★阿修羅♪ > 戦争a0 > 459.html ★阿修羅♪ |
Tweet |
以下は http://nofrills.seesaa.net/article/81280527.html から転載。
2008年01月29日
BBC特派員レポート、「世は疑心暗鬼でも人は熱烈歓迎」
BBCの記者で、アフガニスタン、パキスタン、イラクなどからレポートしているKate Clark記者の記事:
Hospitality in a suspicious world
Last Updated: Saturday, 26 January 2008, 12:05 GMT
http://news.bbc.co.uk/2/hi/programmes/from_our_own_correspondent/7209024.stm
記事のタイトルは、「世は疑心暗鬼でも人は熱烈歓迎」といったような意味だ(無理やり四字熟語を使っているので若干不自然だが)。「イスラムの地域」で長く記者をしてきた白人女性である彼女が、BBC Radio 4のFrom Our Own Correspondentという番組で、「イスラムの地域」で自分が経験したことを語っているものだ。
番組は、放送後1週間はサイトで聞ける。下記リンクで開くページの右サイドバー、ListenのSat(土曜日)をクリックでプレイヤーが立ち上がる。
http://news.bbc.co.uk/2/hi/programmes/from_our_own_correspondent/default.stm
この日の番組は、ケイト・クラークのほか、ファーガル・キーン(ルワンダ虐殺を取材した彼は、今は暴力が激化しているケニアにいる)ら。さっき、作業をしながら一度ざっと聞いただけだが、視聴が可能な間にもう一度聞こうと思っている。
記事の内容:
--------------------------------------------------------------
タクシーの運転手が私を呼び戻している。ここはアービル、時間は夜遅い。料金に問題がある、というのだ。
タクシーに乗って30分、運転手と私はいろいろとおしゃべりしっぱなしだった。収入が少ない上にものすごいインフレで、家族を養うのが大変なんですよ、まだ小さい子供もいますしね、と彼は言っていた。「2003年と比べると、家賃は5倍、燃料費は20倍ですよ。」
だから私はちょっと余分に払ったのだ。でも運転手は、ちょっとこれはもらいすぎですということで私を呼び戻したのだった。
「なぜあんな危ないところに行くのか」とよく訊かれる。つまり、危険なイスラムの国になぜ行くのか、ということだ。私はふだん、アフガニスタンやパキスタンや中東で記者をしている。
「必ず頭にスカーフをつけなければいけないのか」とか、「女ゆえに怖い思いをしたことはあるか」とかいう質問もされる。
上で述べたクルド人のタクシー運転手のような寛大さと心の広さは、イスラム世界では何も不思議ではなく、どこにでもふつうにあるものだ。でも、そういうふうなのだと説明することは難しい。イスラム世界は、概して、客人としているには良い場所なのだ。
しかし現実には、だんだんと面倒なことになってきている。
ビンラディンの戦争と、それに対する米英の軍事的対応、そして西洋世界とイスラム世界の二極化のために、ごく当たり前の人と人とのふれあいというものが、だんだんと難しくなってきている。
イスラムの国の中には、西洋のジャーナリストを標的とする人たちもいる。しかも、記者個人が何をし、何を信じているかは関係ないのだ。単に私たちは敵だと見なされている。
アフガニスタンでは、ながきにわたった内戦の間じゅう、外国の記者や支援活動者には、いずれの勢力も、協力的だった。2001年の前にアフガニスタンに住んでいたときには、反西洋的な感情などほとんどなかった。タリバンでさえもそういうふうではなかった。タリバンは、1980年代のソ連に対するジハードのときに西洋から受けた支援のことを忘れていなかった。だから米国がタリバンを非難したときには、まったくキツネにつままれたように感じたのだ。
最近では、友人の一部を含めて多くのアフガニスタン人が、世界的イスラム共同体をつぶそうとする「西洋の陰謀」について、穏やかでないことを口にしている。そして私は、カブールの町を歩くだけでもぴりぴりするようになってしまった。
かつて、休暇になると出かけていっていたパキスタンのある地域は、今ではパキスタンのタリバンの拠点となってしまっている。
イラク南部のバスラは、2003年には私は女性のプロデューサーといっしょに車を乗り回し、取材相手からお茶にいらっしゃいとかお昼をいかがですかと誘われていたのに、今では強硬な考えを持つ宗教右派の民兵に支配されている。
東エルサレムとヨルダン川西岸地区には、1980年代終わりに住んでいたのだが、生活は極めて厳しかった。ちょうど第一次インティファーダ(イスラエルによる軍事占領に対する蜂起)のときで、外出禁止令やら、攻撃やら、衝突やらがあった。
ガザの難民キャンプのひとつで、石を拾って私に向かって投げた子供に、大人の人が、お客様になんてことをするんだ、恥ずかしい、とじっくりと教え諭していたことを、私は覚えている。
訪問先では、家の人が子供にコーラを1缶買ってきてちょうだいとお使いにだしていたものだった――大きなボトルを買えるほどの経済的余裕はなかった。いや、実際、1缶だって厳しかった。
パレスチナの人たちは、あんなにも厳しく希望のない生活をしていたのに、気前よくしてくれた。そしてその生活には、私の国【英国】が歴史的に、部分的に、責任を負っているのだ。彼らは口にするのは失礼だと、めったにそんなことは言わないのだが。
情勢が危険になったことで、ジャーナリストとして活動することが非常に難しくなっている。
何がどうなっているのかを確認したい場合、特にマージナライズされ、力を持たない人たちの話を聞きたいと思うものだ。しかし、英軍または米軍にエンベッドするしかない場合に、そんなことができるわけがない。
イラクの一般市民とか、アフガニスタン南部の一般市民の話を、誰が語るだろう? タリバンの歩兵たちの話を、誰が語るだろう?
そういうことができていないときに、米軍や英国政府やカブールにいるアフガニスタン大統領や、あるいはタリバンのスポークスマンが、本当のことを言っているのかどうか、誰が確認できるというのだろう?
報道をするためには、邪道なやりかたをしなければならない場所もある。2007年9月、英国は、バスラの情勢は全く問題ないと断言した。しかし、バスラは危険すぎて入れる状態ではなかった。だから私は電話でインタビューを行なった。
音楽が禁止され、暗殺は日常茶飯事になっている、ということだった。「実権を握っている宗教勢力の民兵組織は、シーア派版タリバンみたいなものです」、と彼らは言っていた。
私はアフガニスタンでの取材も続けている。タリバンのメンバーと会い、戦闘に巻き込まれた地域の一般市民と話をし、そして、公式見解よりもずっと豊かで複雑な真実が見えてきた。
男たちが武器を手にするのは、ジハディストの思想ではなく、政治面での疎外や、県政府による破壊・収奪行為、経済的苦境についての不満が原動力になっているようだ。
アフガニスタンは今でも、全く初対面の人がお茶に招いてくれ、一晩泊めてくれるような土地柄である。ことわざにいわく、客人に対するときに重要なのは、家の大きさではなく、心の広さである、という土地柄なのだ。
しかし、暴力に巻き込まれる危険性が高まり、アフガニスタンであちこちに移動することは、大変なことになってしまっている。
そういうなか、イラクのクルド自治区に行ったのはほっとできる体験だった。イラクなのに安全なのだ。イスラム世界の良さは健在で、しかも何も怖い思いをせずに、イスラム世界のこういうところが好きだと思える経験ができる。
冒頭で述べたクルド人のタクシー運転手には、何とかお金を受け取ってもらえたのだが、そのとき、「こんなこと、ロンドンではありえない」と思ったものだ。
でも実際には、まったくないというわけではない。運転手がアフガニスタン人やパキスタン人、イラク人の場合は、アフガニスタンやパキスタンやイラクの話をする。そして、私は少しでも料金を高くしようとし、運転手は少しでも安くしようとする。そういうこともあるのだ。