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【「大室寅之祐→明治天皇考概論」】    【れんだいこ】
http://www.asyura2.com/09/bd55/msg/463.html
投稿者 愚民党 日時 2009 年 3 月 29 日 22:47:47: ogcGl0q1DMbpk
 

(回答先: 映画 大室寅之祐   1   【youtube】 投稿者 愚民党 日時 2009 年 3 月 27 日 00:18:44)

http://www.gameou.com/~rendaico/mikiron/nakayamamikikenkyu_40_1_meigitennoco.htm


【「大室寅之祐→明治天皇考概論」】

 「明治天皇の出自疑惑」については概要次のように整理できるようである。  明治天皇の出自及び王統系譜に関する疑問が発せられている。これについては早くより識者が個別に指摘し続けてきていたところ、1999年、鹿島昇・氏が「裏切られた三人の天皇 ─ 明治維新の謎」で精緻に論証したことで衝撃を与えることになった。鹿島氏は、同書に於いて、概要「孝明天皇は、幕末の倒幕・佐幕両派の抗争過程で、岩倉具視と伊藤博文ら長州志士等によって暗殺された。長州藩はその後、南朝光良親王の子孫(血統)である大室寅之祐を擁立し、孝明天皇を後継した睦仁親王(京都明治天皇)にスリ替えた」との説を唱えている。

 これを仮に鹿島説とすると、「明治天皇として即位したのは、それまでの北朝系ではなく、熊沢天皇同様の南朝系の末裔にして長州藩が秘匿擁立してきた大室家の寅之祐(おおむろとらのすけ)である」ということになる。倒幕派は、「長州に住んでいた南朝の末裔と称されていた大室寅之祐を擁立し、北朝系に代えて南朝系の大室寅之祐を睦仁親王の名で以て身代わり即位させ、幕末政変で勝利するや東京遷都し、終生本物の明治天皇として振舞わせた」ということになる。

 明治天皇の即位前の名前は、睦仁親王である。睦仁親王は、孝明天皇逝去後、「幼君」として擁立されたが、この睦仁親王は暗殺され、長州が仕立てた大室寅之祐が睦仁親王を騙って身分を継承した。従って、明治天皇となって即位したのは睦仁親王ではなくて大室寅之祐であるということになる(「明治天皇すり替え説」)。こうなると、「睦仁親王」と後に「明治天皇」として知られる東京明治天皇は別人であり、「皇家クーデター」が起っていたということになる。実に、明治維新とは、「明治天皇すり替えによる王朝交替だった」ことになる。 

 「明治天皇替え玉説」の根拠として、睦仁親王時代の即位前の写真と即位後の明治天皇時代写真の様子の違いが挙げられている。一言で云えば、即位前は腺病質な姿が語られているのに即位後は威風堂々としており、とても同一人物とは思えないという説である。

 つまり、倒幕派は、当初は攘夷派であったが途中で時代の流れに合わせて「開国維新」に転換した。ところが、孝明天皇は、この時代の流れを拒否し、「鎖国攘夷」に固執しつつ「公武合体的佐幕」を志向した。孝明天皇急逝後を後継したその皇子の睦仁親王(京都明治天皇)も孝明天皇と同じ路線を踏襲した為、共に暗殺された。

 補足すれば、孝明天皇の住む御所並びに京都市中の治安維持の総責任者・京都守護職に、会津藩主・松平容保(かたもり)が当たった。この容保公も孝明天皇の信任を得ていた。つまり、幕末維新過程で、最後まで「逆賊」として抵抗した会津松平家は、孝明天皇以来の忠義を貫いたことになる。というか、薩長の不義を告発し続けていたことになる。

 以上のような指摘が更に深化させられ、最新では次のような見解が登場しつつある。竹下氏同様に太田龍・氏は、新著「長州の天皇征伐」(成甲書房、2005.10.20日初版)で、「明治天皇すりかえ説」には同調しつつも、「大室寅之祐が南朝の末裔という証明はない」と疑問を述べている。太田氏は更に新説を紹介し、次のように述べている。   概要「北朝系に代えて南朝系の明治天皇として即位した大室虎吉→寅之祐は、母の代に連れ子で大室家に入籍しており、南朝皇室系とされている大室家の血筋を引いていない。正確には地家作蔵の血統である。更に、大室家の家系図も大室家として辿れるのは4代前辺りまでであり、大室家が南朝の末裔であるとの確証の裏づけも無い。いずれにせよ、大室虎吉→寅之祐は南朝云々とは関係がない、と言うことに成るであろう。この説については、今後、検証して行く」。

 これらに付随して、次のような奇説も発表されている。れんだいこは、あまりなこと故に判断を留保するが安易には退けがたい。  「明治天皇は大室家から出たのみ ならず、昭和天皇は大正天皇の子ではなく、大室近祐の息子徳川恒孝の子である。更に、大正天皇は、東久邇宮稔彦の息子三笠宮崇仁の御子である。大室系を南朝と呼び、(実は水戸斉昭の子である)中川宮朝彦系を北朝と称する」。
 「橋本龍太郎の父龍伍は橋本卯太郎と大室ヨネの間の子である。大室ヨネは大室寅之祐の弟庄吉の娘であるから、 橋本龍太郎は明治天皇(従って今の皇室)と同じ家系云々」。

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【「大室寅之祐→明治天皇すり代わり考詳論」】
 以下、地家寅吉→大室寅吉→(寅助)→寅之祐→明治天皇」に至る過程を追跡検証してみたい。

 1、地家寅吉が大室寅吉になるまでの経緯
【大室寅之祐の父母】
 後に即位して明治天皇となる大室寅之祐の本当の父親は、作蔵(生年月日は不明 〜1887.4.24日)である。元々は苗字も無い海賊某の息子であったが、地家吉佐衛門(1840.3.12日没)の養子と成り、地家姓を名乗ることになった。「地家」の名前の由来は「村の中心」と言う意味とのことである。地家作蔵は、田布施町麻郷地家に住み着いた。
  作蔵は、 廻船業者で明治20年に死ぬ迄その職に有ったと伝えられている。多い時で15人位の部下を持ち2隻の船を使って、屋根瓦を屋根にくっ付ける時に使う粘着剤の役を果たす特殊な泥を田布施 町麻郷から愛媛迄運んで、時には大坂湾迄運び、利益を得る仕事で営んでいたと伝えられている。これは、「田布施町のタブー」とされている。
 1843年頃、大谷家の血筋で、京都浄土真宗興正寺派の昭(ショウコウ)坊(照景?)が何かの理由で娘の興正寺基子(スヘ。始めは末子、季子、後に基子)(1831.5.1〜1855.11.20日)を連れて、興正寺から田布施町麻郷地家の西円寺にからやってきた。
 1849年頃? 、一代で財を成した作蔵が西円寺の東隣に家を建てる。これが縁で、そこで浄土真宗興正寺派の西円寺の寺娘のスヘと知り合う。
 1846.5月頃(1844年頃)、地家作蔵は満20歳の時、スヘ(満13歳)と結婚する。
 スヘが満14歳の頃、第一子(男児?)をもうけるが1歳弱で病死した。その後、夫婦の間には長女ターケが生まれる(1847.4.14日誕生)。
【大室寅之祐の誕生】

 1850(嘉永3).1.10日、長男虎吉が、スヘの実家の西円寺で誕生している。作蔵がおよそ25歳、スヘ18歳の時の子と云われている。この虎吉が後に寅之佑となり明治天皇になったとされる。

 奇しき事に、「寅吉は1850(嘉永3)年生まれ、睦仁親王1851(嘉永4)年生まれのほぼ同じ年」となる。鹿島説が史実とすると、このことが「すりかわり」の下地となる。
 続いて、次男・庄吉(通名は省吉)、三男・朝平(通名は浅平、浅蔵とも)の3人の子が生まれた。
【両親の離婚】

 1854年初頭(5月頃?)、作蔵とスヘは離婚している。作蔵は、長女ターケと三男朝平を引き取り、スヘが長男虎吉と次男庄吉を引き取った。スヘは、西円寺の実家へ戻ったと推測される。
 他方、大室弥兵衛(1813.6.14日〜1879年)は、文右衛門の娘ハナ(1815.12.5日〜1903.2.1日)との間に子供が二人出来たが、二人とも早死した(1人目は1849.4.14日、2人目は1853年に早死)。その後、離婚もしくはハナは死亡したようである。

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 1853(嘉永6).6.3日、黒船(ペリー艦隊)来航。
 6.22日、将軍・家慶薨去。徳川家定が第13代将軍 に就任。

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【大室家とは】
 大室家(後大室家)は、頼山陽によって家系図が整備されている。これによると南朝系の皇室系譜になる。天皇家は南北朝動乱の後、代々北朝の流れが継いでいた。南朝は99代の後亀山天皇で絶え、歴史上では滅亡したことになっている。しかし実は、南朝である後醍醐天皇の子孫が正系と傍系に分かれて生き延びていると云う。

 正系は、後村上天皇―長慶天皇―後亀山天皇―良泰(ながやす)親王の系譜である。良泰(ながやす)親王は、南朝の崩壊とともに関東に落ちのび、江戸時代まで水戸藩の庇護を受けた。これが熊沢天皇家として登場してくることになる。傍系は、尊良(たかなが)親王(東山天皇)一守良(もりなが)親王(興国天皇)一興良(おきなが)親王(小松天皇)―正良(まさよし)親王(松良天皇)の系譜である。傍系の正良(まさよし)天皇には、兄の美良(よしなが)親王、弟の光良(みつなが)親王という二人の皇子がいて、美良(よしなが)親王は、三浦佐久姫を妻として三浦藤太夫と名を変え、現在の愛知県豊川市に移り住んだ。これが三浦天皇家として登場してくることになる。

 頼山陽史観によると、1399年の応永の乱後、1400年、南朝系の皇子光良親王(後醍醐天皇の皇子尊良親王から5代正良親王の皇子)が大内弘茂に連れられて吉野から長門国の麻郷に下向(亡命)してきていると云う。この時の周坊の状況が次のように記述されている。  大内義弘(弘茂の兄)は、幕府の依頼により南北朝の和解を周旋した。義弘が南北朝の間を取り持ったのは、彼が南朝の徒党と近い関係に有るのを見込まれたからである。南北朝末期や室町時代の南党は土地に固着しない賊党的乃至海賊的稼業を行って渡世する外無くなり、南大和の天険に出入りしながら広い連絡を各地と保った様で有る。

 当時、内海の海賊も漸く大内氏の統御に入りつつあり、明徳の乱(1391年)後は、紀伊・和泉の賊党も同様の関係に入って来たのでる。南北朝の合一も、大内氏の豪強も、その不可解と見られる反幕的画策も、共にこうした反逆児的な南党と結びついた因縁を無視出来ないと思われる。(福尾猛市郎『大内義隆』日本歴史学会編)

 江戸300年間、長州藩は、この皇統を秘匿しつつ養い続けた。かくして、幕末に俄かに登場してきた大室家は、1794年から始まり、出自は南朝後醍醐天皇の玄孫・光良親王の末裔で、光良親王が1400年に吉麻郷に亡命してからの株別れの家系で、この時点で23代500年以上続いている朝家ということになる。つまり、南朝の皇統を継ぐべきものとしては、大室天皇家、三浦天皇家、熊沢天皇家の三つがあるということになる。

  但し、大室家の皇統譜について、大室近祐氏が、地家の西円寺の過去帳を調べて次のように疑問を発している。  概要「大室家は1800年頃(文政時代)に麻郷家から分岐し、大室文右衛門を名乗ったところから始まる。2代目の頃、大室家は村の大庄屋となり家が繁栄した。同じ頃、頼山陽によって大室家の家系図が整備された。2代目は子供に恵まれず、大室又兵衛の息子大室弥兵衛が文右衛門の娘ハナと結婚し大室文右衛門家(大室本家)の養子に入って大室本家3代目として家督を継ぐ。ハナと弥兵衛との間に子供が2人できたがどちらも早死にした。大室家として判明するのは1800年頃からであり、『この時点で、大室家が光良親王(1400〜)から23代500年以上継続している』は確証が無く粉飾である」。
 

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【母が大室弥兵衛と再婚し、虎吉は大室虎吉を名乗る】
 1854年下旬(10月頃)、地家作蔵と離婚したスヘ(24歳)は、1855.1月頃、大室弥兵衛の後妻(二号)となっている(地家朝平の孫の地 家武雄、93歳時の証言)。これに伴い、長男の虎吉は大室虎吉に、次男の庄吉は大室庄吉と名乗ることになった。
 1855.11.20日頃、大室弥兵衛とスへの間に大室寅之助が生まれたが直後、スヘが死亡した(西円寺池で入水自殺との大室近祐説もある)。スヘは産後のひだち悪く肺結核で死亡したと云われている。この時、寅吉(後の寅之祐)はかぞえ6歳だった。スヘの位牌の法諡は「謙徳院殿叡仁基成大姉居士」とあり、浄土真宗で最高級の名前が贈られている。

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 2、大室寅吉が「玉」になるまでの経緯

 【大室家の血統断絶】

 スヘとの間に出来た4代目になる大室寅之助も、虚弱体質で1歳数ヶ月で早死(〜1857.6.22日)。これにより、大室家の血統は断絶したことになる。
 大室弥兵衛はその後、文右衛門の娘ハナ(1815.12.5日生まれ、当時40歳?)と再々婚した。
 【大室虎吉が大室家を家督相続する】

 この間、虎吉、庄吉らは継母(ままはは)に育てられた。1879年、大室弥兵衛も死亡する。これにより、本来は地家作蔵の息子である大室虎吉と大室庄吉が大室家を相続した。

 大室庄吉の子供たちは次の通り。長男・儀作(明治19年11月23日生)、長女・モト(明治 4年 1月 8日生)、次女・タカ(明治 8年11月24日生)、三女・ツネ(明治11年11月 1日生)、四女・ヨネ(明治14年10月24日生)、五女・ツユ(明治17年 6月28日生)、次男・音吉(明治22年 9月26日生)。

 他方、地家作蔵に引き取られた三男地家朝平の子孫は、山口県田布施町に現存して居る。

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 1858(安政5).4.23日、 彦根藩主・井伊掃部頭直弼(かも んのかみ-なおすけ)が大老職に就任。慶福(よしとみ)を井伊が推して将軍継嗣と し、将軍継嗣を争った慶喜は江戸登城停止処分を受ける。
 7.16日 将軍・家定薨去。安政大獄が開始される。
 慶福は家茂と改名し、第14代将軍に就任。
 1859(安政6).10.27日、吉田松陰が刑死する(「幕末草莽の志士列伝」)。

 1860(万延元).3.3日、桜田門外の変が起り、井伊大老が暗殺される。
 1862(文久2).7.1日、一橋慶喜が朝命により将軍後見職に就任する。
 7.6日、長州藩が、長井雅楽(う た)の航海遠略策を放棄し、尊攘(尊皇攘夷)に鞍替え。慶喜をあてにして倒幕路線 を進み出す。
 1863(文久3).4.20、幕府が、朝廷に対して、5.10日を攘夷期限と上奏。
 5.10日、長州藩、この日より馬関(下関)において、米・仏・蘭艦を砲撃開始(攘夷実行)。
 7.2日、薩摩藩、薩英戦争に敗北し、開国に路線転換。

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 高杉が奇兵隊を結成する。この奇兵隊に伊藤博文を隊長とする力士隊が参加する。力士隊は第二奇兵隊に所属し、屯所(とんしょ)を大室天皇家のあった麻郷(おごう)近くの石城(いわき)山においた。これが大室寅吉の奇兵隊入隊の伏線となる。
 【大室虎吉が南朝の末裔として注目され始める】

 大室寅吉が奇兵隊に参加する。この頃より、大室弥兵衛とスヘの間に生まれた大室家4代目にして夭折した大室寅助になりすまし始めた。寅吉の大室家の血筋が注目を浴び始める。

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 8.18日、薩摩・会津両藩、幕府と連合し て公武合体派クーデターを起こし、長州系尊壊派を追放。この政変により長州尊攘派、七卿とともに京都より追放される。そのため朝敵となった長州藩在京勢力は三条実美ら七卿をともなって長州麻郷の大室家に落ち着く。

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 都落ちして長州にやってきた三條実美ら七卿が大室家に滞在中、 かぞえ14歳になったばかりの寅吉を見て喜び非常にかわいがり慈しみ日々をすごしたという。今でも麻郷には三条実美らが滞在したと言われる石碑がひっそりと残っている。
 1863年から1864年までの間、伊藤俊輔が麻郷の大室家に立ち寄るようになった。伊藤については「幕末人士列伝」で略述する。伊藤は、寅吉を「玉」(将来の天皇)として関わり始める。このときの寅吉との深い関係が、維新後の伊藤博文の権力を作ることになる。

 大室寅吉の弟・庄吉の孫・大室近祐は祖父庄吉から聞いたとして次のような話を紹介している。  「わしがか ぞえ12,3歳のころ、伊藤俊輔は毎日のように家に来て兄(寅吉)を連れだし、 石城山に登っていた」 。

 石城山は練兵場となっており、この頃、寅吉は、常時400人近い兵と共に銃陣訓練 を重ねていた。時には近くの皇座山で鹿狩りや、乗馬、剣術、角力をとって鍛えていた。鹿島昇氏が新国民社から公刊した「裏切られた三人の天皇 ─ 明治維新の謎」の中で、「明治天皇が奇兵隊に属する力士隊士大室寅之祐であるとの説」を述べている。
 【吉田松蔭が擁立していた大室虎助の動向】

 歴史は不思議で、この時代もう一人の大室虎助がいたようである。こちらの虎助は、萩に在住している南朝の満良親王の血を引くとされている大室弥兵衛の弟?・大室惣兵衛の息子の大室虎助であり、吉田松蔭は、(寅吉と庄吉は連れ子で、南朝大室家の血統ではないから)こちらの虎助を玉にしようとしていた。この虎助は京都の睦仁親王と同じ年であった。(ちなみに紛らわしすぎるので、寅吉の方の寅助は寅吉として確認していくことにする)

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 1864(元治元).1月、将軍・家茂が老中と共に薩摩藩の開国論に反対し、上洛して壊夷を主張。慶喜も変節してこれに賛成する。中川宮邸において、慶喜は、島津久光(薩摩藩)・松平慶永(福井藩)・ 伊達宗城(仙台藩)と口論し、参線会議が解体する。慶喜、将軍後見職を辞して禁裏御守 衛総督を拝命。
 (この頃より、将軍家茂の暗殺が計画され始める。薩摩藩も孝明天皇を暗殺しなければ、開港不可能と考え、横浜鎖港を通告された英国 もこれに同意したと思われる)
 7.19日、蛤(はまぐり)御門の変 。
 睦仁親王 (当時13歳)は、「禁門の変」の際、砲声と女官達の悲鳴に驚き「失神」した、と伝えられている。
 
 「孝明天皇と中山慶子との間の子ども「本当の明治天皇」は流産した。 だから京都明治天皇も人攫いつかって誘拐してきた男児をすり替えて京都明治天皇と した。しかも虚弱体質で孝明天皇の子ではないから即位当初から御所内が大混乱に なった。当面は中川宮朝彦と中山忠能らが御所の政治をしきった。」
 7.24日、第1次長州征伐(征長の役)。
 8.5日、四国(列強)艦隊、馬関を砲撃。

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3、「大室寅吉玉」の伏せこみ期
 【大室寅吉が奇兵隊天皇として歴史に登場する】

 1865(慶応元).1月、数え年16歳の時、寅吉は、高杉晋作による功山寺挙兵に参戦。「錦の旗と南朝の首飾りをつけ、萩へマンジュウつくりにいってくる」(「マンジュウつくりに行く」とは「人の死体の山を築きに行く」と言う意味で平たく言えば「人切りしに行く」という意味)の言葉が伝えられている。その為かどうか、3歳下の次男庄吉は、別府村の高城家に預けられて別居することになった。
 5.10日、英国公使パークス、木戸・井上と会談。
 【大室寅吉が伊藤博文らと共に長崎のフルベッキの下へ参集する】

 8月、大室寅吉は長ずるに及び、伊藤博文らと共に長崎のフルベッキの下へ行っている。
 1866(慶応2).1.12日、薩長同盟成立(敗北者同志の同盟)。この時、桂小五郎(=木戸孝允)は、「わが長州としては、南朝の御正系をおし立てて王政復古をしたいのだ」と西郷を口説き、これを聞いた西郷は、自身が南朝の大忠臣・菊池家の子孫だったこともあり、「ようごわす」と南朝革命に賛同し、薩長軍事同盟を締結、薩長が尊皇倒幕にまとまった、との説がある。
 【大室寅吉の貴重写真】

 1月か2月頃、フルベッキ塾生全員で撮った記念写真が残されている。「http://www.dokidoki.ne.jp/home2/quwatoro/bakumatu/ishin.html」 (寅吉が前列の左から7番目の白い服を着て映っている。中央のフルベッキ(外国人)の真下の左の白い服着た方である。フルベッキの 真上のやや左が西郷隆盛)
 6.7日、第2次長州征伐開始。慶永は しきりに反対するも、鹿島説では「慶喜はこの戦いで大室寅之祐(寅吉)に関する支配権を求めた」と記されている。

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 6月、睦仁親王(14歳)が、皇太子妃として尊皇攘夷派の左大臣一条忠香の三女・勝子(まさこ、後に寿栄姫、18歳)と見合い成婚。一条寿栄姫は、皇太子妃として入内の後は美子(はるこ)と改名した。美子は、数奇な運命を辿ることになる。
 6.17日、英国公使パークスが島津久光・西郷吉之助(隆盛)等と会談。

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 7.15日、「皇太子時代の明治天皇が長州へ御微行」と言う奇々怪々な史実」。これにつき、太田龍・氏が「2005.11.24日付bP503の時事評論」の中で明らかにしている。これを概略整理しておく。大正時代、井上正雄氏がまる十年の時間をかけて完成出版した 「大阪府全志」(全五巻、六千余頁)の第三巻で、豊川村の郡山本陣の項)で、「ここの御本陣、梶家の伝によれば」として次のように記されている。  「慶應二年七月十五日明治天皇が皇太子でいらせられた時、長州へ御微行の御道すがら、芥川本陣に御宿泊あらせられんとしたが、山崎に合戦があったので俄かにここを立ち退いて郡山本陣に御移りあり、翌日駕籠で御出発あらせられたが、吉川監物以下三十名抜刀にて又坊主頭八名が薙刀(なぎなた)を携えて御守護申し上げたという。当時御下賜になった菊御紋章付の夏夜具は今に同家の宝物として残って居る」。

 太田氏は次のように指摘している。  概要「これは、実に奇妙な説である。『明治天皇が皇太子・・・・・・』云々とある、この皇太子とは、もちろん、孝明天皇の皇太子睦仁親王でなければならない。『慶應二年七月十五日』とは、徳川十四代将軍家茂が大阪城で暗殺された七月二十日の直前である。そしてこの年の十二月二十五日には、孝明天皇が弑逆されて居る。当時、孝明天皇は、長州とはきわめて険悪な関係にあった。丁度その頃に、皇太子睦仁親王が、長州に、秘密のうちに旅行するなど、まったく辻褄が合わない。そんなことはあり得ない。しかし、『長州の大室寅之祐』と解釈すればこの伝説は、意味深重と成るであろう」。

 井上正雄氏の記述の正しさが問題となるが、井上正雄氏が明治末年から大正八年にかけて調査した時点では、郡山御本陣の梶家は現存し、そして江戸時代の宿帳がそっくり保存されて居たことで確かめられている(この宿帳が、今現在どう成って居るかは分からない)、とある。

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 【将軍家茂が急逝する】

 7.20日、将軍家茂が第二次長州征伐で大阪城に到着後、急逝している(享年21歳)。朝廷差向けの医師と称する者に毒殺された、とする説がある。大阪城中で死亡。8.20日、幕府ははじめて喪を発し、家茂の遺骸は船で9.6日江戸に運ばれ、9.23日に葬儀が行なわれ、芝の増上寺に葬られた。

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 9.9日、京都の上賀茂神社では毎年9.9日に烏祭(からすまつり)と称して奉納相撲が行われるが、この年の奉納相撲の出場者の中に「大室寅介」とい う名前があるとのことである。

 大室庄吉(近祐氏の祖父)が奇兵隊所属の力士隊に大室寅介と言う名前で参加しており、明治維新後、奇兵隊の残党として1868年1月下関宰相に投獄されていた事が判明している(「萩東照宮文書」)。
 【大室寅吉が吉田松陰の母に帝王学を学ぶ】

 10月末頃、それまで戸籍名大室寅吉(通名大室虎吉)はこのころ、松蔭の母・杉瀧子によるしつけ教育をうながすため俊輔が麻郷から「玉」を連れ出し萩の杉家(松蔭の実家)へ移す。松蔭の母・杉瀧子によるしつけ教育が始まる。
 10月、伊藤俊輔が寅吉を萩の杉家(松陰の実家)へ連れ出した後、庄吉が実家の大室家に戻る。
 この間、力士隊が護衛している。麻郷では寅吉が行方不明になったというので大騒ぎになっている。田布施町麻郷の村人が手分けして探した。(庄吉はこのとき上関宰判所へ呼び出され、大庄屋時政藤五郎の取調べを受け、小役人たちに拷問されたが、歯を食いしばってがんばりとおし、遂に行方を白状しなかったという)

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 【孝明天皇急逝する】

 12.25日、孝明天皇が堀河紀子邸において急逝している。岩倉が便所の箱番を買収し、伊藤博文に刺殺又は毒殺された、とする説がある。これについては、「孝明天皇暗殺考」で検証する。
 【睦仁親王が践祚し、即位して明治天皇になる】

 1867(慶応3).1.9日、睦仁(むつひと)親王が践祚し、即位して明治天皇になる(16歳)。明治と改元された。通称、幼帝と云われた。後の絡みで仮に「京都明治天皇」とする。睦仁親王(京都明治天皇)は、先帝・孝明天皇の政策「攘夷」を継承し、基本的に「佐幕攘夷」(親徳川=公武合体派)を表明する。

 即位当初の京都明治天皇の写真が遺されている( http://www.dokidoki.ne.jp/home2/quwatoro/bakumatu3/meiji.html)。これを見ると、明治維新後の東京明治天皇の写真( http://www.dokidoki.ne.jp/home2/quwatoro/bakumatu3/meiji2.html)」と比べると明らかに人物が違って見える。
 「日本の歴史学講座」の「有馬範顕卿御一代記」 の「6・暗殺の頻繁化と孝明天皇の暗殺」によれば、睦仁親王に対抗する形で、有馬・中川宮派による公武合体派総帥である中川宮朝彦親王を即位させようとする動きがあったという。

 幕府、大量の軍艦・輸送船を購入。横浜 で歩兵・砲兵・騎兵の訓練を開始(約5000人)。幕府に金がなくロッシュ公使を通じ て仏国から生糸輸出権を抵当として借款を受ける。将軍慶喜、内政・外交全般にわ たって、ロッシュ公使の助言受ける(通訳は渡辺歌女)。

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 4、孝明天皇急逝、睦仁親王が践祚し、明治天皇として即位、明治天皇急逝に至るまでの経緯
 この頃と思われるが、寅吉は、寅助から寅之祐と改名している。
 3月下旬、「玉」は田中光顕や力士隊に守られて萩から周防高森に移る。手紙がきて寅之祐が上洛するから大室弥兵衛が高森までおみまいにいったが寅之祐にあえず、麻郷へ帰ったという。それから「玉」は一時期通化寺の遊撃隊屯所に滞在していたが岩国新湊から英国船で品川弥二郎や中岡慎太郎とともに上京して4.13日、二本松の島津屋敷に入った。
 3月頃、大室寅之祐が萩から京都へ上洛する。
 6.16日、島津久光が、山県・鳥尾に対して、西郷を萩に行かせると約束する。
 【大室寅之祐(寅吉)が西郷隆盛らと共に上洛】

 6月下旬、西郷隆盛が大室寅之祐と共に上洛している(鹿島説)。
 6.23日、大室寅之祐の教育係として鍋島直正が入京し、大室寅之祐を半年余教導している。

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 6.24日、仏国公使ロッシュ、小笠原長行と 会談。6.25日、英国公使パークス、小笠原と会談。
 【睦仁親王(京都明治天皇)が急逝する】

 7.8日、「中山忠能日記」によれば、「新帝は学問所で遊戯をして手に負傷した」、「慶子が武士を使って子どもほどもある仏像の包みを中山家に届けさせた」とある。

 これは、「睦仁親王(京都明治天皇)が手に軽傷を負い、伊良子光順らの侍医が膏薬を貼り、これが毒入りで急逝した」と解され(「匿名希望G氏のコメント」)、「遺体はぐるぐる巻きに布に巻かれて、実家の中山家に送り返された」とも解されている(「明治維新の真相」)。これが真相なら、睦仁親王の明治天皇としての在位は、慶応3年1月から7月までの僅か7ヶ月であったことになる。

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 【大室寅之祐(寅吉)が睦仁親王(京都明治天皇)に成り代わる】

 7.19日、「中山日記」に、「寄(奇)兵隊の天皇」との記述がある。暗殺された睦仁親王(京都明治天皇)に代わり、大室寅之祐が天皇にすり代わった、とする説がある。これを仮に大室明治天皇(大室寅之祐)とする。「明治天皇紀」に「7月、中山慶子5ヶ日の宿下がり」とある。

 鹿島氏の「裏切られた三人の天皇 ── 明治維新の謎」は次のように記している。  「南朝滅亡ののちに長州に潜んで南朝の光良親王の子孫と稱する大室 寅之佑が西郷に伴われて薩摩邸に入り、岩倉と中山忠能の助けを 借りて睦仁とすり代わってついに南朝の天皇家が復活した」。
 「中山や岩倉は天皇の遺体を洗い清めて食中毒という事にして睦仁に見せたから、睦仁も一応は納得して慶応3年1月9日に踐祚せんそした。先帝には同年2月16日、正式に孝明天皇の謚(おくりな)が贈られたが、 睦仁は宮中の慣習によって女装して女言葉を話すなど、16歳にしては体格も悪くて華奢な少年で、かって岩倉のオチゴさんであった孝明の血統を引く天皇であった」。

 次のような異説がある。  概要「京都御所にいた睦仁(京都明治天皇)は京都御所から追放され、御所を脱出。その後、比叡山方面の某寺に入り僧として維新後も生き延びた。 鹿島昇が京都明治天皇は暗殺されたと書いているのは間違いで、京都明治天皇はこの時クーデター式に追放され、その後比叡山方面の某寺で僧として生き延びた。同日入れかわるようにして大室明治天皇が軍隊を引き連れ京都御所に入っ た」。

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 5、大室寅助(寅吉)が睦仁親王(京都明治天皇)にすりかわるまでの経緯

 【大室明治天皇が京都明治天皇にすりかわり倒幕の密勅を下す】

 10.13日、京都明治天皇にすりかわった大室明治天皇(大室寅之祐)が、薩長両藩に倒幕の密勅を下す。

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 将軍慶喜、朝廷に 対して大政奉還を上奏。

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 【大室明治天皇が長州に帰還する】

 10.17日、大室明治天皇(大室寅之祐)が身の危険を感じ、女装しつつ、芸者風に変装した女官たちを連れて京都を脱出。西郷らにまもられて英国船などに乗り、10月下旬、田布施町麻郷の大室家に帰ってくる。
 その中に、大室明治天皇(大室寅之祐)の皇后になったはずの一條勝子もいて、大室家に滞在中いつも大室明治天皇(大室寅之祐)の側にべったりで あったという。(この時の一条勝子とこのころ京都の准后御殿に避難した後のほんものの一条勝子とは別人)  この勝子は寿栄姫ともいい、性慾も独占慾も強くて、大室明治天皇(大室寅之祐)の行く所へは何処までもついていっ た。しかし彼女には子が出来なかった。そのためか、勝子は、側室に子供が生れると直ちにくの一忍者を使い、幼児の鼻口にぬれ紙を当て次々に殺していったという。

 大室明治天皇(大室寅之祐)の側室は、28人居たといわれ、その間に皇子、皇女は19人いたが多く は2才までの間に死亡している。 明治12年、天皇の子を身寵っ た(実は大隈重信の胤)権典侍柳原愛子は、勝子に知られることを恐れ て、病といつわって実家の柳原光愛邸に帰り、8.31日、無事男児を出産した。この皇子がのちに大正天皇になった嘉仁親王である。

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 【吉田松陰が擁立していた大室虎助が新撰組に殺害される】

 10.29日、京都明治天皇睦仁と同じ年にして吉田松陰が擁立していたもう一人の虎助がこの頃新撰組により殺された。新撰組の沖田総司らが長州の不良力士達を殺害する事件が起こり、この中に大室虎助(16歳)の名前があった。下鴨神社蔵の「神楽勧請録」の慶応3年の記録には、「大室虎助(16)(中略)等、 同年10月29日、新撰組ガ為二被害」とあり、新撰組側の記録にも「(慶応3年11月) 先日、長州の不逞力士5人を誅す、残党なお洛中に潜する無し」(「慶応洛中日記」 ・「会藩新兵余話」・「新撰組遺事」等)とある。この時殺されたのは、萩生まれの玉とは満良親王系の大室虎助のこと。庄吉も寅吉も繰り返しになるが田布施町麻郷生まれだから。

 ちなみに、吉田松蔭と寅助(寅吉)の接点はなく、吉田松蔭の死後1863年頃から寅吉が玉として浮上してきたようである。
 11月、倒幕出兵軍、海路進発。11月初旬には薩摩の軍船2隻が麻郷米出浜に着岸し兵800を率いて上陸してきた島津久光と、博多から 同乗してきた三条実美ほかの五卿も合流した。(麻郷に島津久光の薩摩屋敷跡あり)
 11.13日、藩主島津忠義が自ら率いる薩摩藩主力3千倒幕のため鹿児島から4隻の巨船にのって西宮へ。後上陸。
 11.15日、京都瓦町の近江屋で、坂本龍馬、中岡慎太郎が共にに暗殺される(「坂本竜馬、中岡慎太郎暗殺事件」)。この日はくしくも龍馬33歳の誕生日だった。11.17日、重傷を負っていた中岡慎太郎死亡。
 11.25日、長州藩は近代的装備の第一陣1200の兵を藩船7隻に分乗させて三田尻を発し、第二陣1千人の部隊は陸路西宮へ進軍した。 先の島津忠義軍と西宮で合流し大洲藩は勤皇藩として西宮の藩邸に長州薩摩軍を無血上陸させるなど貢献した。そして一同は鳥羽伏見 の戦いのため準備をした。

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 【大室明治天皇が、高松八幡宮で「王政復古の大号令」を発す】

 この時の、「王政復古の大号令」が京都御所で為されたとするのが通説である。次のように流布されている。

 12.2日、西郷隆盛と大久保利通が、後藤象二郎に王政復古を12月8日とする旨伝える。12.7日、西郷と大久保、王政復古を12.9日に変更する。

 12.9日、西郷は公家らの動揺を押さえ、大久保と共に、朝廷を中心とした新政府を樹立するべく努力した。西郷が薩摩藩兵を指揮し、宮門を固めるなか、「王政復古の大号令」がようやく煥発され、公郷中の同志岩倉具視・中山忠能(明治天皇の外戚)らと結束して、倒幕計画をつづけることが声明された(「朝廷が王政復古の大号令を発し、小御所会議が開かれる」)。

 この時、1・幕府や摂政、関白制の廃止され、2・幼帝明治天皇を擁立して総裁・議定・参与の三職設置による国政運営が詠われた。かくて幕府に変わる新政府が発足し、ここに天皇中心の新政府が樹立された。次の時代への幕あけとなった。 

 異説は、次のように説く。
 12.9日、倒幕軍の進発予定が麻郷に届く。「玉」および奇兵隊一条勝子以下三条実美(さねとみ)ら五卿、島津久光、薩長同盟幹部一 同は打ちそろって、田布施町麻郷の井神(地家の隣)の高松八幡宮での事で「王政復古の大号令」を発している。
 午後、小御所会議が開かれる(通史にある京都御所での話ではない)。新調の錦旗を掲げる官軍(薩長諸 隊)の出陣式を行った。
 王政復古の声と共に全国的デモ「エエジャナイカ」始まる。その人数は500万人 と云われる。

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 6、大室明治天皇が江戸城を新皇居として入城するまでの経緯

 12月下旬、大室明治天皇らは室津(上関町)から英国船など2隻に乗船し、薩摩の軍船2隻と合流し、おくれて京都をめざした。
 1.8日、徳川最後の将軍となる慶喜は、「インド、中国の怜にりこれ以上の内戦は英仏による日本植民地化にのみ利する」ことを見据えて「内戦の危機を憂い」、松平容保、松平定敬ら重役連と軍艦開陽丸にのり江戸に逃げ帰った。
 1868(慶応4).1.13日、鳥羽・伏見の闘いで、幕軍2万と薩長軍4千の兵が戦い、討幕派が勝利する。
 【大室明治天皇が、大阪湾に浮かぶ軍艦の上で成り行きを見守る】

 この時、薩長軍は「錦旗」を掲げている。この時、大室明治天皇(大室寅之祐)自ら閲兵したというのはウソで、戦いの最中大室明治天皇(大室寅之祐)は大阪湾に浮かぶ軍艦の上に立っていた。(護衛は第二奇兵隊)
 【大室明治天皇が、大阪に初上陸】

 鳥羽・伏見の戦いで薩長軍勝利を見届け、大室明治天皇(大室寅之祐)が大阪に初上陸。(大阪に明治天皇上陸の記念碑あり) 一同は京都御所をめざす。
 1.10日から1.15日までの間、京都御所の人事の一新が行われた。この間の大室明治天皇(大室寅之祐)擁立の功労者に論功賞が与えられた。この一新が「明治維新」の語源となる。
 1.13日、太政官代を九条道孝公の邸に置く。
 1.15日、京都薩摩藩邸で待機していた大室明治天皇(大室寅之祐)が「明治天皇」として京都御所に向かい入れられる。三条等、勤皇派の公卿等も京都御所に復帰する。これにより、大室寅之祐が新明治天皇として正式に御所ですりかわって即位した。

 「明治天皇紀」に「奇兵隊の天皇、来る正月上中旬内に御元服」と記されているとのことである。「中山日記」にも「寄(奇)兵隊の天皇」とある。
 1.17日、国家機構として神祇、内国、外国、陸海軍、会計、刑法、制度の7科の職制を定め、太政官がこれらを一括統べることにした。2.3日、官制を8局とし、神祇官を諸官の最上に置いた。
 3.13日、高輪の薩摩屋敷において、西郷と勝が江戸開城に関する交渉を開始する。
 3.14日、新政府は政治方針として「五箇条の御誓文((ごかじょうのごせいもん)」を公布した。明治天皇は京都御所紫宸殿に公卿・諸侯以下百官を集め、天地の神々に誓うという形式で維新の基本方針を明らかにした。

 3.17日(明治元.2.23日)、旧一橋家の床机衆と呼ばれた家臣が中心となって「彰義隊」を結成し、朝敵とされた徳川慶喜を守ろうした。徳川慶喜は謹慎していた上野寛永寺大慈院から水戸の弘道館に退去する。
 3.20日、朝廷、慶喜謹慎、江戸城明け渡しを受ける。3.21日、大室天皇、大阪へ行幸。7月、江戸を東京と改称し、東京遷都する。 
 4.1日、 アーネスト=サトウが「睦仁 (大室明治天皇)」に会う。「木戸日記」に「睦仁東本願寺にあり。誠に御強壮」と記されている。即位以降の明治天皇の伝記についてはドナルド=キーン氏の「明治天皇」上巻に詳しい。
 4.4日、東海道先鋒軍、江戸城に入る。閏4.8日、大室明治天皇、京へ還幸。
 4.11日、江戸決戦が予想されたが、勝海舟と西郷隆盛の談義により、「江戸城無血開城」となった。
 これに従わなかった幕府側残党は彰義隊を結成して東京上野の寛永寺に立てこもった。寛永寺は門跡寺院として、代々、皇族が座主を務めることになっており、公現法親王も伏見宮家の血筋を引く皇族の一員である。この時、京都明治天皇に対抗して輪王寺の宮(後の能久親王)が押し立てられた。

 輪王寺の宮は、元々江戸に住んでいた皇族で、1847(弘化4).4.1(旧暦2.16日)に伏見宮邦家親王の第9皇子として生まれ、1848(嘉永元)年、青蓮院(しょうれんいん)宮御相続。1858(安政5)年、輪王寺(りんのうじ)宮御相続。公現(こうげん)法親王と称せられていた。江戸決戦を控えて急遽、仙台青葉城に居を移し、上野寛永寺の門跡(もんぜき)となった。
 彰義隊は、「孝明天皇を殺して擁立した『成り代わり偽者の睦仁親王→大室明治天皇』などに従えるか」と反発して、輪王寺の宮(公現法親王)を擁立し東武天皇として押し立てた。輪王寺宮はその後、上野を逃れ仙台に入り、奥羽越列藩同盟の盟主となる。
 ちなみにこの頃の、宮家は次のように相関している。尾張家の「玉」は桂宮家分家の広幡氏。水戸藩の「玉」は有栖川宮。長州藩の「玉」は山階宮。島津藩の「玉」は中川宮。紀州藩の「玉」は北朝では伏見宮家。南朝では浅利氏。徳川幕府の「玉」は日光宮こと東武皇帝。
 西郷隆盛は、無血開城を推進した経緯もあって、彰義隊についてもなんとか穏便に解決したいと考えており、勝海舟を通じて彰義隊の解散を呼びかけたが、うまくいかなかった。事態を憂慮した新政府は、軍防事務局判事大村益二郎を江戸に派遣して、軍事的な打開を図ろうとする。
 7.3(5.14)日、大村益次郎は東征大総督の名において彰義隊討伐の布告を出し、7.4(5.15)日、ついに上野戦争が始まった。
 徳川幕府の不服従派は抵抗したが結果的に敗北する。東北決戦に於ける会津降伏の際に、「成り代わり偽者の睦仁親王→京都明治天皇」と輪王寺の宮が講和を結び、1・睦仁親王が明治天皇になること、2・輪王寺の宮が還俗して北白川能久親王となることで生命及び身分が保障される、との条件で和睦した。「能久親王」については「靖国神社の御祭神、御神体について」で考察する。
 4.21日、東征大総督府、江戸入城。閏4・27日、新政府が政体書を発表。3職7科8局制を改め、太政官制度三権分立を定める。5.15日、太政官札5種が発行される。7.28日、天皇・皇后、京都を出発。
 7.30日、大室明治天皇が、江戸城を皇居として入座する。この時、京都で仕えていた女官は全員解雇された。口封じの意味があったと推測される。京都から江戸(東京)へ遷都(せんと)する。各藩の選り抜きの藩士が抱えられ、東久世通禧が侍従長に、高島鞆之助・有地品之允・山岡鉄舟・米田虎雄らが侍従となった。側近が女性から男性に変更されたことにより、天皇教育は旧来の文学的なものから兵学・戦争・武術的なものへと転換していくことになった。
 8.27日、明治天皇の即位の礼が執り行われる。

 9.8日、年号を明治と改める。一世一元の制度がここに確立される。

 7、その後の明治天皇
 1912(明治45).7月、明治天皇崩御。

 8、「明治天皇すりかえ」余波
 明治20年、柳原愛子が、立派な駕籠に乗り、お供を数百人も引連れ美々 し く行列を組んで「地家作蔵」の実家がある田布施に入り、位牌を持ち去っている。愛子は大室庄吉を呼び出して石城山へ登る道案内をさせた。  或る説によれば、 明治二十年、大正天皇の生母、柳原愛子の一行が田布施に入ったとき、「地家作蔵の位牌」を持ち去った、とのことである。これが、事実であるとすれば、これは、地家作蔵が、大室(地家)寅之祐=明治天皇の実の父親である、ことを承知して居た人々による行動である、ことを証明するのではないか。

 この帰り道で、女官の一人が大室天皇の秘密をつげぐちして漏らした事に愛子が激怒。刀で某女官を斬り殺した、と伝えられている。京都の 興正寺に立ち寄り、スヘの位牌も柳原愛子が東京に持ち帰ったが戦災で焼 失。こちらは位牌は無いが過去帳に記載有り。
 「20-2.なぜ昭憲皇后ではなく、昭憲皇太后なのか? (2002.5.9)」は次のように記している。  満州は哈爾浜(ハルピン)駅頭で伊藤博文を暗殺した安重根(アン=ジュングン)の暗殺理由は、一般に日本の朝鮮侵略に対する抵抗であり、伊藤が「韓国統監」だったから・・・とされていますが、安重根は何と法廷で爆弾発言をしたと言われています。すなわち、「伊藤は畏れ多くも(本来の明治)天皇を暗殺した大罪人・・・」だったとか何とか。「天皇暗殺」と言う事件について、案外、当時の国民は薄々と言うか何となくと言うか、様々な風聞で勘付いていたのかも知れません。ただ、『大日本帝國憲法』(明治憲法)における第3条 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラスと言う条項から、敢えて追求しなかったのかも知れません。そうでもなければ、朝鮮人の安重根までが知っていた理由がつきませんから・・・。

 南朝の長慶天皇の後胤を名乗る「神風串呂講究会」主催の三浦芳聖が、宮内庁を訪れ、顧問官の山口鋭之助に「自分は真の天皇資格者で、北朝の天皇は偽者」と訴え、皇位を要求した。この時、田中光顕を紹介された。その時田中は、三浦に対し「明治天皇も実は南朝の正統である。後醍醐天皇の第11皇子満良親王の子孫で長州毛利家がかくまってきた」と述べた。これにより三浦は皇位を要求せず、天皇家の擁護にまわった、と伝えられている。「三浦天皇事件の田中証言」は、田中が三浦の皇位要求を破棄させるために使った狂言ともかんがえられるが真相は藪の中である。
 明治43年頃、南朝、北朝正当論議が学問の場で盛んになった。その論議に、外ならぬ明治天皇が「南朝が正当の王朝である」と幕を下ろした。しかし、これは解せ無い事である。北朝の孝明天皇の子であるなら、当然明治天皇も北朝である。「南朝が正当の王朝である」の断は、自らを否定することである。「すりかわり説」ならいとも簡単に説明がつく。
 田布施町麻郷の大室近祐氏(平成八年田布施町 麻郷で永眠)は次のように 語った。

 「祖父は明治天皇によく似ていた。わしの家は 南朝の末裔で、明治維新の時、七郷がしばらく滞在 していた。祖父の兄寅之祐は、 後京都に行って明治天皇になった」。

 9、大室家子孫の驚くべき証言
 次のような証言が為されている。  1983(昭和58)年、東京から数人のお供を連れた某宮様(高松宮か)が 大室家にやってきた。この人は髭をはやした立派な紳士であったが、近祐翁と懇談 しているうちに次のような打明け話をしたという。  「今上陛下(昭和天皇・裕仁)の子とされている明仁親王(1933年生)は、実は陛下のお子ではない。明仁親王が五、六才のころ血液検査をして調べ たところ、天皇裕仁の子ではないという ことが判明した。おそらく崇仁親王(三笠宮)のお子であろう。もう一人の正仁親王はどうも徳川の血統のようだ。だから、陛下はご自分が死ぬるまで譲位はしないご意志である」。

 その時、たまたま近祐翁の次男明美(いま改名して弘樹 ・1948生)の長男貴雄 (当時幼稚園児)が庭先で活発に遊んでいるのを、横目 でじ−と見ていた宮様は、 突然、 「この児を天皇家に養子に貰えないだろうか」と言いだした。  

 近祐翁が、「どうしてか」と聞くと、平身低頭しながら次のように説明した。  「明仁は生来愚鈍でわやだから見ちゃあおれん、宮中でもどうにかしてくれという意見が多くてこまっているのだ。この児 (貴雄)のような良い子を連れて帰れば、陛下もさぞかしお喜びになるだろう。私が責任をもって継嗣にするから、是非東京に連れて帰らせてくれ。実は このようなこともあろうとかと、陛下の内諾も得て来ているのだ。是非是非頼む」 。

 なるほど、その頃の貴雄ははた目にもとても綺麗で利溌な良い子であったから、宮様が慾しがったのも無理はない。また明治天皇(大室寅之祐)の弟・大室庄吉の玄孫を天皇家に入れても血統上おかしくはない。筋の通った話で ある。 そこで近祐翁は、別室に家族一同を集めて慎重に協議した。みんなでいろいろ話し合った末に、「天皇家に入ると家族団らんの楽しい生活は期待出来なくなる だろうし、 毎度の食事も一々検査せねばならないような恐ろしい所へ、可愛いい孫 をやる訳に はいかん」 という結論になって、この話を断わることにした。

 だが、この話を断わるについて、大室家の人々には次のようなつらい思い出が あったのである。近祐翁には三人の弟と三人の妹がいたが、そのうち将来を期待 された二人の弟と 一人の妹が、天皇家のために戦争の犠牲になつている。それも単なる戦死ではなく て、明らかに意図的に殺されたとしか思えないような死に方であった。


http://www.gameou.com/~rendaico/mikiron/nakayamamikikenkyu_40_1_meigitennoco.htm




 

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