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戦争経済敗戦からの離脱の道を先人の業績から学ぶ。 「農地改革」の遂行者 和田博雄農林相。
http://www.asyura2.com/09/hasan61/msg/566.html
投稿者 新世紀人 日時 2009 年 2 月 15 日 12:28:41: uj2zhYZWUUp16
 

我々日本国民は、日本経済の興隆を行ってきたのは日本人自身であることを再確認しなければならない。
戦前経済は言うに及ばず、戦後経済の興隆発展は、幾人かのデザイン的功労者をはじめとして産業界、官界、労働界自身の功績によるものである。
戦後経済の復活・興隆について学校教育や流布される一般論調において朝鮮戦争の特需をはじめとして日本経済は復活・復興したとされる。
確かに外的要因としてはそうなのではあるが、しかし、朝鮮戦争が始まっても日本経済がその時には対応出来ないほどに低迷・破綻状態にあった可能性は存在していた。
そして現在の国内経済は低迷状態にあっても対外大債権保有国家として存在しえる事には日本国民自身が創り上げてきた経済国家としての地位がある。
それがなければ、日本はつい最近までのチャイナやインドの地位さらに中東産油国の経済低迷地域と同じさらには中南米に及ばずアフリカ諸国と同様の立場に置かれた可能性はあったと考えるべきだろう。
戦後日本経済の復興を成し遂げた功労者は外資ではない。
彼らが工場を設置して上前をはねる準備をしたのではない。
彼らが上前をはねる食欲をそそられるまでのメニュウを提供したのは日本人自身なのである。
従って、日本人に足りないのは創造力ではなく、交易力である事を自覚しなければならない。
交易力が金融力として現象し、また外交力として現象するのである。
日本人とは対照的なのがチャイニーズであり、コーリアンであり、彼らは従って外資と外国政治力の導入に長けている。

前置きが少し長くなった。

先に私は戦後日本経済興隆のデザイン功労者の一人として 下村治氏 を取り上げたことがある。

しかし、今回は下村氏の高度経済成長政策を可能ならしめた功労者として 和田博雄氏 を採り上げたい。

彼こそが第二次大戦の敗戦から日本経済社会を復興させたデザイン的功労者であるのだが、残念ながら国民の間に広く知られている名前ではない。

彼は「農地改革」の実行者であった。農地改革を実行した当時の農林相だった。

農地解放つまり小作農の解消と自作農の育成が彼の功績と考えてはならない。
彼は戦後経済復興全体の功績者なのだ。
なぜならば農地改革(解放)は、疲弊した戦後社会と戦後経済を破綻から救い出す為にまた復活の道筋をつける為に行われたものであったからだ。

和田博雄農林相そして和田経済安定本部長官の功績を詳細に紹介した好論文がある。

http://www.rieti.go.jp/jp/columns/a01_0138.html
「農地改革の真相−忘れられた戦後経済復興の最大の功労者、和田博雄」
山下 一仁(RIETI上席研究員)

この論文は素晴らしい美文の力作である。私にはこの様な美文は書けない。
是非とも読者の皆さんは自らの目でこの美文を味わって頂きたい。
読まれた結果の異論・反撥は各自の御自由である。
何故、この様に書くかといえば、このサイトは転載を容認していないので、転載には事前の連絡が必要であり、私としては山下氏の論文を転載しつつ論を進めたいのだがそれができないので、止む無く”場末の野良猫”としての非学の身でありながら自身の解釈の上で紹介しつつ書いている次第であるからだ。

さて元に戻ろう。

終戦時の日本の社会状況を簡単ではあるが体験的に紹介しておこう。
体験的とは言っても二次的体験である。
何故なら私は戦後生まれであるからだ。
しかし、私は高度経済成長以前に思春期を迎えていたので、終戦直後の状況の生々しい姿について親をはじめとする周りの大人達からいつも話を聞かされて育った。そして建物、施設、風俗において戦時・終戦時の混乱・崩壊の有様は継続して多く残っていた。
バラック小屋の住まい、爆撃で崩れたままの家屋、乞食・傷痍軍人の物貰い、売春、闇米の販売、愚連隊の横行 などなどを目にして育ったのである。

それ等の中で印象的だったのは、親をはじめとする大人たちの戦中と戦後を比較しての暮らし向きの話であった。

「日本が一番生活が苦しかった時期は戦後の昭和21年から昭和23年までの間だった。食糧は無い。仕事は無い。金は無い上にインフレ。どうにもならない時期だった。」
戦後の苦労話は掘り起こせばいくらでも出てくるであろうが、
国民の暮らし向きが戦後の数年が戦時中よりも遥かに大変であったことについては、戦後のイデオロギー的な転換も作用して意外にも後の世代に知られておらず、認識としても継承されてきてはいない。

しかし、少し考えていただければ了解可能な簡単な事なのである。

つまりこうだ。
戦時中には「失業者」はいなかったのだ。軍人・兵士と勤労者ばかりである。
負け戦にも拘らず、経済の方は苦しみながらもフル回転?である。
国全体が戦いと生産に明け暮れていた訳である。
そんな有様の中で、「産めよ殖やせよ」のかけ声の下でセックスにも励んでいたのだから恐れ入るではないか。
現在の小子化社会とはまるで異なる。
しかし、戦いの中だから死亡と負傷の機会は高く、恐怖感を抱いての生活ではあった。

これが突然に、大多数の国民には心の準備もないままに終戦となった。
その結果、

「失業」と「生産の停滞・停止」の大発生である。
先ず、軍人・兵士が大量失業者となる。
平たく言えば役人・官僚の大量首切りである。陸海軍は解散とされたのだから当たり前だ。
生産は軍需が無くなったのだから急に転換は出来ずに長期の停止・低迷状態になった。
農業生産はその生産特性により急激な回復は出来なかった。
何故なら、機械を回せば生産物が出来上がりそして販売に回せるといったものではない。
種を撒いてから実って収穫に至るまで季節の転換を迎えなければならないので復員兵士が実家に戻って農作業に従事し始めても直ぐに”生産が上がる”と言うものではないからだ。

その様な状況の下へ、軍人兵士だった失業者の発生と生産停止工場の失業者の発生とさらに、海外に住んでいた大量の日本人の帰国である。彼等もほぼ総てが失業者である。

経済が回らないところへ失業者の大量発生であるから食糧危機である。
今の危機とは訳が違う。

ところがこの危機的状況は混乱を伴ったが徐々に去っていった訳である。

その裏には大きな努力があったわけである。

一つには「農地改革」の自作農育成による農業生産拡大のもたらした食糧危機の回避であり、付随的に行われた「傾斜生産方式」による産業の復興であった。

和田農林相は農業課題だけの解決を目指して吉田内閣の下で「農地改革」を行ったのではない。
日本経済全体の復興を目指して行ったのである。
その為に有沢広巳東大教授の「傾斜生産方式構想」を採用した。

後に和田博雄氏は続く片山内閣の下で経済安定本部長官に就任し、「傾斜生産方式」を推し進めた。和田長官の下には多くの有能な人材が集まり、その中に下村治氏もいたのであるが、詳しくは上に紹介した山下論文を参照されたい。
 
さて和田氏と彼の功績については、上の山下論文を参照されたいが、有沢広巳氏と傾斜生産方式の紹介については場を改めて行いたい。

以上を以って私が和田博雄氏の功績を紹介した理由は、終戦直後の経済社会状況と現在の経済社会状況が大いに似てもいて、また、大いに異なってもいる為である。

日本は米国に追随し、通常経済に破綻したクリントン政権時代から誤魔化し打開策として戦争経済へと計画的に移行したブッシュ政権に従って参戦した。
これは自衛隊の海外派遣に止まらず、誤魔化し民需の戦争経済運営に参加したと言う事であり、その結果、
いよいよ戦争経済としても破綻を迎えるに至らざるを得なかった現象としての米国金融経済の破綻(既に製造業は破綻している)つまり『敗戦』に同伴しなければならなくなったと言うのが本当の有様なのだ。
日本の追随は軍事に止まらず、経済においても同様であり、EUはアフガニスタン戦争について米国に随伴して共に経済的な煽りを受けて大打撃を受けたと言うのが実態である。

これは、豊臣秀吉の朝鮮出兵に例えれば判りやすいであろう。
秀吉に従って出兵に従った秀吉側近の大名達は豊臣政権と共に多くが滅びたと考える事が出来よう。朝鮮出兵は豊臣政権の命を縮めた。豊臣側近の大名達。これが現在の日本の立場に似ている。
また日本は元寇の時に元に従って日本に攻め込んだ高麗の立場にも似ている。
徳川家康は苦労者の利口者であり、織田信長の恩顧を忘れない二番手・三番手を甘んずる程の謙虚者であったから、豊臣秀吉の一見英雄的で実は無謀を孕んだ朝鮮出兵にのめり込む事を避けて関東開発の基礎事業を行い得たのである。
それらの選択が豊臣政権崩壊と徳川政権誕生を準備したと考えられよう。
また、高麗が元による日本出兵を最終的には離脱した事は賢明な選択であった。
これらが徳川政権下による日朝国交の宥和時代を迎える基礎的条件となった。

秀吉の朝鮮出兵に従った如き現在日本の戦争経済敗戦の有様は、徳川家康の関東開発の如き国内市場の開発をはじめとする日本経済の健全強化策を放棄したものであり、大量の失業者の発生と需要の低迷したがって市場の壊滅状態にある。

ここにおいて、経済の健全強化策を実行しなければならない。
失業者に職を提供し、
需要を創出し、
企業経営の興隆をもたらさなければならない。

一方、現在の日本の経済危機は終戦直後の経済危機とも構造的に全く異なるとも言えるのである。

それは、過去には日本は後進経済国家であったものが、現在では先端経済国家であると言う事だ。
従って過去においては、先進経済を見ながらモデルにして重点的に資本投下を行う分野を選択して「傾斜生産方式」を適用できた訳である。
今回はそれはできない。
自営農を育成して失業者を減少せしめて、食糧自給家庭を増大せしめて、農業生産を拡大させて価格を低下せしめて、完全食糧自給を達成し、農業を基礎に持った各地域の住民の労働稼働可能余剰時間を創出せしめ、そこに技術開発の資本投下を惜しまずに行えば新たな経済需要を創出する事が可能となるだろう。新技術により新商品を提供して先進経済を走り始める事が可能となるだろう。
自動車は機関から車体までモデル・チェンジされる。
道路舗装も地中に水分吸収可能なものとされ花粉症拡大を防ぐものとなるだろう。
エネルギー的には自然エネルギー摂取の技術開発を進めるべきだろう。太陽エネルギーは尽きる事が無いのだから出来る限り有効に利用する技術の実用化を目指すべきだ。
水などの地球資源は循環的に利用できる技術の開発を行わなければ行き詰まるから、その方向の技術開発を進めなければならない。
一朝一夕には循環社会に転換は出来ないので、徐々に転換に向かえるように目標を設定して経済を運営すれば先進経済を営む事は出来る筈だ。

このようにして高度経済成長政策の下で改編したままで米国経済に追随して戦争経済を破綻した日本の政治経済構造を改編し健康体を取り戻さなければならない。

今後の世界貿易は各国が自活的自給的農業を礎にした経済運営体として成長・運営を出来るように協力し合える関係のものであるべきでそれを目指すべきであろう。


http://visualwikipedia.com/ja/%E6%9C%89%E6%B2%A2%E5%BA%83%E5%B7%B3
有沢 広巳(有澤廣巳)(ありさわ ひろみ、男性、1896年2月16日〜1988年3月7日)は統計学者、経済学者。マルクス経済学者 統計学が専門分野で実証に徹した。

高知県出身。高知中学を経て、第二高等学校卒。東京帝国大学では法学部から独立したばかりの経済学部の第一期生として統計学を糸井靖之の演習にて学ぶ。また河合栄治郎の講義を熱心に聴いた。在学中に森戸事件が起こる。大内兵衛に師事し、マルクス経済学を学ぶ。1922年に同大学を卒業後、助手を経て1924年に同大経済学部統計学講座の助教授となる。1926年〜1928年までは、同大学医学部助教授で同志の国崎定洞とともにドイツに留学。ファシズムの波が社会を覆った時代にあって、1938年、有沢は人民戦線事件により大内らと共に治安維持法違反で起訴され、東大を休職処分となる。しかし結果として1944年9月に、二審で無罪となる。戦時中は秋丸機関(陸軍)に所属し、欧米と日本の経済比較を行った。敗戦後の1945年、東大経済学部に教授として復帰すると、吉田茂の私的ブレーンやエネルギー問題の専門家として活躍。戦後復興期における政府の傾斜生産方式(石炭・鉄鋼等、主要産業の復興を優先する方式)の立案者となる。1956年に東大を退官。退官後は、法政大学経営学部教授・総長(1956年〜1962年)、原子力委員会委員長代理、産業計画会議委員(議長・松永安左ヱ門)を務めた。1985年、中国社会科学院より名誉博士号を授与された。

研究者としては、「ダグラス・有沢の法則」(家計の主要労働力の所得水準と、付随する労働力の就業率との間には負の相関関係があるという経験則)を実証したことで有名。

日本銀行の理事で、名古屋支店長を歴任した有沢滋は実兄にあたる。


http://100.yahoo.co.jp/detail/%E5%82%BE%E6%96%9C%E7%94%9F%E7%94%A3%E6%96%B9%E5%BC%8F/
傾斜生産方式(けいしゃせいさんほうしき) 第二次世界大戦終結後、日本経済の立て直しのためにとられた重点主義的な生産政策。1945年(昭和20)の敗戦後の日本経済の破局的状態に対し、翌46年12月24日の閣議決定により、政府は石炭・鉄鋼の基幹産業部門に、資材・資金・労働力を重点的に配分し、それを基軸にして、戦後日本における独占資本主義の再生産を軌道にのせようとした。この「石炭・鉄鋼超重点増産計画」の提唱者たる有沢広巳(ありさわひろみ)のことばによれば、「われわれの処置しうる唯一の基礎的素材たる石炭の生産に向かって、すべての経済政策を集中的に傾斜せしめよう」とするもので、47年度の石炭生産目標を3000万トンに置き、一方で輸入重油と石炭を鉄鋼部門に重点的に投入、そこで生産された鋼材を石炭部門に集中的に投入し、他方、逆にそこで増産された石炭を鉄鋼部門に振り向け、いわば鉄と石炭の循環的拡大再生産を図ろうとした。当時の危機的な生活条件のなかで、炭鉱労働者には食料・衣料の加配、さらに復興金融金庫による重点融資によって、労働力・資金の集中投入も図られた。

1947年5月に成立した片山哲内閣は、新たに食糧生産と輸出部門をも重点産業とした。占領政策の転換もあって、この傾斜生産は48年ごろから実効を示し始め、とくに同年1月からの鉄鉱石と粘結炭との輸入は決定的意義をもった。なお臨時石炭鉱業管理法はこの傾斜生産方式の発展したものといわれる。

[執筆者:加藤幸三郎]


http://asyura2.com/08/hasan60/msg/718.html

http://asyura2.com/09/senkyo57/msg/460.html

http://asyura2.com/09/hasan61/msg/252.html


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