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訂正版:ジャーナリズムの真髄をラジカルに綴った警世の書:原寿雄『ジャーナリズムの可能性』を読んで(醍醐聡のブログ)
http://www.asyura2.com/09/hihyo9/msg/126.html
投稿者 クマのプーさん 日時 2009 年 2 月 28 日 22:58:33: twUjz/PjYItws
 

(回答先: ジャーナリズムの真髄をラジカルに綴った警世の書:原寿雄『ジャーナリズムの可能性』を読んで―醍醐聡 投稿者 クマのプーさん 日時 2009 年 2 月 28 日 14:35:10)

コメント:一部訂正した箇所あり。転載元の「醍醐聡ブログ」から改めて転載します。

http://sdaigo.cocolog-nifty.com/blog/2009/02/post-92c7.html

ジャーナリズムの真髄をラジカルに綴った警世の書:原寿雄『ジャーナリズムの可能性』(岩波新書、2009年1月刊)を読んで


 本書は著者、原寿雄氏が12年前に同じ岩波新書として出版した『ジャーナリズムの思想』の続編として書かれたものである。全体をとおして、この十余年のジャーナリズムの潮流と問題点を言葉の本来的意味でラジカル(根源的)に問い直すとともに、現状批判に終わらず、とかく空気のように忘れられがちなジャーナリズムの存在価値と可能性にも随所で言及している。
 著者はいうまでもなく、戦後60年の間、(社)共同通信社の編集局長・専務理事・編集主幹、民放連放送番組調査会の委員長などを歴任した日本のジャーナリズム界の重鎮である。その現場体験と重厚な見識から蒸留されたメディア批評と提言を読み終えて、私は問題の核心を射る著者の思考の鋭さに深い感銘を受けた。紹介し、感想を記したい箇所は多々あるが、以下では次の4つのテーマを取り上げることにした。
 @読売グループ会長・主筆の渡邊恒雄による政党大連立工作にみるジャ  ーナリズムと政治の距離(序章)
 A「編集の自由」をめぐるジャーナリズムの自律と自主規制(第3章)
 B政治的多数派が放送を支配する体制への警鐘(第4章)
 C座標軸を持たないジャーナリズムが「世論ととともに立ち上がる」危  険性への警鐘(第5章)


権力を監視すべきジャーナリストが権力づくりに加担する腐食の構造

 著者は「はじめに」の中で、政治報道を本書の柱の一つにしたきっかけは、2007年11月に発覚した読売グループ会長・主筆の渡邊恒雄による自民・民主両党の大連立工作であったと記すとともに、現役新聞人が政界工作に奔走することに対して無関心を装うメディアの現状に対する危機感が政治報道に重点を置いた動機であったと記している。著者はこの時の渡邊の行動を次の3点にわたって厳しく批判している。
 第1に、現役新聞人によるこうした政治活動はジャーナリズム倫理の基本にもとるということ。
 第2に、その倫理違反が日本新聞協会会長という、日本のジャーナリズムを代表する経歴をもった人物によって行われたこと。
 第3に、現代の日本の新聞・放送が、ジャーナリズムの倫理の基本を逸脱したこの行為を大勢として黙認しているばかりか、政治評論家の間からは共鳴や支持の声さえ挙がったこと。
 これに対して、原氏は、「非当事者原則は、ジャーナリスト活動の出発点であり、権力を監視すべき役割を担う者が権力づくりに加担しては、ジャーナリストとは呼べない」(4ページ)と断罪している。
 と同時に、こうしたマスコミ人の政治活動が渡邊恒雄に限られたわけではない、と本書はいう。古くは、平民主義から国権主義に変身し、超国家主義者として時の政府を擁護する論陣を張った徳富蘇峰、近くは、「組閣になるとたくさんの代議士が私に挨拶にきた」と与党政治家との関係を誇らしげに語った元NHK会長・島桂次、「日本は天皇を中心とした神の国」発言で窮地に立たされた森善朗首相(当時)の記者会見での応答をNHK記者が指南したといわれる事件など、権力とマスコミ人の癒着はわが国ジャーナリズムに連綿と続いていると著者はいう。しかも、著者が重視するのは、メディア界の中から、こうした動きに自律的な批判が出るどころか、「ナベツネさんの憂国の情は単なるマキャベリストのものではない」(岩見隆夫)などと共鳴の声が上がったことである。
 こうしたマスコミ人の言動の背景には、「有力政治家にアドバイスするくらいになって初めて政治記者として1人前」という考えがあるという著者の指摘を読んで、日本のマスコミ人、特に有力政治家との親交や人脈を誇らしげに語る論説委員、与党政治家の「ぶら下がり取材」に明け暮れる番記者の倫理感覚のマヒが浮かび上がってくる。


トラブルを避ける保身の術にすり替えられた編集の自由

 2008年4月、最高裁はETV番組改ざん事件について、これを上層部による編集権の濫用とした東京高裁の判断を覆し、被告NHK逆転勝訴の判決を言い渡した。しかし、著者は、この判決を評して、「政治的干渉を拒否するための『編集の自由』が、政治的圧力を受け入れる自由として保障されてしまった」(75ページ)と手厳しく批判している。さらに著者は批判の矛先をNHK執行部にも向け、「編集の自由」が「トラブルを避ける経営上の安全運転の自由」に変質し、「編集の自由」を「自己検閲」の口実にしていると警鐘を鳴らしている。
 しかし、「編集の自由」への脅威は目に見える外部からの介入だけではない。著者は、ドキュメンタリー映画『靖国 YASUKUNI』を例に挙げて、目にみえにくい「空気による社会支配」(79ページ)が自主規制の連鎖を生む構図にも注意を促している。なぜなら、「法的な規制は目に見えやすいが、社会的政治的な圧力はそれと気づかないうちに醸成される」(79ページ)からである。たとえば、本書でも紹介されているが、1989年1月7日の昭和天皇の死去に際し、放送界は「歌舞音曲中止」、「広告スポンサーなし」の自粛サスプロ(自主番組)に徹した。こうした放送界のお行儀のよさを、「自粛」という名の「他粛」と評されたのを思い起こす。
 表現はどうであれ、「『法律上は自由だが実際は不自由』という、この深刻なギャップが埋まらない限り、表現の自由は確立できない。圧力をおそれ、自粛・自主規制が安易に横行する日本の現状は法治国家とは言えない」(79ページ)という著者の言葉は鋭く、かつ重い。


「知性を排除するメディア」に朽ちないために 

 「放送ジャーナリズムを支えるもの」というタイトルの第4章にも含蓄に富んだ記述がちりばめられている。「視聴率に支配されるテレビ」と題するこの章の最初の節で著者は、「大衆の喜びそうなものは何でも食いついてゆく。そこに価値判断というものがない。量があって質がない」という大宅壮一の言葉を引用し、「昨今のゴールデンタイムのバラエティ番組を見ていると『テレビは本質的に知性を排除するメディアだ』との批判に反論し切れない」(92ページ)と述べている。
 犯罪事件報道への偏重や「俗悪番組」にみる面白主義の幼児化に共通する背景として視聴率至上主義、視聴率がそのまま広告料金に跳ね返る仕組みがあることは衆目の一致するところである。ところが、本来、財政基盤を視聴率に依存しないNHKまで最近、「接触者率」を経営目標の一つに掲げ、民放で売れたタレントを次々に娯楽番組に起用して、民放と区別がつきにくいまでにお笑いバラエティ番組をならべているのはどうしたことか? 紅白歌合戦の視聴率が数ポイント下がるたびに、「NHK離れ」を騒ぎたてるマスコミ、その喧噪に焦るかのようにお笑いタレントや著名人を応援団、審査員に動員して視聴率の「失地回復」に躍起になるNHKを見ていると、何のための「テレビへの接触」なのかを問い返したい思いに駆られる。


国会の多数派に監視されてよいのか?

 これに関連して、問題になるのは、番組の質(倫理違反かどうか、政治的に公平かどうかなど)を「誰が」判断するのかということである。視聴率至上主義が番組の俗悪化や「やらせ」を生む土壌であることは先に述べたとおりであるが、誰がこれを判断するのかということは放送の自主自律と関わる大問題である。
 これについて、本書は1978年4月の衆議院逓信委員会における石川晃政府委員の答弁と1993年10月の衆議院逓信委員会における江川晃正放送行政局長の答弁を対比して、番組の倫理違反、政治的公平の判断をする主体についての政府見解が転換したこと(郵政省には判断する権限がないという見解から、最終的には郵政省が判断するという見解への転換)に注意を促している。その上で著者は、「放送界が一致して『規制的な行政指導など受け入れない』という強い態度を表明すれば、状況は変えられる」にもかかわらず、「ジャーナリズムが監視すべき行政から逆に監視され、指導を受け入れるような現状は、表現活動を業とする放送界として情けない」(101ページ)という原氏の言葉を現役の放送人はどう受け止めるのだろうか?

 こうした番組内容への行政の関与と関連して私が注目したのは、NHKの予算、決算、経営委員の任命等に政府・国会が直接関与するわが国の現行の仕組みに関する著者の見解である。著者はNHKの運営費のほぼすべてが視聴者が支払う受信料で賄われていることから、「本質的に見れば、内閣や国会など政治の関与はまったくのフィクションに過ぎない」(107ページ)とし、「政治と政治を監視すべき報道機関の代表選出を、同質に論じることはできない。政治的な多数派が文化である放送まで支配する仕組みは文化を歪める」(107ページ)と断じている。
 このような著者の考えに私も諸手を挙げて賛成である。なぜなら、別の場(拙稿「視聴者に開かれたNHK経営委員会をめざして」『放送レポート』No.217、2009年3月、所収)で述べたが、多様な意見が出会い、影響し合う「言論の広場」を提供すると同時に、時々の政治体制の権力行使を監視することを使命とするジャーナリズムには多数決原理はなじまないからである。この意味で、会長の任命権などNHKの重要な事項を議決する権限を持つ経営委員の選任を、与党の意思で決着する国会の同意人事に委ねている現在の仕組みは、NHKの政治からの自立という点で大きな問題を抱えている。「政治的な多数派が文化である放送まで支配する仕組みは文化を歪める」という本書の指摘は現在のNHKが抱える制度問題の根幹に迫る論点提起といえる。


ジャーナリズムに求められる自立した座標軸
――世論とともに危険な道を歩まないために――

 本書の目次を概観してまず目に止まったのは、第5章の一節に付けられた「『国民とともに立たん』の危険性」(135ページ)という小見出しである。いうまでもなく、この言葉は朝日新聞が1945年11月7日に発表した戦後の再出発宣言のタイトルである。これについて、著者は「趣旨はわかるが」と断ったうえで、次のように書いている。

 「私には、『国民の声を聞き国民とともに戦ってきてしまった15年戦争ではなかったか』との思いのほうが重くのしかかる。新聞経営者は戦犯追放で一時退いたが、朝日新聞の従業員は、むのたけじ記者ら終戦とともに退社したごく一部を除いて、天皇と同じく戦後も変わっていない。」「『国民とともに立ち上がるのは危険だ』いう事実こそ、ジャーナリズムにとって最大の歴史的教訓ではなかったのか、そう思えてならない。」

 戦中・戦後のジャーナリズムの世界を生き抜いた著者ならではの重い反語に身の引き締まる思いがする。そしてこの後で著者が引用した『記者たちの戦争』(北海道新聞労働組合。径書房、1990年)の次の一文は、今なお、不条理な同一化圧力が社会の隅々に行きわたる日本において、ジャーナリストが引き受けるべき特別な役割を記した決意の表明といえる。

 「少数者であることの恐怖に打ち勝つ力を身に付ける以外に、道はありそうもない。それは異端を許し、少数意見を尊重する心を育むことにもつながる。新聞も同じである。『国民感情』との確執を恐れず、異端を切り捨てない幅の広い紙面づくりをめざし――。」


 

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