦いに勝つことは出来ない。各級指揮官は自分の部隊を伸び伸びと元気にしておくことが必要である。

 以上述べてきた10の提言がそのための何らかの参考になれば幸いである。指揮官は部下から見て「さすが、強い、頼もしい」と言われる存在でなければならない。部隊は正に指揮官によって決まる。それは貴君の双肩に懸かっている。

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田母神 俊雄 平成16年7月
航空自衛隊を元気にする10の提言
〜パートV〜
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目    次
  はじめに
1 攻撃は最大の防御なり
2 指揮官は求道者にあらず
3 危険の確率を考える
4 装備品等情報の収集
5 月刊誌へ論文を投稿する
6 機種は複数にする
7 異民族支配を歓迎せよ
8 部隊長権限の増大
9 指揮官はわがままを言え
10 留学生を増やす
  おわりに ―防衛産業を守る―

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 はじめに 

 民主主義国家においては言論の自由は保障されなければならない。しかし戦後の我が国には本当に言論の自由があったのかというと極めて疑わしい。米国占領下の6年半に、公職追放や出版物の徹底的な検閲等により作られた我が国言論界の方向性は、独立を回復した後も、つい最近まで修正されることはなかった。いや若干改善されては来たが、今なお修正されていないと言った方が正しいかもしれない。戦前の我が国や旧軍を悪し様にいう自由は無限に保証されるが、我が国を弁護する言論の自由は極めて限定的に認められるのみである。南京大虐殺は無かったと言って何人の大臣が辞めたのだろうか。日本は戦前、中国や韓国に対し良いこともしたと言ってその責任を問われた政治家もいる。しかしこれらはいずれも大臣や政治家の言っていることが歴史的真実である。今では多くの研究によってそれは分かっている。それにも拘わらず大臣を辞めなければならなかった。政治家が自分の信念を披瀝してその職を辞すということは言論の自由がないということだ。少しでも戦前の我が国や旧軍のことを弁護するような発言をするとマスコミなどで袋叩きにあう。だから政治家を始め多くの言論人でも我が国を守る発言は極めて少ない。あるいは極めて控え目にしか行わない。その結果、弁護してもらえない我が国や旧軍は次第に悪者にされていく。嘘も百回言い続ければ真実になってしまう。「いつか分かる」は善良な日本人の間でしか通じない。それは武士道のベースがあって初めて成立することなのだ。反日的日本人やカネをもらうためには如何なる手段も排除しないような国に対しては徹底的に反論する以外に道はない。しかし徹底的に反論しようとすると大臣の首が飛んだり、国会が止まったりするのがつい最近までの我が国だったのだ。思うに我が国には反日的言論の自由は無限にあるが親日的言論の自由は無かったということなのだ。

 戦後我が国においては、日本国民を萎縮させるような力がずっと働いてきたような気がする。我が国は戦後の占領政策の影響から未だ抜けきれずにいるのだ。戦後の日本人の考え方の方向性は、いわゆる東京裁判において決定づけられた。日本軍は残虐非道の軍であった、軍人が暴走した、韓国人や中国人にひどいことをした、南京大虐殺を行ったとかいう無実の罪を背負わされた。それでも真実を体験した人たちが我が国の実権を握っている間にはあまり不具合は起きなかった。今では信じられないことであるが、サンフランシスコ講和条約締結直後は、旧社会党の議員でさえ占領軍から押しつけられたとして憲法改正を国会で主張したのだ。国会の議事録もちゃんと残っている。しかし政治家も役人も財界人も戦後世代が我が国の大勢を占めるようになると我が国がおかしくなり始めた。無実の罪が真実として一人歩きをするようになってきたからである。彼らは戦後教育が真実の歴史だと思っている世代である。日本の国が悪い国だと信じ込まされている世代である。だから国家や日の丸や君が代や自衛隊に対して反対運動を実施する。

 戦後これを煽ってきたのが我が国のマスコミである。本来マスコミは、国民のために公正、公平に情報を提供すべきである。しかし産経新聞など一部のマスコミを除き、我が国の多くのマスコミは、どこの国のマスコミかと思われるほどに徹底的に我が国の暗部のみを暴き出す。よその国の暗部も公平に暴いてもらいたいものだと思う。比較の問題で言えば我が国は戦前から他の列強ほどのひどいことはしていない。米、英、仏、蘭などの国がそれぞれの植民地で何をしたのかは勉強すればすぐに分かることだ。よその国がやったから日本がやっていいという理由にはならないが、日本だけが悪く言われる筋合いもないと思う。我が国は戦前から人種差別を排し、日本民族、満民族、朝鮮民族などがともに仲良く暮らせるように民族共存を唱えてきた。これに対し列強はキリスト教の宣教師などを使い民族自立を強調し、満州や朝鮮半島における民族独立を煽った。それが現地における反日運動を高揚することになった。当時の中国大陸や朝鮮半島はいまのイラクのようにテロが日常的に起こり、多くの日本人が殺害され続けていたのだ。治安は不安定でいわゆるゲリラ戦状態である。日本軍が進出したことにより治安は安定こそすれ、決して悪くなることはなかった。テロに会い続けながらも日本は、日本本土に投資する金を削って満州や朝鮮半島に金をかけ続けた。日本の投資があったことにより満州も朝鮮半島も住民の生活は飛躍的に改善されたのだ。我が国は、投資よりは持ち出しに重きを置く列強とは全く違った植民地政策を実施したのだ。

 それでも当時は日本人に対するテロはあっても、白人に対しては中国人や朝鮮人が大々的にテロを起こすことはなかった。そのために米国なども日本の苦労を十分には理解できなかった。米国がゲリラ戦やテロの怖さを理解するのは後年のベトナム戦争によってであると思う。戦前は白人から有色人種が人種差別を受けるのは当然と思われていた時代である。米国が黒人に白人同様の選挙権を認めたのは第2次大戦終了20年後の1965年である。有色人種の日本が、満州や朝鮮半島に対し白人国家と同じようなことをするのが米国など列強には目障りであったのだ。しかしいま米国の国内において戦前から日本が唱え続けた民族共存が実現されている。日本の主張の正しさが歴史的に証明されたのだ。

 もちろんこんなことは相手の国が言い出さなければ、いまさら我が国から言い出すことではない。我が国の歴史については日本人の誇りとして心の中にしまっておけばよい。昔は悪かったとか、未熟であったとかいうことは現在の2国間関係を悪くするだけである。ウチのカミさんは時々この手を使うが夫婦げんかになるだけである。現在の価値観で昔を断罪することは無意味なことだ。日米関係においても、それぞれの相手国に対する昔の悪行を話題にするようなことは努めて避けるべきである。今の米国には出来るだけ国際社会の声に耳を傾けようとする姿勢が見える。米国は国際社会のリーダーとして相応しい国家であり、これに変わりうる国家は当分現れそうもない。いま日本国民の平和で豊かな生活を守っていくためには、我が国には米国と仲良くしていく以外の選択肢はない。韓国の現在の政権にはやや反米的なものを感ずるが、我が国の政治指導者が反米になることは絶対に避けなければならないと思う。親米であってこそ、日米の利害が対立する場合にも、米国に対し意見を述べることが出来る。反米の国には米国を動かすことは出来ないと知るべきである。

 それにも拘わらず我が国の多くのマスコミが、今なお反日、反米の論調を展開する。親日、親米の代表である自衛隊などはマスコミの絶好の攻撃対象となる。しかし最近になって風向きが少し変わってきた。この4月のイラクにおける邦人拉致に関するマスコミの反応も、従来に比べれば大きく変わった。テロリストの要求に屈してはいけないという論調が大部分である。ソ連の崩壊、教科書問題、尖閣諸島への中国人の不法上陸問題、そして北朝鮮拉致問題等を通じて日本国民がどうもおかしいと気づき始めたからであろう。産経新聞や新しい歴史教科書をつくる会などの地道な活動も成果を上げ始めている。今では政治家が戦前の我が国の行動を弁護してもそれによって大臣の首が飛ぶことはないと思う。冷静に意見を戦わせることが出来るようになってきた。やがて総理大臣の8月15日における靖国参拝も可能になるであろうことを期待している。また昨年有事関連3法案が成立したが、今国会においては更にこれらの法案を実効性あるものにする関連7法案を審議中である。5年前に誰が我が国において、いま有事法制が成立すると予測したであろうか。我が国政府が、自衛隊を諸外国の軍と同様に使う日が予想以上に早く訪れるかもしれない。

 自衛隊を取り巻く情勢は急速に変化しつつある。私たちはこの変化に後れを取ってはいけない。自衛隊こそは国家、国民が最後に頼りにする大黒柱なのである。そのために自衛隊はいつでも元気でいなければならない。自衛隊は、どんな困難な状況におかれようと、常に前向きでチャレンジ精神に溢れていることが大切である。そのような思いで昨年7月号に初めて「航空自衛隊を元気にする10の提言」を投稿させて頂いたが、今回で3回目になった。またかと思われる向きもあるかと思うが、今回で最後にしたいと思うので、どうかお付き合い願いたい。例によって本小論に述べる内容は私の私見である。読者の皆さんは、前2回と同様、大いなる批判精神を持って読んで頂きたいと思う。皆さんの隊務運営上何らかの参考になれば幸いである。


1 攻撃は最大の防御なり

 近年自衛隊と周辺諸国の軍との間で、国家間の信頼醸成のために相互訪問等が頻繁に実施されるようになった。その一環として昨年11月下旬に第5回日韓スタッフトークスが防衛庁内で実施された。自衛隊と韓国軍からそれぞれ約10名程度の制服の人たちが参加した。その席上で韓国側から、自衛隊の統合の強化、防衛庁の省昇格問題などの周辺国に与える影響について懸念が示されたという。当然のこととして日本側から反論が行われた。日本側は、もともと日本国内には自衛隊に対する不信感を持った人たちがおり、それがアジア諸国に輸出された面があると主張した。韓国や中国が我が国の歴史認識や自衛隊の戦力強化について注文をつけ、日本側がこれに対する反論ないしは言い訳をするといういつものパターンである。私はこの会議に出席したわけではなく、人づてに話を聞いただけなので詳細については承知していない。しかし今なお日本と韓国、中国などの間には時々このような事態が起きてしまうことがある。我が国はこれに今後どのように立ち向かえばよいのか。

 日本は、これまで周辺諸国から何か注文をつけられると、これに反論することは実施してきたが、それ以上のことは考えなかったような気がする。そんなに言うならこちらも相手の弱点を攻撃してやろうと思っても良さそうだが、我が国はそれをやったことはないのではないか。相手の法外な要求に対しても謝罪したり、お金を出したりしてその場を収めてきた。すべて我が国の譲歩により一件落着してきたのである。国会答弁における政権与党の立場を貫いてきたようなものだ。国会答弁では質問事項以外には答えないことになっているので、質問者側は一方的に政府を攻撃するだけで、自らの質問によって火の粉をかぶ被ることはない。だから安心してどんな質問でも、或いはどんな攻撃でも実施することが出来る。

 特殊な思想に染まった人は別として、日本人というのは本当に善人であると思う。郷に入っては郷に従えという諺があるが、日本人は日本国内においてさえ外国の人には何でも合わせようとする。日本に来たのだから、あなた達は日本人のやり方に合わせなさいとは思わない。アメリカ人に会えば英語で話さなければならないと思うし、中国人に会えば中国語で話さなければいけないと思ってしまう。またロシア人に会えば抱き合って頬を合わせてしまうし、インド人に会えば両手を会わせてお辞儀をする。ごく自然にそうしてしまっており、多くの人は心の中にわだかまりがあるわけでもない。外国に出かけるときは、イスラム圏では子供の頭を手のひらで撫でてはいけないとか、イギリスではレディーファーストであるとか話を聞かされる。そしてそれを守ろうと一生懸命努力する。このように日本人は外国人に接する場合、いつでも相手のことを考え、相手に合わそうとする。日本人のような善人は他にはいないのではないだろうか。アジアでも中国人も韓国人も日本人のような性向は持っておらず、日本人に特有の性向といえるのではないか。日本人にとってはこのような気配りは当然のことなのだが、日本人以外はいつでもどこでも自分流の生活パターンをくずさない。

 日本人のこのような気配りは、日本人同士の中では大変に心地良い。日本人は相手が譲歩すればこちらも譲歩することが多い。しかし、これは国際交渉の場では通用しない。国益がぶつかる外交の場においては、日本流の気配りは相手に利用されるだけである。我が国が気配りをすれば相手国もやがて気配りをするだろうと思うのは幻想である。我が国が気配りをして、ロシアの北方四島に経済支援を実施しているが、経済支援を続けている限り北方四島が帰ってくることはないと思う。経済支援を止めて、北方四島が返還された暁には経済支援をすると言わなければ永遠に帰らない。北朝鮮に対しても拉致被害者をすべて帰すまでは一切の支援をしないと言えば拉致被害者が日本に帰される可能性は高まるように思えるのだが。もっと尤もそれが出来ない事情が何かあるのかもしれない。

 国際関係においては、気配りは、いい人ではなく弱い人と受け取られる。相手はかさ嵩にかかって攻撃してくるだけである。戦後50数年の歴史がそれを証明している。我が国は決して反撃しないということが分かってしまうと、周辺諸国などから安心して攻撃されてしまうのだ。攻撃すれば反撃されると相手に思わせておくことが重要である。気配りや反論だけで攻撃をや 止めさせることは出来ない。専守防衛は相手にとっては痛くも痒くもない。相手は自分に関することで議論しなくていいから、いつも安全圏に身を置きながら議論ができる。

 だから我が国も相手国に対する攻撃ポイントを準備しておいてはどうかと思うのである。相手の出方に応じて、相手の攻撃相当分以上の攻撃を日本も実施するのだ。相手が攻撃するのはそれによって何か利益を得ることができるからだ。相手に一方的な利益を与えないためには日本も相手を攻撃し利益を引き出すことが必要である。それらの利益が相殺され、トータルで利益が得られなければ相手は攻撃を止(や)める。外交とはそんなものだと思う。交渉相手国に対しては、そのための攻撃リストが準備されていなければならない。攻撃こそが相手の攻撃を止(や)めさせることが出来る。

 また攻撃を考えることによって相手の弱点が見えてくる。そしてそれが投影されて自分の弱点もまたよく見えるようになり、より抜けのない防御の態勢を造ることが出来る。我が国は専守防衛を旨とする国防の態勢を維持しているが、防御のみを考えていては効果的な防御態勢は出来ないのではないか。攻撃を考えないといつも攻撃する側に1歩遅れてしまうのだ。準備が後手になる。自衛隊の中にも相手国への攻撃について徹底的に考える人たちが必要であると思う。そしてその人たちのアイデアで我が国に対する攻撃について考えてみるのだ。それが我が国の防衛態勢をより効果的なものにする。このような観点から米軍ではインターネット攻撃の専門部隊があると聞いている。この面でも我が国は後れをとっている。基地対策やマスコミ対策でも似たようなところがある。相手の攻撃に対して専ら守りばかりを考えていては、1歩ずつ後退するだけである。ここでも攻撃を考えれば後退しないで守ることが出来るかもしれない。「攻撃は最大の防御なり」である。


2 指揮官は求道者にあらず

 自衛官の中には真面目、素直、純情というような言葉がぴったり当てはまる人が多い。こう言うと反論したい人もあるかと思うが、30数年の自衛隊経験でいえば本当に誠実な集団であると思う。個人の権利ばかりが主張される世情においても我が国古来の武士道の精神を立派に受け継いでいるといってよい。だからこそ戦後の逆風の中でも徐々にではあるが国民からの信頼を高めてくることが出来たのだと思う。自衛隊は国家の大黒柱である。さて若い人の中には人格が完成されない自分に嫌気がさしている人がいるかもしれない。しかし人間は、ごく一部の特別な人をのぞいて、不完全で当たり前なのだ。貴君がそんなに悩む必要はない。やがて時(とき)が貴君を解放してくれる。

 今から26年前の昭和53年5月に私は沖縄の第5高射群第17高射隊からSOCに入校した。当時市ヶ谷にあった部隊の食堂に昼食のため並んでいると、後ろから私の名前を呼ぶ人がいる。昭和42年防大に入校したとき1学年2班で同じクラスだったO君だった。O君は陸上自衛隊に進んだが防大卒業後7年ぶりの再会だった。彼も仕事の都合でしばらく市ヶ谷駐屯地に来ているということだった。当時の市ヶ谷の食堂では昼食の列はいつも5分ぐらい並ぶのが普通だった。私たちは並びながら昔のことなどいろいろな話をした。その後何度か昼食の列で前後になることがあり、ある時特別昇給の話になった。丁度その年の4月に私は初めての特別昇給を頂いていたがO君はまだだということだった。O君が「お前はいいなあ、俺はまだなんだ」と言っていると、後ろから「おい、O1尉、そんな馬鹿な話は止めろ」と言う人がいる。振り返るとミスター自衛隊、いわゆる軍神という感じの人だった。軍人がお金になどこだわるべきではないというのだ。O君の話によると自分にも後輩にも厳しい陸自の立派な先輩であるということだった。私たちは当然先輩の指導に従いその話は中止した。

 これに先立つ数年前に私は、空自において防大の先輩から、1円でも国からお金を頂いていれば全身全命を投げ打って国のために尽くすのだという指導を受けたことがあった。その先輩もまた自分にも後輩にも非常に厳しい人だった。それは確かに自衛官の心構えとしてあるべき姿である。こういう心構えを持った人が多ければ自衛隊は強くなる。当時まだ20代だった私は、こういった先輩の指導を受け入れ、人間の欲求や欲望を超越し、早く立派な人間にならなければと漠然と思っていた。そして多くの人はやがてそうなれるのだと思っていたような気がする。

 幹部候補生学校を卒業して初めて部隊に配置されたとき私は23歳になったばかりであった。23歳の私から見れば40歳も過ぎた人は完成された人格に見えた。まして1佐や将補などの高級幹部については、多分あの人たちは毎日、俺たちとは違ったことを考えて生きている。あの人たちは恐らく人間の欲求とか欲望とかいうものはすでに超越してしまっていると思っていた。俺も早く人格を完成させなければという思いがあった。そして自分の年齢が30歳に近づく頃それに到達できない自分に焦りを感じていた。当時はその心構えに到達できない自分に嫌気がさしたこともあった。ひょっとすると俺は人間失格なのかもしれない。まじめに悩んでいたことを思い出す。そして私は、今なおその境地に到達できていない。しかし今はもう悩んではいない。

 30歳を過ぎた頃であろうか。所詮人間はいくつになっても未熟なままで死ぬことになるのだ。人間にはいい心もあるし悪い心もある。だからできるだけ悪い心が表面にでないような生活をしようと思えるようになった。かつて先輩から指導を受け、完成された人格というか宗教家や求道者のような人格を目指していた。しかしどれほどの人がこの境地に達することができるかと言えば、一般の人の99%以上は達することができないと言えるだろう。人間とはそんなもんだ。そう思い出したら気が楽になってきた。また人を見る目が変わってきた。それまでは私はどちらかというといわゆる堅物といわれるような人を立派な人だと思っていた。

 かつて先輩から「遊びを大事にしろ」と指導を受けたことがあった。これに対し私は、この先輩は自分のことを弁護しているという受け止め方だった。若い頃の私は遊びたいと思う心は怠ける心と同じであると思っていたような気がする。怠けるとは任務達成に真剣にならないことである。任務達成に最大限の努力をしながら、疲れたときには疲労回復のため遊ぶことも必要なことだ。或いは人間関係の構築のためにも、一緒に遊ぶことは大事なことだ。私は入隊後まもなくゴルフをするようになったが20代の頃はゴルフをすることに少し後ろめたい気持ちがあったことも記憶している。本来はゴルフなどより隊員と銃剣道に励むべきなのかもしれないというような気持ちもあった。しかしSOCを終わった頃からこの考え方は徐々に変わっていったような気がする。心の健康を維持するためには遊ぶこともまた必要であることが理解できるようになった。「遊びを大事にしろ」という言葉の意味を理解できたのだ。それはほとんどの人が宗教家や求道者にはなれないのだから、もし部隊指揮官が部下にそれを要求した場合、ほとんどの人はその指揮官に本音の気持ちを申し述べることが困難になる。つまり厳しすぎてついて行けないということになる。遊ぶことも大事にしないと部下の気持ちを理解できない。もちろん遊び中心で仕事が次等視されてはいけない。大切なのはバランス感覚なのだ。

 また私心を無くせという指導が自衛隊の中ではよく実施される。しかしこれも永遠の課題であり私心がゼロという人もまたこの世の中にほとんど存在しない。もちろん私心があからさまに見えることは、他人の目には嫌なものとして映る。だからできるだけ他人からは見えないようにしなければならない。隠す努力が必要である。しかし人には私心がある。人間の欲求は無視できない。指揮官はそこのところを理解して部隊の統率にあたらなければならない。指揮官は寛容の心が必要である。少し悪い心が見えたからといってその人の全人格が否定されるものではない。悪い心を超える良い心も同時に持ち合わせているのが普通の人間だ。心に遊びが無く徹底的にあるべき姿を追求する人には、厳しすぎて多くの人はついて行けない。この人について行けばいい思いが出来るかもしれない、美味いものが食えるかもしれないという気持ちが無くならないのがまた人間である。上着の下に私心が見え隠れするぐらいが丁度いいのかもしれない。そう言っていつでも私は自分のことを弁護している。


3 危険の確率を考える

 昨年12月、アメリカで狂牛病の牛が見つかり、日本ではアメリカからの牛肉の輸入を一時停止することになった。焼肉店や牛丼の吉野家などは牛肉の在庫が底をつき、牛肉を使わない料理で急場をしの凌ごうとしている。日本政府はアメリカに対し、肉牛の全頭検査を要求しているが、アメリカはそんなことは出来ないし、必要性も認められないと反論している。そしてアメリカの人たちは現在もアメリカの牛肉を食べ続けている。しかし日本は、危険であるとの理由で、アメリカからの牛肉の輸入禁止を継続したままである。

 また今年の初めに、中国及び東南アジアのタイやベトナムで鳥インフルエンザによる死亡者が数名発生したとかいう噂があり、これらの国から鶏肉を大量に輸入している我が国では、鶏肉を使った料理も食べられないと大騒ぎをした。しかし冷静に考えてみると、少し騒ぎ過ぎではないかという気がする。鳥エンフルエンザに感染した鶏肉を食べても、またその鳥が生んだ生卵を食べても人間が感染することはないと細菌学のお医者さんも言っている。鳥エンフルエンザに感染した鶏と濃厚に接触し、大量のウィルスを吸い込まない限りはまず安心だとか。

 もし牛肉や鶏肉を食べ続けた場合、いったいどれほどの被害が出るのだろうか。どれほどの人が命を落とすことになるのだろうか。私は多分亡くなる人は限りなくゼロに近いのではないかと思っている。殆ど人が死ぬことがないことに、どうしてそれほど気を遣うのだろうか。我が国においては交通事故で毎日20〜30名の人が亡くなっているというのに。誰もそのことは大騒ぎしない。

 第2次大戦では人類史上初めて米国の原子爆弾が我が国の広島と長崎に投下され、多くの人たちが亡くなられた。このため我が国には原子力アレルギーが根強く残っている。国民は原子力がほかの何よりも怖いものだと思っている。従って海上自衛隊の潜水艦等のエンジンに原子力を使用することは出来ないし、原子力発電所の原子力の管理、運用に関しても、我が国の法令等は諸外国に比較してがんじがら雁字搦めであると聞いている。5年前に茨城県東海村でJCO社の臨界事故があった。確か作業中の3名の方が亡くなられた事故であったが、事故現場周辺の住民が避難するほどの大騒ぎであった。また現場周辺の野菜など農作物もあらぬ疑いをかけられて大量に処分されたと記憶している。しかし実際に危険にさらされたのは作業のため建物の中にいた人たちだけであり、放射線の強度で見る限り、建物周辺の人たちは全く安全であった。ましてその周辺で育成された野菜などは全く放射能に汚染されていることなどなかったのである。しかし現実には大騒ぎになった。

 原子力は安全であると思う。我が国は、これまで何十年も原子力を使用してきたが、原子力の事故で亡くなった人は先の3名以外にいないのではないか。少なくとも交通事故よりはずっと危険の度合いが低い。しかし日本人は風評に弱い。噂が広まると冷静な判断が出来なくなる。北朝鮮のミサイルが怖いという。しかし私は部外で講演するときなど、あんなものは殆ど恐れる必要はありませんと言っている。北朝鮮が核弾頭を持っているかどうかは明らかではないが、金正日だってもし核を使えば自分の身に何が及ぶかは知っている。日米安全保障条約が機能している限り、米国の核で報復を受ける。彼の身にどんなことが起ころうとも、彼らが滅亡する、死んでしまうというところまで追い込まれない限りは核を使用することは出来ない。核兵器は政治的な恫喝に使われるだけなのだ。もし我が国がミサイル防衛態勢を整備すれば、その恫喝さえも困難になる。中国や北朝鮮が専ら防御的なシステムである我が国のミサイル防衛に反対するのはそのためである。

 核ミサイルでない限りミサイルの脅威もたかが知れている。通常はミサイル1発が運んでくる弾薬量は戦闘機1機に搭載できる弾薬量の10分の1以下である。1発がどの程度の破壊力を持つのか。航空自衛隊が毎年実施する爆弾破裂実験によれば、地面に激突したミサイルは直径10メートル余、深さ2〜3メートルの穴を造るだけである。だからミサイルが建物の外で爆発しても鉄筋コンクリートの建物の中にいれば死ぬことはまず無いと思って良い。1991年の湾岸戦争でイラクがイスラエルのテルアビヴに対し41発のスカッドミサイルを発射したが、死亡したのはわずかに2名のみであった。北朝鮮が保有しているミサイルを全て我が国に向けて発射しても、諸々の条件を考慮すれば、日本人が命を落とす確率は、国内で殺人事件により命を落とす確率よりも低いと思う。我が国では毎年1千200〜1千400名の人が殺人事件の犠牲になっている。1日当たり3〜4人がテロにより殺害されていることになる。しかし多くの日本人は、日本は平和で治安の良い国だと思っている。テロの恐怖におののきながら生きているわけではない。しかし北朝鮮のミサイルについては怖いと思っている。ミサイルが着弾すると東京中が火の海になるようなイメージを持っているからだ。決してそんなことはないのであるが。

 交通事故に目を向けてみれば、我が国では毎年、交通事故で8千名から1万名くらいの人が死亡する。事故発生から24時間以内に死亡する人を交通事故による死亡者というのだそうだ。毎日20名から30名の人が亡くなっている。事故発生からの時間を1か月に伸ばすと交通事故が元で亡くなる人はその2倍にも3倍にもなると聞いている。それでも交通事故が怖くて道路を通らない人もいないし、車の運転を諦める人もいない。これだけの死亡者がいるにも拘わらず国民には不安感はない。しかし北朝鮮のミサイルは怖い。だが冷静に考えてみれば北朝鮮のミサイル攻撃により命を落とす確率は交通事故の100分の1以下だと思う。だから北朝鮮のミサイルなんかに恐れおののくことはないのだ。いかなる国家政策も100%の安全を保障することは出来ない。交通事故以下の危険の確率についてはそれほど心配してもしょうがない。これを私は「タモちゃんの交通事故理論」と呼んでいる。

 自衛隊の業務を処理する場合も危険の確率を適正に認識しないと業務の非効率化を招き、いろいろな問題が発生する。これまで自衛隊機の墜落事故で、何カ月も、時には1年以上も航空機を飛ばすことが出来ないことがあった。部隊の練度や士気が低下し、その回復には長期間を要することになる。パイロットや整備員の心には、国家や国民から疎(うと)んじられているという深い傷跡を残すことになる。どれほど危険であるかは現場をあずかる彼らが一番よく知っている。民間航空だって、米軍だって事故原因がわかるまでフライトをしないなどということはあり得ない。当面の安全対策を終了すればフライトを開始している。自衛隊員には自衛隊の日頃の安全活動は諸外国の軍に比較しても決して負けてはいないという自負がある。事実、飛行時間当たりの航空自衛隊の事故率は諸外国の空軍に比較しても低い数字になっている。事故発生当初の一時的な飛行停止はやむを得ないとしても、フライトの停止が半年にも1年にもなってくると難癖をつけられているような気分になってくる。

 事故の原因が完全に究明されない限り飛行再開は認めないという人たちがいる。これを機会に自衛隊を虐めてやろうとか、何か得をしてやろうとか思う人がいると話は一層複雑となる。基地対策も困難を極めることになる。しかし事故原因の究明には通常数カ月を要することが多く、またそれでも事故原因が明確にならないことも多い。民間航空や米軍その他諸外国の軍では、事故原因の究明は飛行を継続しながら実施される。それは5年も10年も飛び続けている航空機が1機墜落しても続いて墜落する可能性は限りなくゼロに近いという判断に支えられていると思う。自衛隊の場合1機落ちたら、また落ちるかも知れないと考えるが、今日事故があったら、明日は多分事故はないだろうと考えるのが真理に近いというものである。自衛隊は事故等の発生に対しもっと楽観的になって良い。何も準備しないで楽観的になることは無責任というものであるが、自衛隊ほど悲観的に考えて各種の準備をしている組織はないと思う。各級指揮官は自衛隊という組織にもっと自信を持って良い。


4 装備品等情報の収集

 日本経済の低迷が始まって久しいが、戦後の高度成長により日本のGNPは、今では世界の15%ほどを占めるに至っている。これだけの規模になると今後はかつてのような高度成長は考えにくい。我が国が更に高度成長をするようなことは、世界経済や環境への影響が大き過ぎるからである。今後景気が回復しても着実な低成長にとどまるものと思う。自衛隊の各種装備品についても、従来は経済成長のおかげで装備品等の価格の高騰にも拘わらず、逐次所要数を確保することが出来た。しかしこれからは相当の価格低減の努力がなければ装備品等の近代化を進めることが困難になるであろう。

 さて装備品の価格を低減するに当たり、最も大事なものは何だろうか。それは情報である。情報というと我々は航空機等の動態情報に目が行き易い。そして国家として自衛隊として動態情報の収集には大きな努力をしている。一方装備品に関する情報に関してはこれまで我々はそれほど関心を払っていなかったのではないか。自衛隊がすでに取得し運用している装備品等については、空幕装備部や補給本部に於いて関連情報の収集に相当の努力をしている。しかし自衛隊が使っていないものに関しては情報収集努力がやや不十分だったような気がする。航空機等の機種選定の時期が来たときに初めて真剣に情報収集を始めるのが従来のやり方だった。しかし近年では科学技術の進歩が非常に迅速であり10年以上も同じ性能のもの、同じ型式のものを使用することはまれである。空自が新しい装備品等を運用開始したと同時に他に更に良いもの、安価なものが無いのかどうか世界中に目を向ける必要がある。

 テレビ、洗濯機、冷蔵庫などの家庭電化製品は、それらが初めて世に出たときは大変に値の張るものであった。しかしいまでは性能的に何倍にもなったそれらの製品は、昔の何分の一かの値段で売られている。パソコンもいまでは随分値が下がった。その出始めの四半世紀前には、いまでは全く使い物にならないと思われるような大型パソコンが現在のパソコンの何倍もの値段で売られていた。テレビはいまデジタル化されるとともに薄型のものに変換されつつある。従来のテレビに比較すると値段はだいぶ高い。しかしこれもほんの2、3年で値段は下がってくるだろう。そう思って私は従来型の厚手のブラウン管を使っている。

 さて自衛隊の使用する航空機やミサイル、通信電子機器などは、ある特定のものを機種選定しても、すぐにまたより高性能、安価なものが出てくる。一昔前であれば一度機種選定すれば10年ぐらいは次のものを考える必要はなかったが、これからは常時情報収集が必要となる。特にC4I関連の装備品、補用部品等は2、3年で性能は2〜3倍、価格は2分の1、3分の1になるので効果的な予算の執行に情報収集は欠かせない。世界の関連会社等の動きをホームページの検索や会社研修等により把握することが必要である。その意味で空幕装備課あたりに装備品等に関する情報収集機能を強化する必要があるかも知れない。当該部署は国内のメーカーのみならず世界のあらゆる防衛産業についての製造情報、開発情報等について精通しておかなければならない。それらの情報が不足すると、ある特定の装備品等を紹介された場合に、他にもっと良質で安価なものがあるにも拘わらず飛びついてしまうことがある。いま現在自衛隊においては国内のメーカーについてはほぼ掌握しているものの、米国はじめ海外のメーカーに関する情報はきわめて限定的に把握しているのみではないだろうか。今後は、国内のメーカーや商社を通じ、海外のメーカー情報についてもその取得に努めるとともに、海外の会社研修も積極的に実施し、その実態を把握しておく必要がある。毎年誰かはアメリカにも、ヨーロッパにもそしてアジア諸国にも海外企業の研修に出かけなければならない。わずかな外国旅費で大きな効果が期待できると思う。

 会社を使って情報を収集する際に注意すべきことがある。それは現に使用中の装備品等を提供している会社は自分の会社が不利になるような情報は提供したがらないということである。会社の立場に立てば当然であり、これを責めることは出来ない。だから自衛隊としては、自衛隊が現に取引中の企業の情報だけではなく、対抗する企業からも情報を取得することが大切である。その情報によっては装備品等の新たな機種選定等が行える態勢にしておかなければならない。こうすることによって会社間に常時競争関係が維持される。その結果装備品等の適正な価格が維持されることになる。

 世界の各地で実施されるエアショーなどには積極的に研修員を送るべきであると思う。従来はエアショーへの参加は開催国の招待に応ずる付き合いという程度の認識であったが、今後はこの認識を改め、情報収集という明確な目標を持つことが大切である。広く薄くではあるが、あれほど集中的に会社研修が出来る機会はない。また諸外国の空軍参謀長はじめ軍人たちとの意見交換の機会もある。2月の下旬に私はシンガポールのエアショーに参加した。シンガポール国軍司令官から石川統合幕僚会議議長宛に招待状が届いたものであるが、代理として統幕学校長が出席することとされたものである。世界中の航空宇宙産業、軍需産業がそれぞれの製品を展示している。これに参加して、いろいろな情報を得ることが出来たし、ずいぶんと勉強になった。今後は自衛隊の将来を担う多くの若い人たちにも、エアショーに参加する機会を作ってあげられればいいと思っている。エアショーで世界の航空宇宙産業、軍需産業の全体像を把握しながら、特に情報収集を必要とする会社には、改めて研修に出かければよい。ほんのわずかな外国旅費で、何十億円、何百億円というお金を節約できることになるかも知れない。情報の優越は、作戦遂行のみならず装備品の分野にも言えることだと思う。

 蛇足であるが、今回のエアショーの会場に我が国からは航空宇宙工業界の事務所がひっそりと置かれていた。我が国は政府の方針により、現在のところ武器輸出が出来ないので、国内の防衛産業からの装備品等の展示もない。やむを得ないことと思うが、日本国民の一人としては仲間はずれになっているような感じでやや淋しい気がする。中国や韓国でさえも大きなブースを準備し装備品等の展示を実施していた。


5 月刊誌へ論文を投稿する

 中国や韓国は相変わらず靖国神社、教科書、慰安婦、遺棄化学兵器問題など不当な物言いを続けている。そんな場合には、きちんと反論すべきであろうが、これまでわが国はそれを実施して来なかった。短期的な関係悪化を恐れ毅然と反論しなかったことが長期的には国益を損なっている気がする。日本に対し愛国心を持つ普通の国民から見れば、何故日本政府が、外務省がもっと強く反論しないのかと、いらいらすることも多かったと思う。日本全体が外国向けには言論の自由を放棄してきたようなところがある。そのような日本国内において自衛隊は更に言論の自由を放棄してきた。いや、放棄させられてきたというのが正しいのかもしれない。これまで財務省や経産省の局長などが国家政策のあり方等について意見を述べ新聞等で報道されることは多かったが、各幕僚監部の部長等が国の政策について外向けに意見を表明することは殆ど無かったといってよい。自衛隊はその発言がマスコミなどで取り上げられることを避けたいと思っていた。私たちも若い頃はマスコミ等に対し不用意な発言をしないようにと指導を受けることが多かった。自衛隊は、軍人の独走などとマスコミなどで報道されることを極度に恐れていたのだ。そんなことが今の日本で起こり得るわけはない。しかしこのような自衛隊に対する不当な攻撃に対し、将官等の高級幹部でさえも反論できないということが自衛隊の士気を低下させる。反日グループはそれを狙っている。

 昭和53年に栗栖弘臣統合幕僚会議議長が、北方四島にソ連が本格的な基地を建設していることを指摘された。また外国の侵略があった場合、有事法制のない我が国は自衛隊が超法規的に行動せざるを得ないとも発言された。栗栖議長の発言は、自衛官から見てごく当たり前のことであったし、多くの国民もそう思っていたのではないだろうか。しかしマスコミの反応だけは違っていた。栗栖議長は危険な思想の持ち主というような報道が繰り返された。結果的には議長は、国民に対し無用の不安を煽ったとかの理由で、福田総理大臣、金丸防衛庁長官により更迭されることとなった。ソ連の北方4島への本格的基地建設はその後事実であることも明らかになった。当時私はSOCに入校中の1等空尉であったが、仲間うちで、これで更迭されるようなら自衛官は何も言えないというような会話を交わした記憶がある。栗栖議長の更迭は、どれほど自衛隊の士気を低下させたか分からない。制服自衛官にとっては残念無念であった。しかしこれを境に多くの自衛官が不用意な発言はしないという方向に向かったことは事実である。自衛隊の高級幹部でさえも口をつぐむことが多かったと聞いている。国家や国民のためにと思って発言し、その結果も特に悪くはないのに更迭される。そうなると人は自分のことだけ考えようということになってしまう。自衛官が国家や国民を忘れ、自分のことだけを考えるようになったらおしまいである。

 しかし時代は今変わった。自衛隊はインド洋やイラクまで出かけて行動する。石破防衛庁長官の言葉を拝借させて頂ければ、自衛隊が機能する時代になった。自衛隊が現実に行動しない時代にあっては、国家としては自衛隊の士気が低下しても大きな支障はなかった。張り子の虎の自衛隊を整備して、抑止力としてその存在に期待するだけであった。しかしこれからは自衛隊を張り子の虎にしておくことではすまない。行動する自衛隊は士気が高くなければ任務を遂行することは出来ない。石破防衛庁長官は、3月に行われた海上自衛隊幹部候補生学校の卒業式で、次のように訓示された。
「自衛官は政治に関与してはならないが政治に対して関心を持つべきだと私は思う。そして真の意味におけるシビリアンコントロールというのは、法律や予算の専門家である文官の皆さん、軍事の専門家である自衛官の皆さん方が、国民に対して直接責任を負う内閣総理大臣、あるいは防衛庁長官、政治に対してきちんとした意見を言い、車の両輪として支えることが真のシビリアンコントロールだと申し上げて参ります。いろんなことに対して諸官は、専門的な立場で意見を申し述べることは、諸官の権利であり同時に義務でもあります。それは、民主主義国家における自衛官の義務だと思っております。」

 これまで自衛隊では外向けに意見を言うことは慎むべきだというような雰囲気があったので、自衛官にとっては石破長官の発言は大変にありがたいお言葉である。どれほど多くの自衛官が石破長官の言葉に元気付けられているだろうか。自衛隊の士気は大いに高揚したと思う。昨年の高級幹部会同に引き続き、自衛官にも言論の自由があることを、再び防衛庁長官から明言して頂いたのだ。

 また国の安全保障政策に関する国民の理解を得るためにも、自衛官が国民に向かって発言することが必要である。自衛隊は将来情勢を予測して、各種の行動能力を準備し、我が国政府に対し出来るだけ多くの政治的選択肢を提供しなければならない。10年前に誰が、自衛隊がインド洋やイラクまで行くと予想したであろうか。そう考えると10年後には航空自衛隊の戦闘機部隊が、飛行隊丸ごと海外に展開し、空域の哨戒や艦艇のえん護などの任務に就くぐらいのことは予想しておいた方がよい。必要性が具体的に生じてから準備にかかるようでは何年も遅れてしまう。だから自衛官はそのようなことがあり得ることを国民や政治家に対して説明しなければならない。それでもやるなという政治の決定があれば、もちろん自衛隊は政治の決定に服することになる。しかし国家の方針の決定に当たっては、自衛隊は国家、国民のため軍事専門的見地から意見を述べなければならない。それが普通の民主主義国家のあり方である。わが国ではこれまで自衛官がものを言うと戦争になるなどというウソがまことしやかに伝えられていたのだ。シビリアンコントロールとは自衛官にものを言わせないことではない。「私にも言わせて欲しい」の心意気がいま自衛官に求められている。

 ものを言っただけで大騒ぎになり、職を辞さなければならないような時代はいわば暗黒の時代である。民主主義というのはお互いの考え方を述べて意見を戦わすことが原点である。これまで我が国では反日的言論の自由は無限に保障されていたが、親日的な言論の自由は極めて限定されていたような気がする。繰り返しになるが、南京大虐殺は無かったといって一体何人の大臣が辞めたのだろうか。無かったことが真実であることは今では十分すぎるほど分かっている。その意味で我が国にもようやく本当の民主主義の時代がやって来たと言えるのではないか。そう思っていたら、年金問題で野党の審議拒否が始まった。審議拒否などというのも民主主義の原則に反するのではないか。

 それでは具体的にはどうすればよいのか。私はすぐにでもできるのは月刊誌に論文を投稿することだと思っている。部内の雑誌への投稿に止まることなく外に打って出ることが大事である。正論、諸君、VOICE、This Is 読売などに論文を投稿してみることだ。これらの雑誌に載るということは、かなり多くの国民の目に触れるということだ。安全保障や自衛隊に関する国民の理解が得られると同時に、雑誌に自衛官の意見が載るということにより、若い幹部や隊員たちの士気の高揚にも大いに役立つであろうと思う。隊員にとっては不当なことを言われても我慢しなければならないことと、必要な場合には何時でも意見が言えるということとでは精神的ストレスが天と地ほどにも違う。掲載してもらえるかどうかは論文の出来ばえによると思うが、「下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる」である。積極的にチャレンジしてみればよい。統幕学校では16年度に教官も学生も一人1論文を目標に頑張ってもらおうと計画しているところである。学生の課題作業なども、これを公にすることが国家、国民のためになると思われるものについては、可能な限りこれらの雑誌へ投稿させたいと思っている。学生だってその方が張り合いがあるというものである。


6 機種は複数にする

 航空自衛隊においては航空機やミサイルシステムを導入する際、いわゆる機種選定が実施される。このとき全整備数を一括選定するのが従来のやり方だった。全整備数を一括選定するということは、単一の機種にするということである。例えば今後F−15型戦闘機の後継機の選定がおこなわれる場合、F−15型戦闘機200機の全てを単一の機種で置き換えるということである。しかしよく考えてみれば、これも再考の余地があるような気がする。2機種にして100機ずつ、あるいは120機と80機のような組み合わせを考えても良いと思う。

 航空機やミサイルシステムはその全数を取得するためには、予算取得の関係で通常10年以上の期間を必要とする。10年というのは近年の科学技術の迅速な進歩を考えると大変に長い期間である。この間に更に優れた、更に安価な航空機やミサイルシステムが出現しないとは限らない。そのような状況変化に柔軟に対応するためには、全整備数の一括選定を止めて、例えば半数程度を選定し残りの半数程度については時期が来たら再度機種選定を行うという方式に改めてはどうかと思うのである。再選定を行うに際し当初のものがやはり最も空自に適合したものであるならば、継続してそれを取得すればよい。しかし初めから単一の機種にするという前提は無くした方がよい。

 従来の考え方は、単一機種の方が運用、後方支援ともやり易い、経費も安上がりですむというものである。しかし機数が5機や10機ならともかく100機以上も保有する航空機が同じものである必要はないのではないか。運用、後方支援については単一機種の方がやり易いことは事実であろうと思うが、そのために2機種には出来ないということはない。それが決定的な理由になるとは思えない。2機種でも円滑な運用、後方支援が出来る態勢を造り上げればよいのだ。2機種の方がむしろ運用の幅が広がることも考えられる。当初かかる経費については2機種の態勢整備には1機種の場合よりも多少の経費増はあるかもしれない。しかし2機種にすると各機種の提供会社が値下げ競争の関係におかれ、ライフサイクルコストで見るとその経費増を飲み込んでくれる可能性が大である。

 私は全数整備に10年以上もかかるものを一括選定することは避けた方が良いという感じを持っている。自衛隊が技術研究本部にお願いをして国家政策として開発するものは別にして、出来合いの装備品等を取得する場合には、最初の50台はこの機種にする、51台目以降は再度機種選定を行うというような機種選定にすべきでではないかと思っている。また機種選定に参加する会社側から見れば、51台目以降新たな機種選定が行われることになれば、一旦機種選定に勝っても、日々製品の改善、能力向上及び価格の低減に努力せざるを得なくなる。会社間の競争を促進し、防衛装備品の能力向上、低価格化を図るためにも、機種選定は回数が多いほど良いということになる。もっとも機種選定業務は大変に負荷のかかる仕事である。空幕内の合意を得ることも大変であるし、内局との摺り合わせもある。また官邸の意向等政治的な動きも考慮しなければいけない場合もある。こんなことは出来るだけ回数を減らしたいと思うのはまた人情である。それは私も経験上よくわかる。しかし大変なことでも国家のため、自衛隊のためには頑張らなければならない。

 米軍の戦闘機のエンジンなどは、数が多いこともあるかと思うが、機種選定が何回かに分けて実施されている。その結果、同一の機種に対しプラット&ホイットニー社とGE社の両方のエンジンが搭載されている。航空自衛隊でも第1補給処では、パソコンの入札に際し、1社独占の状態にならないよう、入札は全ての所要数を一括入札するのではなく、時間をおいて数回に分けて実施する。価格の低減も図れるし、サービスの向上も期待できる。同じようなことを航空機やミサイルシステムなどにも適用するのだ。

 台湾空軍は米国のF−16と仏国のミラージュ2000を同時に取得する決定をした。米国に対しても仏国に対しても、サービスを良くして下さいよという睨みがきいた態勢に初めからなっている。李登輝総統の政治決断がバックにあったのかも知れないが、台湾空軍に出来ることは航空自衛隊にも出来るはずである。

 自衛隊では一旦機種が決定されれば向こう30年以上にもわたってそれらの航空機やミサイルシステムが使用される。この間ずっと競争相手がいないということになれば、会社側の能力向上や価格低減の意欲も抑制されるというものである。我が国の予算システムの場合、一旦選定されれば買う方の自衛隊よりは売る方の会社側が強い。国が一旦決めたことは、安全保障会議などの手続きを経ないと変更することが出来ないからである。これをうまく使っているのが米国の防衛装備品メーカーである。自衛隊は米国製の装備品を数多く使用している。

 しかし米国のメーカーにとって最大の顧客は自衛隊ではなく米軍である。米軍の方が自衛隊よりは遙かに大きな利益を与えてくれる。彼らは時々、米軍が能力向上型に移行したので、自衛隊に部品等を供給するラインを維持するには値上げせざるを得ないと言う。自衛隊としては泣く泣く会社の要求を飲むことになる。日本の防衛産業ならこんなことはないのにと思いながら。

 これは米軍の自衛隊に対する装備品等の使用許可とも密接に絡んでいる。米軍が新しい型式の装備品に移行しても、通常は我が国に対しては最新型の装備品が使用許可にはならない。米軍の使用許可が下りなければ米国のメーカーは我が国に対し当該社の装備品を売ることは出来ない。自衛隊としては何度も何度も米軍に使用許可を要求し、ようやく使用許可が認められる。しかしその頃には、米軍は更に新しい型式の装備品に移行する。自衛隊はいつも米軍の一世代前の装備品を使用していることになる。米軍が使い残した残り物を使っているような形になることが多い。米軍と米国の会社が裏で手を組んでいるのではないかと勘ぐりたくなることもある。

 また近年では装備品能力の半分以上がソフトウェアによって決まる。ソフトウェアについてはこの傾向は一層顕著である。新しいバージョンのものが次々と出てくる。同じハードウェアを使用しながらソフトウェアは別物ということがよくある。米空軍のF−15型戦闘機と同じ戦闘機を航空自衛隊も使用しているが、ソフトウェアの違いにより、両者は全く別の戦闘機である。イラク戦争では最初から米国とともに戦った英国が1発のミサイルも発射することが出来なかったと聞いている。それは英国に対してさえ米国の最新のソフトウェアがリリーズされず、英国潜水艦等のGPS等を使った射撃回路が発射準備OKにならなかったからだということである。航空自衛隊は米空軍とのインターオペラビリティーを考える際ハードウェアに目が行きがちであるが、これからはソフトウェアこそがインターオペラビリティーの根幹であるということを認識しなければならない。


7 異民族支配を歓迎せよ

 日産自動車株式会社は日本の会社である。私が子供の頃から日産とかトヨタとかホンダとかはよく耳にしていた。この日産自動車がバブル崩壊後の景気低迷の影響を受け、会社再建のため大リストラが必要となった。しかし日本の会社は従来から終身雇用が会社の常識である。また日産自動車に部品等を提供する系列の会社が固定的に決まっており、多少値段が高くても、系列以外の会社からモノを調達することは考えられない。さらには日産自動車の工場などは、それぞれの所在地で多くの従業員を抱え、町の象徴的な存在として、社員はもちろんのこと町に自宅を構える人たちにとっても心のよりどころになっているようなところがある。工場の建物は町のランドマーク的存在であり、おらが町の日産である。会社再建のためとはいえ、おいそれと工場を閉鎖することなど出来はしない。このようなことから日産自動車は、経営状況が逐次悪化しているにも拘わらず抜本的な会社再建策を打ち出すことが出来なかった。

 そこで迎えられたのがゴーン社長である。ゴーン社長は、これらの日本的な価値観からは解き放たれた人である。彼の打ち出した日産自動車の再建策は、日本人の社長ではとても採用できないいわゆる血を見るものであった。「武蔵村山の日産の工場がなくなる? 馬鹿なことをいうな」というのが普通の日本人の感覚である。それは正に武蔵村山市の象徴的存在であったのだ。しかしゴーン社長はこれを無くする道を選択した。彼は従来の日本的タブーを次々と打破し、その他いろいろな再建策を打ち出した。その結果日産自動車はいまでは見事に再生した。会社の経営状態の細部について承知しているわけではないが、あのまま放置すれば倒産する可能性の高かった会社が、いまでは倒産の可能性がなくなった。日本人社長にできなかったことが外国人社長によって達成された。このとき日産自動車の社員たちは幸福であろうか不幸であろうか。

 日産自動車の社員のうち、リストラされて他に職を求めなければならなかった人たちにとっては、幸福なことではなかったかも知れない。しかし大多数の社員にとってはそのまま会社に継続勤務が出来ることになり幸福なことだったのではないか。あのまま放置されれば、やがて全員が職を失うことになってしまう。総じて日産自動車の社員にとって外国人社長を戴いたことが幸福であったのだ。ゴーン社長は日本人にとっては異民族である。異民族に支配されると不幸になるというのが多くの日本人の歴史観である。しかし異民族に支配された方が幸福な場合もあるということを日産自動車の例は教えている。

 外資系の会社に勤める人と日本の会社に勤める人とではどちらが幸福なのだろうか。それは一概にはどちらがいいとは言えないと思う。外資系の会社であれば社長は通常外国人であることが多い。外国人社長を戴く会社に勤めることが不幸であるならば、日本人は誰も外資系の会社に就職しない。社長が外国人であろうと日本人であろうと社員の幸福にとってはあまり関係がない。日産自動車の例を見れば、外国人社長によって強い会社が出来上がったし、いまは社員の人たちも将来への夢を持って仕事に精を出しているのではないかと思う。

 航空自衛隊に目を転ずれば、各編制部隊長はそれぞれの職域の専門家でなければならないかという命題がある。航空団司令は戦闘機パイロット、高射群司令は高射幹部、航空警戒管制団司令は要撃管制幹部であることがもっとも良いのだろうか。私はこれもゴーン社長の例と同じで職域とポストはあまり関係のないことだと思っている。状況に応じて適任者を配置すればよい。航空団司令が異民族である高射幹部だったり、高射群司令が異民族である戦闘機パイロットだったりしても、そのことと部隊の精強性や隊員の士気との間には殆ど相関関係はないといってよい。編制部隊長の仕事は戦闘機の操縦をしたりペトリオットの直接の射撃指揮をしたりすることではない。また要撃管制幹部として直接兵器割当てや要撃機の管制をすることでもない。航空団司令、高射群司令及び航空警戒管制団司令などに共通に必要とされるのは指揮官としての識見、技能である。これらの人たちには指揮官としての仕事があるのだ。

 指揮官の仕事とは、「@部隊の努力の方向と資源配分を適正にすること」と「A部下の最高の行動力を引き出す」ことだ。@のためには職域の知識、技能があったほうがいいに違いない。しかしこれについては幕僚が補佐してくれる。ところがAについては幕僚が補佐することは大変に難しい。私たちは部隊勤務の経験上そのことを知っている。部下が最高の行動力を発揮するためには、指揮官の言動に部下が感動していることが必要である。感動すれば人は動く。統御の本質が感化作用であると言われる所以(ゆえん)である。指揮官はその全人格をもって部下たちに感動を与え続けなければならない。それには職域の知識、技能の有無はほとんど関係がない。万が一指揮官の性格が偏屈だったり感情の起伏が激しかったりすると@の方向付けと資源配分についてさえ幕僚の補佐が得られなくなる。モノが言いにくい指揮官に対しては幕僚たちも次第に意見を言わなくなるからだ。指揮官は次第に裸の王様になっていく。

 自衛官は部隊において10年以上も自己の職務に精励していれば次第に自衛隊の運用についても理解が深まってくる。だから2佐や1佐にもなれば大多数の自衛官は、一部の特別な指揮官ポストは別にして、空自の指揮官ポストのほとんどを十分にこなせる能力があるといってよい。一部の特別な指揮官ポストとは、例えば戦闘機の飛行隊長のように部下隊員と同じ作業に従事する配置や研究開発等特別に深い知見を必要とする配置である。医官のポストなどもこれに該当する。そういうポストは職域の十分な経験なしには配置できない。しかし大多数のポストは職域の色に染めてはいけない。空幕の班長以上のポストなどもほとんどは職域に関係なく配置して良いと思う。むしろ同じ職域の人を継続して配置してはいけないという原則を作っても良いぐらいだと思う。いろんな経験を持つ人が配置された方が仕事にも幅が出るし組織も強くなる。同じ職域の人を継続的に配置するとモノの見方が偏る可能性がある。またいわゆる職域閥ができ易く、忠誠の対象が航空幕僚長ではなく、職域のボスであるというようなことになり易い。航空自衛隊の大同団結の障害になる。だから従来ある特定の職域のポストであると考えられていたところに別の職域の人が配置されても驚くことはない。その方が良いのだ。部下たちの業務や行動の内容を熟知している人が部隊等の最大戦力を発揮できるわけではない。指揮官としての仕事をしてくれる人こそが求められる。異民族支配を歓迎することが組織を強くする。尤(もっと)も異民族といっても自衛官の心構えや基本動作が確立され軍事のことが分かるというレベルの軍事的素養は必要である。全く部隊勤務の経験のない人を編制部隊長等に配置して「さあやってみろ」と言っても、まともなことは出来ないであろう。自衛官としてのキャリアがない人には、異民族過ぎて隊員もついて行けない。しかし10年以上もの部隊勤務の経験がある2佐や1佐になればほとんどの部隊を指揮できると考えてよい。

 また幹部自衛官個人に焦点を当てた場合にも、同一機能の部隊等を繰り返し経験するよりは、各種の部隊等の経験を積んだ方が視野が広がることは間違いないと思う。特に将来航空自衛隊を担うことになる組織後継者要員などは職域的に多様な配置に補職すべきであろうと思う。空幕においてもずっと防衛部とか、ずっと装備部とかいう配置にならないよう配慮すべきである。

 こう述べてくると私が職域の能力を軽視していると思う人がいるかも知れない。しかし決して職域の能力が軽視されてはけない。若い幹部の皆さんに誤解を与えてはいけないので、蛇足になるかも知れないが職域を極めることが大事であるということを確認しておきたい。自衛官は若いうちにはそれぞれの職域の専門家として鍛えられる。職域の違いはあっても、この経験によって軍事のことについて分かるというレベルに達することが出来る。分かるというのは、自分の判断が正しいと自信が持てるということである。全くの部隊勤務の経験なしには、部隊の運用や隊務運営について自信を持って判断が下せない。編制部隊指揮官等になったときに、幕僚等の補佐を受けながらも、自ら判断を下せるのはこれらの部隊勤務の経験があってこそである。すなわち職域の専門的知識、技能を磨くことによって、軍事専門家として成長するのだ。軍事的なものの見方、つまり戦略眼とか戦術眼は職域の知識、技能をベースにしているのだ。自衛隊の行動時において各級指揮官は至短時間に判断、決心を要求されることも多い。だから若いうちはそれぞれの職域の専門家として知識、技能の向上に邁進しなければならない。自衛官は軍事のプロを目指して勉強するのだ。軍事のプロとしての戦略眼、戦術眼がないと部下をして間違った方向に努力を集中させる恐れがある。部下が最高の行動力を発揮しても、指揮官の方向付けと戦力配分が不適切であれば戦いに勝つことは出来ない。携帯電話が普及し始めたとき、これに対抗しポケットベルの機能、性能の向上に努力した会社は全て損失を抱え込むことになったという。


8 部隊長権限の増大

 近年のコンピュータや通信ネットワークの進歩により、官公庁においても中央と地方が情報を瞬時に共有できるようになってきた。中央から見れば、地方をコントロールするための便利なツールを手にしたことになり、全てのことは中央で計画し、地方や末端ではその計画通り実行するのみである。分からないことがあれば何時でも中央に尋ね指示を仰げばよい。つまりコンピュータや通信ネットワークの進歩は中央集権を一層強めることになる。すべてが計画通り実施される平時における業務処理を考えればそれで十分であろう。しかし有事を前提とする自衛隊の業務処理は、いかに平時とはいえ、中央集権的になり過ぎてはいけないと思う。

 航空自衛隊でもC4Iシステムの整備が進捗するにつれ、末端のレーダーサイトの情報を航空総隊司令部や空幕において、リアルタイムで把握することが可能となった。現在のバッヂシステムを整備する際、総隊の指揮所で部隊を直接指揮するセントラライズドコントロールにするか、従来通り方面隊の指揮所を通じて部隊を指揮するディセントラライズドコントロールにするか議論になったことがあった。セントラライズして良いのではないかというのが議論の出発点であった。議論の結果、いま現在は従来通りディセントラライズドコントロールになっている。C4Iシステムが進歩すれば確かに中央から全ての部隊を直接指揮することは可能であろう。しかしそれはC4Iシステムに故障がないことが前提である。自衛隊は常に不測の事態を考慮しておくことが必要である。一旦作戦が開始されれば故障はもちろんのこと、被害により機能が低下する可能性は極めて大である。我々はそのような場合にも部隊行動が整斉と出来るシステムにしておかなければならない。ここが普通の官公庁の業務処理と自衛隊の業務処理の根本的な違いである。

 作戦においては、被害により上級指揮官との通信連絡手段がなくなってしまっても、部下指揮官が円滑に次の行動に移行できるように措置されていることが必要である。被害を考えれば自衛隊の業務処理は出来るだけディセントラライズドにしておかなければならない。そして必要な場合、例外的にセントラライズドにするのだ。ディセントラライズドにしておいて必要時に総隊司令官がセントラライズドで指揮することはC4Iシステムが機能していれば容易にできると思う。しかしその逆は難しい。セントラライズドが基本であれば、方面隊司令部などの幕僚に、直接任務を遂行する心構えも能力も育たないからである。平時における業務のやり易さや効率化のみを考えると、どんどんセントラライズドが進むことになる。しかしそれは作戦における抗堪性を低下させることになる。今後ミサイル防衛を考える場合、ミサイル発射のトリガーを引く権限は徹底的にディセントラライズドにしておかなければならない。総隊司令官は、「現在以降射撃してよい」という指示を与え、トリガーを引く時機の判断は高射隊の射撃指揮幹部に任せることが必要であろう。

 このように考えると、いま航空自衛隊が実施している業務処理も見直したほうがよいものが多くあるような気がする。すべてにおいてディセントラライズドになっていないと、部下指揮官としては常に上司の意向が気になり、迅速軽快な判断及び決心ができなくなる。しかしこれまでは上下の意思疎通や報告、あるいは部隊の管理などに重きを置いたために、業務処理は、どちらかといえばセントラライズドの方向に進められてきたのではないか。部隊長の権限を少しずつ奪ってきたのではないか。例えば隊員の服務事故などに関して懲戒処分に関する達で処分の基準が決められている。しかし現実に編制部隊長が処分するに当たっては上級部隊の承認をもらっている。内局が納得しない、空幕が納得しないなどといっておかみ上のご指導があることが多いので、部隊の幕僚としては上級部隊との調整が済んでから部隊指揮官に報告せざるを得ない。

 私はこれを直すべきだと思っている。懲戒処分に関する達の基準に基づいて部隊長が隊員の処分を行う限りは、上級指揮官に対しては結果を通知するのみでよいと思う。処分の基準はある幅を持ったものであり、その適用については、部隊長は裁判官の役割を果たすことになる。部隊長の判断にはそれぞれの部隊長の個性が出ることは当然である。ある部隊長は厳しく、ある部隊長は緩やかに処分を行うであろう。処分を各部隊長に任せているからには、これを良しとしなければならない。しかし上級指揮官から見れば、同じ程度の服務事故なのに、どうして処分がかくも違うのかということになる。さらに上級の指揮官から「お前はどういう基準で処分しているのか」と言われそうだというわけである。かくして隷下部隊のご指導が始まるということになる。

 処分担当の部隊長としては任されているはずのことなのに承認をもらわないと処分ができない。いっそのこと始めからお上に任せてしまえということになる。そして幕僚に質問をする、「方面との調整は終わったのか」と。幕僚も心得たものである。「空幕まで承認をもらっているそうです」。

 自衛隊の実戦的体質を維持するということを考えるとき、これでよいのだろうか。私はこのような業務処理が、中間司令部が自らの責任で判断し、行動する習慣を失っていく原因を作っていると思うのである。結局は自衛隊を弱体化することに貢献しているのではないだろうか。先に述べた懲戒処分も平時における業務処理のみを考えれば、それで完璧であろう。よく調整が実施されているほうがよいのである。しかし自衛隊のやることは、すべて自衛隊の精強化につながるものでなくてはならない。国の一般の行政機関は平時のことのみを考えるだけで十分である。しかし自衛隊は常に有事を念頭に置かなければならない。お上の指示がなければ動けないという部隊を造ってしまってはいけない。自ら判断し行動するという習慣を末端まで徹底しておくことが自衛隊を強くする。そのために平時からあらゆる業務処理は、ディセントラライズドにしておくことだ。下に任せてよいものはどんどん任せてしまえばよい。「仕事は部下がする、責任は上司が取る」という態勢が大事である。但し、これに「私の」という修飾語を付けてはいけない。それを付けると「仕事は私の部下がする、責任は私の上司が取る」ということになってしまうからだ。

 部隊からの申請を受けて上級部隊や空幕で承認するだけのものなどは、部隊長に任せてしまうことだ。そして任せたことは指導しないことだ。部外者の戦闘機等への体験搭乗なども、もっと部隊長に任せてよいと思う。航空団司令等が空自の広報の観点から、毎月2名を基準として搭乗させてよいというくらいにしてはどうか。団司令は基地対策上も大きな力を握ることができる。一つ一つを見れば特にあれこれ言うほどのことはない。しかし、ちりも積もれば山となるの例えどおり、それらの積み重ねが部隊の実戦的体質に影響を及ぼすことになる。

 編制部隊長等になった人も、可能な限り部下に権限を委任することを考えたほうがよい。自衛隊では従来、部隊の管理がうるさく言われてきたようなところがあり、権限の委任が十分に行われていない。あるいは形式上委任されていても実質上委任されていないことも多い。しかし任せて好きなようにやらせなければ部下は育たないし、航空団司令が飛行隊長の仕事に精を出すというようなことになる。団司令には団司令としての仕事があるはずだ。団司令の仕事は部隊の管理ではなく、会社で言えば経営である。社長が総務部長や営業部長と同じことばかり考えているような会社が発展できるわけがない。自衛隊の現状を見るに、実質的にお伺い体質が進みすぎているという気がする。だから部隊長の権限がもっと大きくなっていいと思うし、各部隊長も可能な限り部下指揮官に任せることを心がけたほうがよい。そして任せたことは指導しないで好きなようにやらせることが大切である。「好きなようにせい。結果が悪いときだけ処分する」と言っておけばよい。部外から何か言われたときには「私の部下が多分、状況に応じて最適の行動をとっていると思います」と答えればよい。


9 指揮官はわがままを言え
 私が初級幹部の頃には名物指揮官がいた。その中でも特に有名なU1佐(当時は2佐)に私は2等空尉の頃にお仕えした。私はU1佐に夕方5時から8時45分まで叱られた記憶がある。最初の1時間はどうして叱られているのかわからないが、とにかく大声でののし罵られる。2階建ての隊舎全体に響き渡るような大声である。私は隊長の机の前に直立不動の姿勢である。1時間ほどして私を叱っている理由の説明があった。どうかと訊ねられたので、私なりに意見を述べたところ、それが生意気だということで、また2時間以上も叱られてしまった。若手幹部は毎日交代で誰かが怒鳴られて、いや叱られているという状況だった。U1佐が隊長を離任するときは正直言ってホットした。その後U1佐は幹部学校の勤務を経て近傍のレーダーサイトの群司令で着任することになった。U1佐は有名だったので、サイトの関係者から「どのように対応したらよいでしょうか」と私のところにも質問が寄せられた。私は「どんな対応をしてもだめでしょう」と答えておいた。そしてそれが正しかったと、後にサイトから電話があった。しかしU1佐にお仕えした経験で私は叱られ強くなった。若いうちに怒鳴られてよかったと思っている。その後、怒ることで有名といわれる人に何人かお仕えしたが、U1佐に比べれば、怒るという点では足元にも及ばない人たちばかりであった。自衛隊35年分をあの時まとめて怒られたような気がしている。

 それにしてもU1佐の指揮官ぶりは、指揮の本質そのままだった。完璧な意志の強制である。隊長のほとんどわがままと言われるような命令にも私たち部下は精一杯がんばった。明朝より1週間早朝4時半出勤で草刈りを実施するとか雨の中の各種作業とか、本日の点検の指摘事項の修正は明朝6時までに完了するとか、何もそんなにしなくてもというような命令もあった。隊員たちも当初は多少不満を述べていたが、次第に命令に対する即応の態勢を整えてくる。しばらくすると隊長のどんな命令にも応じられるようになった。部隊の実戦的体質が向上したのである。私は軍というのは基本的にどんな指揮官の命令でも実行できる体質を保持していることが重要であると思っている。自衛隊においては、指揮官の命令は、たといどんなにわがままと言われる様なものであろうと実行されなければならない。それが失われてしまっては、極限状況下において自衛隊が任務を遂行することが出来ない。U1佐が隊長になってから部隊の環境整備は徹底し基地は大変にきれいになった。隊員たちもちょっと木の葉や小枝が落ちているような状況でも自発的に清掃をするようになった。私もよその基地に出かけると、環境整備がやや不足していると思うことがあった。隊員の挙措容儀や各種行動も非常にきびきびとしたものに変わっていった。端的に言えばそれまでややのんびりとしていた部隊がキリリと締まったということであろうか。

 そう考えるとU1佐の、ほとんどわがままとも言える指揮ぶりが、部隊をより軍としてあるべき方向に変えたことは事実である。しかし仕えている我々としては大変に辛い毎日だった。早く隊長が代わってくれないか、どこでもいいから早く転勤させてくれというような会話を交わすことも多かった。近隣の部隊の人たちからは、「お前のところは新隊員教育隊だとか、航空陸戦隊だ」とか揶揄されることも多かったが、幹部も隊員もいつしかうちの部隊は日本一だというような誇りを持つようになっていったような気がする。よその部隊には出来ないがうちの部隊なら出来ると思い始めていた。

 指揮官は、部隊を鍛えるために、伝統を造るために部隊に対し多少のわがままを言うことが必要である。自衛隊は困難な状況下で任務を遂行することを覚悟しておかなければならない。平時においても、困難なこと、無理と思われることにチャレンジし、それを成し遂げるところに部隊にも隊員にも自信が生まれる。誰かのためにチャレンジする精神こそが戦士の気質ではないかと思う。大昔から軍人は、戦士の気質を持った人を敵味方に関わらず尊敬し合った。自衛隊では職域が細分化され、パイロットであれば戦闘機の操縦、ミサイル射撃、高射幹部は戦術判断、射撃指揮、要撃管制幹部は兵器割り当て、要撃管制など、それぞれの特技の能力、いわゆる戦技能力を向上するため日々の厳しい訓練に明け暮れる。しかし特技に関わらず自衛官が共通に備えるべきは戦士の気質ではないかと思う。戦技はもちろん最重要である。しかし戦士の気質がないと、ことに臨んで持てる力を存分に発揮できないかもしれない。スポーツ選手でも最近はメンタル面のトレーニングが重視される。

 ところが最近の日本では、パワーハラスメントとかいう言葉も登場するようになり上司が部下に怒鳴ったり、無理を言ったりすることは、いけないことだというような風潮になってきている。自衛隊においてもあまり無理を言わない優しい上司が増えている。しかし上司が無理を言わなくなると、部隊や隊員たちの戦士の気質が失われていく可能性も大きくなる。私たちは、自衛隊入隊時、防大、幹部候補生学校や教育隊で教育を受ける。そこで行われる教育は、一つ一つ取り上げれば何故そのようにするのか理由の説明が出来ないようなものもある。いわゆる無理を言われており、一般社会から見れば厳しいといわれるようなものが多い。しかし課程教育によって自衛官としての基本的な資質が養われていることは事実であると思う。入隊後半年もして両親や先生や友人に会うと、「あの子は変わりました、しっかりしていて別人のようです」というようなコメントが学校等に届くことが多い。いわゆる戦士の気質が育成されたのだ。自衛官は生涯、戦士の気質を保持し続ける必要がある。そのために指揮官はわがままを言わなければならない。非常に卑近な例で言えば、食事をもっと美味しくせよ、隊舎の浴場は屋上に造れ、各種点検、監察などで指摘事項をゼロにせよとか、そういうものでよいと思う。とにかく指揮官は自分の部隊に対し、その達成にかなりの努力を要するような要求を出し続けることだ。それが部隊の実戦的体質を造り、部隊を強くする。

 もちろん部隊や隊員の状況を見ながら理性的に実施しなければならない。理性的であることが大事であり、感情を爆発させてはいけない。感情を爆発させることは、部下を萎縮させるし、他にいろいろな障害を引き起こすからである。過ぎたるは尚及ばざるが如しのたとえ通り、戦士の気質の育成にマイナス効果になってしまうことが多い。昔流に部下を怒鳴り回す時代ではなくなっている。自分が部下を怒鳴り回していると思う人は無理を言わない方がよい。貴君は今でも十分無理を言っている。


10 留学生を増やす

 自衛隊の海外における活動がごく当たり前のようになって来た。今後も任務や活動範囲はどんどん広がっていくであろう。十数年前までは1千マイルのシーレーン防衛とか言っていたが、今では1千マイルどころか、遙かインド洋やイラクまで陸海空自衛隊の部隊が展開している。もはや自衛隊は、世界中のどこへでも展開の可能性があると考えておいた方がよい。海外における活動が増加すれば、当然外国の軍と共同で各種任務や行動を実施することが多くなり、その準備等に当たっても、各国の軍の便宜供与を受けたりすることが増えてくる。

 また今のところ我が国政府は、集団的自衛権は行使できないとしているが、有事法制をめぐるこの数年間の我が国政治の動き、また憲法改正の動きなどを考慮すれば、次の10年の間には、それも行使できるようになる可能性は極めて高いと考えられる。そうなると国際的なテロ対処などで、諸外国の軍との共同作戦を行い、自衛隊がリーダーシップをとるような場面も十分に考えられる。さらにはテロ対処に当たっては国際的な情報協力態勢が大切であり、C4Iネットワークなどハードウェアの整備とともに、直接人から人を通じて情報をとる、いわゆるヒューミントの態勢強化が不可欠である。このようなことから自衛隊は、多くの国に知り合いというか友人を持つことが必要になってくる。

 いま自衛隊のインド洋やイラク派遣を通じて日米同盟関係はかつてないほどに緊密な関係になっている。日米の制服間の信頼関係を強化することはもっとも大切なことであるが、今後の国際関係を考えれば、日米関係を基本として、その他の国との間でも制服相互の信頼関係を構築することが必要である。スタッフトークスなどでいろんな国との交流が始まっているが、2〜3日のスタッフトークスではお互いにその人となりを理解しあえるところまでいくことは難しい。最も良い方法は、統幕学校や陸海空の幹部学校に多くの留学生を迎えることではないだろうか。いま各学校に1〜2名が入校しているが、私は学生の3分の1ぐらいは留学生にするぐらいでよいのではないかと思っている。もちろんカリキュラムの変更、宿舎の準備等留学生の受け入れ態勢を強化することは必要であるが、莫大な経費を必要とするものではない。

 学生で1年間一緒に学ぶということは真の友人になるのには極めて良い方法である。私は防衛研究所の38期一般課程の卒業生であるが、米軍、オーストラリア軍、米国務省などの留学生とは今も気のおけない関係が続いている。言葉の問題があり、彼らが講義の内容などをどれほど理解しているかは問題であるが、それにも拘らず日本人と同じような感じで「そんなことはないだろう」などと言える関係なのだ。いわゆる無理を言い合える関係が出来あがった訳であり、そのためには共に学生生活を送ることがもっとも良いのではないかと思う。仕事上で米軍の人たちと友達になるが、学生で共に過ごした人たちと同じほどの関係にはなかなかなれない。防衛研究所に限らず、陸海空の幹部学校などで留学生と一緒に勉強した人たちは、やはり同じような感じを持っているのではないかと思う。ともに学生であれば個人的な関係が出来上がるが、仕事を通じた関係のみでは、公式な関係であり、ややバリアがあるような気がしている。

 自衛隊が留学生を受け入れれば、相互主義に基づいて、自衛隊からも受入国の国防大学等に対し留学生を送ればよい。これを毎年続けることによってそれぞれの国との間に複数の太いパイプが出来上がる。従来の積み上げ式の予算編成では、一気にそんなことは出来ないという意見が出て来そうであるが、国の政策としてこれを進めてはどうかと思っている。幹部学校等における教育が、純粋に教育効果のみを追求するのではなく、関係諸国間の軍人の相互理解のため、そして信頼醸成のためにも十分な役割を果たすことができると思う。文藝春秋5月号に、イラク派遣部隊指揮官である陸上自衛隊の番匠1佐が、現在イラクにおいて各国から派遣されている指揮官のうち数人が、米国留学時のクラスメートであり、大変心強く思っていると書いていた。米軍の学校が提供してきたと同じように、これからは自衛隊の幹部学校等も国際交流推進の場として使われていいと思う。

 昨年イギリスの国防大学の学生約10余名が我が国を訪問した。引率教官の話によると学生総数70名のうち43名が海外からの留学生であるといっていた。これらの学生が7個グループに分かれて世界各国を約1カ月かけて研修する。日本を訪問したグループは、日本、韓国、ベトナム及びタイをそれぞれ1週間ずつ訪問するということであった。わが国の統幕学校などとはスケールが違うということを認識させられたが、今後は自衛隊の幹部学校等における教育も、わが国の国力に相応しい国際スタンダードに添うような形に修正していったらよいと思う。効率化、合理化とか必要性の議論をすると現状維持が精一杯になってしまうが、今後は自衛隊も政策的な判断をもっと強く打ち出していくことが大切ではないだろうか。自衛官が今後国際舞台で行動することは増えてくると思う。いま3自衛隊の統合運用が進められているが、やがて統合運用に伴う学校教育のあり方も、更に具体論に踏み込むことになる。その時に学校教育の国際化についても議論したらいいと思う。経費もさほど必要とせず、決心さえあればすぐにできる留学生受け入れ、そしてわが国からの留学生の派遣を今後早急に拡大していけばよいのではないか。


 おわりに −防衛産業を守る− 
 3回にわたり「航空自衛隊を元気にする10の提言」を執筆してきたが、終始頭の中にありながら最後まで書き残してしまったことがある。それは「防衛産業を守る」ということである。終わりにあたりこれについて触れて筆を置くことにしたい。さて我が国の防衛産業から見て、航空自衛隊は頼りになる存在であるだろうか。指揮官が部下や部隊から頼りにされるのと同じように、航空自衛隊は、自衛隊の戦力発揮を支える防衛産業から頼りにされる存在でなければならない。こう言うと自衛隊が一企業に加担していいのかと言う意見が出てきそうであるが、自衛隊と防衛産業はそんな単純な関係ではないのだ。防衛産業は自衛隊の戦力の一部なのである。利益の薄い中でも国家のために頑張ってくれているのが我が国の防衛産業なのだ。

 旧調達実施本部における調達不祥事により、防衛調達の適正化について検討が行われ、その中で「競争入札の強化」の方向性が打ち出された。これに基づいてその後具体策を推進中であるが、私はやや行き過ぎているという気がしている。それは防衛装備品を製造するいわゆる防衛産業を守るという視点が欠落しているのではないかということである。我が国は諸外国が保有する軍事工廠を保有せず、自衛隊の戦力の維持整備を民間の防衛産業に依存している。また我が国の防衛産業は武器輸出を認められず、自衛隊だけが顧客となるため、少量生産になり、装備品の価格はどうしても割高になる。これらの特性を考えると、自衛隊は「防衛産業を守る」ということを国家政策として強く打ち出すことが必要ではないかと思う。万が一我が国の防衛産業がなくなれば自衛隊の戦力発揮は不可能になる。競争入札の強化一辺倒では我が国の防衛産業の経営は立ち行かない。従来我が国の防衛産業は、たとい利益が少なくとも国家の事業に貢献できることを誇りとして、自衛隊関連の事業に取り組んできた。そして戦後の右肩上がりの経済が続いている間は、自衛隊は防衛産業を守るということをそれほど意識する必要はなかった。しかし景気が低成長時代に入り、更には近年のように株主の権利が重視され、利幅の薄い事業を止め、利幅の多い事業に転換を迫られるようになると、各企業は防衛事業から手を引かなければならない状況に追い込まれる。今では日産自動車のように防衛事業から手を引く企業はあっても新規に防衛事業に参入する企業はない。利益があるところには新規参入は必ず起こる。防衛に関する事業はいまあまり利益が出ないのだ。だから自衛隊はいま勇気を持って「防衛産業を守る」ということを内外に宣言する必要があると思う。たとい価格が割高であっても、あえて国産にするという選択をしなければならないときもある。経費を安く抑えることだけが国益にかなうのではない。今のままでは防衛産業が会社経営上、背に腹は替えられないということになり、やがて防衛事業から手を引くようになってしまう。そうなれば自衛隊の戦力発揮も各種制約を受けることになるのではないかと心配になる。米国でも軍需産業は、一般製造業の2倍の利益率を米軍から保証されると聞いている。

 またいわゆる防衛産業ではないが、自衛隊が多くの外国製装備品を使用していることから、我が国の商社は、その輸入業務などで自衛隊との取引を実施している。今回のインド洋やイラクへの自衛隊派遣に当たっても、海外における契約業務の代行などで我が国の商社が活躍してくれている。これら日の丸商社の支援なしには、自衛隊の任務は完遂出来ない。防衛産業を守ると言った場合、それは国産にするということであり、武器輸出が出来ない我が国においては、それによって防衛に関する商社の売り上げは減少することになる。自衛隊としては一方でまた自衛隊の任務遂行を支えている日の丸商社に対し申し訳ない気がする。いま与党などで武器輸出緩和の動きがあるが、私個人としてはこの動きを歓迎している。我が国が武器輸出が出来るようになれば、防衛産業を守ることと商社の利益は対立しなくなる。また武器輸出が可能になれば、防衛産業が日米共同開発や国際共同開発などの防衛関連事業に心おきなく参加できるようになる。我が国の経済に着目すれば、武器輸出は出来る方が国家の利益になると思う。

 しかしこのような防衛産業や武器輸出に関しても、これまで国民には十分な情報の提供は行われていない。自衛官は出来るだけ発言を控え、問題や摩擦を起こさないという慎重な姿勢をとってきたからである。もちろん我が国の戦後の政治情勢などを考えれば、それはこれまでは正しい選択であったと思う。しかしこれからは慎重な対応では我が国が困ると思う。これまで慎重に対応しようとして各級指揮官が極めて控えめに発言してきた結果、自衛隊の抱える問題点は国民に十分に理解されなかったし、自衛隊が不当な非難を受けて部隊の士気が低下することも多かった。これでは自衛隊が効果的に行動し任務を完遂することは出来ない。今後の自衛隊の任務を考えれば、自衛隊の指揮官、特に上級の指揮官は、部外に対しもっと積極的に発言していくことが必要であると思う。それによって自衛隊に対する国民の理解を深めるとともに、部隊の士気を高揚させることが出来る。

 石破長官が言われるように、いま自衛隊は機能する時代になった。今こそ自衛隊は元気を出さなければならない。その鍵を握っているのは自衛隊の各級指揮官である。指揮官によって部隊は変わる。部隊勤務において私たちは何度もそれを経験している。例えば部外対応などで、指揮官が強い姿勢をとれば部下も強くなれるし、指揮官が慎重であれば部下も慎重にならざるを得ない。隊員はいま強い指揮官の出現を待っている。幹部自衛官は、あの人だったらやってくれるのではないかと言われるような指揮官を目指すべきである。これまで自衛隊は、出来るだけ部外との摩擦を避けようとしてきた嫌いがあり、反日的日本人などの不当と思われるような批判にもじっと堪え忍んできたようなところがある。しかしこれからは各級指揮官が言うべき正論はきちんと言わなければならない。問題や摩擦が起こることを問題にしてはいけない。いま大事なことは摩擦を恐れないことだ。摩擦がなければ進歩はないと知るべきだ。そこで上司は部下に次のようにいってやるのだ。「君は摩擦が起きるほど頑張ってくれたのか」と。

(完)

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