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[AML 17728] 「聳ゆるマスト」と坂口喜一郎
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投稿者 gataro 日時 2008 年 1 月 15 日 17:44:24: KbIx4LOvH6Ccw
 

http://list.jca.apc.org/public/aml/2008-January/017246.html

[AML 17728] 「聳ゆるマスト」と坂口喜一郎
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2008年 1月 13日 (日) 05:48:52 JST

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 北信太の新年会参加を機会に、できれば坂口喜一郎顕彰碑のところまで立ち寄りたいと思っていた。しかし黒鳥山公園までかなりの距離もあり、話も弾んでそんな余裕はなく暗くなってしまった。ほかの人たちの関心の問題もあるし、そもそも半日やそこらでは、そんな願望は無理だった。

 もう十年も前にもなるが、以前に坂口喜一郎碑のところまで何人かで行ったことがある。同碑は坂口没後50年の1982年、黒鳥山公園の東入口近くに建立された。広大な同公園は桜の名所でもあり、和泉市も観光・行楽のスポットとして宣伝している。宣伝文のなかには「忠霊塔」や「忠蹕碑」(明治天皇の大阪大演習来阪記念の碑)の名前は見られるが、畜魂碑(ペットの墓)と同じく坂口喜一郎碑の名前は見当たらない。また地元出身著名人紹介でも坂口喜一郎は含まれていない。つまり天皇制軍隊のもとで圧殺された「不忠者」の存在はいまだ認められていないのだ。

 前に書いたように近くに陸自第37普通科連隊駐屯地や信太山演習場がある。戦前は陸軍第4野砲連隊があり、春日庄次郎らの党再建グループが兵士向けのビラを配ったとも言われる。同野砲連隊は大正9年都心から移駐、当時は3個大隊約千人馬5百頭、三八野砲を馬6頭で牽引した。明治以後陸軍では「兵2万馬8千」と言われ主要な動力は馬であり、果てしない中国大陸をつき進んだ。

 陸軍第37歩兵連隊は野間宏の小説「真空地帯」のモデルとなった部隊で現在は国立病院のある所で、向かいは「また負けたか」第8連隊のあったところ。戦前の歩兵連隊と自衛隊の連隊番号を同じにしたのは、当時の自衛隊幹部杉田一次(元陸軍参謀)だった。「陸軍歩兵37連隊史」には、何故か自衛隊37普通科連隊の歴史が続けて記載されている。大阪府下で主要な自衛隊基地と言えば信太山と八尾の陸自航空基地。信太山の部隊はグァムで米軍の特訓を受けるなど、近畿では「精鋭」と言われイラクにも派兵された。革新団体の抗議行動デモは基地前から黒鳥山公園で流れ解散となるのが通例となっている。

 坂口喜一郎は1902年和泉市黒鳥町に生まれ、地元で機織工場の機械工をしていたが1920年、呉海兵団に志願入団し機関兵となった。15年戦争の時代のような軍国主義熱志願でなく、貧しい家庭の子弟にとって軍人となるのも職業選択のひとつだった。坂口は入団後、兵営内で社会主義研究グループをつくり活動を始めるが「満州事変」を契機に帝国軍隊の中国侵略が顕著になるなか1931年、仲間と共に治安維持法容疑で検挙される。海軍を追われた坂口は東京に活動の場を移すが、1932年再検挙され、33年12月に広島刑務所で獄死する。31歳の若さだった。

 坂口については、山岸一章『「聳ゆるマスト」--日本海軍の反戦兵士』(1985年 新日本社)があるが、最近では記録資料をインターネットで知ることができる。

 呉海軍兵士細胞機関紙「聳ゆるマスト」は、32年2月に創刊され6号まで発刊が続けられ、軍艦「榛名」「長門」「山城」など乗組員によって密かに配布された。残念ながら没収で現存しないが題字だけは生存者が復元されている。同紙に続いて党中央軍事部は、陸海全軍兵士を対照とした「兵士の友」を発刊するが、これは戦後「赤旗」同様復刻されている。反戦水兵たちが具体的にどのような活動をしていたかは、意外に軍法会議判決文で分かる。これらの活動と併行して呉海軍工廠でも工場新聞「唸るクレーン」が発行され、兵士向けパンフや団体グループ機関紙など様々な文書が軍艦内に持ち込まれたようだ。また、大正から昭和初年にかけてのプロレタリア文学運動も兵士たちに大きな影響を与えていたようだ。

◇時代は違うがかの日本海海戦の旗艦「三笠」のこと。1901年(明治34)英国で完成したばかりの「三笠」を引き取りに行った際、水兵190人が待遇改善を求めて籠城ストをした。帰国後、軍刑法抗命罪を問われ1年8ヶ月の禁固刑となった。

◆「そびえるマスト」 菅原克己(「ぼくらの年代」から)

  軍艦山城の乗組員が/艦内細胞をつくる
  その機関紙は「そびえるマスト」
 ぼくはその記事を切った。/場所は高円寺。
 ぼくは手製の謄写機で/それを刷った。
  絶対に音のしない自慢の機械。
  ぼくは手伝いの娘に威張ったものだ、
  「ごらん/軍艦の細胞だ。/日本ではじめてだ。
  そしてこのガリ版は/カンバスの枠で
   このぼくが作ったんだ」と。

 詩人菅原克己(1911〜1988)は画学生の頃、党籍がないまま党中央軍事部に所属し「兵の友」や「赤旗」などのガリ切りをしていた。戦後にそれらの経緯は『遠い城』(1977年創樹社)で回想している。「聳ゆるマスト」は当初B4ザラ紙半折り3〜40部からのち100部程度の発行。菅原がガリ切りしたのは坂口が東京に移ってからかも知れない。呉の生存者によれば、やはり厚紙の謄写版枠に原紙を蝋付けして印刷していたようだ。菅原との関連は不明だが、神戸の画家小松益喜も画学生の頃「赤旗」や「全協」機関紙などのガリ切りをしていた。夫人も全協の組合活動家で、緊張のあまり病となり四国の郷里に帰るが、再上京の途中立ち寄った神戸が気に入って永住することにしたという。昨年だったか高齢で亡くなられた。

 呉など4大軍港は戦後平和な港を目指し「軍転法」が制定されたが、絶え間なく軍拡が続く中で全く無視されている。湾岸戦争で呉から掃海艇が派遣され、テロ特措法ではインド洋に補給艦など派遣され、兵学校は海自技術学校として復活し、戦艦「大和」の模型が復元されている。イージス艦新型ミサイル装備、後継艦の大型化など「大艦巨砲主義」は新たな形で展開されている。以上「新テロ特措法」の衆院採決を念頭におきながら記した。          08/01/13 和田喜太郎

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