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湯浅誠さん(NPO法人自立生活サポートセンター・もやい事務局長)に聞く(上) (かけはし) 
http://www.asyura2.com/08/senkyo56/msg/1067.html
投稿者 ダイナモ 日時 2008 年 12 月 19 日 18:59:35: mY9T/8MdR98ug
 

http://www.jrcl.net/web/frame090101c.html

広がるセーフティネットの穴
貧困問題は自己責任ではない

 数年前にNHKスペシャル「ワーキングプア」が放送され、若者の貧困問題が大きくクローズアップされ衝撃を与えた。そして、携帯電話でその日その日の働き口を斡旋する日雇い派遣やネットカフェ難民問題が次々と明らかにされていった。派遣大手のグッドウィルなどに対して、ユニオンを結成して闘いが始まった。それと時を同じくして、昨年三月に集会を持ち、ホームレス支援、非正規労働問題、女性・シングルマザー、障がい者・病者、多重債務者、海外の貧困といった様々な分野で「貧困」と闘う人たちが一同に介して反貧困ネットワークをつくりあげ行動を開始した。二〇〇八年九月のアメリカ発の世界的金融危機は企業の経済活動を収縮させ、倒産・リストラの嵐を作り出している。貧困にさらされる人々はさらに増大せざるをえない状況だ。先日『反貧困―「すべり台社会」からの脱出』で大佛次郎論壇賞を受賞し、生活保護の取得や住宅支援の〈もやい〉の活動を担っている湯浅誠さんに、貧困の現状と闘いについて聞いた。そのインタビューを二回にわたって掲載します。(編集部)


力を割いたのは
命を支えること

――一九九五年からホームレスの支援を始めたそうですが、きっかけは何だったのですか。

 私は湾岸危機の時、川崎哲(ピースボート代表)といっしょに反戦活動をやっていました。その後離れて大学院の時、川崎がホームレス支援をやっていたので見に行きました。それを契機に「いのけん」(渋谷・原宿 生命と権利をかちとる会)に関わり始めました。その団体は、野宿者よりもむしろ外国人労働者問題がスタートでした。九二年に、イランの人たちが代々木公園の入り口に集まっていたのを公安警察が雑誌のインタビューのように近づいて、オーバーステイだと分かると逮捕することをやっていた。労働相談をするかたわらそういうのに抗議した。監視行動をやっていたら、代々木公園にいるホームレスの人に会って、問題が分かり始めた、というのが経緯だったと思います。
 活動を始めた当時の問題意識は目の前にあるのは貧困ですが、貧困という言葉では語らなかった。どちらかと言うと、差別とか排除問題だった。おかしいじゃないかと社会に異議申し立てをした。

――宮下公園にホームレスの人がテント張って生活していますが、そうした人たちの支援をやっていたのですか。

 宮下公園にテントが張られるようになったのは九八年から九九年です。あれは運動が意図的にやった側面があります。ブルーシートとか単管とか機材を持っていきみんなで建てたんです。その前に、九八年まではほとんどテントってなかったんです。ポツンポツンと建っていると行政につぶされてしまう。われわれは関わっていないのですが、代々木公園のところにあっという間に二十軒くらい建ってしまった。そうすると行政も排除できなかった。建てられるとなってワーと増えていった。
 路上にどんどん人が増えていった。だいたい毎年一・五倍から二倍ぐらいに。あの頃路上のキャパが限界を超えた。それでテントへの定住層が出てきた。全国的にいっせいにそうなっていった。隅田川も、川の両岸に両国から白髭橋まで千軒ぐらいあった。あれも何かしたというよりも自然発生的に増えていった。
 最初はみんな腰掛け気分だった。ここに誰も一生居るなんて思っていない。だけど、その生活がなかなか抜けられず長期化していくと体がきつい。路上でダンボールハウスを立てて寝るのと公園でテント張って寝るとでは全然違う。すのこなど引けば床を上げられる。そうすると、底冷えが伝わってこないし夜中に目覚めない。朝すっきり起きられる。私も初めてテントで寝た時は、朝までぐっすりで、これがテントかと思いました。アパートに行けないんだったら、ちょっとましな状態ってことになって、一気にテントが増えた。

――具体的な支援はどういうことをやっていたのですか。

 一番大きく力を割いたのは命を支えることでした。飯、医療、役所へ病気の人を繋げる。それが一番たいへんだ。後は生活改良運動。テントを建てたり、寝場所のない人に寝場所を確保したりした。日雇い労働運動が昔からやってきたことだけど、年末年始は越年闘争といってみんなで泊り込んだ。そんな中で路上のコミニュティ運動のような面ができた。みんなでワークショップをやってみたり、寄り合いといって支援者、当事者の別なく会議を持った。

――そうすると名も知らないたくさんの野宿者がいるわけで、それをどうまとめていったのですか。

 活動を手伝ってくれる人がコアメンバーになっていった。炊き出しなんかもいろいろと段取りがあるから、支援は人数が少ないからみんなでいっしょにやろうと呼びかけた。そうすると手伝ってくれる人たちがいる。そうした人たちとコアメンバーを組んだ。活動をいっしょにやっていくと、当事者の中で別れていく。そこでの難しさはあった。


新宿・渋谷に
移動した背景

――行政との関係はどうでしたか。

 最初は純粋な対立関係でした。行政はそれまで何もやりませんでしたから、行政と接点があるといえば排除される時だけでした。生活保護取得も今よりもきつかった。だから、役所はただ押しかけに行くところだった。九五・六年ぐらいから、全都実ができて都庁交渉なんかも持ち始めた。われわれが行くときは福祉局が扉を閉めてしまって入れないという対応だった。そこで怒って窓ガラス割る人が出て逮捕されるとか、そういう感じだった。

――一九七〇年代、山谷に支援に行ったことがあるのですが、そこで仕事を寄越せとか、越年越冬資金を寄越せとか、東京都に要求したことがありますが、そういう要求闘争はしなかったのですか。

 山谷の全協とか争議団をやっていた人たちが新宿連絡会を作ったりして、相当つながっています。なんで新宿連絡会かというと、山谷争議団と「いのけん」がいっしょに作ったからです。最初は連絡会でしたが、独立して自分のグループになった。日雇い労働運動から相当多くのものを引き継いでいる。

――山谷の場合は日雇い仕事を求めて集まっていて、そこでの労働運動だったわけですが、路上の場合はどのようなものだったのですか。

 徐々に変わっていったのだと思います。九〇年代バブルがはじけて、山谷の中でも野宿する人が増えた。それでいよいよ寄せ場では食えなくなって、どうせ寝るなら、山谷で寝ているより、新宿の方がいろいろ弁当があるわけで生活しやすいということで、新宿や渋谷や池袋に流れていった。九〇年代後半を通じて、山谷で食えなくなった日雇い労働者だけでなくて、キャバレーで看板持ちやっていた人や工場労働者や新聞販売員など日雇い労働者以外の人たちの比重がだんだん増えていった。
 今なら、山谷なんて行ったことがないという人がたくさん野宿しています。日雇い労働者のウエイトは下がっていった。そうすると、日雇い労働運動との接点の濃さが薄くなってくると同時に出てきたのが生存問題。食えないから命を支えなければならない。命を支えるのは福祉であり、医療であった。
 私の所属している団体でも労働問題はほとんどやらなかった。それは働いている人がいないからだ。働いているのは例えば、古本を拾っている、アルミ缶を集めている、並びをやっている人。この元締めはみんなヤクザです。われわれは力量的にヤクザとがちんこはできなかった。山谷には争議団の人たちが朝争議とかやる時にいっしょについて行った。そういう位置づけでした。

アパートの入居
と保証人提供

――湯浅さんたちは「もやい」という支援組織を作って活動していますが、「もやい」の名称は共同で仕事をするとか船と船をつなぐという意味で水俣病との闘いでも使われていた「もやい」と同じですか。活動内容を教えてください。

 そこからとったんです。二〇〇一年の三月に、行政として初めて東京都がホームレス白書を出した。そこでホームレス問題は社会問題と認めた。それまでは基本的に自己責任一辺倒だった。二〇〇〇年十一月から自立支援事業が始まった。九〇年代後半の流れとは違う流れが始まった。本人だけの責任ではないということになった。不充分ですが就労支援も始まるし、生活保護もかつてに比べれば受けやすくなった。となるとアパートに行く人が増えてくる。今まではアパートに行くことができるのは宝くじが当たるようなものだった。それが層として生まれ始めた。そうすると、まずアパートに入れる条件があるのだけど入れないという人が出てくる。なぜかというと、保証人がいないから。これをどうしようかという話になってきた。これが一つのきっかけです。
 その後アパートに入ったが戻ってくる人たちが出てきた。なぜ戻ってしまうのか。孤立なんです。路上にいる時の方がまだ人との付き合いがあり、楽しかったと路上に戻って来る。それからもう一つは路上まで出てこなくても、生活困窮者が層として生まれているだろうと考えた。その人たちの問題をどうやったら可視化できるか。他とつながる回路もなかったので、だったら保証人を立てる。それをやったら、接点になって見えてくると社会運動的に保証人問題をやりだした。
社会運動的結び目と現実的な保証人がいないという問題とアパートに入った時に孤立しないネットワークづくり。これをやるのが「もやい」です。

――ホームレスの人に「もやい」を伝えるために何を行いましたか。

 われわれは路上出身なので、毎週ニュースを発行しそれを手渡して回りました。夜回りと呼びました。渋谷、新宿、池袋でもやりました。後はDV(ドメステック・バイオレンス)の団体とか個別に回りました。最初「もやい」を利用するのは七・八割がた野宿の人でした。行政も保証人まで対応できないのでこれは便利なものが出来たと紹介してくるようになった。

――保証人は具体的には誰がなったんですか。

 「もやい」が保証人になるからでは、大家は貸してくれませんから結局は個人です。「もやい」は二人で始めたので、私と稲葉が保証人になった。大家と不動産屋にしてみれば、個人がなっているだけだから分からない。なんかあった時には私たちが身銭切るわけではなく、「もやい」が団体として請け負うという仕組みです。それでもリスクはある。「もやい」がつぶれても保証人は逃げられないぞというのはあります。

――自立支援法とアパートを借りる関係というのはどうなっているのですか。

 自立支援法というのは東京都が先行してやっていた。その自立支援事業を東京都だけの独自事業ではなく、国が追認し予算をつけたというもので後付の法律です。自立支援事業というのは施設を作って、ホームレスの人が施設に入って、そこで就労活動をして仕事をみつけておカネをためてアパート借りる。アパート入る時に保証人がいる。後は生活保護を受けてアパートに住む時に保証人が必要になってくる。そこの出口に対応しているのがわれわれの事業です。
 それだけ見れば完全に行政の補完物です。私はそれだけだったらやらなかった。そこでいろんな生活関係団体をつなげるという社会運動的積極面とセットでやるから意味がある。

交流場をつくり
600人が利用

――「もやい」は保証人になるだけでなく、「場」づくりをやっているそうですが。

 アパート入にっても孤立しないために、交流の場をつくっています。もともと二〇〇一年につくった時は、四谷三丁目のちっちゃなマンションの一室だったので、そんなことは全然できなかった。あの頃やっていたのは公民館借りて、月に二回集まった。今、飯田橋に四部屋あるアパートを一棟借りている。そこを借りたのが二〇〇四年です。
 その場所を利用して、居場所をつくろうとしてやり始めたのが喫茶店です。当事者の人が飯をつくったのを当事者が食べにくる。そこで扱ったのがフェアトレードコーヒーです。居場所ってなかなかむずかしいもので、何もしないというのではもたない、という人がいる。何かやった方がむしろ良いとなった。じゃあ、自分たちで生豆買って焙煎する作業をやろうとなり、作業所的活動がそこから派生していった。
 あとは野宿の人たちが多い。だから、中高年男性が中心を占めると若者の居場所がない。そこから若者や女性の居場所ができていった。今、「もやい」はサロンとコーヒー焙煎、若者と女性の四つの居場所があります。

――「もやい」を利用する人は一カ月でどれくらいですか。

 データは取っていませんが、生活相談が百件、保証人関係で百五十人、サロンに来る人が百三十人、若者と女性で五十人、延べで五百〜六百人ぐらいです。

――サブプライムローンの破綻の影響を受けて、支援してくれていた不動産屋も倒産して運営がたいへんだと報道されましたが運営費などはどうなっていますか。

 専従はおらず五人の非常勤がいて、月の人件費が六十万円です。それから事務所費。生活相談はすべて持ち出しです。これらは寄付でまかなっています。保証人提供料は二年間で八千円もらっています。これがちょうど補てん費用になってトントンです。

――自分たちで安いアパートなどを提供しているわけではないですね。

 やろうと思えばやれるのですが、ちょっと気持ち的に踏み切れない。アパートの管理人になるということですから。そうするとこちらが管理する立場になるので、できればそういうのとは違って、普通に付き合える関係を当事者の人たちと結びたい。

――「もやい」みたいな運動体は日本全国にありますか。

 ないです。まず不特定多数に保証人提供をやっているところがない。普通に考えればリスクがありすぎます。他の団体でやっているところは、リスクを避けるために条件を絞り込みます。生活相談でも、路上の人とかアパートに住んでいようが食えなくなった人は誰でもどうぞというのは他にないのではないか。
 路上の活動はとてもたいへんなので、路上以外の相談は受けられない。そうするとワーキングプア層に絞った生活相談をやる団体だとそれだけになり、労働組合はそうはならない。生活と健康を守る会は高齢化していて若い人の相談を受けにくい。それで穴が開いてしまっている。

社会保障からの
排除が進行する

――ワーキングプアを救うためには、生活保護しかないのですか。

 他にないですね。所持金百円とか二十円とか、この前来た人は三円しか持ちガネがなかった。そういう状態で来るので、仕事探しをしようと言っても空しいわけですよ。まず生活を支えて、そうじゃないと仕事探しもできない。みんな今まで仕事探しやってきているんです。それでうまくいかないうちに、こうなっちゃっている。まず、いったん支えてからでないと仕事探しもできない。何があったら支えられるか。失業保険をもらえない、休業補償も出ない。そういう中では結局、生活保護しかない。
 本当はもっと手前にセーフティネットがなきゃいけない。それをつくるような呼びかけをやりながら、とりあえず今はここで支えるしかない。

―― 貧困問題を中心に取り上げてきていますが、貧困を決めるのが収入だけでなく、@教育課程A企業福祉B家族福祉C公的福祉D自分自身からの排除の五つの排除によって貧困が起きていると湯浅さんは言っていますが、とりわけ、政府や社会は貧困がその人の自己責任だと決めつけ、本人もそう思い込まされていると指摘されています。貧困問題についての考えを聞かせてください。

 何に注目するかです。結局は椅子取りゲームに例えると分かりやすい。貧困の問題は、寝ているホームレスの人をじっと見ているとかえって見えなくなってしまう。自己責任論の「それが間違っている。本人は完璧なのにこうなってしまった」と言うことではなくて、そうなるリスクが高まっている。リスクが高まれば今まで落ちなかった人も落ちていってしまう。リスク、つまりセーフティネットの穴の問題とか、椅子の減り具合の問題とか、そういう形の問題と見ないとなかなか問題が見えてこない。
 「あの人たちは自己責任があると見えるけど、そうじゃない。あの人の自己責任は一つもない」と言うのはこれまたウソっぽい。実際、パチンコもやっただろうし、酒も飲んだだろうし、いろいろあったんですよ。何もなかったという気にはなれない。だけども、じゃあ世の中はどうなっていますかということを問い直すことが必要じゃないか。

――湯浅さんの本で安倍政権批判をきちんと述べられていますが、貧困は政治・経済によって意識的に作られたということの指摘が大切で、解決の道もそこから導きだされてくるでしょうか。

 雇用保険なんか典型的だと思いますが二十五年の間に、もらえる人が三分の一まで減ってしまった。今は失業者の十人に対して二人しかもらっていない。どんどん受給できないように改悪していった。今までは一年間の内、六カ月雇用保険料を納めていたら、受給資格が発生したいたのを二年間で一年間納めないと受けられないとなった。そうすると細切れ雇用の人はハードルがあがってしまう。自己都合退職だと三カ月経たないともらえない。三カ月間生活費ない人は働くしかない。そうすれば受給資格を失い、結局受給できないことになる。失業しているのに失業保険もらえないとなると、たくわえがなければ無収入ですから生活保護にいくしかなくなっちゃう。
 二十五年間で雇用保険を三分の一まで減らしてきたということはつまり生活保護者を増やしてきたということです。そういう意味では生活保護は政策的に増やされているという面があります。そういうところを見ないで、「生活保護受給者が増えた増えた、あいつらは本当に困っているのか」と言っても、問題が見えてこない。
 だんだんセーフティネットの穴が広がっていって落ち易くなっている「すべり台」状態とか、他方でどん底まで行ってしまった人たちをターゲットに利潤を上げている貧困ビジネスの存在が見えてくる。社会のあり方が、中間層がたくさんいたひょうたん形から、格差が広がり貧困層が増える縦長の楕円になっていくような形が見えてくるとしめたもので、形を変えなくてはいけなくなる。
 そうするとあいつがどうの、こいつがどうのという論理にはまらない、そういう見方をどれほど広げられるか、なんだと思う。


「派遣切り」の
被害者が相談に

――この間、相談を受けていて、どんな例がありますか。

 一番最近では派遣切りの被害者の人とかが来はじめています。この間来た人は三十一歳、神奈川の厚木で日立の工場で日産自動車のドライブシャフトについていた派遣社員。十月二十九日で雇い止めで、十一月二十日に寮を出ていけと言われている。この派遣会社は比較的良心的で一カ月の予告手当を支給する。最後の給料が入るのは十二月十日。両親と兄さんが亡くなっている。だから行き先がない。それで相談に来た。
 彼に聞いたら、彼のラインのセクションは昼夜二交代で八十人でやっていた。残ったのは八人。九割が切られた。今まではそういうことがあっても、派遣会社が次を紹介してくれていたけれど、今回は派遣会社もお手上げで振れる先がない。残された八人でラインは回るのと聞いたら、結局仕事全体が減っていて正社員も余っているから正社員がやる。そういうふうにして置き換えをしている。
 二・三日前に来たメール。四十五歳の女性。キャノン宇都宮工場で働いている。十一月十五日に「来月は待機ですよ」と言われた。待機の間は六割の給料を保証する。だけど寮費は取られるのでプラマイゼロになってしまう。いま手持ちは六万円しかない。彼女が言っていたのは、一月になったら仕事があるのならいい、それまで耐えればいいから。だけど、仕事があるかどうかは一月になってみないと分からないとの答え。そういう人がかなり出始めています。
 そこで共通しているのは仕事以外には支えてくれるものがない。その状態です。家族もダメ。公的サービスもない、雇用保険も受けられない、生活保護もダメ。そういう中で今の仕事を切られてしまったらアウトだ。それが五重の排除ということですけど。

――安倍政権が母子家庭への自立支援、ホームレス自立支援、「福祉から雇用へ」の再チャレンジのまやかしの政策を出しましたが実際はそれを使えない人がほとんどではないですか。

 すごい根本的な話になってしまいますが、戦後日本社会は企業を通じた分配しかやってこなかった。税金を政府が吸い上げて、それを補助金や公共事業の形で大企業に落とす。それを企業が労働者および家族に分配して、下請けに下ろす。下請けがまた労働者とその家族に分配する。幹は企業なんですね。景気が悪くなって、景気浮揚策といっても、基本は企業を救うことだ。それ以外にやらなければいけないとなるとバラまきしかない。セイフティネットを外側で支えていくというようなシステムづくりの話にならない。
 これは今に始まった話ではない。戦後一貫してそうだったんではないかと思う。おカネを企業に落としても末端まで分配されていかない。先っぽの枝葉が枯れてきてしまう。これが貧困の問題です。外側から木に水をやるようにセイフティネットをかぶせなくてはいけないという状況になってきていますが、そのことはやったことがないから分からない。なのでフリーター対策を立てようとすると年長フリーターを雇用してくれたら、企業に百万円あげますよとなる。
 職業安定所の請負でリクルートがジョブカフェを開いた。そのリクルート社員の日給は十二万円という話は有名でしたが、あういうところで吸収されていってしまって、結局は本人までに手渡らない。あるいはサービスはつくったけれど、本人がそもそもその間、職業訓練校に通う生活費がないから行けないとか。結局はしたたり落ちている間に、中間マージンでなくなっちゃう。末端の枝葉を潤すまでにいかない。外側からかぶせるとなるとバラ撒きしか知らない。
 そのことを考え始めると労働組合が企業別組合から脱けだせるかとか、かなり根本的な問題に入っていく。     (つづく)

 

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