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復活祭特集 「いつまでも死なない」 (小石泉の礼拝説教集)
http://www.asyura2.com/09/cult7/msg/130.html
投稿者 もみの木 日時 2009 年 4 月 12 日 14:34:12: 7jMSCDqL4TVIk
 


 http://www.ne.jp/asahi/petros/izumi/ 

ホームページ・メッセージ090412        小 石  泉

復活祭特集

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いつまでも死なない

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イエスは彼女に言われた、「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」。ヨハネ11:25 〜26

 キリスト教を一言で言えば、この御言葉に全て含まれているように、死なないということを信じる宗教です。いやクリスチャンだって死ぬじゃあないかと言われるでしょうが、死は新しい世界への門に過ぎません。先日「おくりびと」と言う映画を見ました。とても感動しましたが、その中で火葬場の係りの人が、同じことを言っているのでちょっと驚きました。しかし、キリスト教の場合、その門の先に何があるか判っています。
 最近、科学が神の存在に気付き始めています。特にDNAを調べると、どうしてもそれが誰かによって設計されているとしか思えないという結論に達しているのです。それで、その誰か「賢い者」がデザインした、Intelligent Designと言う言葉が科学者の間で語られるようになりました。さらにこの目に見える宇宙だけではなく、目に見えない世界があると言うことさえ言われるようになりました。19〜20世紀に科学が発達し、神を否定し、目に見える世界だけしかない(唯物論)と言うことを盛んに言っていた時代と比べると隔世の感があります。科学者が真理に向かって真摯にこの世界を調べて行けば、この世界を創られた方に到達するのは当然と言えば当然です。イエス・キリストの復活も、科学者が嘲り笑った事柄でした。しかし、この事実も間もなく科学者は認めざるを得なくなることでしょう。信仰と科学が融合する時代となりました。
 冒頭の御言葉で「わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない」という所は、他の宗教のどこにもない言葉です。釈迦も孔子もマホメットも言いませんでした。言えなかったのです。こんなことを言える人は、余程おかしな人か、本当にそう出来る人です。中途半端な言葉ではないのです。常識によって判断できる言葉ではないのです。異常な言葉なのです。これはあいまいには出来ないことです。信じるか信じないか。二つに一つです。
 キリストは気高い教えを伝えて死んで行った人ではありません。人間的に見れば異常な言葉を語って、異常な結果を残して去って行かれた人です。そして再び帰ってこられます。この「帰ってこられる」ということを、私は硬く信じていますが、それが私の希望ではありません。私の最大の希望は「わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない」ということです。
 ヨーロッパの古い絵画や彫刻を見ると、キリストの死を悼み、嘆き悲しむと言うテーマが描かれていますがが、これは少しおかしいです。むしろ復活された栄光と歓喜を描くべきです。恐らくそういうものを描いた人々は、キリストの復活を信じていなかったのでしょう。そして人間的なセンチメンタリズムやロマンチシズムを描きたかったのでしょう。
 私たちが行く、新しい世界は黙示録に少しだけ書かれています。

わたしはまた、新しい天と新しい地とを見た。先の天と地とは消え去り、海もなくなってしまった。また、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、神のもとを出て、天から下って来るのを見た。また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。黙示録21:1〜4

 数年前に欧米のメデアが、宇宙空間にあるハッブル望遠鏡が100億光年のかなたに、黄金に輝く都市を見つけたと言うニュースを流しました。その日付は4月1日だったので、もちろんエイプリルフールのジョークだったのですが、こういうジョークは日本では通じないなと思わされました。
 仏教にも極楽浄土という思想があります。しかし、それはひどくあいまいで、正確な記録もなく、単に希望を語ったものに過ぎないと思われます。黙示録の場合、著者がはっきりしていること。それはキリストのもっとも親しい弟子だったこと。そして何よりも大切なことはそこに全知全能の神がいるということです。「神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして」とあるのです。どんな美しい場所でも神がいなければ死の世界と変わりません。私はキリストと神がいない極楽浄土には住みたいとは思いません。たとえ死ななくても、どんなに長い命を与えられても、神との出会いが無ければ全く無意味です。
 私は病院に行くと、いつも、何と多くの人々が病気なのだろうと驚かされます。無数の大病院に、膨大な患者と、膨大な医者や看護師がいるのです。何と巨大な産業だろうか!私は糖尿病という病を宣言され、毎日々々、インシュリンや沢山の薬を飲むように言われました。数年間続けているうちに、すっかりいやになってしまいました。お医者さんは合併症の危険を告げるのですが、私には、それより毎日々々のストレスの方が危険だと思うようになりました。全ての病気はストレスから来るという説もあるそうです。それで一切の医療行為をやめました。
 さらにお医者さんの考え、医療行為そのものが“死にたくない”という人間の発想に基盤を置いていると思われるのです。私にしてみれば“早く死にたい”のですから、これは合うわけがありません。パウロ先生もこう言っています。

わたしたちの住んでいる地上の幕屋がこわれると、神からいただく建物、すなわち天にある、人の手によらない永遠の家が備えてあることを、わたしたちは知っている。そして、天から賜わるそのすみかを、上に着ようと切に望みながら、この幕屋の中で苦しみもだえている。それを着たなら、裸のままではいないことになろう。この幕屋の中にいるわたしたちは、重荷を負って苦しみもだえている。それを脱ごうと願うからではなく、その上に着ようと願うからであり、それによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためである。わたしたちを、この事にかなう者にして下さったのは、神である。そして、神はその保証として御霊をわたしたちに賜わったのである。だから、わたしたちはいつも心強い。そして、肉体を宿としている間は主から離れていることを、よく知っている。わたしたちは、見えるものによらないで、信仰によって歩いているのである。それで、わたしたちは心強い。そして、むしろ肉体から離れて主と共に住むことが、願わしいと思っている。Uコリント5:1〜8

 私も「むしろ肉体から離れて主と共に住むことが、願わしいと思ってい」ます。ただ、生かされているのは、まだ何か成すべきことがあるからだろうと思います。パウロ先生も結構、同じような思いをもっておられたようです。

わたしにとっては、生きることはキリストであり、死ぬことは益である。しかし、肉体において生きていることが、わたしにとっては実り多い働きになるのだとすれば、どちらを選んだらよいか、わたしにはわからない。わたしは、これら二つのものの間に板ばさみになっている。わたしの願いを言えば、この世を去ってキリストと共にいることであり、実は、その方がはるかに望ましい。ピリピ1:21〜:23

 私は「実り多い」働きなど出来ませんが、生きることも死ぬことも自分で決定することは出来ないのですからやむを得ません。
いつまでも死なない命。あなたはそれを持っていますか? もし、まだ持っていないか、確信が無いなら、早くキリストを信じてください。信じると言う単純な行為で、あなたも永遠の命を持つのです。


*私はイースターと言う言葉をあまり使いたくありません。それはイースターと言う言葉が神話の女神の名から来ているからです。以下、インターネット・フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より。
英語およびドイツ語以外のヨーロッパ諸言語における「復活祭」という言葉は、すべてギリシャ語の「パスハ(Π?σχα)」に由来しており、その言葉も元をたどれば、アラム語の「パスハ(pascha)」で、これはユダヤ教の「過越(すぎこし)の祭り」を表す「ペサハ」(Pesach)というヘブライ語の言葉から来ている。つまり、キリスト教の復活祭がユダヤ教の「過越の祭り」から生まれた祝い日であることを示している。ギリシャ正教会で復活大祭を「パスハ(Π?σχα)」と呼ぶのは勿論のこと、ロシア正教会・ロシア語でも復活大祭はヘブライ語・ギリシャ語起源の「パスハ(Пасха)」と呼ばれ、日本正教会でも復活大祭をパスハと呼ぶ。
一方、復活祭を表す英語「イースター(Easter)」およびドイツ語「オステルン(Ostern)」はゲルマン神話の春の女神「エオストレ(Eostre)」の名前、あるいはゲルマン人の用いた春の月名「エオストレモナト(Eostremonat)」に由来しているといわれる。8世紀の教会史家ベーダ・ヴェネラビリスはゲルマン人が「エオストレモナト」に春の到来を祝う祭りをおこなっていたことを記録している。実際、復活祭の習慣の中には、このゲルマン人の祭りに由来すると思われるものもある。たとえば、復活祭に色をつけた卵を配るイースター・エッグや多産の象徴であるウサギ(イースターバニー)が復活祭のシンボルとされていることがそうであると考えられる >>


 

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