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自衛隊と憲法9条(田母神論文問題から)(三上治)
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投稿者 クマのプーさん 日時 2008 年 12 月 04 日 22:58:07: twUjz/PjYItws
 

http://chikyuza.net/modules/news3/article.php?storyid=456

<08.12.04>『通信録』08年12月(上)<三上 治>


<みかみ おさむ:社会運動家・評論家>


自衛隊と憲法9条(田母神論文問題から)

(1) 
自衛隊と憲法9条とは矛盾している。誰もがそのように思っている。ここからはそうであれば自衛隊を存在させるために憲法を変えるか、逆に自衛隊を廃止するかしか道はない。論理的帰結というか、道行はこれと違った。日本の政府が自衛隊は憲法に違反しないという解釈をすることで、第三の道というか、別の道を編み出したからである。どこでも知恵ものはいるのである。憲法9条は日本国が戦力を持たないということを規定をしているが、自衛のための戦力の保持を禁じているわけではないというわけである。だから、自衛隊は通常の軍隊ではなく、「軍隊でない軍隊である」であり、自衛のための隊であると規定してきた。

 そしてこの自衛隊の憲法解釈による自衛隊の存在の容認が自衛隊と憲法9条の絶対的対立的関係の矛盾の解決(あたらしい矛盾の提起による矛盾の解決)であることは疑いないが、これはその内部で必然のように矛盾を成熟させる。憲法9条の正統性に立つ人からは、自衛隊は憲法違反であり、その容認を認めることは憲法そのものをないがしろにするものだという不信を生む。憲法に反する行為は存在を憲法解釈によってすり抜けることは、政治権力を縛るという憲法の本来性が存在していないことではないかという疑惑を生む。日本が法治国家であり、憲法によって運営されているというのは疑わしいではないか、という意識をうみだす。他方で、自衛隊は自衛のための軍であるというわけで、その存在が憲法上の疑惑を持つ限り国民に支持された軍隊ではないという根本的な存在上の不安定さを持つ。最高法規である憲法に自己の存在を否定するような規定のあることは、自衛隊が憲法解釈上で合憲とされたにしても、存在意識の不安定さの基盤になる。それが現実である。

(2)
 自衛隊の存在について憲法の改正によって現状を変えようという試みが歴代政府与党であった自民党から提起されてきたことは良く知られている。憲法9条を含めたその制定過程に対する疑義も含めて現憲法への理論的、思想的批判が展開されてきた。江藤淳などの思想的展開は良く知られている。他方で、自衛隊の存在の否定(憲法違反説)を含む憲法擁護の理論的、思想的展開も多く存在してきた。僕らはこうした環境の中で存在してきたのであるが、ただ、自衛隊と憲法の存在について再考すべき時期というか、段階にあるように思える。自衛隊を憲法9条の規定に反するという規定を拠り所にして自衛隊に対応するのではなく、現に存在する自衛隊をどのようにしていくかの構想を考えるべきではないかと思うのだ。自衛隊を憲法解釈によって合法化する第三の道は、当初は国民的には少数派であったが、現在では多数派に転じているように推察される。これは憲法9条規定に自衛隊は違反するという存在規定から、現に存在する・存在してしまつている自衛隊をどうするかということである。これは憲法9条と自衛隊の関係を僕らなりに再規定しようということである。憲法9条に自衛隊は反した存在である、憲法違反であるという図式からはなれて、憲法9条の観点に立って現に存在する自衛隊をどうして行くかの構想(オルタナーティブ)を構築することである。この場合の基本は国民の意思としてのそれを構築することである。

 僕のこの問題意識は次のような危機感に基づいている。自衛隊を憲法に違反するという護憲論が、第三の道(憲法解釈による存在の合法化)によって存在し肥大してきた現実の自衛隊に対応する道を見失うことで、国民の意思の結集をも明瞭にしていけないということである。存在し肥大化する自衛隊を中間径路として設定することで対象化し、自衛隊を現段階において、未来においてどうするこの構想を構築することだ。憲法9条はその成立期においては存在していなかった自衛隊があるわけだから、自衛隊との関係の規定は新しい事態であるが、自衛隊発生の初期とも違って関係の規定をし直す必要があるのだ。

(3)
 憲法9条と自衛隊の関係の見直しは憲法を変更(改定)しようとする動きと自衛隊をどうにかしようという動きがある。僕の考えは後者であるが、自衛隊=憲法違反=護憲という立場でから自由になって、現実に存在する自衛隊に対する対応策を媒介(中間径路)にしたオルタナーティブを構想しようということになる。この間、「朝まで生テレビ」を見ていた。田母神論文をめぐって論理は論議は展開されていた。論議はかみ合わないように思えた。理由は単純だ。そう思った。田母神論文の批判でも評価でもいいが、これには二つの段階的な批判なり、評価をどうしても必要としているのに、そこが意識されて整理されていなかったからだ。これは東京裁判問題などにもついていえることだ。

 例えば、田母神の行為が文民統制に反するか、どうかということがある。これは彼が確信犯として演じたかどうかではなく、自衛隊が原に存在している、それをどうするかという問題である。政府の側に立とうが、野党側(左翼側)に立とうが原にある自衛隊をどうして行くかという議論であり、この立場で自衛隊の存在を規定する問題である。文民統制というのは戦後の日本の中で特殊な官僚組織であり、特殊な軍隊である自衛隊にどういう規定を与えるかということである。これまでの左翼的議論は自衛隊は憲法違反であるという規定によって済ませてきたきらいがあるが、これをどうするかを明瞭にすることが迫られているのである。今回の文民統制という議論は自衛隊にどのような枠組みをあたえるかということである。過渡的処置(中間段階)として、海外派兵の禁止(集団自衛権の行使の否定)、核武装の否定、徴兵制の否定、文民統制、自衛隊に現憲法の徹底などを大きな枠組みを設定して対応していくべきであるということだ。これは自衛隊がひそかに旧軍隊の規律や訓練などを踏襲して、特殊な軍隊として機能していることによって隠されてきた側面にメスを入れていくことであり、これは広い意味での官僚制の改革の一環として考えてもいいのである。議会(国民)の統制力が及ぶか、どうかの問題である。文民統制というのは象徴的な言葉であって、自衛隊の対する政府や議会の関係を含めた国民の関係の対応力の問題であり、これを機会に僕らの自衛隊に対する対応策を構想として明瞭にすればいいという問題である。

(4)
 田母神論文は自衛隊員の精神的・心的不安定感を解消しようとしてだされたものであることは明瞭である。自衛隊はどのような出自であれ、現に存在し肥大化しているが存在感は根本的に不安定である。憲法9条というあたかも自衛隊の存在をひていするかのような条項を持つ憲法があるため自衛隊は存在が不安定なのだというのが、歴史的に右翼や保守派の主張であり、憲法改正による自衛隊の国軍化を目指してきた。要するに憲法9条の存在こそが自衛隊の存在に不安定感を与えるのだという主張である。もう一つは歴史観や戦争観の問題で歴史が遮断されていること、つまりは東京裁判史観が自衛隊の存在の不安定さの根源であり、これを是正することが主張された。今回の田母神論文はこの線にそった主張である。もちろん、かつて江藤淳や三島由紀夫は価値観の対立という日米戦争は精神的には決着がついていないという立場から、東京裁判などを批判していた。彼らのナショナリストの立場はある意味では一貫してはいたが、親米派の保守や右翼とは対立する立場にあった。これは「あたらし歴史教科書を作る会」の四分五裂がよく現しているように戦後の保守や右翼の内部で存在してきた。ただ、戦後の戦勝国の枠組みによる戦争観(第二次世界大戦)の評価は趨勢として力を失っていく状況にある。マルクス主義の戦争観はソ連や中国の動向によって影響力を弱め、今、アメリカの力も弱まっている。この流れはかつての戦勝国の戦争観や史観が弱まり、敗戦国の戦争観や史観を浮かび上がらせる。これは歴史修正主義と呼ばれるもので、日本では「あたらし歴史教科書」を作る会として出てきたが、これは、結局のところ各国の戦争には国家的立場の根拠があるというところに帰る。国家的立場の対立が戦争にいたるということは第一次世界大戦に帰るということであり、そこで終わった立場である。歴史修正主義は第二次世界大戦が不可避とした世界的理念の問題を扱えない。ファシズムやアジア主義など相手国の存在を含めた歴史認識などの場から逃げることになる。戦争を相手国を含めて議論できないのであり、国内的な内弁慶的なところに帰る。例えば、田母神論文は韓国や中国の面々と歴史認識をめぐる場には出せるような代物ではない。おそらく、田母神は日本の歴史を断絶させるのではなく、つまり、自衛隊と旧軍隊との連続性を確保できれば自衛隊の存在の不安定感は解消しえると考えたのかもしれない。その点では戦後のナショナリストと同じ立場に立っている。憲法9条の規定があるから、東京裁判による戦争史観があるから、自衛隊の精神的・心的安定感が確保されないのであると考えて別の戦争観や史観を提起したのだ。田母神の戦争観や史観が敗戦国の立場の見直し趨勢の中で基盤を持つとしても、内弁慶的なもので世界の広場で通用しないことは明瞭だ。しかし、それ以上にこの論文が決定的に欠落させているのは現在の戦争という媒介である。先進国の軍隊は戦争ができなくなっているという現状の理解である。その点で言えば、今、アメリカが「反テロ戦争」の中で露呈させている問題を見ればいいのだ。

 日本の自衛隊の精神的・心的不安定感には現在の戦争の問題からきているのであり、そこでの軍隊の存在理由に端を発していることを扱えていない。先進国の軍隊が共時的抱えている問題を自衛隊も抱えているのである。自衛隊が閉じられた組織としてあるとき、この矛盾や精神的不安定さが憲法9条の存在や東京裁判史観に理由があるように転化しやすいのかもしれない。自衛隊を開き、民主化し、自衛隊員を広場に出すようにしないと、田母神の論理は通用しやすいのかもしれない。
(12月4日)

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔comment404b:081204〕

我が友、石井紘基へ

 「死者よ来たりて我が退路を絶て」という記録映画がある。全共闘運動の映像である。僕は見てないのだがコピーが印象的だったので記憶として残っている。いつの間にか、多くの友人達が鬼籍に入るようになって、死者のことを自然に思い浮かべることが多くなった。それは何かの拍子に向こうからすーとやってくる。僕らはこんな風にして死者と共生しているのだし、それは僕らが生きているうえで想像以上の力になっているのだろうと思う。昨今、「埋蔵金」という言葉をよく見聞きするが僕はそのたびに石井紘基のことを思い浮かべる。

 彼が右翼の手にかかって命を落としたことは痛恨の極みであるが、その死は依然として謎に包まれている。僕の中でも納得しがたいところがあって、その分、思い出すことが多いのかもしれない。彼とは1960年の大学入学が同じで共にあの安保闘争を戦い、6月15日には国会構内の占拠現場にいた。彼とはある時期まで何年かにわたり同じ党派で活動していた。彼はやがてモスクワに留学し、美人の女房と、ある決意を抱いて帰ってきた。彼はロシア留学中にソ連の権力構造の専制と腐敗という問題を発見し、その同質のものが日本の権力構造にも内在していることを洞察した。それは近代権力としての官僚の問題である。

 彼は政治家になったが、会う機会があると「俺は革命をやるんだ」と言っていた。別の道からであったが、僕も同じようなところに到達していた。日本の近代権力の問題が官僚の専制的権力にあることを気がついたのだ。だから、彼の仕事に注目し、陰ながら支援もしていた。彼は独力で日本の権力機構における官僚の問題を掘り起こし、特別会計(埋蔵金)の問題に手をつけていた。多くの著作(漫画も含む)や報告でそれを摘発していた。そして、多くのデーターを集めてもいた。調査に、調査を重ねていたのである。

 年金問題などが露呈するたびに石井がいたらなぁ、と思ったものだ。官僚の問題は厚労省のようなところだけではない。警察や自衛隊という統治権力として関係するところこそ注視しなければならない機構であり、機関である。田母神論文はそれを露呈させた。機密という名によって閉じられて機関や機構の中で発生する独善と独断はやがて専制に転じる。それは過去のことではない。石井よ(!)、時に僕らのところに来たりて…。時折、そんな思いが心をよぎる。 (11月30日)

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔comment404a:081201〕

 

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