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タミル・イーラム解放のトラ
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投稿者 忍 日時 2008 年 4 月 08 日 20:18:09: wSkXaMWcMRZGI
 

タミル・イーラム解放のトラ(タミル語:தமிழீழ விடுதலைப் புலிகள்、英:Liberation Tiger of Tamil Eelam、LTTE)は、スリランカ北部と東部にタミル族の独立国家タミル・イーラムを建国し、スリランカからの分離独立を獲得するために多数派のシンハラ人に対して武装闘争を展開している少数派タミル人の組織。インド共産党毛沢東主義派と連携している[1]。

目次 [非表示]
1 設立
1.1 設立の背景
1.2 LTTEの設立
2 闘争の経緯
3 年表
4 闘争形態
5 国際的非難
5.1 少年兵問題
6 出典
7 関連項目


[編集] 設立

[編集] 設立の背景
LTTE設立の背景には、スリランカの人口比が挙げられる。スリランカの人口は2,074万人である(2005年統計)。そのうち、シンハラ人はスリランカ住民の約74%を占める多数派であり、インド・アーリア語派のシンハラ語を話す。多くは仏教を信仰、島南部に居住し農民が多い。それに対してタミル人はスリランカ住民の約18%を占める少数派である。ドラヴィダ語族のタミル語を話す。多くはヒンドゥー教徒で主として北部と東部沿岸に居住している。ちなみに、スリランカには他に、イスラム教徒であるムーア人がスリランカ住民の約7%を占める。

スリランカ#国民も参照のこと


[編集] LTTEの設立
1947年、議会選挙の際、1人1票制が採用され、シンハラ人は、政府で多数派を得た。タミル人は、レバノン型の権力分割(50:50)を主張したが、そのような提案は通らず、回答として、タミル・イーラム統一解放戦線運動が起こり、その指導者は、インドのタミル・ナドゥ州及びスリランカのタミル人居住区から成る統一タミル人国家の創設を主張した。

一方、タミル人は国の北部を分離するための活動を開始した。シンハラ人は、反タミル人・キャンペーンを展開し始め、民族浄化を提唱する人民解放戦線を創設した。

この頃、タミル人の青年達は、不活発な統一解放戦線に不満を持ち始め、1976年、ヴェルピライ・プラブハカランは、タミル・イーラム解放のトラを設立した。

現有兵力は約5,000、最大でも10,000名を超えないと推定される[要出所明記]。


[編集] 闘争の経緯
タミル・イーラム解放のトラ(LTTE)は、1978年5月に各地の警察署を襲撃したのを皮切りに広範囲なテロ活動を展開している。1980年代には訓練キャンプを各地に設立し、本格的な武装闘争を展開し始めた。当初、ゲリラの訓練には、インド軍将校が当たった[要出典]。

当初劣勢だった政府軍は、装備の充実に努め、1987年までにはLTTEを北部のジャフナに追い詰めることができた。しかし、ここで親タミル的なインドが介入し、タミル人に物資を空中投下し、スリランカ政府に停戦の圧力を加えた。当時のスリランカ大統領ジャヴェロデンは、これに激怒し一時は宣戦布告も考えたが、結局交渉に入った。交渉での合意に従い、タミル人には自治権が与えられ、武装解除の義務を負うこととなった。停戦の監視には、インド平和維持軍(IPKF)が当たった。

停戦後、平和が訪れたかに見えたが、今度はシンハラ人民族主義者がテロ活動を展開した。LTTEも、これを好機と見て武装闘争を再開した。平和維持軍を自任するインド軍は、LTTEに対して大規模な行動に出ることに決め、1988年5月には5万5千人の部隊をスリランカに駐屯させた。

1989年、ラナシングフ・プレマダサが大統領に当選した。彼は、大きくなりすぎたインドのプレゼンスを排除するために、LTTEとの交渉を再開した。休戦が発表されると、インド軍の存在意義はなくなり、スリランカ政府の執拗な要請の下、1990年3月にインド軍は撤退した。同時にプレマダサは、シンハラ人民族主義者を葬ることに決め、彼の命令により野党、統一国民党の支持者4,500人が殺害され、同党は壊滅した。この間、LTTEもテロ活動を再開し、1991年5月21日には元インド首相ラジーヴ・ガンディーを、1993年5月1日にはプレマダサ大統領を暗殺した。

1994年にチャンドリカ・クマーラトゥンガが大統領に当選し、三度LTTEとの交渉を再開したが決裂し、政府軍は大攻勢を展開して、1995年にLTTEの拠点ジャフナを奪取した。攻勢は継続されたが、決定的な勝利を収めることはできず、LTTEのテロにより治安情勢は顕著に悪化し、1998年には非常事態が導入された。1999年12月18日にはクマーラトゥンガ大統領の暗殺未遂が起き、これによりクマーラトゥンガは視力を失った。

2000年以降はノルウェーの調停で停戦していたが、LTTEの爆弾テロが止まらなかったため2006年にスリランカ軍が北部拠点の空爆を開始、政府は停戦破棄を否定したがLTTEは停戦崩壊を宣言した。これを受け政府側も2008年1月3日にノルウェー政府に対し停戦破棄を通告、同16日に失効した。

戦闘の本格化に伴い、LTTEは内戦史上初となる改造民間機を投入した航空攻撃を敢行した。近代的な防空システムを持たないスリランカ軍はゲリラ的な空襲に対して有効な対応を取ることが出来ず、低速のレシプロ機による首都爆撃をそのまま見過ごすという失態を演じた。

しかしながら、地上においては政府軍は北部及び東部での戦闘を優位に展開しており、一連の航空攻撃及び無差別テロの激化はLTTEの苦境を示すものではないかとも見られている[要出所明記]。


[編集] 年表
1972年 - ヴェルピライ・プラブハカランによりLTTE結成。
1985年5月14日 - 仏教の聖地アヌラドハプラでシンハラ人146人を射殺。
1987年4月21日 - コロンボで爆弾テロ、100人以上が死亡。
1991年5月21日 - 自爆テロにより元インド首相ラジーヴ・ガンディーを暗殺。
1992年11月16日 - 自爆テロにより海軍司令官クランシ・フェルナンドを暗殺。
1993年5月1日 - ラナシング・プレマサダ大統領を暗殺。
1994年10月24日 - 大統領候補ガミニ・ディッサナヤキを暗殺。
1995年1月7日 - 事実上の停戦に入る。
1995年4月18日 - LTTE、停戦破棄を一方的に宣言。翌19日、2隻の汽船を爆破。
1995年10月17日 - 政府軍、ジャフナ半島奪還を目標とする「陽光」作戦を発動。
1995年12月5日 - 政府軍、ジャフナ半島全域を制圧。LTTEは根拠地をキリノッチに移す。
1996年1月31日 - 自動車爆弾により中央銀行の建物を爆破、91人が死亡。
1996年7月18日 - 政府軍キャンプを襲撃、兵士1,200人が死亡。
1996年7月24日 - 列車を爆破、70人が死亡し、約60人が負傷。
1996年10月15日 - 政府軍、キリノッチを占領。
1997年10月 - LTTE、大規模な反攻作戦を開始。政府軍は各地で敗北、三つの都市と多数の物資をLTTEに奪取される。
1998年1月25日 - 仏教の聖地ズブ寺院を爆破、13人が死亡。
1998年3月5日 - バス爆破、30人が死亡。
1998年5月17日 - 親政府派のジャフナ市長(タミル人)を暗殺。
1998年9月28日 - キリノッチ、LTTEにより奪還される。政府軍の死傷者は約4,000名に上る記録的大敗となった。
1999年9月18日 - シンハラ人の村落を襲撃、50人が死亡。
1999年11月 - LTTE、ジャフナ半島への攻勢を強化。
1999年12月18日 - コロンボでの集会で爆破、15人が死亡。チャンドリカ・クマラトゥンガ大統領は目を負傷。
2000年4月22日 - LTTEの総反攻により、エレファント・パス基地陥落。多数の政府軍部隊がジャフナ半島北部に孤立する。
2000年 - ノルウェーの調停で停戦。
2001年7月24日 - LTTEの14名の特攻隊がコロンボ近郊の政府軍空軍基地と隣の国際空港を襲撃し航空機を爆破。戦闘機3機、ヘリ2機、練習機3機、旅客機3機を大破、旅客機3機が損傷した。これにはイスラエルから輸入したばかりのクフィル戦闘機やエアバスA-340が含まれる。国営航空会社「エアランカ」の全12機の半数の6機が一夜で失われた。[1]
2002年2月22日 - LTTEと政府は無期限停戦に合意。[1]
2002年3月18日 - 政府はLTTEの非合法化を解除。タイでの第1回和平交渉を開始した。2003年6月18日の神奈川県箱根の第6回和平交渉までに地方選挙を行なうことで基本合意した。[1]
2003年4月 - LTTEは政府軍の撤退時期や撤退規模に不満を表明し、第7回和平交渉をキャンセルした。[1]
2003年6月9日 - 世界中の70ヶ国代表が東京に集まり、総額45億ドルの支援を決めた「東京宣言」を採択したスリランカ復興支援会議にもLTTEは欠席した。[1]
2003年10月 - 米国務省はLTTEを国際テロ組織と指定。[1]
2004年12月19日 - スマトラ島沖地震が発生。[1]
2004年 - カルナ派がLTTEから分離。スリランカ政府の離間工作によるものと見られ、以後政府軍の支援を受けてLTTE中央に対し闘争を開始する。
2006年2月22日 - 政府とLTTEがジュネーブで会談し停戦を確認。[1]
2006年4月24日 - ジュネーブでの停戦協議予定をLTTEが無期限離脱を宣言。テロ攻撃を開始。[1]
2006年 - 政府軍がLTTE北部拠点の空爆を開始。
2006年5月29日 - EUはLTTEをテロ組織と指定。[1]
2007年1月19日 - LTTEが住民を人間の盾としていた東部バティカロア県ワーカライを政府軍が奪取。LTTEは大量の武器弾薬を遺棄し、東部での支配権をほぼ喪失した。
2007年3月26日未明 - LTTEのチェコ製改造軽飛行機2機がコロンボの北35kmの政府軍の「カツナヤカ」空軍基地を初空爆。兵士3人死亡、16人負傷、軍用ヘリ数機損傷、整備棟の一部が損壊。[1]
2007年7月 - スリランカ政府軍及びLTTEカルナ派、東部でのLTTE最後の拠点トッピガラを奪取。東部地域の全域が政府軍の支配下に置かれる。
2007年9月 - スリランカ政府軍、北部州マナー県への侵攻作戦を強化。
2007年11月2日、政府軍のスリランカ北部キリノッチで空爆により、LTTEのナンバー2で政治部門トップであり、和平交渉の窓口であったタミルセルバン氏を含む6人が死亡。
2008年4月6日、首都コロンボでLTTEのものと見られる爆弾テロにより、ジャヤラジ・フェルナンドプレ高速道担当相を含少なくとも12人が死亡。

[編集] 闘争形態
インド情報機関の情報[要出典]によれば、LTTEは、約1万人のゲリラ兵と3千〜6千人のテロ要員を擁している。LTTEは、スリランカ北部と東部の沿岸州で軍事行動を展開し、全土でテロ攻撃を行っている。リーダーはヴェラッピライ・プラバハカラン(Velupillai Prabhakaran)。

LTTEは、世界タミル協会、世界タミル運動、在カナダ・タミル人協会連盟等の国際組織から合法的に開設された銀行口座を通して資金援助を受けており、旧ソ連諸国から武器を調達している。武器は、小火器が主体だが、高速艇等の船舶も有しており、インドとスリランカを隔てるポーク海峡には、しばしばLTTEの海賊が出現する。さらに、LTTE側からスリランカ海軍の護送船団に襲撃する事もあり、同海軍との海戦に発展する事もしばしば[要出所明記]ある。

LTTEの新兵は、厳しい教育とイデオロギー工作を受ける。これらの訓練の終了後、戦闘員には、敵が彼らを生け捕りにできない ように、青酸入りカプセルが手渡される。統計上でも、青酸が頻繁に使用されている。テロ活動の全期間に渡って、捕虜となったのは1人だけである[要出典]。

LTTEの兵士は、自分自身の生命も、他人の生命も評価していない。彼らは、自爆テロで悪名高く、実行者の中には女性も存在する。

スリランカ政府の分裂工作により、LTTEの東部方面司令官だったビニャガマムーシ・ムラリタラン司令官(通称カルナ司令官)ら数百名のカルナ派が分派し、東部地域において抗争状態に陥っている。

同派の闘争形態も母体であるLTTEと同様にテロルを多用するもので、2005年12月25日にはLTTEに近いタミル国民連合(TNA)のジョゼフ・パラジャシンハム議員暗殺事件を敢行したほか、AP通信の報道によれば[要出典]2006年中に東部一帯で少年ばかり数百名を自軍に加える目的で拉致し、政府軍もこれを黙認したとされる。


[編集] 国際的非難

[編集] 少年兵問題
未成年者を少年兵として利用していると、世界中[要出所明記]から非難されている。 LTTEの戦闘員は、タミル人の農村から未成年者を強制的に徴兵している。子供を戦争に送りたくない親達は、政府軍の支配地に逃れているが、それでもLTTEの戦闘員はどこからともなく現れ、子供を連れ去っている。子供が就学している場合、卒業後LTTEに入隊することを条件に徴兵を猶予されることもある。 強制的に徴兵された子供達は、LTTEの訓練キャンプで十分なイデオロギー工作を受け、やがて自分をタミル人のための自由の戦士と考えるようになる。そして、今度は自分が子供達を兵士に勧誘する立場になる。 未成年者の徴兵は、タミル人内部でも批判の声があり、1990年代から子供を取られた両親や人権擁護組織は、子供達の返還を要求し始めた。1998年、国連の特別監視団がLTTEの支配地を訪問したが、LTTEは17歳未満の子供を徴兵していないと請け負った。しかしながら、両親達はこのことを信じておらず[要出典]、LTTEの支配地から逃れることを選んでいる。


[編集] 出典
^ a b c d e f g h i j k 軍事研究2007年6月号「『タミル・イーラム解放の虎』の空爆作戦」

[コメント]
 これから見ると、スリランカ政府による人権弾圧ではなく、タミル・イーラム解放のトラ側のゲリラの人権問題があるし、更に共産主義毛沢東派の反道徳性の集団ではないですか。スリランカ政府が弾圧ではないかという問題に少し疑問をもつが。犬塚議員の見識を少し問わなければならない。フランス革命のギロチン革命を正当化する妻の教えではないのか。フランス革命の反人道ギロチン革命こそ、人権問題では重要な問題である事を忘れないで欲しい。タミール人は、インズー教の信者といっている。インズー教の神は、殺人の神でも有名な神である事を忘れてはいないのか。

 何故、内戦が起きたのか事から、スリランカの人権問題を解き明かさなければならない。国際連合の人権委員会の言葉を鵜呑みして活動している事が、非常に危険な事である事をいつになったら分かるのか。

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